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2017年、あけましておめでとうございます。

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というわけで、新しい年がやって参りました。

本年もよろしくお願いいたしします。

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【折々のことば・光太郎】

僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る
大正3年(1914) 光太郎

昨年は、【折々の歌と句・光太郎】ということで、366日間(閏年でしたので)、一日一首、または一句、光太郎作の短歌、俳句などをご紹介して参りました。有り体にいえば、かつて大岡信氏が『朝日新聞』さんに連載なさっていた「折々のうた」のパクリでした(笑)。

数的には、もう一年間続けられるだけの、まだご紹介していない光太郎短歌や俳句が存在しますが、残念ながら取り立てて紹介すべき秀作ばかりではありません。光太郎といえど、駄作や意味不明の作もあります(笑)。

そこで、今年は趣向を変えまして、【折々のことば・光太郎】。これも現在『朝日新聞』さんに連載されている鷲田清一氏の「折々のことば」のパクリですが(笑)、『高村光太郎全集』を第1巻からひもとき、独断と偏見で、これはと思う光太郎の言葉をご紹介して参ります。おおむね『高村光太郎全集』の掲載順に、一つの作品から一つずつ言葉を拾おうと思っております。そこで、「折々」と言いつつ、あまり時節に関係なくなるでしょう。

昨年の【折々の歌と句・光太郎】は、その点が厄介でした(時折、季節外れのものを紹介いたしましたが)。

さて、記念すべき第1回は、もっとも有名と思われる光太郎の言葉から。この気概で、当方もやっていこうと思っております。

九十九里浜片貝海岸初日の出。

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昨日、初日の出を見に九十九里浜に行って参りました。

南北に長い九十九里浜のほぼ中央、九十九里町の片貝海岸、昭和9年(1934)に智恵子が療養していた地。当方自宅兼事務所のある香取市から1時間ちょっとのところですが、生活圏ではありません。

一昨年も行きましたが、天気が悪くて見えませんでした。昨年は、今年もダメだったら嫌だな、と思い、自宅近くで済ませてしまいました。

今年は天気予報で大丈夫、と言っていたので、それを信用しました。しかし、移動中のまだ暗いうち、2~3回、雷がピカッと光っていて、「えー、大丈夫かよ?」という感じでした。


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さらに今年は、愛犬を連れて行きました。正確な誕生日が不明で、とりあえず1月1日を誕生日に設定しており、昨日で13歳になった老犬ですが、まだまだ元気ですし、食欲も旺盛です。なぜかこいつは車に乗るのが大好き。乗ったら乗ったで、後部座席でおとなしく座っていて、暴れたりはしません。

さて、片貝海岸。心配していた雷雲は、かなり沖の方だったようでした。しかし、この季節は西高東低の冬型の気圧配置なので、水平線上に雲がかかっていないということはほぼありません。それでもそれほど高い位置まではかかっておらず、まずまずの観測条件でした。

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そして7時頃、雲の上から太陽が顔を覗かせました。

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見にいらした方がかなり集まっていて、歓声や拍手があちこちで沸き上がりました。

それを尻目に、愛犬と共にダッシュ。海岸から少し戻って、昭和36年(1961)に建立された「千鳥と遊ぶ智恵子」詩碑へ。

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慌てて撮って、撮ったあとに確認しなかったので、ピンボケになってしまいました(涙)。

さらに車に乗り、東金九十九里道路の今泉PAへ。こちらには平成10年(1998)に建立された光太郎・智恵子の像があります。

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こちらでは、わりといい写真が撮れたように思えます。

今日は一転して曇りで、今日だったら日の出は見えなかったでしょう。何だか今年一年も、いいことがありそうな、そんな気がいたしました。本当にそうであってほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

『君は世に何を欲りして、かく遠き海のあなたにおはするや』
詩「秒刻」より 明治40年(1907) 光太郎25歳

「欲り」は「ほり」と読み、「欲りす」で「欲(ほっ)する」とほぼ同義です。「海のあなた」は留学で滞在していたニューヨークです。光太郎、ほぼその生涯を通してこのような自問自答を繰り返し、より良き「道」を求める「求道者」でした。

2017年カレンダー。

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年が改まりまして、自宅兼事務所に貼ってあったカレンダーを、今年のものに一新しました。ありがたいことに、いろいろな事業所さん等が無料で下さるカレンダーで、家じゅうの主要な場所はまかなえています。

このブログを書いているパソコン脇の壁には、『朝日新聞』の販売店さんから戴いた実用一点張りのカレンダー。予定等を書き込むのに最適です。

書斎には妻が購入している化粧品店さんからのカレンダー。明治41年(1908)から翌年にかけ、光太郎が留学で滞在していたモンパルナスに近い、パリ7区で活動されているフラワーデザイナー、エリック・ショヴァン氏のフラワーアレンジメント作品をあしらっています。

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バックには光太郎も愛したパリの風景が。いい感じです。

自動車保険の会社さんが持ってきて下さったカレンダーは、日本各地の風景。十和田湖に近い蔦沼の写真も使われていました。

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ちなみにこの手の大きな紙を広げていると、必ず邪魔しに来るやつがいます(笑)。

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さて、十和田といえば、十和田市の民生部まちづくり支援課さんからカレンダーが送られてきました。このところ毎年戴いているのですが、十和田市ご出身の写真家・和田光弘氏が撮影された、十和田の四季折々の写真を使った「十和田市観光カレンダー 季色彩々」です。

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2ヶ月で1枚になっていますが、いきなり1・2月のページに光太郎作の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」。

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表紙にも同じ写真が使われていました。

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手前に写っている雪灯籠からして、毎年2月に開催されているイベント「十和田湖冬物語」の際のものと思われます。「乙女の像」のライトアップも為されているようです。幻想的なショットですね。こちらはもったいなくて使えません。このまま保存しようと思っております。

今年の「十和田湖冬物語」につきましては、また近くなりましたら詳細をお伝えいたします。


ところで、トイレに貼ったカレンダーには、こんなことが書いてありました。

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平成29年は「昭和92年」「大正106年」だそうです。ちなみに明治に換算すると、ちょうど明治150年ですね。全国にはまだまだ明治生まれの方もご存命と思われますが、いつまでもお元気でいてほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

ああ、走るべき道を教へよ 為すべき事を知らしめよ 氷河の底は火の如くに痛し 痛し、痛し
詩「寂寥」より 明治44年(1911) 光太郎29歳

欧米留学からの帰朝後、父・光雲を頂点とする旧態依然たる日本彫刻界との対立を余儀なくされ、悶々とする日々を送っていた頃の作です。「パンの会」などのデカダンスにはまりながらも、そうした自分を醒めた目で見ているもう一人の自分がいて、これではいけない、と常に警告を発していました。

このあたりが後の無頼派との大きな相違ですね。

九十九里浜片貝海岸初日の出。

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昨日、初日の出を見に九十九里浜に行って参りました。

南北に長い九十九里浜のほぼ中央、九十九里町の片貝海岸、昭和9年(1934)に智恵子が療養していた地。当方自宅兼事務所のある香取市から1時間ちょっとのところですが、生活圏ではありません。

一昨年も行きましたが、天気が悪くて見えませんでした。昨年は、今年もダメだったら嫌だな、と思い、自宅近くで済ませてしまいました。

今年は天気予報で大丈夫、と言っていたので、それを信用しました。しかし、移動中のまだ暗いうち、2~3回、雷がピカッと光っていて、「えー、大丈夫かよ?」という感じでした。

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さらに今年は、愛犬を連れて行きました。正確な誕生日が不明で、とりあえず1月1日を誕生日に設定しており、昨日で13歳になった老犬ですが、まだまだ元気ですし、食欲も旺盛です。なぜかこいつは車に乗るのが大好き。乗ったら乗ったで、後部座席でおとなしく座っていて、暴れたりはしません。

さて、片貝海岸。心配していた雷雲は、かなり沖の方だったようでした。しかし、この季節は西高東低の冬型の気圧配置なので、水平線上に雲がかかっていないということはほぼありません。それでもそれほど高い位置まではかかっておらず、まずまずの観測条件でした。

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そして7時頃、雲の上から太陽が顔を覗かせました。

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見にいらした方がかなり集まっていて、歓声や拍手があちこちで沸き上がりました。

それを尻目に、愛犬と共にダッシュ。海岸から少し戻って、昭和36年(1961)に建立された「千鳥と遊ぶ智恵子」詩碑へ。

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慌てて撮って、撮ったあとに確認しなかったので、ピンボケになってしまいました(涙)。

さらに車に乗り、東金九十九里道路の今泉PAへ。こちらには平成10年(1998)に建立された光太郎・智恵子の像があります。

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こちらでは、わりといい写真が撮れたように思えます。

今日は一転して曇りで、今日だったら日の出は見えなかったでしょう。何だか今年一年も、いいことがありそうな、そんな気がいたしました。本当にそうであってほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

『君は世に何を欲りして、かく遠き海のあなたにおはするや』
詩「秒刻」より 明治40年(1907) 光太郎25歳

「欲り」は「ほり」と読み、「欲りす」で「欲(ほっ)する」とほぼ同義です。「海のあなた」は留学で滞在していたニューヨークです。光太郎、ほぼその生涯を通してこのような自問自答を繰り返し、より良き「道」を求める「求道者」でした。

三重県桑名市『広報くわな』「桑名石取祭の祭車行事ユネスコ無形文化遺産登録決定!」。

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三重県桑名市の広報紙、『広報くわな』の今月号に、以下の記事が載りました。 

桑名石取祭の祭車行事 ユネスコ無形文化遺産登録決定! ―桑名の宝が世界の宝に―

 「桑名石取祭の祭車行事」は、文化庁からユネスコ無形文化遺産に登録提案され、平成28 年10月31 日に、ユネスコの評価機関から登録の勧告を受けました。その後、11 月30 日( 日本時間12月1 日未明) にエチオピアの首都アディスアベバで開催されたユネスコ無形文化遺産保護条約第11回政府間委員会で「山・鉾ほこ・屋台行事」が審議され、登録が決定しました。登録が決まった瞬間、石取会館に集まった関係者の人たちから歓喜の声が上がり、万歳三唱をするなどしてお祝いしました。これまで、地域の皆さんに愛されてきた「桑名石取祭」が世界の宝として認められたことにより、世界の皆さんに親しまれることになります。
石取祭は、江戸時代初期に始まったといわれ、桑名城下の町人や藩士が楽しみにしていた夏の祭りです。平成19年3月に国指定重要無形民俗文化財となりました。
 祭車と呼ばれる山車(だし)は43台あり、これほどの山車が一堂に会する祭りは全国的にも非常に珍しく、国指定重要無形民俗文化財のなかでは日本最多を誇ります。
 毎年8月第一日曜日に「本楽(ほんがく)」、その前日に「試楽(しんがく) 」が行われます。試楽の日の午前零時の「叩き出し」に始まり、本楽の日の深夜まで丸二日間行われ、祭車数十台が鉦(かね)や太鼓を盛大に打ち鳴らしながら市内を練り歩きます。漆塗(うるしぬ)り、蒔絵(まきえ)、象嵌(ぞうがん)、螺鈿(らでん)、透かし彫り、西陣織(にしじんおり)などで装飾した豪華絢爛(ごうかけんらん)に装飾した祭車も見どころです。

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以前にこのブログでご紹介しましたが、この祭りで引き廻される祭車の中に、光雲作の彫刻を施したものが2台含まれています。

登録の決定は記事にあるとおり昨年11月でした。単独の指定ではなく、日本全国33の祭りが一括指定されました。その中には、当方自宅兼事務所のある千葉県香取市で行われている「佐原の山車行事」も含まれています。そこで、『広報かとり』に同様の記事が載りました。

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当地では、、二回の祭りが行われます(街の中心を流れる小野川を境に担当地区が異なります)。こちらの山車には残念ながら高村系の彫刻はありませんが、東京美術学校の同僚で、光雲と親しかった石川光明の家系が制作した彫刻があしらわれているものがあります。また、山車の上に飾られる人形の中には、光雲が絶賛したという「活人形(いきにんぎょう)」の安本亀八の作品が使われてもいます。


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実を言うと、当地の祭りが登録されたことに気を取られ、桑名の石鳥祭も含まれていたことに、最近まで気付いていませんでした。紹介するタイミングを逸したかと思っていましたが、『広報くわな』さんで大きく取り上げられたので、ラッキーでした。

日本が誇る遺産です。末永く続いてほしいものですね。


【折々のことば・光太郎】

くたびれたら休むのさ。     詩「雪の午後」より 明治44年(1911) 光太郎29歳

正月休みも昨日まで、今日から仕事始めという勤め人の方々も多いと存じます。ご苦労様です。

飲食店や商業施設などでは、暮れも正月も関係なかったところもありました。世の中が便利なのはいいことですが、時には休むことも必要ですね。

連続テレビ小説「とと姉ちゃん」総集編/『青鞜』。

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大晦日にNHK総合さんで放映された連続テレビ小説「とと姉ちゃん」総集編を拝見しました。

雑誌『暮しの手帖』を創刊した大橋鎭子をモデルとしたドラマで、昨年4月から10月にかけての本放送では、明治44年(1911)、智恵子がその表紙絵を描いた雑誌『青鞜』が重要なモチーフの一つとしてくりかえし使われ、『青鞜』主宰の平塚らいてうも登場していましたが、総集編でもそれらのシーンがふんだんに使われていました。

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さて、NHK BSプレミアムさんでも放映があります。

前編 NHK BSプレミアム  2017年1月8日(日)  12時45分~14時15分
連続テレビ小説「とと姉ちゃん」総集編の前編。1週目、ととから託された約束を胸に、家族を守る決意をした常子は、断絶した祖母と母の絆を奔走して取り戻し、さらに新たな人生の決断をする。女性のための雑誌をつくろうとする前の、常子の少女時代・青春時代を描きます。

後編 NHK BSプレミアム  2017年1月8日(日)  14時00分~15時28分
連続テレビ小説「とと姉ちゃん」総集編の後編。11週から26週間までを網羅。常子が戦中の経験を経て出版社を起こし、戦後の日本で奮闘する一家の姿を描く。魂のパートナー花山伊佐次との出会いと別れを主軸に描く。

出演高畑充希 西島秀俊 木村多江 相楽樹 向井理 片岡鶴太郎 大地真央 坂口健太郎 秋野暢子 ピエール瀧 平岩紙 杉咲花 川栄李奈 浜野謙太 佐藤仁美 上杉柊平 阿部純子 石丸幹二 野間口徹 矢野聖人 伊藤淳史 奥貫薫 古田新太 唐沢寿明 ほか

語り 壇ふみ

ぜひご覧下さい。


ところで、『青鞜』。

昨年末に、明治45年(1912)6月発行の、第2巻第6号を入手しました。

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前年9月の創刊号と同じ、智恵子の作品を表紙に使っています。

さらに、この号は智恵子が書いた「マグダに就て」という文章が載っています。

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『青鞜』には智恵子の表紙絵は2種類、のべ8回使われましたが、文章の寄稿はこれが唯一のものです。

「マグダ」は、島村抱月の文芸協会が上演した演劇で、松井須磨子が主人公・マグダを演じ、自立しようとする女性像を描いたものでした。ただし、智恵子にしても、平塚らいてうにしても、やや批判的な評を載せています。

文章自体は『高村光太郎全集』別巻などに再録されていますし、基本、この手のものは蒐集の対象にはしていないのですが、安く売りに出ていたので購入しました。やはり、再録された資料で読むよりも、当時の刊行物ですので、何やら智恵子の息吹のようなものが感じられます。

展示等でお貸しすることも可能ですので、必要とあらば、このブログ左上のプロフィール欄に書かれている連絡先までご連絡ください。


【折々のことば・光太郎】

自然に向へ 人間を思ふよりも生きた者を先に思へ 自己の王国に主たれ 悪に背(そむ)け
詩「声」より 明治44年(1911) 光太郎29歳

詩「声」は、二人の人物の論争という形式で書かれています。一人は自然志向、アウトドア派で、都会の生活に否定的。「みじんこ生活の都会が何だ」「すべてを棄てて兎に角石狩の平原に来い」と誘います。

もう一人は都会派。「そんな隠退主義に耳をかすな」「絵に画いた牛や馬は綺麗だが/生きた牛や馬は人間よりも不潔だぞ」と、警告を発します。

上記のことばは、自然志向の人物が発した言葉です。このことばの通り、この年、光太郎は酪農を営みつつ芸術を生み出す生活を夢見て、実際に北海道に渡りました。

近江牛。

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元日の『読売新聞』さんの滋賀県版に、以下の記事が載りました。 

近江クール考<壱 ミカク>湖国の食 世界へ

 初雪が舞ったような、きめ細かいサシが入った近江牛が鉄鍋に触れた瞬間、甘い香りが漂った。東京・浅草の老舗「今半別館」。地元の「あさくさ」などの名が付くすき焼きのコースで最高級に「ながはま」の名を冠し、300近くあるブランド牛で近江牛にこだわり続ける。粋を凝らした閑静な和室で、店主の長美勝久さん(56)が理由を教えてくれた。「繊細な旨(うま)みと口溶けの良さ、豊かな香り。この最高の肉を使って『おいしくない』と言われたら、それはもう、どうしようもないですよ」
 1687年、彦根藩で味噌(みそ)漬けにされ、幕府に献上された養生薬「反本丸(へんぽんがん)」に歴史を遡るという近江牛。浅草との縁は明治初期の1880年頃、近江出身の家畜商・竹中久次が牛鍋屋を開業して始まった。これを機に、この地はすき焼き店が立ち並ぶ“聖地”に。詩人・彫刻家の高村光太郎をはじめ文人墨客、角界、銀幕のスターをも魅了してきた。文明開化の扉を開けたのは、近江の人でもあったのだ。
 湖国の味覚は皇室でも愛(め)でられてきた。その証しが東近江市の資料館に残る。
 「然(しか)るに右『モロコ』は聖上竝(なら)びに皇太后陛下にも御好様故お(このみようゆえ)を以(もっ)て……大正天皇の……御神前に御供の上御召し上り……」
 1931年(昭和6年)に書かれたこの手紙の差出人は久邇宮家に仕えていた人物。宛先は県ゆかりの繊維商社「ツカモトコーポレーション」の創業家関係者。手紙には、久邇宮邦彦王妃に届けられた琵琶湖固有種のホンモロコが、昭和天皇と皇后の元に渡り、さらに天皇の母・貞明皇后(皇太后)にも届いていたことが記されている。そして、貞明皇后は大正天皇の神前に供えた後、召し上がった――と。
 「皇族方の間で回っていることから、日持ちがする佃(つくだ)煮だと思う」と、手紙を発見した同社資料館「聚心庵(じゅしんあん)」の藤堂泰脩館長(80)。「都が京都にあった頃、御膳に湖魚が上ったこともあるでしょう。ホンモロコは歴代皇族方が親しまれてきた『都の味』。そんな思いで、子孫の方々も食されたのではないでしょうか」
 ブランド力アップが課題の県にとって、知名度がある近江牛や湖魚は発信に欠かせない「クールコンテンツ」だ。東京五輪の2020年を見据え、県はブランド戦略の中心に位置付ける。
 近江牛で言えば、すでに富裕層が多いシンガポールやタイなど6か国・地域に向け、年間6000頭のうち450頭以上が海を渡っている。今年は07年の「近江牛」商標登録から10年の節目。健康志向が高まる中、悪玉コレステロールを抑制するというオレイン酸の含有量が豊富な点も前面に打ち出し、更なる飛躍を目指す。
 「国内だけでなく、外国産の『WAGYU』も台頭し、ライバルは多い」と担当者。「だが」、と力を込める。「近江牛は『サムライ、ショーグンも食べた牛肉』という国内随一の歴史、ストーリー性がある」
 県がターゲットにする国には、南米で初めて日本からの牛肉輸出先となるブラジルの名も見える。地球の裏側でも、特別な日は、近江牛のすき焼きに舌鼓を打つ――。そんな日も遠くないかもしれない。


高級和牛として名高い近江牛の歴史、そしてこれからを紹介しています。

光太郎の名が出ましたが、その前に名がある近江出身の家畜商・竹中久次が浅草に開き、現在も続く米久(よねきゅう)さんをこよなく愛し、「米久の晩餐」という長大な詩を書いているからです。

ちなみにその前に紹介されている今半さんの人形町店には、光太郎の詩「ビフテキの皿」(明治44年=1911)の一節が書かれた額が飾られているそうです。光太郎自身の揮毫ではなく現代の書のようですし、この詩の舞台はどこなのかは明確にはなっていませんが。


     ビフテキの皿

  さても美しいビフテキの皿よ

  厚いアントルコオトの肉は舌に重い漿汁(グレエヸイ)につつまれ
  ポンム・ド・テルの匂ひは野人の如く率直に
  軽くはさまれた赤大根(レデイシユ)の小さな珠は意気なポルカの心もち

  冴えたナイフですいと切り、銀のフオオクでぐとさせば
  薄桃いろに散る生血
  こころの奥の奥の誰かがはしやぎ出す

  マドモワゼルの指輪に瓦斯は光り
  白いナプキンにボルドオはしみ
  夜の圧迫、食堂の空気に満つれば、そことなき玉葱(オニオン)のせせらわらひ

  首祭りに受けて飲む血のあたたかさ
  皿をたたいて
  にくらしい人肉をぢつと嚙みしめるこころよさ

  白と赤との諧調に
  シユトラウスの毒毒しいクライマツクス
  見よ、見よ、皿に盛りたるヨハネの黒血を

  銀のフオオクがきらきらと
  君の睫毛がきらきらと
  どうせ二人は敵同志、泣くが落ちぢやえ

  ナイフ、フオオクの並んで載つた
  さても美しいビフテキの皿よ


その晩年まで肉類を好んだ(岩手太田村から再上京した後も、米久さんに食べに行っています)光太郎の本領発揮というような詩ですね。

ただし、翌年に書かれた「夏の世の食慾」という詩には、「浅草の洋食屋は暴利をむさぼつて/ビフテキの皿に馬肉(ばにく)を盛る」という一節があったりもします。


さて、滋賀の方にも機会があったら調査しに行かなければ、という案件があります。その際には近江牛を堪能しようと思っております。


【折々のことば・光太郎】

汝を生んだのは都会だ 都会が離れられると思ふか 人間は人間の為した事を尊重しろ 自然よりも人工に意味ある事を知れ
詩「声」より 明治44年(1911) 光太郎29歳

昨日も同じ詩「声」から引用いたしました。この詩は自然派と都会派の二人が言い争うという形で書かれたもので、上記は都会派の言い分です。

自然派、都会派、どちらも光太郎の内面に巣くう別個の人格で、この時期の光太郎は二人のせめぎ合いに悩んでいました。

自然派の声に従い、この年、北海道に渡って酪農にいそしむ計画を立て、実際に札幌郊外の月寒まで行ったものの、少しの資本ではどうにもならないことを知り、1ヶ月ほどですごすご帰京。結局は都会派の声に従い、昭和20年(1945)の空襲で焼け出されるまで、東京暮らしを続けます。

その後、宮沢賢治の実家から誘われて花巻に疎開、終戦後も花巻郊外太田村で隠遁生活を送り、最晩年になって帰京しますが、そのあたりはその頃の作品を紹介する中で論じます。

『盛岡タイムス』「花巻高村光太郎記念会 新しい図録集を刊行」。

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先月、盛岡の地方紙『盛岡タイムス』さんに以下の記事が載りました。花巻高村光太郎記念会さんから画像を戴きました。

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写真で見る花巻での生活 賢治との関わりにも 花巻高村光太郎記念会 新しい図録集を刊行

 花巻高村光太郎記念会(佐藤進会長)は、花巻市で晩年を過ごした詩人・彫刻家高村光太郎の暮らしや生涯で残した彫刻、詩、書などを掲載した図録写真集「高村光太郎 Kotarou Takamura 1883-1956」を刊行した。
 これまでの図録を一新。本図録では光太郎と花巻出身の宮沢賢治との出会いや宮沢家との交流にスポットを当て、光太郎の愛用品からその人柄をしのばせるなど、光太郎入門としてもわかりやすく、手に取りやすい内容になっている。
 直接の出会いは一度きりだった賢治の作品を高く評価し、賢治亡き後、その全集刊行に携わった光太郎。1945年4月の東京大空襲でアトリエが全焼し、花巻にやってきた光太郎を温かく迎え入れた宮沢家とのエピソード、その後の太田村(現、花巻市)の山荘でのつつましい暮らしぶりなど写真をふんだんに使って紹介。
 「光太郎の食卓」のページでは、自給自足の生活に入っても東京育ちで留学経験のある光太郎らしく、牛の尻尾で作る「テールスープ」やそば粉の焼きパンなど、しゃれた料理を好んだエピソードも紹介。三度の食事作りに使ったナイフ、ほぼ毎日食べていたバターを保存する館などの愛用品も写真で紹介している。
 3.11絵本プロジェクトいわて代表の末盛千枝子さん(八幡平市在住)、方言指導・朗読教室主宰者の谷口秀子さん(花巻市出身、花巻イーハトーヴ大使・希望王国いわて文化大使)が「高村光太郎との思い出」として寄稿している。
 同図録の編集に関わった高村光太郎記念館の井形幸江さんは「花巻ゆかりの光太郎と賢治は同時代を生きた人で、光太郎は賢治を見いだして世に出した人でもある。図録を通して2人の関わりに改めて関心を寄せ、親しみを持ってもらえればうれしい」と話す。
 高村光太郎連翹忌運営委員会代表の小山弘明さんが監修した。25×25㌢の変形版、55㌻オールカラー。税込み2000円。
 花巻市太田3の85の1の同記念館(電話0198-28-3012)で販売している他、希望者には郵送も受け付けている(送料は別途)。12月28日から1月3日は休館。


昨年7月の刊行なので、半年遅れですが、大きく取り上げて下さり、ありがたく存じます。当方の名も出していただきました。

ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

余を目して孤独を守る者となす事なかれ 余に転化は来るべし 恐ろしき改造は来るべし 何時(いつ)なるを知らず ただ明らかに余は清められむ

詩「廃頽者より――バアナアド・リイチ君に呈す――」より
 明治44年(1911) 光太郎29歳

「パンの会」で酒に酔って大騒ぎをしたり、無計画に北海道に渡ったりといった馬鹿をやるのにはもう飽きた、というところでしょうか。「パンの会」には参加せず、異国にやってきて奮闘している親友、バーナード・リーチにあてて、決意表明をしています。

蒼井まつりひとり芝居『売り言葉』。

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ネットで検索中に演劇の公演情報を見つけました。 

蒼井まつりひとり芝居『売り言葉』

日   時 : 2017年1月21日  18時半開場 19時開演
                 22日 11時半開場 12時開演 / 16時半開場 17時開演
会   場 : 絵空箱 新宿区山吹町361 誠志堂ビル
          (有楽町線「江戸川橋」駅 徒歩2分/東西線「神楽坂」駅 徒歩9分)
料   金 : 前売 3,000円 / 当日 3,500円 (1ドリンク込)
演   出 : 由利江美
出   演 : 蒼井まつり
ピ  ア  ノ  : 福島剛
声の出演 : 芝田穂積, 和田安弘
予約/問合 : 090-3233-1249 (波美山) / reliure.ryodan@gmail.com

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「売り言葉」は、平成14年(2002)、野田秀樹氏の脚本、大竹しのぶさん出演で初めて上演されました。登場人物は智恵子のみの一人芝居です。

翌年に新潮社から出版された野田さんの脚本集『二十一世紀最初の戯曲集』に収められ、その後、プロアマ問わず、多くの公演で取り上げられています。

さまざまな要因がからみあい、徐々に心の均衡を失っていく智恵子、そしてその背後に要因の多くを作った光太郎の姿が描かれ、なかなか手厳しい内容ですが、この手のものの中では秀逸といえる作です。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

きりきりと錐をもむ 用はなけれど錐をもむ 錐をもめば板の破るるうれしさに
詩「泥七宝(一)」より 明治44年(1911) 光太郎29歳

「錐」は「きり」、「板」はおそらく木彫に使うための材料と推定されます。

それが度を超して昂じると「強迫性障害」という診断が下りますが、誰にでもこのように無意味な行為に没頭してしまうという経験はあるのではないでしょうか。

運命的に智恵子と出会う直前の、焦燥感に満ちた光太郎の内面がさりげなく表されているようです。

テレビ放映情報。

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テレビ番組の放映情報です。 

鉄道・絶景の旅 「あったか料理!名湯!人情!雪景色のみちのく紀行」

BS朝日 2017年1月10日(火)  19時00分~20時54分

日本国内の人気鉄道路線とその車内外からの絶景、名所、食事処、温泉宿など、沿線の魅力を余すところなく紹介。鉄道ファンならずとも楽しめる鉄道紀行番組の決定版!

八戸名物!朝市▽版画家・棟方志功ゆかりの地▽奥入瀬渓流&十和田湖▽雪見の露天風呂▽石川啄木の故郷で文学の原点にふれる▽縄文時代の暮らし体験▽雪景色を施した岩手山

みちのくの名湯を満喫!▽人情と味覚を満喫!日本一元気な朝ご飯▽みちのく・岩手に受け継がれる伝統文化!▽様々な飛行機がズラリと並ぶ三沢航空科学館▽岩手の郷土料理「ひっつみ」とは?▽雪のベールが色を添える広大な陸奥湾▽ユニーク!けつめい茶のワッフル&ラテ▽青森の冬の風物詩!オオハクチョウ▽八甲田山の険しくも美しい山並み▽小川原湖・しじみすいとん▽あったか鍋と陸奥湾の幸▽IGRいわて銀河鉄道▽青い森鉄道

ナビゲーター 峠恵子(ナレーション・挿入歌歌唱)

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検索ワード「十和田湖」でひっかかりました。「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が紹介されるといいのですが……。

続いてもBS朝日さん。5分間番組ですが、こちらはキーワード「高村光太郎」「二本松」でヒットしました。 

暦を歩く #99「冬の詩人」(福島県二本松)

BS朝日 2017年1月15日(日)  20時54分~21時00分

日本には四季がある、歌がある−。 草木や花々、川の流れや空の色、多様な生きものたち、人々の日々の暮らしや祭り…。 私たち日本人は、一年の時の移ろい=「暦」を四季折々の「歌」に織り込み、この国ならではの感性を磨いてきました。私たちが愛唱してきた「歌」を通して、日本の風景を見つめ直すとともに、それぞれの歌に息づく日本人の原風景を、一篇の詩のような美しい映像でお届けします。

「冬よ 僕に来い、僕に来い 僕は冬の力、冬は僕の餌食だ」
「冬の詩人」と呼ばれる高村光太郎。冬を人生の困難な時期にたとえ、そこに強く立ち向かう詩を多く詠みました。福島県二本松出身の女性、智恵子と出会い、作風が大きく変わります。冬は立ち向かうものではなくなり、愛する人と二人で過ごす冬をやさしく歌い、「あたたかい雪」という言葉まで使うようになりました。

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ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

無法な雷(らい)は今も鳴る 細かい文明の情緒を踏みつけて鳴る 野蕃なる自然よ
詩「泥七宝(二)」より 明治44年(1911) 光太郎29歳

この頃から詩の中に「自然」の語が目立つようになります。後の「道程」で「ああ、自然よ」と謳われた「自然」。ちまちまこせこせした面倒くさい人間社会の対極として位置づけられているようです。

「乙女の像ものがたり」DVD。

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青森の地方紙『東奥日報』さんに、以下の記事が出ました。 

乙女の像、DVDで紹介/十和田の劇団制作

 青森県十和田市の劇団「エムズ・パーティー」が、高村光太郎の人生と十和田湖畔に立つ乙女の像に込められた思いを描いた「乙女の像ものがたり」のDVDを制作し5日、同市の小山田久市長に報告した。
  DVDは、乙女の像建立60周年を記念して十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会(小笠原哲男会長)が2013年に発行した「十和田湖 乙女の像のものがたり」の巻頭に掲載されている小山弘明氏原作の「乙女の像ものがたり」を脚本化。制作風景や除幕式の動画も加え、当時の様子がより分かる内容となった。
  昨年8月、劇団員や市民有志ら23人が録音に参加、編集作業を重ねたという。市内の中学、高校や観光関係機関への配布分として30部が作られた。
  市役所を訪れた同劇団代表の仲島みちるさん、DVD脚本・演出の南ゆき子さん、編集を担当した米内山和正さん(38)は「外国人にも見ていただけるよう検討を進めている」などと小山田市長に語った。
  同劇団は28日午前10時15分から、完成披露試写会を同市市民交流プラザ「トワーレ」で開く。入場無料。問い合わせは仲島代表(電話090-7066-2873)へ。

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同じ件が、十和田市さんのブログにも。

「乙女の像ものがたり」DVD完成報告

 1月5日、劇団エムズパーティーの仲島みちる代表らが市役所を訪れ、小山田市長に「乙女の像ものがたり」のDVDが完成したことを報告しました。
 これは、2013年、乙女の像建立60周年を記念して十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会(小笠原哲男会長)が発行した「十和田湖 乙女の像のものがたり」の巻頭に掲載されている小山弘明さん原作の「乙女の像のものがたり」を脚本化し、DVDに収録したものです。
 仲島代表は、「劇団をはじめ企画に賛同する市民が集まって、1人1役23人のキャストで収録しました。高村光太郎の人生と乙女の像に込められた思いが描かれたこの作品を、ふるさとを愛する心を育む教材として、また、観光バスで上映するなど観光客のために有効に活用してほしい」と話し、映像を小山田市長に見せました。
 小山田市長は「市民も知っているようで知らないことがたくさんあると思うし、市外の方もこのDVDを見たら、乙女の像の見方が変わってくると思います。とても良いものを作ってくれました」と感謝の言葉を述べました。
 このDVDは、学校や観光バス会社、施設などへ無償配布され、完成披露試写会も開催されます。

「乙女の像ものがたり」DVD完成披露試写会
とき 1月28日㈯ 午前10時15分~11時30分 
ところ 市民交流プラザ「トワーレ」

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なぜか「YouTube」にもこの模様がアップされていました。



もともとは、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さんが、一昨年刊行された書籍『十和田湖 乙女の像のものがたり』。光太郎の令甥、故・高村規氏や、当会顧問・北川太一先生、乙女の像設置工事の際の技師だった小山義孝氏などへのインタビューなどから成り、当方も執筆させていただきました。その他、全体の校閲も行って、「監修」ということにしていただいています。

当方の主な執筆部分は「乙女の像」制作の背景をまとめた「「乙女の像」概説」、それからそれとは別に「子供にもわかるものを」という注文があり、光太郎を主人公とし、史実を元にしたジュブナイルフィクション「乙女の像のものがたり」も書きました。

昨年には、その「乙女の像のものがたり」を換骨奪胎し、十和田市の劇団エムズ・パーティーさんが朗読劇にされて公演、さらに「平成28年度 元気な十和田市づくり市民活動支援事業」ということで、市からの助成を受けてDVDを制作なさいました。そういうわけで上記記事に当方の名が出ています。

昨秋にはパイロット版が送られてきて拝見。なかなかよくできていました。その際に気になる点は申し述べておきましたので、完成版はさらにクオリティーの高いものになっていることと察します。いずれ送られてくると思いますので、その際にはまたご紹介いたします。

それから、上記記事にあるとおり、今月末には完成披露試写会だそうで、しばらくこのブログのネタをいろいろご提供いただけそうです(笑)。


【折々のことば・光太郎】

たとひ離れて目には見ずとも おもつて居ればうれしいと 女はこんなへまをいふ
詩「泥七宝(四)」より 明治45年(1912) 光太郎30歳

改元されて大正元年となった8月の『スバル』に発表されました。前年暮れに智恵子と運命的な出会いを果たした光太郎。この小曲の背後にも、智恵子の影が見え隠れするように思われます。

こんなセリフをかっこよく言ってみたいものですが(笑)。

「障害者成人式 社会への一歩、決意新たに 「7300日」の歩み振り返る 長崎」。

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『毎日新聞』さんの長崎版に以下の記事が載りました。 

障害者成人式 社会への一歩、決意新たに 「7300日」の歩み振り返る 長崎

 身体障害などがある新成人の成人式が9日、長崎市茂里町イメージ 1
の市障害福祉センターで開かれた。新成人40人や家族、施設関係者らが出席。家族らはこれまでの歩みを振り返りながら祝い、新成人は社会への一歩を踏み出す決意を新たにした。【今野悠貴】

 式は長崎市心身障害者団体連合会が主催。今回は誕生から20歳までが7300日であることにちなみ「7300日の感謝」をテーマに掲げた。来賓の田上富久市長は高村光太郎の詩「道程」を紹介し「7300日分の頑張った努力の成果で皆さんの後ろに道ができた。これからも新しいことにチャレンジして、道を切り開いてください」とあいさつした。

 新成人を代表し、同センターで働く松尾澄佳さん(19)が「このように成長できたのも両親、私たちに関わってくださった方々のお陰」と感謝し「これからも向上心を持って頑張ります」と誓った。
 長男拓未さん(20)の成人を祝った薛(せつ)和子さん(49)=長崎市=は「小さい頃は病気がちだった息子が無事に成人を迎え、本当にうれしい。これから少しずつできることを増やして自立してほしい」と話した。


9日の成人の日の話題です。ハンデを抱える皆さんの成人式、ということでニュースになったようです。被爆地・長崎の市長として、核廃絶の活動にも積極的に取り組まれている田上市長のスピーチに、光太郎の「道程」が使われたとのこと。

おそらく他にも全国の自治体の首長さんなり、来賓の方なりが、「道程」などを引用しつつお話をして下さったのではなかろうかと思います。

光太郎の詩は、自らを奮い立たせるエールとして作られたものが多いのが特徴です。しかし、光太郎自身、「一人に極まれば万人に通ずる」(「智恵子の半生」昭和15年=1940)と発言しているとおり、普遍的なエールとして通用するものです。

これからの卒業式シーズン、新生活スタートのシーズンなどでも、新たな道へと進みゆく方々へのエールとして、光太郎の詩が愛され続けていってほしいと、切に願います。


【折々のことば・光太郎】

お嫁にゆくを わるいと誰が申しませう わるいと誰が申しませう どうせ一度はゆくあなた――
詩「泥七宝(四)」より 明治45年(1912) 光太郎30歳

この時期、智恵子には郷里で縁談が持ち上がっていたというのが従来の定説でした。この小曲なども、それを裏付ける証左とされています。

しかし、その相手として従来言われていた智恵子の郷里の医師某は、この時点では既に他の女性と結婚していたことが明らかとなり、見直しが迫られています。

他の人物との縁談があったのか、はたまた具体的な相手までは未定でも郷里では智恵子を早く結婚させようと画策していたのか、といったところではないかと思われます。

または、縁談自体が光太郎の気を惹こうとする智恵子のブラフだった可能性も棄てきれません。

「川端康成邸から書画など70件発見」。

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静岡の地方紙『伊豆新聞』さんに載った記事です。長いので換骨奪胎します。 

川端康成邸から書画など70件発見 牧水ら伊豆ゆかり多数

 ノーベル文学賞を受賞した文豪・川端康成(1899~1972年)の神奈川県鎌倉市の自宅から6日までに、明治、大正、昭和初期に活躍した作家らを中心に総数約70件の書画などが見つかった。歌人・若山牧水が伊豆・湯ケ島で詠んだ有名な「山桜の歌」、昨年没後100年、今年生誕150年を迎える夏目漱石の五言絶句の漢詩のほか、島崎藤村、高浜虚子、尾崎紅葉、斎藤茂吉、横光利一、島木健作らそうそうたる顔ぶれ。小説「伊豆の踊子」の名場面の絵画などもあり、伊豆と関係の深い人々の作品が目立つ。ノーベル賞の賞金で現地スウェーデンで衝動買いしたという椅子4脚も含まれる。(森野宏尚記者)

 川端の死後、川端文学の継承を目的に発足した財団法人・川端康成記念会(川端香男里理事長、初代理事長は井上靖)の関係者が書斎や書庫を整理していて発見した。
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特集=川端康成が収集 島崎藤村や尾崎紅葉の書
 ■盟友、横光に思い馳せる
 若山牧水、夏目漱石のほか見つかったのは島崎藤村の書、若菜集の宮城野より抜粋▽高浜虚子の虚子像、虚子句▽横光利一の書「蟻 臺の上に 月高し」など▽尾崎紅葉の書▽徳田秋声の書「古き伝統と新しき生命」▽斎藤茂吉の書「蓮花寺小吟三首」▽田山花袋の七言絶句▽高村光太郎の書(扇面)智恵子抄より▽林芙美子の書▽岡本かの子の書▽武者小路実篤の書「伊香保風景」▽久米正雄の書「初芝居」▽吉野秀雄の書「伊豆大仁望嶽詩」▽富岡鉄斎の書簡▽室生犀星の書簡など。多くは鎌倉の古書店で購入したようだ。
 また醍醐寺の如意輪観音(鎌倉時代)▽藤原定家の懐絵▽大燈国師(南北時代の禅僧)自筆録抄▽寂室元光の一行書▽雪村周継(室町時代の画僧)の風濤図、池大雅の書なども含まれる。
 林芙美子の書には「硯[すずり]冷えて 銭もなき 冬の日暮れかな」と書かれ、水原園博さんは「貧乏時代の彼女そのもので、放浪記で一躍有名になったものの作家仲間からは疎んぜられていた芙美子に、同情を寄せる川端の視線を彷彿とさせる」、新感覚派の旗手で川端とは真の盟友として心通わせた横光利一の「蟻 臺(台)上に 月高し」について、水原さんは「横光は急死し、川端の喪失感はいかばかりだったか。蟻 臺上に…の一文にどう思いを馳せたか」としみじみ語った。

 ■川端邸 一般公開も視野 審美眼、育てた美術品
 川端康成は生前、国宝2点や日本画家・安田靫彦[ゆきひこ]、東山魁夷など多くの美術品を収集していた。無名の若い画家にも着目し、作品を進んで購入した。草間弥生などはその代表格だ。

 川端記念会は川端没後30年の2002(平成14)年から、所蔵品を「川端コレクション展」として全国28美術館で開催してきた。4月から川端が好んだ洋画家・古賀春江の生誕地、福岡県の久留米市美術館(旧石橋美術館)での開催も決まっている。
 川端香男里・川端記念会理事長は「(これまで何度も発見があるので)また出てきたかという思いだが、新発見の品々の何点かは久留米でも披露されるだろう。今後は川端の愛した美術品などに触れる機会を増やすため、川端邸の一般公開も考えていきたい」と展望を語った。
 川端康成学会・常任理事の平山三男さん(69)は「川端の美意識、審美眼は多くの美術品などを通して養われ、作品にも投影されている」とし、今回、先輩、同世代作家の書画が多く出てきたことについては「美を追い求めた川端の憧れや親しみ、その人を深く知りたいなどの思いがあるのではないか」と分析した。


というわけで、川端康成の旧宅から名だたる文豪たちの書画などが大量に見つかり、光太郎の書も含まれていたとするものです。

ネットに載った記事では、残念ながら「光太郎の書」の画像は含まれていませんでした。したがって、真贋のほどは何ともいえませんが、生前、多くの美術品などを購入していたという川端ですので、まず間違いはないのでは、と思います。

いずれ目にできる機会が来ることを期待しております。


【折々のことば・光太郎】

いやなんです あなたのいつてしまふのが―― イメージ 1
詩「人に」より 明治45年(1912) 光太郎30歳

雑誌『劇と詩』に初出の段階では、「N――女史に」という題名でした。「N」は長沼智恵子の「N」です。詩の冒頭及び途中、末尾と3回リフレインされています。

大正3年(1914)には詩集『道程』に収められ、「――に」と題名が変わり、内容も大幅に改訂されています。そして昭和16年(1941)、詩集『智恵子抄』では、さらに「人に」と改題されて、その巻頭を飾りました。

改訂が行われても、このリフレインは変更されていません。それだけ光太郎にとって思い入れのある詩句だったのではないでしょうか。

おそらくこの詩を読んだ智恵子も決心し、晴れて光太郎と結ばれることとなります。

朝日新聞「(あのとき・それから)1931年 「雨ニモマケズ」の誕生 悲しみのりこえる切なる祈り」。

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一昨日の『朝日新聞』さんの夕刊に、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」が大きく取り上げられました。「発見者」の一人でもある光太郎にも言及されています。 

(あのとき・それから)1931年 「雨ニモマケズ」の誕生 悲しみのりこえる切なる祈り

 ソプラノの独唱による宮沢賢治の「雨ニモマケズ」が、パイプオルガンの音とともにカトリック小倉教会(北九州市)の聖堂に響きわたる。
 オルガン奏者の宮崎裕之さん(61)が曲をつけ、信徒の女性が2011年3月11日の東日本大震災の翌月から十数回歌っている。この3月も予定され、宮崎さんはログイン前の続き「『被災したみなさんを支えたい』という気持ちを、多くの人の心に届けたい」と話す。
 聴衆からの義援金は、津波の被害が大きかった宮城県名取市の閖上(ゆりあげ)地区で開業していた心療内科医師桑山紀彦さん(53)に贈られる。桑山さんが代表理事を務めるNPO法人「地球のステージ」は被災者らが語り部として体験を伝え、震災時の映像や写真などを展示する施設「閖上の記憶」を運営する。
 震災時、桑山さんの患者や知人らは家族や親しい人を亡くし、家や暮らし、職場も失い、心は土砂降りの雨にうなだれる状態だった。「支援は無言で『踏ん張れ』と言っていた。『雨ニモマケズ』の気持ちを芽生えさせてくれた」
 宮沢賢治が「雨ニモマケズ」を自身の手帳に記したのは、1931(昭和6)年11月3日だと考えられている。
 その1カ月半前、賢治は勤めていた工場で作る壁材の販路を広げようと上京する列車で発熱。妹トシと同じ結核による死を覚悟し遺書を書き、やっと持ち直して戻った岩手・花巻の病床でつづったのが「雨ニモマケズ」だった。
 岩手は、賢治が生まれる2カ月前の1896年6月に明治三陸大津波、誕生4日後に岩手・秋田で大きな被害があった陸羽地震、亡くなる1933年は昭和三陸大津波に襲われた。度重なる冷害による飢饉(ききん)が女性の身売りや一家心中などの悲劇を増幅させた。
 宮沢賢治記念館の牛崎敏哉副館長(62)によると、賢治は「飢餓の風土」に立ち向かい、農業指導と人々の生活向上のために東奔西走した。だが「長く生きられない」と悟って、「雨にも風にも負けない『丈夫ナカラダヲ』持ちたいと願い、志を成就できない悲しみをのりこえる心からの祈りを言葉にした」。
 死の1年後、地元紙「岩手日報」に初めて活字として掲載され、その後、全集などに収録。祈りと別の利用もされた。太平洋戦争開戦の翌42年には、国民の戦意高揚と滅私奉公を促す目的か、大政翼賛会文化部編の詩集「常盤樹」に収められた。終戦間もない食糧難の時代には、文部省編の教科書「中等国語」で一時「一日ニ玄米四合」の一節を「玄米三合」と書き換えられた。米の配給が一日3合に満たなかったからだという。
 教科書や全集を通じて、賢治作品の中でも多くの人に親しまれた。
 そして東日本大震災で、改めて注目された。震災直後、俳優の渡辺謙さんが、これを読む映像が動画サイトで配信され、フランスやスペイン、アメリカでも朗読された。
 賢治を愛読する岩手県立大槌病院の心療内科医師、宮村通典さん(71)は、患者に「眠れていますか」と声をかけ、心身のケアに携わる。震災発生時は長崎県大村市の病院副院長だった。僧侶でもある宮村さんを転身させたのは、「東ニ病気ノコドモアレバ/行ッテ看病シテヤリ」の「行ッテ」だった。「閉じこもり、悲しみにある人を受け入れ、立ち上がるための支援を医療や福祉関係者らと手を携えて取り組みたい」。震災から6年。仮設住宅に暮らす住民、親しい人を亡くし孤独感を抱える人……。震災の爪痕はいまだに消えていない。
 宮沢賢治記念館の牛崎さんは「雨ニモマケズ」に、現代への啓示を読み取る。震災直後は「行ッテ」に意味を見いだし、1、2年後は「ヨクミキキシワカリ」に心を砕いた。これからは、「ソシテワスレズ」であると。(平出義明)

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光太郎の名は、賢治の実弟・清六の令孫である宮沢和樹氏の稿に載っています。

■「人のために」気づかされ 宮沢賢治の弟・清六の孫、宮沢和樹さん(52)

 賢治さんが書き留めた手帳が13冊残っていますが、1冊に「雨ニモマケズ」がありました。祖父が賢治さんの原稿を詰めたトランクから賢治さんの死の翌年見つけました。
 祖父は生前、「兄は作品として書いたものではない」と話していました。終盤に、「サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」と記しています。結核で体が弱っているとき、こういう人として生きてみたかったし、なりたかったが、なれなかったという、自分に向けた言葉であり、祈りの言葉でもありました。最後のページは「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」の曼荼羅(まんだら)で終えています。
 手帳を発見した場にいた高村光太郎さんや草野心平さんらと相談したのでしょうが、賢治さんとともに「行ッテ」という言葉を知ってもらうために、作品として出版したのです。「東ニ病気ノコドモアレバ/行ッテ看病シテヤリ」など、東西南北の困っている人のところに助けに行く人になりたいと。東日本大震災ではボランティア、警察官、自衛隊員、医師らが活躍しました。その人たちは自らの行動を、自らに向けて表現した言葉が「雨ニモマケズ」だったと聞き、賢治さんも納得されたのではないかと思いました。
 賢治さんの作品は、これまでも多くの方が絵本や音楽、アニメにされています。「人のために」という気持ちや優しさに、気づかせてくれるからではないでしょうか。


「雨ニモマケズ」、上記記事にあるとおり、もうすぐ6年経つ東日本大震災の折には、、被災者の皆さんへのエールとして脚光を浴びました。

しかし、これも記事にあるとおり、戦時中には戦意高揚のために編まれた詩集『常盤木』に収められたり、戦後の復興期には「玄米三合」と書き替えられたりという、一種の冒涜のようなことも為されています。窮乏生活でも賢治を見習って我慢しろ、ということでしょうか。

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天災である震災で苦しい時に、自然に人々の間に沸き上がった「雨ニモマケズ」讃仰と、人が起こした戦争による窮乏状態の時に、上から押しつけのように「雨ニモマケズ」を与えること、これを同列にはできませんね。

ちなみに『常盤木』には、光太郎の散文「詩精神」と、詩「秋風辞」も掲載されています。

「道程」に代表される光太郎の詩の数々、そして賢治の「雨ニモマケズ」は、苦しい中でも新しい道へ踏み出す人々へのエールとして、使われ続けていってほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

こころよ、こころよ わがこころよ、めざめよ 君がこころよ、めざめよ
詩「或る夜のこころ」より 大正元年(1912) 光太郎30歳

デカダンス生活への訣別宣言であると同時に、「君」=智恵子と共に手を取り合って生きて行こうという決意表明も含むでしょう。

同じ「或る夜のこころ」の中に、「めざめ」る前の現状を「病の床」「アツシシユの仮睡」と表現しています。「アツシシユ」は「ハシッシュ」、マリファナですね。実際に使っていたわけではありませんが。

金田和枝さん訃報。

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昨日、自宅兼事務所に訃報の葉書が届きました。智恵子の故郷・二本松にご在住で、智恵子に関するご著書もあった児童文学者の金田和枝さん。暮れも押し詰まった先月28日にお亡くなりになったそうです。

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左は昭和61年(1986)に歴史春秋社さんから刊行されたジュブナイル『智恵子と光太郎 たぐいなき二つの魂の出会い』、右は同社から平成9年(1997)に刊行された『ふくしま女の時代』(共著、金田さんは「純粋な愛と芸術に一生を貫いた高村智恵子」をご執筆)。

平成24年(2012)、6月には、二本松の智恵子のまち夢くらぶさん主催の「智恵子講座’12」で講師を務められ、同じ年の9月、やはり夢くらぶさん主催の「第4回智恵子純愛通り記念碑建立祭」では、参加者全員による「智恵子抄」(二代目コロムビア・ローズさん)斉唱の指揮をなさいました。

その後、お加減が宜しくないとのことで、ケアハウスに入所なさっていましたが、一昨年の智恵子を偲ぶ「第21回レモン忌」では、記念講演をされ、まだまだお元気で何より、と存じました。

その他、当方編集発行の「光太郎資料」を年2回お送りしていましたが、必ずお心の籠もったお礼状を下さり、それによって、元々東京のお生まれで、戦時中に二本松に疎開され、戦後になってそのままそちらでご就職、ご結婚なさったこと、戦時中には光太郎作詞とは知らず「歩くうた」(徳山)を歌いながら闊歩されていたことなどを知りました。

しかし、とうとう訃報に接することとなり、かえすがえす残念です。

葉書は埼玉にお住まいのご長男の方からでした。

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それによると、「私が死んでも悲しまないでください むしろどんなに幸せな人生を送ることができたかを喜んでください」と書き残されていたそうです。お見事ですね。

改めて、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

かぎりなくさびしけれども われは すぎこしみちをすてて まことにこよなきちからのみちをすてて いまだしらざるつちをふみ かなしくもすすむなり

詩「さびしきみち」より 大正元年(1912) 光太郎30歳

よく存じていた方の訃報に接し、「かぎりなくさびしけれども」、しかし「かなしくもすすむなり」、まさにそういう感じです。

高村光雲ゆかりの金龍山大圓寺。

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昨日は、当会顧問・北川太一先生を囲む新年会で、都内に出かけておりました。

主催は北川先生が都立向丘高の教諭をなさっていた頃の教え子の皆さんである北斗会さん。北川先生とお会いするのは一ヶ月ぶりでしたが、連翹忌や女川光太郎祭にご参加なさっている方を除く、北斗会の皆さんの大半とは、一年ぶりでした。

会場は毎年、東大正門前のフォーレスト本郷さん。昨日から大学入試センター試験で、東大さんでも試験が行われていました。

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毎年この席上で、北川先生からの年賀状を戴いています。

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曰く「鶏よ くらき夜をまもり あかるき曙をよべ」。戦前に逆戻りしたようなこのところの世相を背景に、参会者のお子さんやお孫さん達の世が明るい未来でありますように、との意だそうです。士官として軍隊生活を経験なさっている先生ならではの重いお言葉でした。


さて、毎年、この会に行く前に、必ず同じ方面で光太郎や光雲ゆかりの場所や、関わりのあった人物の記念館などに寄ることにしています。

今年は、本駒込駅近くの金龍山大圓寺さんというお寺に寄りました。

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こちらは光雲ゆかりの寺院です。

光雲晩年の昭和4年(1929)から同8年(1933)にかけ、光雲と、その高弟の山本瑞雲・三木宗策の手になる七体の観音像が寄進されました。いずれも一丈を超える大作だったそうです。

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左上から右下の順で、聖、如意輪、不空羂索、十一面、馬頭、準提、千手の各観音像です。

ところが、太平洋戦争の空襲で、全て灰燼に帰したとのこと。残念です。

ただ、最初に手がけられた聖観音のみ、鋳銅の像も作られており、そちらは現在も大圓寺さんの境内に露座で鎮座ましましています。

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現在は、戦後、光雲の系譜に連なる仏師たちによって復刻された七観音が収められましたが、それぞれ元の像より小さいサイズだそうです。現ご住職の奥様とおぼしき方が、堂内をご案内下さいました。

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海軍中将だった小笠原長生、同じく海軍の元帥・東郷平八郎らも、光雲同様、大圓寺さんとゆかりが深く、光雲を交えての座談会などがこちらで開かれたこともあり、当時の写真や東郷の書などが飾られていました。

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焼失した七観音以外に、光雲が彫った像が現存しているのですが、そちらは普段は厳重に保管しているとのことで、残念ながら拝観は叶いませんでした。

かわりに、大圓寺さんのパンフレットを戴いて帰りました。そちらには現存の像の写真が載っています。

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下の画像は慈母観音像。

台座にあたる部分は、日清戦争時に東郷元帥、小笠原中将が乗艦していた巡洋艦・浪速の外壁の鉄板だそうです。観音像が立っている部分は、砲弾が貫通した穴。小笠原の居室だった分隊長室の壁だそうで、小笠原が母から守り本尊として渡された観音像は爆風で真っ二つになったとのこと。それが身代わりになってくれたと信じた小笠原が大圓寺さんに鉄板を奉納、この話を聞いた光雲が、めくれた鉄板を波に見立て、波間に立つ観音像を彫ってあげたそうです。右下の童子は高弟の三木宗策の作だそうです。

やはり像は拝観できませんでしたが、鉄板は本堂に納められていました。

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これ自体はいい話ですが、七観音が空襲で焼失した件なども併せ、やはり戦争の恐ろしさを実感せざるを得ませんでした。

さて、都内には光雲ゆかりの寺院がまだまだあり、足を運んだことのない場所も多いので、また折を見て廻ってみたいと思っております。


【折々のことば・光太郎】

軽くして責なき人の口の端 森のくらやみに住む梟(ふくろふ)の黒き毒に染みたるこゑ 街(ちまた)と木木とにひびき わが耳を襲ひて堪へがたし

詩「梟の族」より 大正元年(1912) 光太郎30歳

もともと、恋愛関係となった光太郎智恵子をゴシップ的に尾ひれを付けて噂する口さがない人々に対する批判として書かれた詩です。

世論といったものも、「軽くして責なき人の口の端」が増大することで、危険な方向に進み、やがて戦争へと繋がっていくのかもしれないな、と思いました。

『小説推理』2月号 喜国雅彦「今宵は誰と―小説の中の女たち― 第六話 レモンを噛む女」。

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いろいろ紹介すべき事項が重なり、後回しになってしまいました。双葉社さん発行の雑誌『小説推理』の2017年2月号(12月末刊)に連載の、喜国雅彦氏による漫画「今宵は誰と―小説の中の女たち―」が、「第六話 レモンを噛む女」ということで、「智恵子抄」を紹介して下さいました。

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「名作文学に登場する女性に焦点をあてたブックガイド的漫画」だそうで、これまでに安部公房『砂の女』、ツルゲーネフ『はつ恋』などが取り上げられてきたとのこと。

サブタイトルが「小説の中の女たち」となっていますが、小説ではなく詩集であるとことわった上で、あえて紹介してくださり、有り難く存じます。

「小説より言葉が少ないけれど 頭に浮かぶ映像は逆に鮮明」「この二人の何が哀しいって 最初に精神を病んだ智恵子の中から光太郎が消え 死によって光太郎の前から智恵子が消えるという 二度の別れがあること」など、的確に解説して下さっています。


今月末までは、店頭に並んでいるかと存じます。ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

私達の愛を愛といつてしまふのは止さう も少し修道的で、も少し自由だ

詩「冬が来る」より 大正元年(1912) 光太郎30歳

その恋愛の初期の頃には、このようなことを言っていた光太郎でした。後の大いなる悲劇の予感は全くなかったのでしょう。

HITOMIホールプリズムステージ ~朗読と音楽で紡ぐ、純愛~ 智恵子抄 「田園交響楽」より。

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名古屋から朗読劇の公演情報です。 
期  日 : 2017年1月24日(火)・25日(水)
会  場 : HITOMIホール 名古屋市中区葵三丁目21番19号 メニコンアネックス5F
時  間 : 1/24 19:00開演(18:15開場) 1/25 1回目 15:00開演(14:00開場) 2回目 19:00開演(18:15開場)
料  金 : 2,500円(全席自由)
出  演 : 朗読・光太郎/榊原忠美 ヴァイオリン/水野慎太郎 チェロ/河井裕二 ハープ/田中敦子
        宗川諭理夫(企画・作曲)
主  催 : メニコンビジネスアシスト(MBA)イベント事業部
問い合せ : メニコンビジネスアシスト(MBA)イベント事業部
電話予約 : 052-938-6232(平日10:00~17:00)
メール予約 : 
mba-event@menicon-net.co.jp
※お名前、チケット枚数、ご連絡先電話番号、チケット郵送先ご住所を明記のうえ、メールを送信ください。

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昨年3月、同じ会場で同名の公演がありました。キャストや音楽の楽器が変更になっていますが、基本、再演と捉えて良いのではないかと思われます。再演されるだけ、初演が好評だったということでしょうか。とすればありがたいことです。


【折々のことば・光太郎】

我等は為すべき事を為し 進むべき道を進み 自然の掟を尊んで 行住坐臥我等の思ふ所と自然の定律と相戻らない境地に到らなければならない 最善の力は自分等を信ずる所にのみある

詩「或る宵」より 大正元年(1912) 光太郎30歳

この時期の光太郎詩文には、「自然」の語が目立つように成ってきます。

一般に「自然」の語には二通りの意味が考えられます。「大自然」という意味で、英語でいうところの「nature(ネイチャー)」的な意味―「天性」の意も含みます―と、形容動詞「自然だ」の語幹用法として、同じく「natural(ナチュラル)」を表す意味。

後の「道程」の、「ああ、自然よ」などもそうですが、光太郎曰くの「自然」は、「nature(ネイチャー)」である大自然、自己内部の天性に対し、「natural(ナチュラル)」に従うこと、といった意味で使われているように思われます。

にっぽんトレッキング100「絶景満載!峡谷のクラシックルート~長野・上高地~」。

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テレビ放映情報です。 

にっぽんトレッキング100「絶景満載!峡谷のクラシックルート~長野・上高地~」

NHK BSプレミアム 2017年1月25日(水)  19時00分~19時30分 

北アルプスの玄関、長野・上高地。今ではバスで直行できるこの場所も、かつては徒歩で二日かけて歩いた。そんなクラシックルートを辿り、知られざる穂高岳の絶景に出会う。

穂高や槍ヶ岳の玄関口として知られる上高地。そこへ向かうかつての登山道は、今「クラシックルート」と呼ばれ、脚光を浴びている。目の当たりにしたのは、七色に染まる峡谷の山肌。日本の近代登山の父と呼ばれるウォルター・ウェストンは、それを「驚嘆すべき色彩の響宴」と評した。さらにその先には「日本で一番雄大な眺望」とたたえた絶景が待っているという。著名な登山家たちが愛した風景を辿り、手付かずの大自然を満喫する。

出演 仲川希良  語り 渡部沙弓

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昨秋、番宣的な特集番組「ザ・プレミアム にっぽんトレッキング100 紅葉 温泉 秋のオススメ BEST10!」放映されました。その中でも、大正2年(1913)に婚前旅行で上高地を訪れた光太郎智恵子にちらっと触れられました。そこでベスト10として紹介した山々を、今年に入ってからおのおの30分で詳しく取り上げています。

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そして上高地クラシックルート編が、来週水曜日の放映。

事前に制作会社さんからレファレンスがあり、岩魚止に聳え、後に光太郎智恵子が共にその思い出を語っている、桂の巨木についてご教示申し上げました。そのあたりは一昨年、山岳雑誌『岳人』さんに書かせていただきました。尺の都合などでカットされなければ、そういった話が出るものと思われます。

ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

おれの魂をつかんでくれ おれの有り様(やう)を見つめてくれ 「夜目遠目笠のうち」 そればつかりは真平(まつぴら)だ

詩「カフエにて」 大正元年(1912) 光太郎30歳

「夜目遠目笠のうち」は、よく見えないものを、実際よりずっと美しいものに仕立ててしまうものだということ。買いかぶらずに、醜さや汚さも内包した生身の「高村光太郎」を見てくれ、という内容です。

誰に? やはり、智恵子に、でしょう。

三重県立美術館「再発見!ニッポンの立体」。

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三重県から企画展情報です。

昨年から始まり、群馬県立館林美術館さん、静岡県立美術館さんを巡回した企画展の、最終会場となります。 
期  日 : 2017年1月24日(火)~2017年4月9日(日)
会  場 : 三重県立美術館  三重県津市大谷町11番地
時  間 : 午前9時30分~午後5時  (入館は午後4時30分まで)
休 館 日 : 月曜日(祝日休日にあたる場合は開館、翌日休館)
料  金 : 一般1,000(800)円 学生800(600)円 高校生以下無料 ( )内は20名以上の団体料金、前売り料金

―土偶、仏像、人形からフィギュアまで約150点、大集合―
 日本には古くから仏像、神像、人形、置物、建築の彫物など、生活や信仰に結び付いた豊かな立体表現があります。ところが明治時代に入り西洋の彫刻が伝えられて以降、彫刻とそうでないものとに分けられたために日本古来の立体造形の多くは正統的な美術(ファイン・アート)として位置づけられませんでした。それでも、江戸時代以前の造形感覚が忘れられることはなく、精巧な技術を駆使して本物そっくりに似せることを目指したもの、それとは正反対の誇張や変形、単純化、戯画化などを加えたもの、小さなものや自然に寄せる日本人の感性に根ざしたもの等がつくられ、鑑賞され続けてきました。こうした流れは、現代のフィギュアやマスコットなどにも受け継がれているといえます。
 本展では、ジャンルを超えた多彩な立体表現約150点により、日本における立体表現が近代という時代の波を乗り越え、現在までどのように展開してきたのかを探ります。

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関連行事

美術セミナー 「再発見!ニッポンの立体」展にちなんで
 1月28日(土)午前10時-午前11時30分
 講師:毛利伊知郎(三重県立美術館顧問) 会場:亀山市文化会館 2階 会議室(亀山市東御幸町63)
 事前申込不要、参加費無料

アーティスト・トーク
 本展の出品作家が、出品作やこれまでの制作について、作品を前にお話します。
 2月11日(土) 保井智貴 2月25日(土) 棚田康司 3月18日(土) 中谷ミチコ
 いずれも午後3時から(40分程度を予定)参加には企画展観覧券が必要です。

ギャラリートーク
 担当学芸員が展示室内で展覧会や作品についてわかりやすくお話しします。
 1月29日(日)、2月12日(日)、3月12日(日)、3月26日(日) いずれも午後2時から(1時間程度)

週末限定!だるま絵付け体験
 展覧会カタログの表紙にもなっている「高崎だるま」のミニサイズに絵付けをしてみませんか。
 水性ペンで模様を描いたり、布や紙をコラージュしたりしてオリジナルなだるまを作りましょう。
 だるまは持ち帰ることができます。
 開催日:会期中の土日祝日 場所:エントランスホール 参加無料・各日40個限定で、なくなり次第終了


光太郎のブロンズ彫刻が2点、「裸婦坐像」(大正6年=1917)、「大倉喜八郎の首」(同15年=1926)。光雲の木彫も2点、。「江口の遊君」(明治32年=1899)、「西王母」(昭和6年=1931)が展示されるはず(電話で問い合わせてみたのですが、今一つ要領を得ませんでした)です。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

妥協は禁制 円満無事は第二の問題 己は何処までも押し通す、やり通す

詩「狂者の詩」より 大正元年(1912) 光太郎30歳

旧態依然の日本美術界に、欧米仕込みの新風を吹き込む闘いの中で生まれた詩句です。この詩を書いた直前には、京橋の読売新聞社で第一回ヒユウザン会展が開催され、油絵を出品していました。

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