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花巻市「(仮称)西南道の駅」。

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一昨日の地方紙『岩手日日』さんに載った記事です。 

西南に「道の駅」構想 花巻 県道盛岡和賀線市内4番目 20年度開業目指す

 花巻市太田、笹間両地区を合わせた「西南イメージ 1地区」を南北に貫く県道盛岡和賀線で、新たな「道の駅」の整備が検討されている。花巻市の基本構想では、2020年度の開業を目指しており、実現すれば市内では石鳥谷町の「石鳥谷」、大迫町の「はやちね」、東和町の「とうわ」に続く4番目の施設になる。
 同線は、花巻市を挟んで盛岡、北上両市を結ぶ幹線道路。国道4号を補完する物流路線や緊急輸送時の2次路線などとして重要な役割を担っているものの、沿線沿いには休憩施設がなく、地元からは商業施設や生活利便施設としての機能も視野に整備を望む声が寄せられていた。
 10年の道路交通センサスによると、同線の平日1日当たりの交通量は最大で2万1603台。両地区は東北道花巻南インターチェンジ(IC)から約4・6キロ、花巻温泉や台温泉、花巻南温泉峡といった温泉地からも10キロ圏内と恵まれた立地の一方、地域にとっては商業施設がないことや飲食店が少ないことが課題となっている。
 加えて西南地区は合併前の旧花巻市地域で最も人口・世帯数が少なく、活性化への課題もあることから、地域資源としての同線に着目。高村光太郎ら地元ゆかりの偉人の話題も多い花巻の文化・観光情報や農作業体験情報の提供のほか、万一に備えた防災拠点、宅配・給食・見守りサービスなどの拠点としての機能も含めた整備が検討されている。
 地域住民らとの協議も踏まえて市がまとめた基本構想では▽農業と地域コミュニティの交流拠点▽市の人・もの・情報の交流拠点▽ホンモノに出会える体験情報の発信―の3点を基本方針に設定。今後は基本計画や基本設計、管理運営体制の検討などが進められる見通しだ。
 地元住民で組織する西南地域振興協議会の本舘憲一会長は「施設整備後の管理運営が重要。構想は練られたが、実務をどうするのか。地元で取り組むことになるので、これから組織の立ち上げを本格的に進めたい」と意欲を示している。


というわけで、光太郎が昭和20年(1945)秋から7年間を過ごした旧太田村(現・花巻市太田)の山小屋(高村山荘)にほど近い場所に、新たな道の駅が作られるという報道です。

昨年あたりから計画が具体化、花巻市さんや岩手県さんのサイトにもぽつりぽつり情報が出ています。この計画は花巻高村光太郎記念会さんにも早くから伝えられており、道の駅内に光太郎に関するコーナーを設置するという話もあるようです。

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高村山荘と、隣接する高村光太郎記念館、入場者数の部分では苦戦しているそうですが、花巻市街から遠いこと、周辺に他の観光施設がまったくないことなどもその原因でしょう。

ここで新たな道の駅ができることで、高村山荘・高村光太郎記念館への新たな導線となることが期待されます。

道の駅が静かなブームで、当方の生活圏にもいくつか作られました。しかし、明暗が分かれています。やはり他にはない特徴を前面に押し出し、施設設備の部分でも充実しているところは勝ち組となっています。そうでないところは単なるトイレ休憩所的な……。

花巻西南に新たに作られる道の駅が、にぎわうことを切に祈念いたします。


【折々のことば・光太郎】

否、人はロボツトぢやない。 否、社会は機関車ぢやない。 否、個人は鋲や歯車ぢやない。            
詩「機械、否、然り」より 昭和5年(1930) 光太郎48歳

人を人として扱わない、強欲な資本主義社会への痛烈な批判です。この頃の光太郎の立ち位置をよく表しています。

「ロボット」の語は、1921年にチェコの作家、カレル・チャペックが創出したとされています。光太郎のこの詩は、我が国における「ロボット」の語のかなり早い使用例と思われます。

横濱エアジン 荒野愛子トリオ 「~ヨーロピアンジャズ~◆高村光太郎と中原中也に寄せて」。

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ピアニストの荒野(こうの)愛子さん。これまで『智恵子抄』からのインスパイア的なオリジナル曲を作られ、CDをリリースなさったり、コンサートで取り上げて下さったりしている方です。

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昨年も横浜戸塚で「Aiko Kono Ensemble Sala MASAKA × PETROF 特別コンサート」を開催され、当方も拝聴して参りました。その際は、クラリネットの新實紗季さん、ヴァイオリンで藤田有希とのコラボで、光太郎と中原中也の詩へのオマージュ的なプログラムでした。

最近は老舗ジャズライブハウス・横濱エアジンさんにもご出演。4月にはヴォーカル・鈴木典子さん、ヴァイオリンの西田けんたろうさんとのセッション「plays SONGS, sings SCENES」で、中也作品を取り上げられました。これまでと違い、インストゥルメンタルではなく、さまざまな方向性をさぐってらっしゃるようです。


来月初めにも、同じ横濱エアジンさんのライブにご出演されます。 

~ヨーロピアンジャズ~◆高村光太郎と中原中也に寄せて 

期   日 : 2017年7月2日(日)
時   間 : 19:30~
場   所 : 横濱エアジン 横浜市中区住吉町5-60
出   演 : 荒野愛子 Piano, Composition   鴻野暁司 Bass   吉島智仁 Drums

今回はまたインストで、ほぼほぼ純粋にジャズ系のようですが、どのようなコンポジションになるのか、興味深いところです。日程的に都合がつけば参上するつもりでおります。

昨今、静かに「文豪」ブームでして、こういう切り口からも「文豪」の世界がひろがることを期待します。


【折々のことば・光太郎】

君は見るだらう 僕が逆境の友を多く持ち順境の友をどしどし失ふのを なぜだらう 逆風の時に持つてゐた魂を順風と共に棄てる人間が多いからだ

詩「友よ」より 昭和5年(1930) 光太郎48歳

順風の時だけお互い利用し合い、逆風が吹き始めると手のひらを返してばっさり切り捨てる、真逆の人が多いですね。特に永田町界隈に(笑)。

碌山美術館夏季企画展示「高村光太郎編訳『ロダンの言葉』展 編訳と高村光太郎」。

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信州安曇野の碌山美術館さんでの展示情報です。 

夏季企画展示 高村光太郎編訳『ロダンの言葉』展 編訳と高村光太郎

期   日 : 2017年7月1日(土)~9月3日(日) 無休
会   場 : 碌山美術館 長野県安曇野市穂高5095-1 第二展示棟
時   間 : AM9:00~PM5:10
料   金 : 大人 700円(600円)  高校生 300円(250円) 小中学生 150円(100円)  ( )内20名以上団体料金 
           ホームページ特別割引あり

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日本近代彫刻の先駆・荻原守衛(碌山 1879-1910)が師と仰いだオーギュスト・ロダン(1840-1917)の歿後100年にあたり、高村光太郎編訳 『ロダンの言葉』 (1916年刊)を紹介する企画展を開催いたします。
書籍『ロダンの言葉』は、ロダンに関するさまざまな外国語文献を高村が翻訳・編集したものです。通常ありがちな芸術家の伝記ではなく、ロダンが芸術について話した言葉を集めたもので、意味深い名言にあふれています。「地上はすべて美しい、汝等はすべて美しい」「宗教なしには、芸術なしには、自然に対する愛なしには-此の三つの言葉は私にとつて同意味であるが-人間は退屈で死ぬだらう」「彫刻に独創はいらない、生命がいる」等々。これらは、芸術の真髄を言い得た金言であり、読む者の心をふるわせずにはおきません。『ロダンの言葉』を読んで、その感動から彫刻を志した者も少なくなかったといいます。刊行以来100年の月日を経ても今なお、芸術を見る者、考える者にとって、味わい深く、示唆に富む、大変魅力的な著作です。これを機に、一人でも多くの方が、ロダンの芸術館にふれるとともに、芸術とりわけ彫刻への理解を深めていただくことを願って本企画展を開催いたします。

展示書籍
Auguste Rodin,Les Catbédrales de Frame, Librairie Annand Colin,Paris,1914. / L'Art,Entretlens Rénnis par Paul Gsell,Bernard Êditeur,Paris,1911 / Camille Mauclair,Auguste Rodin,The Man-His Ideas-His works,trans.by Clementina Black, Duckworth and Co., London,1905 他

展示作家
 高村光太郎《腕》 戸張孤雁《男の胴》 中原悌二郎《老人》 荻原守衛(碌山)《坑夫》(石膏複製)
 カミーユ・クローデル《ロダン》 オーギュスト・ロダン《鼻欠けの男》(石膏複製) 他


同館では、昨夏、「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」を開催して下さいまして、当方、関連行事としての講演を務めさせていただきました。今回は「特別」がつかない企画展で、会場も第二展示棟のみ、昨年のものよりはこぢんまりと開催されます。関連行事、図録の発行もないようです。

光太郎とロダンがらみの資料で、展示にお貸しできるものをリストアップして同館に送りました。初版の『ロダンの言葉』正続(大正5年=1916、同9年=1920)、普及版の『ロダンの言葉』正続(昭和12年=1937の最終版)、評伝『ロダン』(昭和2年=1927)などなど。

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ところが、そのあたりの光太郎生前のものは不要、逆に新しめのものを貸してくれとのことで、昭和34年(1959)の新潮文庫版『ロダンの言葉』正続、平成17年(2005)の沖積舎復刻正続合本『ロダンの言葉』、同19年(2007)の講談社文芸文庫版『ロダンの言葉』をお貸ししました。

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調べてみましたところ、新潮文庫版はもとより、平成の沖積舎版、講談社文芸文庫版すら既に絶版になっています。他に岩波文庫でも『ロダンの言葉抄』(初版・昭和35年=1960)が出ていましたが、そちらも版を断っています。

ということは、『ロダンの言葉』を入手したければ、もはや古書で購入するしかないわけで、なんだかなぁ、という感じです。昔の美術家の卵にはバイブルに等しい扱い、美術史上の金字塔的著作だったのですが、昨今の美大生などはもしかすると、「『ロダンの言葉』? 何、それ?」という状態なのかも知れません。

そういうわけで、とりわけ若い世代の方々にご覧頂きたいものです。

始まりましたらなるべく早く行って、レポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

方式は簡単すぎて児戯に類する

詩「一艘の船が二艘になること」より 昭和5年(1930) 光太郎48歳

ロダンの芸術なども、「自然」に学ぶ抽象無視、という意味では、簡単すぎる方式です。しかし、ひねりにひねったり、やかましい様式の約束事に縛られたりで、かえって自然から離れ、生命観を喪失してしまっていた当時の芸術界においては、ロダン芸術の出現は、ある意味革命的でした。

その魂を受け継いだ光太郎や碌山荻原守衛、そしてさらに彼らの系譜を受け継いだ後身の作家たち。やはりそういう流れを理解することも大切だと思います。

「<ひと物語>新たな木彫 今を刻む 彫刻師・宮本裕太さん」。

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一昨日の『東京新聞』さん、埼玉版に載った記事です。 

<ひと物語>新たな木彫 今を刻む 彫刻師・宮本裕太さん

 小鹿野町長留の山あいにある工房。彫刻師のイメージ 2宮本裕太さん(30)は、真剣な面持ちで木彫作品二点の仕上がりを確認する。一つは南国の花プルメリア、もうひとつは観葉植物のモンステラとパイナップルの実がモチーフだ。

 いずれも縦四十六センチ、横幅百六十センチ。人の背丈ほどの大きな壁掛け。「ハワイの別荘向けに」と、東京在住の米国人と日本人の夫婦から注文を受けた。これまで手掛けてきた大黒天の座像やフクロウの置物とはだいぶ趣が異なる。

 「今回の壁掛けは洋間に飾るということもあり、デザインを工夫してみた。こうした作品がこれからのニーズなのかも」。宮本さんは確かな手応えを感じ取った。

 宮本さんが彫刻に関心を持ったのは中学生のとき。テレビ番組で彫刻家高村光太郎の作品「鯰(なまず)」を目にしたのがきっかけだ。「表情がとってもいきいきしている」。将来に向けた明確な目標を決められなかった宮本さんの頭に、彫刻師の道が浮かんだ。

 インターネットで情報を収集し、高校卒業後に富山県南砺市の彫刻師野村清宝さんに弟子入りした。南砺市は精緻な作風で名高い「井波彫刻」のお膝元。そこかしこが彫刻作品に彩られた工芸の町だ。六年間、師匠方に住み込み修業に打ち込んだ。「とにかく経験を積むよう諭された」。独立したのは二〇一一年のことだ。

 木彫はさまざまな工程の積み重ねだ。図案や寸法を決めて、糸のこぎりで大まかな形を切り抜く。のみで形を整えて、小道具や彫刻刀で仕上げる。途中、何度も木を乾燥させる必要があり、数年がかりで取り組む作品もある。

 注文の多くはインターネット経由だ。住宅事情を反映してか、かもいを飾る「欄間」は減り、ウサギやネコの置物や植物のレリーフなどが好まれる。依頼主は主に関東から九州まで。東日本大震災の津波で流されたとして、宮城県の寺からはりを飾る作品のオーダーを受けたこともある。

 宮本さんがいま気に掛けているのは、木彫技術の担い手が少なくなっていること。弟子入りする若者が減っているほか、せっかく独立しても彫刻を断念してしまう人もいる。自ら若手を育成したいとの思いも募る。

 「後継者が少なくなっているからこそ、魅力的な作品が必要。大きな壁掛けや洋風の洒脱(しゃだつ)なデザインなど、いろいろと挑戦していきたい」と見通しを語る。 (出来田敬司)

<みやもと・ゆうた> 小鹿野町生まれ。町立長若中を経て、県立秩父農工科学高電子機械科卒。富山県南砺市の彫刻師野村清宝さんのもとで木彫を習得する。2011年から小鹿野町内で「宮本彫刻」を主宰し、欄間、壁掛け、祭礼用品などを手掛ける。問い合わせ先は宮本彫刻=電0494(75)2276=へ。


現代の若手木彫家の紹介です。なんとまあ、この世界に入ったきっかけが、中学生の時に光太郎の木彫「鯰」をテレビ番組で見たことだそうで、驚きです。

現在30歳の方が中学生だったときで、光太郎の木彫「鯰」……おそらく、テレビ東京さん系の長寿番組「美の巨人たち」でしょう。平成13年(2001)の7月21日に、「鯰」がメインで取り上げられました。

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この番組では、光太郎をメインに扱ったのは3回あり、その最初のものでした(ブロンズ「手」が平成19年=2007、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が平成23年=2011)。

光太郎の簡単な評伝的部分もありました。海外留学でロダンをはじめとする「本物」を見てしまったがゆえの、父・高村光雲との葛藤……。

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幼い頃から光雲に叩き込まれた木彫と、西洋で学んだ塑像彫刻のエスキスとの融合をはからんとする苦闘。その中で「鯰」が生まれたこと、そのために智恵子との生活が犠牲にされたことなど。

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放映当時、神奈川県立近代美術館長だった酒井忠康氏、平成26年(2014)に亡くなった、故・高村規氏などもコメンテーターとしてご出演なさっていました。

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久しぶりに録画を見返してみましたが、いい作りでした。それにしても、これを見て彫刻家を志した方がいらっしゃるとは、少し驚きました。昨日のこのブログで、昔の美術家の卵は、光太郎編訳の『ロダンの言葉』を読んで美術家を志したと書きましたが、現代は美術番組を見て、というのがあるのですね。当方も時折テレビの仕事のお手伝いをさせていただいていますが、責任重大だな、と思いました。

それにしても、記事にある宮本さん、注文の多くはネット経由だそうで、こういうところにも時代の変化を感じます。

今後とも、光太郎の魂を受け継いでのさらなるご活躍を祈念いたします。


【折々のことば・光太郎】

わたくしは此の五分の隙もない貪婪のかたまりを縦横に見て 一片の弧線をも見落さないやうに写生する このグロテスクな顔面に刻まれた日本帝国資本主義発展の全実歴を記録する 九十一歳の鯰よ わたくしの欲するのはあなたの厭がるその残酷な似顔ですよ
詩「似顔」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

ここにも「鯰」が登場しますが、ここで作っているのは魚の鯰ではなく、鯰のようにグロテスクな人物――戊申戦役の頃から薩長に取り入って財をなし、大倉財閥を興した大倉喜八郎――の肖像です。少し前のこのコーナーで、大正11年(1922)の「信濃川朝鮮人虐殺事件」をちらっと紹介しましたが、この事件の加害者も被害者も大倉組の関係者でした。この時期、プロレタリア文学者やアナーキスト達と近い位置にいた光太郎にとって、大倉などは不倶戴天の敵です。

それがどうして肖像彫刻を作るはめになったかというと、間に光雲が介在しています。大倉は自身と妻の肖像彫刻を光雲に依頼したのですが、光雲は肖像彫刻をやや苦手としていました。そこで、他にも法隆寺管長・佐伯定胤の像(昭和5年=1930)などもそうでしたが、まず粘土で光太郎が原型を制作、光雲がそれを元に木で彫るという方式を採っていました。

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左が光太郎の原型から取ったブロンズ、右が光雲の彫った木彫の大倉像です。

光雲の手にかかると、ロダンから学んだ光太郎の荒々しいタッチも影を潜め、大倉の表情も好々爺然としてしまっていますね。まさしく今大流行の「忖度」です(笑)。

光太郎としては、それがまた気に入りません。しかし、光雲の下職仕事は大切な収入源でもあり、廻してくれる光雲の親心も痛いほどわかります。

生きていくことのつらさがにじみ出ているエピソードですね。

都内レポートその1 杉並区立郷土博物館/台東区立中央図書館。

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昨日は、都内3ヶ所を廻っておりました。神田の学士会館で開催された現代歌人協会さんの公開講座「高村光太郎の短歌」が昨日18時からでしたので、それが始まる前に、同じ都内で懸案事項の調査を、と考えました。

まず向かったのが、杉並区立郷土博物館さん。

ちなみに京王線の永福町駅から歩きましたが、同駅コンコースに、光太郎を敬愛していた佐藤忠良のブロンズがあって、「おお」、と思いました。佐藤のアトリエが近くにあったということでした。

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遠目で一瞬目に入っただけで、佐藤の彫刻と分かります。これは同じく光太郎を敬愛していた舟越保武のそれにしてもそうです。個性の発露なのでしょう。

さて、郷土博物館さん。古民家の長屋門を正門に転用しています。


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こちらに最近、思想家の江渡狄嶺関連の資料がご遺族から寄贈され、その中に光太郎から江渡の子息に送られた書簡(『高村光太郎全集』等未収録)が含まれているという情報を得まして、拝見に伺った次第です。

江渡は光太郎より3歳年長、青森五戸の出身で、トルストイやクロポトキンの思想に影響を受け、東京帝国大学を中退し、まず世田谷に「百姓愛道場」、続いて高円寺に「三蔦苑」という農場を開いて、「農」に軸足を置いた生活に入ります。そして品川平塚村や成田三里塚で同様の生活に入った水野葉舟の縁で、光太郎と知り合い、交流を深めました。

大正10年(1921)には、江渡の長男をはじめ、幼くして亡くなった子供達の納骨堂を兼ねた集会所「可愛御堂」が三蔦苑内に建てられましたが、その設計は光太郎が担当しました。

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大正9年(1920)の『東京朝日新聞』の記事です。

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こちらが可愛御堂。昭和34年(1959)まで現存していたそうです。

また、昭和20年(1945)4月13日の空襲で、駒込林町のアトリエを失った光太郎、しばらく近くにあった妹の婚家に身を寄せていましたが、5月3日に三蔦苑を訪れ、リヤカーを借りています。それを使って延々茨城取手まで荷物を運び、そこから花巻の宮沢賢治の実家に疎開しました。前年に江渡は亡くなっていましたが、江渡の妻・ミキが対応してくれたようで、光太郎は礼にと、空襲前に運び出していたブロンズの「老人の首」を贈っています。これはミキが東京国立博物館に寄贈、現在も時折展示されているものです。

江渡夫妻に関し、光太郎は大正15年(1926)、雑誌『婦人の国』に発表した「与謝野寛氏と江渡狄嶺氏の家庭」というエッセイで、詳しく述べています。長くなるので全文は紹介しませんが、「しみじみと噛みしめるやうな古淡な味いを持つた人達」、「このお二人は、二人の見つめてゐるものが常に同じでそして変らない」、「まことに美しい、しつかりした結ばれです。ただ逢つてみるだけで自分を豊富にされるやうな気のする人たちです。」等々、手放しで賛美しています。

昨日、郷土博物館さんで拝見した書簡は、昭和20年(1945)1月3日付、江渡の次男・復にあてた封書で、前年暮れに江渡が急逝し、そのお悔やみを述べており、飾らない真摯な言葉で、心打たれます。「すぎなみ学倶楽部」さんという団体のサイトに、書面の画像が載っています。

他の光太郎書簡も同館に寄贈されているかと思いましたが、これ一通でした(江渡本人に送った書簡は既に『高村光太郎全集』に収録されています)。ただ、昨日は上記サイトに記述がなかった封筒も拝見させていただけました。光太郎の住所氏名電話番号が印刷されていました。よく見るとその脇に空押しで「三越」の二字。三越百貨店でのオーダーメイドのようです。三越さんではそんなこともやっていったのですね。

かつてあった江渡狄嶺研究会という組織、それからミキが書き残したものなどに、光太郎に関する記述がけっこうあるようで、光太郎と江渡夫妻に関しては、今後の研究課題としておきます。


三蔦苑跡も、館からさほど遠くはないようなのですが、昨日の東京は豪雨でして、そちらはまたのちの機会にと思い、次なる目的地、台東区立中央図書館さんを目指しました。

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まず、このブログで過日ご紹介した、企画展示「台東区博物館ことはじめ」を拝見。

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光太郎の父・光雲が深く関わった内国勧業博覧会に関し、明治初期の錦絵や、関連書籍をまとめて置いて下さってあり、興味深く拝見しました。

それから、同じフロアで吉原遊郭関連の資料もまとめられているという情報を得ていましたので、そちらを調べるのも目的でした。

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光太郎は欧米留学からの帰朝後、明治43年(1910)、吉原河内楼の娼妓・若太夫と懇ろになり、彼女を「モナ・リザ」と呼び、「失はれたるモナ・リザ」「地上のモナ・リザ」などの詩を書きました。それを読んだ作家の木村荘太(光太郎とともにヒユウザン会を立ち上げた画家・木村荘八の兄)が若太夫にちょっかいを出し、三角関係、決闘騒ぎなどとなります。結局、若太夫は木村を取りますが、年季が明けた後、郷里の名古屋に帰り、木村ともそれっきりでした。そのあたりは木村の自伝的小説『魔の宴』(昭和25年=1950)に詳しく書かれています。

この若太夫、そして河内楼について、調べました。特に、光太郎が「モナ・リザ」と呼んだ彼女の写真等を見つけたいと思っているのですが、なかなか見つかりません。

『新吉原細見』という、遊郭全体の在籍女性のリストが発行されており、そこに写真が載っている娼妓もいます。こちらは明治34年(1901)、光太郎が通う10年前のものです。

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巻頭のグラビア的なページに、何人かの写真がピックアップされて載っています。左は河内楼の「小町」。

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右は当方が以前から持っている明治24年(1891)発行の石版画で、やはり河内楼の「しら露」。上記細見にも「白露」の名がありますが、同一人物か、先代か、はっきりしません。

こんな感じで若太夫を探していますが、結局、明治43年(1910)前後の細見が所蔵されておらず、昨日も見つけられませんでした。一番近いものでも上記の同34年のものでした。

その代わりゲットできた、絵図の画像、地図、河内楼の写真など。

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下記はこれも当方が以前から持っている河内楼の古絵葉書。宛名面の様式から、明治40年(1907)~大正6年(1917)のものと判定できます。破風の形が上記写真とも一致しています。

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この若太夫、河内楼についても、継続的に調べていこうと思っております。


その後、神保町の学士会館で、公開講座「高村光太郎の短歌」を拝聴しましたが、そちらは明日、レポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

耕す者の手を耕す者にかへせ。 太陽を売らんとする者よ滅べ。

詩「不許士商入山門」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

江渡や水野葉舟ら、「農」に軸足を置いた友人知己を限りなく敬愛していた光太郎。農民の手から鋤や鍬を取り上げ、代わりに銃器を持たせる徴兵制への抗議とも取れます。

ほどなく、智恵子の心の病の顕在化と、その死に伴い、その空虚感を埋めるがごとく、翼賛側に転向していくのですが……。

都内レポートその2 現代歌人協会公開講座「高村光太郎の短歌」。

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一昨日、杉並区立郷土博物館さん、台東区立中央図書館さんでの調査を終え、神保町の学士会館さんに向かいました。過日ご紹介した、現代歌人協会さんの公開講座「高村光太郎の短歌」拝聴のためです。こちらに足を踏み入れたのは15年ぶり、平成14年(2002)に開催された当会顧問・北川太一先生の喜寿の祝賀会以来でした。

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開会は18:00。この時点ではほぼ上がっていましたが、日中は豪雨でした。発表者の皆さん、だいぶ詳しく光太郎についてお調べ下さったようで、光太郎の究極の雨男ぶりから話が始まり、「今日、雨が降らなければ光太郎に認められていなかったことになったので、かえってよかった」と、会場の笑いを誘っていました。

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メインの発表者は、歌人の松平盟子氏。「明星研究会」に加入されているそうで、連翹忌ご常連の与謝野夫妻研究家にして、お父様が光太郎と交流のあった逸見久美先生とも親しくされているそうでした。生涯を通じて断続的に詠まれていた光太郎の短歌を、たくさん作られた時期に着目して3期に分け、それぞれ考察をご披露なさいました。

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第一期は、与謝野夫妻の『明星』に依っていた明治33年(イメージ 21900)~同40年(1907)。東京美術学校在学中から欧米留学の途中までにあたります。『明星』の星菫調エッセンスが色濃く、鉄幹晶子の代表作と目される短歌との類似点が目立つというお話。逆に、晶子の短歌に光太郎のそれを参照したのではないかと思われる作品もあるというお話も。なるほど、と思いました。

ちなみに触れられませんでしたが、詩集『道程』版元の抒情詩社社主・内藤策が、光太郎の窮乏を助ける意味合いもあって、『傑作歌選別輯 高村光太郎 与謝野晶子』(大正4年=1915)を編刊しています。絶大な人気だった晶子とのセットにすることで、売れ行きを期待したのでしょう。

第二期は、明治42年(1909)から翌年にかけて。欧米留学からの帰国後、「パンの会」の狂騒に巻き込まれ、たちまち自らも巻き起こす方に廻って、昨日もご紹介した吉原の娼妓・若太夫との恋愛などもあった時期です。松平氏は「疾風怒濤の時期」とおっしゃっていました。

松平氏が特に注目されていたのは、日本女性を徹底的にこき下ろした連作。

少女等よ眉に黛(すみ)ひけあめつちに爾の如く醜きはなし
女等(をみなら)は埃(あくた)にひとし手をひけばひかるるままにころぶおろかさ
海の上ふた月かけてふるさとに醜(しこ)のをとめらみると来にけり
太(ふと)ももの肉(しし)のあぶらのぷりぷりをもつをみなすら見ざるふるさと

などなど。

これらは、自立にはほど遠く、主体性も自我もまるでない当時の日本女性に対するあらわな失望、ひいては日本人全体、日本社会全般の前近代性に対する嘆きです。それを象徴的に、外見的にも内面的にも「美」を持つべき女性が、欧米(特にフランス)のそれと異なり、何らの「美」を持たざる現状への絶望として表現したともいえましょう。

そして第三期。復刊された『明星』に、木彫「蝉」を題材にした短歌などをごっそり発表した時期です。

松平氏もご指摘なさっていましたが、この時期の光太郎短歌は実に自由闊達。まあ、それ以前からそういう傾向はありましたが、特にそれが顕著なのがこの時期です。

鳴きをはるとすぐに飛び立ちみんみんは夕日のたまにぶつかりにけり
はだか身のやもりのからだ透きとほり窓のがらすに月かたぶきぬ

ただ、智恵子の心の病が顕在化し、その中で詠まれた悲痛な作もこの時期に入ります。

そして、統括。光太郎の短歌は、日常語をうまく駆使し、折々の感情、感覚、喜怒哀楽を自由気ままに表現している、との説には、同感します。

そのあたりを聞きながら、詩よりもその傾向が強いな、と思いました。松平氏も引用されていましたが、光太郎、「詩に燃えてゐる自分も短歌を書くと又子供のやうにうれしくなる」(「近状」大正13年=1924)と述べています。

昭和14年(1929)に書かれた散文「自分と詩との関係」によれば、光太郎にとっての詩は「彫刻の範囲を逸した表現上の欲望」によって彫刻が「文学的になり、何かを物語」るのを避けるため、また「彫刻に他の分子の夾雑して来るのを防ぐため」に書かれた「安全弁」だというのです。謎めいた題名やいわくありげなポーズに頼る文学的な彫刻(青年期には光太郎もそういう彫刻を作っていましたが)ではなく、純粋に造型美を表現する彫刻を作るため、自分の内面の鬱屈などは詩として吐き出すというわけです。

しかし、詩は雑誌などの寄稿依頼によって書かれることが多く、そうなると、そこに「責任」が生じます。注文主の意向を忖度して、思ってもいないことを書く光太郎ではありませんが、さりとて、「自由気ままに」とは行かない部分も多かったのではないでしょうか。光太郎が自作の詩に「責任」を感じていたことは、ほとんどの詩の草稿を手控え原稿として手元に残していたことからも読み取れます。

ところが、短歌や俳句に関しては、手控えの原稿は残しませんでした。

昨年、切手の博物館さんで開催された、開館20周年記念特別展<秋>「著名人の切手と手紙」で展示された光太郎書簡(昭和21年=1946)に、以下の記述がありました。

おてがミ拝見しましたが小生歌集を出す気にはなりません。歌は随時よみすてゝゆきます。書きとめてもありません。うたは呼吸のやうなものですから、その方が頭がらくです。

同様の記述は他にも見られます。しかし、昭和22年(1947)には、歌集『白斧』が上梓されました。ただし、これは光太郎の姻戚・宮崎稔が光太郎の承諾なしに出版してしまったものです。

うたは呼吸のやうなもの」、まさに光太郎のスタンスが見て取れます。ちなみに「詩はボクの日記のみたいなもの」(「“詩だけはやめぬ”」 昭和27年=1952)だそうで、「日記」と「呼吸」、やはり「呼吸」の方がより根源的ですね。


その後、やはり歌人の染野太朗氏、渡英子氏が、それぞれお気に入りの光太郎短歌を紹介しつつ、考察を披瀝、最後はお三方による討論形式で終わりました。

それぞれに歌人としての捉え方にはやはり鋭いものがあるな、と感心しきりでした。

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これまで、光太郎の短歌はあまり注目されてきませんでした。以前にも書きましたが、この手の伝統文化系は、光太郎に限らずそれ専門の人物でないとなかなか取り上げられない傾向を感じています。それなりに数も遺され、優れた作品も多いと思うのですが、短歌雑誌、俳句雑誌での「光太郎特集号」というのは見たことがありません。せいぜい短い論評がなされる程度です。いったいに短歌雑誌、俳句雑誌の類は派閥・流派の匂いがぷんぷん漂っており、そこに属さない者、ましてや本職の歌人・俳人でない者は無視、という傾向が感じられます。

そうした意味で、今回、現代歌人協会さんとして、光太郎以外にもいわゆる専門歌人以外の著名人の短歌について話し合ってみたいとのことで、この講座が持たれているのは、これまでの状態に風穴が開いたわけで、画期的だな、と思いました。こうした傾向が一過性でなく、定着して欲しいものです。

ちなみにもっと光太郎の短歌、俳句に注目して欲しいと思い、このブログでは昨年1年間・366日(閏年でしたので)、一日一首(一句)ずつ、【折々の歌と句・光太郎】というコーナーを作って光太郎の短歌・俳句など(川柳や仏足石歌なども)紹介しました。366日分、お読みいただければ幸いです(笑)。


【折々のことば・光太郎】

売る事の理不尽、購ひ得るものは所有し得る者、 所有は隔離、美の監禁に手渡すもの、我。
詩「美の監禁に手渡す者」より 昭和6年(1931)

プロレタリア文学者やアナーキスト達と近い位置にいた光太郎ですが、その生活は、彫刻を買ってくれたり、肖像制作を注文したりしてくれる者――多くは光太郎の嫌いな、俗世間での成功者――に支えられていました。その家柄ゆえ、生涯に一枚も絵を売らずに生活できたという画家・有島生馬などとは、根本的なところで違うのです。

この矛盾は結局解消されないまま、重く光太郎にのしかかりました。悲劇ですね。いや、お釈迦様の手のひらで暴れている孫悟空のような喜劇かも知れません。そこで一首。

あながちに悲劇喜劇のふたくさの此世とおもはず吾もなまづも

やはり昭和6年(1931)の作で、木彫「鯰」を収める袱紗(ふくさ)にしたためられた短歌です。

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宮城に来ております。

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本日、仙台で開催される、朗読家・荒井真澄さんとテルミン奏者・大西ようこさんによるコンサート「朗読とテルミンで綴る智恵子抄」拝聴のため、昨日から宮城県入りしております。

現在地は、蔵王山中の青根温泉♨。湯元不忘閣さんという老舗の温泉旅館♨に泊めていただいております。

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こちらは、昭和8 年(1933 )8月末から9月初めにかけて約1週間、光太郎智恵子が逗留した宿です。心を病んだ智恵子の療養のため、ひと月ほど東北南部から北関東の温泉♨巡りをした一環でした。当時の建物が残っており、非常に風情があります。

このあと、宿を出まして仙台方面に向かいます。詳しくは帰ってからレポート致します。

宮城レポートその1青根温泉。

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宮城県に行っておりましたが、2泊3日の行程を終えまして、先ほど、千葉の自宅兼事務所に帰って参りました。2日に分けてレポートいたします。

メインの目的は、昨日開催された朗読家・荒井真澄さんとテルミン奏者・大西ようこさんによるコンサート「朗読とテルミンで綴る智恵子抄」。当会も後援に名を連ねておりましたので。

宿泊は1泊目、同じ宮城県内の青根温泉湯本不忘閣さんに泊めていただきました。こちらは昭和8年(1933)、光太郎智恵子も1週間ばかり逗留した宿です。

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智恵子の心の病が完全に顕在化したのが、昭和6年(1931)。光太郎が新聞『時事新報』の依頼で、紀行文「三陸廻り」を書くため、女川を含む三陸一帯を旅していた時のことです。翌年には睡眠薬アダリンを大量に服用しての自殺未遂。一命は取り留めましたが、どんどん症状は進行していきました。

そして翌8年、智恵子の故郷に近い東北や北関東の温泉巡りをすることで、少しは恢復するかと考えた光太郎は、智恵子を連れて旅に出ます。出発前の8月23日には、本郷区役所に婚姻届を提出。大正3年(1914)に結婚披露宴を行ってから、実に19年が経っていましたが、この間、2人は事実婚状態だったのです。以前にも書きましたが、フランスではそれが珍しくないそうで、光太郎が敬愛していたロダンとローズ・ブーレも、2人が亡くなる直前まで届けを出しませんでした。

さらに翌昭和9年(1934)には、光太郎の父・光雲が亡くなって、まとまった遺産が光太郎に入るのですが、その前に光太郎が先に逝ってしまえば(光太郎自身も結核の症状が既に出ていました)、智恵子には相続の権利が発生しません。そこらを考えての入籍だったのでしょう。しかし、智恵子にはもはやその意味を理解することもできなくなっていたようですが……。

東京を発った2人は、最初に智恵子の故郷・安達(現・二本松市)を訪れ、智恵子実家長沼家(既に破産して離散)の墓参などを行い、裏磐梯川上温泉に向かいました。そこで過ごした時の記憶を元に書かれたのが「――わたしもうぢき駄目になる」のリフレインで有名な「山麓の二人」(昭和13年=1938)です。

次に訪れたのが、青根温泉でした。戦後の昭和24年(19イメージ 149)に、宮城在住の人物に送った葉書に以下の記述があります。青根に誘われたようで、その返答ですね。

青根温泉へのお誘ひ忝く存じました。 青根温泉へは小生も先年智恵子と一緒に一週間ばかり滞在したことがあります。あの正面の大きな宿でしたからたぶんその大佐藤といふ家だつたでせう。実にいい温泉だと思ひました。西遊もしたいけれどその頃にならないと都合が分りません。

「大佐藤」というのが、光太郎が泊まった当時の不忘閣さんの名称でした。青根でもっとも早く湯宿を開いて、江戸時代には仙台藩伊達氏の御殿湯として使われていました。当主は代々佐藤仁右衛門を名乗り、他にも佐藤姓の宿があったことから、区別するために「大」一文字をつけていたようです。

右は館内に展示されていた古い看板。ちょっと見にくいのですが、「大佐藤」の文字が見て取れます。

「不忘閣」というのは、元々、お殿様のために使われていたメインの建物(現在は「青根御殿」と呼ばれています)の名前だったそうです。

その後、光太郎智恵子は、また福島県に戻り、9月2日には土湯温泉の奥にある不動湯から、智恵子の母・センにあてて葉書を送っています。

青根から土湯へまゐりました、土湯で一番静かな涼しい家に居ます。 もう二三日ここにゐるつもりでゐます。

ちなみに不動湯は平成25年(2013)に火災で焼失。現在は日帰り入浴施設として再開されています。当方、旅先の岡山でそのニュースを知り、驚くと同時に心を痛めました。そして最後に栃木の塩原温泉に逗留し、帰京しています。

さて、不忘閣さん。現在の宿泊棟は現代の建築ですが、それ以外に光太郎智恵子滞在時の建造物がまだ残っています。

こちらは本館で、明治40年(1907)の竣工。

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現在は、食事のための棟として使われています。

中庭は庭園。池には魚に混じってサンショウウオorイモリ。自然が豊かなのがわかります。

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そして青根御殿。こちらは江戸時代に最初に建てられましたが、やはり焼失、光太郎智恵子が訪れた前年の昭和7年(1932)に再建されたものだそうです。

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現在は資料館的な使われ方となっており、毎朝、女将の解説で、宿泊客対象に見学ツアーが開かれています。

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伊達家関連のお宝。

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ここを訪れた文人墨客関係。

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大正11年(1922)には、光太郎の師・与謝野夫妻も逗留していました。

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となると、与謝野夫妻からここの話を聞いたのかも知れません。

また、本館内にはこんな掲示も。

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「頭がよくなる温泉」とのことで、まさに精神を病んだ智恵子にうってつけ。この点まで含めて、与謝野夫妻が光太郎にここを紹介したとしたら、いい話ですね。

温泉は、本館内と、別棟の蔵の中にもありまして、それぞれ堪能させていただきました。

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近くには、作曲家の古賀政男の記念館も。代表曲の一つ「影を慕いて」作曲の契機がこの地での体験だそうで、建物は古賀とは無関係の、仙台から移築された元宣教師の住居だそうですが、レトロな洋風建築がいい感じでした。

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足湯もありました。

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続きは明日。


【折々のことば・光太郎】

七月は今猛然とわれらを襲ふ。 莢隠元(アリコヴエル)、サラダ、トマト、コンコムブル。 質素な友の食卓を満艦飾する 精気と新鮮と分厚な現実。

詩「卓上の七月――素描風なる日常詩――」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

シチュエーションとしては、友人の家族に招かれての会食のようです。野菜系が多く、健康的かつおしゃれっぽい感じですが、確かに質素かも知れません。しjかし、この前に、それを補ってあまりある友人一家のほほえましい様子が描かれています。

不忘閣さんの食事、山間の宿らしく山菜などが多かったのですが、健康的でした。

宮城レポートその2 松島~仙台。

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一昨日の朝、宿泊させていただいた青根温泉湯元不忘閣さんを後に、愛車を北へ向けました。メインの目的である仙台での朗読家・荒井真澄さんとテルミン奏者・大西ようこさんによるコンサート「朗読とテルミンで綴る智恵子抄」が午後3時開演。リハーサルや会場準備、チラシ折り込み等があるので昼頃には会場入りと思っていましたが、それにしても時間があったため、寄り道をしました(当初からそのつもりでしたが)。

行った先は、仙台からほど近い松島の瑞巌寺さん。こちらには、昭和2年(1927)、光太郎の父・高村光雲作の観音像が納められています。下の画像は古絵葉書です。瑞巌寺さんには30年ほど前に参拝いたしましたが、その際には存じませんで、見落としていました。

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納められているのは庫裡。こちら自体も国宝の建築です。


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光雲作としては類例があまり多くない、彩色彫刻です。おそらく丈六(約4.8㍍)の大きなもので、そうなると白木では見栄えがしないかもしれません。鮮やかな彩色が、神々しさをさらに倍加させています。

説明板によれば、元々は現JR仙石線が宮城電鉄だった頃、松島まで路線が延引された際に、無事故と事業の発展を祈願して同線の駅近くに奉納されたものだそうです。ということは、発願主は宮城電鉄さんだったのでしょうか。

この地の平安と、道中安全を祈願して参りました。

庫裡の向かいが宝物館となっており、まだ時間もありましたので、拝観。青根温泉不忘閣さん同様、やはり地元の英雄・伊達一族に関するお宝、それから円空仏なども展示されており、興味深く拝見しました。


さて、再び愛車を駆って仙台へ。途中で昼食を摂ったり、お二人への花束を買ったりしつつ、正午過ぎには青葉区のJazz Me Blues Nola(ジャズミーブルースノラ)さんに到着しました。こちらは一昨年、やはり荒井さんのご出演なさった「無伴奏ヴァイオリンと朗読 智恵子抄」以来、2年ぶり2回目です。

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ちょうど機材のセッティングが終わってリハーサルが始まるところでした。

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当方が持参した光太郎の遺影(連翹忌でも使わせていただいている、令甥の写真家、故・村規氏撮影のもので、ほとんど唯一、光太郎が笑顔の写真)、智恵子紙絵の複製などを並べさせていただきました。

その後、チラシの折り込みなどをお手伝いし、午後2時半、開場。当会と共に後援に入って下さった花巻高村光太郎記念会さんから、生前の光太郎をご存じの浅沼隆さん、さらに智恵子の故郷・福島二本松で顕彰活動を進められている智恵子のまち夢くらぶの野里氏もはるばる駆けつけて下さいました。

開演は午後3時。

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休憩を挟んで1時間半ほどだったでしょうか。大西さんの奏でる古今東西の名曲に乗せ、荒井さんによる光太郎詩文等の朗読。テルミンの一種幽玄な響きと、荒井さんのしっとり落ち着いた美しいお声が絶妙にもつれ合い、絡み合い、美しくも悲しい、しかし最後は再生へと向かう光太郎智恵子の愛の世界を醸し出していました。

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全体の構成や、合間にはMCも入り、飽きさせない工夫が為されていました。テルミンを見るのも聴くのも初めて、という方が多数いらっしゃいましたので、大西さんお得意のテルミン講座。さらにはお二人のなれ初め(笑)についてのお話などなど。お二人が初めて会われたのが、昨年の連翹忌。ビュッフェ形式で料理が並ぶうちの、ケーキのコーナーだったそうです(笑)。「天才は天才を知る」ということでしょうか(笑)、お互いに「ただ者ではない」と感じられたそうで、たちまち意気投合、これまでもちょこちょことコラボをなさり、今回が初めてのきちんとした公演でした。

午後の部がつつがなく終わり、楽屋でおにぎりなどを頂いて軽く腹ごしらえ。そして7時から夜の部でした。

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当方、リハーサルを含めて結局3回聴いたことになりますが、お二人のパフォーマンスがそれぞれにすばらしく、もちろん光太郎の詩文の魅力もあって、まったく飽きることもなく、どっぷりと光太郎智恵子の世界に浸らせていただきました。

午後の部と夜の部の合間、それから終演後に拝読したご来場の皆様が書いて下さったアンケートでも、絶賛の嵐でした。再演を希望する声も多く、是非実現して欲しいものです。

終演後、お二人と、大西さんのご主人(ラブラブご夫婦で、いつもご主人がご一緒です)、そして当方の4人で夜の仙台の街に繰り出し、打ち上げ。日付が変わる頃まで大いに盛り上がりました。

連翹忌が取り持つご縁でこうしたイベントとなり、望外の喜びです。これまでも、こうしたパフォーマーの方々のコラボ、美術館・文学館さんと関連行事の講演会講師、出版関係者の方々と執筆者の皆さん、顕彰団体さんと視察研修先の方々などを結びつける役割を果たして参りましたが、こういうネットワークを広げることも大事な役割と考えております。

この輪をもっともっと広げたいと存じます。さらに多くの方々に連翹忌へご参加いただき、こうしたネットワークに関わっていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

さわぐには及びません やる事をやりなさい  威張るには及びません 頭をはつきり持ちなさい
詩「ゆつくり急がう」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

詩全体には、昭和6年(1931)夏、新聞『時事新報』の依頼で紀行文「三陸廻り」を書くために、約1ヶ月、宮城から岩手の三陸沿岸を旅した経験が背景にあります。

この旅行に出ている間に、智恵子の心の病が顕在化したということになっています。光太郎の留守中に訪ねてきた智恵子の母や妹が、智恵子の異状に気づいたそうです。となると、第三者の目による異状顕在化であって、もしかするとそれ以前から症状は現れていたかも知れません。詩人の深尾須磨子あたりはかなり早い時期から智恵子の言動に違和感を覚えていました。

そしてどうもこの時期の光太郎は智恵子の状態を楽観視していたようで、そのあたりが「さわぐには及びません  やる事をやりなさい」にも反映されているような気もします。

さすがに翌年に智恵子が自殺未遂を図ると、そうも言っていられなくなりますが……。その結果、青根温泉などへの湯治の旅に結びつくのです。

テレビ放映情報-詩句の読み方。

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明日から3日間、テレビ番組でぽつりぽつりと光太郎智恵子が取り上げられます。

まずは、これまでも時折光太郎智恵子を取り上げて下さっている、NHK Eテレさんの「にほんごであそぼ」。明日と明後日の放映で「あどけない話」がラインナップに入っています。さらにそれぞれ来月に入ってからも再放送があります。 

にほんごであそぼ

2歳から小学校低学年くらいの子どもと親にご覧いただきたい番組です。日本語の豊かな表現に慣れ親しみ、楽しく遊びながら“日本語感覚”を身につけることができます。

2017年6月28日(水)・7月12日(水) NHK Eテレ 6:35~6:45   再放送 17:00~17:10  
文楽/智恵子は東京に空が無いといふ「あどけない話」高村光太郎、うなりやベベン/触らぬ神に祟り無し(ことわざ)、ひゃくにん・いっしゅの百人一首劇場/契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山…(清原元輔)、歌/浜辺の歌、五十三次ロケンロー。

2017年6月29日(木)・7月13日(木) NHK Eテレ 6:35~6:45   再放送 17:00~17:10  
玉屋鍵屋、文楽/智恵子は東京に空が無いといふ「あどけない話」高村光太郎、ヨシタケ×山陽のおよおよ/「蟹工船」小林多喜二、歌/浜辺の歌、五十三次ロケンロー。


「文楽」とありますが、同番組では、豊竹咲甫太夫さんらによる人形浄瑠璃文楽で、古今の文学作品の一節を演じるコーナーがあります。


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2017年6月30日(金) BSジャパン  21時00分~21時54分

「激動の時代」と言われた「昭和」は、日本人が振り返りたくなる魅力にあふれています。 この番組では、昭和を象徴する「人」「モノ」「できごと」から、毎回ひとつのテーマをピックアップ。当時の映像・写真を盛り込み、「昭和」の魅力を再発掘していきます!

◆夏のシンボル「金鳥・蚊取り線香」。長い間売れ続ける商品の隠された物語。渦巻きの秘密や、記憶に残る美空ひばりさんのCMに驚きの真実があることが判明!世界初の明治の蚊取り線香も登場。 ◆夏の清涼飲料水「コカ・コーラ」アメリカ発の飲料が日本で流行した立役者は?その知られざる苦労と懐かしのCMで、昭和の若者風俗を懐古します。

司 会 武田鉄矢 須黒清華(テレビ東京アナウンサー)
ゲスト 上山久史(大日本除虫菊株式会社専務取締役) 荻原博子(経済ジャーナリスト)
     町田忍(庶民文化研究所所長)

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コカ・コーラの項で、光太郎がちらっと紹介されるはずです。

光太郎の第一詩集『道程』に、「狂者の詩」という詩が収められています。初出は大正元年(1912)12月の雑誌『白樺』です。その中で「コカコオラ」の語が使われており、文学作品におけるコーラの最も早い使用例の一つです。

コーラと光太郎については、以前のこのブログでもご紹介しています。こちらをご覧下さい。

少し前に、花巻高村光太郎記念会さんから電話がありました。番組制作会社からの問い合わせに関してのヘルプ要請でした。問題は「狂者の詩」の読み方。「詩」一文字が「し」なのか、「うた」なのか、ということでした。

基本的にルビが振らていない漢字の読み方は、よほど度外れた読み方でない限り、不正解とは言えません。したがって、「し」と読んでも、「うた」と読んでもいいと思います。ただ、作者(光太郎)がどちらをイメージしていたのかを考えることは可能です。時代背景的に、「詩」を「うた」と読むようになるのはおそらくそれほど古い習慣ではないはずで、「し」の方が正解に近い気がします。だからといって、「うた」と読んだら×、というわけではないと思います。どうしても「うた」と読みたければ、どうぞ、それで結構――と答えておきました。

同様の問い合わせは結構あります。

少し前に、作曲家の野村朗氏からは、詩「樹下の二人」(大正12年=1923)に出てくる「愛の海ぞこ」の読み方を訊かれました。「うみぞこ」か「うなぞこ」か、と。『広辞苑』を調べても、どちらの読み方も登録されていません。もはや、こういう場合にはどちらで読んでも不正解とは言えないでしょう。ただし、他の詩との整合性ということを考えると、明治40年(1907)作の「博士」という詩の中に、「大海底」と書いて「おほうなぞこ」とルビが振られている箇所があり、「うなぞこ」の方が正解に近いのかな、という気がします。しかし、だからといって、「うみぞこ」と読んでもダメ出しはできないでしょう。

固有名詞についても、結構困る場合があります。やはり野村氏から、それからそれ以前に「日曜美術館 智恵子に捧げた彫刻 ~詩人・高村光太郎の実像~」制作のお手伝いをしていた中で、詩「案内」(昭和25年=1950)中の「毒が森」に関して、レファレンス依頼がありました。光太郎が戦後の七年間を暮らした花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)付近の地名として、「うしろの山つづきが毒が森。」という一節があります。こちらは固有名詞ですから、さまざまな読み方は無いわけで、本当の読み方は「ぶすがもり」です。

狂言の題目にもありますが、猛毒のトリカブトの別名が「附子(ぶす)」。そこからの連想で、「毒」に「ぶす」と訓読みを当てる場合があり、地名やら人名やらで使われています。ちなみに不美人を「ブス」というのは、トリカブトを食べて苦悶する人のような顔、という連想から来ているとか。

光太郎の山小屋の裏山も、正しくは「ぶすがもり」です。サイト「岩手の自然 毒ガ森山塊」などにもそう紹介されています。ところが、地元でも「ぶすがもり」という地名が忘れられつつあるようで、毎年5月の花巻高村祭で、地元の方がこの詩を朗読しますが、「どくがもり」と読んでいます。もはや地名としての「ぶすがもり」が忘れ去られているのであれば、「どくがもり」と読んでもいいのかな、などと思っております。

こうした詩句の読み方に関しては、ある意味、これだという正解が存在しない場合が多いと思います。大切なのは、読む人それぞれが、これはどう読むのだろう、とか、こう読む根拠は、などと考えを廻らせることではないでしょうか。とはいうものの、エラいセンセイなどが、いわゆる「論文」で、たった一語の読み方にこだわって、ああでもない、こうでもないとやっているのを見ると、「木を見て森を見ず」の感がぬぐえませんが。

さて、「武田鉄矢の昭和は輝いていた」。「し」と読むのか「うた」と読むのか、とりあえず注視します。もっとも、テレビ番組の場合、収録の尺などの関係で、レファレンスした内容がばっさりカットされることも珍しくありません。光太郎に触れずじまい、と、それは避けていただきたいのですが、どうなることやら……。


【折々のことば・光太郎】

潔さと美と飢と入水とを等分に持つたドウベル 低くなり得ぬもの詩人ドウベル

詩「レオン ドウベル」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

レオン・ドーベルは、フランスの詩人。貧困の中でマルヌ川に投身自殺したそうです。パリにいた彫刻家・高田博厚がその胸像制作にあたり、光太郎も援助しました。

詩人が「低くなる」というのは、自分の主義主張を曲げ、大衆や権力者に阿(おもね)る作品を書く、ということでしょうか。それができなかったドーベルに、光太郎は真の詩人の姿を見ているのだと思われます。

ところが光太郎自身は、この頃から大政翼賛の方向へ梶を切り始めます。この年は満州事変のあった年でした。おそらく、智恵子の心の病を引き起こした、「都会のまんなかに蟄居」(「蟄居」 昭和22年=1947)するような生活への反省、そうした生活を続けることで自身も心を病みそうな予感、そういったものが、光太郎を動かしていったものと思われます。

吉田コトさん訃報。

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地方紙『山形新聞』さんの一面コラム、25日日曜日の掲載分です。 

談話室 2017/06/25付

▼▽江戸時代後期に清貧、自由の生涯を貫いた僧良寛。歌人、書家として知られるが漢詩も多く残した。中にこんな一節がある。「花開く時蝶来(ちょう)り 蝶来る時花開く」。花にも蝶にも作為などない。互いに招き、導かれる。
▼▽その人の訃報にふと良寛の詩が浮かんだ。山形市の吉田コトさん。99年の人生は波乱に富む。20歳の頃「宮沢賢治名作選」の編集に関わった。没してからまだ5年。原稿は岩手・花巻の生家の柳行(やなぎごう)李(り)に入ったままだった。賢治の弟清六が手渡す原稿を、行李の蓋(ふた)に仕分けた。
▼▽「名作選」は無名だった詩人・童話作家再発見のきっかけとなる。高村光太郎ら文化人との交流も生まれた。私生活では22歳で結婚。子宝にも恵まれるが太平洋戦争のさなか、夫が病で半身不随になる。戦後は山形市に一銭店「天満屋」を開き、大黒柱として生活を支えた。
▼▽貧乏暮らしながら店には多くの人が訪れ、交流の場になった。人生相談を持ち掛けられたり、山形大の苦学生にはご飯を振る舞ったり。知的好奇心も衰えない。80歳を過ぎても週1回、東北芸術工科大に通って講義を聴講した。「時には蝶、時には花」を体現した人だった。


訃報の記事も載ったようなのですが、ネット上で不鮮明な画像でしか発見できませんでした。それによると土曜が葬儀だったそうなので、亡くなったのは先週でしょうか。吉田コトさん。作家の吉田司氏のお母様で、宮沢賢治の教え子だった松田甚次郎を助け、賢治実弟の清六ともども、昭和14年(1939)に刊行された『宮沢賢治名作選』の編集実務に当たられた方です。

その編集に当たっていた頃、「山形賢治の会」で一緒だった詩人の真壁仁の紹介で、本郷区駒込林町の光太郎と会っています。以下、平成20年(2008)、有限会社荒蝦夷さん刊行の『吉田コト子思い出語り 月夜の蓄音機』より。

「山形賢治の会」を立ち上げて間もなく、中央大学に進イメージ 1学していた弟が軽い脊椎カリエスを患った。一人で下宿生活が送られなくなったので、私が上京して炊事の面倒を見ることになった。(略)高村光太郎さんに初めて会ったのはこのころだ。真壁さんから私に手紙が来たんだっけ。「高村先生に会いに上京します。ご一緒しましょう」って。私が『宮沢賢治名作選』を手伝っていたころ、政次郎さんが私に光太郎さんの話を聞かせてくれたことがあったの。賢治が生前、『春と修羅』だったか詩集を自費出版して、いろんな人に送ったらしいんだけど、お礼の返事をよこしたのが高村光太郎と詩人の草野心平の二人だけだったんだって。賢治はその葉書がくちゃくちゃになっても、お守りみたいに大事にしてたって。その話を聞いて私は光太郎さんに会ってみたくなったんだ。それで清六さんに紹介状を書いてもらったんだけど、まだ光太郎さんに会いに行ってなかった。真壁さんはこの紹介状のことを知ってて、私を誘ってくれたんだね。

『春と修羅』(大正13年=1924)の礼状をよこしたのが、光太郎と心平だけだったという話。他では読んだことがないのですが、有り得る話です。くちゃくちゃになった葉書を賢治がお守りのように持っていたというのも。そこで2年後に、賢治は光太郎を訪ねていったのでしょう。

上京した真壁さんと二人で光太郎さんを訪ねた。真壁さんは、私のことを三割も五割も足して光太郎さんに話してくれたっけ。「コトさんは真面目で一生懸命、本も読むし文章も書く」って。光太郎さんが「詩の勉強をなさい。書けるように教えてあげます」って言ってくれた。だのに私ったら「授業料が高いでしょう」なんて言ったんだよ、高村光太郎に向かって(笑)。田舎っぺだよね。そして「詩を書くよりも孤児院のお手伝いのような仕事がしたいと思っています」なんて話もした。親のいない寂しさを味わっていたから、ホントにそんな仕事がしたかったの。光太郎さんは「手伝いなんて言わずに、自分で作りなさい。相談にのってあげるから、またいらっしゃい」と言ってくれた。

残念ながら、光太郎の書き残したものの中に、この会見の模様は確認できません。ただ、同行した真壁仁に送った光太郎書簡から、昭和14年(1939)の3月から4月頃だったと推定できます。

余談になるけれど、太平洋戦争が終わるころ、光太郎さんは賢治の生家を頼って岩手に疎開したでしょう。そのあと、なんのときだったかは忘れたけれど、とにかく光太郎さんが山形に立ち寄ったことがあるの。光太郎さんから「もう二度と山形に来ることもないでしょうから、ぜひ会いましょう」と葉書をもらった。そこで、山形駅まで会いに行ったの。確か末っ子の司を背中におぶってた。だから、司も光太郎さんに会ってることになるの。

これは昭和25年(1950)10月のことです。県綜合美術展のため、光太郎は山形を訪れています。審査は断りましたが、批評なら、ということでした。11月1日には料亭野々村で、翌日には山形市教育会館美術ホールで、美術講演会が催され、この際には女優・渡辺えりさんのご両親もそれを聴かれています。渡辺さんのお父様・正治氏は戦時中から光太郎と親交がおありでした。

光太郎からコトさんへの葉書というのも、『高村光太郎全集』等に漏れています。残っていればいいのですが……。

コトさん、戦後は身体が不自由になられたご主人を支えつつがんばられたそうでしたが、実は当方、まだコトさんがご存命とは存じませんでした。99歳だったそうで……天寿ですね。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

とどめ得ない大地の運行 べつたり新聞について来た桜の花びらを私ははじく もう一つの大地が私の内側に自転する

詩「もう一つの自転するもの」より 昭和7年(1932) 光太郎50歳

前年には満州事変、この年には傀儡国家の満州国建国、五・一五事件。翌年には国際連盟脱退と、この国は泥沼の戦争へと一歩一歩進んでいました。

そうした世情とは別に、自分の中には「もう一つの自転するもの」があると宣言していた光太郎ですが、智恵子の心の病がのっぴきならないところまで進むと、「わたくしの心はこの時二つに裂けて脱落し/闃として二人をつつむこの天地と一つに」(「山麓の二人」)なるのです。

『月刊絵手紙』/『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』。

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定期購読しており、それぞれ光太郎に少しずつ触れて下さっている『月刊絵手紙』と、隔月刊の『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』が相次いで届きました。

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『月刊絵手紙』は、日本絵手紙協会さんの発行。前号から「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という新連載(全1ページ)が始まりました。今号は詩「案内」(昭和24年=1949)を取り上げて下さっています。

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光太郎が戦後の7年間を過ごした花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)と、隣接する花巻高村光太郎記念館を管理運営する一般財団法人花巻高村光太郎記念会さんの協力で作られており、太田村時代の光太郎スナップが背景にあしらわれています。


隔月刊の『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』は、裏表紙に連載「光太郎のレシピ」。こちらも花巻高村光太郎記念会さん、特に女性スタッフさんたちの協力で作られています。太田村での光太郎日記から、光太郎がどんな料理を作り、食べていたのかを紹介するもの。こちらも連載二回目です。初回は「そば粉の焼きパン」でした。

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今号は、「ホッケのトマトソース煮とヨモギご飯」。付け合わせに卵やジャガイモが添えられています。健康的で美味しそうです。

ただし、光太郎日記には細かなレシピまでは記載されていないので、あくまでこんな感じだっただろう、というものです。光太郎が食したトマトソースもおそらくは缶詰だったのではないかと思われますし、ホッケとヨモギご飯(日記では雑炊)は、それぞれ別の日に作っています。そのあたりは、日記の該当部分をきちんと掲載していますので、問題はないでしょう。

当方、週に一、二回(今夜もですが)、家族の夕食を作っており、参考にさせていただきます(笑)。


『月刊絵手紙』、『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』、それぞれ定期購読で自宅に届けてもらうことが可能です。上記の各リンクから、ぜひどうぞ。

ところで、先述の通り、どちらも一般財団法人花巻高村光太郎記念会さんの協力で作られており、記念館の宣伝にもつながるかと存じます。良い工夫ですね。全国の文学館さん、タウン誌的なものの編集発行に当たられている皆さん、ご参考になさってはいかがでしょうか。


【折々のことば・光太郎】

バ ンブ ツイツセイニタテ」アヲキトウメイタイヲイチメンニクバ レ」イソゲ イソゲ ニンゲ ンカイニカマフナ
詩「五月のウナ電」より 昭和7年(1932) 光太郎50歳

「ウナ電」は、緊急を要する電報、の意。電話が一般イメージ 1的でなかった明治大正昭和戦前を舞台としたドラマなどで「チチキトクスグ カヘレ(父、危篤。すぐ帰れ)」などと使われるあれです。

昔の電報はカタカナのみ。しかも濁点は一字とカウントされていました。そこで濁点のあとは一文字分のスペースが必ず入りました。

右は戦後の昭和27年(1952)、当時の盛岡短期大学美術工芸科の卒業式のために送られた光太郎からの電報です。「ウナ電」ではありませんが。

「五月のウナ電」は、宇宙のヘラクレス座から、地球の動植物にあてた電報、というシチュエーションで書かれています。上記を漢字仮名交じりの書き下し文にすれば、以下の通りでしょうか。

万物一斉に立て。青き透明体を一面に配れ。急げ。急げ。人間界に構ふな。

何となくですが、宮沢賢治の詩や童話からのインスパイアのような気もします。

『北方人』第27号/『トンボ』第4号。

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主に北海道の文学に注目する北方文学研究会さん発行の同人誌『北方人』の第27号を頂きました。いつも送って下さっていて、恐縮です。

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さらに恐縮なことに、当会発行の『光太郎資料47』をご紹介下さっています。

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また、当方も寄稿している文治堂書店さん発行の同人誌、「トンボ」第3号の紹介も。ありがたいことです。

それから、釧路で発行されている同人誌『河太郎(かたろう)』の紹介の中に、光太郎の名が。

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光太郎と交流のあった更科源蔵、猪狩満直といった詩人が北海道出身だったり移住したりしていた関係、北海道で発行されていた雑誌に光太郎の寄稿がたびたびあったためですね。とりあえずネットで発行元らしきところを見つけ、送って下さるよう頼んでみました。届きましたらまたご紹介します。


その『トンボ』の第4号も届きました。

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3名の方々による、先頃亡くなった同社創業者の渡辺文治氏の追悼文が掲載されており、当会顧問・北川太一先生の玉稿も含まれています。

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その他、半ば強引に2ページ分の連載を持たされてしまい(笑)、今年で61回目を迎えた連翹忌の歴史と現況について書け、という指示でしたので書きました。

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掲載誌をごそっと送られていますので、ご入用の方はこちらまで。


【折々のことば・光太郎】

足もとから鳥がたつ 自分の妻が狂気する 自分の着物がぼろになる

詩「人生遠視」より 昭和10年(1935) 光太郎53歳

光太郎にとっては不意打ちのようだった智恵子の心の病の顕在化、それにより智恵子が夢幻界へと飛び立ってしまったこと、それに伴う喪失感などが、見事に表現されています。

しかし、病が顕在化したとされる昭和6年(1931)夏から3年半経って、その間に智恵子の自殺未遂、青根温泉などへの湯治旅行、九十九里浜での転地療養などを経、南品川ゼームス坂病院へ入院させる頃に書いた詩です。

岩手県立美術館「巨匠が愛した美の世界 川端康成・東山魁夷コレクション展」。

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岩手盛岡から企画展情報です。 

巨匠が愛した美の世界 川端康成・東山魁夷コレクション展

期   日 : 2017年7月1日(土)~8月20日(日)
会   場 : 岩手県立美術館 岩手県盛岡市本宮字松幅12-3
時   間 : 9:30〜18:00(入館は17:30まで)
料   金 : [一般] 前売り1,000円(当日1,200円)、[高校生・学生]前売600円(当日700円)、
         [小学生・中学生]前売400円(当日500円) 20名以上の団体は、前売料金と同額
休   館  日 : 月曜日(7月17日、8月14日は開館)、7月18日

 日本初のノーベル文学賞受賞者、川端康成は、池大雅「十便図」、与謝蕪村「十宜図」(いずれも国宝)から若いころの草間彌生作品など、独自の審美眼で幅広い時代の美術品を収集しました。
 本展では、その中でも特に深い交流があった日本画家東山魁夷の収集品と合わせ約200点を紹介。昨年末に発見された新資料も全国初公開します。
 また、川端文学の最高傑作のひとつ「伊豆の踊子」についてコーナーを特設。作品が生み出されるきっかけとなった、本県ゆかりの初恋相手との交流も紹介し、創作の源泉に迫ります。
 

関連行事

◾ 開催記念講演会「川端康成を語る」
  講師:川端香男里氏(公益財団法人川端康成記念会理事長)
  日時:2017年7月1日(土) 14:00-15:30
  場所:ホール
  *参加ご希望の方は当日直接ホールへお越し下さい。観覧券又は半券の提示が必要です。
◾ スペシャル・ギャラリートーク
  講師:水原園博氏(公益財団法人川端康成記念会東京事務所代表)
  日時:2017年7月29日(土) 14:00-15:00
  場所:企画展示室
  *本展観覧券をお持ちの上、直接企画展示室へお越しください。
◾ アートシネマ・上映 『恋の花咲く 伊豆の踊子』 弁士伴奏付き無声映画上映
  日時:2017年7月16日(日) 14:00-15:50(開場13:30)
  弁士:澤登翠氏 ピアノ伴奏:柳下美恵氏
  場所:ホール
  *鑑賞ご希望の方は当日直接ホールへお越しください。観覧券又は半券の提示が必要です。
    なお参加多数の場合は入場を制限させていただく場合がございます。
◾ 学芸員講座「川端康成と浦上玉堂」
  講師:吉田尊子(当館学芸普及課長)
  日時:2017年8月5日(土) 14:00-15:00
  場所:ホール
  *参加ご希望の方は当日直接ホールへお越し下さい。参加無料です。
◾ 川端と東山のコレクション鑑賞ツアー
  日時:2017年8月14日(月) 11:00-12:00/15:00-16:00(各60分)
  場所:企画展示室
  定員:各回25名(先着順。各回30分前より受付開始)
  *本展観覧券をお持ちの上、直接企画展示室へお越しください。
◾ ギャラリートーク
  日時: 7月7日(金)、8月4日(金)、8月18日(金)いずれも14:00-(30分程度)
  場所:企画展示室
  *本展観覧券をお持ちの上、直接企画展示室へお越しください。


今年初め、『伊豆新聞』さんで報じられ、のち全国的にニュースとなった、新発見の川端康成旧蔵の書画が展示されます。

光太郎の書も1点。『智恵子抄』所収の「樹下の二人」(大正12年=1923)中の有名なリフレイン「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川」を扇面に揮毫したものが展示されます。

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画像で見る限りでは、間違いないもののようです。

当方、月末に花巻に行く予定があり、その際に足を伸ばそうと思っております。皆様もぜひどうぞ。

また、川端邸で発見の書画類、「全国に先駆けて」公開とありますので、今後、各地での巡回がありそうです。情報が入りましたら、またご紹介いたします。


【折々のことば・光太郎】

もう人間であることをやめた智恵子に 恐ろしくきれいな朝の天空は絶好の遊歩場
 智恵子飛ぶ
詩「風にのる智恵子」より 昭和10年(1935) 光太郎53歳

前年、千葉九十九里浜に移っていた智恵子の母と妹一家のもとに、半年ほど智恵子を預けていた際の思い出を元に書かれた詩の一節です。この頃は、光太郎、両国から2時間ちょっとかけて、毎週のように智恵子を見舞っていました。

実際に足を運べばわかりますが、九十九里浜は果てしなく続くかと思われるような長い砂浜です。尾長や千鳥と一体化した智恵子にとって、絶好の遊歩場だったのですね。

ちなみにNHKさんに、戦後の光太郎の朗読音声が残っており、「遊歩場」は「ゆうほば」と読んでいます。「ゆうほじょう」と読んでも間違いではないのでしょうが。

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碌山美術館夏季企画展示「高村光太郎編訳『ロダンの言葉』展 編訳と高村光太郎」レポート。

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信州安曇野、碌山美術館さんの夏季企画展示「高村光太郎編訳『ロダンの言葉』展 編訳と高村光太郎」を拝見して参りました。

光太郎関連以外の雑事で忙しいのと、高速道路の混雑を避けるため、一昨日の深夜に千葉の自宅兼事務所を出発、途中、塩尻の健康センターで入浴、仮眠。翌朝、碌山美術館さん開館時間に一番乗りいたしました。究極の雨男・光太郎に関わる企画展示ですので、予想通りに大雨でした(笑)。

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本来、撮影禁止ですが、関係者ということで許可を頂きまして、宣伝させていただきます。

昨夏、同館で開催された、「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」は、「特別企画展」ということで、第1展示棟、杜江館も使っての展示でしたが、今回は第2展示棟のみ。図録等も発行されていません。それでもなかなかに充実していました。

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第2展示棟に入りますと、まず、よくある「ごあいさつ」。企画展としての趣旨が述べられています。

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 日本近代彫刻の先駆・荻原守衛(碌山 1879-1910)が師と仰いだオーギュスト・ロダン(1840-1917)の歿後100年にあたり、高村光太郎編訳 『ロダンの言葉』 (1916年刊)を紹介する企画展を開催いたします。
書籍『ロダンの言葉』は、ロダンに関するさまざまな外国語文献を高村が翻訳・編集したものです。通常ありがちな芸術家の伝記ではなく、ロダンが芸術について話した言葉を集めたもので、意味深い名言にあふれています。「地上はすべて美しい、汝等はすべて美しい」「宗教なしには、芸術なしには、自然に対する愛なしには-此の三つの言葉は私にとつて同意味であるが-人間は退屈で死ぬだらう」「彫刻に独創はいらない、生命がいる」等々。
 これらは、芸術の真髄を言い得た金言であり、読む者の心をふるわせずにはおきません。『ロダンの言葉』を読んで、その感動から彫刻を志した者も少なくなかったといいます。刊行以来100年の月日を経ても今なお、芸術を見る者、考える者にとって、味わい深く、示唆に富む、大変魅力的な著作です。
 これを機に、一人でも多くの方が、ロダンの芸術館にふれるとともに、芸術とりわけ彫刻への理解を深めていただくことを願って本企画展を開催いたします。

背面の大きな壁には、年譜。今年が歿後100年となるロダンその人のものと、日本におけるロダン受容の歴史に関してまとめられています。

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会場内はパーテーションで二つに区切られており、奥の区画には光太郎、荻原守衛等の彫刻の実作が展示されています。

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光太郎のものは、すべてブロンズで、左から「裸婦坐像」(大正6年=1917)、「園田孝吉像」(同4年=1915)、「手」(同7年=1918)、「腕」(同)。いずれも光太郎が『ロダンの言葉』編訳に取り組んでいた頃の作です。

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他に、ロダンに影響を受けた戸張孤雁、中原悌二郎の作も。

そして、荻原守衛の「坑夫」の石膏。初めて見ました。ブロンズにイメージ 9鋳造されたものは、守衛代表作の「女」などとともに、本館である碌山館に展示されていますが、こちらは石膏です。守衛がフランスのアカデミー・ジュリアンで学んでいた明治41年(1908)の習作ですが、パリでそれを見せられた光太郎曰く、

この首はまるで自由製作のやうであつて、モデル習作じみたところがない。モデルは生徒仲間によく知られてゐるイタリヤ人の若者で、多分このポーズも教室の合議できめたもので、彼の勝手にきめたものではなからうが、教室の習作にありがちな、いぢけたところがまるでなく、のびのびと自由に製作されて、作家の内部から必然的に出てきた作品に見え、あてがはれたポーズといふ感じがまるでないのにまづ驚いたのである。作風はロダンの影響がまざまざと見えるもので、面(めん)やモドレや粘土の扱ひ方までそつくりであるが、それが少しもただのまねごとには感ぜられず、彼自身の内部要求として強く確信を以て行はれてゐるので、そのロダンじみてゐることが苦にならなかつた。そしていかにも生き生きしてゐた。私も若い頃なので大に感動し、これを習作としてこはしてしまふのは実に惜しいから是非とも石膏にとるやうにと彼に極力すすめた。彼は近いうちに日本に帰るといふことだし、是非これは持つて帰るやうにとくり返し彼に語つた。実物大よりも少し大きいので厄介だらうが、必ずこの習作はこはさぬやうにとくどく念を押した。
(「荻原守衛―アトリエにて5―」 昭和29年=1954)

ということでした。


手前の区画には、ロダンその人の「鼻のつぶれた男」、そしてロダンの弟子、カミーユ・クローデルの「ロダン」。

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どちらも同館で所蔵しているそうですが、常設展示はされていなかったものです。

それを取り囲むように、各種の文献。

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光太郎の識語署名入り『ロダンの言葉』初版。

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光太郎が暗記するほど読んだというカミーユ・モークレール著のロダン評伝などの洋書。このあたりは、当会顧問・北川太一先生の蔵書です。

正続『ロダンの言葉』のさまざまな版。同館所蔵のものや、学芸員氏の私物も並んでいるそうです。新しめのマイナーなものは当方がお貸ししました。

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昭和4年(1929)に叢文閣から刊行された正続普及版がベストセラーとなり、舟越保武、柳原義達、佐藤忠良ら後進の彫刻家たちはこれを読んで彫刻の道を志しました。

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『白樺』などの「ロダンの言葉」初出掲載誌、光太郎以外のロダン紹介文献なども。

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右のブールデル著、関義訳『ロダン』(昭和18年=1943)は、光太郎の装幀。序文も光太郎が書いています。

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壁にはロダンの言葉の抜粋も。

前日の夜まで大わらわで準備に当たられたそうですが、なかなか充実の展示でした。

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隣接する第1展示棟には、『ロダンの言葉』と時期のずれた光太郎ブロンズの数々。少しずつ買い足され、かなりの点数になっています。


企画展は9月3日(日)までの開催です。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

繭には糸口、存在には詩の発端。いたるところの即物即事に、この世の絲はひき切れない。
詩「寸言」より 昭和11年(1936) 光太郎54歳

さかのぼること10年、「彫刻十個條」という散文では、「彫刻の本性は立体感にあり。しかも彫刻のいのちは詩魂にあり。」と記しています。世の中のどんなものにも、その詩魂の発端をみつけられるものだ、ということでしょうか。

この「寸言」という詩、永らく初出掲載誌が不明でしたが、この年7月、東京農業大学農友会文芸部から発行の雑誌『土』第22号に掲載が確認できています。

「プレミアム“カルチャー”フライデー」PRイベント。

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先週のニュースです。

まず『スポーツニッポン』さんから。 

関ジャニ横山&丸山 芸術鑑賞はいかが!?

関ジャニ∞の横山裕(36)と丸山隆平(33)が30日、東京国立近代美術館で行われた「プレミアム“カルチャー”フライデー」イベントに出席した。

 プレミアムフライデーは政府などが推奨し、毎月末の金曜日に就業時間を短くしてプライベートを充実させる試み。関ジャニ∞がナビゲーターを務めている。今月は芸術鑑賞を提案しており、2人は同館所蔵の高村光太郎の「手」を鑑賞。横山は「敷居の高いイメージだったが、芸術作品を身近に感じた」と感激していた。

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『日刊スポーツ』さん。 

横山裕「大人になった」丸山隆平の文化的活動に感激

 関ジャニ∞横山裕(36)と丸山隆平(33)が30日、東京・東京国立近代美術館で、プレミアムフライデーのナビゲーターとして、文化を切り口に、月末の金曜日の活用を提案する「プレミアム“カルチャー”フライデー」のPRイベントに出席した。

 普段の文化との触れあいに横山は「最近、舞台をよく見ています。勉強にもなるし、非現実的な空気感を体感すると、いい刺激をうけます」。丸山も「ミュージカルをよく見に行っています。史実をテーマにしている作品だと当時の文化を知ることができるので、はまっています」と紹介した。また、絵を購入して鑑賞しているとも。丸山の絵の話に横山は「大人になったな」と感激していた。

 イベントでは、同美術館にある高村光太郎作の「手」が披露された。丸山が「手」のポーズをまねながら「やっぱり、人の人生っていうのは、そんなに簡単なものじゃないと、体で感じてこそ、それが人生」と作品にこめられた思いを推測。横山は「すごい浅はかですけど大丈夫ですか」と丸山を心配しながらも「作品に疎い方でも簡単な楽しみ方もあるんですね」と感心していた。

 一方、イベントには文化庁長官の宮田亮平氏も出席。宮田氏は「高村光太郎ですよね。これが出てくるとは思わなかった。こんな近くで見させてもらうなんて」と興奮気味。丸山が「今ずっと我慢してたんですね」と話しかけると、宮田氏は思わず「お前たちの話、終わらないかなと」と本音をポロリ。横山は「ものすごいテンション」とたじたじになっていた。

 同所では、7月19日以降の金曜、土曜は午後9時まで開館している。丸山は「夜遅くまで楽しめるなら、仕事終わりのデートで美術館に行くというのもいいんじゃないかな」とPR。最後は、横山が「頑張るだけでなく自分にご褒美をあげて、また頑張るというきっかけにプレミアムフライデーを使ってもらえたらいい。美術品を見てよりいっそう思った」と語った。


『スポーツ報知』さん。 

関ジャニ∞横山&丸山、高村光太郎の「手」に興奮

 「関ジャニ∞」の横山裕(36)と丸山隆平(33)が30日、東京・竹橋の東京国立近代美術館で「プレミアム“カルチャー”フライデー」のPRイベントに出席した。プレミアムフライデーは「月末の金曜日は仕事を早く終えて豊か・幸せにすごす」というコンセプトで今年2月から経済産業省などが提唱。2人はナビゲーターを務める。

 この日は横山と丸山の間に手の形をした彫刻が至近距離で登場。横山と丸山が何も知らずに「男の手なのかな~」「筋張っているよね」などと論じていると、関係者が「高村光太郎の『手』です」と紹介。めったに近くで見られない美術品を目の当たりにして「おお、急にすごい手に見えてきた」(横山)、「帰って調べないと」(丸山)と急にテンションが上がっていた。


一般紙では『毎日新聞』さんの東京版。 

美術館へ行こう 千代田でイベントPR /東京

 プレミアムフライデー推進協議会は30日、千代田区の東京国立近代美術館で、プレミアムフライデーの活用方法として美術館巡りなどを提案するPRイベントを開催した。
 イベントには、プレミアムフライデーナビゲーターを務める関ジャニ∞の横山裕さん、丸山隆平さんが登場。同館の蔵屋美香企画課長は2人に、同館が所有する高村光太郎の彫刻「手」を例に「ポーズをまねてみることで作品が身近に感じられますよ」とアドバイスした。
 横山さんは「美術館は敷居が高かったが、プレミアムフライデーをきっかけに足を運びたい」。丸山さんは「仕事が終わってからデートに美術館に行くのもいいですね」などと語った。【遠山和彦】


テレビのニュースでも取り上げられていました。

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「プレミアムフライデー」自体は、頓珍漢な政府主導で国民の生活実態とかけ離れている、と批判の多い取り組みですが、美術館へ行こう、という呼びかけは否定されるものではありませんね。月末の金曜日に限らず、ですが。


光太郎の「手」、東京国立近代美術館さんで開催中の平成29年度第1回所蔵作品展「MOMATコレクション」で展示中です。以前にも書きましたが、大正期の鋳造であると確認できている3点のうちの一つ。台座の木彫部分も光太郎の手になるもので、有島武郎の旧蔵品です。ぜひご覧ください。


【折々のことば・光太郎】

主人は権威と俗情とを無視した。 主人は執拗な生活の復讐に抗した。 主人は黙つてやる事に慣れた。 主人はただ触目の美に生きた。 主人は何でも来いの図太い放下(はうげ)遊神の一手で通した。 主人は正直で可憐な妻を気違にした。

詩「ばけもの屋敷」より 昭和10年(1935) 光太郎53歳

大正期には、智恵子との愛の巣として高らかに「わが家(や)の屋根は高くそらを切り その下に窓が七つ 小さな出窓は朝日をうけて まつ赤にひかつて夏の霧を浴びてゐる」(「わが家」大正5年=1916)と謳われた、駒込林町のアトリエ。

長期にわたった介護の末、智恵子は南品川ゼームス坂病院に入院し、光太郎は一人暮らしです。疲れ切ってすさんだ光太郎の内面は、住居の外観、というか全体を包む空気感にも影響したようで、近所の子供達は「化け物屋敷」と呼んでいたとのことでした。

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福島川内村 第52回天山祭り。

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当会の祖、草野心平が愛し、心平歿後は心平を偲ぶ催しとなったイベントです。 
期   日 : 2017年7月8日(土)
会   場 : 天山文庫 福島県双葉郡川内村大字上川内字早渡513
         雨天時 川内村村民体育センター 福島県双葉郡川内村大字上川内字小山平15
時   間 : 11:30~14:00
参  加  費  : 500円

福島県双葉郡川内村大字上川内字小山平15                    天山文庫の前庭で毎年開催されている天山祭りは、心平先生が好きであった祭りです。みんなが酒や肴を持ち寄り、時を忘れるほどに楽しんだ祭り。
いまでも心平先生の遺徳をしのび、酒や肴、山菜が振舞われるほか、詩の朗読や伝統芸能の披露などのイベントもあり、非常に文化的価値の高い祭りです。
昭和37年、村は仮称「心平文庫」の議案を決め、草野心平の友人、建築家山本勝巳に設計を委託しました。昭和41年7月、「天山文庫」と正式名称も決まり落成式が行われました。文庫には、1968年にノーベル文学賞を受賞した川端康成揮亳の「天山」の扁額や、版画家 棟方志功の書が掲げられています。この祭りは、故草野心平先生の遺徳をしのび、出会いと交流を図るお祭りで、各自が持ち寄った酒や肴、山菜料理を食ながら親睦と融和を深めるものです。国内外からの参加者も含めて、川内村の夏のイベントとして広く全国に知られています。

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会場の天山文庫は、名誉村民だった心平が蔵書3,000冊を村に寄贈、それを収めるために、村人が一木一草を持ち寄り、ボランティアで建設したものです。建設委員には、光太郎の実弟で、鋳金の人間国宝、心平と親しかった高村豊周も名を連ねていました。

東日本大震災以降は、復興祈願的な意味合いも加わり、遠方からの参加も多く、盛り上がっています。非公式ながら、夕方からは心平ファンの皆様が「かえる忌」会場ともなっている小松屋旅館さんで「二次会」を開き、こちらも盛り上がっています。

昨年は欠礼いたしましたが、その前まで3年間、参加させていただきました。
福島川内村・天山祭り。(平成25年=2013)

実は今年も別件で都内に出かけるため、参加できません。申し訳なく思っております。盛会となることを祈念いたしております。


【折々のことば・光太郎】

詩に循ずる者能く詩を嗣ぎ、 詩を脱せる者能く詩を生む。 前者堕して滔々たる新様の月並みとなり、 後者陊(やぶ)れて磊々たる途上の瓦礫となる。

詩「詩の道」より 昭和10年(1935) 光太郎54歳

「循」は、訓読みでは「したがう」とする場合があり、「決まったルールに従う」といった意味です。いわゆる「大家」と目され、詩史の系譜に連なる人々を指すかと思われます。

「詩を脱せる者」は、そうした系譜からの鬼子のような、例えば宮沢賢治、そして草野心平、そして心平と近い位置にいて、光太郎とも親しく交わった更科源蔵、猪狩満直、尾形亀之助、黄瀛などなど。心平はともかく、賢治も早世し、他の詩人達もはっきり言えば無名のまま「途上の瓦礫」。ある意味、手厳しいですね。

しかし、光太郎自身は、この後、大政翼賛の方向に転身し、「堕して滔々たる新様の月並みとな」って行きます。

明治古典会七夕古書大入札会2017。

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毎年この時期に行われる、古書業界最大の市(いち)、七夕古書大入札会。先週、出品目録が届きました。ネット上でも見られるようになっています。

毎年、光太郎関連も貴重な出品物があります。目録では作者ごとに並べてあり、光太郎メインは「文学」の№102~106。もの自体はいいものが多いのですが、以前から都内の古書店さんが在庫として持っていたものばかりで、目新しいものはありませんでした。昨年と同じ出品物も含まれています。

№102の「高村光太郎詩稿 三枚」。大正15年(1926)の第二期『明星』に発表された「滑稽詩」です。

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№103で「高村光太郎詩稿額 一面」。昭和15年(1940)、『文芸』が初出の詩「へんな貧」です。

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№104は「高村光太郎草稿 三枚」。昭和18年(1943)に刊行された木村直祐、宮崎稔共編詩集「再起の旗」の序文です。

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№105、「高村光太郎書簡 一通」。これも以前から都内の古書店のサイトに在庫として掲載されていましたが、逆の意味で興味を引かれています。というのは、全く同じ文面の葉書が別に存在するのです。そして、こちらはどうも光太郎の筆跡とは異なっています。そのわりには封筒もついており、どういうことだろうと不思議に思います。出品物全点を手に取って見ることができる下見展観がありますので、その際に確認してみようと思っています。

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№106が「高村光太郎を巡る草野心平・尾崎喜八書簡葉書」。詩人志望の青年に、断念するよう忠告する内容の光太郎書簡が二通。画像上半分は、詩集を出版したいので序文を書いてくれ、という求めに対し、断りの書簡と共に別便で送られてきた詩稿を返送した際の包装と鉄道荷札です。尾崎喜八、草野心平からの書簡も附いています。

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これ以外に、光太郎メインではない出品物で、光太郎のものも含まれているものがあり、かえってこちらに興味を引かれています。

№347に「更科源蔵「犀」“種薯”紀念号 草稿及書簡・ハガキ類綴」。北海道弟子屈で開拓にあたりながら詩作を続けた詩人・更科源蔵の詩集『種薯』(昭和5年=1930)を特集した雑誌『犀』(同6年=1931)のための草稿など。光太郎の「更科源蔵詩集「種薯」感想」の草稿も含まれています。これは実物を見たことがなく、また、画像を見ると原稿用紙欄外にいろいろ書き込みがあり、非常に興味深いものです。

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北海道の方では、新たな文学館の建設計画があり、そのあたりに収蔵されれば、と思っています。

さらに№346で「文学者葉書集 七九枚」。光太郎のものも含まれています。『高村光太郎全集』等未収録のものであってほしいと思っております。

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№338には「ARS 六冊」。大正4年(1915)のもので、6冊すべてに光太郎訳の「ロダンの言葉」が掲載されています。

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他にも光太郎に関わる出品物がありそうな気配です。

出品物全点を手に取って見ることができる下見展観が、7月7日(金)午前10時〜午後6時、7月8日(土)午前10時〜午後4時に行われます。会場は神田神保町の東京古書会館さん。別件の用事もあり、当方は8日に行って参ります。

皆様も是非どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

幽暗の水底(みなぞこ)にふかく沈んで 三十六鱗イメージ 2にひびく苛烈の磁気嵐に耐へ、 一切を感じて静かに息する鯉を彫る。 波をうてば瀧をも跳ぶし、 雲にのれば龍と化する、 あの鯉の静まり返つた幽暗の烈気を彫る。

詩「鯉を彫る」より 昭和11年(1936) 光太郎55歳

木彫「鯉」は、新潟の歌人・松木喜之七の依頼で彫り始めましたが、結局、納得の行く作が出来ず、断念しました。光太郎としてもかなり力を入れて取り組んでいて、この詩からもそれがうかがえます。

複数点完成させた「鯰」と異なり、鱗の処理がどうしてもうまくいかなかったとのこと。

土門拳による制作風景の写真が残っています。

文芸同人誌『河太郎』第43号。

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先日、主に北海道の文学に注目する北方文学研究会さん発行の同人誌『北方人』の第27号を頂きましたが、その中で、釧路で発行されている文芸同人誌『河太郎』第43号が紹介されていました。光太郎に触れる論考が掲載されているとのことで、関係先(web上にアップロード作業をされている同誌サポーターの奈良久氏)に連絡をとったところ、無料で頂いてしまいました。恐縮です。

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光太郎に触れる論考は、『釧路新聞』記者の横澤一夫氏による「原始の詩人たちの時代 『 至上律 』 『 北緯五十度 』 『 大熊座 』」。

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昭和初期に北海道で発行されていた詩誌 『至上律』、『北緯五十度』、『大熊座』に関するもので、それぞれ弟子屈で開拓に当たりながら詩作を続けた更科源蔵を中核とした雑誌です。

このうち、『至上律』は光太郎の命名。他に発表したものからの転載が多いのですが、ヴェルハーレンの訳詩などを多数寄稿しています。この雑誌は戦後まで続き、隠遁生活を送っていた花巻郊外太田村のスケッチなども寄せました。

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『大熊座』は、昭和13年の刊行。一号で終わってしまいましたが、詩「夢に神農となる」、「高村光太郎作木彫小品・色紙・短冊頒布」の広告を寄せています。

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『北緯五十度』には光太郎の寄稿は確認できていません。

これら三誌をめぐり、更科と光太郎以外にも、さまざまな人物が関わっています。伊藤整、尾崎喜八、猪狩満直、草野心平、真壁仁、森川勇作……いずれも光太郎と因縁浅からぬ面々です。それらの織りなす人間模様について詳しく述べられ、興味深く拝読致しました。

さらに昨日ご紹介しましたが、今年の明治古典会七夕古書大入札会に、光太郎のものを含む、更科の詩集『種薯』(昭和5年=1930)を特集した雑誌『犀』(同6年=1931)のための草稿類が出品されており、奇縁を感じました。

先述の通り、web上にアップロードされています。是非お読み下さい。


【折々のことば・光太郎】

――原始、 ――還元、 ――岩石への郷愁、 ――燃える火の素朴性。

詩「荻原守衛」より 昭和11年(1936) 光太郎54歳

亡き友を偲ぶ詩です。守衛が(そして自らも)目指した彫刻のあるべき姿が端的に表されています。

この年刊行された相馬黒光による守衛回想、『黙移』に触発されての作と思われます。現在、夏季企画展示「高村光太郎編訳『ロダンの言葉』展 編訳と高村光太郎」が開催中の信州安曇野碌山美術館さんに、この詩を刻んだ詩碑が建てられています。

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高村光太郎記念館夏休み親子体験講座「新しくなった智恵子展望台で星を見よう」。

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光太郎が戦後の七年間を過ごした花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)に隣接する花巻高村光太郎記念館さん主催の市民講座です。

まだ先の話ですが、申し込みの〆切がありますのでご紹介してしまいます。 
期   日 : 2017年7月29日(土)
時   間 : 午後7時から8時30分まで
場   所 : 高村山荘周辺 岩手県花巻市太田第3地割85番地1
対   象 : 花巻市内に在住または市内に在学する小・中学生とその保護者
定   員 : 10組20人  定員を超えて申し込みがあった場合には抽選となります。
申し込み  : 花巻市生涯学習課 0198-24-2111(内線418) 7月18日(火)〆切
料   金 : 1組400円(教材費、保険料)

高村光太郎は、山や海などの眺めやさまざまな動植物を詩に詠み、大自然を愛した詩人でした。大自然の一部である月や星の美しさ、魅力についても若いころから書き残しています。
旧太田村山口に移り住んでからの光太郎の世界を自然豊かな里山で月や星の観察をしながら感じます。

講   師 : 天文サークル星の喫茶室 伊藤修氏・根本善照氏
         高村光太郎連翹忌運営委員会代表 小山弘明 

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というわけで、講師を仰せつかりました。メインの天文の話は天文サークル星の喫茶室のお二方に任せ、当方は光太郎と天体について、簡単にお話しさせていただきます。

旧太田村に移り住んだ昭和20年(1945)からしばらく、光太郎は詳細に日記をつけていました。その中で、月に関する話――イラスト入りでどんな形だったとか、何時頃月の出だったとか――や、オリオン座、サソリ座、北斗七星などの目立つ星座、火星や金星などに関しての記述がたくさん見られます。今でもおそらくそうですが、旧太田村は夜間の明るい灯火がほとんどなく、夜空の観察にはもってこいだったのでしょう。

昭和22年(1947)には、姻戚の詩人・宮崎稔に村上忠敬著『全天星図』と『星座早見表』を購入して送ってくれるよう頼んでいます。日記以外にも、若い頃からの詩文に、月や星に関する内容がけっこうあったり、飼っていたの名前を星の名前にしていたりもしています。光太郎は天体についてきちんと体系的に学んだというわけではなさそうですが、山川草木禽獣鳥魚を愛した光太郎ですので、そうした自然志向の一環でしょう。そのあたりの話を、と考えています。

講座当日、星の観察は、今春、新たにウッドデッキを新設した智恵子展望台(高村山荘裏手の高台)から、当方の講話は、展望台下の旧高村記念館で行います。晴れるといいのですが、どうなりますことやら……究極の雨男・光太郎もこの日は遠慮して欲しいと思います(笑)。

対象は花巻市内の小・中学生とその保護者ということですが、集まっていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

あの天のやうに行動する。 これがそもそも第一課だ。 えらい人や名高い人にならうとは決してするな。 持つて生まれたものを深くさぐつて強く引き出す人になるんだ。 天からうけたものを天にむくいる人になるんだ。 それが自然と此の世の役に立つ。
詩「少年に与ふ」より 昭和12年(1937) 光太郎55歳

星を包摂する「天」の語も、光太郎は好んで使いました。こせこせしない人間的なスケールの大きさにもつながりますね。
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