一昨日、杉並区立郷土博物館さん、台東区立中央図書館さんでの調査を終え、神保町の学士会館さんに向かいました。過日ご紹介した、
現代歌人協会さんの公開講座「高村光太郎の短歌」拝聴のためです。こちらに足を踏み入れたのは15年ぶり、平成14年(2002)に開催された当会顧問・北川太一先生の喜寿の祝賀会以来でした。
開会は18:00。この時点ではほぼ上がっていましたが、日中は豪雨でした。発表者の皆さん、だいぶ詳しく光太郎についてお調べ下さったようで、光太郎の究極の雨男ぶりから話が始まり、「今日、雨が降らなければ光太郎に認められていなかったことになったので、かえってよかった」と、会場の笑いを誘っていました。
メインの発表者は、歌人の松平盟子氏。「明星研究会」に加入されているそうで、連翹忌ご常連の与謝野夫妻研究家にして、お父様が光太郎と交流のあった
逸見久美先生とも親しくされているそうでした。生涯を通じて断続的に詠まれていた光太郎の短歌を、たくさん作られた時期に着目して3期に分け、それぞれ考察をご披露なさいました。
第一期は、与謝野夫妻の『明星』に依っていた明治33年(
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1900)~同40年(1907)。東京美術学校在学中から欧米留学の途中までにあたります。『明星』の星菫調エッセンスが色濃く、鉄幹晶子の代表作と目される短歌との類似点が目立つというお話。逆に、晶子の短歌に光太郎のそれを参照したのではないかと思われる作品もあるというお話も。なるほど、と思いました。
ちなみに触れられませんでしたが、詩集『道程』版元の抒情詩社社主・内藤策が、光太郎の窮乏を助ける意味合いもあって、『傑作歌選別輯 高村光太郎 与謝野晶子』(大正4年=1915)を編刊しています。絶大な人気だった晶子とのセットにすることで、売れ行きを期待したのでしょう。
第二期は、明治42年(1909)から翌年にかけて。欧米留学からの帰国後、「パンの会」の狂騒に巻き込まれ、たちまち自らも巻き起こす方に廻って、昨日もご紹介した吉原の娼妓・若太夫との恋愛などもあった時期です。松平氏は「疾風怒濤の時期」とおっしゃっていました。
松平氏が特に注目されていたのは、日本女性を徹底的にこき下ろした連作。
少女等よ眉に黛(すみ)ひけあめつちに爾の如く醜きはなし
女等(をみなら)は埃(あくた)にひとし手をひけばひかるるままにころぶおろかさ
海の上ふた月かけてふるさとに醜(しこ)のをとめらみると来にけり
太(ふと)ももの肉(しし)のあぶらのぷりぷりをもつをみなすら見ざるふるさと
などなど。
これらは、自立にはほど遠く、主体性も自我もまるでない当時の日本女性に対するあらわな失望、ひいては日本人全体、日本社会全般の前近代性に対する嘆きです。それを象徴的に、外見的にも内面的にも「美」を持つべき女性が、欧米(特にフランス)のそれと異なり、何らの「美」を持たざる現状への絶望として表現したともいえましょう。
そして第三期。復刊された『明星』に、木彫「蝉」を題材にした短歌などをごっそり発表した時期です。
松平氏もご指摘なさっていましたが、この時期の光太郎短歌は実に自由闊達。まあ、それ以前からそういう傾向はありましたが、特にそれが顕著なのがこの時期です。
鳴きをはるとすぐに飛び立ちみんみんは夕日のたまにぶつかりにけり
はだか身のやもりのからだ透きとほり窓のがらすに月かたぶきぬ
ただ、智恵子の心の病が顕在化し、その中で詠まれた悲痛な作もこの時期に入ります。
そして、統括。光太郎の短歌は、日常語をうまく駆使し、折々の感情、感覚、喜怒哀楽を自由気ままに表現している、との説には、同感します。
そのあたりを聞きながら、詩よりもその傾向が強いな、と思いました。松平氏も引用されていましたが、光太郎、「詩に燃えてゐる自分も短歌を書くと又子供のやうにうれしくなる」(「近状」大正13年=1924)と述べています。
昭和14年(1929)に書かれた散文「自分と詩との関係」によれば、光太郎にとっての詩は「彫刻の範囲を逸した表現上の欲望」によって彫刻が「文学的になり、何かを物語」るのを避けるため、また「彫刻に他の分子の夾雑して来るのを防ぐため」に書かれた「安全弁」だというのです。謎めいた題名やいわくありげなポーズに頼る文学的な彫刻(青年期には光太郎もそういう彫刻を作っていましたが)ではなく、純粋に造型美を表現する彫刻を作るため、自分の内面の鬱屈などは詩として吐き出すというわけです。
しかし、詩は雑誌などの寄稿依頼によって書かれることが多く、そうなると、そこに「責任」が生じます。注文主の意向を忖度して、思ってもいないことを書く光太郎ではありませんが、さりとて、「自由気ままに」とは行かない部分も多かったのではないでしょうか。光太郎が自作の詩に「責任」を感じていたことは、ほとんどの詩の草稿を手控え原稿として手元に残していたことからも読み取れます。
ところが、短歌や俳句に関しては、手控えの原稿は残しませんでした。
おてがミ拝見しましたが小生歌集を出す気にはなりません。歌は随時よみすてゝゆきます。書きとめてもありません。うたは呼吸のやうなものですから、その方が頭がらくです。
同様の記述は他にも見られます。しかし、昭和22年(1947)には、歌集『白斧』が上梓されました。ただし、これは光太郎の姻戚・宮崎稔が光太郎の承諾なしに出版してしまったものです。
「うたは呼吸のやうなもの」、まさに光太郎のスタンスが見て取れます。ちなみに「詩はボクの日記のみたいなもの」(「“詩だけはやめぬ”」 昭和27年=1952)だそうで、「日記」と「呼吸」、やはり「呼吸」の方がより根源的ですね。
その後、やはり歌人の染野太朗氏、渡英子氏が、それぞれお気に入りの光太郎短歌を紹介しつつ、考察を披瀝、最後はお三方による討論形式で終わりました。
それぞれに歌人としての捉え方にはやはり鋭いものがあるな、と感心しきりでした。
これまで、光太郎の短歌はあまり注目されてきませんでした。以前にも書きましたが、この手の伝統文化系は、光太郎に限らずそれ専門の人物でないとなかなか取り上げられない傾向を感じています。それなりに数も遺され、優れた作品も多いと思うのですが、短歌雑誌、俳句雑誌での「光太郎特集号」というのは見たことがありません。せいぜい短い論評がなされる程度です。いったいに短歌雑誌、俳句雑誌の類は派閥・流派の匂いがぷんぷん漂っており、そこに属さない者、ましてや本職の歌人・俳人でない者は無視、という傾向が感じられます。
そうした意味で、今回、現代歌人協会さんとして、光太郎以外にもいわゆる専門歌人以外の著名人の短歌について話し合ってみたいとのことで、この講座が持たれているのは、これまでの状態に風穴が開いたわけで、画期的だな、と思いました。こうした傾向が一過性でなく、定着して欲しいものです。
ちなみにもっと光太郎の短歌、俳句に注目して欲しいと思い、このブログでは昨年1年間・366日(閏年でしたので)、一日一首(一句)ずつ、【折々の歌と句・光太郎】というコーナーを作って光太郎の短歌・俳句など(川柳や仏足石歌なども)紹介しました。366日分、お読みいただければ幸いです(笑)。
【折々のことば・光太郎】
売る事の理不尽、購ひ得るものは所有し得る者、 所有は隔離、美の監禁に手渡すもの、我。
詩「美の監禁に手渡す者」より 昭和6年(1931)
プロレタリア文学者やアナーキスト達と近い位置にいた光太郎ですが、その生活は、彫刻を買ってくれたり、肖像制作を注文したりしてくれる者――多くは光太郎の嫌いな、俗世間での成功者――に支えられていました。その家柄ゆえ、生涯に一枚も絵を売らずに生活できたという画家・有島生馬などとは、根本的なところで違うのです。
この矛盾は結局解消されないまま、重く光太郎にのしかかりました。悲劇ですね。いや、お釈迦様の手のひらで暴れている孫悟空のような喜劇かも知れません。そこで一首。
あながちに悲劇喜劇のふたくさの此世とおもはず吾もなまづも
やはり昭和6年(1931)の作で、木彫「鯰」を収める袱紗(ふくさ)にしたためられた短歌です。