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酒井忠康『片隅の美術と文学の話』。

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新刊情報です。 
2017年4月27日 求龍堂 酒井忠康著 定価2,800円+税

文豪や詩人、画家たちのサイドストーリー
 『鍵のない館長の抽斗』に続くエッセイ集第2弾。
 館長の抽斗奥からさらに出てきた、文学と美術をめぐる32の物語。
 現代日本を代表する美術史家、世田谷美術館館長・酒井忠康の軽妙かつ深い見識によって、近代日本を代表する文豪や詩人、画家たちの精神が映し出され、一筋縄ではいかない強烈な個性の作家たちの生き様が目に浮かぶ。
 「鏑木清方《三遊亭円朝》をめぐる話」…鏑木清方と麻生三郎が、三遊亭円朝を挟み、時空を超えて江戸と昭和を繫ぐ。「川端康成と古賀春江」…川端康成の心を揺らし続けた画家・古賀春江について。「芥川龍之介の河童の絵」…芥川龍之介の人生を写したかのような自身による河童の絵の話。「渋澤龍彦の最後の注文書」…偶然に見せてもらえた、生前最後の本の注文書について等、読み出すと止められない、読書心をくすぐる名エッセイ集。

目次
 Ⅰ文学と美術イメージ 1
  志賀直哉と「美術」
  高村光太郎―パリで秘密にしたもの
  高村光太郎の留学体験

  鏑木清方《三遊亭円朝》をめぐる話
  谷崎潤一郎の美的側面
  夢二と同時代の美術
  川端康成と古賀春江
  芥川龍之介の河童の絵
  『枕草子』に駆らられた断章
  岡倉天心の『茶の本』―もっもっと深く知りたい日本
  夏目漱石の美術批評「文展と芸術」
  時代をとらえた眼の人

 Ⅱ詩と絵画
  村山塊多と詩と絵画
  萩原朔太郎の装幀
  西脇順三郎の絵
  幻影の人、西脇順三郎の詩と絵画
   対談 吉増剛造(詩人)×酒井忠康
  「瀧口修造 夢の漂流物」展に寄せて
  文具店の溝口修造
  中島敦と土方久功
  喪失と回生と―保田與重郎イメージ 2
  吉田一穂の書と絵のこと
  高見順と素描
  画人・三好豊一郎
  画家の詩、詩人の絵
   対談 窪島誠一郎(無言館館長)×酒井忠康
 
 Ⅲ文学散歩
  かまくら文士の片影
  安岡章太郎展の一隅
  近藤啓太郎『大観伝』にまつわる消された話
  渋澤龍彦の最後の注文書
  ある日の磯田光一
  前田愛と小林清親
  ある消息―山田稔著『マビヨン通りの店』
  曠野の一軒家―米村晃太郎と神田日勝
  再会の夜の雪道―加藤多一

 Ⅳ描かれたものがたり
  美術と文学の共演

 あとがき


世田谷美術館館長の酒井忠康氏による、雑誌、展覧会図録などに発表された散文、対談を集めたものです。

第一章で、「高村光太郎―パリで秘密にしたもの」「高村光太郎の留学体験」の2編が配されているほか、光太郎と交流のあった人物をメインにした項などでも、光太郎に触れる箇所があります。村山槐多の項、平塚市美術館さんから全国を巡回した「画家の詩、詩人の絵-絵は詩のごとく、詩は絵のごとく」展図録に掲載された、窪島誠一郎氏との対談など。

その他、光太郎には触れられないものの、やはり交流のあった人物が多く取り上げられており、興味深く拝読しております。志賀直哉、岡倉天心、夏目漱石、萩原朔太郎、土方久功、高見順などなど。

酒井氏のご著作、昨秋にはみすず書房さんから、『芸術の海をゆく人 回想の土方定一』が刊行され、やはり光太郎にも触れられています。あわせてお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

なにがし九段のさす駒は 見えない造化の絲を持つ。 飛車、角、金、銀、 桂馬の道化にいたるまで、 うてば響いて自然とはたらき 寄せればかへし、 ちればあつまり、 波のやうでもあり、雲のやうでもあり、 はつきりは誰も知らぬ深いところから ただなごやかに動いてゐる。
詩「なにがし九段」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

珍しく、将棋を題材にしています。「なにがし九段」は十三世名人・關根金次郎。慶応年間の生まれですので、この頃は大御所の域に達しています。

その名人の駒の動きに「美」を見いだす光太郎。視覚的な造形美というより、一定の秩序や理法にのっとり、なおかつ意外性も持ち合わせた「見えない造化の絲」を讃えているのでしょう。

同じように「見えない造化の絲」を持つものへの賛美は、多方面にわたります。詩歌における言葉の用法もそうですし、音楽や、アスリートのファインプレイ、はたまた能楽師の動きなどにもそれを見いだしています。深く「美」を感じ得る魂には、そこかしこに「美」が感じられるのですね。そういう感性、見習いたいものです。

将棋と言えば、昨今、14歳プロ棋士・藤井聡太四段の快進撃が話題になっています。大御所とはまたひと味違う駒運び、光太郎が見たらどう表現するかと、興味深いところです。

『岩波茂雄文集 第3巻』 (その1)。

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昨日に引き続き、新刊情報です。 

岩波茂雄文集 第3巻

2017年3月27日 岩波書店 植田康夫/紅野謙介/十重田裕一 編  定価4,200 円+税

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全3巻 内容見本より
 一九一三年、神田高等女学校にて教鞭をとっていた岩波茂雄は、その職を辞して神保町の地に古書店を開業しました。出版業の道を歩み始めてのちは、「文化の配達人」を志し、岩波文庫の発刊、講座や全集の刊行などを通して、理想の出版を追い求めました。日中戦争開戦の翌年、一九三八年には、軍国主義化の時局を深く憂いながら、岩波新書を創刊しています。言論弾圧の風潮が高まるさなかでも、その志に変わりはありませんでした。四五年には、敗戦を「天譴」と受けとめ、文化国家再建のために雑誌『世界』を創刊しました。
 日々の仕事のなかで、茂雄は何を思い、いかなる信念を抱いて、出版の未来を展望していたのでしょうか。中学時代の請願書から無条件降伏に触発された最晩年の手記まで、生涯に書き遺したさまざまな文章を年代順に集成します。本文集は、一出版人の軌跡であり、近代日本の学術と文芸をめぐる一つの精神の記録でもあります。

第3巻内容
 創業から三十年を迎えた岩波書店は、戦況の悪化に伴う物資の不足と言論統制のもとで、厳しい経営状況へと追い込まれていく。四四年にはすべての雑誌が休刊、四五年半ばには出版活動の休止を余儀なくされた。戦後の荒廃と混乱のなかで、敗戦を「天譴」と捉えた茂雄は、再出発にあたりどのような決意を抱いていたのか。

目次
 Ⅰ 戦時体制下の出版人 一九四二―四四年
 Ⅱ 貴族院議員となる 一九四五年
 Ⅲ 「文化の配達夫」 一九四六年
 Ⅳ 年代不詳
  解題  主要参考文献一覧  付録  解説 年譜


というわけで、岩波書店さんの創業者、岩波茂雄の全集、その3巻目(最終巻)です。

光太郎と岩波書店さんの縁は深く、昭和8年(1933)には「岩波講座世界文学」シリーズの『現代の彫刻』をまるまる一冊執筆し、6人の共著『近代作家論』ではベルギーの詩人、エミール・ヴェルハーレンの評伝を寄せています。昭和30年(1955)には美術史家の奥平英雄編で『高村光太郎詩集』が岩波文庫のラインナップに組み込まれた他、光太郎歿後、『ロダンの言葉抄』(同35年=1960)、『芸術論集 緑色の太陽』(同57年=1982)も同文庫で刊行されました。また、同社刊行の雑誌『図書』にも寄稿しています。

そうした縁から、岩波茂雄は光太郎に寄稿以イメージ 3外にもいろいろ依頼をしています。

まず、社章。同社のハードカバーには、必ず背の下部に印刷されています。ミレーの「種まく人」をモチーフにしたものです。

岩波茂雄の言によれば、

ミレーの種蒔きの画をかりてマークとしたのは、私が元来百姓であって労働は神聖なりという感じを特に豊富に持って居り、従って晴耕雨読の田園生活が好きであるという関係もあり、詩聖ワーズワースの ”低く暮らし、高く思う”を店の精神としたためです。なお文化の種をまくというようなことに思い及んでくれる人があれば一層ありがたい。

とのことです。

同社のホームページには、「「種まく人」のマークについて」ということで、

創業者岩波茂雄はミレーの種まきの絵をかりて岩波書店のマークとしました。茂雄は長野県諏訪の篤農家の出身で、「労働は神聖である」との考えを強く持ち、晴耕雨読の田園生活を好み、詩人ワーズワースの「低く暮し、高く思う」を社の精神としたいとの理念から選びました。マークは高村光太郎(詩人・彫刻家)によるメダルをもとにしたエッチング。

とあります。

光太郎によるメダルというのがこちら。昭和8年(1933)頃の制作と推定されています。

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しかし、これは不採用だったと、光太郎自身が語っています。

戦争がまだあまり烈しくなかつた頃だと思ふが、或日岩波さんがきて店のマークにするのだからミレーの種まく人をメダルに作つてくれといふことだつた。頭や手がメダルの円の外へはみ出しても構はないから、のびのびと作つてくれといふ。私も面白いと思つて、ニユーヨークのメトロポリタン美術館にある種まき絵を原本にして直径五寸の粘土メダルを作り、それを石膏型にして根津に居たメダル縮圧工作家にたのんで洋服の胸につけるバツジ大にプレツスしてもらつた。

と、まぁ、ここまではいいのですが、この後、急転直下します。

ところがこれを岩波さんの店に届けると物議がおこつた。種まきの人物があまり威勢がよく、かぶつてゐるおかま帽がまるで鉄かぶとのやうに見え、総体に軍国調のにほひがするといふことであつた。さういはれてみると、あの農夫のおかま帽はその頃みなのかぶつてゐた鉄かぶとじみてゐるのに気づき、私も苦笑してこれは止すことにした。その後岩波さんは誰かにたのんで、もつとおだやかな種まく人を描いてもらひ、それを店のマークにして岩波文庫はじめ其他の出版物に用ゐ、今日でもつづいてゐる。バツジに作つたかどうかは知らない。私は石膏の原型を引きとつて、アトリエにぶらさげて置いたが、これも焼けた。
(「焼失作品おぼえ書」 昭和31年=1956)

光太郎の作ったメダルに対し岩波茂雄がダメ出しをして不採用、使われている社章は別の「誰か」が描いたものだというのです。

しかし、同社のホームページにはそのあたりの記述がありません。そこで考えられるのは、「誰か」が誰だか、同社でも不明であるということ。しかし、ブロンズに鋳造されたメダルの現物は同社に残されており(上の画像)、こちらは光太郎作とはっきりわかっていて、さらに岩波茂雄によるダメ出しがあったという事実も忘れ去られ、そんなこんなで、「光太郎の意匠」となってしまっているのではないのでしょうか。

平成5年(1993)、同社から刊行(非売)された『写真で見る岩波書店80年』の扉にも、このメダルの写真がドーンと使われています。

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本来はボツ作品なのですが……(笑)。


さて、寄稿以外の岩波茂雄による光太郎への依頼、もう1件ありまして、そちらについて調べるために『岩波茂雄文集 第3巻』を購入したのですが、もう、今日の記事が長くなってしまったものですから、明日に回します。このブログ、執筆にあまり時間をかけますと、エラーが生じます。ご寛恕のほど。


【折々のことば・光太郎】

智恵子は遠くを見ながら言ふ、 阿多多羅山(あたたらやま)の山の上に 毎日出てゐる青い空が 智恵子のほんとの空だといふ。 あどけない空の話である。

詩「あどけない話」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

人口に膾炙しているという意味では光太郎詩の代表作の一つ「あどけない話」。89年前の明日(5月11日)に書かれた詩です。

東日本大震災に伴う福島第一原発の事故後、福島の復興への合い言葉的に、広く使われるようになった「ほんとの空」の語は、これが出典です。

この詩に関しては繰り返し述べてきたので、さらに繰り返しません。繰り返しませんが、福島に「ほんとの空」が一日も早く戻ることを願ってやみません。

『岩波茂雄文集 第3巻』 (その2)。

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昨日ご紹介した、岩波書店さん刊行の『岩波茂雄文集 第3巻』。昭和17年(1942)11月3日、丸の内の大東亜会館(現・東京會舘)で開催された、同社の創業30周年を記念する「回顧三十年感謝晩餐会」について調べるために購入しました。

光太郎も出席したこの席上、岩波茂雄から光太郎に依頼があって作られた岩波書店店歌「われら文化を」が披露されています。作曲は「海ゆかば」などで有名な信時潔。前年には、やはり光太郎作詞の「新穀感謝の歌」の作曲も手がけています。こちらは宮中で行われていた新嘗祭を全国規模に拡大した新穀感謝祭にかかわります。

「回顧三十年感謝晩餐会」については、同年・同社刊行の雑誌『図書』第83号終刊号や、昨日もご紹介した『写真で見る岩波書店80年』(平成5年=1993)などに詳しく紹介されていますが、『岩波茂雄文集 第3巻』、その補完資料として使えそうです。

『図書』や『写真で見る岩波書店80年』にも載っていた、当日の写真。出席者は520余名だったそうです。

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それから、こちらも『写真で見る岩波書店80年』とかぶりますが、左から信時、岩波茂雄、光太郎の3ショット。

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こちらが撮影されたのは、熱海にあった岩波茂雄の別荘「惜櫟(せきれき)荘」。昭和16年(1941)の竣工です。「居眠り磐根江戸草子」「酔いどれ小籐次留書」シリーズなどで有名な時代小説家の佐伯泰英氏が買い取り、建造当時の形に解体復元されたことが話題になりました。平成25年(2013)にはBS朝日さんでその様子を追ったドキュメンタリー「惜櫟荘ものがたり」が放映され、光太郎についても触れられていました。

キャプションには信時の名はありませんが、信時側の資料である、平成20年(2008)、財団法人日本伝統文化振興財団から発行されたCD6枚組「SP音源復刻盤 信時潔作品集成」付録のブックレットに、信時家に伝わる惜櫟荘での写真が掲載されており、同じ日に撮影されたものと思われます。

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おそらくこの時に、「われら文化を」作成の相談が為されたのではないでしょうか。

「われら文化を」、歌詞は以下の通りです。

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 あめのした 宇(いへ)と為(な)す、
  かのいにしへの みことのり。
 われら文化を つちかふともがら、
 はしきやし世に たけく生きむ。

 おほきみかど のりましし
 かの五箇条の ちかひぶみ。
 われら文化を つちかふどもがら、
 思ひはるかに 今日もゆかむ。

 ひんがしに 日はありて
 世界のうしほ いろふかし。
 われら文化を つちかふともがら、
 こころさやけく 明日もゆかむ。


「回顧三十年感謝晩餐会」の席上、「岩波合唱団」によって初演されました。指揮は澤崎定之、ピアノは宮内(瀧崎)鎮代子(しずよこ)。「岩波合唱団」とうのは実態がよくわかりませんが、澤崎と宮内は、この時代、それなりに名の通っていた音楽家です。斉唱、二部合唱、四部合唱と、三回演奏されたとのこと。

このうち、斉唱バージョンがレコード化されています。レーベルは「音研」。正式には「目黒音響科学研究所」といい、社歌や校歌などの自主制作盤を手がけていました。現物を入手しようと探しているのですが、なかなか見つかりません。ただ、先ほどもご紹介したCD6枚組「SP音源復刻盤 信時潔作品集成」に、これから再録された演奏が含まれています。

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おそらく、「回顧三十年感謝晩餐会」の出席者に、記念品として贈られたのではないかと思われます。『岩波茂雄文集 第3巻』に、「創業三〇年記念品に添えた書状文案」(昭和18年=1943)という文章が載っており、「心許りの記念の品其節献呈仕るべき筈の処意外に準備に手間取り此程漸く出来仕り候に付き一周年を期し別送御手許まで御届け申上候」という一文があります。記念品が何だったのか、詳細な記述がないので何ともいえませんが、レコードであれば、プレスに手間取ることも有り得、当てはまるような気がします。

聞いた感じでは、荘厳な感のする曲です。当時の評が『図書』に載っています。「大方の御批評では、詞句の格調といひ、曲の旋律といひ、共に一岩波書店の店歌に留めておくのは惜しいほど優れたものであるとのことであつて、広く文化にたづさはる人々の歌にしたいといふお言葉さへ耳にしたのであつた。」とのことでした。

しかし、やはり時局を反映し、「あめのした 宇(いへ)と為(な)す、」「おほきみかど のりましし」と言った語句が使われており、そのためでしょう、この歌は戦後、お蔵入りとなったようです。

岩波茂雄は、昭和15年(1940)には同社で刊行した津田左右吉の複数著作(『古事記及日本書紀の研究』など)が検閲に引っかかり、出版法違反により起訴され、同17年(1942)の第一審では禁錮2ヶ月、執行猶予2年の判決を受けています。その後控訴し、「回顧三十年感謝晩餐会」開催時には係争中でした。結局、戦時中のため、裁判もしっかりおこなわれなかったようで、同19年(1944)には時効により免訴ということになっています。

その岩波ですら、「あめのした 宇(いへ)と為(な)す」=「八紘一宇」という文言を織り込んだ歌を自社の店歌にしていたわけで、まさに暗黒の時代だったことがよくわかります。

ただ、岩波流のレジスタンスもあったという説もあります。、「回顧三十年感謝晩餐会」が開かれていた同日同時刻、しかも同じ大東亜会館で、情報局主催の「大東亜文学者会議」閉会後の懇親会も開催されていました。ところが「大東亜文学者会議」出席者の多くは、光太郎を含め、情報局主催の懇親会に参加せず、岩波の「回顧三十年感謝晩餐会」に出席。これに対し、情報局次長の奥村喜和男が、「岩波はけしからん!」と激怒したそうです。しかし、同日同時刻に設定したのは岩波ではなく情報局だという説もあり、真相は闇の中です。それにしても、多くの人々が情報局主催の懇親会ではなく、岩波の晩餐会に出席したというのは、ある意味痛快です。

このあたり、今秋当会発行予定の『光太郎資料 48』に詳しく書くつもりでおります。ご入用の方はご一報下さい。


【折々のことば・光太郎】

黙つてゐても心の通じる、 いいも悪いも両手に持つ、 さういふ友を持つのはいい。
詩「さういふ友」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

光太郎より2歳年長だった岩波茂雄なども「さういふ友」の一人だったかもしれません。

大正2年(1913)の詩「人類の泉」では、「もう共に手を取る友達はありません ただ互に或る部分を了解し合ふ友達があるのみです」と謳っていた光太郎ですが、15年経つと、心境の変化があるのでしょうか。

同じ「人類の泉」で、智恵子に対しては「けれども 私にあなたが無いとしたら―― ああ それは想像も出来ません 想像するのも愚かです 私にはあなたがある あなたがある」と語りかけていましたが、この時期には「親離れ」ならぬ「智恵子離れ」的な部分もあったのではないかと思われます。

相模女子大学オープンキャンパス2017 日本語日本文学科【高村光太郎『レモン哀歌』を読み解く】。

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神奈川県相模原市にある相模女子大学さんの行事です。 
5/14(日)10時~15時、本学キャンパスにおいてオープンキャンパスを開催します。
本学の学びや模擬授業、学科説明、学科企画、入試制度説明、編入学ガイダンス、カフェテリア体験など実施します。
また、オープンキャンパスに3回参加すると本学学園キャラクター「さがっぱ・ジョー」のぬいぐるみストラップがもらえるイベントも実施します!
新緑のキャンパスで、皆様のご参加を心よりお待ちしております。

日程 : 2017年5月14日(日)
時間 : 10:00 ~ 15:00 予約不要
会場 : 相模女子大学 神奈川県相模原市南区文京2-1-1
内容 : 本学の学び 学科説明 個別学科相談 個別入試相談 保護者向け大学紹介 奨学金について知ろう!
       編入学ガイダンス 先輩と話そう(Q&A) カフェテリア体験 キャンパスツアーなど

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模擬授業メニュー

日本語日本文学科  【高村光太郎『レモン哀歌』を読み解く】
 今日社会が若い世代に求める能力は「読解力」と言われています。実は文化遺産としても優れた文学作品を多角的に読み解くことで、読解力は向上します。本模擬授業では近代の有名な詩を取り上げて、その実践を試みます。(45分)

英語文化コミュニケーション学科  【英語で外国人観光客に道案内をしましょう】
子ども教育学科  【子どもの発達段階ごとの特徴と重視すべき課題 】
メディア情報学科  【親子で体験するメディア情報学科  香水とメディアについて考えましょう!】
生活デザイン学科  【フォトショップで間違い探しゲームをつくってみよう】
社会マネジメント学科  【若者の消費者トラブル防止!のためにできること 】
人間心理学科  【音楽のもつ癒しの力】
健康栄養学科  【カスタード・プディングをつくりながら卵・砂糖の調理性を学びましょう】
管理栄養学科  【栄養とは何か? ―食べることの意味を考える― 】
食物栄養学科   【何をどれだけ食べればいいの? ―実習で学ぶ栄養指導の基礎―】


とうわけで、日本語日本文学科さんで、光太郎詩「レモン哀歌」が取り上げられます。ありがたいところです。

「レモン哀歌」は、現在、東京書籍さんで発行している中学3年用の国語教科書「新しい国語」に掲載されています。現在の高校3年生が中3だった頃にも載っていたはずで、当時を思い起こしながら、そして、当時とまた違った受け止め方ができるはずですので、そういったことを考えながら臨んでほしいものです。

少子化の影響で、一部を除き、各大学さんとも、入学者の確保に四苦八苦という部分があるでしょう。こうした時こそ、各大学の自力の見せ所ですね。

また、彫刻、絵画、装幀、書、詩、短歌、評論、翻訳、建築など、非常に幅広く業績を残した光太郎について、各分野でもっともっと取り上げていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

青空は底がぬけて居るといふ。 なるほど見てゐると 真剣すぎるほどはるかなものだ。
詩「夏書十題 青空」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

すっかり初夏ですね。梅雨入り前のこのひととき、まだ蒸し暑さもピークには達さず、よく晴れた日の青空ははるかに高く感じます。

ただ、紫外線がきつくなってきました。当方、日光アレルギーがあり、これからが大変です。

「鈴木憲夫の世界2~女声合唱の響宴」。

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今日行われる合唱の演奏会です。情報を得たのが昨日でして、ご紹介が遅れました。

先日もご紹介した鈴木憲夫氏作曲の「レモン哀歌」がプログラムに入っており、鈴木氏ご本人もゲスト出演されるそうで、これは紹介せざるを得ません。  
期    日 : 2017年5月13日(土)
場    所 : 京都コンサートホール 大ホール 京都市左京区下鴨半木町1番地の26
時    間 : 開場 13:00  開演14:00
出    演 : アベリア クリスタルエコーズ 女声コーラス コール・リーベン 女声コーラス ベルヴォア
          女声コーラス ラ・コール 女声コーラス みちくさ 女声コーラス 向日葵 沙羅の木合唱団
          女声コーラス アコルト
指    揮  : 箸尾哲男 田末勝志
ピ  ア  ノ  : 小澤まり子 木下亜子 鈴木華重子 寺本佳世子 和田蕗子
ゲ  ス  ト  : 鈴木憲夫  
料    金 : 1,500円 全席自由
問い合わせ : 090-6063-4132 (中島理恵)
プログラム  : レモン哀歌/永訣の朝/地球ばんざい/地球に寄り添って/想い出(合同演奏)

2013年11月に行われた「鈴木憲夫の世界」の第2回コンサートです。
2013年のコンサートでは、混声合唱、女声合唱、少年少女の合唱など様々な合唱団が出演しましたが、今回は女声合唱団のみの演奏となっています。
9つの女声合唱団が、初期作品「永訣の朝」から「レモン哀歌」まで、「鈴木憲夫の世界」をうたいます。
鈴木憲夫氏も、ゲストとして参加されます。

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鈴木憲夫氏の「レモン哀歌」、いい曲ですのでじわじわと広まっているということでしょう。以前にも書きましたが、女声版、混声版があります。難易度的には難しすぎず、優しすぎず、メロディーラインの美しい曲です。全国の合唱団の皆さん、ぜひ取り上げて下さい。


【折々のことば・光太郎】

底がぬけるといふ事は そんなにやさしいことではない。 だが又そんなにやさしい事かも知れない。
詩「夏書十題 底」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

ここでの「底がぬける」は、「すべてをかなぐり捨てて、思い切った行動をとる」とでもいったような意味合いでしょうか。たしかになかなか難しいことですが、その気になりさえすれば、存外たやすいし、やってみたら非常によかった、なぜもっと早くやらなかったんだろうと感じる、という面もあるかも知れません。

そんなにやさしい事かも知れない」という奇妙な日本語の使用も、ある意味、「底がぬけ」た一例のような気がします。いくら対句とはいえ、語格に敏感だった光太郎、通常はこんな破格の用法は使いません。しかし、あえてそう表現してみると、これはこれで効果的だな……みたいな。

花巻に行って参ります。

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今日から2泊3日の行程で、光太郎第二の故郷ともいうべき岩手花巻に行って参ります。

今日は、午後から郊外の高村光太郎記念館さんに。現在、企画展「光太郎と花巻の湯」が開催中です。11日の木曜日に、『朝日新聞』さんの岩手版に記事が出ました。 

岩手)高村光太郎の風呂おけを初公開 花巻市の記念館

 花巻市太田の高村光太郎記念館で、企画展「光太イメージ 1郎と花巻の湯」が開かれている。太田の山荘で7年間暮らした彫刻家の光太郎が山荘の風呂小屋で使った「鉄砲風呂」という風呂おけが初めて公開されている。
 1945年、旧知の宮沢賢治の弟清六を頼って戦火の東京から花巻に疎開した光太郎。風呂おけは、山荘に風呂がなくて困っている光太郎を助けようと集落の人々が木材を持ち寄って風呂小屋を建てた際、清六が贈ったものという。
 腕利きの花巻の職人に頼んで作らせたという直径90センチほどの楕円(だえん)形のヒノキのおけには鋳鉄製の筒が組み込んであり、筒でまきを燃やして湯を沸かす仕組み。だが、大量のまきが必要なため、光太郎は「自分だけでたいてはすまない。今都会では不自由をしているので、そのことを考えると気がすすみません」と、あまり入浴しなかったという。
 企画展では、持病の神経痛を癒やすため光太郎が花巻各地の温泉を巡ったエピソードを当時の温泉の絵はがきなどとあわせて紹介している。6月26日まで。(溝口太郎)


宿は花巻南温泉峡・大沢温泉菊水館さんをとってあります。築160年以上という茅葺きの建物で、非常に風情があります。当方、何度か泊めていただきました。大沢温泉さんは、通常の温泉ホテル的な山水閣、主として湯治客対象の自炊部、そして別館的な菊水館と、三館に分かれています。ここ2、3年、山水閣と自炊部に泊まることが多く、菊水館は久しぶりです。

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かつて光太郎も大沢温泉さんをよく利用しました。山水閣の利用が多かったようですが、菊水館にも泊まっています。はっきり菊水館だとわかるのは、昭和26年(1951)12月23日。当日の日記から。

駅より大沢温泉行、菊水館に泊る。 マッサージをたのむ、風呂よろし。

暮れの時期ですので、この頃は大沢温泉さんも真っ白でしょう。雪見風呂だったと思われます。

翌朝の記述は、こうなっています。

朝東京より太田和子さんといふ女性たづねてくる、朝飯を一緒にとり、九時過の電車、太田さんは小屋を見にゆき、余は花巻行、

太田和子は、光太郎も寄稿した雑誌「いづみ」の記者です。翌年の光太郎帰京後は、足繁く中野のアトリエを訪ねています。

はっきり菊水館に宿泊したとわかるのは、この時だけですが、日記に「大沢温泉」とだけ書かれていて、三館のどこだったかが不明な日もあれば、昭和24年(1929)から翌年にかけての日記の大部分が失われているので、もっと機会があったように思われます。

菊水館のどの部屋を利用したのかは不明です。帳場に近い方に「松の間」「竹の間」という二間続きの広い部屋があります。幕末に南部の殿様も泊まったというのは、このどちらかでしょう。当方も松の間に一回だけ泊めていただきました。光太郎も大沢温泉さんでお得意様の部類に入っており、このどちらかのような気はします。あとは6畳または8畳一間の梅の間。当方、今回も含め、普段はこちらです。


15日の月曜日には、第60回高村祭が開催されます。会場は光太郎が7年間を過ごした山小屋(高村山荘)敷地内。高村光太郎記念館さんも同じ敷地にあります。

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地元児童生徒による詩の朗読、器楽演奏、コーラスの他、特別講演として、当時の光太郎をご存じの藤原冨男氏(元花巻市文化団体協議会会長)による『思い出の光太郎先生』があります。

せっかくですのでもう1泊。今回もそうですが、最近は、現地でレンタカーを借りることが多いので、結構気ままに動けます。余裕があれば周辺のゆかりの地なども回ろうと考えております。

帰ってからレポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

一生かかつて 自己をジヤスチフアイしようとする。 そいつは何だかいやしい。 そいつは何だかうつたうしい。

詩「夏書十題 (一生かかつて)」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

ジヤスチフアイ」は「justify」。「正当化すること」の意です。

「正当たらん」と考えて行動することはいやしいことではないでしょう。しかし、「正当たらんとして行動する」のと「正当化する」のは別ですね。「正当化」は「正当」でないことを、さも「正当」であるかのごとく見せかけることですから。それはたしかに「いやしい」根性のなせるわざですし、はたから見れば「うつたうしい」ことですね。

テレビのニュースなどで国会審議の模様を見ると、まさにそう感じます。

花巻に来ております。

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昨日から二泊三日の行程で、岩手花巻に来ております。

今日は、光太郎が昭和20年(1945)から七年間を暮らした山小屋(高村山荘)敷地で行われた第60回高村祭。雨🌁☔😭🌁でした。

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詳しくは帰ってからレポート致します。

花巻から帰って参りました。

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2泊3日の行程を終え、先ほど、光太郎第二の故郷ともいうべき岩手花巻から帰って参りました。順にレポートいたします。

5/14(日)、午前中に花巻に着きました。当初予定していた訪問先が先方の都合でポシャり、予定を変更して、花巻市街に立ち寄りました。レンタカーを借りておりましたので、比較的自由に動けます。

まず、昼食を兼ねて、市役所近くのやぶ屋総本店さんへ。ちなみに朝が早かったので、かなり空腹。そばではなくカツ丼を頂きました。

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宮澤賢治が稗貫農学校に勤務していた頃よく訪れ、天ぷらそばとサイダーを頼んでいたことで有名です。光太郎も戦後、何度かここで食事をとっています。

以前に行ったときに気づいていたのですが、その時はお店の方々があまりに忙しそうだったので、訊くのを遠慮していた件があり、この機会に、と思って寄らせていただきました。

レジの脇に、賢治関連のもろもろに混じって、光太郎の詩稿のコピーがスナップ写真と共に飾られているのです。

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書かれている詩は「初夢まりつきうた」(昭和26年=1951)。花巻商人をモチーフにしています。

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なぜここにコピーが掲げられているのか、コピーでない原本はこちらにあるのか、また、それに付随して光太郎からの書簡、これ以外に書いてもらった書などもあれば、と思っていたわけです。ちょうど年配の店員さんがレジを打って下さったので、訊いてみましたが、残念ながら、ここにコピーが飾られている理由等、わからないそうでした。また、原本や、他の光太郎が書いたものなどはないだろうとのこと。残念でしたが、仕方がありません。


続いて、やぶ屋さんからそう遠くない、松庵寺さんに。当方、こちらに伺うのは5回目ぐらいでしょうか。直近では、このブログを始めた頃、5年前くらいだったと記憶しています。ただ、このブログではその際のことは書いていませんでした。

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こちらは、終戦の年の秋から、毎年のように光太郎が出向き、父・光雲や妻・智恵子、そして母・わかの法要を営んでもらっていた寺院です。そういう縁もあり、毎年4月2日の光太郎の命日に、東京日比谷で当会が主催して開いている連翹忌の他に、花巻としての連翹忌法要を開催して下さっています。

まずは本堂左手の光太郎碑へ。3基の光太郎碑が固まって建てられています。

建立順に、まずは昭和48年(1973)、光太郎短歌「花巻の松庵寺にて母にあふはははリンゴを食べたまひけり」(昭和22年=1947)を刻んだ歌碑。先述の、母・わかの法要に関わる短歌です。

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続いて、詩「松庵寺」碑。昭和62年(1987)に、詩「松庵寺」(同20年=1945)全文を、光太郎と親交の深かった総合花巻病院長、故・佐藤隆房の揮毫によって碑にして下さいました。

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その「松庵寺」を、花巻市上町の元英語教諭平賀六郎さんが英訳したものの碑。平成20年(2008)の建立です。

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その後、庫裡へ。アポイントは取っていませんでイメージ 18したし、第一、当方、ご住職と面識がありませんでしたが、毎年、連翹忌の法要を営んで下さっているお寺ですので、無碍に扱われることもあるまいと、図々しくもお邪魔いたしました。やぶ屋さん同様、光太郎の書き残したものの現物などが残っていないかと、その調査です。

対応して下さった小川英ご住職、無碍にどころか、歓待して下さいました。ありがたいかぎりでした。

こちらはビンゴでして、先代の故・小川金英ご住職が、光太郎に書いてもらったという書幅(「真実」と揮毫)、それから、お布施の包み紙(原稿用紙を折りたたんで熨斗袋の代わりにしたものだそうで、これは光太郎終焉の地・中野のアトリエを所有されていた中西家ご子息へのお年玉-右の画像-と同じです)が現存しているそうでした。しかし、最近、こちらに工事が入ったため、その際に置き場所が変わり、現在行方不明ということで、現物は見られませんでした。

その代わり、いろいろなお話を伺うことができました。ご住職、最近、当方自宅兼事務所のある千葉県香取市にいらしたそうで、その話でひとしきり盛り上がりました。ご同輩の方のお寺に行かれたそうで、場所を訊くと、ああ、あのお寺か、というところでした。10時間かけて車でいらしたとのこと、そのバイタリティーには恐れ入りました。当方、千葉から花巻まではさすがに車で行こうとは思いません。

バイタリティーといえば、それもそのはず、このブログでもご紹介しましたが、ご住職、齢74だった一昨年、東日本大震災の犠牲者追悼行脚ということで、花巻・盛岡間往復80㎞を歩かれています。そのあたりのお話もたっぷり伺いました。

その関係の記念碑も建てられたそうで、帰りがけに撮りました。

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また、こちらも一昨年、NHK Eテレさんで放映された「趣味どきっ!女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門 第5回「智恵子、愛と死 自省の「道程」 高村光太郎×智恵子」についても。ナビゲーター役の書家・石川九楊氏と、女優の羽田美智子さんが、松庵寺さんの庫裡で、実技編のロケをなさったとのことでした。


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この番組、当方も少しだけ制作のお手伝いをさせていただいたのですが、あの部分のロケが松庵寺さんだったというのは存じませんでした。ご住職、光太郎の書法を再現する石川氏の筆の動きを間近でご覧になり、いたく感心されたそうです。

ロケの後、石川氏が記念に、光太郎詩「松庵寺」に出てくる「二畳敷」の語を揮毫されたという書。

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「二畳敷」の後の四角の中に縦棒一本は畳二枚を表し、最後は落款的な石川氏のサインだそうです。

その他、さまざまなお話を賜り、気がつけば2時間近く。旅先でのこういう出会いでご縁を結ばせていただけるというのは、実にいいものです。

おみやげに、ご住職のご著書を頂戴してしまいました。1,000ページを超える大著です。題して「あ そうか」。全体の3分の2ほどは、見開き2ページずつ、「法話」というか「講話」というか「説教」というか、教典や先達のお言葉を一つずつ、さらにその解説のような文章で構成されています。これが面白い。肩のこらない表現でわかりやすく、しかし仏の教え的なところの核心をつくような……。光太郎の『ロダンの言葉』を思い起こしました。

俗臭ぷんぷん・煩悩の固まり的な当方としては、これをありがたく拝読して精神修養をはかりたいと存じます(笑)。

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後書き的な「おわりに」より。

 この本の原稿がほぼ出来、表題を何にしようかなと考えていたときだった。六歳の孫娘サラナちゃんがジジチャン何してるの。と、そばに来た。ウン! ジジチャン いま 本の名前考えているんだよ。 この本読んで「あ そうか」と思ってくれるといいんだけどな。と何の気なしにつぶやいたら、孫はそばにあった筆ペンをとり、無邪気に「あ そうか」と紙の切れっ端に書いた。

その「あ そうか」を題名とし、お孫さんの書いた字を題字になさったそうで、我々凡俗とはやはり違うな、と感じました(笑)。

また、詩「松庵寺」についての記述もあり、資料としても貴重です。


その後、郊外旧太田村の花巻高村光太郎記念館さんへ。周辺ではリンゴの花盛りでした。

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開催中の企画展示「光太郎と花巻の湯」を拝見。当方が他で書いた文章をそのまま説明パネルにしてくださっていました。

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当方がお貸しした資料類。さらにそれを基に作成のパネル。

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光太郎の山小屋(高村山荘)に据えられた風呂桶。

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なかなか楽しい展示です。ぜひ足をお運びください。


そして、2泊お世話になる、大沢温泉さんへ。今回は、築160年以上という、別館「菊水館」さんに泊まりました。

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明けて5/15(月)、第60回高村祭。こちらは明日、レポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

水色の、青磁色の、雨後霽天の、 あくまで透明の、あくまで一途の、 又うつさうと暗いほど青々した あの土用波ののつぴきならない 積極無道の夏がぷんぷん匂つて来た。

夏書十題 (夜明けのかなかなに)」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

生涯「冬」を愛した光太郎。対極に位置する「夏」を「無道」とまで表現しています。そんなに目の敵にしなくても……と思うのですが(笑)。

第60回高村祭レポート。

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5/15(月)、岩手花巻郊外の旧太田村山口地区、光太郎が戦後の七年間を過ごした山小屋(高村山荘)敷地内で、第60回高村祭が開催されました。

そぼ降る雨の中、レンタカーを駆って、前日から泊まっていた大沢温泉菊水館さんを出発、高村山荘を目指しました。雨天時は、旧山口小学校跡地のスポーツキャンプ村屋内運動場(通称・高村ドーム)での開催のはずでしたが、そちらにはどなたもいらっしゃいません。開始時刻の10時くらいには雨も上がるだろう、という予測の元、通常通り、山荘敷地内の「雪白く積めり」詩碑前で強行する、とのこと。雨の中、テント設営や椅子並べ、光太郎遺影の設置などをお手伝いしました。

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結局、雨の中で開会。

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詩碑に献花、献茶。詩碑の下には光太郎の遺骨ならぬ遺髯が埋葬されています。

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地元西南中学校の生徒さんの先導で、全員による碑詩「雪白く積めり」朗読。

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主催者挨拶ということで、花巻高村光太郎記念会・佐藤進会長(故・佐藤隆房ご子息)、上田東一花巻市長のご挨拶。

その後、地元小中高、高等看護学校の児童生徒さんたちによる楽器演奏、合唱、朗読。

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特別講演は、藤原冨男氏。元花巻市文化団体協議会会長で、光太郎がこの地にいた時に、旧山口小学校に勤務されていた方です。演題は「思い出の光太郎先生」。

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学校の職員室の火鉢を囲み、光太郎から話を聞いたこと――山小屋の壁の隙間から、中を覗いていたキツネやタヌキと目があったとか(笑)――、よかれと思って、児童たちを引き連れ、山小屋周辺の草抜きをしたら、逆に光太郎に怒られたとか――その時光太郎は児童たちに、たとえ雑草でも親がある、命がある、的な話をしたそうです――藤原氏、このエピソードを引いて、「光太郎は彫刻家、詩人、書家、いろいろな側面のあった人だが、そこに「教育者」という面も色濃くあったことを付け加えたい」とおっしゃいました。なるほどな、と感じました。

結局、最後まで雨はやまず、テントに吹き込む雨でジャケットの裾がびしょ濡れになりましたが、昨日もご紹介した詩「松庵寺」の「雨がうしろの障子から吹きこみ 和尚さまの衣のすそさへ濡れました」を思い出し、これもある意味乙なものだと思いました。ただ、気温が低く、温暖な房総住まいで寒さに弱い当方、最後はガタガタふるえていましたが(笑)。

午前の部終了後、午後からは地元の皆さんの演芸会的な催しでしたが、そちらはパスしました。同じ敷地内の高村光太郎記念館さんでお弁当を頂いた後、館の展示や高村山荘、そしてリニューアルされた智恵子展望台などのガイド役をやっておりました。

まずご案内したのが上田市長のご同窓で、前消費者庁長官の板東久美子氏。光太郎ファンだそうで、こちらに一度来てみたかったとのこと。ありがたいかぎりです。

高村祭の後などには、こうした役得で、普段は入れない山小屋の内部にも入れていただけます。

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光太郎が使っていた井戸。

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今回はさらに、「月光殿」と名付けられた、便所棟にも入れていただきました。

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光太郎が壁に明かり取りのため彫った「光」一字。花巻高村光太郎記念会さんで、ロゴマーク的に使っています。

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こちらは高村祭参加者全員に配られたコースター。

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こちらはなんと言えばいいのでしょう、杉の板を使った木札のような。これも役得で、いただいてしまいました。定価4,000円ですが、欲しいという方がいらっしゃり、売れているそうです。

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その後、連翹忌ご常連であるいわき市立草野心平記念文学館の小野浩学芸員、小野氏のご友人で、料理研究家 中野由貴さん。中野さんは現在、同館で開催中の企画展「草野心平の詩 料理編」の関連行事として行われる「心平さんの胃袋探訪 〜創作料理の試食と解説〜」の講師を務められる方です。それだけでなく、先月、このブログで、新しく創刊された花巻のタウン誌『まち散歩マガジンMachicoco(マチココ)』をご紹介した折、「花巻ファンです。こんな花巻の本を待っていました! 早速年間購読に申し込みました。 光太郎レシピのページも大変楽しみです。」とコメントして下さった方で、お互いに驚きました。こうやってネットワークが広がっていくんだな、と実感しました。

さらに、敷地内で行き違いになってあまりお話もできませんでしたが、このブログをお読み下さって、今年の連翹忌に初めてご参加下さった方や、昨年、当方が講演させていただいた盛岡少年刑務所の方もいらしていて、ありがたく存じました。

そして、近くの公民館的なところで開かれた、地元の皆さんによる反省会、懇親会的な催しに顔を出し、宿に帰りました。

夕方のローカルニュースを拝見。

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翌朝、大沢温泉さんの売店で購入した地元紙。まずは『岩手日報』さん。

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高村光太郎に思いはせて 花巻、合唱や講演に400人

 詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ第60回高村祭(花巻高村光太郎記念会など主催)は15日、花巻市太田の高村山荘詩碑前広場で開かれた。参加者は光太郎が地元で暮らした当時を知る関係者の講演や児童生徒の合唱などを通じ、住民らを大切にした足跡に思いを寄せた。
 地元住民やファンら約400人が参加。同記念会の佐藤進会長は「光太郎先生が花巻で暮らした7年間は地域にとって貴重なものだった。昨年、記念館が新しくなったので立ち寄ってほしい」とあいさつした。
 旧山口小教諭で、光太郎と交流のあった同市中北万丁目の藤原冨男さん(84)が講演。光太郎が生き物を通じて子どもたちに命の大切さや思いやりを説いたこと、芸術家らしい風変わりな一面があったことなどを紹介した。「光太郎先生は芸術家だけでなく、偉大な教育者だった。夢でいいからもう一度お会いしたい」と締めくくった。 【写真=高村光太郎の遺志を受け継ぎ、精神歌を披露する西南中の生徒たち】


『岩手日日』さん。

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偉人の足跡へ思いはせ 高村祭 詩碑前で朗読・合唱

 花巻市にゆかりが深い彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ高村祭(花巻高村光太郎記念会など主催)は15日、同市太田の高村山荘詩碑前で行われ、参加者が詩の朗読や合唱などを通じて偉人の足跡に思いを巡らせた。
 同日は、市内外から約400人が参加。光太郎の遺影が飾られた詩碑に、太田小学校2年の中島絢星君と伊藤真桜さんが花を手向け、花巻東高校茶道部による献茶で開会。詩碑に刻まれた「雪白く積めり」の詩を参列者全員で朗読した。
 花巻高村光太郎記念会の佐藤進会長と上田東一市長のあいさつに続き、太田小学校2年生16人が鍵盤ハーモニカで「かっこう」を演奏、旧山口小学校校歌を合唱し、詩「案内」を朗読した。
 西南中学校1年生45人が「西南中学校精神歌」などを合唱したほか、花巻東高校3年の横手隼平君が「元素智恵子」、同じく佐藤凪子さんが「人類の泉」、花巻高等看護専門学校1年の主濱京香さんが「非常の歌」をそれぞれ朗読した。
 花巻高等看護専門学校1年生44人による「最低にして最高の道」「リンゴの詩」「花巻の四季」の合唱が披露されたほか、元市文化団体協議会長の藤原冨男氏による「思い出の光太郎先生」と題した講演が行われた。参加者は、かつて同山荘に暮らし地元に親しまれた光太郎の人柄をしのんだ。
 同祭は、戦火で東京のアトリエを失った光太郎が1945年に花巻に疎開した日に合わせて毎年開催され、今回で60回目を迎えた。


それから、購入はしませんでしたが、『朝日新聞』さんでも岩手版で報道して下さいました。 

新緑の中、光太郎しのび朗読イメージ 32

 戦火を逃れて花巻に疎開した彫刻家で詩人の高村光太郎を記念する「高村祭」が15日、花巻市太田の高村山荘周辺であった。詩碑の前で、参加者約500人が声を合わせて光太郎の詩「雪白く積めり」を朗読したり、地元の小学生らが楽器を演奏したりして光太郎の芸術と人柄をしのんだ。

 一般財団法人「花巻高村光太郎記念会」の主催。光太郎が花巻に疎開した5月15日を記念し、詩碑が除幕された1958年から続いており、今年で60回目。疎開した光太郎と交流があった藤原冨男・元花巻市文化団体連絡協議会会長の「思い出の光太郎先生」と題した講演もあった。あいにくの雨だったが、参加者は「この新緑を見たら光太郎先生はどんな詩を詠んだだろう」などと話していた。(溝口太郎)


来年以降も5月15日、花巻高村祭が開催されます。ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

死ねば死にきり。 自然は水際立つてゐる。

詩「死ねば」全文 昭和3年(1928) 光太郎46歳

当会顧問北川太一先生の盟友で、戦後いち早く光太郎を論じた故・吉本隆明の言葉から。

僕は、身体とそれに伴う精神の死について、いちばん好きな言葉があります。高村光太郎の詩の中の「死ねば死にきり、自然は水際立っている」という言葉です。死ねば死にきりで、やっぱり自然というものは見事なものだと高村光太郎はいっているわけでしょう。僕は、人間の身心の死はこれでいいのではないかと思います。
(略)
人間は永遠だというのも、人間は輪廻転生するものだというのも、それはそれでとてもいい感じですが、何となく嘘くさい。僕は「死ねば死にきり」でいいという気がします。

まさしく光太郎も輪廻転生などといったことは信じていなかったわけで、うなずけます。

しかし、亡くなった人は、残された者の中に、かけがえのない思い出として残るわけで、光太郎もそこまでは否定していません。藤原氏のご講演にも、山小屋での独居生活が長くなり、淋しくはないかと問うたところ、「智恵子がいるから」と答えた光太郎のお話がありました。

旧太田村の皆さんも、光太郎とのかけがえのない思い出を大切に、60回もの高村祭を続けてこられたわけですね。

花巻関連報道等補遺。

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その1。

昨日レポートいたしました、5/15(月)の第60回花巻高村祭。『毎日新聞』さんが一日遅れで報じて下さいました。 

高村祭 児童らが元気に、詩の朗読や合唱 60回目 /岩手

 詩人で彫刻家の高村光太郎(イメージ 11883~1956年)が花巻市で7年間を過ごしたことを記念する「高村祭」が15日、同市太田の高村山荘詩碑前広場であった。毎年、光太郎が疎開してきた5月15日に開かれ、今年で60回目を迎えた。 
 雨が降るなか行われた式典には約400人が参加。地元の太田小や西南中、花巻東高校の児童生徒らが光太郎の詩の朗読や合唱などを元気な声で披露し、会場中に響かせた。
 学生を代表して「非常の時」を朗読した花巻高等看護専門学校1年の主浜京香さん(19)は「すばらしい作品だと思い、気持ちを込めて読んだ。これから光太郎のいろいろな詩を読んでいきたい」と話した。
 高村山荘に隣接する高村光太郎記念館では現在、企画展「光太郎と花巻の湯」が開催され、ゆかりのある温泉を当時の絵はがきなどで紹介。実際に使用していた「鉄砲風呂」も展示している。6月26日まで。【鹿糠亜裕美】


その2。

同日発行の花巻市さんの広報誌『広報はなまき』では、花巻高村光太郎記念館さんでの企画展「光太郎と花巻の湯」、同じ敷地内にある光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)裏手の智恵子展望台リニューアルについて報じられています。

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その3。

その智恵子展望台からの眺めや遊歩道の散策を楽しむという、「高村光太郎記念館講座」の参加者募集が始まっています。 

高村光太郎記念館講座「初夏の里山さんぽ~山口の暮らし~」の受講生を募集します

新しくなった智恵子展望台からの眺めや遊歩道の散策を楽しみます。

対     象 : 市内に在住または勤務する方を優先します。
日     時 : 平成29年6月9日(金曜日)、午前9時から午後3時まで
集合場所 : まなび学園ロビー 岩手県花巻市花城町1−47
定   員 : 20人 定員を超えて申し込みがあった場合には抽選となります。
参 加 料  : 400円(入館料、保険料)
申込期限 : 平成29年5月26日(金曜日)

問い合わせ・申し込み 花巻市生涯学習課 電話:0198-24-2111(内線418)


その4。

その高村光太郎記念館さん発行の『高村光太郎記念館通信 メトロポール』の第4号が、花巻市さんのホームページ上にアップロードされました。内容的には、先月2日の光太郎忌日に開催された「詩碑前祭」、松庵寺さんでの「連翹忌法要」、それからやはり智恵子展望台のリニューアル、そして、ひそかに記念館・山荘の入場券売り場がカフェを併設することとなり、その紹介です。

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その5。

また、まだ詳細は未定ですが、7月の終わり頃、やはり記念館さんの講座的に、記念館・山荘周辺で星座観察会を催す計画があります。「光太郎が見た星空の紹介」も盛り込まれています。館のスタッフさんから届いたメールの添付ファイルから。

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詳細が決まりましたら、またお知らせします。


こうした地道ともいえる取り組みの積み重ねも大切なことだな、と思います。


【折々のことば・光太郎】

生きよ、生きよ、生き抜いて死ね。 そのさきは無い。無いからいい。

詩「夏書十題 無いからいい」全文 昭和3年(1928) 光太郎46歳

昨日ご紹介した「死ねば」とワンセットの詩です。

「死ねば」は「死ねば死にきり」と、ある意味、突き放すようなというか、身もフタもないというか、破滅的というか、そういう感じですが、この「無いからいい」が後に続くことによって、今ある命を精一杯燃焼させよ、というエールになっています。

思わず「わかりました」と応えたくなります(笑)。

「森のコンサート マリンバの響き ~智恵子抄の世界~」。

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神奈川相模原から、コンサート情報です。開催は明後日ですが、気づくのが遅れてしまいました。すみません。 

森のコンサート マリンバの響き ~智恵子抄の世界~

日  時 : 2017年5月21日(日) 13:00~15:00イメージ 1
会  場 : 津久井湖城山公園 森のステージ
         (雨天時研修棟)
        神奈川県相模原市緑区 根小屋162
料  金 : 無料
申し込み : 不要
出  演 : 松本律子(マリンバ)
        中村雅子(朗読)

中村雅子さん(朗読)とのコラボーレート作品『智恵子抄の世界』を上演致します。

詩人・彫刻家、高村光太郎の詩集『智恵子抄』は、妻の智恵子との結婚する以前(1911年)から彼女の死後(1941年)の30年間にわたって書かれ詩集。結婚生活、智恵子の狂気、そして永遠の別れ……妻、智恵子との間にかわされた深い愛の詩をマリンバの音楽にのせてお届けいたします。

問い合わせ
  津久井湖城山公園パークセンター
   【電話】042・780・2420




マリンバ奏者の松本律子さん。「今年のテーマにイメージ 2智恵子抄を取り上げている」そうで、3月にも福島喜多方で、「チャリティーコンサート マリンバの響き ~智恵子抄の世界~」を開催して下さっていました。この時は終わってから気づいて、ご紹介できませんでした。

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その際、そして今回も、朗読家の中村雅子さんとのコラボ。

当方、平成26年(2014)に、中村さんもご出演された「東日本大震災復興支援チャリティ朗読会 届けよう笑顔!~東北に初夏の風~レジェンド・太宰治」を拝聴しました。その際のレポートがこちら


松本さん、さらに、来月は広島で、やはり「智恵子抄」がらみの「松本律子 × 高木リィラコラボレーション・ライブ "Live Now"」をされるとのこと。こちらはまた後ほどご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

一人づつが眼をあかないで、 何の全体。 おれは下からゆく。

詩「夏書十題 一人づつが」全文 昭和3年(1928) 光太郎46歳

こう言っていた光太郎でさえ、智恵子歿後はその精神の空白を埋めるように、そして、世の中と交わらない孤高の生活を送っていたことが智恵子の心の病を引き起こした、という反省から(そんな生活を続けていたら自分も心を病むと思ったのでしょうか)、積極的に大政翼賛に転じます。

「共謀罪」の趣旨を盛りこんだ組織的犯罪処罰法改正案が、今日、強行採決される見通しだそうです。「歴史は繰り返す」なのでしょうか……。

森三紗評論集 『宮沢賢治と森荘已池の絆』。

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新刊情報です。 

宮沢賢治と森荘已池の絆

2017年4月23日 森三紗著 コールサック社 定価1800円+税

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父は賢治との十年にわたる交友の証である書簡二十一通はことにも大切にしていた。幸いなことに、戦火に会うことも免れて貴重な文化的遺産として、父が生命の次に大切だという賢治からの書簡を目にする機会にも恵まれたのだ。(あとがきより)

目次

春谷暁臥        宮沢 賢治 
Ⅰ 宮沢賢治と森荘已池の絆
 1 タミと佐一と賢治 ―梶原多見枝詩集『草いちご』復刻版解説文  
 2 森荘已池展・賢治研究の先駆者たち②・企画展資料集より 
  《森荘已池(佐一)の幼年時代》 
  《文学の夢ふくらむ》― 佐一の盛岡中学時代― 
  《あなたが北小路幻なら尊敬します》― 佐一『春と修羅』に感動 ― 
  《佐一と賢治の交流》― 店頭での出会い ― 
  《『貌』をめぐって》― 佐一と賢治の交友開始 ―  
  《「春谷暁臥」の書かれた日》― 佐一と賢治交友深まる ― 
  《宮沢賢治から森佐一(惣一)に宛てた書簡》 
  《石川善助をめぐって》― 佐一と賢治 ― 
  《賢治の推薦で「銅鑼」同人となる》 
  《賢治没後の評価》― 岩手日報「宮沢賢治」追悼号 ― 
  ― 岩手日報の佐一と賢治の関連記事 ―  
  《十字屋版『宮澤賢治全集』の編集》 
  《宮沢家での聞書き》― 「宮沢賢治氏聴書きノート」― 
  《宮沢賢治の伝記について》 
  《宮沢賢治の短歌について》― 『宮澤賢治歌集』刊行 ― 
  《芥川賞候補、直木賞受賞について》 
  《森荘已池(惣一)の宮沢賢治研究の足跡(1)》 
  《森荘已池の宮沢賢治研究の足跡(2)》 
  《森荘已池の文芸活動(著作)》 
  《賢治から荘已池(佐一)への遺品》 
  《森荘已池と随筆》― 宮澤賢治をめぐる「ふれあいの人々」―
  《光をあてた人々》 
 3 森佐一が森荘已池になるまで ―森荘已池詩集『山村食料記録』解説・解題 
 4 宮沢賢治の短歌が世に出るまで ―『宮澤賢治歌集 森荘已池校註』新版解説文
 5 森荘已池と「風大哥」考 
 6 石川啄木と宮沢賢治と森荘已池 ―『一握の砂』発刊百年に思う
 7 『ふれあいの人々 宮澤賢治』新装再刊 ―「森荘已池ノート」解説文

Ⅱ 賢治文学の深層
 1 宮澤賢治の宗教と民間伝承の融合 ―世界観の再検討 童話〔祭の晩〕考 
 2 文語詩「選挙」考 ―『宮沢賢治 文語詩の森 第三集より』 
 3 宮澤賢治がロシア文学から影響された共存共栄の概念 ―作品の見直し 
 4 高村光太郎と宮沢賢治と森荘已池 ―二〇〇八年七月十九日 宮沢賢治の会講演改稿
 5 宮沢賢治と同人雑誌(第一回)―「アザリア」「反情」「女性岩手」 
 6 宮沢賢治と同人雑誌(第二回)「貌」① ― 森佐一(荘已池)と生出桃星と宮沢賢治
 7 クーボー博士とブドリ 「凶作に関する研究」と実践(一)  

Ⅲ 賢治研究の歴史とその後の詩人たち
 1 昭和二十年までの賢治評価―「岩手日報」を中心として
 2 宮沢賢治の会(盛岡)七十年の歩み ―機関誌「イーハトーヴォ」を中心として 
 3 第三回 宮沢賢治国際研究大会 成功裡に終る ―「賢治さんの想像力ときたら、大したもんだ!」
 4 イーハトーブの詩の系譜

初出一覧 
宮沢賢治と森荘已池(佐一)交流略年譜
あとがき 
著者略歴 


森荘已池(そういち)は、明治40年、盛岡出身の直木賞作家です。詩も書いており、在学期間はかぶりませんが、旧制盛岡中学校の先輩であった宮沢賢治と深い交流を持っていました。光太郎とも賢治つながりで縁があり、戦後の光太郎の日記や書簡にその名が頻出します。著者、三紗氏は荘已池の息女です。

『高村光太郎全集』には、光太郎から森宛の書簡が2通掲載されていますが、いずれも佐藤隆房編著『高村光太郎山居七年』からの転載でした。すると、平成21年(2009)、森の遺品の中からその2通を含む8通の光太郎書簡が発見され、岩手ではニュースになりました。その後、三紗氏ともお会いする機会があり、その話もしたのですが、これまでその内容が不分明でした。

今回出版された『宮沢賢治と森荘已池の絆』中に、「高村光太郎と宮沢賢治と森荘已池 ―二〇〇八年七月十九日 宮沢賢治の会講演改稿」という項があり、そこに当該書簡も全文が掲載されていました。同項は平成21年(2009)の雑誌『コールサック』が初出だったとのことでしたが、それは存じませんでした。全集既掲載のもの以外は、昭和26年(1951)から翌27年(1952)にかけ、花巻郊外太田村の山小屋から送られたものが5通、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した後のものが1通。

とりわけ最後のものは、面白い内容でした。森から届いたリンゴ一箱の礼状で、「東京へ来てみると岩手のリンゴのうまさがよく分かります。東京の果物屋の店頭にさらされてゐるリンゴはまつたくダメです。近所の人にもわけて喜ばれました。」とあります。また、現在、花巻高村光太郎記念館の企画展「光太郎と花巻の湯」で展示中の、光太郎が使っていた浴槽にも触れています「てつぽう風呂の事は笑止でした。」ただ、どうして笑止なのかなど、詳しいことはわかりません。

その他、当方、森の詳しい人となり等、存じませんでしたので、興味深く拝読しました。光太郎もからむ各種『宮沢賢治全集』出版に森も大きく関わっており、読んでいてパズルのピースが埋まってゆくような感覚でした。

ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

――私は口をむすんで粘土をいぢる。 ――智恵子はトンカラ機(はた)を織る。

詩「同棲同類」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

今日は智恵子131回目の誕生日です。

20代の頃、雑誌『青鞜』の表紙絵などでならした智恵子ですが、昭和に入って40代ともなるとると、もはや油絵制作には行き詰まり、光太郎の手ほどきで彫刻をはじめたり、草木染めに挑戦したり、そしてこの詩にあるように機織りにも取り組んだりしました。機織り機は郷里から取り寄せたとのこと。光太郎が亡くなるまで愛用していたちゃんちゃんこは智恵子の織った布で作られたものです。

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しかし、この年には実家は破産寸前、智恵子の心にぽっかり空いた空洞は、彫刻でも草木染めでも、機織りでも埋められることはありませんでした。

吉川久子さん/橋本喜典さん。

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まずは1週間前の『産経新聞』さん。 

【新・仕事の周辺】 吉川久子(フルート奏者) セルビアと日本、親和の旋律

 先日、春のベオグラードを訪れた。日本とセルビアの友好を兼ね、ワークショップとコンサートを行うためである。音楽を学ぶ学生が通う専門学校、芸術大学、さらに文化センターではピアニストとの共演と盛りだくさんのプログラムが組まれた。最終日はモーツァルトなどのクラシックと日本・セルビア両国の曲を演奏した。日本の旋律から「音のなかの文化」について話し、日本の旋律を通してわが国を紹介したいと思った。
 ヨーロッパ南東部のセルビア共和国は裕福な国ではない。平均月収は約4万円。それにもかかわらず、東日本大震災の時には欧州諸国で真っ先に募金を送ってくれたと聞いている。
 そんなセルビアは、日本の夏の風物である蚊取り線香の主原料、除虫菊の原産国で、日本との交流は除虫菊の種の輸出から始まったという。近年はテニスのジョコビッチ選手の出身国だと知る日本人も多くなったが、まだユーロ圏ではなく、観光客もまばらな、のどかな国であった。
 今世紀になって民主政権が誕生したセルビアには、日本から国づくりのための支援が次々なされたという。生活に欠かせないバスや路面電車は今も黄色い車体に日の丸が描かれて運行されていた。それはセルビアで見る日本人の数よりもはるかに多かった。
 私の活動の一つに、次の世代、そして世界に日本の文化の一つである童謡や抒情(じょじょう)曲の素晴らしい旋律を「音の文化」として伝え、広めたいという願いがある。音符は世界共通語で、音符の綴(つづ)る旋律によってその国の文化を垣間見ることができると思っている。
 私は宮沢賢治や小泉八雲、野口雨情、山田耕筰、高村智恵子など日本を代表する人物と日本の旋律を重ねて演奏したり、JR鎌倉駅の発車メロディーとして童謡「鎌倉」を演奏させていただいた。また、海外アーティストとの演奏でも意識して日本の旋律をプログラムに入れている。
 クラシックは崇高で日本の曲は大衆的だと日本人には思われがちであるが、私は両方とも甲乙つけがたいほど素晴らしいものだと思っている。私はこの旋律とともに日本の美しい風景や文化を紹介したいと強く思っている。そのためには日頃の読書も欠かせない。
 日本の旋律として、セルビアの未来のフルート奏者たちと「さくらさくら」を、セルビア人ピアニストとは「春の海」と私の作曲作品「谷戸(やと)の風」をともに演奏した。人種が違っても、言葉が通じなくても、心が一つになれる音楽は究極の「愛と平和」であり「文化交流」だと実感した。
 セルビアの民謡と日本の旋律には多くの共通点と親和性があると思う。同じように四季があり、季節の音を知っているからだろうか。静かなるドナウ川と広い空、セルビアの風の音は優しく滑らかで、郷愁を誘う音を奏でていた。
                   
【プロフィル】吉川久子
 よしかわ・ひさこ フルート奏者。東京都出身。音楽大卒。「心に残る日本の曲」を次世代に伝えるコンサートを各地で開催。アートや文化財、建築物と音楽のコラボなども行っている。「鎌倉」「櫻」などアルバム多数。マタニティーコンサートの草分けでもあり、著作に『母と子の絆を深める マタニティコンサート』など。鎌倉ペンクラブ所属。

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平成26年(2014)の第58回連翹忌で演奏をお願いした吉川久子さんの署名記事です。

吉川さん、それ以前から、さらにその後も文中にあるとおり、智恵子へのオマージュ的なコンサートを開催されていました。


また、セルビアとのご縁も以前からおありで、同国大使館での演奏などもなさっています。「音符は世界共通語」という表現。すばらしいですね。

先日も吉川さんから、「ディナーコンサート」と、「こころに残る美しい日本の歌」シリーズのご案内を頂きました。後者は、松尾芭蕉の『奥の細道』のトリビュートだそうです。東日本大震災の復興支援も続けていらっしゃる吉川さんですので、やはり東北がらみなのでしょう。

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続いて、5/17(水)、『朝日新聞』さんの夕刊から。 

「行きて帰る」気持ちに正直に 迢空賞の橋本喜典さん

 歌壇の最高の賞と言われる第51回迢空(ちょうくう)賞(角川文化振興財団主催)の受賞が決まった歌人・橋本喜典さん(88)=東京都。歌集『行(ゆ)きて帰る』(短歌研究社)は第28回斎藤茂吉短歌文学賞(同賞運営委員会主催)とのダブル受賞に輝いた。
 橋本さんは歌誌「まひる野」の元運営・編集委員長で、本作は10冊目の歌集。青年時代は肺結核で療養し、今は肺気腫で酸素ボンベが欠かせない。行動範囲は限られ、「書斎のガラス窓から見る庭の石や草花、空が視界のすべて」というが、その歌風は自在で、題材は幅広い。
 《点滴も老の道草つぎつぎにレモン哀歌がかがやきて落つ
 異常時代に人間性を喪はざりし「先生方」を老いてわれ思ふ》
 長時間かかる黄色い点滴液を眺めて、ふと高村光太郎の詩を思い出す。学徒動員時代の教育や体罰を詠む一方、恩師らに思いをいたす。つらい中でも「いのちを愛(お)し」み、明るいことに目を向ける。時代という現実の中でも、若い人に希望を失わせたくない。師事した歌人・窪田章一郎が持っていた「向日性」に通じる歌風だ。
 岡野弘彦・迢空賞選考委員は会見で「人間の老いと円熟の境地が出ている。歌の一つの姿としていいと思う」と評した。
 橋本さんは「歌という旅を何度も繰り返しては初心に戻る。『行きて帰る』気持ちに正直でありたい、と歌に向き合ってきた。自分なりの信念を賞という形で認めていただいてうれしい」と語る。(岡恵里)

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つらい中でも「いのちを愛(お)し」み、明るいことに目を向ける。時代という現実の中でも、若い人に希望を失わせたくない。」これもいいですね。


こうした小ネタ的な扱いでも、光太郎智恵子の名が新聞紙上に載るのは嬉しいものです。「光太郎? 誰、それ?」、「智恵子? 知らんなぁ」ということにならないように、努めていきたいと存じます。


【折々のことば・光太郎】

今日はあの人の結婚する日だ。  秋が天上の精気を街(ちまた)に送る。  こんな日に少女が人に嫁ぐのはいい。

詩「或る日(昭和三年九月二十八日)」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

「或る日(昭和三年九月二十八日)」は、秩父宮雍仁親王と、旧会津藩主松平容保の孫・勢津子妃殿下のご成婚に題を採った詩です。

ご成婚といえば、先頃、眞子内親王と小室圭氏の婚約が報じられました。

眞子内親王、吉川さん同様、東日本大震災の際には、ボランティアとして宮城県などの被災地を訪れていたそうで、光太郎文学碑が建っていた女川町の復興を描いた映画、「サンマとカタール」も東京での公開初日に鑑賞されていました

ちなみに吉川さん、眞子さまのお母様、紀子さまの御前での演奏もされています。

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また、やはり震災の年、ご成年を迎えられた際に公開されイメージ 3た写真には、宮内庁三の丸尚蔵館さんが所蔵する、光太郎の父・高村光雲作「養蚕天女」をご覧になっている写真も含まれていました。

そんなこんなで勝手に親近感を抱いており、いっそう喜ばしいニュースだと感じました。心痛む、あるいは腹立たしいニュースの多い昨今、ほっと心が和みました。

国民に人気の高かった秩父宮雍仁親王には、光太郎も親近感を抱いていたらしく、この詩以外にも、昭和28年(1953)、親王が50歳の若さで急逝された際、「悲しみは光と化す」という散文を書いて、哀悼の意を表しています。

余談になりますが、光太郎の歿後、当会の祖・草野心平が、そこから題名を拝借して、光太郎追悼文(新潮文庫版『智恵子抄』解説)を書いています。

にほんごであそぼ。

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まず、テレビ再放送情報。 

にほんごであそぼ

2017年5月25日(木)  NHK Eテレ  6:35~6:45   再放送 17:00~17:10  (4月から放送時間変更)

2歳から小学校低学年くらいの子どもと親にご覧いただきたい番組です。日本語の豊かな表現に慣れ親しみ、楽しく遊びながら“日本語感覚”を身につけることができます。今週はごもじもじ・リクエスト特集!歌舞伎/「菅原伝授手習鑑」竹田出雲・三好松洛・並木千柳、飛行機さんよう/「人に」高村光太郎、ごもじもじ、ちょい暗記/7級「十二ヶ月」、文楽/河童のゴーカート、歌/あかたすんどぅんち~しーやーぷー~、よさ恋そめし

出演 美輪明宏,神田山陽,三世 桐竹勘十郎,中村勘九郎,中村勘太郎,おおたか静流 ほか


5/11のオンエアの再放送です。

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夙に指摘されていますが、幼児向けでありながら、なかなかシュールな番組です。今回の「飛行機さんよう/「人に」高村光太郎」(約35秒)も、シュール全開です(笑)。


さて、もう1件。同番組で生まれた楽曲のCDです。 
2016/11/26 ワーナーミュージック・ジャパン イメージ 3
販売価格 2,916円(税込)

『日本一!』 には、「こころよ」「うなりやベベンの平家物語」など、名作がたっぷりの月歌を、野村萬斎とのコラボレーションで話題となった最新作「ベベンの風の又三郎」まで、完全収録!さらに、ベベンの紙芝居・全8作や、元気コンサートでのライブ音源まで、心に残る名曲が満載です。

『名調子!』 には、早口言葉や回文などの言葉あそびから、俳句・詩・小説まで、様々な名文を50作以上収録!ベベンさんの多彩な魅力があふれ、たくさんの名文も覚えてしまうお得な一枚です。

番組にとってベベンさんの存在はあまりに大きいため、その作品群を収めるのにCD1枚ではもちろん足りません。今回は豪華2枚組となっての登場です。

笑いと感動がいっぱいの二枚組。永久保存版です!


一昨年の暮れに、55歳の若さで亡くなった同番組レギュラーの「うなりやベベン」こと、浪曲師・国本武春さんの楽曲を集めた、追悼的なCDです。昨年、発売されていました。

光太郎詩「冬が来た」をにぎやかに歌う「ベベンの冬が来た」が、2バージョンで収録されています。

「うなりやベベン」、同番組ではいまだにぬいぐるみで出演しています。このNHKさんの粋なはからいに、思わずほろっとしました。

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やはりシュールですが(笑)。


【折々のことば・光太郎】

この心は棄てられない。 いくら夢だときめてみても 頑としてそこに居る。

詩「焼けない心臓」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

火刑に処されたジャンヌ・ダルクの遺体で、心臓が焼けずに残っていたという逸話を下敷きにしています。この時期、光太郎はジャンヌやイエス・キリスト、松尾芭蕉など、古今東西の自らの信念に殉じた人々を詩のモチーフに多用しています。

光太郎自身は、貧しさに耐えながら、俗世間を超越しようとしていた芸術精進の毎日で、それが自らの信念でした。その結果、他の要因も相まって、智恵子の心の病が加速していくのです。

「八重子のハミング」。

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先日、下記書籍を購入、拝読いたしました。 
2005/7/1 陽信孝著 小学館(小学館文庫) 定価476円+税

自らはがんを発病、4度の手術から生還し、アルツハイマーの妻を11年間介護した夫。思いもよらなかった夫婦同時発病、これは4000日余りにも及んだ老老介護の軌跡である。迫り来る死の影に怯むことなく闘病、介護を続けながらも夫婦愛を浮き彫りにしている。彼が詠んだ約80首の短歌と共に綴り、現代の「智恵子抄」とも評された話題の単行本、待望の文庫化。単行本発売数か月後に他界した、愛妻の想い出を偲んで文庫用に加筆。

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元版は、同じ小学館さんから平成14年(2002)にハードカバーで刊行されています。平成17年(2005)に文庫化、当方が過日購入したのは昨年暮れの第8刷でした。以前から「現代の智恵子抄」というコピーが用いられていたので、その存在は存じていましたが、これまで読んだことがありませんでした。

後述しますが、昨秋映画化されてまた脚光を浴び、最近は上記画像の帯がつけられて、一般書店で平積みになっています。そこで購入した次第です。

著者の陽(みなみ)氏は、公立の小中学校の校長先生や、山口県萩市の教育長を務められた方で、神社の神主さんも兼ねられています。52歳だった平成3年(1991)に胃ガンの宣告を受け、胃の摘出手術。陽氏はその際の精神的ショックが引き金だったろうと推定されていますが、2歳年上の奥様、八重子さんが、その頃から若年性アルツハイマー病を発症しました。以後、ご自身の闘病と並行しながら奥様の介護を続けられた、11年間の記録です。

題名の「ハミング」は、ほとんどの記憶を失ってしまった奥様が、なぜかさまざまな音楽の旋律だけは忘れずにいて、よくハミングで歌われていたところからつけられています。奥様は元々音楽教師だったということもあるのでしょうが、音楽というもののもつ不思議な力も考えさせられました。

徐々に進行してゆく奥様の病状、試行錯誤しながらそれに対処してゆく様子が克明に記録され、興味深く拝読しました。残された断片的な記録と照合すると、智恵子の病状とも一致する部分がかなりあり、そのあたりが「現代の智恵子抄」と評されるゆえんでしょう。陽氏も光太郎の詩「値ひがたき智恵子」や「千鳥と遊ぶ智恵子」を引いて、自らの境遇に重ねている部分がありました。また、各章のはじめに、陽氏が読まれた短歌が配されており、「三十一文字のラブレター」というコピーも使われています。この点も「現代の智恵子抄」とされるゆえんでしょう。

ただ、アルツハイマーの場合、進行すると身体各部を自分の意志で自由に動かすことも出来なくなっていくそうで、その点は、発症後しばらくたってから「紙絵」制作を始めた智恵子とは異なっています。やはりあくまで智恵子は若年性アルツハイマーではなく、統合失調症だったのでしょう。珍しい症例だそうですが。

それにしても、驚異だったのは、陽氏が約11年もの長きにわたり、奥様を自宅介護で看取られたことです。時代が違うと言えばそれまでかも知れませんが、この点は光太郎と大きく異なります。

智恵子の統合失調症が顕在化したのは昭和6年(1931)夏と言われています(それ以前のかなり早い段階から、異様な行動やつじつまの合わない発言が見られていたことが、深尾須磨子の回想に記されていますが)。翌年には睡眠薬を大量に摂取しての自殺未遂。さらにその翌年(同8年=1933)には、光太郎が各地の温泉巡りに連れ歩きますが、帰ってきたときにはさらに病状が進行していました。同9年(1934)には、九十九里浜に転居していた智恵子の母・センと、妹・セツ家族の元に智恵子を預けます。その年の暮れには再び駒込林町のアトリエに連れ帰り(セツの幼い子供への配慮だそうです)、翌10年(1935)の2月には、南品川ゼームス坂病院に入院させています。病院には、看護師資格を持っていた智恵子の姪の長沼春子が付き添いで入りました。

以後、智恵子は病院を出ることなく、病院で制作した千数百枚の「紙絵」を遺し、昭和13年(1938)10月、直接の死因は肺結核で亡くなりました。

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結局、光太郎が自宅で介護に当たっていたのは3年あまり(これとて決して短い期間ではありませんが……)。また、智恵子が亡くなった当日まで、なんと5ヶ月間も見舞いに行かなかったという事実があり、アンチ光太郎の人々からやり玉に挙げられています(以下参照、「五ヶ月の空白①。」「五ヶ月の空白②。」)。

その点、陽氏は約11年間、自宅介護を続けられました。これには娘さんたち、そのパートナー、お孫さんたち、そして93歳で亡くなった陽氏のご母堂、さらには陽氏の親友の医師など、たくさんの方々の支援がありました。光太郎智恵子には、そうした存在が少なかったのかもしれません。また、やはり時代の違い――心の病に対する偏見は現代の比ではなかったようです……。それにしても、陽氏の介護のさまには驚かされました。


『八重子のハミング』、先述の通り、昨秋、映画化されました。



主演は升毅さん、高橋洋子さん。

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実際に物語舞台だった山口県でロケが行われ、同地では昨秋、先行上映がありました。全国でも順次公開が始まっています。


原作、映画、それぞれご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

一人のかたくなな彫刻家は 万象をおのれ自身の指で触つてみる。 水を裂いて中をのぞき、 天を割つて入りこまうとする。

詩「触知」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

――と言っていた光太郎も、本当の意味では、智恵子の心の中にまでは、入り込めなかったようです……。

現代歌人協会公開講座「高村光太郎の短歌」。

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5月も下旬となって参りましたので、そろそろ来月のイベントのご紹介を。 
期   日 : 平成29年6月21日(水)
時   間 : 午後6時から午後8時まで
会   場 : 学士会館 東京都千代田区神田錦町3-28
参  加  料  : 1,500円 (当日受付)
司   会 : 渡 英子
メインパネリスト : 松平盟子(歌人)・染野太朗(歌人)
問い合わせ : 現代歌人協会 TEL 03-3942-1287(平日10~16時) FAX 03-3942-1289
           gendaikajinkyokai@nifty.com
       
今年度は、小説家、詩人、画家など、いわゆる専門歌人以外の著名人の短歌について話し合ってみたいと思います。メインパネリストによるミニ講演の後、ディスカッションを行います。お誘い合わせの上、ふるってのご参加をお待ちしています。


というわけで、現代歌人協会さん主催の公開講座です。全6回で、「著名人の短歌について」という総題のもと、先月から始まっており、光太郎は第3回ということになっています。ちなみに光太郎以外は、北杜夫、芥川龍之介、中島敦、夢野久作。10月の最終回は総集編ということで、それ以外に樋口一葉なども取り上げられるようです。

光太郎、本格的な文学活動の出発点は、与謝野夫妻の新詩社で取り組んだ短歌でした。ただ、師の鉄幹にしてみればあまり真面目な弟子ではなかったようですが、かえってそういう部分も含めてかわいがられていたように思われます。

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後列左から二人目の長身の青年が光太郎、前列右端が与謝野鉄幹。明治37年(1904)、光太郎数え22歳での撮影です。

年2回、当会で刊行している冊子『光太郎資料』の中に、筑摩書房の『高村光太郎全集』完結(平成10年=1998)後に見つかった光太郎の文筆作品を、ジャンルや内容ごとにまとめて紹介する「光太郎遺珠から」という項を設けています。今秋発行予定の『光太郎資料』第48集、来春発行予定の同第50集では、短歌についてご紹介するつもりで、執筆を始めています。『高村光太郎全集』完結後も、続々と短歌の実作が見つかっていますし、短歌について述べたアンケートや書簡、散文などもいろいろと見つけました。そのあたりをご紹介します(ご入用の方はご用命下さい)。

また、昨年は1年間かけて、このブログで【折々の歌と句・光太郎】というわけで、「これは」と思う光太郎の短歌や俳句などを1首(句)ずつご紹介いたしました。

そんなわけで、最近、光太郎短歌にはまっておりますので、この講座も都合をつけて拝聴に伺おうと考えております。

皆様もぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

見果てぬ時のかなたよりわしを呼ぶは何者ぞや。 旅にやんで夢は枯野をかけ廻る。 わしはもう一歩出よう。
詩「旅にやんで」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

短歌ならぬ俳句の祖・松尾芭蕉をモチーフとした――というか、芭蕉の視点で謳った――詩です。

旅にやんで夢は枯野をかけ廻る」は、芭蕉の「辞世の句」として有名ですね。ただ、芭蕉自身が辞世の句として詠んだかどうかは不明です。

大方の解釈では、「旅の途中で病にかかり、身体はもう動かないが、自分の夢(精神)だけは冬枯れた野原をかけめぐっている」といったところでしょう。しかし、素人考えですが、「旅にやんで」は「「旅」というやっかいきわまりない「病」にとりつかれ、家族も持たず定住もせず、あちこちをさすらい歩く生涯だったが……」という解釈も成り立つのではないでしょうか。

ちなみにこの句、「病中吟」という前書がついています。光太郎も、のちに昭和20年(1945)、空襲で東京を焼け出されて花巻の宮沢賢治の実家に疎開した折、結核性の肺炎で高熱を発し、1ヶ月ほど病臥した際に詠んだ連句に「病中吟」と前書きをつけています。偶然ではありますまい。

福島報道。

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まず福島の地方紙『福島民友』さんの記事から。昨日の掲載です。

過日、このブログでご紹介しました、いわき市の草野心平記念文学館さんで開催中の企画展「草野心平の詩 料理編」の関連行事、「心平さんの胃袋探訪 〜創作料理の試食と解説〜」を報じた記事です。 

詩人・草野心平の『美味』食すイメージ 1 再現料理、独特な食世界を堪能

 いわき市出身の詩人草野心平が営んでいた居酒屋や作品で出てきた料理を再現して味わう「心平さんの胃袋探訪~創作料理の試食と解説」は21日、同市小川町の市立草野心平記念文学館で開かれ、参加者が花を載せて食べるサンドイッチや、コーヒー味のくず湯など、独特な心平の味覚の世界を堪能した。同館の主催。
 同館で6月18日まで開かれている企画展「草野心平の詩 料理編」の関連イベントとして開き、約30人が参加した。料理研究家の中野由貴さんが講師を務め、心平が出店した店や再現した弁当について解説した。
 中野さんは心平が営んだ焼き鳥屋台「いわき」に高村光太郎が最初の客として訪れたことなどを紹介した。試食では、ごま油を使ったおかゆ「心平がゆ」や大根をしょうゆ、酒、みりんで漬けた「大根の半日づけ」などが振る舞われた。


講師の中野由貴さんとは、先日、花巻で行われた第60回高村祭でお会いし、いろいろお話を伺わせていただきました。今回も参上したかったのですが、当日、居住地域のボランティア活動に参加せねばならず、欠礼しました。いずれ、何かの機会に「光太郎の食」的な催しがあればご出馬いただきたいところです。

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企画展は来月18日までの開催です。


続いて、23日付の『東京新聞』さんの記事。 

【ふくしま便り】二本松・岳温泉の今 「歩く」催し 健康増進訴え 

 再生可能エネルギーの拠点として「エコツイメージ 4ーリズム」で復興を図る福島市の土湯温泉の挑戦を先週、本欄で取り上げた。同じく温泉地でユニークな取り組みを始めているのが岳(だけ)温泉(福島県二本松市)。こちらは「歩く」をテーマに据え、体を動かして温泉で癒やされる「ヘルスツーリズム」に活路を見いだそうとしている。さて、どんな取り組みか。

 岳温泉は、高村光太郎が詩集「智恵子抄」でたたえた安達太良(あだたら)山の中腹にある。標高六百メートルほどの高原に旅館やホテルが点在し、スキー場が隣接する保養型の温泉地だ。

 十八日、一軒のホテルで講演会が開催されていた。講師はドイツ人のハートヴィッヒ・ガウダー氏(62)。モスクワ五輪の競歩で金メダルを獲得するなど一流のスポーツマンであった同氏は、四十一歳で突然、細菌性の心臓疾患に倒れる。心臓移植で命を取り留め、後にニューヨーク・マラソンで完走を果たすなど健康を取り戻す。その過程で考案した運動法が「パワーウォーキング」。心拍数をコントロールしながら負荷をかけて歩き、体全体を鍛える歩行法だった。

 「健康は努力によって得られるのです」と話すガウダー氏の言葉に約四十人の老若男女が聞き入った。この日のために県外から来た夫婦の姿もあった。

 講演会を企画した岳温泉観光協会の鈴木安一会長によると、ガウダー氏が初めて岳温泉に来てパワーウォーキングを紹介したのは二〇〇五年春。これを契機に「歩いて健康になる温泉」をキャッチフレーズに掲げた。

 岳温泉がもっともにぎわったのは一九八三年からの十年ほどだった。東北新幹線が開通したが最寄りの二本松駅は通らない。これに反発し、日本国からの独立を宣言。「ニコニコ共和国」をぶち上げると、物珍しさに観光客が殺到した。鈴木会長も第三代大統領に就任したが、ブームは長く続かない。次に活路を求めたのが、ヘルスツーリズムだった。

 「そもそも温泉は健康づくりの場です。欧州の保養地のような落ち着いた滞在型の温泉地を特色としたいと考えました」

 その後、二〇一一年三月に東日本大震災と福島第一原発事故が起きる。岳温泉は被災者の避難宿舎となり、県外からの客は激減した。

 小中学校が主導する教育旅行も途絶えた。原発事故から六年のこの冬、埼玉県の中学が事故後初のスキースクールを実施すると、「やっと解禁」と地元紙に大きな見出しで報じられた。

 そんな逆風の中で粛々と続けてきたのが、健康へのこだわりだった。柱の一つが総合型地域スポーツクラブ「岳クラブ」。

 毎月定期的に行っている「月例ウォーク」などのイベントに、県内外を問わず、誰でも参加できるクラブだ。

 六月のスケジュールを見ると、「滝ウォーク十一キロ」「山奉行コース十一キロ」などがある(ショートコースもあり)。いずれも参加費は三百円(年会費千五百円)。ほかにも「あだたら縦走トレッキング」「ノルディックウォーキング教室」「体力測定会」などのイベントがある。併設して「安達太良マウンテンガイドネットワーク」があり、友人同士の登山でガイドを頼むこともできる。

 福島県の宝はいくつもあるが、雄大な山々と温泉の魅力は格別だ。まずは訪れることから復興への手助けが始まる。

 問い合わせは、岳クラブ=電0243(24)2310、ハートヴィッヒ・ガウダーパワーウォーキング協会=電03(3791)8375=へ。 (福島特別支局長・坂本充孝)


安達太良山の山開きは、やはり21日の日曜日でした。こちらの報道では、残念ながら光太郎智恵子に触れられていませんでしたので割愛いたします。

山頂方面、行こう行こうと思いながら、まだ果たせていません。今年こそは機会を見つけて登ってこようと思っております。記事の最後にあるとおり、「まずは訪れることから復興への手助けが始まる。」というわけで、皆様もぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

蹉跌は證(あかし)だ。 真なるものは必ず蹉跌す。 蹉跌の深みに転落せぬもの、 己はそいつの友ではない。

詩「街上比興」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

心平が創刊した雑誌『学校』の創刊号に寄せた詩です。原題は「興」一文字でしたが、後に改題されています。

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心平や、同人だった伊藤信吉、萩原恭次郎など、光太郎より一世代若い詩人たち――ある意味、「蹉跌」まみれだった人々――へのエールという意味合いもありましょう。

『月刊絵手紙』2017年6月号新連載「高村光太郎のことば」。

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日本絵手紙協会さん発行の雑誌『月刊絵手紙』の2017年6月号をご紹介します

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同誌では、これまでもたびたび光太郎智恵子を取り上げてくださり、先月号では「すべては「詩魂」ありてこそ 高村光太郎の書」という題で、10ページの特集を組んでくださっていました。

そして今号からは、「高村光太郎のことば」という新連載(全1ページ)が始まりました。ありがたや。

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今月号は「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす」と題し、詩「粘土」(大正3年=1914)から15行ほどが抜粋されています。サブタイトルの「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす」は、その最終行に含まれる詩句です。バックには光太郎ブロンズ彫刻代表作の一つ「手」(大正7年=1918)があしらわれています。

おそらく来月号以降もこんな感じで続くのでしょう。いつまでも続けていただきたいものです。

同誌は一般書店での販売は行っておらず、同会サイトからの注文となります。1年間で8,700円(税・送料込)。お申し込みはこちらから。


【折々のことば・光太郎】

その詩をよむと詩が書きたくなる。 その詩をよむとダイナモが唸り出す。 その詩は結局その詩の通りだ。
詩「その詩」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

光太郎は詩人として著名ですが、評論などの散文では詩の方法論的なものをほとんど書き残していません。

代わりに、というわけでもありませんが、この「その詩」が、光太郎の考えていた詩の方法論を端的に示しています。ただし、あくまで詩ですので、直截な表現ではなく、象徴や比喩を多用し、しかし味わい深い方法論が展開されています。

「大岡信さん、織りあげた宇宙 心に残る、折々のうた」。

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昨日の『朝日新聞』さんで、先月亡くなった詩人の大岡信氏について、まるまる1ページ、大きく取り上げられました。「大岡信さん、織りあげた宇宙 心に残る、折々のうた」の総題で、氏が昭和54年(1979)から平成19年(2007)にかけ、同紙に連載されていたコラム「折々のうた」がメインでした。

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国立文学研究資料館館長のロバート・キャンベルさんの談話が掲載されていますが、そちらは割愛します。下記は「折々のうた」の紹介的な内容。

29年、6762回 「世界文学としての詩歌選集」

 「折々のうた」は、朝日新聞創刊100周年記念日の1979年1月25日に始まった。引用作品は2行程度で、大岡さんが約200字の鑑賞文を添えた。掲載は休載期間を含めて2007年3月31日まで29年間、万葉集の収録和歌数約4500を超える6762回に上った。
 初回は高村光太郎、最終回は江戸期の俳人田上菊舎(たがみきくしゃ)。大岡さんは「精力の9割」を作品の選定と配列に割いていると述べ、「2年くらいたつとストックは全くなくなって、勉強しなくてはいけなくなった」とも語っていたが、紹介した詩歌は実に多彩だ。
 阿倍仲麻呂、紀貫之から、アングラ演劇で活躍した寺山修司、詩人・谷川俊太郎まで時代は様々。内容的にも、正岡子規の絶筆「糸瓜(へちま)咲(さい)て痰(たん)のつまりし仏かな」から、金子光晴の孫娘への愛情を歌った「来年になったら海へゆこう。そしてじいちゃんもいっしょに貝になろう。」まで重いものも明るいものもある。
 俳人の長谷川櫂(かい)さんは「この詩歌の国で世界文学として初めて誕生した詩歌選集」。歌人の俵万智さんは自作が紹介された時、駅で新聞を何部も買い、「会う人ごとに話しかけたいような気分」で「心から励まされた」。いずれも童話屋が刊行した「折々のうた」のあとがきで書いている。


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というわけで、記念すべき第一回が、光太郎の短歌「海にして太古の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと」(明治39年=1906)。そちらが当時の紙面から引用されています。

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本職の歌人ではない光太郎の作を、記念すべき連載第一回に、よくぞ取り上げて下さったという感がします。


その他、「折々のうた」の書籍、三島市の大岡信ことば館さんも紹介されています。 

本になった「折々のうた」手元にイメージ 4

 岩波新書の「折々のうた」(全10冊)と「新折々のうた」(全9冊)は、1980年から続々と刊行されてきたシリーズだ。ただほとんどが品切れ重版未定で、古書でなければ入手は難しい。1冊目の1980年刊の「折々のうた」は42万部のロングセラーで入手可能。岩波書店刊「折々のうた 三六五日」は大岡さんが365日それぞれにふさわしい詩歌を選んで編んだ愛蔵版だ。
 季節ごとの詩歌をまとめた4分冊「折々のうた 春夏秋冬」(童話屋)は昨年、刊行された。谷川俊太郎さんが代表を務める「折々のうたを読み伝える会」が編集。引用された作品の作者の略歴や用語説明も付け加えている。


最後に書かれている童話屋さん版の、「冬」編に、上記「海にして……」の短歌、大正3年(1914)の詩「僕等」の一節が掲載されています。
 

作品や横顔、深く知るには…

 大岡さんが生まれた静岡県三島市には、作品や横顔を紹介する「大岡信ことば館」(JR三島駅徒歩1分)がある。造形家の岩本圭司さんが館長を務め、常設展のほか、追悼特別展を9月から開く予定。
 「大岡信研究会」(西川敏晴会長)では評論家三浦雅士さんら有識者が大岡作品を読み解き、論じてきた。今月28日午後2時、明治大学リバティタワー研究棟で、大岡さんの教え子の松下浩幸・明治大教授が「大岡信と夏目漱石」と題して講演(参加費は会員外1千円)。研究会は一般の人も入会可。問い合わせは事務局(花神社内、03・3291・6569)へ。


そして、来月行われる「送る会」についても。 

送る会 来月28日、明治大学で

 大岡さんを送る会が6月28日午後6時から、東京都千代田区の明治大学アカデミーホールで開かれる。開場は午後5時。詩人谷川俊太郎さんが詩を朗読。作曲家一柳慧さんがピアノ演奏、俳優白石加代子さんが大岡さんの詩を朗読する予定。一般の人も参加可で「平服でお越し下さい」と主催の大岡信研究会(事務局は花神社、03・3291・6569)。


あらためて、ご冥福を祈念いたします。


【折々のことば・光太郎】

その詩は高度の原(げん)の無限の変化だ。 その詩は雑然と並んでもゐる。 その詩は矛盾撞着支離滅裂でもある。
詩「その詩」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

昨日もご紹介した詩「その詩」から。

やはり光太郎詩の「原理」が、色濃く、端的に表されています。

勝手な想像ですが、大岡さんなども、詩のあり方として「そうそう」とうなずいて下さるような気がします。


秀明大学近代文学展示館。

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一昨日、千葉県八千代市の秀明大学さんに行って参りました。同大のサイトに「近代文学展示館」の情報がアップされ、これは、と思った次第です。

同大学長の川島幸希氏、近代文学初版本コレクターとして有イメージ 1名な方で、氏のコレクションを中心に、平成24年(2012)から毎年の学祭「飛翔祭」で、それらを展示するコーナーを設けられていました。初年が「芥川龍之介展」、以下、「梶井基次郎展」、「宮沢賢治展」、「太宰治展」、そして昨年は「夏目漱石展」。それぞれ新発見を含むとんでもなく貴重な稀覯本や肉筆ものの展示があり、毎年、報道されていました。

当方、平成26年(2014)の「宮沢賢治展」を拝見に伺いました。大正3年(1914)の光太郎第一詩集『道程』私家版(通常と異なる三方金の装幀、識語署名入り)など、光太郎がらみの展示品も数多く並んでいたためです。

で、同大図書館の一角に、「近代文学展示館」が設置され、5年分の展示に関わる資料が並べられているということで、またそれらが拝見できるかと思い、行って参りました。

結果的には私家版『道程』は展示されていませんでしたが、ぽつぽつと光太郎に関わるものが並んでおり、興味深く拝見しました。

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部屋は3室に分かれ、第1室が「夏目漱石展」資料。初版本や草稿などのカラーコピーが中心でした(他室も同様)。

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『吾輩ハ猫デアル』上、明治38年(1905)。

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左は『心』、大正3年(1914)、右が「坊つちゃん」が収められた『鶉籠』、明治40年(1907)。

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光太郎は文展(文部省美術展覧会)の評をめぐり、漱石にかみついたことがありました。権威的なものへの反抗、という意味では、光太郎は「坊つちゃん」的性向が色濃かったように思われます。


第2室に、「太宰治展」、「宮沢賢治展」、「梶井基次郎展」関連。

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太宰初版本の数々。

光太郎と太宰、面識はなかったようですが(あったとしても、戦時中、文学者の大きな会合などで顔を合わせた程度)、太宰実兄の津島文治が青森県知事として光太郎に「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の制作を依頼したり、佐藤春夫や三田循司など、共通の友人知己がいたりといったことはありました。

『高村光太郎』全集には、太宰の名は児童文学者・堀尾勉にあてた書簡で1回だけ出てきます。

太宰治の事は一種の時代の象徴と感じます。

書かれたのは昭和23年(1948)、太宰自裁直後です。


そして「宮沢賢治展」のコーナー。

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光太郎も編集に名を連ね、装幀を担当した最初の『宮沢賢治全集』(文圃堂、昭和9年=1934)が置いてありました。

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飛翔祭の時もそうでしたが、自由に手に取れるというのがすばらしいところです。

他の部屋もそうなっていますが、壁には学生さんたちによるさまざまなレポートなど。光太郎が碑文を揮毫した花巻の賢治詩碑についてのものもありました。

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大きく報道された新発見の賢治書簡。ただしこの手のものはカラーコピーです。

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続いて「梶井基次郎展」。

梶井の名は『高村光太郎全集』には出てきませんが、まったく光太郎とつながりがなかったかといえばそうでもなく、同じ雑誌に寄稿したりしています。

昭和5年(1930)の『詩・現実』。光太郎詩の中では有名な方の部類に入る「のつぽの奴は黙つてゐる」、それから梶井の「闇の絵巻」が掲載されています。

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第3室は、まるまる「芥川龍之介展」関連。

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芥川の名も、太宰同様、『高村光太郎全集』には一度だけの登場です。昭和19年(1944)刊行の詩集『記録』で、各詩篇に前書きをつけた中の、「北東の風、雨」のもの。

「資本論」の定訳が普及せられ、一方、芥川龍之介全集の刊行が着手せられたのも此年である。

昭和2年(1927)という年についての説明です。


詩人としてある程度著名だった光太郎ですが、こうしてみると、いわゆる「文壇」の人ではなかったというのが実感されます。「私は何を 措 いても彫刻家である。彫刻は私の血の中にある。私の 彫刻がたとひ善くても悪くても、私の宿命的な彫刻家である事には変りがない。」(「自分と詩との関係」、昭和15年=1940)と語っていた光太郎、やはり自分の意識としてはそうだったのでしょう。

さて、秀明大学さんの近代文学展示館。事前の申し込みが必要ですが、上記のようにいろいろ貴重なものを手に取れたり、写真撮影もOKだったりと、破格の好条件で見られる機会です。ぜひご利用下さい。


【折々のことば・光太郎】

その詩は奥の動きに貫かれてゐる。 その詩は清算以前の展開である。 その詩は気まぐれ無しの必至である。
詩「その詩」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

いわゆる文壇から距離を置いていた光太郎が、詩を多作した理由についても、上記「自分と詩との関係」に述べられています。

 以前よく、先輩は私に詩を書くのは止せといつた。さういふ余技にとられる時間と精力とがあるなら、それだけ彫刻にいそしんで、早く彫刻の第一流になれといふ風に忠告してくれた。それにも拘らず、私は詩を書く事を止めずに居る。
 私は自分の彫刻を護るために詩を書いてゐるのだからである。自分の彫刻を純粋であらしめるため、彫刻に他の分子の夾雑して来るのを防ぐため、彫刻を文学から独立せしめるために、詩を書くのである。私には多分に彫刻の範囲を逸した表現上の欲望が内在してゐて、これを如何とも為がたい。その欲望を殺すわけにはゆかない性来を有つてゐて、そのために学生時代から随分悩まされた。若し私が此の胸中の氤氳を言葉によつて吐き出す事をしなかつたら、私の彫刻が此の表現をひきうけねばならない。勢ひ、私の彫刻は多分に文学的になり、何かを物語らなければならなくなる。これは彫刻を病ましめる事である。

まさに「奥の動きに貫かれ」た「清算以前の展開」、「気まぐれ無しの必至」だったというわけですね。




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