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「ほんとの空」の下、がんばる人々。

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福島の地方紙二紙から。

まずは昨日の『福島民友』さんの記事。 

魅力発掘へ市街地調査 福島・二本松でJICA訓練生

 国際協力機構(JICA)二本松青年イメージ 1海外協力隊訓練所に入所する訓練生188人は27日までに、福島県二本松市の中心市街地を歩いて調査活動を行い、地元の魅力を掘り起こした。
 訓練生は24グループに分かれ、二本松の飲食店や菓子店の歴史や商品などについて調べた。
 このうち同市出身の洋画家・紙絵作家、高村智恵子の誕生日に合わせた「生誕祭」が開かれた智恵子記念館、智恵子の生家では切り絵を体験したほか、市民らと和やかに歓談した。
 訓練生は市民との交流を楽しみながら取材を重ねた。今後はマップを作るなど、市民への報告を予定している。


国際協力機構(JICA)二本松青年海外協力隊訓練所さんが安達太良山の中腹にあるため、これまでも智恵子がらみ、「ほんとの空」がらみで何度かご紹介させていただきました。


これからも「ほんとの空」の下、がんばっていただきたいものです。


「ほんとの空」といえば、『福島民報』さんにはこんな記事も。 

名機 ほんとの空舞う ブライトリングDC-3 復興支援で県内飛行 小塩江中(須賀川)生徒 体験搭乗

 復興支援として福島空港に降り立ったイメージ 2航空機の名機「ブライトリングDC-3」に26日、須賀川市の小塩江中の生徒18人が搭乗し、空からの古里の風景を楽しんだ。
 スイスの時計メーカー・ブライトリングが企画する世界一周飛行の一環で、国内では熊本、神戸などを経て福島空港に22日到着した。
 天候不良のため、1回目の大笹生小(福島市)の児童を乗せたフライトが中止になった。午後には天候が回復し、小塩江中のフライトはコースを変更して須賀川、郡山両市上空を周回飛行した。生徒は「空飛ぶ文化遺産」と称される名機のエンジン音や窓からの眺めを満喫した。着陸後は世界一周飛行に立ち会った記念に「搭乗証明書」が贈られた。
 27日は招待客を乗せた会津方面へのフライトを3回実施する予定。

記事にあるとおり、スイスの時計メーカーによるイベントで、「ブライトリング DC-3 ワールドツアー大空を見上げよう!2017 熊本~神戸~福島」の一環だそうです。熊本、神戸、福島と、それぞれ震災の被災地を回って下さり、それぞれの地で希望を与えて下さいました。


福島、飛行機、ほんとの空というと、一年前の「レッドブル・エアレース・ワールドチャンピオンシップ2016千葉」を思い出しました。最高時速370キロのプロペラ飛行機によるレースで、福島市在住の室屋義秀選手が初優勝しています。今年も同じ千葉幕張海浜公園で、次の土日(6/3・4)に開催され、室屋選手が参戦します。室屋選手、先月行われたツアー第2戦のサンディエゴ大会で優勝していますので、今回も大いに期待されます。昨年は“ほんとの空”から追い求めた夢の結実と報道されました。今年もそうなってほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

その詩は生理的の機構を持つ。 その詩は滃然と空間を押し流れる。 その詩は転落し天上し壊滅し又蘇る。
詩「その詩」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

光太郎、「天上」という語を好んでわりと多用しています。詩作のあり方にしてもそうですが、己の生き方として高見を目指し続けるポリシーが、「天上」の語を使わせるのでしょう。

ある意味、見習いたいものです。

「大人の為の朗読会・朗読のつどい」。

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6月は各地で光太郎詩を取り上げて下さる朗読イベントなどがいろいろあります。

まず、山梨県韮崎市から。 

大人の為の朗読会・朗読のつどい 

心に響く詩や文学作品を耳から味わいます。他者の選ぶ本の良さを体感し、読書の幅を広げてみませんか?

期      日 : 2017年6月17日(土)
時      間 : 午後2時から3時
会      場 : 韮崎市市民交流センターNICORI ニコリ2階会議室9 山梨県韮崎市若宮一丁目2番50号
料      金 : 無料
問い合わせ : 韮崎市立大村記念図書館 0551-22-4946
プログラム  :
 梅薫る            藤沢周平 作    朗読・深澤恵美子さん
 頭のふりかけ購入記   東海林さだお 作  朗読・飯久保博幸さん
 蜘蛛の糸          芥川龍之介 作   朗読・斎藤豊子さん

 智恵子抄          高村光太郎 作   朗読・金丸芳子さん
 注文の多い料理店    宮沢賢治 作     朗読・清水薫さん

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このブログで繰り返し述べていますが、光太郎詩――というか詩に限らず散文なども――意外と朗読向きです。そういうふうに意識して作っていたわけではないのでしょうが、日本語に対する鋭敏な感覚が行き届いているため、結果として、朗読してみると非常にしっくりし、日本語としての美しさが際だつように思います。

むろん、内容が伴ってのことです。朗読してみてリズム感にあふれ、語感もすばらしい、しかし、では、その作品を通して何を訴えたいの? 内容が無いよう、と、つっこみたくなる作品が取り上げられることが多々あります。その点、光太郎作品は、大自然への讃仰、人間賛歌、さまざまな人々へのエール(それが昂じて戦時中には道を踏み誤りましたが)など、いずれも単純そうに見えてそれぞれひとひねりがあり、いいもの揃いです。

プロアマ問わず、朗読愛好者のみなさん、ぜひ光太郎作品をどんどん取り上げて下さい。


【折々のことば・光太郎】

その詩は姿を破り姿を孕む。 その詩は電子の反撥親和だ。 その詩は眼前咫尺に生きる。

詩「その詩」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

「咫尺」は「しせき」と読み、その前の「眼前」と同じく「至近距離」の意。詩は人情の機微や人間生活に密着したものでなければならない、的な考えの表出と捉えたいところです。

「松本律子 × 高木リィラコラボレーション・ライブ "Live Now"」。

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昨日にひきつづき、光太郎詩を取り上げて下さる朗読系、というか、音楽がメインです。 

松本律子 × 高木リィラコラボレーション・ライブ "Live Now" 

期      日 : 2017年6月23日(金)
時      間 : 18:30 スタート (18:00 オープン )
会      場 : 221ホール 広島市佐伯区五日市中央2-2-1 ライフワンビル2階
料      金 : 前売り\2,500  当日 \3,000   高校生以下割引あり
問い合わせ : leela@megami-net.com(リィラ音楽教室)

マリンバ界の最先端を突き進む松本律子と、オンリーワンの音楽世界を構築する高木リィラによる、夢のコラボレーション・ライブがついに実現!

プログラム(予定)
マリンバ、ロータス・タンバリン、キム(タイの伝統楽器)、ガンクドラムmini2、電子音など、多彩な楽器をクロスオーバーした新感覚の演奏会です!
「智恵子抄」・・・高村光太郎の妻智恵子への愛を綴った詩からインスピレーションを受け、松本律子が創作中のマリンバ・オリジナル曲と詩の朗読。
武満徹の「小さな空」(松本アレンジ版)。「童神〜天の子守唄〜」。松本アレンジの季節のうたメドレーetc.・・・。

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松本律子さん。今月21日には、相模原で、朗読家の中村雅子さんとのコラボ「森のコンサート マリンバの響き ~智恵子抄の世界~」の公演をなさいました。松本さんのブログにその際のレポートが。

今回は、広島で活動されているミュージシャンの高木リィラさんとのコラボで、「電子音の「無機」と、アコースティック楽器の「有機」を融合させた、新たな地平の音楽を目指します。」だそうです(ただ、若干気になるのは、高木さんのブログで「全編、オリジナルのディープなプログラムに変更しました!」)とありますが……。


とりあえずご紹介しておきます。


【折々のことば・光太郎】

その詩は手きびしいが妙に親しい。 その詩イメージ 1は不思議に手に取れさうだ。 その詩は気がつくと歩道の石甃(いしだたみ)にも書いてある。

詩「その詩」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

詩「その詩」。18行からなる詩ですが、結局3行ずつにわけて全文を紹介させていただきました。光太郎の考えていた詩の方法論が端的に、しかし、象徴や比喩を多用しつつ、あくまで詩として示されています。

その詩をよむと詩が書きたくなる。
その詩をよむとダイナモが唸り出す。
その詩は結局その詩の通りだ。
その詩は高度の原(げん)の無限の変化だ。
その詩は雑然と並んでもゐる。
その詩は矛盾撞着支離滅裂でもある。
その詩は奥の動きに貫かれてゐる。
その詩は清算以前の展開である。
その詩は気まぐれ無しの必至である。
その詩は生理的の機構を持つ。
その詩は滃然と空間を押し流れる。
その詩は転落し天上し壊滅し又蘇る。
その詩は姿を破り姿を孕む。
その詩は電子の反撥親和だ。
その詩は眼前咫尺に生きる。
その詩は手きびしいが妙に親しい。
その詩は不思議に手に取れさうだ。
その詩は気がつくと歩道の石甃(いしだたみ)にも書いてある。

光太郎詩の中では、それほど有名な作品ではありませんが、もっと取り上げられていいものだと思います。

「朗読とテルミンで綴る 智恵子抄」。

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一昨日、昨日に続き、今月行われる朗読系イベントのご紹介を。

今日は仙台からの情報です。 

朗読とテルミンで綴る 智恵子抄 

期      日 : 2017年6月24日(土)
時      間 : 午後の会 14:30 開場 15:00 開演    夜の会 18:30開場 19:00 開演
会      場 : Jazz Me Blues Nola(ジャズミーブルースノラ) 仙台市青葉区錦町1-5-14ノーバル・ビル1F 
料      金 : 前売り\3,500  当日 \4,000   ワンドリンク付き
問い合わせ : Happy Voice Project (アライ) 070-5474-3444
出     演 : 朗読 荒井真澄     テルミン 大西ようこ
後     援 : 一般財団法人 花巻高村光太郎記念会   高村光太郎連翹忌運営委員会

~ 詩人・彫刻家 高村光太郎が綴った夫人への愛の詩集『智惠子抄』
  テルミンの哀愁あふれる旋律と共に、二人の想いが現在に蘇る

朗読(予定):
 『智惠子抄』より
  「人に」「人類の泉」「樹下の二人」「あなたはだんだんきれいになる」
  「あどけない話」「風にのる智惠子」「千鳥と遊ぶ智惠子」「レモン哀歌」「亡き人に」
 『智惠子抄その後』より
  「メトロポオル」「あの頃」「案内」

演奏曲目(予定):
 星めぐりの歌(宮沢賢治)  『智惠子抄』より(清道洋一)  『三つの情景』より(田中修一)
 『二つの風舞』より(橘川琢)  浜辺の歌(成田為三)  白鳥(サン=サーンス)  愛の哀しみ(クライスラー)
 モルゲン(R.シュトラウス)

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というわけで、朗読家の荒井真澄さんと、テルミン奏者の大西ようこさんとのコラボによるコンサート。それぞれ、数年前から「智恵子抄」系での活動などもいろいろなさってこられた方々です。

荒井さん。

大西さん。 

きちんとしたコンサートでのご共演は今回が初めてとなりますが、連翹忌の取り持つ縁で意気投合されたお二人、これまでもちょこちょことコラボが実現していました。


仙台方面で光太郎智恵子事績について調査することもありますので、当方も馳せ参じます。皆様もぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

これが出来上ると木で彫つた山雀が あの晴れた冬空に飛んでゆくのだ。 その不思議をこの世に生むのが 私の首をかけての地上の仕事だ。

詩「首の座」より 昭和4年(1929) 光太郎46歳

「首の座」は、人が首を切られるときに座る場所、またはそのような絶体絶命の状況。「土壇場」ともいいます。できれば座りたくない場所ですが……。

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光太郎、自分の彫刻制作は、首の座に据えられてやるような、命がけの仕事だと言っているわけですね。

「山雀」は「やまがら」。日本全域に広く分布している野鳥です。ただし、光太郎が彫ったという木彫の作品は確認できていません。もしかすると、出来上がったところで本当に飛んで行ってしまったのかもしれません(笑)。「画竜点睛」の故事を下敷きにしているようですね。

ジオラマDVD「小さなパラダイス 昔の大井町あたり」。

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自主制作のDVDをいただきました。題して「小さなパラダイス 昔の大井町あたり」。

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制作は、品川ご在住の石井彰英(しょうえい)氏。ミュージシャンにしてジオラマ作家の方です。当方、存じ上げない方でしたが、このブログをご覧になられたようで、ご連絡をいただきました。

失礼ながらネットで調べさせていただいたところ、江ノ電さんのサイトに氏のジオラマに関する記述がありました。引用させていただきます。

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平成20年11月20日(木)より江ノ島駅1番線(藤沢行きホーム)の展示室に1/150サイズ(Nゲージ)のジオラマを公開しております。
このジオラマは、平成10年11月11日に当社が当時闘病生活にあった新田朋宏くんの「江ノ電の運転士になりたい」という夢の実現をお手伝いしたご縁で、朋宏くんのお父さん新田和久さんのご友人でおられる石井彰英さんからご寄贈いただいたものです。
寄贈先を探していた石井さんが当社への寄贈を決められたのは、「息子をジオラマの運転士にして欲しい」と熱望された新田さんの優しさに感動して、「ジオラマは朋宏くんが愛した江ノ電の利用者に見ていただくのが一番」とお考えになられたからです。

なお、まことに残念ながら新田朋宏くんは平成10年11月15日に亡くなられましたが、ジオラマ上を走る江ノ電の運転士としてこれからもご活躍されることでしょう。
ジオラマはボタン式になっており、1回押すとミニ江ノ電が1分20秒走行します。
江ノ島に来られましたら、どうぞ江ノ電の江ノ島駅展示室にお越し下さい。


この件、そういえばそういうことがあったと、記憶に残っていました。さらに調べると、当時のニュースがヒットしました。 

運転士の夢、天国でかなえて…16歳で亡くなった少年に江ノ電から辞令交付

 「江ノ電の運転士になりたい」。そんな夢を抱きなイメージ 2がら1998年に先天性の拡張型心筋症で亡くなった新田朋宏さん=当時(16)=に、江ノ島電鉄(神奈川県藤沢市)の深谷研二社長が22日、江ノ島駅で運転士の「辞令」を発令、父親の会社員和久さん(56)=東京都大田区=に手渡した。
 朋宏さんの遺影を首から提げて参加した新田さんは「息子の夢がかない、天国で喜んでくれていると思う。(天国に)辞令を届けたい」と笑顔で話した。
 新田さんは、幼いころから鉄道ファンだった朋宏さんを連れて家族でよく江ノ電に乗車。朋宏さんは、海岸沿いや町中を縫うように走る江ノ電に魅せられ、運転士への夢を膨らませたという。
 同じ心臓病で91年に妻も亡くしたが、新田さんは「息子の夢をかなえてあげたい」と江ノ電に要望。98年11月に江ノ電の計らいで朋宏さんが運転席に。コントロールレバーに触れ、つかの間の「運転士」気分を楽しんだ。だが4日後に朋宏さんは帰らぬ人に。
 22日の「辞令」交付式では、新田さんの知人で塾講師石井彰英さん(53)=東京都品川区=が作った江ノ電の模型(ジオラマ)の「発車式」も実施。畳1畳ほどのジオラマには、新田さん家族も楽しんだ沿線風景が再現されており、石井さんが新田さんに相談して11月に寄贈した。
(共同通信 2008/12/22)


また、石井氏、北鎌倉の町並みのジオラマなども制作され、そして最新作が氏の生まれ故郷・大井町。大井町といえば、智恵子終焉の地・ゼームス坂病院のあったところで、同院のジオラマも制作、DVDでは2分弱、映し出され、光太郎智恵子にも触れて下さいました。

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以前にもご紹介しましたが、ゼームス坂病院は、大正12年(1923)の創立。院長で智恵子の診察にあたった斎藤玉男は東京帝国医科大学を卒え、大正3年(1914)から翌年にかけ、ドイツ、アメリカに留学し、日本医科大学教授を経て、同院を開設しました。「学者としても一流で、人柄も温厚篤実の士として知られ、病院経営や精神衛生の制度面などから、多角的に積極的に発言」(『東京の市立精神病院史』昭和53年=1978、東京精神病院協会)したそうです。

昭和20年(1945)には、東芝大井病院と改称、心療内科は無くなりました。さらに同39年(1964)に東大井に移転し、現在の東芝中央病院に移行します。跡地には光太郎詩「レモン哀歌」を刻んだ詩碑が建てられています。

さて、ジオラマ。石井氏の幼少のみぎり、昭和30から40年ごろという設定だそうで、病院名は大井病院となっています。実際、この建物をご覧になっていたのですね。ある意味、うらやましいところです。

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「高村光太郎さん 高村智恵子さんに捧ぐ」というテロップもつけて下さいました。ありがとうございます。

エンドロールの部分には、メイキング的な映像や、病院跡地の「レモン哀歌」碑も。

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その他の部分も含め、あたたかみのあるジオラマに感心いたしました。緻密さを追究するあまり、無機質・非人間的な作も目にしますが、それと正反対に人々の息づかいまで聞こえてきそうでした(石井氏曰く「牧歌的」)。また、当方、石井氏より一回りほど後の生まれですが、幼い頃住んでいた東京多摩地区の府中本町駅付近などもあんな感じだったと思いながら、懐かしく拝見しました。南武線も茶色い電車でした。

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なんと、2,000時間を要したそうで、50㌢程度のジオラマ50個ほどで成り立っているとのこと。しかし保管場所が確保できず、撮影しながら破棄したそうです。もったいない気もしますが、仕方がないのでしょう。

DVDに関しては、これまでも石井氏の活動をとりあげたというケーブルテレビ品川さんで紹介されるそうです。また、氏と電話でお話しさせていただきましたが、有効な活用法を模索されているとのこと。

ジオラマ自体もそうですが、ナレーション(ケーブルテレビのアナウンサーさんだそうです)や、BGM(石井氏とそのお仲間たちのオリジナルとのこと)も、あたたかみのあるいいものです。

ご興味を持たれた方、このブログ左上のプロフィール欄に書いてある当方連絡先までご一報を。


【折々のことば・光太郎】

四月の雨がおれの耳の気圧をかへた おれは少し睡くなつて粘土の馬をこさへてゐる
詩「北島雪山」より 昭和4年(1929) 光太郎47歳

光太郎の書き残したものを読んでいると、時折、身体感覚の鋭敏さに驚かされます。木材と同じようにガラスにも縦横の目があるそうで、指の腹で触るとそれがわかるとか……。

この一節も、そうですね。標高の高低やトンネルなどで、気圧の違いを耳で感じることはありますが、天候によってもそれを感じるというのです。鈍感な自分には思いもよりませんでした。

活人剣の碑 紙芝居に 地元有志ら、小中学校へ贈呈 袋井 /静岡

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光太郎の父・高村光雲がらみの報道です。『毎日新聞』さんの静岡版から。 

活人剣の碑 紙芝居に 地元有志ら、小中学校へ贈呈 袋井 /静岡

 袋井市久能の寺院「可睡斎(かすいさい)」の境内に再建イメージ 1された「活人剣の碑」の由来などを子どもたちに伝えようと、地元有志らで作る再建委員会による紙芝居「活人剣の物語」が完成した。100セットを目標に製作し、市内の小中学校などに贈る。 
 20枚で構成。絵は個展開催歴もあるアマチュア画家で同市堀越の鈴木幸子さん(73)、文章は委員会メンバーがそれぞれ担当した。
 彫刻家の高村光雲作の初代の碑は、日清戦争(1894~95年)の講和交渉で来日した清国全権大使の李鴻章と、主治医を務めた旧陸軍軍医総監の佐藤進の交友の証しとして、1900(明治33)年に境内に建立された。医師の佐藤が軍刀を身に着けている理由を尋ねた李に、「私の剣は活人剣」と答えたことが碑名の由来という。
 しかし、第二次大戦中の金属供出で刀身部分がなくなり、台座だけとなっていた。このため、同寺や市民団体が復活に乗り出し、金属工芸家の宮田亮平氏が2代目を制作。2015年、別の場所に完成した。
 鈴木さんは「古い碑のあった場所にも行き、歴史を思い浮かべて一枚一枚丁寧に描きました」と言う。同寺の佐瀬道淳斎主(84)は「平和を願う碑ということを伝えたい」と話した。
 委員会は同じ内容の絵本を1000部作り、県内の図書館などに配る予定だ。【舟津進】


 「活人剣の碑」。記事にあるとお、り明治期に光雲イメージ 2作の原型から鋳造されて可睡斎さんに据えられましたが、戦時中の金属供出で無くなってしまっていました。平成27年(2015)に、地元の方々の熱意で、初代の碑に似せて再建、その際の報道を、このブログでご紹介しています。


そこから碑の由来についての部分をコピペします。元ネタは『産経新聞』さんの静岡版。

 日清戦争の講和条約の交渉が下関で行われていた明治28(1895)年3月、清国全権大使の李鴻章が暴漢にピストルで襲われ、左目を負傷する事件が発生。陸軍軍医総監の佐藤進は、明治天皇の勅命を受けて李の治療に当たった。治療を通じて佐藤と交友を深めていた李が、常に軍服帯刀姿で治療する佐藤に「戦い方を知っているのか」と戯れかけると、佐藤は「私が手にする刀は殺人刀ではなく、活人刀だ」と即答。李はこの返答に感じ入り、別れに際して清の光緒帝からの褒章を約する詩を佐藤に贈った。
 
  李と佐藤の交友は、「活人刀」の問答として新聞紙上で大いに評判を呼んだ。佐藤が参禅していた縁もあり、可睡斎の日置黙仙斎主(当時)は「この話を長く後世に伝えたい」と発願。敵も味方もともに平等であるという「冤親(おんしん)平等」の思想のもとに浄財を募り、明治31年ごろに日清両国の戦没者の霊を弔う活人剣碑を建立した。

さらに、やはり『毎日新聞』さんの静岡版。

 地元有志でつくる「袋井まちそだての会」(遠藤亮平代表)や可睡斎、佐藤が第3代理事長を務めた学校法人順天堂(東京)は地域に眠る遺産に再び光を当てるべく、数年前から再建に向けた協議を進めてきた。遠藤代表(66)は「(碑は)歴史を振り返るよすが。日中友好や平和のシンボルにもなるはず」と期待を込める。

そういうわけで、碑が再建されました。

そしてこのたび、上記の由来を地元の子供たちにもっと知ってもらおうと、紙芝居が作成されたというわけです。この手の碑は建てて建てっぱなし、建てられて数年も経つとその存在すら忘れられてしむというものも少なくない中、こうした取り組みには頭が下がります。

特に中国や韓国との関係がぎくしゃくしている現在こそ、こういうことが必要でしょう。


ところで、以前の記事が出たあと、可睡斎さんについて調べてイメージ 3いましたら、初代高村晴雲作の仏像がいらっしゃることがわかりました。晴雲は、光雲の師・高村東雲の孫。明治26年(1893)の生まれで、光雲に学びました。10歳年長の光太郎とも交流があり、戦後は花巻郊外太田村に隠棲していた光太郎の元を訪れたりもしています。その際に贈られた晴雲作の観音像が、花巻高村光太郎記念館さんに所蔵されています。

可睡斎さんでは、「烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)像」。なんとトイレに安置されています。トイレといっても、「東司(とうす)」という独立した堂宇で、烏枢沙摩明王は「烈火で不浄を清浄とする力を持つ」とされることから、東司の守護神として鎮座ましましているわけです。

像高3メートルの巨大な木彫で、お参りされる方は一様に驚きの声をあげられるそうです。

当方、可睡斎さんにはまだ足を運んだことがありません。折を見て参拝したいと存じます。

皆様も是非どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

又買ひ出されて来た一団の人夫。 おれの朴歯が縦に割れて、 二千の軀(むくろ)の上に十里の山道がまつ青だ。

詩「上州湯檜曾風景」より 昭和4年(1929) 光太郎47歳

「湯檜曾」は現在の群馬県利根郡みなかみ町。温泉地です。光太郎がここを訪れた際、上越線の清水トンネルの掘削工事が行われているところでした。竣工は2年後です。

「買ひ出されて来た一団の人夫」は、詩の前半に「二千人の朝鮮人」と記されています。この頃、半島の人々を強制連行しての工事が日本各地で行われていました。清水トンエルの工事自体はそれほどの難工事ではなかったようですが、東海道線の丹那トンネルの工事では、延べ 250 万人が動員され朝鮮人7名を含め67人が犠牲になったとか、湯檜曾にほど近い中津川第一発電所の建設工事では逃亡を試みた数十人の朝鮮人労働者たちが射殺されたり、セメント漬けにされて信濃川に投げ込まれたりした「信濃川朝鮮人虐殺事件」も知られています。

こうした事象を背景に、光太郎、思うところがあったのでしょう。詩「上州湯檜曾風景」が作られました。

いわゆる自称「愛国者」の下司どもは、こうした事件も捏造だ、と言い張るのでしょうか。何かというと「中韓は……」「在日は……」とほざく輩こそ、可睡斎さん「活人の碑」の精神に学びなさい、と言いたいところです。

映画「八重子のハミング」。

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若年性アルツハイマーを発症した夫人(八重子さん)の介護を描き、平成14年(2002)に出版されて「現代の智恵子抄」と称された陽(みなみ)信孝氏著『八重子のハミング』。昨秋、映画化され、物語の舞台の山口県での先行公開を経て、先月、全国で封切られました。

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生活圏ではありませんが、車で1時間ほどの佐倉市で上映されているので、そちらで拝見して参りました。考えさせられる映画でした。

八重子さん役の高橋洋子さんの鬼気迫る演技、とまどいつつも八重子さんを支える、陽氏をモデルとした誠吾役の升毅さんはじめ、周囲の人々の役作りなどなど、再現でなくドキュメントと見まごうほどでした。

イメージ 1

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徐々に認知機能を失い、お嬢さんの結婚披露宴だというのに、状況が把握できず、しかし美しい花束には素直に喜ぶ八重子さん。

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お孫さんよりも幼くなってしまっている八重子さん。そしてかいがいしく食事の世話をするお孫さん。

イメージ 5

実際の八重子さんが好きだったという、萩市笠山の椿の群生林。

イメージ 6

そのシーンの画像が手に入れられませんでしイメージ 7たが、八重子さんが寝静まった深更、誠吾が龍星閣戦後版、赤い表紙の『智恵子抄』を手に取る場面がありました。そこで誠吾の目にとまっていたのは、「値ひがたき智恵子」(昭和12年=1937)。

   値ひがたき智恵子

智恵子は見ないものを見、
聞こえないものを聞く。

智恵子は行けないところへ行き、イメージ 9
出来ないことを為る。

智恵子は現身(うつしみ)のわたしを見ず、
わたしのうしろのわたしに焦がれる。

智恵子はくるしみの重さを今はすてて、
限りない荒漠の美意識圏にさまよひ出た。

わたしをよぶ声をしきりにきくが、
智恵子はもう人間界の切符を持たない。イメージ 10


統合失調症の智恵子と、若年性アルツハイマーの八重子さん、それぞれ進行してからの病状は異なりますが、初期の頃はたしかにかぶります。

しかし、光太郎がある意味「智恵子はもう人間界の切符を持たない」と切り捨てたのに対し、誠吾(陽氏)の場合、最期まで奥様の尊厳を認め、護ろうとしたことに感動しました。

娘さんが「お母さん、しっかりしてよ!」と、ぐだぐだになってしまった八重子さんにくってかかると、誠吾は娘さんを平手打ちにし、「俺を責めるのはいい。だが、母さんを侮辱するのは許さん」と、毅然として言い放つシーンがありました。

時代や家族構成など、いろいろな差異はありますが、こういう点で光太郎は智恵子や周囲に対し、どうに対応していたのだろうかと、改めて思いました。

もっとも、自分がその立場になったら、ましてや、そうされる立場に……というのは、想像できません……。それではいけないのでしょうが……。


帰宅後、購入してきた公式パンフレットで、佐々部清イメージ 8監督の書かれた部分読み、さらに感動させられました。

当初はビッグネームの監督と脚本家で大手映画会社が映画化に向けて動いていたものの、撤退。それなら俺がやろうと、出来上がった脚本を持って他の会社やテレビ局の映画部などを回ったものの「地味すぎる」「中高年が主役では若い人が観に来ない」などの理由で相手にされず……。しかし、地元自治体、企業などを説き伏せて制作費を捻出。通常と比べれば遙かに低予算だったものの、心意気に賛同した役者さんやスタッフさんが手弁当に近い状態で集まってくれ(特に榎木医師役の梅沢富美男さんはご自分から出させてくれ、とおっしゃって来たそうです)、実現したとのこと。

「これって「本宮方式」じゃん」と思いました。「本宮方式」――昭和40年(1965)、吉村公三郎監督作品「こころの山脈」で採用された、資金集めやエキストラなどで地域が撮影に協力する「フィルムコミッション」の先駆けといわれたやり方です。この「こころの山脈」、安達太良山の麓、福島県本宮町(現・本宮市)を舞台とし、やはり劇中に「智恵子抄」が使われました。


奇縁を感じました。


さて、「八重子のハミング」、上映館はこちら。ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

重いものをみんな棄てると 風のやうに歩けさうです。

詩「人生」より 昭和4年(1929) 光太郎47歳

高橋洋子さん演じる、症状がかなり進行してしまってからの八重子さんの姿をスクリーンで観て、このフレーズを実感しました。

といっても、棄ててしまったそれまでの記憶、歩んできた道が無意味だったというわけではありませんが……。

ところで、この「人生」という詩、従来は光太郎詩の中ではほとんど注目されていなかった小品ですが、なぜかこのフレーズが数年前からネット上などで、光太郎の名言としてよく取り上げられています。

それはそれでありがたいのですが、表記を変えないでいただきたいと感じています。歴史的仮名遣いを現代仮名遣いにするのはともかく、「棄」の字を「捨」としたり、ひらがなにしたり……。この点は、他の光太郎作品を取りあげて下さっている朗読サイト的なHPなどでも多く見られます。ひどいものになると、まるまる1行抜けているとか……。

引用には出来るだけ注意を払い、勝手に改変しないというのがルールです。自分のPCの変換ルールと原文との相違から、意外とやっちまいがちで、当方も気づかずにやらかしている場合があるかも知れませんが……。

『聖書を読んだ30人 ~夏目漱石から山本五十六まで~』。

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新刊情報です。 

聖書を読んだ30人 ~夏目漱石から山本五十六まで~

2017年5月1日 鈴木範久著 日本聖書協会 定価1,600円+税

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近代日本人は聖書のメッセージをどう受け止めたのか? 日本キリスト教史の泰斗が深い共感を持って描く!

時代を超えて日本社会に大きな影響を与えるベストセラー、聖書。近現代に活躍した30人が汲み上げたメッセージとは?

【内容紹介】
日本聖書協会季刊誌SOWERの人気連載「人物と聖書」待望の単行本化。近代日本の各方面で活躍した日本人が、キリスト信徒であるなしに関わらず、聖書とどう向き合い、生き方にどのような影響を受けたのか。日本キリスト教史の第一人者鈴木範久氏が探る、近代日本キリスト教史人物伝。『学燈』(1999年)に掲載された「鈴木大拙の聖書」も収録。

 <収録人物>
夏目漱石、鈴木大拙、田中正造、萩野吟子、内村鑑三、石井亮一、太宰治、井口喜源治、高村光太郎、市川栄之助、川端康成、山室軍平、倉田百三、新島襄、石坂洋次郎、新渡戸稲造、芥川龍之介、西田幾多郎、長谷川保、吉野作造、中勘助、野村胡堂、坂田祐、賀川豊彦、音吉、堀辰雄、山本五十六、萩原朔太郎、斎藤勇、八木重吉

 【著者紹介】
1935年生まれ、専攻は宗教学宗教史学、現在立教大学名誉教授。
 著書に「明治宗教思想の研究」(東京大学出版会)、「内村鑑三日録」全12巻(教文館)、聖書の日本語(岩波書店)など多数。



購入、拝読するまで気づかなかったのですが、同イメージ 1じ日本聖書協会さんが刊行している雑誌『SOWER』に連載されていたものの単行本化でした。光太郎の項「高村光太郎と聖書」は、平成16年(2004)の第23号に掲載されており、既読でした。

サブタイトルは「美のうしろにあるものを表現しようとした詩人・彫刻家」。

まず、詩「クリスマスの夜」(大正10年=1921)からイエス・キリストについての部分が紹介されています。この詩は親友の作家・水野葉舟の家で行われたクリスマスの集いからの帰途を謳ったものです。葉舟は、日本のキリスト教教会の形成に大きな役割を果たした植村正久から洗礼を受けていました。

東京美術学校彫刻科を卒業し、研究生として残っていた明治38年(1905)、光太郎は葉舟に連れられて植村の下を訪ねますが、入信には至りませんでした。そのあたりにも言及されています。

また、特異なキリスト者・新井奥邃との関わりや、昭和24年(1949)の雑誌『表現』に載ったアンケート「私の愛読書」で、「各年イメージ 2代を通じての座右の書は」という設問に「聖書、仏典、ロダン等。」と答えていることなどが紹介されています。

さらに、今年2月に亡くなった、元埼玉県東松山市教育長で、光太郎と交流のあった田口弘氏についても触れられています。光太郎が敬虔なキリスト教徒だった田口氏に贈った数々の書の中には、聖書の文言を揮毫したものも含まれ、その関係です。

しかし、結局光太郎は入信せずじまいでした。そのあたりの心境は、『聖書を読んだ30人』には取り上げられていないアンケート「名士の信仰」(大正8年=1919、『東京日日新聞』)にも語られています。

私はいろいろの境地をだんだんに通つて来て、今では、吾々人間以上の或る大きな精神が此世に厳存する事を、理屈無しに信じ切るやうになりました。それがキリスト教の神とはまだぴつたり合ひません。私は此から進む処に居るのですから、自分の信仰がどういふ具体的の形になつて来るかは自分でもわかりません。此以上確な事を言ふと嘘になります。

また、光太郎と仏教の関係にも似た点があります。

『聖書を読んだ30人』によれば、光太郎のように、受洗はせずとも
聖書やキリスト教の教えに影響を受けた文化人は多かったようです。上記目次にある人々の多くがそうでした。中には山本五十六など、こんな人まで、と思うような人物も含まれ、興味深く拝読しました。

ぜひお読み下さい。


【折々のことば・光太郎】

おれはまだうごかぬ うごくときはしぬとき

詩「或る筆記通話」より 昭和4年(1929) 光太郎47歳

詩「或る筆記通話」前文は以下の通り。

おほかみのお――レントゲンのれ――はやぶさのは――まむしのま――駝鳥のだ――うしうまのう――ゴリラのご――河童のか――ヌルミのぬ――うしうまのう――ゴリラのご――くじらのく――とかげのと――きりんのき――はやぶさのは――獅子のし――ヌルミのぬ――とかげのと――きりんのき――をはり

「――」の直前の一字をつなげれば、「おれはまだうごかぬ うごくときはしぬとき」となる仕組みです。ある意味、ふざけた詩ですね(笑)。「詩」というものの概念を破壊しようともしていたふしの見える、年少の友人・草野心平あたりの影響もあるかもしれません。

狼やら隼やら、光太郎が好んだ「猛獣」的なものが羅列されています。実際、駝鳥、ゴリラ、鯨、獅子と、連作詩「猛獣篇」のモチーフになった鳥獣も含まれています。

しかし、異質なものが二つ。「レントゲン」と「ヌルミ」。「レントゲン」はX線照射の機械というより、X線の発見者であるドイツの物理学者、ヴィルヘルム・コンラート・レントゲンでしょう。「ヌルミ」はフィンランドの陸上選手、パーヴォ・ヌルミです。

なぜ鳥獣に混じって人名が、という気がしますが、以外と単純な理由なのではないでしょうか。すなわち「れ」と「ぬ」で始まる鳥獣が思いつかなかったということでしょう。「羚羊(れいよう)」や「ヌー」は、まだ日本では知られていなかったように思われます。

しかし「鵼(ぬえ)」を光太郎が知らなかった、あるいは思いつかなかったとは思えません。「鵼」は猿の顔、狸の胴体、虎の手足を持ち、尾は蛇という(諸説あり)妖怪です。「鵼のぬ」でもいいような気がしますが、「鵼」は採用しませんでした。おそらく、「鵼」は政財界の黒幕的な、よくわからない怪しいもの、それも腹黒、邪悪、下劣というイメージ(現在の政権やら官僚中枢やらナントカ学園やらナントカ会議にうようよしているようですが)をともなうためではないでしょうか。

「河童」はよくても「鵼」はだめ。勝手な想像ですが(笑)光太郎の美意識が見えます。同時に、これはやはり敬虔なキリスト者の発想ではないでしょう。

余談ですが、「ヌルミのぬ」の部分は、しばらくの間、「ヌカルミのぬ」と誤植され続けていました。陸上のヌルミは五輪金メダル9つの英雄だったのですが、泥濘……(笑)。

原田マハさんに新田次郎文学賞。

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先週の『神戸新聞』さんから。 

原田マハさんに新田次郎賞 「美術史小説」へ意欲 

 第36回新田次郎文学賞(新田次郎記念会主催)の授イメージ 1賞式が31日、東京都内であり、小説「リーチ先生」(集英社)で受賞した原田マハさんに記念品などが贈られた。原田さんは「これからも思い切ってフィクションを書いていきなさいと言われたようで大変うれしい」と喜びを語った。
 受賞作は、実在の英国人陶芸家バーナード・リーチ(1887~1979年)や民芸運動を担った芸術家たちをめぐる、史実と虚構を融合させた物語。2014年7月から15年11月まで本紙に連載し、その後出版された。選考委員を務めた作家、阿刀田高さんは「小説の中で、芸術家たちの思いが生き生きと書かれている」と評価した。
 原田さんは学芸員経験があり、美術、芸術史を題材にした作品を多く手掛けている。この日のあいさつで「読者がアートに興味を持ち、調べてもらえたらと思いながら書いている」と明かした。また、「事実と虚構の境界線をあいまいにすることが作風になってきた。これからも『美術史小説』を書き続けたい」と意欲を示した。(大盛周平)


というわけで、原田マハさんが小説『リーチ先生』により、第36回新田次郎文学賞を獲得されました。おめでとうございます。

賞の決定自体は4月で、その頃の報道はすべてベタ記事でしかなく、授賞式の記事を待っていたところ、なぜか『神戸新聞』さんのみで大きく報道されました。他紙の記事は見あたりません。ネット上にアップされていないというだけで、記事にはなったのでしょうか。

『リーチ先生』。以前のこのブログでご紹介しましたが、バーナード・リーチの弟子となった架空の陶工を主人公とする小説です。初出は『信濃毎日新聞』さん他での新聞小説でした。

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リーチは香港の生まれ、光太郎の4歳年下です。幼少期に京都にいたこともあり、日本文化に憧れながら成長し、22歳の時にロンドン留学中の光太郎と知り合ったことで、再来日しました。その後、日英を行き来しながら、日本で身につけた陶芸と、英国の伝統陶芸を結びつける役割を果たしています。

そういうわけで、『リーチ先生』には、光太郎、そして光太郎の父・光雲、実弟・豊周も登場します。

非常に読み応えのある小説です。まだお読みになっていない方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

詩人とは特権ではない、不可避である。

詩「非ユークリツド的」より 昭和4年(1929) 光太郎47歳

光太郎詩にはめずらしく、このフレーズは他の文筆作品からの転用です。初出は前年の草野心平詩集『第百階級』の序文です。

心平のように、生まれながらにして詩人となるべき者が不可避的に詩人となるに過ぎず、詩人となった者は特権階級でも何でもない、というわけでしょう。そしてそれは自らにも当てはまると考えているはずです。

光太郎、「不可避」の語を非常に好み、「不可避」一語、または「不可避の道」などの文言を、晩年まで揮毫によく用いました。

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「十和田湖の魅力知って 大学生ツアー」。

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青森の地方紙『東奥日報』さん、先週の記事から。 

十和田湖の魅力知って 大学生ツアー

 青森県弘前市と十和田湖を結ぶ予約制のシャトルバイメージ 1スを運行している「りんごのふるさとシャトルバス運営協議会」(会長・櫻田宏弘前市観光振興部長)と弘前大学はこのほど、弘大生対象のモニターツアーを実施した。近年十和田湖観光から遠のいている若年層に魅力をアピールし、バスの利用を促進するのが狙い。昼前に休屋地区に着いた県外出身者中心の弘大生16人は、ガイドの案内で湖畔のスポットを巡った。
 一行は弘前市の弘大文京キャンパスを朝に出発し、秋田県の小坂鉱山事務所跡を見学した後に休屋に到着。2班に分かれてガイド付きで散策した。
 ガイドの1人は弘大OBで、十和田市の地域おこし協力隊活動2年目の山下晃平(こうへい)さん(27)。高村光太郎による「乙女の像」、十和田神社、修験者たちが修行や祈りを行っていた洞窟の跡が連なる「開運の小道」などを案内し、ナナカマド、ダケカンバ、ヤマツツジなど湖畔の豊かな植生の解説も織り交ぜた。
 十和田市が外部業者に委託して行った昨年10月の調査では、十和田湖地区への観光客はシニア層が中心で、将来的な「十和田湖ファン」の獲得が課題になっている。山下さんは見学を終え、休屋を去る学生たちに「土日でもこの通り、人が少ない。観光で食べている方も多いので、お客さんにもっと来てほしい。若い人がなかなか来てくれないことが悩みなので、感じたことをリポートにまとめて」と話していた。
 参加者の理工学部1年生・井畑礼さん(18)=札幌市出身=は、十和田湖を訪れるのが中学の修学旅行以来といい、「自然に触れる良い機会になった。今度はもっと天気のいい日に、友達と一緒に来てみたい」と話した。初めて訪れた理工学部大学院2年の女性=静岡県出身=も「今度は湖の上からの景色を見てみたい」と再訪に前向きだった。


十和田湖に限らず、当方、行く先々の観光地的な場所で、たしかに若年層の姿は少なく感じます。よく目にするのはいわゆるシニア世代の皆さん。その方々はお孫さんを連れて、というのではなく、老夫婦お二人でとか、気のあったお仲間同士でというのが目立つように思われます。家族形態やらそれぞれの年代のライフスタイルやらの変化が大きいのでしょう。

若年層にとっては、昔ほど「旅」というものにロマンを感じなくなっているのかもしれません。「旅をしないやつはダメだ」と決めつけるつもりは毛頭ありませんが、やはり見聞を広めるという意味では、百聞は一見にしかず、あちこち出かけるのが効果的です。

旅行にはお金がかかる、列車料金が高い、新幹線などで移動してもその先のローカル線や路線バスがどんどん廃止されている、高速道路料金も高い、第一、最近の若者は車離れ、バイト代はスマホ料金に消える、世の中全体不景気だし、わざわざ外に出ずともネットやテレビで居ながらにして情報は手に入る、スキーやら登山やらツーリングやらサイクリングやらも下火、娯楽形態の変化、仲間としじゅう一緒にいなくてもSNSでつながっているから行動を共にする必要もない、そして何といっても少子化……。要因を挙げればきりがありませんね。

そこであきらめてしまって、各自治体や観光関係者も手をこまねいていてはいけないわけで、記事にあるような試みもその打開のための一つの方策でしょう。

旅離れ現象が続く中でも、魅力的なテーマパーク、人気のイベントなどには人が集まっています。だからといって、ナントカ村とかの中途半端なテーマパークや、十分な計画性のない、一過性の流行イベントを観光地に誘致し、結局、長期的には人が来ずに負のレガシィとして残るというケースも少なくありませんね。そういう方向ではなく、あるものをいかに活用するか、いかにその魅力を発信するかが鍵だと思います。

各自治体や観光関係の皆さん、よろしくお願いいたします。


【折々のことば・光太郎】

詩とは文字ではない、言葉である。 言葉とはロゴスではない、アクトである。

詩「非ユークリツド的」より 昭和4年(1929) 光太郎47歳

「ロゴス」は論理、「アクト」は行動。

意味のない文字の羅列に過ぎないものではなく、実感を伴う言葉を生かしたものこそが詩であると、この頃からはやり始めた現代詩的なものへの警句でしょうか。もう少し早い時代の作であれば、空虚な美辞麗句を並べただけの新体詩、文語定型詩への訣別宣言と捉えられますが。若い詩人たちに、あるいは自らへの自戒も含め、過去の新体詩、文語定型詩の陥った陥穽にはまるべからず、ということかもしれません。

あるいは、内容の尖鋭さのみが優先され、詩としての言葉の美しさをなおざりにしていたプロレタリア詩的なものへの反発、という側面もあるかもしれません。

「又吉直樹のいつか見る風景 日本橋から船に乗る(東京都中央区ほか)」。

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先週土曜日の『朝日新聞』さんの土曜版。不定期に掲載される芥川賞作家の又吉直樹さんによる文学散歩的なコーナー「又吉直樹のいつか見る風景」。ちらりと光太郎の名を出して下さいました。 

又吉直樹のいつか見る風景 日本橋から船に乗る(東京都中央区ほか)

 日本橋の中央に全国への道路元標というものがある。道路でよく目にする「東京 500キロ」「東京 27キロ」と距離を示す標識の「0キロ地点」が日本橋だということだ。クイズとして、「あの標識はどこまでの距離?」と誰かが出題してくれないかと密(ひそ)かに期待しているのだが、まだその機会には恵まれていない。鮮やかに「日本橋!」と答える準備はできている。きっと、出題するまでもなくよく知られたことなのだろう。だが、その日本橋の下から舟に乗り遊覧できることはあまり知られていないのではないか。
 先日、そこから舟に乗った。「日本橋川」の上は高速道路が走るため、空はよく見えない。出発してすぐに鎧(よろい)橋がある。明治末、「パンの会」という新しい芸術の精神を持った若者(木下杢太郎、北原白秋、高村光太郎など)が集まったカフェ「メゾン鴻の巣」が近くにあった。
 沿岸の建物のほとんどは川に背を向けていて、非常階段で喫煙している人の脱力した表情が印象に残った。かつては江戸城まで物資を運搬する水路だったが、現在は日常の裏側なのかもしれない。ところが、「隅田川」に出ると一気に視界がひらけて爽快だった。
(略)イメージ 1
 東京都心の川を、小型の船(舟)でめぐるクルーズが、いま人気だ。神田川の支流、日本橋川にかかる日本橋の船着き場からは、土日ともなると、多くの乗り合い便が発着している。
 今回は、船をチャーターし、NPO法人水都東京を創る会(suito.or.jp)のガイドで、江戸から近代にかけ、流域で花開いた文学活動の残り香を訪ねる旅、と決め込んだ。江戸橋、鎧橋と下り、隅田川へ出て、江戸入りした徳川家康が、日本橋川とともに造成した「塩の道」の小名木川へ。河口の万年橋の近くには、現在も芭蕉記念館が。扇橋閘門の先で折り返し、もと来た川を戻り、佃島を望みながら亀島川から再び日本橋川へ。約90分の旅だった。


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長いので省略しましたが、日本橋から扇橋までの船旅イメージ 2のレポートになっています。

日本橋から下流に向かうと、すぐ江戸橋、続いて鎧橋です。レポートにあるとおり、鎧橋際には、西洋料理店「メイゾン鴻乃巣」がかつてあって、北原白秋木下杢太郎らが始めた芸術運動「パンの会」の会場として使われていました。明治42年(1909)、欧米留学から帰った光太郎もたちまちその渦に巻き込まれ、気焔を上げています。
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明治43年(1910)11月20日、日本橋の三州屋で行われた大会では、劇作家・詩人の 長田秀雄の入営壮行会を兼ねたものでしたが、会場に掲げられた「祝長田君・柳君入営」 の貼り紙――幟(のぼり)という説もあり――に、光太郎が黒枠を描き込んだため、「萬朝報」に取り上げられ、徴兵制度を非難する非国民の会と糾弾されました。翌月に大逆事件の大審院第一回公判を控えていた時期であり、当局も過敏でした。

さらに同日、実際にはやりませんでしたが、吉原河内楼の娼妓・若太夫をめぐって、作家の木村荘太(画家・荘八の兄)と決闘騒ぎになりかけたりもしています。

このあたりは、木村の書いた小説『魔の宴』(昭和25年=1950)に詳述されています。

さて、又吉さんのクルーズ。船をチャーターしてのものだったそうですが、いくつもの会社がクルーズ船を運行しています。チャーター便、その場で直接申し込む乗り合い便、一人でもOKというものもあります。

これまでもテレビの旅番組的なもので取り上げられており、レポーターの皆さん、一様に川から東京の街並みを観る新鮮さに驚きの声を上げていました。

機会を見つけて利用してみたいものです。皆様も是非どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

星が一つ西の空に光り出して 天が今宵こそ木犀色に匂ひ 往来にさらさら風が流れて 誰でも両手をひろげて歩きたいほど身がひきしまる さういふ秋がやつて来たんだ
詩「秋が来たんだ」より 昭和4年(1929) 光太郎47歳

関東は昨日梅雨入りだというのに、季節外れですみません(笑)。以前にも書きましたが、このコーナー、『高村光太郎全集』からほぼ掲載順に言葉を探していますので、こういうことも起こります。

どちらかというと、光太郎は「述志」の詩人と捉えられがちで、力強く自己の内面を表出した作品が多いのは確かです。

しかし、それにとどまらず、こうした何気ない詩句の中に、非常に美しい自然の描写などがあり、これもまた一つの光太郎詩の魅力です。

「ほんとの空」。

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仙台に本社を置く地方紙『河北新報』さん。今週月曜日の夕刊に掲載のコラム「河北抄」で光太郎の名が。 

河北抄 2017年06月05日月曜日

 満天の星に吸い込まれた。先日、福島県大玉村の実家に帰り、見上げた夜空に心がすっとした。安達太良山の麓。高村光太郎の詩集「智恵子抄」にある「ほんとの空」は、夜もまた格別だ。
 6年前、激震が襲った日の仙台の夜空も、きれいだった。停電で不安と闇に沈む中心部。華やかなネオンに隠れていた輝きが、こんなにあったとは。
 「何もない非日常がいい」。青森市出身の館美里さん(24)は、あまり活用されていない福島県三島町の美坂高原で星空に魅せられた。地域おこし協力隊として町に移住した若い仲間と24日夜、「みさかDEあそぼ 星空×ヨガ」を催す。
 星を仰ぎ心身を癒やす星空ヨガ。提唱する三島町出身で郡山、仙台で活動するヨガ講師大竹沙紀さん(26)は「五感で星の鼓動を感じ、自分らしさを見つめてほしい」と。人にも個々の輝きがある。人口減、高齢化が著しい奥会津の小さな町だが、見方を変えればきらりと光る。
 仙台のビル街も、たまには明かりを消し、屋上で夜空を眺めてヨガ-実現できたら、どんなにすてきだろうなあ。


単に福島の空が美しい、だけでなく、「ほんとの空」を引いて下さり、ありがたいところです。

今後、梅雨が明けると夏の星座のシーズンですね。都会では夜も明るすぎ、星の観察には不向きですが、コラムにある大玉村や三島町(奥会津です)あたりでは、さぞ美しい星空が見えるような気がします。

郡山市ふれあい科学館さんで開催されていた第4回ふくしま星・月の風景フォトコンテスト 作品展を、去年の今頃、拝見したことを思い出しました。「 “ほんとの空” のある、ふくしまの星・月の風景」というコピーが使われていました。コンテストはは昨年の第4回で終了してしまったようで、残念です。


もう一つ思い出したのが、昨年、「“ほんとの空”から追い求めた夢の結実」と報道された、最高時速370キロのプロペラ飛行機によるレース「レッドブル・エアレース・ワールドチャンピオンシップ」。先週末に千葉県立幕張海浜公園で開催された第3戦で、昨年に続き、福島を本拠に活動されている室屋義秀選手が2連覇を達成されました。すばらしいですね。

そうかと思えば、「河北抄」でも触れられていた東日本大震災、そして原発の事故がらみも報道され、あきれています。ようやく福井県の「もんじゅ」廃炉が決まったと思ったら、使用済み燃料の行き場がないとか、茨城では重大な被曝事故が発生しているにもかかわらず、「もんじゅ」の福井では高浜原発3号機が運転差し止めの仮処分がくつがえされて再稼働とか……。「営業運転に入れば、電気料金を値下げする」だそうで、こういうのをまさに「朝三暮四」というのだと思います。いいかげん目を覚ませと言いたくなりますが、トンデモ大臣のお膝元ですのでしかたがないのかもしれません。

ところで、「原発」、「ほんとの空」といえば、2012(平成24年)、兵庫県人権啓発協会さん制作のビデオドラマ「ほんとの空」。劇中に光太郎の詩「あどけない話」が使われ、このブログでも何度かご紹介してきました。昨年のNHK大河ドラマ「真田丸」で、主人公・真田信繁(幸村)の長男・大助を演じた浦上晟周さんも出演しています。

明日、福岡市の高取公民館で上映されます。

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「原発いじめ」問題もあった昨今、その問題も扱っているこの「ほんとの空」、もっと上映が広がってほしいものです。


最後は星空関連の明るい話題で。

戦後の7年間、光太郎が暮らした岩手県花巻郊外旧太田村。光太郎が暮らしていた昭和20年代は、まさしく星降る夜だったようで、当時書かれた随筆や日記に、天体に関する記述がたくさん見受けられます。そんな縁もあり、先日もちらっとご紹介しましたが、花巻高村記念館さんの講座的に、記念館・山荘周辺で星座観察会を催す
ことになりました。7月29日の夜です。花巻市さんも共催に入って下さり、当方もゲストにお招きいただきました。詳細が決まりましたらまた改めてご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

さういふ道とはまるで違つた道があるのだ さういふ図形にまるで嵌らない図形があるのだ
詩「激動するもの」より 昭和4年(1929) 光太郎47歳

「原子力ムラ」の論理を振りかざす輩に贈ります(笑)。

ところで、「激動するもの」という詩、扱いに困る詩です。この詩が収められた『高村光太郎全集』増補改訂版第2巻刊行の平成6年(1994)時点でも初出掲載誌が不詳でした。また、光太郎の生前に刊行されたどの詩集にも掲載されませんでした。そこで、『全集』では光太郎の手元に残された草稿に記された形を採録しています。

その後、山梨県で自費出版的に刊行されていた雑誌『線』の第4号(昭和5年=1930)に初出だったことがわかり、掲載誌も見ることが出来ました。しかし、草稿と異なる箇所が二カ所。引用した部分、草稿で「さういふ道とは」が、『線』では「さういふ道と」、終末近くで同じく「微塵の中」が「微塵のうち」となっています。

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雑誌『線』掲載の段階で、光太郎がゲラ等の確認をきちんとしていたのであれば、掲載誌のとおりですが、そうでなければ誤植です。どちらなのか、現段階では不明です。

この点に関わる随筆、書簡などが新たに見つかれば、この問題も一気に解決します。実際、一つの随筆、書簡の新たな発見で、それまで不明だったことが分かった例はたくさんあり、今後に期待したいところです。

台東区立中央図書館「台東区博物館ことはじめ」

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光太郎の父・高村光雲に関わりそうな企画展です。 

台東区博物館ことはじめ 

期      日 : 2017年6月16日(金)~9月20日(水)
時      間 : 月から土曜日まで 午前9時から午後8時まで    日曜・祝日 午前9時から午後5時まで
            台東区西浅草3丁目25番16号 台東区生涯学習センター2階
料      金 : 無料
休  館  日  : 第3木曜日(祝日の場合は開館し直後の平日を休館)


 本企画展は、台東区発足70周年を記念して台東区の博物館をとりあげます。江戸時代の薬品会や物産会を源流とした博覧会の歴史、そして上野公園に誕生した黎明期の博物館の歴史をひもときます。
 あわせて台東区芸術文化財団が運営する一葉記念館、下町風俗資料館、朝倉彫塑館、書道博物館、旧東京音楽学校奏楽堂の写真を紹介します。

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関連行事 

トーク・イベント「台東区の博物館」 

日   時  平成29年7月8日(土曜日) 14時から16時まで
場   所  台東区生涯学習センター3階 301研修室
定   員  50名(応募多数の場合は抽選)
参加費  無料

1 「江戸の物産会から明治の博覧会へ」     平野恵(台東区立中央図書館郷土・資料調査室専門員)
2 「台東区の博物館―朝倉彫塑館を中心に―」 戸張泰子(朝倉彫塑館研究員)

申込方法
 (1)はがきによる申込
  往復はがき(一人一枚)に「トーク・イベント」と明記し、氏名・住所・電話番号を記入の上、以下の宛て先に  
  郵送してください。
  締め切りは、平成29年6月28日(水曜日)17時必着です。
  〒111-8621 台東区西浅草3丁目25番16号 台東区立中央図書館郷土担当  
(2)電子申請による申込
  以下の電子申請フォームからお申し込みください。
  外部サイトへリンク 新規ウインドウで開きます。
  http://www.shinsei.elg-front.jp/tokyo/navi/procInfo.do?govCode=13106&acs=tosho(外部サイト)
  申込期限は、平成29年6月28日(水曜日)17時です。
 

専門員によるギャラリー・トーク

展示品の見どころを直接展示会場で解説します。
日時 平成29年8月6日(日曜日)16時15分から17時まで 場所 台東区立中央図書館2階 郷土・資料調査室  定員 先着20名 申込 来館又は電話 03-5246-5911

専門員によるスライド・トーク

展示品の見どころをスライドで解説します。
日時 平成29年9月14日(木曜日)13時30分から14時まで 場所 台東区生涯学習センター5階 504教育研修室 定員 先着50名 申込 不要


もともと一介の仏師に過ぎず、しかも明治初めにはいわゆる廃イメージ 1仏毀釈のあおりで注文が激減、洋傘の柄や、陶器の灰皿の木型、はては縁起物の熊手まで作って糊口をしのいでいた光雲が、当代一流の彫刻家とみなされ、東京美術学校教授、帝室技芸員にまで上り詰める端緒となったのが、明治10年(1877)に開催された第一回内国勧業博覧会でした。光雲は師・高村東雲の代作で「白衣観音像」を制作し出品、みごと一等龍紋章を受賞して一躍有名になったのです。

第二回内国勧業博覧会は、同14年(1881)、光太郎の生まれる二年前です。この際にも光雲は「龍王像」を出品しました。第三回は同23年(1890年)。この回から光雲は審査員を拝命しています。ここまでの会場は、上野公園の特設会場。第四回(同28年=1895年)は京都、第五回(同36年=1903)が大阪での開催となり、それでその歴史の幕を閉じました。

いっぽう、明治15年(1882)、第二回内国勧業博覧会の会場として建てられた煉瓦造2階建の展示館をメインに、さかのぼる第一回内国勧業博覧会の会場だった建物も使い、東京国立博物館が誕生しました。組織自体はもっと前からあったのですが、実質的なスタートはこの年です。

今回の企画展、このあたりに関わる展示が為されるようです。上記チラシ表面で使われているのは、第二回内国勧業博覧会の会場を描いた錦絵(右の画像)です。裏面にも別の錦絵が掲載されています。

その後も光雲が出品した種々の展覧会などで、上野を会場としたものが少なからずあったと思われます。

ついでにいうなら、光太郎の展覧会出品歴も、はじめの頃はすべて上野でした。

明治33年(1900)、彫塑会第一回展覧会が上野公園竹の台陳列館五号館で開かれ、塑像「観月」を出品。翌年には同展の第二回で東京美術学校校友会倶楽部が会場、出品作は石膏レリーフ「仙」「まぼろし」。さらに同35年(1902)で、東京美術学校を会場に、塑像「獅子吼」を出品した同校生徒成績品展覧会。そして欧米留学に出る前年の同38年(1905)には、第一回彫塑同窓会展。会場は上野公園竹の台陳列館五号館、出品作は「薄命児」と「解剖台上の紅葉山人」でした。

ただし、今回の企画展のコンセプトからすると、時代が少し下るようです。


ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

あいにくながら今は誰でも口に蓋する里のならひだ

詩「上州川古「さくさん」風景」より 昭和4年(1929) 光太郎47歳

過日ご紹介した「上州湯檜曾風景」と対を為す詩です。やはり上州山奥の、こちらは木酢工場を舞台とし、こき使われ、旅人=光太郎に人恋しさをつのらせる労働者をモチーフとしています。

前年には我が国初の普通選挙が実施されましたが、社会主義、共産主義、無政府主義の台頭に危機感を抱いた田中義一内閣は、治安維持法違反容疑により全国で一斉検挙を行い、日本共産党、労働農民党などの関係者約1600人が検挙されました。いわゆる三・一五事件です。これに抗議する小説『一九二八年三月十五日』を書いた小林多喜二は、これにより特高警察の逆鱗に触れ、昭和8年(1933)、拷問の末、虐殺されました。

光太郎の周辺でも、光太郎を敬愛していた彫刻家・高田博厚が、共産党員をかくまったかどで警察に留置されたのも、昭和3年(1928)のことでした。昭和3年といえば、治安維持法違反の最高刑が死刑に改悪された年でもあります。この後の泥沼の15年戦争へと向かう一つの転換点だった、非常にきな臭い時期だったわけですね。

しかし、本当に恐ろしいのは、為政者や軍の暴走ではなく、それを容認していた多数の一般国民の存在です。現今の我が国の情勢と非常によく似ていますね。さまざまな疑惑の当事者は「口に蓋」し、勇気を持って上げた声は黙殺され、あまっさえ見せしめの人格攻撃。そしてあったことがなかったことになる……。

こういうことを書いていると「テロ等準備罪」でひっくくられる、そういう世の中になってしまうのでしょうか?

渡辺文治氏訃報。

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光太郎関連のさまざまな出版物を刊行して下さっている、東京杉並の文治堂書店さん。そちらの創業者・渡辺文治氏が先月、亡くなったそうです。

当方、直接面識はありませんでしたので、すぐに知らせが来なかったのですが、昨日、別件で同社から届いた書簡にその旨の記述と、葬儀の際の会葬御礼が同封されていました。

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同社から刊行されたイメージ 6当会顧問・北川太一先生の近著『いのちふしぎ ひと・ほん・ほか』に、「文治さんと清二さん」という小文が掲載されており、そこで渡辺氏についての思い出が語られています。初出は平成2年(1990)、同社のPR誌『トンボの眼玉』でした。「清二さん」は渡辺氏の筆名「谷川清二」のことで、「文治さん」と「清二さん」は同一人物です。

氏の業績、人となりのご紹介のため、抜粋します。

 文治さんがはじめて応接間とも書斎とも書庫とも物置ともつかぬ、机一つないわが家の四畳半にやって来て、窮屈そうに坐ったのは、あれはいつのことだったろう。
 ずっとガリ版で出し続けていた『光太郎資料』が二十冊あまりになったのを、詩の輪読会のメンバーの一人、日大法学部の田鍋幸信さんが見て、文治さんに話したらしい。文治さんのことは、僕の大好きな中島敦の、立派な四冊の本の出版社として知っていた。本は飛び切り上等だったけれど、社長と社長夫人しかいないその出版社の実情は、例えば小説「シュロ竹」を見よ。文治さんの本屋さんだから、糞真面目に文治堂というのも良いではないか。
 目の前にいる文治さんは、活字で『光太郎資料』出しましょう、という。好男子なのに風采決して陸離とは言えない。低い声でぼそぼそ話す文治さんの、思い切りのいい決断。文治さんはいったい何を考えているのだろう。
 その本が文治さんの目にかなったとしても、売れる筈のないそんな本を、出す出版社はおそらくない。半分あきれかえりながら、僕はこの降って涌いた計画に熱中した。しかもあろうことか、六冊の無鉄砲なシリーズは、昭和五十二年に五年かかって完結した。

こうして世に出たのが、『高村光太郎資料』全六集。母胎イメージ 1は北川先生編集の『光太郎資料』ですが、そのまま単行本化したわけではなく、徹底して再編がなされ、第一集から第三集までは、昭和32年(1958)に完結した筑摩書房さんの『高村光太郎全集』補遺作品の巻。平成11年(1999)に同全集の増補改訂版が完結するまで、補遺巻としての役割を果たし続けました。

第四集から第六集までは、諸家による光太郎智恵子の同時代評、回想、そして第一~三集のさらに補遺。こちらも貴重な資料集成です。

これで北川先生と同社との関わりが出来、以後、光太郎関連の出版物等が同社から刊行されたり、同社発行の雑誌に先生の玉稿が載ったりしました。画像の広告にある光太郎デッサン「裸婦」複製などもその一環です。

再び北川先生の玉稿から。

 その間にも感じたことは、このやさしく、声高に語らぬ人が、強情我慢な一面もあり、ことに自分の美意識や語感にかけてはゆずらないこと。ふと作家論などを始めると、思いもかけず熱っぽい、頑強な評論家に豹変すること。「五万円もあれば暮らせますよ」という何気ない文治さんの言葉にも、この人は決して、商売の出版屋にはなれないだろうな、と思いながら、いささか古めかしいけれど、われら同世代には通じるに違いないこの人の、「志」を僕は感じはじめていた。そしてその文治さんの「志」をつつむ文治さんの家の、奥さんや息子さんのなんとも言えぬ温かさも。


雑誌としては、『蝉』、『近代詩研究―詩と音楽―』といったあたりに、北川先生の玉稿が載りました。『高村光太郎資料』を補う、光太郎の評伝「高村光太郎伝試稿」。こちらは掲載誌や形態を変えつつ、現在は高村光太郎研究会さん発行の雑誌『高村光太郎研究』誌上で続いています。

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 『資料』の最後の巻がまだ出来上がらない頃、文治さんは文治堂のPR誌を作るという。僕は長い間地面の中でいのちを養い、或る日与えられた短い時を力いっぱい歌いあげる『蝉』という名を提案し、それは文治さんに採用された。第一号が陽の目を見たのは、ちょうど鳴きしきる蝉の季節、昭和五十年七月のことだったけれど、出来上がったのは、とうていPRになろうとも思えぬ、薄いけれども硬玉のような、読み応えのある文芸誌だった。

その中で、渡辺氏は「谷川清二」の筆名で、私小説風の一篇を発表し、出版者と小説家の二足のわらじの活動が始まりました。

 文治さんは相変わらず、惚れ込んだ売れそうもない良い本を、少しずつ世に送り出したが、清二さんの小説も次々に生まれた。それは読む者をよろこばせ、或いはさまざまな感慨に誘った。はじめの頃の軽妙に人間の機微を描いた作品は、それぞれのやり方で僕等が歩いて来た、戦中戦後の重い人生への反芻にひろがり、今を覆い、一転して古代に託した力強い人間説話ともなった。

平成のはじめ頃には引退され、現社主の勝畑耕一氏に引き継がれたようで、おそらく引用した北川先生の玉稿は、引退記念のはなむけなのではと思われます。

勝畑氏に委譲された同社、その後も「惚れ込んだ売れそうもない良い本を、少しずつ世に送り出」すというコンセプトは受け継がれ、光太郎や周辺人物に関するさまざまな良書が刊行されています。また、「とうていPRになろうとも思えぬ、薄いけれども硬玉のような、読み応えのある」PR誌も、昨年、『トンボ』として復活。書かせてくれと言った覚えは全くないのですが(笑)、当方も半ば強引に執筆陣に加えられ、さらに来月発行の次号からは、連載も始まります。

その渡辺氏の訃報。気骨と良心のある出版者がまた一人、旅立たれました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

ちよこまかとして戦ひ獲るのが如何に君の周囲の流行でも、 私はもう一度古風に繰返さう。 ――正しい原因に生きる事、 それのみが浄い。――

詩「或る親しき友の親しき言葉に答ふ」より 昭和4年(1929) 光太郎47歳

光太郎詩には珍しく、他の詩に書かれた詩句を引用しています。すなわち終末の「正しい原因に生きる事、 それのみが浄い。」が、大正15年(1926)に書かれた「火星が出てゐる」からの転用です。

故・渡辺氏などもそういった考えから、「周囲の流行」に背を向け、数々の良書を世に送り出していたのでしょう。

虎の威を借る狐よろしく、「官邸の最高レベルが言っている」などと圧力をかけたり、「忖度」を駆使したりして、国有地や学部新設の権利などを、「ちよこまかとして戦ひ獲る」輩、それを許したり、斡旋したりしている輩に贈りたい言葉ですね(笑)。

WOWOWプライム 連続ドラマW 宮沢賢治の食卓。

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テレビ放映情報です。 

連続ドラマW 宮沢賢治の食卓

WOWOWプライム 2017年6月17日(土) 22時00分~23時00分 第1話無料放送

『銀河鉄道の夜』『雨ニモマケズ』などで知られる、国民的作家・宮沢賢治。
孤高の存在として語られる印象とは裏腹に、じつはユーモアに溢れた好奇心の人でした。 賢治とは一体どんな人物で、如何なるものを食したのでしょうか!?
賢治の愛した食べ物には、家族や隣人、そしてやがて早逝する最愛の妹への深い愛情が秘められていました―。
若かりし頃の天真爛漫な宮沢賢治の青春時代を、彼の愛した食やクラシック音楽を通して、家族や親しい人たちとの関わりを描いた感涙必至の物語。
特に傑作詩篇「永訣の朝」にうたわれた最愛の妹・トシとの死別に描かれる兄妹愛の行く末は、涙なくして観られません。今までの映像作品ではなかなか描かれなかった、泣いて笑って躍動する、瑞々しい宮沢賢治 by 鈴木亮平に是非ご期待ください!!

第一話「幸福のコロッケ」
東京に家出をしていた質店の長男・宮沢賢治(鈴木亮平)は妹・トシ(石橋杏奈)の病気の電報を受け、岩手・花巻に帰郷する。母・イチ(神野三鈴)や弟妹たちには歓迎されるも、厳格な父・政次郎(平田満)とはなかなかうまくいかない。食、音楽、文学とあらゆることに興味のある賢治だが、自分を熱くするものを見つけられずにいた。そんなある日、農家の吉盛(柳沢慎吾)一家に出会う。

原作 魚乃目三太(少年画報社刊「思い出食堂」より)
脚本 池田奈津子
音楽 サキタハヂメ
監督 御法川修
出演 鈴木亮平、石橋杏奈、山崎育三郎、市川実日子、柳沢慎吾、井之脇海、神野三鈴、平田満 他


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設定は大正10年(1921)頃のようです。その5年後に、光太郎とただ一度だけ出会い、光太郎の生涯にも大きく関わる宮沢賢治が主人公のドラマです。全5話で、有料放送のWOWOWプライムさんでの放映ですが、第1話のみ無料放送だとのこと。

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鈴木亮平さん演じる賢治自身も光太郎を敬愛し、大正15年(1926)、自ら本郷区駒込林町の光太郎アトリエを訪ねていますが、より光太郎と深く関わった、賢治の家族が登場する点で、興味を引かれています。

賢治の父・政次郎。平田満さんです。賢治歿後に、『宮沢賢治全集』の発刊や、花巻に建った賢治詩碑の揮毫などで世話になった光太郎に恩義を感じ、昭和20年(1945)、空襲でアトリエを焼け出された光太郎を花巻に招きました。

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その妻・イチ。神野三鈴さんが演じます。宮沢家に疎開した光太郎は、すぐに結核性の肺炎で高熱を発し、約1ヶ月臥床。その間、そしてその後も、自宅が空襲で焼ける8月10日まで、かいがいしく光太郎の世話をして下さいました。

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こちらが光太郎(右)と、リアル政次郎・イチ夫妻です。

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賢治の弟・清六(井之脇海さん)と、妹・シゲ(畦田ひとみさん)。

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兄を亡くした二人にとって、光太郎は兄のように思えたのでしょうか、何くれとなく光太郎の面倒を見てくれたりしました。

賢治が歿した翌年の昭和9年(1934)、新宿モナミで開かれた賢治追悼の会の席上、清六が持参した賢治遺品のトランクから出て来た手帖に書かれていた「雨ニモマケズ」が「発見」されました。その場にいたのが光太郎、草野心平、永瀬清子、巽聖歌、深沢省三、吉田孤羊、宮靜枝らでした。

昭和21年(1946)から24年(1949)にかけて、日本読書組合から発行された『宮沢賢治文庫』は、清六と光太郎の共編です。光太郎が花巻郊外太田村に移ってからも、二人はお互いに行き来していました。

シゲは光太郎が疎開してきた際には、既に岩田家に嫁いでいましたが、ちょくちょく実家に帰り、やはり光太郎の世話を色々焼いてくれました。亡き智恵子が織った反物から、羽織やモンペを仕立ててくれたのもシゲですし、光太郎が宮沢家に厄介になっていた頃には、光太郎のために毎日山羊の乳を入手する手配をしてくれました。

それから、賢治の親友・藤原嘉藤治(山崎育三郎さん)。やはり賢治つながりで、光太郎と親交がありました。

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リアル嘉藤治(中央)と光太郎(左)。

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石橋杏奈さん演じる賢治の最愛の妹・トシは、賢治が光太郎と出会う以前の大正11年(1922)に亡くなっていますが、その死を謳った賢治の絶唱「永訣の朝」は、光太郎が智恵子の最期に題材をとぅた「レモン哀歌」に影響を与えていると考えられます。ちなみに、やはり面識はなかったと思われますが、トシは智恵子と同じ日本女子大学校に通っていました。

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動画投稿サイト「YouTube」から。

連続ドラマW 宮沢賢治の食卓/プロモーション映像(60秒)



連続ドラマW 宮沢賢治の食卓/鈴木亮平コメント付きプロモーション映像(120秒)



連続ドラマW 宮沢賢治の食卓/メイキング映像



連続ドラマW 宮沢賢治の食卓/メイキング映像 ロングver



ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

孤独の痛さに堪へ切つた人間同志の 黙つてさし出す丈夫な手と手のつながりだ 孤独の鐵(かな)しきに堪へきれない泣蟲同志の がやがや集まる烏合の勢に縁はない 
詩「孤独が何で珍らしい」より 昭和4年(1929) 光太郎47歳

トシ、賢治と、我が子二人を逆縁の不孝で失った政次郎。妻・智恵子に先立たれ、空襲で住処も無くした光太郎に、黙って手を差し伸べてくれました。まさしく「黙つてさし出す丈夫な手と手のつながり」ですね。

欲得ずくで集まっただけのどこぞの政党や、自分の都合が悪くなるとトカゲのしっぽよろしく、手のひらを返して手を切ろうとする大臣閣下諸氏――「孤独の鐵(かな)しきに堪へきれない泣蟲同志の がやがや集まる烏合の勢」――に贈りたい文言です(笑)。

雑誌『コールサック』第90号。

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出版社コールサック社さんから、季刊詩誌『コールサック』の第90号が届きました。昨年の連翹忌に主幹の鈴木比佐雄氏がご参加下さり、そのご縁から毎号送って下さっています。恐縮です。

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その上、毎号のように光太郎に触れて下さっていて、その点でも恐縮です。3月に発行された第89号では、光太郎と交流のあった山梨出身の詩人・野澤一(明37=1904~昭20=1945)のご子息で、連翹忌ご常連の野澤俊之氏が、父君に関するエッセイを寄せられていました。題して「神秘の湖〝四尾連湖〟に寄せる思い」。

今号では、野澤一の詩、9篇が掲載されています。すべて野澤生イメージ 2前唯一の詩集『木葉童子詩経』から選ばれています。そして野澤のプロフィールの中で、光太郎に触れられています。

『木葉童子詩経』は、昭和9年(1934)、6年間にわたる山梨県四尾連湖畔に丸太小屋を建てての独居自炊の様子を謳ったもので、光太郎にも贈られました。

光太郎から野澤への礼状が遺っています。

啓上 “木葉童子詩経”一巻今日拝受、 忝く存じます、
以前原稿の御送附をうけてそれぎりになつてゐた事を思ひ出しました、其時は丁度妻が危篤状態の際で一切を放擲してゐた時でした、
妻の病気はまだ続いてゐますが 今は読書の余裕も出来ました、早速拝読します、

日付は昭和9年(1934)4月25日。智恵子の心の病がのっぴきならなくなり、千葉九十九里浜に転居していた智恵子の母・センと、妹・節子一家のもとに智恵子を預ける直前です。

「危篤状態」云々は、昭和7イメージ 1年(1932)、睡眠薬アダリンを大量に服用しての、智恵子の自殺未遂を指します。

その後、野澤は昭和14年(1939)から翌年にかけてと、死の直前に、光太郎にあてて近況報告やらその時々の思いやらを綴った書簡を実に数百通、ほとんど一方的に送り続けました。いずれも3,000字前後の長いもの。光太郎からの返信はほとんどなく、ほぼ一方通行の書信です。

そのエネルギーに押されてか、光太郎は、随筆「某月某日」(昭和15年=1940)中で、野澤をして次のように評しています。

二百通に及ぶこの人の封書を前にして私は胸せまる思がする。そしてこれこそ私にとつての大竜の訪れであると考へる。私は此の愛の書簡に値しないやうにも思ふが、しかし又斯かる稀有の愛を感じ得る心のまだ滅びないのを自ら知つて仕合せだと思ふ。

『木葉童子詩経』は、昭和51年(1976)と、平成17年(2005・右画像)に、文治堂書店さんから再刊されています。

一昨日のこのブログで、文治堂書店さん創業者の渡辺文治氏の訃報を書きまして、その中で、当会顧問の北川太一先生の「惚れ込んだ売れそうもない良い本を、少しずつ世に送り出」すという同氏の姿勢に受けた感銘を紹介いたしました。こう言っては失礼ですが、この『木葉童子詩経』もその一冊といえそうです。

さらにはこうした無名詩人を毎号取り上げる『コールサック』も、社は違えど、同じにおいを感じます。

それぞれ出版文化の継承という意味でも、意義のある仕事です。継続していただきたく存じます。そして願わくは、「売れそうもない」という状態でなくなることを、と思います。


【折々のことば・光太郎】

うそは決してつくまい、 正しい人にならう、真理を究めよう、 すなほに、やさしく、のびのびと、 朝日のやうにいきいきと進まう。

詩「春の一年生」より 昭和5年(1930) 光太郎48歳

光太郎の手元に残された草稿に「冨山房教科書一年生用のために」とのメモ書きがあります。

以前にも書きましたが、「一年生」といっても、冒頭近くに「小学校はもう昔」とあるので、小学一年生ではなく、小学校卒業後に進む、旧制中学校(5年制)や高等女学校などの一年生でしょう。

ただ、この詩が載った当時の教科書がまだ確認できていません。情報をお持ちの方は、こちらまでご教示いただければ幸いです。

それにしても、昨今話題の「もりかけ問題」(蕎麦は関係ありません(笑))関係者に朗読させてみたいものです(笑)。

西郷竹彦氏訃報。

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昨日の『朝日新聞』さんに載った訃報です。 

西郷竹彦さん死去

 西郷竹彦さん(さいごう・たけひこ、本名・隆俊=たかとし、文芸教育研究協議会会長)12日、急性肺炎で死去、97歳。葬儀は家族のみで営む。喪主は妻京子さん。同協議会が7月29日に神戸市で開く「文芸研神戸大会」の中で、「偲(しの)ぶ会」を催す予定。著書に「西郷竹彦文芸・教育全集」など。

『東京新聞』さんにも、ほぼ同一の訃報が掲載されたようですが、他紙はネット上では見あたりませんでした。

当方、氏の御著書を一冊持っており、朝刊を広げてお名前を訃報欄イメージ 1で目にし、「あらららら……」と思った次第です。

それが黎明書房さんから平成5年(1993)刊行の『名詩の美学』。小中高の教科書に採用されたものを中心に、光太郎を含む30余名の近現代詩人の作品を取り上げ、「美の構造仮説にもとづく解釈」(「はじめに」より)が為されています。

どちらかというと国語教員向けに書かれたようで、カバーには「小・中・高における詩の「読解鑑賞指導」の限界を明らかにし」という文言も記されています。版元の黎明書房さんは、教育関係図書の出版で実績を持っています。西郷氏ご自身、訃報にあるとおり、文芸教育研究協議会会長であらせられ、鹿児島県立短期大学文学科で教鞭を取られていました。

しかし、純粋に教員向けかというとそうでもなく、授業指導のあり方を提案するとかではないので、いわゆる「教育書」の範疇には入りません。個々の詩の作品論集成です。

光太郎詩は「ぼろぼろな駝鳥」(昭和3年=1928)が扱われています。題して「たがいに異質な感情の止揚――高村光太郎「ぼろぼろな駝鳥」」。

終末部分を引用させていただきます。

 この詩の美の構造を図式的に表現するならば、次のようになるだろう。
 怒りの口調に悲しみの心を述べる。悲哀の姿に滑稽をさえ感じさせ、さらに滑稽であることでいっそうのみじめさ、哀れさをひきおこさせる。卑属にまみれた姿の中に超俗の姿を、また失われた聖なるものの姿を垣間見せる。美をねがい救いを求め、理想にあこがれる姿に愚と聖を同時にとらえ、小さな素朴の中に無辺大の夢を追う。つまり駝鳥にして駝鳥にあらざるもの――人間――をともに描き出す。
 ここに、この詩の美の構造を見ることができる。たんに〈怒り〉〈憤怒〉〈批判〉〈抗議〉とのみ見てはならない。

なるほど。

調べてみましたところ、「増補版」が平成23年(2011)の上梓、まだ在庫があるようです。目次は以下の通り。

 序 現実をふまえ、現実をこえる世界―佐藤春夫「海の若者」
 1 矛盾するイメージの二重性―井伏鱒二「つくだ煮の小魚」
 2 美の典型をとらえる―村野四郎「鹿」
 3 一瞬にして永遠なる世界―三好達治「大阿蘇」
 4 イメージの筋が生みだすもの―小野十三郎「山頂から」
 5 現実と非現実のあわいの世界―中原中也「一つのメルヘン」
 6 象徴化されていくプロセス―萩原朔太郎「およぐひと」
 7 日常性に非日常を見る―長谷川龍生「理髪店にて」
 8 心平詩〈つづけよみ〉―草野心平「天」「作品第拾捌」「海」
 9 否定態の表現―中野重治「浪」
 10 たがいに異質な感情の止揚―高村光太郎「ぼろぼろな駝鳥」
 11 現実が虚構である世界―丸山 薫「犀と獅子」
 12 無意味(ナンセンス)の意味―谷川俊太郎「であるとあるで」
 13 自他合一の世界―安水稔和「水のなかで水がうたう歌」
 14 一即一切・一切即一―高見 順「天」
 15 自己の存在証明―石原吉郎「木のあいさつ」
 16 天を見下ろす逆説―山之口 貘「天」
 17 自己分裂・喪失の悲喜劇―藤富保男「ふと」
 18 根拠なき推理の生む虚像―藤富保男「推理」
 19 生命の芽ぶくドラマ―安東次男「球根たち」
 20 まとめられぬまとめ―詩の美のかぎりない多様さ
 21 二相ゆらぎの世界(宮沢賢治)―その1「烏百態」
 22 二相ゆらぎの世界(宮沢賢治)―その2「永訣の朝」
 補説 西郷文芸学の基礎的な原理―主として「話者の話体と作者の文体」について

ぜひお買い求めください。


なお、当方、もう一冊、氏の名が「監修」でクレジットされている書籍も持っています。しかし、重大な瑕疵のあるものですのでご紹介は控えさせていただきます。ただし、その瑕疵に西郷氏は関わっていません。あくまで間抜けな版元のボーンヘッドで、監修者としての氏が気の毒に思われます。

閑話休題。改めまして、謹んで西郷氏のご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

憤りか必至か無心か、 この人はただ途方もなく 無限級数を追つてゐるのか。

詩「刃物を研ぐ人」より 昭和5年(1930) 光太郎48歳

「刃物」は彫刻刀や鑿の類、「刃物を研ぐ人」、「この人」は光太郎自身です。

まさに飽くなき美の探求、そこに生涯をかける意志の表出ですが、それはどこまでいっても終わりのない道程でもあります。人生もとっくに後半生に入っていることを自覚し、残された時間で自分はどこまで進めるだろう、という、青年期の単なる無邪気な夢の追求では済まされない、悲壮感も読み取れます。

そしてそっくり我が身にも……と感じる今日この頃です(笑)。

静岡袋井「YUKIKO展(可睡齋の「活人剣物語」と地域の昔話他)」。

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今月はじめのこのブログで、光太郎の父・高村光雲が明治33年(1900)に制作し、太平洋戦争中の金属供出で無くなり、一昨年再建された静岡県袋井市の寺院「可睡斎(かすいさい)」の境内に建つ「活人剣の碑」に関して、その由来などを描いた紙芝居が出来たという報道をご紹介しました。

他の方のブログで情報を得ましたが、それに伴い、袋井市さんの市役所2階・市民ギャラリーで、その紙芝居原画展が始まっています。20日(火)までだそうです。

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YouTubeに動画もアップされていました。


「YUKIKO」さんは、本名・鈴木幸子さん。

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さらに袋井市さんのHPを調べてみましたところ、紙芝居「活人剣の物語」PDF版(PDF:1.6MB)ということで、全篇を見ることが出来るようになっていました。

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光雲作の初代「活人剣の碑」竣工の様子。光雲の名も出して下さっています。

ところが、金属供出で、台座のみになり、訪れる人もいなくなってしまったよ……的な場面。

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しかし、一昨年、地域に眠る日中友好の遺産に再び光を当てるべく、地元の人々の熱意で再建されました、というわけで……。

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碑の再建、紙芝居による啓蒙、その展示、こうした地味ながら地域の宝に光を当てる活動には、頭が下がります。

そして、金属供出などという馬鹿げた事態が起こらない、平和な世の中が続くことを祈ります。


【折々のことば・光太郎】

どんな豪雨や、 どんな突風にも、この消えずの火をまもつて、ぎつしり築いた、肉の歴史を未来に手渡す者は、 倒れる事によつてさへ罅隙をうづめる。

詩「消えずの火」より 昭和5年(1930) 光太郎48歳

この時期の光太郎同様、アナキストやプロレタリア文学者たちに近い位置にいた詩人・生田春月の追悼詞華集『海図』に寄せた詩です。

生田はさまざまな社会矛盾がアナーキズムやマルキシズムによって解決できないことから、次第に虚無思想的な方向に進み、この年、投身自殺を遂げました。一説には、同年だった芥川龍之介の自裁にも強い影響を受けたといいます。

倒れる事によつてさへ罅隙をうづめる」、つまり、生田の死を賭しての問題提起を無駄にするな、ということになりましょう。「罅隙」は「かげき」と読み、「裂け目、割れ目、亀裂」の意です。

企画展「下総御料牧場の記憶 ~第9代下総御料牧場長・田中二郎の残したアルバムを中心に~」。

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JR成田駅前の成田市芸術文化センタースカイタウンギャラリーで、以下の企画展が催されています。 

下総御料牧場の記憶 ~第9代下総御料牧場長・田中二郎の残したアルバムを中心に~

期   日  : 2017年6月3日(土)~6月25日(日)
会   場  : 成田市芸術文化センタースカイタウンギャラリー5F 千葉県成田市花崎町828-11
時   間  : 午前10時から午後5時
休  館  日 : 月曜日
料   金  : 無料
主   催  : 成田市 成田市教育委員会

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昨日の『朝日新聞』さんの千葉版に載った記事です。

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宮内庁下総御料牧場は、明治8年(1875)に開場した下総牧羊場を前身とし、同18年(1885)、宮内省(当時)直轄化。成田空港の建設工事に伴い、昭和44年(1969)に那須に移転するまで存続していました。

一帯は、成田空港や宅地となっていますが、航空写真を見ると、牧場だった頃の名残があちこちに見られます。この楕円形になっている道路などもその一つ(NHKさんの「ブラタモリ」のようですね(笑))。

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光太郎の親友だった作家の水野葉舟が大正13年(1924)にこの地に移り住み、昭和22年(1947)に亡くなるまで、牧場近くに住み続けました。葉舟は、元々、前年に光太郎が日本画家の山脇謙次郎のために建ててやった小屋に入り、その後、近くに自分で家を建てました。そうした縁もあり、光太郎も何度か御料牧場を訪れています。ただし、細かな年月日、何度訪れたかなどは現時点では不明です。

以前にもご紹介しましたが、光太郎は御料牧場を舞台に、詩「春駒」を作りました。

  春駒イメージ 12
 
三里塚の春は大きいよ。
見果てのつかない御料牧場(ごれうまきば)にうつすり
もうあさ緑の絨毯を敷きつめてしまひ、
雨ならけむるし露ならひかるし、
明方かけて一面に立てこめる杉の匂に、
しつとり掃除の出来た天地ふたつの風景の中へ
春が置くのは生きてゐる本物の春駒だ。
すつかり裸の野のけものの清浄さは、野性さは、愛くるしさは、
ああ、鬣に毛臭い生き物の香を靡かせて、
ただ一心に草を喰ふ。
かすむ地平にきらきらするのは
尾を振りみだして又駆ける
あの栗毛の三歳だらう。
のびやかな、素直な、うひうひしい、
高らかにも荒つぽい。
三里塚の春は大きいよ。


昭和52年(1977)には、この詩を刻んだ碑が、かつての御料牧場跡地に建てられた三里塚御料牧場記念館を含む三里塚記念公園内に除幕されました。

実は最近、大正時代に御料牧場の獣医師だった人物の御子孫(東京ご在住)から連絡がありました。光太郎と葉舟がかつて牧場内のその獣医師の官舎を何度か訪れ、別のご子孫のお宅に、光太郎関連の資料が遺っているとのこと。この秋に拝見するお約束をいたしました。もしかすると、前述の御料牧場を訪れた、細かな年月日、何度訪れたかなどの手がかりがつかめるかも知れません。

そうした関係もあり、もう一度、御料牧場について調べ始めた矢先に、この企画展。隣町ですので、早速、拝見して参りました。

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昭和17年(1942)から同39年(1964)にかけ、代9代の牧場長を務めた、故・田中二郎氏のアルバムから採った写真が中心で、光太郎が訪れた時期より下るものでしたが、興味深く拝見しました。

御料牧場ということで、皇室の方々もよくいらしていたようで、颯爽と馬にまたがる今上天皇の皇太子時代のお写真、美空ひばりさんやエンタツ・アチャコさんらが写っている同牧場での映画のロケでのスナップ(上記チラシ等に使われているもの・おそらく昭和25年=1950封切りの「青空天使」)などなど。

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前列左から4人目の少女が美空さん、その右隣が母親役の入江たか子さんです。後ろには牧場のサイロが写っています。

写真以外にも、動物彫刻家・池田勇八から田中が贈られた騎馬像なども展示されていました。池田は東京美術学校での光太郎の後輩に当たり、光太郎は文展や帝展の評では、池田の作品を比較的好意的に紹介しています。

牧場跡地の三里塚記念公園ともども、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

此世の表層(うはかは)をむき取るとこんなに世界は美しい

詩「“Die Welt ist schoen”」より 昭和5年(1930) 光太郎48歳

題名の「“Die Welt ist schoen”」は、「世界は美しい」の意の独語でイメージ 14
す。ドイツの写真家、アルベルト・レンゲル・パッチュがこの2年前に刊行した写真集の題名を転用しており、詩の中にもレンゲルに語りかける部分があります。

のちに光太郎自身も「世界は美し」という詩(昭和16年=1941)を書きましたし、表記を変えて揮毫したりもしています。右は今年2月に亡くなった、埼玉東松山市教育長、日本ウオーキング協会副会長だった田口弘氏に贈られた書です。

「美し」といえる世界であって欲しいものです。ところが、「美しい国、日本」はどこへやら、提唱者自身がこの国を踏みにじっているのが現状ですね(笑)。

大岡信さんを送る会。

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4月に亡くなった詩人の大岡信氏。『朝日新聞』に連載イメージ 1されていたコラム「折々のうた」などで、光太郎に触れて下さっていました。


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静岡三島の大岡信ことば館さん、大岡さんが永らく勤務されていた明治大学さん、そして大岡信研究会さんの主催で、追悼の集いが開催されます。

ご家族での密葬は既に終えられ、一般弔問者対象です。

大岡信さんを送る会

期    日 : 2017年6月28日(水)
時    間 : 18:00-20:00 (献花17:00~)
会    場 : 明治大学アカデミーホール(アカデミーコモン内3階) 千代田区神田駿河台1-1

プログラム
 司会 桜井洋子(アナウンサー)
 1.開会の辞:西川敏晴(各主催者を代表して大岡信研究会会長による挨拶)
 2.弔辞
   弔辞① 粟津則雄(文芸評論家、フランス文学者、いわき市立草野心平記念文学館長)
   弔辞② 菅野昭正(世田谷文学館館長、フランス文学者)
   弔辞③ 谷川俊太郎(詩人)
 3.在りし日の大岡信さん(映像)
 4.ピアノ演奏:一柳慧(作曲家 ピアニスト)
 5.大岡信の詩の朗読:白石加代子(女優)
 6.ジュリエット・グレコの歌(映像)
 7.「大岡信さんと明治大学」:土屋恵一郎(明治大学学長)
  8.お礼のことば:大岡かね子

一般のお客様もご参加いただけます。
参加ご希望の方は、平服でお越しください。会費はいただきません。
また供花、供物、御香典はすべてご辞退させていただきます。


谷川俊太郎さんをはじめ、錚々たるメンバーですね。大岡氏の功徳のほどが偲ばれます。かくありたいものです。


【折々のことば・光太郎】

腹をきめて時代の曝しものになつたのつぽの奴は黙つてゐる。 往来に立つて夜更けの大熊星をみてゐる。 別の事を考へてゐる。

詩「のつぽの奴は黙つてゐる」より 昭和5年(1930) 光太郎48歳

「のつぽの奴」は、身長180㌢超の光太郎です。詩の冒頭近くにも使われています。

親爺のうしろに並んでゐるのは何ですかな。へえ、あれが息子達ですか、四十面を下げてるぢやありませんか、何をしてるんでせう。へえ、やつぱり彫刻。ちつとも聞きませんな。(略)いやにのつぽな貧相な奴ですな。名人二代無し、とはよく言つたもんですな。

舞台は昭和3年(1928)4月16日、東京会館で行われた光太郎の父・高村光雲の喜寿祝賀会です。口さがない参会者のひそひそ話(だいぶ「盛っている」ような気がしますが)を引用しているという設定です。

光太郎にしてみれば、世間並みの栄達など、縁もなければ興味もありません。しかし、世間的にはそれでは通用しないわけで、確かにある種の「曝しもの」ですね。しかし、祝賀会からの帰り道、天極に輝く大熊座(北斗七星)を見上げ、その立ち位置を甘んじて受けようと覚悟を語っています。

大岡信さん曰く、

昭和の四、五年頃に「詩・現実」という雑誌に高村が詩を発表しているんです。あれは一種同伴者的な雑誌ですけど、あの中でこの種の高村の詩を見ると、むしろ一番急進的で左翼的なんです。迫力があります。断言のいさぎよさみたいなので、他の人のはインテリ的な口振りがつきまとうから、マルクス主義について言っても、アナーキズムについて言っても、どことなく間接的なんですけど、高村の詩が出てくると非常に強烈ですね。
(「討議 超越性に向かう詩人の方法 その生涯をつらぬいたもの」 『現代詩読本 高村光太郎』 昭和53年=1978 思潮社)

なるほど。

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