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下関市立美術館「特別展「動き出す!絵画 ペール北山の夢 モネ、ゴッホ、ピカソらと大正の若き洋画家たち」。

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東京ステーションギャラリーさん、和歌山県立近代美術館さんと巡回した展覧会が、最終会場、山口県で開かれます。  

動き出す!絵画 ペール北山の夢  モネ、ゴッホ、ピカソらと大正の若き洋画家たち

期  日 : 2017年1月28日(土)~3月12日(日)
会  場 : 下関市立美術館 山口県下関市長府黒門東町1-1
時  間 : 午前9時30分~午後5時 (入館は午後4時30分まで)
料  金 : 一般1,200円(960円)/大学生900円(720円) ※( )内は、20名以上の団体料金。
 ※18歳以下の方、70歳以上の方および高等学校、中等教育学校と特別支援学校に在学中の生徒は、観覧
   料が免除されます(いずれも公的証明書の提示が必要です)。
休 館 日 : 月曜日

大正期の美術界に功績を残した北山清太郎(1888-1945)の仕事を追いながら、彼が紹介した印象派からポスト印象派、キュビスムまでのヨーロッパ絵画、それらに感化されて新しい表現を展開した近代日本の芸術家たちによる作品を同時に展示する。 絵画、彫刻、資料およそ200点で、今から約100年前の美術「熱」をお伝えする。(会期中に一部展示替あり)

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関連催事

記念講演会「身振りとマティエール――日本における表現的絵画の台頭」
講師:北澤 憲昭(美術史家・美術評論家・女子美術大学教授)
日時:2 月18 日(土)午後2時~午後3時30分  会場:下関市立美術館 講堂

美術講座「魅力発見!近代洋画っておもしろい」
学芸員が日本近代洋画についてわかりやすく語ります。
日時:3月5日(日)午後2時~午後3時30分  会場:下関市立美術館 講堂

ギャラリートーク(学芸員による展示解説)
日時:1月28日(土)、3月4日(土)それぞれ午後2時~午後3時 ※ ご参加には当日の観覧受付が必要です。
会場:下関市立美術館 展示室

ワークショップ「みんなでアニメ・リレー」
絵を描き継いで、紙アニメーション(パラパラまんが)をつくりましょう!
※ 開館時間中、ご自由にご参加いただけます。
会場:下関市立美術館 エントランスホール、展示ホール、講堂いずれか


明治末から大正にかけ、青年画家達の活動を裏方から支えて洋画界の発展に寄与し、ゴッホらを支援したペール・タンギーになぞらえ、ペール北山と呼ばれてた北山清太郎に着目した企画展です。光太郎の油絵2点、「上高地風景」「佐藤春夫像」が出ます。

その他、光太郎と交流のあったさまざまな邦人芸術家の作品(絵画を中心に、彫刻、工芸も)、光太郎を含め彼等に影響を与えたモネ、ゴッホ等の作品がずらりとならび、さながら明治大正の反アカデミズム洋画壇史といった趣です。

絵画以外に、北山が編集に当たり、光太郎も寄稿していたさまざまな美術雑誌が展示されます。『現代の洋画』、『ヒユウザン』(のち『フユウザン』)、『生活』、『多津美』など。ヒユウザン会展のポスターなども。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

わがこころはいま大風(おほかぜ)の如く君に向へり

詩「郊外の人に」より 大正元年(1912) 光太郎30歳

この詩句が、詩の中で二回リフレインされています。

思いがけず智恵子と過ごすことになった、この年晩夏の千葉犬吠埼での体験を経て、秋には上記のヒユウザン会展。そしてこの詩は晩秋になって書かれました。

ヒユウザン会展では、光太郎の油絵が寺田寅彦に買い上げられ、展覧会で絵が売れるということの少なかったこの時代、光太郎は仲間に胴上げされて祝福を受けたといいます。

そうした高揚感が、智恵子への思いをさらに加速させていったのではないのでしょうか。


『平川祐弘決定版著作集7 米国大統領への手紙―市丸利之助中将の生涯/高村光太郎と西洋』。

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新刊情報です。 

平川祐弘決定版著作集7 米国大統領への手紙―市丸利之助中将の生涯/高村光太郎と西洋

平川祐弘著 2017年1月 勉誠出版 定価4,200円+税

目次
◎米国大統領への手紙―市丸利之助中将の生涯
 第一章 米国大統領への二つの手紙
 第二章 予科練の父
 第三章 軍人歌人
 第四章 硫黄島
 第五章 名誉の再会
 付録一 毛厠救命 豊子
 付録二 硫黄島から 市丸利之助の歌、折口春洋の歌 佐伯裕子
◎高村光太郎と西洋
 第一章「大和魂」という言葉―北京で『銀の匙』を読む―
 第二章 高村光太郎と西洋
 あとがき
新潮社版へのあとがき
出門堂版へのあとがき
「昭和」を大観した評論―二転三転の精神史 実像をあぶり出す― 中田浩二
鎮魂の紙碑に寄せて 土居健郎
解説 牧野陽子
著作集第7巻に寄せて―市丸家のご遺族―  平川祐弘


平川祐弘氏は、東大名誉教授で比較文学研究者。右派の論客として知られ、「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」メンバーです。版元の勉誠出版さんから、「平川祐弘決定版著作集」全34巻が刊行中で、その第3回配本です。

表題は、太平洋戦争中、硫黄島で戦死した市丸利之助中将が残したルーズベルト宛の手紙から採られています。

もともとは平成8年(1996)に新潮社さんから刊行された『米国大統領への手紙』。絶版です。そちらは「第一部 米国大統領への手紙―市丸利之助中将の生涯―」、「第二部 「大和魂」という言葉―北京で『銀の匙』を読む―」、第三部「高村光太郎と西洋」の三部構成ですが、今回のものでは第二部が何故か第二部に組み込まれているようです。

「あとがき」によれば、「言語や文化を異にする国家と国家の間の軋轢(あつれき)の中で生き、反応し、歌い、そしてその志を文字で述べた人間を扱った」とのこと。

さらに遡れば、第三部「高村光太郎と西洋」は、平成元年(198イメージ 19)の雑誌『新潮』が初出です。章立ては以下の通り。光太郎に光雲もからめ、西洋受容史の一典型を論じています。

  誠実な人、insincereな人
  ジャップの憤り
  ロダンの国にて
  彫刻家ガットソン・ボーグラム氏
  高村光太郎と父
  近代日本における父と子
  反動形成としての『智恵子抄』
  訳詩と劇作詩
  童話と実話
  戦前・戦中・戦後
  自己同化性の人
  人生を刻んだ人
  上野の西郷さんと十和田湖畔の裸女
  父としての役割
  楠公銅像


平川氏には『和魂洋才の系譜 内と外からの明治日本』という著作もあり、こちらは主に森鷗外を論じつつ、光太郎にも触れられています。

元版は河出書房新社さんから、昭和51年(1976)に刊行。気付きませんでしたが、昨年、同社から「完本」の二字が加えられて再刊されていました。いずれ全著作集に組み入れられるのではないでしょうか。 

完本 和魂洋才の系譜 内と外からの明治日本

平川祐弘著 2016年6月28日 河出書房新社 定価3,800円+税

日本人は西洋という異質の文明と対峙したとき、その衝撃に対してどのように応答したか。明治という過渡期を縦横に考察し、「日本とは何か」を解き明かしてゆく画期的名著。著者代表作。

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併せてご紹介しておきます。


【折々のことば・光太郎】

大きなる自然こそは我が全身の所有なれ しづかに運る天行のごとく われも歩む可し
詩「冬の朝のめざめ」より 大正元年(1912) 光太郎30歳

「運る」は「めぐる」。「自然」崇拝、讃美の光太郎、本領発揮という感があります。

NHK放送研修センター朗読講座 豊かなことばの世界。

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東京世田谷から朗読講座の情報です。NHK放送研修センターさんと、世田谷文化生活情報センターさんの共催です。 

豊かなことばの世界 「朗読講座」2月期 水曜教室

期  日 : 2017年2月1日(水)・8日(水)・15日(水)・22日(水)
時  間 : 各回午前10:30~12:30 各回午後13:30~15:30
会  場 : 公益財団法人 せたがや文化財団生活工房 東京都世田谷区太子堂4-1-1キャロットタワー内
講  師 : 岩井正(NHK日本語センター)
受 講 料 : 料金4回分 一般20,500円

朗読作品:高村光太郎著「智恵子抄」
「智恵子は東京に空が無いといふ」…の詩を引用しつつ彼女の思いをたどる高村光太郎。詩集「智恵子抄」の中の随筆「智恵子の半生」を読みます。智恵子の死を受け止めかねていた光太郎は、やがて智恵子は彼にとって「普遍的存在」になったという心境にたどり着きます。今期のテーマは「愛」です。

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このブログの先月末に「回顧2016年」として書いた記事を元に、昨年一年間の光太郎歿後年譜をまとめました。4月に高村光太郎研究会さんから刊行予定の雑誌『高村光太郎研究』に掲載予定です。

その中で、光太郎の詩を取り上げて下さった朗読関連のイベント、講座などが結構目立ち、ありがたく存じました。

光太郎の詩は、白秋や中也などのそれと比べると、流暢に言葉が紡がれているというイメージには欠けます。しかし、他の詩人にはない、骨太の「述志」の感覚、彫刻で培った構成力の妙、そしてわかりやすさなどの点が魅力だと思われ、そういうところが好まれているのでしょう。そして「智恵子抄」で言えば、数十年にわたっての一人の女性に対する語りかけ、「愛」の表明という、日本の詩には稀有な内容も。

今後とも、こうした光太郎詩が愛され続けていくことを願ってやみません。


【折々のことば・光太郎】

私は私自身との戦闘にまづ尽さねばならぬ 私はまだ一つの雰霧星の形に過ぎない 多くの不純を含み、無駄を有し、稀薄を交へてゐる 私は突進せねばならぬ

詩「戦闘」より 大正元年(1912) 光太郎30歳

これなど、「述志」の詩句の代表格です。

~光と雪のページェント~ 十和田湖冬物語2017。

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毎年ご紹介しています、青森十和田湖畔のイベントの情報です。 

~光と雪のページェント~ 十和田湖冬物語2017

冬の澄んだ夜空に打ちあがる花火をはじめ、乙女の像ライトアップ、ゆきあかり横丁、人気のグリューワイン、幻想的なイルミネーション…
この他、様々なイベントをご用意しております。
ご家族、ご友人、恋人と…十和田湖の冬をお楽しみください♪

開催期間 : 平成29年2月3日(金)~2月26日(日)
時   間 : 平日:15:00~21:00  土日祝日:11:00~21:00
会   場 : 十和田湖畔休屋特設イベント会場 青森県十和田市大字奥瀬字十和田湖畔休屋486番地

イベント内容

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このほか、かんじきふっとパス、バナナボート、雪のすべり台、ホーストレッキングなど、たくさんの体験があります!!


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一度、お邪魔いたしましたが、雪景色の中に浮かぶ光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のライトアップ、非常に幻想的な光景です。

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期間中、土日にはJRバスさん、弘南バス・第一観光バスさんで、それぞれ八戸、弘前とのシャトルバスを運行しています。

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ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

人間の心の影の あらゆる隅隅(くまぐま)を尊重しよう 卑屈も、獰悪(だうあく)も、惨憺も 勇気も、温良も、湧躍(ゆうやく)も それが自然であるかぎり

詩「カフエにて」 大正2年(1913) 光太郎31歳

プラスの感情、マイナスの感情、善なる部分、悪なる部分、いろいろあるのが人間ですね。

小平市平櫛田中彫刻美術館特別展「ロダン没後100年 ロダンと近代日本彫刻」。

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東京小平から特別展情報です。 

特別展「ロダン没後100年 ロダンと近代日本彫刻」

期  日 : 2017年2月3日(金)~3月12日(日)
会  場 : 小平市平櫛田中彫刻美術館 東京都小平市学園西町1-7-5
時  間 : 午前10時から午後4時
料  金 : 一般800円(640円) 小・中学生 150円(110円)  ※20人以上の団体の方は( )内割引料金

「考える人」「地獄の門」などによって世界的に知られるオーギュスト・ロダンの没後100年を記念して、ロダンと国内の彫刻家の作品を取り上げながら、ロダンが日本の彫刻界に与えた影響を、これまでにない広い角度から紹介します。

展覧会ではロダンの代表作「考える人」「カレーの市民」をはじめ、選りすぐりの近代日本の彫刻作品 約60点を、国内20ヶ所以上から集め展示いたします。

〈主な出品作家(予定)〉
オーギュスト・ロダン、朝倉文夫、石井鶴三、荻原守衛、菊池一雄、斎藤素巖、佐藤忠良、高田博厚、高村光太郎、辻晉堂、戸張孤雁、中原悌二郎、平櫛田中、藤井浩祐、藤川勇造、舟越保武、堀進二、本郷新、毛利教武、横田七郎

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関連行事

◆ 美術講座「ロダンと近代日本彫刻」   と き 2月26日(日)午後1時30分~  
 ところ 放送大学 東京多摩学習センター  小平市学園西町1-29-1 一橋大学小平国際キャンパス内
 ※駐車場はありません
 講 師 藤井明(当館学芸員)    定 員 50名    参加費 無料。事前申込みは必要ありません。
 問合せ 小平市平櫛田中彫刻美術館 電話:042-341-0098

◆講演会&コンサート「音楽とめぐるロダンの世界」  と き 3月4日(土) 午後1時30分~
 ところ ルネこだいら レセプションホール  西武新宿線「小平駅」下車、南口徒歩3分
 ※駐車場はありません
  第一部 講演会
   演題 「歿後100年。本当のロダンをご存知ですか?」
   講師 橋幸次氏(日本大学教授)
  第二部 コンサート  「ロダンと同時代のフランス音楽を中心に」
   曲 目 ドビュッシー「月の光」、ラヴェル「ソナチネ第2楽章」ほか
   出 演 ラ・ペスカ(斉藤智恵美(ソプラノ)、竹内綾(ピアノ))
   定 員 100名
   参加費 無料(全席自由) 事前申込みは必要ありません。
 問合せ 小平市平櫛田中彫刻美術館 電話:042(341)0098
 小平市文化振興財団    電話:042(345)5111


光太郎作品は、昭和27年(1952)の、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の中型試作。碌山美術館さんの所蔵です。

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その他、ロダンをはじめ、錚々たる彫刻家の作品が一堂に会します。また、館の名称に冠されている平櫛田中は、光雲門下。ロダニズムとはまた異なった潮流での大家です。そうした流れの中で光太郎彫刻を捉えるいい機会だと思います。

関連行事で講師を務められるお二人とも、連翹忌にご参加下さっている方々ですので、これは当方も行かざるを得ません。今から楽しみです。

皆様も是非どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

私にあなたが無いとしたら―― ああ それは想像も出来ません 想像するのも愚かです 私にはあなたがある あなたがある

詩「人類の泉」より 大正2年(1913) 光太郎31歳

高らかに宣言された、智恵子への愛。

しかし、後の大きな悲劇の胚珠は、すでにこの詩に見て取れます。引用部分の直前には、「私は今生きてゐる社会で もう万人の通る通路から数歩自分の道に踏み込みました もう共に手を取る友達はありません ただ互に或る部分を了解し合ふ友達があるのみです 私はこの孤独を悲しまなくなりました」という一節があります。世間と距離を置いて二人だけの世界に入ろうという姿勢は危険ですね。

また、終末近くには「あなたは私の為めに生れたのだ」というフレーズもあります。しかし、光太郎は逆に「私はあなたの為めに生れたのだ」とは、決して言いません。智恵子の主体性への理解が不十分だったと言えるのではないでしょうか。

川端康成邸から光太郎書など。

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先々週のこのブログで、『伊豆新聞』さんの記事からご紹介した、川端康成邸での光太郎のそれを含む大量の書画発見のニュ-スが、全国報道されました。

『朝日新聞』さん、『神奈川新聞』さんでは、光太郎書の画像を掲載して下さいました。

まず朝日さん。 

川端康成宅 書画続々

 ノーベル賞作家の川端康成(1899~1972)イメージ 1の自宅で、夏目漱石や北原白秋、林芙美子や横光利一、田山花袋ら著名作家の手による直筆の書や書簡などが大量に見つかった。美術品の収集家としても知られる川端だが、作家の書が見つかるのは珍しい。
 書や書簡、絵画など70点以上で、神奈川県鎌倉市の川端邸に眠る遺品を整理していた川端康成記念会(川端香男里理事長)が昨年末、発見した。
 書は52点。漱石の五言絶句や田山花袋の七絶詩、北原白秋の自作歌など、川端より前世代の文豪のほか、生前交流のあった同世代作家の書もあった。
 川端らとともに「新感覚派」と呼ばれ、盟友でもあった横光利一による書は3点で、代表的な句「蟻(あり)臺上(だいじょう)に餓(う)えて月高し」をしたためた1点も。書を収めた箱には、利一の没後、夫人から譲り受けた経緯が記されていた。林芙美子が鎌倉の川端を訪ねた際に川端が依頼したという書には「硯(すずり)冷えて銭もなき冬の日暮(ひぐれ)かな」とあった。
 その他、芥川龍之介が室生犀星に宛てたものなど、書簡は4点。島木健作が川端の妻に宛てて、訪問の際の非礼をわびた手紙は額装された状態で見つかった。
 記念会理事の水原園博さんは「川端は、書には人格や魂がこもると考え、尋常ではない興味を持っていた。同世代の作家との幅広い交流、年上の作家への尊敬の念も読み取れる」と話している。見つかったものの一部は今夏、岩手県立美術館で公開される予定。(板垣麻衣子)


続いて『神奈川新聞』さん。 

川端康成が見た「文学史」 旧宅から文豪の書76点見つかる

  後半生を鎌倉で過ごしたノーベル文学賞作家、川端康成(1899~1972年)が収集した 文豪の書など76点が、鎌倉市の旧宅で見つかった。コレクションに名を連ねるのは夏目 漱石や芥川龍之介、島崎藤村ら名だたる文士たち。同時代の作家に寄せる親しみや敬意を示すとともに、川端の目を通した「日本近代文学史」にもなっている。
 川端に関する資料保存や研究を手がける川端康成記念会(川端香男里理事長、同市長谷)が24日に発表した。旧宅の敷地に立つ資料庫「川端康成記念館」(非公開)で昨年11月末に偶然見つかり、同会が12月上旬に概要を調査。掛け軸や額など書は52点に上り、書簡や絵画などもあった。直接書いてもらったり、古物商から購入したりと、入手経路はさまざまという。
 漱石の書は、1914年に友人の森円月に贈った五言絶句の漢詩で、軸装され木箱に入っていた。芥川が室生犀星に宛てた書簡は、東京・田端にあった文士村の会合「道閑会」に誘う内容。自身を「澄江堂」、犀星を「魚眠洞御主人」と記すなど、親しさがうかがえる。これらの多くは存在が知られ、未発表書簡には当たらないが、実物の存在が改めて確認された形だ。
同会の水原園博理事は「同時代の作家への親しみに加え、書に対する尋常でない重いも読み取れる」と指摘。川端は書に人格を見いだし、収集にのめり込んだという。「なぜ膨大な書を集めたかを研究し、川端の創作をより立体的に捉えたい」と話していた。
 同会は16年前から川端に関する資料を調査、公開している。今回発見された書の一部は、今夏に盛岡市の岩手県立美術館で公開される計画がある。

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昨夜には、TBSさん系のニュースでも報じられ、同じ書が写りました。

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TBSさんと提携関係にある『毎日新聞』さんでも記事になりましたが、こちらでは光太郎の書は使われなかったようです。


さて、問題の書。画像で見る限りは光太郎の筆跡で間違いないようです。書かれているのは『智恵子抄』所収の「樹下の二人」でリフレインされる「あれが阿多多羅山 あの光るのが阿武隈川」。同じ詩句は当会顧問の北川太一先生が揮毫して貰い、智恵子の故郷、福島二本松の霞ヶ城に建立さられた詩碑に刻まれたものが、色紙等にプリントされて出回っています。そこからコピーした悪質な偽物、ということも考えましたが、それとは筆跡が異なりました。おそらくいけないものではないようです。

見つかった書画の一部は今年の夏、盛岡で公開されるとのこと。盛岡は光太郎ゆかりの地でもあり、ぜひとも光太郎書もそこに含めていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

「無窮」の力をたたへろ 「無窮」の生命をたたへろ 私は山だ 私は空だ

詩「山」より 大正2年(1913) 光太郎31歳

この年の夏、智恵子と共に婚前旅行で1ヶ月ほど滞在した、信州上高地での体験をモチーフにしています。その辺りの経緯、尺の関係でカットされなければ、今夜、NHK BSプレミアムさんで放映の「にっぽんトレッキング100 絶景満載!峡谷のクラシックルート~長野・上高地~」で扱われるはずです。

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画像は一昨年、山岳雑誌『岳人』さんに書かせていただきました記事から。

にっぽんトレッキング100「絶景満載!峡谷のクラシックルート~長野・上高地~」。

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昨夜、NHK BSプレミアムさんで放映された「にっぽんトレッキング100」を拝見しました。

昨秋、番宣的な特集番組「ザ・プレミアム にっぽんトレッキング100 紅葉 温泉 秋のオススメ BEST10!」放映され、そこでベスト10として紹介した山々を、今年に入ってからおのおの30分で詳しく取り上げています。

昨日は「「絶景満載!峡谷のクラシックルート~長野・上高地~」。

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かつてバスがなかった時代、麓の新島々から上高地までは、徒歩で登るしかなかったわけで、そのルートを2日かけて改めて歩く、というコンセプトでした。

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ナビゲーター役は、ファッションモデルの仲川希良さん。登山ガイドの方と一緒に歩かれました。

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このルートは、大正2年(1913)、翌年に結婚する光太郎智恵子も歩いたルートということで、途中の岩魚留小屋に着いたあたりで、その話が出ました。

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小屋の傍らに聳える推定樹齢数百年という桂の巨木。

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後に、光太郎智恵子それぞれが、この木の思い出を書き残しています。

「徳本峠の山ふところを埋めてゐた桂の木の黄葉の立派さは忘れ難い。彼女もよくそれを思ひ出して語つた」(光太郎 「智恵子の半生」昭和15年=1940)
「絶ちがたく見える、わがこの親しき人、彼れは黄金に波うつ深山の桂の木」(智恵子 「病間雑記」大正11年=1912)

智恵子の言葉は番組で引用されました。ただ、「晩年」と紹介されていましたが、そう言うにはちょっと早いのですが……。

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その他、日本アルプスの魅力を海外に発信し、さらに国内に近代登山を広めたウォルター・ウェストンのエピソードがふんだんに紹介されました。ちなみに光太郎智恵子もウェストンと会っています。

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予定では来月はじめまで、各地の紅葉風景を紹介されます。

また紅葉の季節が近づいた頃、再放送していただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

私の苦しみはこれから本当にしん身の苦しみになるに違ひない 私の悩みは私に死力を出さないでは置かないに違ひない 私の悲しみは私をしばしば濡れしぼませるに違ひない しかし、私の喜は私の生(いのち)を意識する時たちまち強大な力となつてあらはれるに違ひない 

詩「よろこびを告ぐ ――TO B.LEACH――」より 大正2年(1913) 光太郎31歳

上高地で智恵子と夢のような日々を過ごし、新機軸の団体展「ヒユウザン会展」を無事に終え、ますます意気軒昂だった時期の言葉です。

「B.LEACH」は陶芸家のバーナード・リーチ。ロンドンで光太郎と知り合って、光太郎より一足早く来日し、奮闘していました。同じリーチに宛て、2年前には「廃頽者より――バアナアド・リイチ君に呈す――」という詩を贈った光太郎。その頃はデカダン生活からの脱却はまだ不完全でしたが、智恵子との邂逅を経て、ようやく自分の道を見つけたという「よろこび」を語っています。

三重県立美術館「再発見!ニッポンの立体」報道。

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今週火曜日に開幕した三重県立美術館さんの「再発見!ニッポンの立体」展について、報道が為されています。

まず、地元紙『伊勢新聞』さん。 

土偶や仏像、「ペコちゃん人形」 県立美術館 「立体」テーマの企画展

 「立体」をテーマにした企画展「再発見!ニッポンの立体」が二十四イメージ 1日、津市大谷町の県立美術館で始まった。縄文時代の土偶から「ペコちゃん人形」まで、約百五十点の立体作品が並ぶ。四月九日まで。
  日本の立体作品は西洋の影響を受けた彫刻に注目が集まりがちだが、前近代の作品にも焦点を当てようと企画。人や動物などの実物に近づけた作品やユーモアを意識した作品など、コンセプトごとに展示した。
  平安時代の仏像や高村光太郎の彫刻作品「兎」、津市在住の中谷ミチコさんによるレリーフなど、県内外の作品を集めた。佐藤製薬の「サトちゃん人形」など、現代のマスコットキャラクターも並ぶ。
  田中善明学芸員は「かつては信仰の対象だった立体作品は、芸術や商業にまで広がりを見せているが、表現の方法は昔と通じているところがあるということを感じてもらえれば」と話していた。
  観覧料は千円(学生八百円、高校生以下無料)。午前九時半―午後五時まで。月曜休館(三月二十日は開館、同二十一日は休館)。問い合わせは県立美術館=電話059(227)2100=へ。


続いて主催に名を連ねる『読売新聞』さんの三重版。 

日本の立体作品展 県立美術館で開幕

 縄文時代から現代までの立体造形作品を集めた展覧会「再発見!ニッイメージ 2ポンの立体」(読売新聞社など主催)が24日、津市大谷町の県立美術館で始まった。
 高村光太郎など著名な作家の芸術作品だけでなく、ペコちゃん人形や縄文土偶、彫刻など多彩な作品154点を展示。一本の木を削り出した彫刻家棚田康司さんの作品「卓の少年―太陽―」「卓の少年―月―」は、独特な少年の表情が目を引く。
 同館学芸普及課長の田中善明さんは「日本の立体作品に西洋文化が与えた変遷を楽しんでほしい」と話している。
 4月9日まで。午前9時半~午後5時。月曜休館(3月20日は開館し、21日休館)。一般1000円、学生800円、高校生以下無料。問い合わせは県立美術館(059・227・2100)。


その後、同館サイトで出品目録がアップされました。それにイメージ 3よると、光太郎作品は、ブロンズの「裸婦坐像」(大正6年=1917)、「大倉喜八郎の首」(同15年=1926)、それから、これまで巡回してき群馬県立館林美術館さん、静岡県立美術館さんでは出ていなかったと思われる、木彫の「兎」(明治32年頃=1899頃)が並んでいます。

光太郎の父、高村光雲の木彫はこれまで同様2点。「江口の遊君」(明治32年=1899)と「西王母」(昭和6年=1931)です。さらに、光雲の師・高村東雲の「西行法師像」(江戸時代後期)もでているとのこと。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

冬は見上げた僕の友だ 僕の体力は冬と同盟して歓喜の声をあげる 冬よ、冬よ 躍れ、さけべ、腕を組まう
詩「冬の詩」より 大正2年(1913) 光太郎31歳

光太郎は「冬の詩人」と称されることもあります。実際に冬を好み、冬を題材にした詩を多く書いた他、その硬質な述志の詩句が、冬の厳しさを連想させるためです。

当方、この点には共感できませず、愛猫と一緒にコタツで丸くなっております(笑)。

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「川端康成邸から書、書簡 岩手で今夏に初公開へ」。

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今月初め、『伊豆新聞』さんで報じられ、今週になって全国的にニュースとなった、光太郎の揮毫を含む川端康成旧蔵の書画発見につき、『岩手日報』さんが報じました。 

川端康成邸から書、書簡 岩手で今夏に初公開へ

【東京支社】ノーベル賞作家の川端康成(1899~1972年)が暮らした神奈川県鎌倉市の邸宅から、第2次世界大戦末期に花巻市に疎開した彫刻家で詩人の高村光太郎や、新感覚派の盟友だった作家横光利一、林芙美子の書など76点が見つかった。同世代の作家や文豪の書などが多数見つかったのは初めてで、文学者同士の交流の様子がうかがえる新資料。7、8月に盛岡市本宮の県立美術館で開催する企画展で、その多くを国内初公開する。イメージ 1
 川端の作品資料や愛蔵品の保存などに取り組む川端康成記念会(川端香男里理事長)が24日、東京都目黒区の日本近代文学館で記者会見して発表した。
 川端邸敷地内の書庫の整理中に見つけ、川端理事長らが12月6~8日に調査し確認した。書が52点で、書簡や絵画もあった。藩制時代の画家池大雅や、明治―大正期に活躍した文豪夏目漱石の書など、古書店などで入手したらしいものも含まれていた。
【写真=智恵子抄の一節を扇に記した高村光太郎の書(川端康成記念会提供)】


光太郎第二の故郷とも言える岩手ですので、光太郎の名を前面に押し出して下さいました。

ところで、筑摩書房『高村光太郎全集』には、川端の名は見えず、光太郎と川端に直接のつながりはなかったようです。川端は明治32年(1899)生まれで、光太郎の16歳下になり、光太郎はその世代の小説家とは、あまり付き合いがありませんでした。詩人であればその世代に知友が多かったし、小説家でも光太郎と同世代だった白樺派の面々とは親しかったのですが。

今回含まれていた光太郎の書は、おそらく、記事の最後にある「古書店などで入手したらしいもの」に含まれるのではないかと思われます。

さて、今夏、岩手県立美術館で、今回見つかったものの中から展示がされるとのこと。やはり光太郎第二の故郷とも言える岩手ですので、光太郎の書は是非とも展示していただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

冬よ 僕に来い、僕に来い 僕は冬の力、冬は僕の餌食だ

詩「冬が来た」より 大正2年(1913) 光太郎31歳

「冬の詩人」の面目躍如、ありあまるエネルギーが炸裂しています(笑)。

以前にも書きましたが、当方はまるで逆、「僕は冬の餌食だ」状態です(笑)。比較的温暖な房総半島に住んでいて、こんなことを言っていると、泉下の光太郎に怒られそうです(笑)。

週刊朝日 2017年2月3日号「平成夫婦善哉 渡辺えり・土屋良太」。

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「平成夫婦善哉」という連載があり、今週号は当会会友(「怪優」ではありません)の渡辺えりさんと土屋良太さんご夫婦がご登場。

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渡辺さんは、お父様の渡辺正治氏が、戦時中から戦後にかけ、光太郎と交流がありました。そのため、あちこちで光太郎とお父様のエピソードをご披露、光太郎プロデュースに一役買って下さっています。


土屋さんは渡辺さん脚本、宮沢賢治を主人公とした舞台「天使猫」で賢治役を演じられました。昨年話題になった映画「シン・ゴジラ」にもご出演されていました。

お二人ともども連翹忌にご参加いただいたり、一昨年には光太郎詩「四人の学生」のモデルになった深沢竜一氏のお宅に同道させていただいたりしました。

今回の記事でも、光太郎の名を出して下さっています。

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ありがたや。

その他、ご夫婦の知られざるエピソードが満載で、面白く読ませていただきました。

ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

作れ、作れ、力を出して作りぬけ 作りながら喜べ、かなしめ 作りながら怒れ、淋しがれ 作る事は歩む事だ 作る事は生きる事だ

詩「粘土」より 大正二年(1913) 光太郎31歳

彫刻制作をモチーフにした詩「粘土」から。造形芸術にしても、文筆にしても、「作る」というクリエイティブな活動は大切なことですね。この世に生を受けた以上、なにがしかをクリエイトしていきたいものです。

日本経済新聞「文学周遊 高村光太郎「典型」 岩手・花巻市 」。

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先週土曜の『日本経済新聞』さんの夕刊。「文学周遊」という連載で、光太郎が扱われました。 

文学周遊 高村光太郎「典型」 岩手・花巻市 小屋にゐるのは一つの典型、一つの愚劣の典型だ。

 東京生まれ東京育ちの高村光太郎が、岩手県花巻の西郊、稗貫(ひえぬき)郡太田村山口(現花巻市太田)の山小屋で、農耕自炊の生活を始めるのは、1945年の晩秋のことだった。
その年の春の空襲で、光太郎は東京の自宅とアトリエを焼かれ、5月、宮沢賢治の弟、宮沢清六の招きで、花巻の宮沢家に疎開していた。亡くなった賢治の顕彰に光太郎が尽くしたことが縁である。
 地元の有志の協力で鉱山の小屋を移築した住居が、今も大切に保存されている。JR花巻駅から西へ車で20分余り、高村山荘は一面の雪原の中にあった。一昨年春、新装オープンした高村光太郎記念館から雪道を歩いて約100メートル、保存のための2重の上屋の中にある小屋は、古びた材木で組まれた粗末な作りで、3畳半ほどの板間と囲炉裏、土間でなる。屋根裏があらわな小屋には、隙間から雪が吹き込んできたという。都会人の光太郎は、なぜ独居自炊の生活を、ここで62歳から7年間も続けたのだろう。
 「光太郎は戦争責任を痛切に感じ、あえて不自由な生活を自らに課しました」と花巻高村光太郎記念会の高橋卓也氏は話す。「戦に徹す」「敵ゆるすべからず」……。戦争遂行を鼓舞する数々の詩を書いた光太郎は戦後、深く悔い、戦争協力と終戦に至った半生を告白的につづる連作「暗愚小伝」をこの小屋で執筆。それを含む詩集「典型」でも、自らの愚かさを厳しく凝視した。引用した詩「典型」の一節は、そんな自罰の意識の表れである。
 同時にこの寒冷な山間の地に深くひかれ、ここで日本の再生に尽くそうという思いも募っていった。近くの太田村立太田小学校山口分教場(後に山口小学校)へたびたび足を運び、子供の成長を見つめた。山口小学校に通った浅沼隆さん(75)は、学芸会でサンタクロースの姿に扮(ふん)した光太郎の姿を今も覚えている。「村落社会に根をおろして/世界と村落とをやがて結びつける気だ。」(「山林」)という夢が、光太郎にはあった。
 山口小学校は、過疎化で近くの太田小学校に統合され、今はない。しかし17年前、跡地に市のスポーツ施設ができたころから、付近はスポーツの拠点となり、記念館の周囲にクロスカントリースキーのコースもできた。亡き妻、智恵子をしのび、光太郎が歩いた雪道に、練習に励む小学生の声が響きわたっている。
(編集委員 宮川匡司)

たかむら・こうたろう(1883~1956) 東京生まれ。詩人・彫刻家。父は木彫家、高村光雲。東京美術学校彫刻科卒。06年渡米。翌年欧州に渡り09年帰国。以後、美術評論、翻訳、短歌、詩を次々と発表。14年、第1詩集「道程」を自費出版、年末、新進の画家、長沼智恵子と結婚。彫刻制作のかたわら、翻訳で生活を支える。38年、精神と肺を病んだ智恵子が病院で死去。41年詩集「智恵子抄」を刊行。45年5月、岩手県の花巻に疎開。52年に帰京。
 50年刊行の詩集「典型」は、戦争協力の詩を書いた過去を厳しく省みる「暗愚小伝」と山村の生活を見つめる詩を収める。
(作品の引用はハルキ文庫「高村光太郎詩集」、写真は花巻高村光太郎記念会提供)

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イメージ 2旧太田村(現・花巻市太田)の、光太郎イメージ 3が戦後の7年間を過ごした山小屋(高村山荘)を「周遊」しつつ、ここで生まれた生前最後(選詩集等を除く)の単行詩集『典型』(昭和25年=1950)を紹介して下さいました。

光太郎の詩集というと、第一詩集『道程』(大正3年=1914)や、ベストセラー『智恵子抄』(昭和16年=1941)に注目が集まりがちですが、「到達した境地」ということを考えると、『典型』こそがその総決算であるといえます。

青年期のような情熱的な詩風は影を潜めて、むしろ「枯淡」の境地に達していますが、それでも内に秘めたエネルギーの発露はそこここに見え、まさに「百尺竿頭に一歩を進む」といった感があります。クリエイティブな人間は、死ぬまでそうなのだと改めて感じ入らせます。

そして、その生涯で多くのつまづきを体験し、そのたびにそこから立ち上がってきた光太郎だからこそ、この境地に到達できたのだと思われます。

この時期の詩作品、もっと見直されてほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

牛はのろのろと歩く 牛は大地をふみしめて歩く

詩「牛」より 大正二年(1913) 光太郎31歳

詩「牛」は115行にもわたる長大な詩です。自らを生み出した「自然」を信じ、のろのろと、不器用に、しかし必然の声に導かれて為すべきことを為しとげる牛に、自らの姿を仮託しています。

右はその全文を昭和14年(1939)に揮毫したもの。詩を作ってから四半世紀以上を経て全文を揮毫したあたり、この詩が光太郎にとって自らの座右の銘的な意味合いを持っていたことが推定されます。

そしておそらく『典型』に到った晩年にも、同じようなことを考えていたのでは、と思われます。ある意味、「三つ子の魂百まで」だったと言えるのではないでしょうか。

光太郎周辺人物関連テレビ放映情報 その1 美の巨人たち ボーグラム『マウント・ラシュモア・ナショナル・メモリアル』。

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光太郎を巡る人々を取り上げるテレビ番組が相次いで放映されます。 

美の巨人たち ボーグラム『マウント・ラシュモア・ナショナル・メモリアル』

テレビ東京  2017年2月4日(土)  22時00分~22時30分
BSジャパン 2017年3月1日(水) 23時00分~23時30分

新大統領の動向に注目が集まるアメリカ。その中西部ラシュモア山に、偉大なる4人の大統領の顔が彫られた巨大彫刻があります。一体どのように彫られたのか?その苦闘の物語。

今回の作品は、アメリカ中西部サウスダコタ州ラシュモア山に彫られた巨大彫刻。4人の大統領の顔が彫られた、壮麗で精密な作品です。そのうちの一人、ワシントンの顔の長さは18m30cm、7階建てのビルとほぼ同じ高さです。作者はアメリカの彫刻家ガッツォン・ボーグラム。53歳の時依頼を受け、驚きの工法で作り上げました。しかしなぜこの4人?なぜこの並び?また、山頂にある謎の小部屋、そこに秘められた思いとは?彫刻家と作業員たちの苦闘の物語、お見逃しなく。

ナレーター 小林薫  蒼井優


毎回一つ(時折複数)の美術作品を取り上げ、その背景や人間ドラマを掘り下げる番組で、平成12年(2000)のスタートですから、もう長寿番組の範囲に入ったといっていいでしょう。

今回取り上げられるのは、アメリカの彫刻家・ボーグラム。たしか、この番組では初めて取り上げられるはずです。番組説明では、「ガッツォン・ボーグラム」となっていますが、フリー百科事典ウィキペディアでは「ガットスン・ボーグラム」で登録されています。また「ガットソン・ボーグラム」と表記する場合もあります。

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ファーストネームのカタカナ表記が定まっていないほど、日本ではなじみの薄い人物ですが、この作品は「ああ、これか」という方が多いのではないでしょうか。

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明治39年(1906)、3年半にわたる欧米留学に出た光太郎、まずはニューヨークに落ち着きます。まずアメリカで経済的にめどを付けるのが、当時の私費留学生の多くが辿った道で、碌山荻原守衛などもそうでした。

光太郎は東京美術学校教授・岩村透が書いてくれた紹介状を手に、彫刻家のヘルモン・アトキンス・マクニールやダニエル・チェスター・フレンチを訪ねますが、皆歓待はしてくれるものの、雇うとは言ってくれません。そこで、メトロポリタン美術館でその作品を見て感心したボーグラムに体当たり的に求職。すると、日給1ドルで助手として採用してくれました。ボーグラムは光太郎以前にも、光太郎の先輩に当たる本保義太郎という彫刻家を雇っていた時期があり、日本人には慣れていたようですし、困っている者を抛っておけない義侠心の持ち主だったようです。

ここで光太郎は実践的な彫刻制作を学びます。木彫は幼少時から父・光雲に叩き込まれてきた光太郎ですが、粘土による塑像制作は、東京美術学校で経験があるものの、教える方のレベルも低く、まだまだ不十分でした。それが、ボーグラムの仕事を目の当たりにし、非常に役に立ったといいます。

しかし、光太郎はボーグラムの彫刻を、それほど高く評価しませんでした。スケジュール通りにこなすビジネスライクな仕事ぶりには失望したと回想していますし、のちに取り組む岩壁の巨大彫刻もキワモノと見ていたようです。

ボーグラムは「美の巨人たち」で今回取り上げられるマウント・ラシュモアの大統領群像(1927~1941)以前にも、ジョージア州ストーンマウンテンの岩壁に南北戦争の英雄、リー将軍やジャクソン将軍などの巨大レリーフを手がけています。この制作の際には、光太郎やロダンにも声をかけたとのこと。

僕が日本に帰つてから、先生から手紙で、南部のストーン マウンテーンの絶壁の、一マイルも離れた場所から見える一枚岩の平らなところに、南軍のリー将軍だのジヤクソン将軍だのの像を彫るから、手伝いに来いと言つて来た。クレーンのようなものを山の上からつつて、彫る人はそのクレーンから鎖でぶら下る。電気仕掛けののみで、どこを何フイート彫れと下から電話があれば、そこをダダダダダダダとやつて、後それをこなしてゆけば彫れるという仕組である。フランスのロダンにも加勢してくれと頼んだからと、手紙には書いてあつたが、もちろんロダンは直ぐ断つたらしい。僕には、そんなことを考えるアメリカ人というものは不思議な気がした。(「青春の日」 昭和26年=1952)

ところが光太郎、人間的にはボーグラムを敬愛し続けていたようで、大正6年(1917)、ニューヨークでの個展を企画し、そのための資金集めに彫刻頒布の会を立ち上げます。入会者を募り、当時の金額で300円から5,500円の範囲で彫刻の注文を受けるというものです。その趣意書にはボーグラムの名も。

わたくしは彫刻家であります。親ゆづりの彫刻家であります。幼少の比から彫刻の中で育ち、やがて東京美術学校彫刻科卒業後、アメリカに往つて紐育の彫刻家ボーグラム先生の内弟子兼助手となつて働らき、技倆に就てもかなりの信用を得ました。(略)今度の戦争終結後、適当の時に、紐育市で個人展覧会を開かうと言ふ気になりました。ボーグラム先生も喜んでゐてくれます。

「幼少の比」は「幼少の頃」或いは「幼少の日」の誤植ではないかと思われます。「今度の戦争」は第一次世界大戦です。

そして最後に22名の賛同者の名が挙げられていますが、ボーグラムの名も入っています。

ちなみにこの彫刻頒布会は、結局入会者が少なくものにならず、ニューヨークでの個展も幻と終わりました。しかし、これを機に、代表作の「手」、「裸婦坐像」などの秀作が生まれました。

しかし、恩人とはいえ、やはり彫刻家としての評価はあまり高くなかったというのが正直なところのようです。昭和8年(1933)に岩波書店から光太郎の書き下ろしで刊行された、世界の彫刻事情を紹介する『現代の彫刻』には、

アメリカからはまだ然るべき人が出ない。もつと地面から生れた彫刻が欲しい。

という一節があります。


実を言うと当方、ほとんど光太郎の書いたものを通してしかボーグラムという彫刻家を存じません。「美の巨人たち」で勉強しようと思います。

皆様もぜひご覧下さい。


もう1件、光太郎にも触れる宮沢賢治についてのテレビ番組放映もありますが、長くなりましたので明日に廻します。


【折々のことば・光太郎】

僕等はいのちを惜しむ 僕等は休む事をしない 僕等は高く どこまでも高く僕等を押し上げてゆかないではゐられない

詩「僕等」より 大正二年(1913) 光太郎31歳

「僕等」はむろん、光太郎と智恵子です。恋愛が成就し、共に手を携えて芸術の道に精進していこうという高揚感に溢れています。画家として歩み始めていた智恵子も当初はそのように考えていたのでしょうが、しかし、途中で脱落。デッサンやデザインには特異な才能を持っていた智恵子でしたが、油絵の具で彩色する段になると、どうしても自分で納得の行くものが出来ませんでした。それが後の大いなる悲劇の最も大きな要因だったように思われます。

光太郎周辺人物関連テレビ放映情報 その2 「プレミアムカフェ選 宮沢賢治への旅 第1部・第2部」。

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昨日に引き続き、光太郎周辺人物に関するテレビ番組放映の情報です。 

プレミアムカフェ選 宮沢賢治への旅 第1部・第2部

NHKBSプレミアム 2017年2月3日(金)  9時00分~10時34分 
再放送 26時25分~28時00分(4日(土) 午前2時25分~4時)

宮沢賢治への旅 第1部 イーハトーブの光と風&第2部 ほんとうの幸せを求めて(初回放送:1996年)賢治生誕120年の節目に、賢治の世界観がどのように形成されたのかを探る文学紀行(前後編)を紹介

出演者 スタジオキャスター石井かおる


初回放送が賢治生誕100年の平成8年(1996)で、これまでもたびたび再放送されています。昨年10月にも放映がありました。

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前後編併せて1時間30分ほど。尺が長いので、賢治の生涯をほぼ余すところなく紹介しています(ただ、コテコテの賢治ファンにはまだ不十分なのでしょうが)。

後編(第二部)「ほんとうの幸せを求めて」では、光太郎が碑文の文字を揮毫した、花巻に建つ「雨ニモマケズ」碑が紹介され、光太郎の名も出ます。

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光太郎が揮毫したことにも触れて下さっています。

また、賢治の教え子ということで、宮沢賢治記念館の初代館長も務められた故・照井謹二郎氏がご出演。

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氏は永らく幼児教育に取り組まれ、その中で、「花巻賢治子供の会」を立ち上げ、賢治作品を児童劇にして公演されていました。

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その第一回公演は昭和22年(1947)。花巻郊外太田村の、光太郎が暮らす山小屋の前でした。もともとは僻地生活を送る光太郎の無聊を慰問する目的もありました。その後、光太郎のアドバイスで本格的に公演をするようになりましたが、年に一度は山小屋近くの山口分教場(のち小学校に昇格)でも公演を行い、光太郎に見てもらっていました。

その辺りのエピソードは番組では紹介されませんでしたが、光太郎と親しかった人物の映像ということで、貴重な記録です。

ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

あたり前の事でも僕は言ふ あたり前の事でも僕はする あたり前でない事でも僕は言ふ あたり前でない事でも僕はする

詩「あたり前」 大正二年(1913) 光太郎31歳

これで全文、たった四行の短い詩です。あたり前のことはあたり前にこなし、それプラス、いい意味であたり前でないことまで手を広げ、自らを高めようというところでしょうか。或いは良くない意味であたり前でないことをやってしまうこともあるだろうけれど、そこはいい意味でのあたり前でないことと相殺、ということでしょうか。

あたり前のことをあたり前に、というのもなかなかどうして難しいものです。

しんぶん赤旗「この人に聞きたい 生き残った人たちの負い目 父の思い抱き戦争を描く 劇作家・演出家・俳優 渡辺えりさん」。

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1/29(日)の、『しんぶん赤旗』さん日曜版に、以下の記事が出ました。

つい先日も『週刊朝日』さんのインタビューをご紹介した、当会会友渡辺えりさんがらみです。 

この人に聞きたい 生き残った人たちの負い目 父の思い抱き戦争を描く 劇作家・演出家・俳優 渡辺えりさん

 〈父・正治さんの戦争体験を基に書いたのが、「光る時間(とき)」(1997年)です〉
 私が30歳くらいの時、実家で酔った父が、自分の戦争体験を語り始めました。自分は14歳から4年半、東京の中島飛行機武蔵野製作所で、旋盤工としてゼロ戦の部品を作っていたと。驚きました。
 5万人が働いていたという広大な工場は、44年冬から終戦までに空襲を9回受け、200人以上が亡くなったそうです。
 ある日、大空襲があるという情報がもたらされ、全員に避難命令が出ました。でも番をする者が何人か要る。「10人兄弟の末っ子が残るべきだ」「成績の悪い人間を残せ」。醜い争いに耐えかねて、18歳の父は「自分が残ります」と申し出ました。仲間2人が続きました。
 少年3人で空襲を待つ夜は、内蔵が口から飛び出そうなほど怖かったそうです。父は、特攻隊員が胸に縫い付けて飛んだという高村光太郎の「必死の時」を唱えて耐えました。空襲がそれて、父は助かりました。
 話を聞き、私が生まれたのは奇跡だったんだと考えました。そして、私の代わりに死んだ人のためにも、戦争を書く責任があると思いました。

(略)

 父は戦後、山形へ帰り、苦学して小学校の教師になりました。父はよくいっていました。「あの時、人を狂わせ、僕を軍国少年にした教育とは何か。その謎を解きたいんだ」と。
 父が心酔した高村光太郎も戦争が終わってから7年間、岩手の山にこもり、自分の戦争責任を問いました。そんな高村をモデルに「月にぬれた手」(11年)を書きました。
 私は「二度と戦争をしない」と宣言した憲法は、人びとが痛苦の歴史の上に勝ち取ったものだと思います。この憲法を守り、生かすのは私たちの務めです。戦争放棄はいいことだと、いつか世界が見習う日が来ると信じています。

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いろいろな場面で語られている、お父様と光太郎のエピソードの一部が紹介されています。

このあと命を拾ったお父様は、駒込林町の光太郎アトリエを訪れ、光太郎に会われています。やはり空襲で、アトリエが焼け落ちる直前でした。また、戦後、光太郎が山形に講演に行った際(昭和25年=1950)に再会されたそうです。

直接戦争を体験された世代の高齢化がどんどん進む中、第2世代の人々が、それを伝え聞き、次世代へと伝えていくことは大切なことです。二度と同じ過ちを繰り返さないためにも。

渡辺さんには、今後も語り部としてご活躍されることを祈念いたします。


【折々のことば・光太郎】

感激の枝葉を刈れ 感動の根をおさへろ
詩「現実」 大正2年(1913) 光太郎31歳

たった2行の短い詩です。おそらく智恵子との恋愛による高揚感の中、自制を働かせようとする意図を謳っているのでは、と思われます。

戦争も同じですね。集団的な狂躁に巻き込まれ、一人一人が自制心を失い、旗を振る悪辣な者の大言壮語や甘言に乗せられて、気がつけば後戻りできない地点……今の日本がそうなりつつある気がします。

『広報とわだ』2月号。

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光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が建つ青森県十和田市の広報紙『広報とわだ』の今月号。「乙女の像」がらみで2件の記事が載りました。 

1/5 ふるさとを育む教材・観光PRに有効活用 乙女の像ものがたりDVD完成

劇団エムズパーティーの仲島みちる代表らが、小山田市長に「乙女の像ものがたりDVD」の完成を報告しました。これは、十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会(小笠原哲男会長)が発行した「十和田湖乙女の像のものがたり」に掲載されている小山弘明さん原作の「乙女の像のものがたり」を脚本化し、劇団をはじめ企画に賛同する市民23 人が集まって収録したものです。このDVDは、学校や観光バス会社、施設などへ無償配布されます。

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先月初めに地元紙『東奥日報』さんで報じて下さった件です。DVD、こちらにはまだ届きませんが、そのうち送られてくると思いますので、その際にはまたご紹介いたします。

試写会が先月末に行われたということで、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さんのサイトで紹介されています。


続いて、裏表紙に今日開幕する「十和田湖冬物語」。こちらは記事というより広告という感じですが。

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「乙女の像」のライトアップを大きなスペースにして下さっています。昨年の写真でしょう。

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手前は固めた雪で作った灯籠。幻想的ですね。

盛況となることを祈念いたします。


【折々のことば・光太郎】

われらは雪にあたたかく埋もれ 天然の素中にとろけて 果てしのない地上の愛をむさぼり はるかにわれらの生(いのち)を讃めたたへる
 
詩「愛の嘆美」より 大正3年(1914) 光太郎32歳

詩「愛の嘆美」は、ほぼ全体が性愛を謳った詩です。この詩が収められた昭和16年(1941)刊行の詩集『智恵子抄』は、終戦までに13刷も版を重ねました。あの時代によくぞ厳しい検閲をかいくぐったものだと思います。

ただ、かなり際どい表現も含まれますが、不思議と淫らな感じはなく、健康的です。そのあたりが発禁を免れた理由だとは思いますが。

ATV青森テレビ「「乙女の像」への追憶~十和田国立公園指定八十周年記念~」。

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昨年暮れにATV青森テレビさんで製作された特別番組「「乙女の像」への追憶~十和田国立公園指定八十周年記念~」を録画したDVDが、同局から送られてきまして、早速拝見しました。

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実質25分の番組で、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」建立の背景を紹介するもの。当方も製作に協力させていただきました。

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進行役は同局アナウンサーだった川口浩一氏。この番組を最後に退社されたそうです。十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さんが、一昨年刊行された書籍『十和田湖 乙女の像のものがたり』にもご執筆なさっています。

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ナレーションは佐藤香アナウンサー。

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ブログにこの番組についての御記述もなさっています。

「乙女の像」は、元々、十和田湖周辺の国立公園指定15周年記念として、彼の地を広く紹介した明治の文豪で、光太郎とも面識のあった大町桂月、インフラ整備に功績のあった明治末から大正初めの青森県知事・武田千代三郎、当時の法奥沢村長・小笠原耕一の三氏を顕彰するモニュメントとして計画されました。

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計画時の知事は、太宰治の実兄・津島文治。

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太宰つながりで佐藤春夫が光太郎との仲介にあたりました。

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こうした経緯がわかりやすく説明されていました。

そして、光太郎。花巻や東京ロケの映像、古写真、ブリヂストン美術館制作の美術映画「高村光太郎」からの動画、乙女の像除幕式の16㍉フィルムなどをふんだんに使い、光太郎の姿が浮き彫りにされていきました。

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智恵子にも触れて下さいました。

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関係者の証言も豊富。大町桂月の令孫・芳章氏、当会顧問の北川太一先生、花巻時代の光太郎を知る高橋愛子さん、像の制作場所だった中野のアトリエの現所有者・中西利一郎氏など。

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当方も15秒ほど出演、締めのコメント。

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乙女の像は、光太郎が生涯を掛けて追い求めた美とか愛とかの象徴、そうすると、智恵子の顔を持たざるを得ない、的な。おいしいところを担当させていただきました(笑)。

番組自体の締めは、光太郎詩「十和田湖畔の裸像に与ふ」(昭和29年=1954)。

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青森だけでの放映では残念でしたが、4月4日(火)の午後11時から、系列のCS放送・TBSニュースバードさんでオンエアされるそうです。また近くなりましたらご紹介します。

十和田湖では昨日から「十和田湖冬物語」が始まり、乙女の像のライトアップが為されています。足をお運びの上、像に込められたさまざまな人々の思いを偲んでいただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

一人にめざめよ 一人の力を尊び 一人の意味をしのべ

詩「群衆に」より 大正3年(1914) 光太郎32歳

社会に対し、孤高の姿勢を貫こうとしていた若き日の光太郎の気概が見て取れます。「孤高」が「孤立」になっては困りますが……。

十和田湖冬物語開幕。

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光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の建つ青森県十和田湖の冬を彩る「十和田湖冬物語2017」が開幕しました。

地方紙『デーリー東北』さんの記事。  

十和田湖冬物語が開幕イメージ 1

 雪と光が幻想的な世界を演出する「十和田湖冬物語2017」が3日、十和田市の湖畔休屋特設会場で開幕した。イルミネーションに彩られた銀世界で、大輪の花火が夜空を染め上げ、来場者は寒さを忘れ見入っていた。26日まで。
 会場では、陸上自衛隊八戸駐屯地が制作した高さ8メートル、幅23・4メートルの巨大雪像「十和田湖伝説」が来場者をお出迎え。オープニングセレモニーでは、関係者が雪像に点灯して開幕を祝福した。
 来場者は「ゆきあかり横丁」で青森、秋田両県の郷土料理を味わったり、かまくらバーで地酒やカクテルを楽しんだりと、思い思いに祭り気分に浸っていた。
 期間中は毎日午後8時から花火が打ち上げられる。湖畔を象徴する乙女の像もライトアップされる。


ざっと検索した範囲では、乙女の像について触れて下さっていたのはこれだけでしたが、とりあえず他の報道もご紹介しておきます。

『東奥日報』さん。  

「十和田湖冬物語」が開幕

 真冬の十和田湖を幻想的な光で包む「十和田湖冬物語」が3日、十和イメージ 2田湖畔休屋地区の特設会場で開幕した。雪と光で彩られた会場を冬花火220発が鮮やかに染めた。
 イベントステージの背景となる大型雪像の今年のテーマは「十和田湖伝説」。南祖坊と竜の八之太郎が向かい合う構図となっている。約16万個の発光ダイオード(LED)電球を使ったイルミネーションが会場を彩る。
 オープニングセレモニーでは、実行委員会の中村秀行委員長が「喜びや楽しみを提供するので、喜んで帰ってもらいたい」とあいさつ。小山田久市長らと雪像に点灯した。午後8時、色とりどりの花火が次々に打ち上げられると、冷えた冬の夜空に光の輪が次々と現れ、会場を照らした。
 冬物語は26日まで。期間中は、毎日午後8時から花火を打ち上げる。
 青森県と秋田県の郷土料理を味わえるゆきあかり横丁や、かまくらBarなども設置されている。


『読売新聞』さん青森版。  

雪と光の十和田湖 冬物語始まる

 雪に包まれた十和田湖を光で彩る「十和田湖冬物語」がイメージ 33日夜、湖畔の十和田市休屋地区で始まった。青やピンクなど約16万個のLED(発光ダイオード)電球の光が幻想的な雰囲気を醸し出している。
 メイン雪像(高さ8メートル、幅18メートル、奥行き7メートル)は、八郎太郎と南祖坊の戦いを描いた「十和田湖伝説」がテーマで、陸上自衛隊八戸駐屯地の隊員らが制作した。
 期間中は毎日、津軽三味線のライブや花火約200発の打ち上げが行われる。雪の滑り台や、十和田バラ焼きなどの料理が味わえる露店街「ゆきあかり横丁」もある。会場周辺に宿泊する客向けに東北新幹線の七戸十和田駅と結ぶシャトルバス(有料)も運行される。
 26日までで、問い合わせは十和田湖国立公園協会(0176・75・2425)へ。


NHK青森放送局さん。  

「十和田湖冬物語」開幕

十和田湖の冬の催し「十和田湖冬物語」が3日夜、開幕し、多くの観光客が打ち上げ花火やイルミネーションで彩られた幻想的な雪景色を楽しみました。
この催しは、観光客が少なくなる冬のシーズンに十和田湖を訪れてもらおうと、十和田湖畔の休屋地区で毎年、開かれています。
3日夜は開会式が開かれ、自衛隊が製作した十和田湖周辺に伝わる竜と僧侶が戦った伝説がモチーフの、高さおよそ8メートル、幅23メートルほどの巨大な雪像をライトアップして開幕を祝いました。
会場には、巨大なかまくらの中でお酒を楽しむバーもあり、寒さを我慢しながら氷で作ったグラスでカクテルを楽しむ人の姿が見られました。
催しの期間は花火が打ち上げられ、観光客たちは打ち上げ花火とイルミネーションで彩られた幻想的な雪景色を楽しんでいました。
八戸市から来たという30代の女性は「花火は夏とちがった感じでとてもきれいでした。また来たいです」と話していました。
十和田湖の冬の催し「十和田湖冬物語」は2月26日まで開かれています。

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ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

汝等は愛に燃え、情慾に燃え 絶大の自然と共に猛進せよ 滅却は罪悪なり、恥辱なり ただ増大せよ、真に瞬刻のいのちを惜しめよ

詩「婚姻の栄誦」より 大正3年(1914) 光太郎32歳

上記の十和田湖冬物語開幕を報じるNHKさんのニュース動画、カップルの姿が目立ちました。

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光太郎のこの言葉を贈りたいと思います。

十和田湖ひめます認証店ロゴ。

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十和田湖ネタが続いていますので、もう1件。特産のヒメマス関連で、先週土曜、地元紙『東奥日報』さんに載った記事です。  

「十和田湖ひめます」認証店ロゴ決まる

 十和田湖国立公園協会(中村秀行理事長)は3日、「十和田湖ひめます」のロゴマークを発表した。十和田湖ひめますブランド推進協議会が昨年10月に認定した、良質なヒメマス料理を提供する青森県十和田市と秋田県小坂町の「十和田湖ひめます認証店」41店舗に、ステッカーやのぼりとして掲示される。
 ロゴマーク制作は、同協会が同協議会から委託を受けて実施。認証店の投票により決定した。ロゴは、十和田湖を表現した円の中に2匹のヒメマスが元気に跳びはねる様子を表現。それぞれ十和田湖に接する十和田市と小坂町を意味し、乙女の像をも表している。水の波紋は遊覧船をイメージした。十和田市出身の高橋一典さんがデザインした。
 同日、十和田湖畔休屋の十和田湖冬物語の会場で、中村理事長が認証店を代表して木村満さんにステッカーとのぼりを贈呈した。
 「十和田湖ひめます」は2015年1月に地域団体商標に登録され、同協議会などがブランド確立への取り組みを進めている。


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なるほど、向かい合って三角形を構成するフォルムが光太郎最後の大作・乙女の像からのインスパイアというわけですね。

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ヒメマスは、当方が十和田での定宿としている十和田湖山荘さんで食膳に出して下さいます。クセのないさっぱりした味わいです。

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乙女の像の歴史についての展示がある、湖畔の観光交流センター「ぷらっと」では、水槽で展示。

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乙女の像ともども、愛され続けてほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

彼は万物と共に踊り 彼は万物を見 また万物を所有する 彼は絶えず悩み、絶えずのり越す ――偉大の生れる時だ

詩「万物と共に踊る」より 大正3年(1914) 光太郎32歳

「万物」の中には、最愛の智恵子も含まれるのでしょう。

『東京人』2017年3月号「女性解放に奔走した女たち 雑誌「青鞜」と平塚らいてう。」。

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現在発売中の雑誌『東京人』(都市出版)で、智恵子がその表紙絵を描いた雑誌『青鞜』および主幹の平塚らいてうが取り上げられています。

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昨年、日比谷の国立公文書館さんで開催された展覧会「平成28年秋の特別展 時代を超えて輝く女性たち」の関連行事として行われた、元タウン誌『谷中根津千駄木』編集長で作家の森まゆみさんの講演「女性解放のあけぼの―「青鞜」と平塚らいてう―」をまとめたものです。

全7ページ。本文に智恵子は出て来ませんでしたが、『青鞜』創刊号の表紙画像に添えられたキャプションでは触れて下さっています。

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さらに明治45年(1912)、大森で開かれた青鞜社の新年会の写真。智恵子が中央で写っています。右から二人目がらいてうです。

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締めの部分が以下の通り。

 明治、大正、昭和という激動の時代を、「青鞜」を囲むようにして生きた女性たちは、自らを偽ることなく、個としての確立をめざした。たくさんの女性たちの苦闘によって、今の私たちの権利、女性の自由があるのだということをきちんと心に刻みたい。

その通りですね。

また、こんな一節も。

 八十代まで長生きしたらいてうの陰に、たくさんの病気や生活苦で亡くなった関係者、自殺をした人もいたことを忘れたくない。

その中の一人が、智恵子だったというわけですね。


大きな書店さんなら店頭に並んでいます。ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

死に背け 死の面上に拳(こぶし)を与へよ 死に降服する事なく ひたすらに生きよ 死はただ空洞(うつろ)である 死はただ敗残である

詩「瀕死の人に与ふ」より 大正3年(1914) 光太郎32歳

謳われているのは、光太郎と共に『明星』に依った歌人・平出修。弁護士でもあり、大逆事件の際には幸徳秋水らの弁護に立ちました。

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前列左から二人目が平出、後列左から二人目が光太郎、前列右端が与謝野鉄幹。明治37年(1904)の撮影です。

この10年後、平出は数え37歳の若さで病没。そのいまわの際に光太郎が詩「瀕死の人に与ふ」を作りました。しかし、その願いも虚しく、この詩が書かれた3日後に平出は帰らぬ人となりました。

新聞各紙から。

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昨日、平塚らいてう及び『青鞜』について書きましたが、沖縄の地方紙『宮古毎日新聞』さんの一面コラムが、やはりらいてうに触れていました。 

【行雲流水】(世界平和アピール)

 雑誌『青鞜』を創刊、「元始女性は太陽であった」と論説を載せ、女性の解放を主張した平塚らいてう、核兵器の廃絶を訴えた「ラッセル・アインシュタイン宣言」に署名して平和運動に尽力した湯川秀樹、それに平凡社の創業者の下中弥三郎らは1955年「世界平和アピール7人委員会」を結成した

▼結成当時は冷戦時代であったが、現在もなお、軍拡競争が行われ、世界は混沌として、混迷を続けている。委員は変わっても会は、平和と人権、民主主義と、日本国憲法擁護、核兵器廃絶などについて、おりに触れてアピールを発表、その数は2016年までに120本を超えた

▼当然のことながら「沖縄」も取り上げられている。2015年には「辺野古問題を直視し、沖縄の人たちと連帯を強めよう」というアピールがなされている。昨年の11月には、講演会「沖縄は日本なのか-(平和)を軸として考える-」が開催された

▼講演の中で大石芳野委員は、東村高江地区のヘリパッド建設に触れ、「沖縄戦の傷は今も残っている。戦争はまだ終わっていない」と訴えた

▼「異化する沖縄」と題して述べた高村薫委員は、国に対する負の住民感情を述べ、名実ともに、沖縄は日本だと言えるようにすべきだと語った。杉田敦教授は、沖縄の戦後史に触れたあと、「沖縄のことは関係ないと思うことが一番問題であり、本土のメディアの関心も薄いと指摘した

▼正常な沖縄を要求する県民の声は、世に正義がある限り、決して孤独ではない。


昨年暮れには『徳島新聞』さんが、光太郎詩「あどけない話」中の「ほんとの空」の語を引いて、やはり沖縄の現状に関する警句を一面コラムに書かれていました。

戦後、日本の平和と民主主義のために戦い続け、日本婦人団体連合会長として、国際婦人運動や国内の母親の援助などにとりくんだらいてうの精神を糧に、さらに頑張ってほしいものです。


続いて先週金曜日、『朝日新聞』さんの山梨版。俳優・柳生博さんの子息で、八ケ岳南麓にてレストラン&ギャラリー「八ケ岳倶楽部」を営まれている柳生宗助さんの連載コラムです。 

柳生さんちの八ケ岳日記 野鳥観察も寒いほどお得に

 八ケ岳近辺では87店舗が参加する「寒いほどお得フェア」が28日まで実施中です。その日の気温が寒いほど対象商品の割引率が高くなるイベントで、午前10時の清里駅前の気温がマイナス5度以下だと50%引きにもなります。知恵を絞って、八ケ岳にとって閑散期となる冬をみんなで乗り切ろうという気概がそこにあるように思います。八ケ岳倶楽部では名物のフルーツティーを対象に、お客様に喜んでいただいています。


 ただ、八ケ岳倶楽部で寒いほどお得になるのはメニューだけではありません。寒いほど、訪れる野鳥の数も増えてくるのです。テラスや軒下などにひまわりの種を置くと、寒ければ寒いほど野鳥はやってきます。そんな野鳥を見ながらお茶を飲む時間を「バードウォッチングカフェ」と称しています。繁忙期にはない、ゆったりとした時間を味わえます。たくさんの種類が混然となってエサをつつきに来るので、その名前や特徴を覚えるだけでも飽きません。


 胴の部分がタテに黒く、まるでネクタイをしているように見えるのがシジュウカラです。似ているのですが「ネクタイ」をしていないのがコガラ。木の上から下へ歩行することができるほかに、まるで「トップガン」のように上から下へ一直線に飛ぶことができるゴジュウカラ。地面にはいつくばって、エサの台からこぼれたエサをついばむカワラヒワ。いかつくて、ちょっと人相が悪そうなシメ。力強い黄色いくちばしが特徴的なイカル……。


 こうやって覚えていくと、自然と愛着も湧いてきます。八ケ岳倶楽部にはスタッフが手作りで野鳥の「似顔絵」を描いたスケッチブックも置いてあります。これがまたスタッフそれぞれの個性が出ていて、実際の野鳥と見比べて楽しんでいます。


 見ていると、野鳥には愛嬌(あいきょう)があるものと、品があるものの2種類があるように思います。愛嬌がある代表格がヤマガラです。ちょんと首をかしげてこちらを見ているしぐさは、まるで小さい子供が新しいおもちゃを見ている時のような、純真無垢(むく)な可愛さがあります。一年中同じ場所に留まるからなのか、ひまわりの種を食べ過ぎて、ずんぐりむっくりして体が重そうなのも、ご愛嬌です。


 気品がある野鳥といえばウソです。数羽でそっとエイメージ 1サ場に訪れて、静かに種をつついています。品のある人が現れると、そこだけが空気が変わるように、ウソが来ると辺りはとても上品になります。詩人の高村光太郎は、ウソのことを「いかにも山の小鳥らしい、黒じみない、おっとりとしていて、中々精悍(せいかん)な、また紅梅の花にも負けない美麗さと風格とのある鳥」と描写しています。


 冬に野鳥は様々の種類が混ざり合って訪れます。混群と呼ばれます。冬はエサが少なく協力し合うためとか、外敵から守りあうためとか、単純に寂しいためとか理由については色々と説があるようです。


 僕は、雑木林と同じように種類が多種多様な方が、生態系にとっても良いからなのではないかと思います。松林や杉林よりも雑木林のほうが幹も太くなり、下に野草が生えるように、混群の方がそれぞれの種の継続にとって都合が良い理由が何かあるのではないでしょうか。八ケ岳倶楽部で窓の外を眺めていると、野鳥たちや雑木林が多様性の大切さを教えてくれているように感じます。

引用されている光太郎の言葉は、昭和11年(1936)の雑誌『野鳥』に載ったエッセイ「木彫ウソを作つた時」から。木彫の「うそ鳥」は右の画像。大正14年(1925)の作です。

ウソはスズメより少し大きく、全国に広く分布している鳥だそうですが、当方、野鳥には詳しくなく、しっかりウソを見た、といえる経験がありません。少し注意して探してみます。


最後に『東京新聞』さん。こちらも昨日の紙面から。 

「多摩・武蔵野検定」 立川市教委、小5ふるさと学習に活用

 タマケンこと「多摩・武蔵野検定」をふるさとの学習に生かそうと、立川市教育委員会は新年度から毎年、すべての小学5年生に受検させる。2019年度以降は中学1年時にもう一度挑戦する態勢をつくり、知識の定着を図る。 (加藤健太)
 タマケンは〇八年にスタートしたご当地検定で、多摩地域の大学や自治体、企業などでつくる「学術・文化・産業ネットワーク多摩」(日野市)が主催。年に一度試験があり、延べ約五千五百人が受検している。
 立川市では、ふるさとを学ぶ授業で、ウド農家や屋外アート群「ファーレ立川」などを見学してきた。児童が楽しみながら学べる内容を考えていたところ、タマケンを知り、協力を打診。同ネットワークも「地元に貢献したいと思える子が育ってほしい」と快諾し、児童一人当たり千八十円の検定料を無料にすることにした。
 市教委によると、約千四百人の新五年生が受検するジュニア級は、社会科の副読本が出題範囲になっており、ふるさと学習の時間に勉強して試験に備える。児童には市独自の「検定証」を贈る計画をしている。
 ジュニア級には多摩地域三十市町村ごとの検定が用意されていて、「自然・地理」「歴史」「産業・文化」の分野から出題される二十五問を、二〜三者択一で答える。
 市教委指導課の小瀬和彦課長は「住んでいる町を子どもたちが好きになり、堂々と魅力を発信できるようになれば」と話した。
       ◇
 2016年度の多摩・武蔵野検定は3月11日、日野市の明星大学である。今月8日まで受検者を募集している。難易度別にマスター4〜1級とジュニア級がある。検定料は級ごとに異なり、1080〜5400円。問い合わせは学術・文化・産業ネットワーク多摩=電042(591)8540=へ。
◆ジュニア級立川市検定の例題 
【問】立川市の花と木は何でしょう。
  (1)ウメ・イチョウ (2)サツキ・ケヤキ (3)コブシ・ケヤキ
【問】立川市にただ一つある国宝はどれでしょう。
  (1)立日橋 (2)川越緑地古民家 (3)六面石幢(せきとう)
【問】明治時代に立川駅北口で子どもを見送る様子を歌った歌碑は誰の作品でしょう。
  (1)若山牧水 (2)高村光太郎 (3)中村草田男
 ※答えは(3)、(3)、(1)

光太郎の名はブラフで使われているだけです(笑)。

しかし、なぜあえて光太郎を選択肢に入れているのか、というと、おそらく、やはり立川市内に光太郎詩碑が建っているからでしょう。

以前もご紹介しましたが、刻まれている詩は「葱」(大正14年=1925)。碑が建っているのは現在も続く東京都農事試験場の一角で、日本女子大学校時代からの智恵子の友人だった新潟出身の佐藤スミ(旧姓・旗野)がここの場長夫人でした。スミの名は「智恵子抄」に収められた散文「智恵子の半生」にも現れます。

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  葱
立川の友達から届いた葱は、
長さ二尺の白根を横(よこた)へて
ぐっすりアトリエに寝こんでゐる。
三多摩平野をかけめぐる
風の申し子、冬の精鋭。
俵を敷いた大胆不敵な葱を見ると、
ちきしやう、
造形なんて影がうすいぞ、
友がくれた一束の葱に
俺が感謝するのはその抽象無視だ。

こういった件も、地元で語り継がれて欲しいものです。


【折々のことば・光太郎】

日常の瑣事にいのちあれ 生活のくまぐまに緻密なる光彩あれ われらのすべてに溢れこぼるるものあれ  われらつねにみちよ

詩「晩餐」より 大正3年(1914) 光太郎32歳

『智恵子抄』にも収められている、比較的有名な詩です。前半に、智恵子との「晩餐」のメニュー(というか食材)が列記されています。

暴風(しけ)をくらつた土砂ぶりの中を ぬれ鼠になつて 買つた米が一升 二十四銭五厘だ くさやの干(ひ)ものを五枚 沢庵を一本 生姜の赤漬 玉子は鳥屋(とや)から 海苔は鋼鉄をうちのべたやうな奴 薩摩あげ かつをの塩辛

後半は夜の営みに関する内容。4月の作で、結婚披露は12月、すでに同棲、事実婚の状態にあったことが隠されていません。智恵子との日常、それこそが何物にも代え難いものであったと宣言されています。「くさやの干物」やらを詩的情調の中で昇華せしめた例は、おそらくこの時代に(または現在に至るまで)他にはなかったのではないでしょうか。

引用部分の後半、「われらのすべてに溢れこぼるるものあれ  われらつねにみちよ」は、草野心平の揮毫により、神戸市の神戸文化ホール前に詩碑として遺されています。また、ホールの外壁には、智恵子の紙絵「あじさい」によるタイル貼りのアートも。

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