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町田市民文学館ことばらんど「野田宇太郎、散歩の愉しみ-「パンの会」から文学散歩まで-」展。

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東京都町田市の町田市民文学館ことばらんどさんで開催中の企画展示です。 

野田宇太郎、散歩の愉しみ-「パンの会」から文学散歩まで-

会   期 : 2017年1月21日(土曜日)から3月20日(月曜日)
場   所 : 町田市民文学館ことばらんど 東京都町田市原町田4丁目16番17号
時   間 : 10時から17時
休  館  日 : 毎週月曜日(ただし、3月20日は開館)、毎月第2木曜日
料   金 : 無料

野田宇太郎は、若き日には九州・久留米を舞台に詩人として活躍し、上京後は文芸書の出版で定評のあった小山書店をはじめ、第一書房、河出書房で文芸誌の編集に携わりました。この間、編集者として多くの作家や芸術家と親しく交わります。昭和20年10月、終戦から僅か2カ月後、敬愛した木下杢太郎の死に接した野田は、近代日本文学を専門とする研究者人生をスタートさせます。戦争によって、がらりと表情を変えた東京の町を歩きながら、彼が街並みのそこかしこに見出していたのは、かつての古き佳き東京の面影と失われつつある文学の痕跡でした。やがて、野田は「文学散歩」を通じて発見した文学の痕跡から、時代を遡行することで明治末期の文芸運動<パンの会>を見出します。それは、隅田川にフランスのセーヌ川を重ねたかつての<パンの会>の青年詩人や画家たちと同様に、旺盛な創造力を駆使した野田の新たな文芸復興運動ともいえるでしょう。
本展は、文学に「散策する愉しみ」を拓いた野田宇太郎の仕事を、彼が散策の途上で「見つめていたもの」を通じて再考する試みです。

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 1月24日、2月7日、2月26日、3月20日、ギャラリートーク(展示解説)


サブタイトルにある「パンの会」は、明治41年(1908)から45年(1912)にかけ、浅草周辺で開催された新興芸術運動。光太郎も欧米留学からの帰国(明治42年=1909)と同時にその狂躁に巻き込まれ、後には発起人にも名を連ね、数々のエピソードを残しています。
 
福岡小郡出身の詩人・野田宇太郎は、文学史研究の分野でも大きな足跡を残し、雑誌『文学散歩』を主宰したり、「パンの会」当時の研究をしたりもしています。昭和24年(1949)には『パンの会』という書籍を刊行、同26年(1951)には改訂増補版として『日本耽美派の誕生』を上梓しました。

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雑誌『文学散歩』では、昭和36年(1961)10月号で、「特集 十和田湖」を組み、草野心平や谷口吉郎らの寄稿を仰いで光太郎最後の大作「乙女の像」を紹介しています。表紙はその歿後に光太郎がアトリエを借りて「乙女の像」を製作した、水彩画家・中西利雄が描いた十和田湖周辺の絵です。

『パンの会』は光太郎にも贈られ、光太郎からの礼状も残っています。

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光太郎と関わる展示もありそうです。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

土壌は汚れたものを恐れず 土壌はあらゆるものを浄め 土壌は刹那の力をつくして進展する
詩「五月の土壌」より 大正3年(1914) 光太郎32歳


立春も過ぎ、南関東では土の匂いにも春が感じられるようになってきました。今日は珍しく雪が舞っていますが。

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この雪も土壌に吸いこまれ、草木の糧となってゆくのでしょう。

文京区立森鷗外記念館コレクション展「死してなお―鴎外終焉と全集誕生」。

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昨日に引き続き、光太郎周辺人物に関する展示情報です。 

コレクション展「死してなお―鴎外終焉と全集誕生」

会   期 : 2017年2月2(木) ~ 2017年 4月2日(日)
場   所 : 文京区立森鷗外記念館 東京都文京区千駄木1-23-4
時   間 : 10時~18時(最終入館は17時30分)
休  館  日 : 2月27・28日(月・火)、3月28日(火)
料   金 : 一般300円(20名以上の団体:240円)
         ※中学生以下無料、障がい者手帳ご提示の方と同伴者1名まで無料

  文豪・森鴎外は、大正十一年七月九日午前七時、自宅観潮楼でその生涯を終えました。
 死の間際まで職務に励み、また著作のための調査に努め、自らの不調を自覚しながらも診療を拒み続けました。鴎外は死に直面しながら、どのような心持ちで最期の日々を過ごし、どのような言葉を遺したのでしょうか。当館には、鴎外の終焉に関する資料が多数遺されています。これらの資料を一挙展示し、鴎外逝去までの日々に迫ります。
 鴎外逝去から十余日後、鴎外の葬儀委員長を務めた与謝野寛のもとに、『鴎外全集』刊行の企画が舞い込みました。寛は、鴎外と親交の深かった平野万里や永井荷風らを中心とした編集会を結成し、『鴎外全集』刊行に着手します。鴎外顕彰の第一歩とも言える『鴎外全集』刊行の経緯を、与謝野寛の書簡を中心に辿ります。
 鴎外が、死してもなお人々の記憶に残り、現代まで顕彰され続けるのは、鴎外を親しみ敬ってきた先人たちの尽力にほかなりません。鴎外終焉の地であり、鴎外の業績を顕彰する文京区立森鴎外記念館で、生から死へ、死から再生へと向かう鴎外の姿を追います。

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関連行事

ギャラリートーク  展示室2にて当館学芸員が展示解説を行います。
平成29年2月15日、3月8日、22日 いずれも水曜日14時~(30分程度) 申込不要(展示観覧券が必要です)

展示関連講演会  「与謝野夫妻の崇敬の師 森鴎外」 講師:逸見久美氏(元聖徳大学教授)
 日時:平成29年3月11日(土)14時~15時30分
 会場:文京区立森鴎外記念館2階講座室
 定員:50名(事前申込制)
 料金:無料
 申込締切:平成29年2月24日(金)必着
※申込み方法はこちら


展示も興味深いのですが、当方、関連行事の講演の方に興味をひかれております。

講師の逸見久美先生は、与謝野夫妻のご研究の第一人者。当方、二度、ご講演を拝聴いたしました。
どちらも素晴らしいご講演でした。

また、渡辺えりさんご同様、お父様が光太郎と交流がおありで、そのため連翹忌にもご参加下さっています。

さらに、一昨年には、NHK Eテレさんで放映された生涯教育の番組「趣味どきっ!女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門」の「第2回 愛と情熱の歌人 夫のための百首 与謝野晶子」にご出演。

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同じ番組の第5回が「智恵子、愛と死 自省の「道程」 高村光太郎×智恵子」でした。そこで少しだけ番組製作のお手伝いをさせていただきましたが、NHKさんに仲介して下さったのが逸見先生でした。

そうした恩義もありますし、それぞれ光太郎の師である与謝野夫妻と鷗外に関わるご講演ということで、参上いたすべく考えております。

皆様もぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

いのる言葉を知らず ただわれは空を仰いでいのる 空は水色 秋は喨喨と空に鳴る
詩「秋の祈」より 大正3年(1914) 光太郎32歳

季節外れで済みません(笑)。このコーナー、『高村光太郎全集』を第1巻からほぼ掲載順に、「これは」と思うフレーズを書き出していますので、こういう現象が起こります。しかし、「早春」もまた喨々と空に鳴っているような気もします。

詩「秋の祈」は、光太郎第一詩集『道程』のために書き下ろされたと推定されます。この後、光太郎はしばらく詩作の筆を置きます。評論や随筆などの散文は書き続けますが、一番金になったということで、ロダン関係などの翻訳が目立ちます。しかし、ただ金のためではなく、翻訳を通し、自らの芸術論を固めていったと思われます。

スタジオパークからこんにちは クローズアップあおもり「十和田湖をみつめて」。

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テレビ放映情報です。 

スタジオパークからこんにちは クローズアップあおもり「十和田湖をみつめて」

NHK総合 2017年2月15日(水)  14時05分~14時54分

国立公園に指定されて今年で80年を迎えた十和田湖。NHKがこの1年撮影してきた四季折々の雄大な風景と湖畔の人々の営みを美しい映像とともにたっぷりとお送りします。

鮮やかな新緑、澄み渡る空の青、燃えるような紅葉、真っ白な雪景色…。山々の色彩を鏡のように映し出す十和田湖には、四季折々の魅力が詰まっています。十和田湖から流れ出る奥入瀬渓流の美しさも、人々の心を引きつけてやみません。一方、湖畔を開拓して暮らしてきた地イメージ 2元の人たちは、厳しい自然の中でさまざまな努力や工夫を重ね、山と湖の恵みをうけて生活を営んできました。湖が育む豊かな動植物と人々の暮らしを見つめます。

出演 比嘉愛未
キャスター 亀谷渉子
司会 榊原郁恵 伊藤雄彦


この番組は第1部と第2部に分かれ、第2部では各地のNHK支局がその地域向けに放送した地域情報番組を全国放送しています。

そこで、青森放送局製作の「クローズアップあおもり「十和田湖をみつめて」」が放映されます。青森では昨年4月にオンエアがありました。

その際のスタッフさんのブログへのリンクです。

光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のライトアップも為されている「十和田湖冬物語」が先週開幕した十和田湖が扱われます。乙女の像が少しでも映ってほしいものです。


【折々のことば・光太郎】イメージ 1

わが家(や)の屋根は高くそらを切り その下に窓が七つ 小さな出窓は朝日をうけて まつ赤にひかつて夏の霧を浴びてゐる

詩「わが家」より 大正5年(1916) 光太郎34歳

智恵子との結婚披露、及び詩集『道程』の上梓から、ほぼ2年ぶりに発表された詩です。

智恵子との愛の巣であった駒込林町のアトリエ兼住居を高らかに歌い上げています。

しかし、およそ20年後には同じアトリエが「ばけもの屋敷」と表現されることになります。

田口弘氏訃報。

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去る9日、生前の光太郎と交流のあった埼玉県東松山市の元教育長・田口弘氏が亡くなりました。

『朝日新聞』さんから。 

田口弘さん死去

 田口弘さん(たぐち・ひろし=元埼玉県東松山市教育長)9日、多臓器不全で死去、94歳。通夜は14日午後6時、葬儀は15日午前10時から東松山市松山町2の8の32の東松山斎場で。喪主は長男光夫さん。

 1976年から93年まで東松山市教育長。日本ウオーキング協会副会長も務め、2009年度の朝日スポーツ賞を受賞した。


同紙の埼玉版には、追悼記事的なものも掲載されました。氏の人となりを知るには恰好の内容です。 

人生にじむ深いまなざし 田口弘さんを悼む

 東松山市の元教育長、田口弘さんが9日に94歳で亡イメージ 1くなった。高校野球史に残る大敗、戦地からの帰還、詩人・高村光太郎との交流、日本一のウォーキング大会実行委員長……。温かい視線に人生がにじむ「深いまなざしの人」だった。
 田口さんの詩集「四季『こころの詩』より」(2007年)には、太平洋戦争の記憶が繰り返し出てくる。1944年、海軍所属の日本語教員として向かったフィリピン沖で、乗っていた船が米軍の攻撃で沈没。竹につかまり漂流する。
 横須賀港を一緒に発った300人の中で陸にたどりついたのは約30人。「さらに生きのびて終戦を迎えたのは私だけかもしれない」と語っていた。その後、インドネシアへ空路転進する途中のバシー海峡で、撃沈された艦船から流れた重油が覆う「黒い海」を見た。
 戦争の記憶は彩りのない「黒」だった。生死の境をさまよい、「生かされている」が人生の実感になったという。高村光太郎とのつながりも戦争を抜きには語れない。旧制松山中学時代の恩師に連れられ、心酔する高村を訪ねた。
 「世界はうつくし」「美しきもの満つ」と書いてもらった色紙を手に戦地に赴いたが、船が沈み失った。インドネシアでの捕虜生活を経て46年に帰還。再会した高村の筆に望んだのは同じ言葉だった。そんな交流を通じて集まった書簡類約100点を昨年、東松山市に寄贈した。
 野球での大敗は、松山中時代の36年夏。エースのけがで豊岡実に0―72で敗れた試合を、控えの2年生捕手として見ていた。98年に全国高校野球選手権記念青森大会で0―122の記録が出るまで62年間「最多失点の全国記録」だった。
 2008年、球史を顧みるインタビューを受け「屈辱だとは思わない。先輩たちは棄権しようともせず、正々堂々と戦った。結果だけでなくプロセスを大事にした野球があってもいい」と語っている。田口さんらしい言葉だ。
 東松山市教育長としては日本スリーデーマーチを育てた。国内草分けのウォーキング大会で、当初は参加料を払ってただ歩くことへの理解が広がらなかった。実行委員長を12年務め、打ち出したのは「ウォーキング・ルネサンス」。歩いて自己改革する「人間再生」を訴え続けた。
 大会コースの途中に、東武東上線高坂駅から続く「ブロンズ通り」がある。高村やガンジーの像など、日本を代表する彫刻家高田博厚の作品を30余り集めた。毎年、延べ10万人前後の参加者が集まるようになった大会は今秋で40回目。田口さんの思いを実現した「通り」を歩き、追悼する人も多いだろう。(高橋町彰)


当方、田口氏とは十数年前の連翹忌で知遇を得、一昨年にはご自宅にお邪魔させていただきました。その際のレポートには書きませんでしたが、敬虔なキリスト教徒でもあった氏は、「そろそろ天に召されるだろうから、いわゆる「終活」として、手元にある光太郎関連資料の処分をどうするか考えている」とのことでした。

当会にご寄贈くださる、というお話もあったのですが、拝見した数々の資料、この地にあってこそのものと存じ、市なり県なりにご寄贈なさる方が……と申し上げておきました。

その通り、昨年、市にご寄贈され、ニュースになりました。市では市立図書館で展示及び氏の講演会も開催。

ご講演を拝聴し、まだまだお元気で、安心していたのですが……。

記事にある「彫刻通り」に関してはこちら。記事にはない、同市に建つ光太郎碑についても書いてあります。

さらに日本スリーデーマーチの件。


謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

花のひらくやうに おのづから、ほのぼのと ねむり足りて めざめる人 その顔幸(さいはひ)にみち、勇にみち 理性にかがやき まことに生きた光を放つ

詩「花のひらくやうに」より 大正5年(1916) 光太郎34歳

やはり睡眠は大切ですね。このところ、コタツなどで数時間ずつ細切れに眠るという、余り良くない習慣が身についてしまっており、反省しています。

上記田口弘氏。永遠(とわ)の眠りに就かれました。しかし、戦時中、九死に一生を得たそのお命を、戦後はさまざまな方面で人々のために使われ、そして「終活」。まことに見事な生き様でした。

二度と目覚められることはありませんが、おそらくそのお顔は「幸(さいはひ)にみち、勇にみち 理性にかがやき まことに生きた光を放」っているのでは、と存じます。

「智恵子から光太郎へ 光太郎から智恵子へ ~民話の世界・光太郎と智恵子の世界~」。

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千葉県柏市から、公演情報です。 

智恵子から光太郎へ 光太郎から智恵子へ  ~民話の世界・光太郎と智恵子の世界~

期   日 : 2017年2月24(金)
場   所 : アミュゼ柏 クリスタルホール 千葉県柏市柏6-2-22
時   間 : 開場14:00 開演14:30
料   金 : 3,000円
主   催 : 民話の世界・光太郎と智恵子の世界実行委員会

プログラム  演出:成瀬芳一
  <第一部>民話の世界  ・耳無し芳一 ・ベロ出しチョンマ
  <第二部>光太郎と智恵子の世界
   ・智恵子抄三章    詩 高村光太郎  作曲  青木省三
   ・星になった智恵子  作 佐藤直江    監修  山田典子

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第二部が「智恵子抄」系で、「歌と朗読とピアノのコラボ」だそうです。

同じ千葉県内ということもあり、拝聴に行ってこようと思っております。皆様も是非どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

天然の ふかい呼吸に こころは 沈みまたをどる

詩「海はまろく」より 大正5年(1916) 光太郎34歳

まだまだ寒い日が続きますが、日の光などからは確実に春を感じます。春というと、「春の息吹」という語をよく耳にします。冬の間、息をひそめていた山川草木禽獣虫魚が、ゆっくゆっくり、息を吹き返すようなイメージでしょうか。毎朝、だいたい夜明けとともに愛犬と散歩に出かけますが、地球が呼吸をしているな、と感じる今日この頃です。

谷口ジロー氏訃報。

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今朝の新聞各紙に漫画家の谷口ジロー氏の訃報が出ました。

『朝日新聞』さんから。 

漫画家の谷口ジローさん死去 「孤独のグルメ」

 「『坊っちゃん』の時代」や「孤独のグルメ」などで知られるイメージ 1漫画家の谷口ジロー(たにぐち・じろー、本名谷口治郎〈たにぐち・じろう〉)さんが11日、多臓器不全で死去した。69歳だった。葬儀は家族だけで行う。
 鳥取市出身。19歳で上京し、漫画家のアシスタントを経てデビュー。92年に「犬を飼う」で小学館漫画賞、98年に作家の関川夏央さんと手がけた「『坊っちゃん』の時代」で手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞した。久住昌之さん原作の「孤独のグルメ」は、雑貨輸入商を営む男性が1人で食事を満喫する自由を描いて人気となり、テレビドラマ化された。
 海外でも評価され、11年に仏芸術文化勲章「シュバリエ」を受けた。
 「孤独のグルメ」の主人公を演じた俳優の松重豊さんはブログで、「原作のようにハンサムじゃなかったけれど、先生の作品に出られて光栄でした。心よりご冥福をお祈りいたします」とのコメントを出した。


代表作の一つ、「『坊ちゃん』の時代」は、全5部にわたる大作で、昭和62年(1987)から平成8年(1996)にかけ、双葉社さんの『漫画アクション』に連載されました。作家の関川夏央氏の原作、谷口氏の作画です。明治の文学者たち一人ずつを各部の主人公に据え、彼らを取り巻く人間群像を描いています。

ラインナップは以下の通り。 第1部が「「坊っちゃん」の時代」、主人公は夏目漱石。第2部に「秋の舞姫」、同じく森鷗外。第3部で「かの蒼空に」、石川啄木。第4部は「明治流星雨」、これのみ文学者ではなく、幸徳秋水が主人公です。そして第5部「不機嫌亭漱石」で再び夏目漱石。明治43年(1910)の「修善寺の大患」を以て、物語は完結。ほぼ明治後半を舞台としています。各部とも「凛冽たり近代 なお生彩あり明治人」をサブタイトルとしています。昨今の「文豪」ブームの火付け役とも言えるでしょう。これをNHKさんの大河ドラマの原作に、と推す声も根強くあり、当方も同感いたしております。

さて、以前にもご紹介しましたが、啄木を主人公とした第3部「かの蒼空に」には、智恵子が登場します。

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明治42年(1909)、市電の中で、啄木が平塚らいてうと智恵子に偶然出くわし、らいてうに向かって無遠慮に、前年、漱石門下の森田草平と起こした心中未遂について尋ねるというくだりです。失礼な啄木に智恵子の平手打ちが炸裂します。

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あくまでフィクションですが、あり得る話です。

さらに同じ第3部では、光太郎が海外留学から帰国する直前の「パンの会」が描かれ、出席者たちが光太郎の噂話をしています。

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光太郎智恵子のエピソードはこれだけですが、綺羅星の如き2人の周辺人物があまた登場、虚実織り交ぜて明治の人間ドラマが描かれます。関川氏の原作もさることながら、谷口氏の緻密かつ圧倒的な画力が光り、第1部刊行当時には、「漫画もここまできたか」と感心させられました。

第5部完結後、それで終わるのは非常に残念に感じ、「明治」を引きずり続けた「明治人」ということで、光太郎を主人公にした第6部を作ってくれないかな、などと思っていました。ある意味、関川氏は雑誌『婦人画報』さんに連載され、NHK出版さんから単行本化された「「一九〇五年」の彼ら」で、「『坊っちゃん』の時代」の補遺的に光太郎らを描いて下さいました。それを元に谷口氏の作画で新作を、と期待していましたが、それも叶わず谷口氏のご逝去……。

非常に残念ですが、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

歩いても、歩いても 惜しげもない大地 ふとつぱらの大地  歩いても、歩いても 天然は透明 しんそこわだかまるものもない

詩「歩いても」より 大正5年(1916) 光太郎34歳

大正5年(1916)といえば、漱石が歿した年です。同元年(1912)には、文展(文部省美術展覧会)への評を巡って、光太郎が漱石に喧嘩を売るような文章を発表しています。結局、「大人」だった漱石が黙殺する形で終わっていますが、その後、智恵子との結婚を経て、心の平安を得ていた光太郎も、もはや漱石には「しんそこわだかまるものもない」と感じていたのではないかと思われます。

千代田区立千代田図書館展示「検閲官 ―戦前の出版検閲を担った人々の仕事と横顔」。

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唯一定期購読している雑誌、『日本古書通信』さんの今月号が届きました。その中で、以下のイベントが紹介されていました。 

展示 検閲官 ―戦前の出版検閲を担った人々の仕事と横顔

期   日 : 2017年1月23日(月)~4月22日(土)
場   所 : 千代田区立千代田図書館9階 展示ウォール 千代田区九段南1-2-1千代田区役所9階・10階
時   間 : 月~金 午前10時~午後10時  土 午前10時~午後7時  日・祝 午前10時~午後5時
休  館  日 : 2月25日(土曜日)~27日(月曜日)、3月26日(日曜日)
料   金 : 無料

主   催 : 千代田区立千代田図書館
協   力 : 浅岡邦雄氏、牧義之氏、村山龍氏、安野一之氏(千代田図書館「内務省委託本」研究会)、
         人首文庫、県立長野図書館

戦前の日本では、中央官庁の一つであった内務省が出版物の検閲を行っており、全国で出版されたさまざまな書物が内務省に納本されていました。それらの書物を手に取って発売頒布の可否を決定していたのが、警保局図書課の検閲官たちです。
近年、出版検閲に関する研究が進み、制度としての側面は徐々に明らかになってきた一方で、個々の検閲官についての研究はほとんど報告されていません。それは、資料がそもそも少なく、また、彼らがどのような人生を送っていたのか、『出版警察報』などの内部文書からではわからないためです。
今回の展示では、新発見の資料とこれまで断片的に存在していた情報をつなぎ合わせることで、検閲官の実像に迫ります。図書課の人員体制や業務分担など、検閲官の全体像をパネルで解説し、関連する書籍を展示・貸出します。また、4人の検閲官をとりあげ、仕事内容や異動・昇進などのキャリアパス、さらにプライベートを含めて人物像を紹介し、彼らの仕事と横顔を今に伝える貴重な資料をケースにて展示します。

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関連行事

併設展示 県立長野図書館所蔵 出版検閲関連資料

検閲によって禁止や削除などの処分を受けた出版物は、各地の公共図書館でも所蔵している場合がありました。処分が決裁されるよりも先に市場へ流通し、図書館が購入したためです。処分についての情報は、内務省から警視庁へ、そして各地方の警察から管轄の図書館へ主に電話を使って通達されました。それを受けて、図書館では該当出版物の自主的な閲覧制限、ページの切り取り、警察への現物の引き渡しなどが行われていました。今回展示する県立長野図書館の事務文書綴り(4種9点)からは、戦前の公共図書館が検閲制度とどのように向き合っていたのか、その一端を読み取ることができます。



検閲官の実像にせまるⅠ

 第一部 検閲官の実像にせまるⅠ ―エリートとたたき上げ―
 第二部 図書館と出版検閲 県立長野図書館の事務文書から
戦前の検閲制度に関する調査・研究が進む中で、現場で働いていた内務省警保局の検閲官の実像も少しずつわかってきました。今回の展示でもとり上げた土屋正三らエリート官僚と、図書課内のたたき上げであった安田新井など、個々の検閲官に焦点を当てて、調査から見えてきた彼らの実像について解説します。また、戦前の図書館と検閲制度がどのような関係の中にあったのか、県立長野図書館の事務文書から読み解いて行きます。
講 師 : 安野一之氏(NPO法人インテリジェンス研究所事務局長)
        牧義之氏(長野県短期大学多文化コミュニケーション学科助教)
        槌賀基範氏(県立長野図書館資料情報課情報係主任)
日 時 : 2017年2月11日(土曜日・祝日)午後2時~4時(午後1時30分開場)
場 所 : 千代田区役所4階 401会議室
定 員 : 80名(事前申込制・参加無料・先着順) 終了しました。


検閲官の実像にせまるⅡ ―文学青年だった検閲官―

警察出身者が多い検閲官の中で、佐伯郁郎と内山鋳之吉は文学部卒という異色の経歴を持つ人物です。彼らは職務として検閲する一方で、佐伯は詩人、内山は演劇人という顔も持っていました。検閲する側でありながら、時に検閲される側にもなった彼らの足跡を追いながら、一個の人間としての検閲官像を浮かび上がらせます。
講 師 : 安野一之氏(NPO法人インテリジェンス研究所事務局長)
        村山龍氏(慶應義塾大学非常勤講師)
日 時 : 2017年3月4日(土曜日)午後2時~4時(午後1時30分開場)
場 所 : 千代田図書館9階 特設イベントスペース
        ※都合により会場を変更したため、チラシの表記と異なります。ご注意ください。
定 員 : 70名(事前申込制・参加無料・先着順) 千代田区立図書館の貸出券をお持ちの方対象


タイトルを見て、ぱっと頭に浮かんだのが、佐伯郁郎。戦前から光太郎と交流がありました。果たして佐伯に関する展示、講演も入っています。

当方、佐伯の生家に設置された史料館・人首文庫さんにお邪魔したことがあり、その前後、書簡や詩稿、古写真のコピーなど、光太郎関連のさまざまな資料をご提供いただいております。今回の企画にも協力なさっていますね。

以前にも書きましたが、『智恵子抄』(昭和16年=1941)刊行などの陰に、佐伯の尽力があったのではないかと、当方は考えています。

『智恵子抄』には詩や短歌の他に、書き下ろしではありませんが散文も三篇収められています。そのうち昭和15年(1940)の『婦人公論』に載った「智恵子の半生」(原題「彼女の半生-亡き妻の思ひ出」)には、以下の記述があります。

美に関する製作は公式の理念や、壮大な民族意識といふやうなものだけでは決して生れない。さういふものは或は製作の主題となり、或はその動機となる事はあつても、その製作が心の底から生れ出て、生きた血を持つに至るには、必ずそこに大きな愛のやりとりがいる。それは神の愛である事もあらう。大君の愛である事もあらう。又実に一人の女性の底ぬけの純愛である事があるのである。

大君=天皇と、一人の女性を同列に並べたこの表現、当時の社会状況を考えると、読みようによっては不敬のそしりを免れないものです。

また、詩篇の中には公然と愛欲や性行為を謳ったものも含まれ(健康的な感じなのですが)、これも発禁対象とされてもおかしくありません。

しかし、『智恵子抄』は戦時にも関わらず、終戦までに13刷もの増版を重ねました。当方にはその陰に、光太郎を敬愛していた佐伯の影がちらついて見えるのですが、どうでしょうか。


講演は千代田区立図書館の貸出券をお持ちの方対象らしいので聴けませんが、展示の方は拝見に伺おうと思っておりますし、佐伯についてももう少し調べようと思っております。

出品目録はこちら。皆様も是非どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

止め度なく湧いて来るのは地中の泉か こころのひびきか しづかにして力強いもの 平明にして奥深いもの 人知れず常にこんこんと湧き出るもの ああ湧き出るもの 声なくして湧き出でるもの 止め度なく湧き出でるもの すべての人人をひたして すべての人人を再び新鮮ならしめるもの しづかに、しづかに 満ちこぼれ 流れ落ちるもの まことの力にあふれるもの

詩「湯ぶねに一ぱい」より 大正5年(1916) 光太郎34歳

「地中の泉」=「温泉」ですが、とめどなく湧き出るそのさまを、自らの詩にも仮託しています。自らの詩も温泉のように、人々の癒しや活力たらんことを願っていたのでしょう。

DVD「愛と平和への願い ~乙女の像のものがたり~」。

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昨年、十和田市内で朗読劇「乙女の像のものがたり」を上演なさった劇団エムズ・パーティーさんから、ほぼ同じ台本で作成されたDVDが届きました。

約1時間の内容で、一昨年、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さんの編集で刊行された『十和田湖乙女の像のものがたり』中の、当方執筆によるジュブナイルを原作としています。

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早速、拝見。

物語は昭和26年(1951)春、花巻郊外太田村に隠遁中の光太郎を草野心平が訪れ、帰京を促すシーンから始まります。しかし光太郎は、「まだその時ではない」と拒否。「君だって、なぜ僕がこんな山の中に居るのかわかっているだろう」と諭します。

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そこで時計の針が巻き戻され、ここまでの光太郎の生涯の俯瞰。高村光雲の跡継ぎとして彫刻の道に入り、ロダンの彫刻を見て本物の芸術に眼を開かされ、画家志望の智恵子との出会い・結婚、そして独自の芸術を切り開く姿。しかし智恵子は絵画制作に絶望し、心を病んで死亡。光太郎も時代の流れに翻弄され、軍の手先となって多くの戦争詩を書き、戦後は自ら蟄居生活に入ったこと……。

そして、周囲からの働きかけもあって、自らの彫刻の集大成として乙女の像を作るにいたった光太郎、その死までが描かれています。

書籍『乙女の像のものがたり』に使われた、安斉将氏のイラストや、古写真、美しい十和田湖周辺の風景などの静止画に交じって、太田村の山小屋や乙女の像の制作風景、除幕式の様子などの動画も使われ、非常にイメージしやすく作ってありました。

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声の出演の方々は、朗読劇公演の際には10数名だったのが、倍増。一般市民の方も混ざっているそうですが、皆さん、熱演されています。せりふやト書きは全てテロップで表示され、耳の不自由な方にも対応されています。

自分で書いた物語ながら、クライマックスのあたりではうるっと来てしまいました(笑)。


十和田市さんの「元気な十和田市づくり市民活動支援事業」による助成を受けての制作だそうで、ここまでのクオリティーですと、自費負担ではとても制作できなかったと思われます。ナントカ市場とは違って、正しい税金の使い方ですね(笑)。

今後、学校や観光バス会社、施設などへ無償配布され、さらに販売も考えていらっしゃるそうです。そのあたりの詳細が伝わって参りましたら、またご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

寒風に魂よろこび 野に走り出れば 路のぬかるみ悉くかがやき 水たまり静かに天上の緑をうつす 烈風はなほも吹きつのり 吹きつのり 世界はいまや浄められようとする
詩「晴れゆく空」より 大正5年(1916) 光太郎34歳

冒頭近くに「十二月」の語があり(まぁ、「寒風」ですから、それがなくとも、ですが)、やはり光太郎が好んで作った冬の詩の一環であることが分かります。雨上がりで埃が舞っていない空を謳っています。

寒さの苦手な当方としては、春めいてきた今日この頃の陽気に「魂よろこび」という状態です。光太郎に「甘い!」と叱られそうです(笑)。





『十和田市観光情報ガイドブック』/「スタジオパークからこんにちは クローズアップあおもり 十和田湖をみつめて」。

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昨日ご紹介した、青森十和田市の劇団・エムズ・パーティーさんからいただいたDVD「愛と平和への願い ~乙女の像のものがたり」、市役所さんを経由して届きました。

一緒に封筒に入っていたのがこちら。

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A4判24ページオールカラー、豪華なパンフレットです。奥付等がないので、いつの発行かわかりませんが、比較的新しいもののようです。

光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」がそちこちに。

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現在開催中の、「十和田湖冬物語」の紹介でも。

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感謝いたしております。


十和田湖といえば、一昨日、NHK総合さんでオンエアされた「スタジオパークからこんにちは」の第2部で、青森放送局制作の「クローズアップあおもり 十和田湖をみつめて」が放映されました。

この番組は第1部と第2部に分かれ、第2部では「NHK54局からこんにちは」と題して、各地のNHK支局がその地域向けに放送した地域情報番組を全国放送しています。

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製作期間一年、四季折々の美しい自然や、そこに生きる人々の営みを追っていました。

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「乙女の像」も、冒頭タイトル部分と「夏」の部の終わりに、数秒ずつ2回出演(笑)。

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ありがたや。

BS放送などもあることですし、この手の番組の放映がもっと広まってほしいものです。


今年は十和田に行く機会がありそうで、一昨年以来です。皆様もぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

お前にただ一つ入用なのは力だ 力は何処から来る 力は天然から来る

詩「妹に」より 大正5年(1916) 光太郎34歳

「妹に」は、光太郎より11歳下の末妹・よしに宛てた詩です。光太郎には姉が2人いましたが、いずれも夭折。3番目に生まれた光太郎が長子となりました。それだけに弟妹思いの念は強かったようです。この詩の結句も、「邪念のない妹よ 兄はいつでもお前の後ろに立つてゐる」となっています。

第61回連翹忌御案内。

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今年も4月2日の光太郎命日、連翹忌が近づいて参りました。以下の要領で、第60回連翹忌を開催いたします。
 
当会名簿にお名前のある方には、要項を順次郵送いたしますので、近日中に届くかと思われます。
 
また、広く参加者を募ります。参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ということのみです。
 
下記の要領で、お申し込み下さい。詳細な案内文書等必要な方は、こちらまでご連絡下さい。郵送いたします。
 

第61回連翹忌御案内


                                       
日 時  平成29年4月2日(日
) 午後5時30分~午後8時
 
会 費  10,000円

 会 場  日比谷松本楼  〒100-0012 東京都千代田区日比谷公園1-2
      tel 03-3503-1451(代)

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第61回連翹忌へのお誘い                       
                                        
 もう新しい連翹忌の季節がまいりました。このところ世界中で生まれて初めてのような出来事が毎日のように続きますので、余計そんな気がするのでしょうか。考えて見ますと、高村さんと一緒に生きてきた昭和の初めから三十年代まで、いつも同じような時代が続いていたような気がします。
 
 そんな歴史が急に逆転の速度を速めてきたように見える時こそ、改めて高村さんの生涯を考え、世界の今日と明日、御近況のあれこれなどをお話し合いいただければ、どんなに力強く、意味深いことかと存じます。
 
 運営委員会からのさまざまな御報告や、たのしい催しものも用意してあります。
 
 今年の連翹忌は日曜日にあたりますが、いつものように日比谷公園松本楼の階上でお待ちしております。

連翹忌運営委員会顧問 北川太一

御参加申し込みについて

会費を下記の方法にて3月22日(水)までにご送金下イメージ 2さい。会費ご送金を以て出席確認とさせて頂きます。
 
ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

基本的に郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願い致します。ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネームがわかるよう、ご手配下さい。

会費お支払いは当日でもけっこうですが、事前にお申し込み下さい。
〒287-0041 千葉県香取市玉造3-5-13 高村光太郎連翹忌運営委員会


今年の連翹忌は日曜日です。来年以降、しばらく平日となります。「年度はじめの平日では無理」という方、この機会をお見逃しなく。

過去4年間の様子はこちら。


ご参加下さっているのは、光太郎血縁の方、生前の光太郎をご存じの方、生前の光太郎と交流のあった方のゆかりの方、美術館・文学館関係の方、出版・教育関係の方、美術・文学などの実作者の方、芸能関連で光太郎智恵子を扱って下さっている方、各地で光太郎智恵子の顕彰活動に取り組まれている方、そして当方もそうですが、単なる光太郎ファン。どなたにも門戸を開放しております。

繰り返しますが、参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ことのみです。

よろしくお願いいたします。


【折々のことば・光太郎】

忘れかけてゐた日の光が、窓かけを明けると、まばゆい強さに、 斜めに幅びろに機嫌よく流れ込んで、 白いシイツにつきあたる。 手にうけて握りたいほど、 活発に飛びはねるまるで生きものだ。

詩「かがやく朝」より 大正10年(1921) 光太郎39歳

「光の春」と称される2月も気がつけば後半です。「一陽来復」と言うには少し遅くなりました。朝の日の光も日に日に力強さを増しています。それを「手にうけて握りたい」と、触覚でとらえようとするあたり、彫刻家としての鋭敏な感覚が表されています。

そして春たけなわの頃には連翹忌。ご参加をお待ち申し上げております。

福島大学・うつくしまふくしま未来支援センター主催 新潟シンポジウム ほんとの空が戻る日まで。

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新潟からイベント情報です。 
日    時 : 2017年3月5日(日) 13:00~17:00
会    場 : 
新潟市東区プラザ ホール 新潟市東区下木戸1丁目4番1号(東区役所2階)
参  加  費 : 無料
参加対象  : 一般市民、大学関係者、学生、行政職員、福島県から避難している方 他
主     催 : 国立大学法人福島大学、福島大学うつくしまふくしま未来支援センター
共    催 : 国立大学法人新潟大学
後     援  : 文部科学省、復興庁、福島県、新潟県、新潟市、双葉地方町村会、
          日本赤十字社、公益社団法人経済同友会 他

  事前申し込みが必要です。   申込みはこちら →https://ws.formzu.net/fgen/S32789057/

東日本大震災及び福島第一原子力発電所事故から6年が経過しようとしています。原発周辺地域においては、避難指示が順次解除されることにより、住宅・医療・買物環境など生活に必要な機能も整備され、住民の帰還も着実に進んでおります。一方で、震災以前から地域が内包していた第一次産業の衰退や少子高齢化が急速に加速し、復興が進む中での新たな課題として表面化しています。今回のシンポジウムにおいては、福島県の現状を皆様にお伝えするとともに、復興を通して得られた福島の経験や知見を「経験知・支援知」として生かすことにより、少子高齢化社会に直面するこれからの地域のあり方について共に考えたいと思います。

【プログラム】
Ⅰ 部 基調講演 「震災経験が導くこれからの日本」
   講演者 飯尾 潤 氏 政策研究大学院大学 教授
Ⅱ 部 福島の現状報告
   福島の現状と課題          初澤敏生 FUREセンター長
   原発被災地の復興と市民の力     天野和彦 FURE地域復興支援部門特任准教授
   原子力災害からの福島県農業の再生  石井秀樹 FURE農・環境復興支援部門特任准教授
   -食と農の安全と安心-福島県における成長産業分野への取組
 安達和久氏 福島県商工労働部再生可能エネルギー産業推進監兼次長
Ⅲ 部 パネルディスカッション「震災・原発事故の経験を活かし将来を思考する」
   モデレーター  丹波史紀  福島大学行政政策学類准教授
   コメンテーター 飯尾潤 氏  政策研究大学院大学教授    初澤敏生  FUREセンター長
   パネリスト    遠藤雄幸 氏 福島県双葉郡川内村長
             稲垣文彦 氏 公益社団法人中越防災安全推進機構震災アーカイブス・メモリアルセンター長
             松井克浩 氏 新潟大学副学長
             高橋宏一郎 氏 共同通信社編集局科学部長兼原子力報道室長




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同じく福島大学うつくしまふくしま未来支援センターさんの主催で、光太郎詩「あどけない話」中の「ほんとの空」を冠したシンポジウムは、これまでに京都東京愛知いわきでそれぞれ開催されています。

東日本大震災から間もなく6年。しかし、ここにきてようやく福島第一原発のメルトダウン、メルトスルーの状況が明らかになってきたという状態で、本当の意味の復興にはまだまだというところです。ところが、この分野、人々の関心の風化との闘いという状態でもあります。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

此世で一番大切なものを一番むきに求めた人 人間の弱さを知りぬいてゐた人 人間の強くなり得る道を知つてゐた人 彼は自分のからだでその道を示した 天の火、彼
詩「クリスマスの夜」より 大正10年(1921) 光太郎39歳

「彼」はイエス・キリストです。光太郎はきちんと洗礼を受けたクリスチャンではありませんでしたが、聖書などは一通り読み、その教義を人生の指針の一つとしていました。この一節も、自分自身の求める道を表出したと読めると思います。


第61回連翹忌(2017年4月2日(日))の参加者募集中です。詳細はこちら

知恩院春のライトアップ2017。

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古都・京都に春を告げるイベントです。 
期   間  : 2016年3月3日(金)~12日(日
拝観時間  : 18時00分~21時30分(21時受付終了)
場   所  : 浄土宗 総本山知恩院(京都市東山区林下町400 ) 三門周辺、友禅苑、女坂、宝佛殿
拝 観 料 : 大人 500円  小中学生 300円

主な見どころ】

友禅苑
 友禅染の祖、宮崎友禅斎の生誕300年を記念して造園された、華やかな昭和の名庭です。池泉式庭園と枯山水で構成され、補陀落池に立つ高村光雲作の聖観音菩薩立像が有名です。

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宝物殿
 平成4年に建立。和様式重層寄棟造りで、堂内には高さ4.8mの阿弥陀如来立像、四天王が祀られています。

【聴いてみよう! お坊さんのはなし】
ライトアップ期間中、宝佛殿にて毎日開催 開始時間: (Ⅰ)18:15~ (Ⅱ)19:00~ (Ⅲ)20:00~ (各回15~20分程度)
 ※状況により開催時間が変更になる場合がございます
 「おかげさまの心」「お寺のお参りの心構え」「極楽と天国の違い」など、知恩院のお参りを通して、より仏教に 
 親しみを感じていただけるような内容になっています。お話の後には皆さんと共に木魚を打ちながら「南無阿
 弥陀佛」とお念佛をお称えします。
 知恩院の荘厳な空間の中、お坊さんと一緒に貴重な体験をしてみませんか?
 参加された方限定で3月25日(土)に開催する体験イベントのご案内をいたします。
 どうぞお楽しみにお待ちください。


光太郎の父・高村光雲原型の観音像についてはこちら

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

心の地平にわき起るさまざまの物のかたちは 入りみだれて限りなくかがやきます。 かうして一日の心の営みを わたしは更け渡る夜に果てしなく洗ひます。

詩「真夜中の洗濯」より 大正11年(1922) 光太郎40歳

「真夜中の洗濯」は、題名のとおり、深夜に衣類の洗濯をしている様を謳った詩です。大正年間ですので、洗濯機などという物は存在せず、風呂場で残り湯を使って洗っているようです。「一坪の風呂場」「桃いろの湯気」「盥(たらい)」という語が使われています。駒込林町のアトリエ兼住居には内湯があったのですね。銭湯通いであれば、もう少し近所づきあいなども増えて、智恵子の鬱屈も緩和されたかも知れませんが。

智恵子はこの詩には登場しません。洗濯は光太郎の分担だったのか、智恵子が一年の半分近くは実家に帰っていたというためなのか、少なくとも詩からは毎晩のように、一日の終わりを締めくくる行為として洗濯にあたっていることがうかがえます。

引用部分、洗濯は衣類の汚れを落とすだけでなく、自分自身の心の汚れも洗い落とす儀式のようです。


第61回連翹忌(2017年4月2日(日))の参加者募集中です。詳細はこちら

「追悼 田口弘氏(元東松山市教育長)」。

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今月9日に亡くなった、元埼玉県東松山市教育長にして、生前の光太郎と交流のあった田口弘氏の追悼ページが、同市のホームページ上にアップされました。


全国的に見ても非常に異例のことだと思いますが、それだけに氏の功績や人徳の大きさが偲ばれます。多年にわたり教育長を務められた他、東武東上線高坂駅から伸びる「彫刻プロムナード」(光太郎胸像を含む高田博厚作品群が設置)の整備、同市を会場とした「日本スリーデーマーチ」開催・運営への尽力、そして昨年の光太郎関連資料の寄贈などなど……。

動画投稿サイトYouTube上には、昨夏撮影された氏へのインタビューがアップされ、上記のページにも貼り付けられています。こちらでも転用させていただきます。


光太郎の日記は、明治末のもの、昭和20年(1945)に花巻に疎開した後のものを除くと、戦前・戦時中のものは空襲で灰になってしまいました。したがって、その出会いの頃の日記は残っていません。戦後のものも、昭和24年(1949)、25年(1950)の大半は失われています。

花巻郊外太田村の山小屋で書かれ、残っている戦後の日記に氏の名が初めて出て来るのが、昭和22年(1947)8月23日。上の動画で3分33秒頃からのエピソードです。

午後少し横になる。田口弘氏来訪に起される。木村知常氏の教子。フイリツピン ジヤヷの話等。「ジヤヷ詩抄」肉筆、余に献してくれる。乳かんづめ、急須、湯呑等もらふ。林檎御馳走する。三時半辞去、西鉛を教へる。明日詩碑へ詣る由。

「詩碑」はおそらく花巻町の光太郎が碑文を揮毫した宮沢賢治詩碑と思われます。


それから翌年2月9日。

<田口弘さんより去年八月もらつた乳カンをあける>

おそらく練乳でしょう。


続いて昭和26年(1951)12月22日。

選集第三回分を尾崎喜八、宮崎稔氏、田口弘氏宛の小包をつくる、

さらに「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京した後の、同28年(1953)2月16日。

藤島氏に田口弘氏宛小包托、

「選集」は中央公論社から全六巻で刊行された『高村光太郎選集』。田口氏が作っていた光太郎のスクラップ帳も参考に草野心平が編集にあたりました。動画では9分45秒頃からその話が出ています。

その他、『高村光太郎全集』およびその補遺である当方編集の「光太郎遺珠」(雑誌『高村光太郎研究』連載)に、光太郎から田口氏宛の書簡が計10通。それら全て(小包の包装紙まで保存されていました)、昨年、東松山市に寄贈され、公開されています。

改めて氏の追悼展的に展示されることを期待します。


【折々のことば・光太郎】

敷居の前にぬぎすてた下駄が三足。 その中に赤い鼻緒の 買ひ立ての小さい豆下駄が一足 きちんと大事相に揃へてある。 それへ冬の朝日が暖かさうにあたつてゐる。
詩「下駄」より 大正11年(1922) 光太郎40歳

止まった市電の窓から見えた煎餅屋の店先の様子です。そのものを描かなくとも、おかっぱ頭の小さな女の子の姿が目に浮かび、見事です。

短いフレーズを切り取ることが出来ず、このコーナーでは割愛しましたが、この時期、「小娘」「丸善工場の女工達」「米久の晩餐」など、市井に生きる無名の人々に対する暖かな眼差しが感じられる詩が多く作られました。

『職人の近代――道具鍛冶千代鶴是秀の変容』。

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新刊情報です。久々にものすごく読みごたえのある書籍でした。 
2017年2月10日 土田昇著 みすず書房 定価3,700円+税

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刀工名家に生まれ、廃刀令後の明治に大工道具鍛冶として修行し、道具を実際に使う大工たちの絶賛によってゆるぎない地位を得た千代鶴是秀(1874-1957)。
修業時代に師から使用者重視という製作思想の根幹を心に刻みつけられた是秀の、機能美の極致のような作品の中で、唯一ほかと異なるたたずまいをもつのが一群のデザイン切出小刀である。自由で流麗な意匠をまとったこれら切出群は、実用面からいえば使いにくく、道具が道具でなくなるギリギリの地点に位置する。抜群の切味を隠し持ちながら、使用されることを想定しない非実用の美。道具鍛冶として名声を得ながら、是秀はなぜ実用を犠牲にした美しいデザイン切出を作ったのか。
著者は祖父、父と三代にわたる大工道具店を営む中で、長年、千代鶴是秀の作品に向き合ってきた。是秀からじかに教えをうけた父、土田一郎から伝えられた貴重な話や資料を手がかりに、朝倉文夫らとの交わりをはじめ、是秀の周囲の芸術家や文化人、職人たちの跡をたんねんにたどり、その作風変化の謎を時代という大きな背景の中でひとつひとつときほぐしてゆく。鑿や鉋、切出と深く対話するように。鍛冶文化の豊かさを伝えながら。


明治から昭和にかけて活躍し、名人と謳われた大工道具鍛冶の千代鶴是秀(ちよづる・これひで)の評伝です。

色々な意味で、すさまじい職人と言わざるを得ません。師匠の石堂寿永ともども、砂鉄から作る日本古来の玉鋼(たまはがね)に見切りを付け、輸入物の洋鋼(ようはがね)での制作を選択します。明治も後期となると入手できる玉鋼の品質にばらつきが生じたためです。使う人の立場に立ってその品質を追求するなら、あっさりと伝統を打ち破るという革新性には感服しました。

一方で、機能性を犠牲にし、デザイン性を重視した非実用的な切り出し小刀なども制作しています。それでいてその製法は古来の方式ににのっとった、手間暇のかかる方法であるという矛盾。通常の刃物は、使うたびに研がれ、摩滅していく、いわば消耗品です。しかし、非実用的な刃物であれば、使われることがないので研ぐ必要もなく、そのフォルムを保ち続けます。著者の土田氏曰く「道具というものの消えてなくなる哀れな運命をもしかすると身にまとわずにすむかもしれないものとして提示した可能性はとても高い」。哲学的とさえ思われます。

その他、古来の名工の技術を徹底的に調べ上げて取り入れたり改良したり、制作に際しては動力を伴う機械類を一切使用しなかったり、戦時中には粗製濫造で済まされる軍刀の制作に手を染めなかったり、本当に色々な意味で、すさまじい職人と言わざるを得ません。


詳細が不明なのですが、光太郎は是秀の作った鑿(のみ)ないしは彫刻刀を使っていたと思われます。

『高村光太郎全集』には、是秀の名が四ヶ所に現れます。

うち三ヶ所は、光太郎から是秀に宛てた書簡です。いずれも昭和20年(1945)、東京を焼け出され、岩手花巻の宮沢賢治実家、旧制花巻中学校の元校長・佐藤昌宅に身を寄せている際にしたためられました。

五月十五日附の貴翰岩手県花巻にて拝受しました、小生五月十五日東京発当地にまゐり居ります。当分此地に落ちつく気で居りますが其後肺炎にかかり昨今漸く恢復に向ひました次第、いづれ全快の上いろいろ申上げたく存じます。東京の空襲ますます烈しき由、目黒方面は如何でせうか、切に御安泰をいのります、おてがミ拝受のしるしまで、(6月9日)

この文面から、二人は旧知の仲だったことがうかがえます。ちなみに是秀は光太郎より9歳年長です。

拝復 毎々御見舞のおてがミ拝受忝く存じます、東北地方も今日では烈しい戦場となりましたが花巻町はいまのところ無事で居ります。小生目下彫刻用の雑道具をあつめたり、砥石を探したりして居ります。刃物類など中々入手に困難の状態です。 東京に居られて御無事なのは此上もない幸運と存じ上げます、ますます御健勝のほど祈上げます、(8月3日)

やはり刃物関係の話題が出ています。かつて是秀作の刃物を使っていたことが推測されます。そして、この一週間後に宮沢家は空襲で全焼、佐藤昌宅に一時的に移り、以下の書簡をしたためます。

八月十八日付の貴翰拝受 小生八月十日花巻町空襲の際又々戦火に見舞はれて罹災、目下さし当つての避難中にて、近く太田村といふ山間の地に丸太小屋を建てる予定でありますが、火事のため、折角少々集めた刃物其他を又焼失いたしました。 お言葉により鉋、鑿、手斧、まさかりなど、あらためてそのうちお願申上げたく存じ居りますが、とりあへず御返事まで 艸々(8月28日)

是秀から光太郎に、刃物類提供の申し出があったことがわかります。

ところが、結局それは実現しなかったと思われます。この翌月からの、光太郎が郵便物の授受を記録したノートに是秀の名が見えず、日記にも是秀から大工道具類を受け取ったという記述がありません。

これで是秀とのつながりは切れたのかと思いきや、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京し、故・中西利雄のアトリエを借りて住んでいた昭和28年(1953)の日記に、突如、是秀の名が出て来ます。

七月八日 水 くもり、雨、 鶴千代是秀翁くる、 

光太郎、「千代鶴」を「鶴千代」と誤記していますが、これは間違いなく是秀でしょう。是秀がなぜ訪ねてきたのか、どんな話をしたのかなどは、一切記述がありません。ただ、是秀の娘婿の牛越誠夫が、粘土で作った塑像をブロンズに移す際の石膏型を作る石膏取り職人で、「乙女の像」の石膏取りを担当しており、その関係があったとは推定できます。

『職人の近代――道具鍛冶千代鶴是秀の変容』には、牛越の娘(=是秀の孫)と光太郎が一緒に写った写真が牛越家に伝わっていたという記述がありました。ちなみに同書を読むまで、是秀と牛越が義理の親子だったとは存じませんでした。

さて、光太郎は是秀の作った鑿(のみ)ないしは彫刻刀を使っていたと思われる、と書きましたが、長くなりましたので、そのあたりの考察は明日書きたいと存じます。


【折々のことば・光太郎】

おう冬よ、 このやはらぎに満ちた おん身の退陣の荘重さよ。 おん身がかつて あんなに美美しく雪で飾つた桜の木の枝越しに、 あの神神しいうすみどりの天門を、 私は今飽きること無く見送るのである。

詩「冬の送別」より 大正11年(1922) 光太郎40歳

「春が来た」と言わずに「冬が往ってしまった」とするあたり、冬をこよなく愛した光太郎の本領発揮です。寒さに弱い当方には到底考えつきません(笑)。

「美美しく」は古語「美美(びび)し」=「美しい、はなやかである」の連用形。誤植ではありません(笑)。

日曜日の朝、当地はうっすらと雪が積もりました。「美美し」とは思いましたが、「冬はもういいよ」という感覚です。愛犬は大喜びで雪の上を転げ回っていました。気が知れません(笑)。

信親、正次、是秀。

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昨日ご紹介した、土田昇氏著・みすず書房刊『職人の近代――道具鍛冶千代鶴是秀の変容』を読み、改めて光太郎が木彫に際して使用した刃物類について、調べてみました。

光太郎自身が書き残した文章には、実は自分の使っている道具類についての記述はあまり多くありません。その中で、最も詳しく書かれているのが、昭和12年(1937)に書かれた「小刀の味」、及び同25年(1950)執筆の「信親と鳴滝」です。

まず、刃物類全般について。

 飛行家が飛行機を愛し、機械工が機械を愛撫するやうに、技術家は何によらず自分の使用する道具を酷愛するやうになる。われわれ彫刻家が木彫の道具、殊に小刀(こがたな)を大切にし、まるで生き物のやうに此を愛惜する様は人の想像以上であるかも知れない。幾十本の小刀を所持してゐても、その一本一本の癖や調子や能力を事こまかに心得て居り、それが今現にどうなつてゐるかをいつでも心に思ひ浮べる事が出来、為事する時に当つては、殆ど本能的に必要に応じてその中の一本を選びとる。前に並べた小刀の中から或る一本を選ぶにしても、大抵は眼で見るよりも先に指さきがその小刀の柄に触れてそれを探りあてる。小刀の長さ、太さ、円さ、重さ、つまり手触りで自然とわかる。ピヤニストの指がまるでひとりでのやうに鍵をたたくのに似てゐる。桐の道具箱の引出の中に並んだ小刀を一本ずつ叮嚀に、洗ひぬいた軟い白木綿で拭きながら、かすかに錆どめの沈丁油の匂をかぐ時は甚だ快い。(「小刀の味」)

 あたりまへの事だが、美術家にとつて一番大切なのは道具である。画家の筆墨、彫刻家の鑿や小刀、これは命から二番目といひたい。
(略)
 私にとつて彫刻の道具はこの世で最も神聖なものであり、又最愛の伴侶である。他の一切のものから聖別された此のものは、どんなことがあつても身を以て護り通さねばならない。形勢がいつ爆撃をうけるか分からなくなつた時、私は亡父の形見の道具箱に(これには小刀類が充満してゐたが)細引をかけて、どう持つても抽出のすべり出さないやうにした。いちばん手馴れて別れ難いノミや小刀の最小限度十五六本は別に毛布にくるみ、これも亡父譲りの砥石二丁と一緒に大きな敷布に厚く包んで、これを丈夫な真田紐で堅固にゆはへ、重さ二貫目弱であつたが、空襲警報の鳴るたびに肩にかけ、腰に飯盒をぶらさげて、防火用のバケツと鳶口とを手に持つて往来に飛び出したのであつた。昭和二十年四月十三日の大空襲で遂に駒込林町のアトリエが焼けた時、私はとりあへず近所の空地にかねて掘つてあつた待避壕の中へ避難したが、そこへ持ちこんだのは夜具蒲団の大きな包二つと、外には例の道具箱と、肩からかけた敷布にくるんだ小刀と砥石とだけであつた。眼の前でアトリエは焼けおち、中にあつた蔵書と作品とはみるみる火に包まれてしまつたが、何だか惜しい気も起らず、むしろさつぱりした感じで、ただひたすら此の道具がありさへすればといふ考のみが頭をつよく占めてゐた。古いがらくたや、古い製作など、どしどし燃してしまへと、これらの道具がいつてゐるやうにさへ思へた。
 その後、道具類と夜具蒲団とは、一旦利根河畔の取手町にある宮崎稔氏の宅に運び、更に取手駅から岩手県花巻町の故宮澤賢治の実家に送られ、その実家が戦火に焼かれた後、転々して、今はこの太田村山口の山小屋に落ちついたといふ次第である。私は今でもその道具箱と砥石をいつでも持ち出せる待機の状態に置いてゐる。山に頻々と起る山火事をおそれての事だ。(「信親と鳴滝」)


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この刃物類のうち、光太郎が特にお気に入りだったのは、幕末から明治にかけての鍛冶職人・栗原信親(のぶちか)の作品でした。

信親は嘉永2年(1849)、現在の千葉県白井市近辺の生まれ。ちなみに光太郎の父・光雲は嘉永5年(1852)の生まれです。刀工として名高かった栗原信秀の弟子となり、明治に入ってから師匠の娘と結婚して婿養子となりました。明治12年(1879)には、後の大正天皇である嘉仁親王の生誕を祝し、自ら打った刀を献上するなどしています。しかし、同9年(1876)に出された廃刀令の影響はいかんともしがたく、やがて彫刻刀の制作に転身しました。
この点、昨日ご紹介した千代鶴是秀と似ています。同じく刀工の家系だった是秀は鑿や鉋などの大工道具を主に扱うようになりました。

光太郎の信親評は以下の通り。

 わたくしの子供の頃には小刀打の名工が二人ばかり居て彫刻家仲間に珍重されてゐた。切出(きりだし)の信親(のぶちか)。丸刀(ぐわんたう)の丸山(まるやま)。切出といふのは鉛筆削りなどに使ふ、斜に刃のついてゐる形の小刀であり、丸刀といふのは円い溝の形をした突いて彫る小刀である。当時普通に用ゐられてゐた小刀は大抵宗重(むねしげ)といふ銘がうつてあつて、此は大量生産されたものであるが、信親、丸山などになると数が少いので高い価を払つて争つてやつと買ひ求めたものである。此は例へば東郷ハガネのやうな既成の鋼鉄を用ゐず、極めて原始的な玉鋼(たまはがね)と称する荒がねを小さな鞴で焼いては鍛へ、焼いては鍛へ、幾十遍も折り重ねて鍛へ上げた鋼を刃に用ゐたもので、研ぎ上げて見ると、普通のもののやうに、ぴかぴかとか、きらきらとかいふやうな光り方はせず、むしろ少し白つぽく、ほのかに霞んだやうな、含んだやうな、静かな朝の海の上でも見るやうな、底に沈んだ光り方をする。光を葆(つつ)んでゐる。さうしてまつ平らに研ぎすまされた面の中には見えるやうな見えないやうなキメがあつて、やはらかであたたかく、まるで息でもしてゐるかと思はれるけはひがする。同じそさういふ妙味のあるうちにも信親のは刃金が薄くて地金があつい。地金の軟かさと刃金の硬さとが不可言の調和を持つてゐて、いかにもあく抜けのした、品位のある様子をしてゐる。当時いやに刃金のあつい、普通のぴかぴか光る切出を持たされると、子供ながらに変に重くるしく、かちかちしてゐてうんざりした事をおぼえてゐる。丸山のは刃金があついのであるが、此は丸刀である性質上、そのあついのが又甚だ好適なのであった。
 為事場の板の間に座蒲団を敷き、前に研ぎ板を、向うに研水桶(とみづをけ)(小判桶)を置き、さて静かに胡坐をかいて膝に膝当てをはめ、膝の下にかつた押え棒で、ほん山の合せ研を押へて、一心にかういふ名工の打つた小刀を研ぎ終り、その切味の微妙さを檜の板で試みる時はまつたくたのしい
。(「小刀の味」)

 ノミや小刀は亡父遺愛のものはもとより、私自身で求めたものでも、もう今日では入手不可能のやうな、すばらしい利刀ばかりである。日清役から日露役へかけての時代までは生きてゐた昔の伝統に従つて、当時の鍛工が玉鋼で鍛へたノミや小刀類の切味はちよつと言葉ではいひ表はせない。中でも信親(のぶちか)といふ鍛工のうつた切出(きりだし)(鰹節を削る小刀のやうな形をしたもの)の如きは実に物凄いといひたくなる。第一その形がいい。小刀の表といふのは黒い背の方だが、その地金の黒い、ねばり強いやうな肌といひ、両側を斜めに削つてあるその削り度合の釣合といひ、見るからに名刀の品格を備へてゐる。元来小刀やノミは地金で大体の形をつくり上げ、その裏に鋼の板を焼きつけて、これが刀となるのであるが、この地金と鋼との厚さの釣り合、硬さの釣合、さういふものが切味に大影響を持つてゐる。鍛工によつてそれがそれぞれ違ふので、おのおの独特の持味が出てくるわけである。信親といふ鍛工のは地金も割に軟く、鋼も薄く出来てゐる。砥石でとぐと、地金がやはらかくおりて、黒雲のやうな研水が出る。地金のおりる勢で、鋼の刃先がぴたりと研げる。みると地金の刃面(はづら)の先に真一文字にうすく鋼の刃が白く光つて、いかにも落ちついてゐる。裏をかへして刃裏をみれば、もちろん全面が鋼で、ただまつ平に鏡のやうに光つてゐる。その光りかたが煙つてゐる。少し白ばんで、むらむらと霧がかかつてゐるやうで、ただやたらにぴかぴかとは光つてゐない。鍛へる時に打ちかへした鋼の層によつて出来る木目(もくめ)が見えるやうな見えないやうな工合にかすかにある。もう随分昔から研いでは使つたので、中には始め五六寸の長さであつた小刀が次第に短くなつて、一番もとの地金ばかりの裏に刻印してある信親といふ銘が小刀の柄から出てきてしまつたのもある。かうなると尚更大切なやうな気がする。(「信親と鳴滝」)

実に手放しの褒めようです。そして、このような名工の作った名品を、このように表現できる光太郎の力量にも注目せざるを得ないでしょう。まさに「鬼に金棒」。決して「猫に小判」ではないわけです。

その他、「信親と鳴滝」では、京都鳴滝産の砥石についても紹介されていますが、割愛します。

信親以外に光太郎が使用していた名工の作というと、「卍正次」と称された宮内省御用刀工にして、光雲と同じく帝室技芸員だった桜井正次(まさつぐ)の鑿があり、大正15年(1926)の短歌に謳われています。

正次がうちし平鑿くろがねのうら砥ふまへて幾夜わが砥ぐ

残念ながら、是秀作の鑿ないしは彫刻刀を実用していたという記述は、『高村光太郎全集』には見あたりません。しかし、書簡のやりとりや、信親の娘婿が石膏取り師の牛越誠夫で、光太郎と交流があったこと、光太郎と親しかった光雲高弟の平櫛田中が是秀の作を使っていたことなどから、その可能性は高いと思われます。

しかし、『職人の近代――道具鍛冶千代鶴是秀の変容』中の、是秀の注文受け帖に関する項には、光太郎の名が出て来ません。まぁ、光太郎が直接是秀に注文しなくとも、販売店を通して購入することが可能だったので、そのあたりなのでは、と推測しています。

下記はほとんど唯一、光太郎が木彫制作中の写真。もしかすると、手に持っている刃物が是秀作かも知れません。

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信親、正次、是秀など、光太郎と道具について、今後の究明課題として気に留めておこうと思いました。


【折々のことば・光太郎】

この一人の彫刻の徒弟は、 あの金髪の美少年と笑みかはす、 生きて動く兎のやうな十七の娘のからだを 嫉妬に似た讃嘆に心をふるはせながら、 今粘土を手に取つて、 喰べるやうに見るのである、 見るのである。

詩「五月のアトリエ」より 大正11年(1922) 光太郎40歳

木彫ではなく、塑像制作中の一コマです。「金髪の美少年」は五月の陽光の比喩、「十七の娘」は彫刻のモデルです。

五官全てを触覚に還元する光太郎、若さにあふれたモデル娘が放つ生命力の躍動を、まさしく喰べるように見ています。


第61回連翹忌(2017年4月2日(日))の参加者募集中です。詳細はこちら

「けり」と「たり」。

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一昨日の『毎日新聞』さん。俳人の坪内稔典氏による連載コラム「季語刻々」で、光太郎の句を取り上げて下さいました。 

季語刻々 春の水小さき溝を流れけり 高村光太郎

溝を流れる水、その水に春の明るさ、勢いを感じたのだろう。1909年、イタリアを旅した折の句。溝の春の水から光太郎は日本の春を感じたのかもしれない。詩集「道程」に次の一節がある。「猿の様な、狐(きつね)の様な、ももんがあの様な、だぼはぜの様な、麦魚(めだか)の様な、鬼瓦の様な、茶碗(ちゃわん)のかけらの様な日本人」。自虐的だが、そうだとも思う。<坪内稔典>

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以前からこのコラムで光太郎の名を出していただき、その都度ご紹介して参りました。ただ、それら全て光太郎の名は、光太郎以外の作品の鑑賞文に使われていました。今回は光太郎そのものの句ということで、尚更ありがたいところです。


昨年のこのブログでは、366日間(閏年でしたので)、光太郎の短歌や俳句などを【折々の歌と句・光太郎】ということで一つずつご紹介して参りました。この句も4月5日にご紹介していました。

改めてそれを読んでみたところ、「あれっ」と思いました。「春の水小さき溝を流れけり」ではなく、「春の水小さき溝を流れたり」となっています。「やらかしたかぁ」と思い、『高村光太郎全集』を調べてみました。

すると、そうではなかったことが判明し、胸をなで下ろしました。といっても、坪内氏がやらかしたわけでもありません。どちらも正解でした。


全集第11巻には「春の水小さき溝を流れけり」の形で掲載されています。出典は明治45年(1912)発行の雑誌『趣味』第6年第2号に掲載された「伊太利遍歴」というエッセイです。イタリア旅行中の見聞録の合間に、この句を含む33句が挟み込まれています。坪内氏はこの形を引用されたわけです。

ところが、オリジナルの形は、留学生仲間だった画家の津田青楓にイタリアからリアルタイムで書き送った書簡で、そちらは「春の水小さき溝を流れたり」となっており、異稿として全集第19巻に掲載されています。当方、原型ということでこちらを引用しました。


「たり」から「けり」への変更が、どのようにして起こったのかは不明です。考えられるのは、以下の通り。

① 「伊太利遍歴」執筆に際し、「たり」より「けり」の方がしっくり来る、と考えた光太郎自身が意図的に改変した。
② 「伊太利遍歴」執筆に際し、「たり」であった原型がうろ覚えで、意図せずして「けり」に変わってしまった。
③ 「伊太利遍歴」掲載時に、光太郎の原稿は「たり」であったにも関わらず、「けり」と誤植されてしまった。

可能性として高いのは、①か②だと思います。他にも「伊太利遍歴」と、津田らに送った書簡で表記が異なる句は複数有ります。短歌や俳句は詠みすてで、いちいち書き留めておくことはしない、というのが光太郎のスタンスでしたし、②が最もありえるかな、と思われます。

ちなみに、古典文法としては、「たり」は「完了」(~た、~てしまう、~てしまった、)、「存続」(~ている、~ていた、~てある、~てあった)、「けり」は「伝聞した過去(~た)」、会話文や和歌で使われる場合には「詠嘆」(~よ、~なあ)と訳します。いわずもがなですが、どちらも助動詞です。

説話、物語などでは「今は昔……」というわけで、伝え聞いた過去の話ですよ、となり、「けり」が使われます。

今は昔、竹取の翁といふ者ありけり。(「竹取物語」)

 いづれの御時にか。女御、 更衣あまたさぶらひ給ひけるなかに、いとやんごとなき際にはあらぬが すぐれて時めき給ふありけり。(「源氏物語」)


俳句の場合、「けり」は「や」「かな」などとともに「切れ字」として使われ、古語の「詠嘆」の用法の流れを汲んでいます。時折、単に「五・七・五」にするためだけに使っているんじゃないか、という作にも出くわしますが(笑)。

したがって、「春の水小さき溝を流れけり」ときたら、「春の水が小さい溝を流れているなあ」となり、「春の水小さき溝を流れたり」の場合は、単純に「春の水が小さい溝を流れている」となりましょうか。

すると「けり」の方が、感慨が表面的となり、こちらの方がいいかも、という気はします。すると上記①、光太郎、意図的に改変した説が有力にも思えます。今となっては真相は藪の中ですが……。それにしても上記③、編集者の誤植、というケースだけは有って欲しくないものです(笑)。


【折々のことば・光太郎】

有り余る虚無だ 獅子と駝鳥の楽園だ 万軍の神の天幕だ 沙漠、沙漠、沙漠、沙漠 ひそかにかけめぐる私の魂の避難所だ

詩「沙漠」より 大正11年(1922) 光太郎40歳

やがて来る「猛獣篇」時代へのプレリュード的な匂いがします。「猛獣篇」は、社会の矛盾などに対する怒りを、さまざまな猛獣(時に架空のモンスター)などに仮託して表出した連作詩で、その第一作は3年後の大正14年(1925)に書かれた「清廉」という詩でした。モチーフは妖怪「かまいたち」。

その後、「獅子」を題材とした「傷をなめる獅子」(同)、「駝鳥」を謳った「ぼろぼろな駝鳥」(昭和3年=1928)なども作られます。しかし、大正11年(1922)の段階でその原型は出来ていたわけで、「ローマは一日にして成らず」という感があります(ちょっと違いますかね(笑))。

「智恵子から光太郎へ 光太郎から智恵子へ ~民話の世界・光太郎と智恵子の世界~」レポート。

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昨日は千葉県柏市に行き、朗読系の演劇公演「智恵子から光太郎へ 光太郎から智恵子へ ~民話の世界・光太郎と智恵子の世界~」を拝見・拝聴して参りました。

会場は柏駅近くのアミュゼ柏クリスタルホール。平日にも関わらず、300席ほどがほぼ満席でした。

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開演前に戴いたプログラムを拝読。主催でご出演もなさっていた山田典子さんのご挨拶が最初に印刷されていました。

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山田さんのプロフィールはこちら。

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2部構成で、第1部が「~民話の世界~」。さらにその中でも2本立てで、最初が「耳無し芳一」。源平の争乱最後の戦い・壇ノ浦の合戦があった山口県下関に伝わる民話で、小泉八雲が『怪談』で取り上げて有名になった話です。山田さんが朗読、伴奏的に久保田晶子さんが琵琶を演奏なさいました。

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当方、琵琶の生演奏は初めて聴きました。ちょっと爪弾いただけでも哀愁の漂う音色、不思議な楽器です。

続いて斉藤介原作の「ベロ出しチョンマ」。オペラ歌手・大久保光哉さんの「歌い語り」、伴奏は久東寿子さんの
二十五弦箏でした。一般的な箏は十三弦、一度、十七弦箏を使った演奏を聴いたことがありますが、リードギターの箏に対し、ベースギターのようだと思って聴きました。今回は二十五弦一張で、高音から低音まで実に音域が広く、ピアノのようだと思って聴きました。

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休憩を挟んで第2部、いよいよ「~光太郎と智恵子の世界~」です。

構成の妙を感じました。

まずピアノ独奏「「智恵子抄三章」へのプロローグ 智恵子の世界への誘い」。演奏は青木俊子さん。美しいメロディーラインの中にも哀愁が漂い、プレリュードとして見事な導入だと思いました。

その後は、山田さんの朗読と、大久保さんの歌が交互に為され、光太郎智恵子出会いの頃から智恵子の死までが描かれました。

朗読の台本的なところは、佐藤直江さん作の「星になった智恵子」。智恵子一人称の独白スタイルです。

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千葉県での公演だから、ということもあったのでしょうか、大正元年(1912)の銚子犬吠埼でのエピソードが紹介され、お客さんの(おそらく光太郎智恵子にはお詳しくない)反応が、「えっ、犬吠埼?」という感じでした。

犬吠埼についてはこちら。当方生活圏です。

九十九里浜のエピソードもあれば、なお良かったと思いました。

大久保さんの歌は、青木省三さん作曲の「智恵子抄三章」。存じませんでしたが、岡山の合唱団の依嘱作品としてア・カペラで作られたものを編曲し直しての使用だそうです。

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ピアノは新居美穂さんにバトンタッチ。

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歌とピアノの関係が面白く、歌われたフレーズと同じメロディーをピアノが追いかけて繰り返すという手法が使われていて、こういう手もあるんだなと思いました。

第1部も含め、それぞれの方の熱演で、引き込まれるステージでしたし、語りと音楽を交互に配し、変化を付ける構成が非常に効果的だったと思いました。

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この手の公演で、光太郎智恵子の世界を取り上げていただけるのは、実に有り難く存じます。これを通して、光太郎智恵子の世界に興味を抱いて下さる方が増えていってほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

私はもう少しこの深い天然のふところに落ち込んで、 雀をまねるあの百舌のおしやべりを聞きながら、 心に豊饒(ほうねう)な麻酔を取らう、 有りあまるものの美に埋もれよう。
詩「落葉を浴びて立つ」より 大正11年(1922) 光太郎40歳

季節はずれですみません(笑)。以前にも書きましたが、このコーナー、『高村光太郎全集』第一巻から始め、ほぼ掲載順に「これは」と思うフレーズを引用していますので、季節外れになることもしばしばです。

光太郎が好んで色紙などに揮毫した言葉に「美ならざるなし」「うつくしきものみつ」といったものがあります。天然の作り上げたもの、全てに「美」を感じとっていたことがうかがえます。こういう感性は自分でそれを大事にしなければ、と思わないと、摩滅してしまうような気がします。そうならないように、心がけたいと思います。


第61回連翹忌(2017年4月2日(日))の参加者募集中です。詳細はこちら

NHKBSプレミアム「ぜんぶ、温泉。 岩手・花巻を浴びる」。

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テレビ放映情報です。 
NHKBSプレミアム 2017年3月4日(土) 20時30分~21時00分

温泉を目で、耳で、心で楽しむ!ヘッドホンをつければ臨場感倍増!? 岩手県、湯治の一軒宿が点在する温泉郷・花巻。温泉マニア(伊武雅刀)目線のカメラが見たものは…

露天の雪景色やお湯しぶき、湯船の底から上がってくる足元湧出のあぶく。昭和の香りいっぱいのレトロな湯治棟。南部藩の殿様ゆかりのわらぶき屋根。地元のみなさんから問わず語りに飛び出すふだん着のお国言葉。刺さるような寒さや初めて作る自炊せんべい汁、高い吹き抜け天井のもと、立ったまま入る深~い風呂。温泉分析書を熟読し、裸になって大地の恵みをただただ、堪能。みんなまとめてホット・スプリング・ハズ・カム!

温泉旅行の真の楽しみは「温泉そのもの」を味わいつくすことにある!慌ただしく周辺を観光、夕方投宿、温泉には1回か2回浸かって翌日慌ただしく帰る…という温泉旅行の定番ではつまらない…とお考えのあなたに捧げる、2度目に行く人でも絶対に楽しい『温泉郷まるかじり疑似体験ツアー』。温泉をこよなく愛する旅人目線の一人称カメラが、その土地ならではの温泉文化、温泉の愛し方などを次々と体験。駘蕩(たいとう)とした「気持ちよさ」を徹底的に味わい尽し、ひたすら温泉快楽の根源に迫る。今回の舞台は岩手県の花巻温泉郷。最近流行の「プチ湯治」の聖地として、アラフォー女子の人気を集める温泉街。ここで温泉三昧の漂泊が始まる…

【語り】伊武雅刀

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「ぜんぶ、温泉。」は、NHK BSプレミアムさんで、不定期に放映されている番組です。

今回は、ともに光太郎や宮沢賢治が愛した花巻南温泉峡の大沢温泉さんと、鉛温泉さんが紹介されるようです。番組サイトに賢治の名はありますが、光太郎も愛した温泉だと、紹介していただきたいものです。

事前に情報を得られず、ご紹介できませんでしたが、昨日、テレビ東京さんで放映された「土曜スペシャル どうしても入りたい!にっぽん“雪見の名湯”BEST10」でも大沢温泉さんが第6位にランクインし、紹介されていました。たまたま観ていたら大沢温泉さんが出て来て驚きました。考えてみれば、ランクインするにふさわしい名湯です。

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詳細が決まりましたらまたご紹介しますが、花巻市の高村光太郎記念館さんで、予定では4月から6月にかけ、光太郎と花巻の温泉を巡る企画展示が為されます。

今年も何度か花巻には足を運ぶことになりそうで、楽しみです。


【折々のことば・光太郎】

それでは足をのびのびと投げ出して、 このがらんと晴れ渡つた北国(きたぐに)の木の香に満ちた空気を吸はう。 あなたそのもののやうなこのひいやりと快い、 すんなりと弾力ある雰囲気に肌を洗はう。

詩「樹下の二人」より 大正12年(1923) 光太郎41歳

「あれが阿多多羅山、 あの光るのが阿武隈川。」のリフレインで有名な詩です。大正3年(1914)の結婚披露後、初めて智恵子が詩の中に現れました。謳われているのは、同9年(1920)、智恵子の父・今朝吉の三回忌法要で訪れた智恵子の故郷・油井村(現・二本松市)のパノラマです。

このフレーズでは、澄んだ冬の空気を視覚、嗅覚、そして触覚でとらえ、見事に表現しています。

小平市平櫛田中彫刻美術館特別展「ロダン没後100年 ロダンと近代日本彫刻」レポート。

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昨日は、東京小平市に行っておりました。同市平櫛田中彫刻美術館さんで開催中の特別展「ロダン没後100年 ロダンと近代日本彫刻」を拝見のためでした。

出かける前に拝見していたNHK Eテレさんの「日曜美術館」とセットの「アートシーン」で、同展が扱われていまして、いやが上にも期待が高まりました。

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昨日は関連行事の美術講座「ロダンと近代日本彫刻」があり、先にそちらの会場である放送大学東京多摩学習センターさんに参りました。

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講師は同館学芸員の藤井明氏。昨年の連翹忌にご参加下さっています。

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定員50名ということで案内がありましたが、100名ほど集まってしまい、急遽、パーテーションをはずして会場を広げての対応。質問を含め、約1時間半でした。

まず、ロダンその人の紹介。さらに我が国に於けるロダン受容の歴史。活字として残っている早い時期の例として、岡倉天心や岩村透にまじって、光太郎の文章も挙げて下さいました。さらにロダンの影響を受けた彫刻の実作者として、荻原守衛、中原悌二郎、戸張孤雁、沼田一雅、本保義太郎、そして光太郎。

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ロダン彫刻の特徴と、具体的にどういう部分で影響が及んだのかなど、非常に興味深いお話でした。

まず、きれいな外形を追い求めるのでなく、内面から沸き上がる「生命の芸術」を追う姿勢。それからトルソ(胴体のみの彫刻)や手などの、人体の一部分をモチーフとし、やはりきれいな仕上げを施さない「不完全の美」。そして群像表現や、別個の彫刻を組み合わせる「アッサンブラージュ」。光太郎の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」もアッサンブラージュの例としてあげられていました。

さらに、ヨーロッパでもそういう動きが起こりましたが、日本でも、ロダンへの反発から生まれたベクトルもあることも。

有意義な講座でした。

その後、徒歩10分ほどの平櫛田中彫刻美術館さんへ。このブログを開設する前にお邪魔して以来で、6年ぶりくらいでした。

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同館は光雲の高弟の一人だった平櫛田中の旧宅を利用して建てられたものです。こちらが旧宅部分。

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満で107歳という長寿をまっとうした田中ですが、100歳になってから入手したという巨大なクスノキの原木が庭にそのまま残っています。試算では30年分はゆうにあるとのこと。以前にもご紹介しましたが「六十七十は はな たれこぞう おとこざかりは 百から百から」と言っていた田中、どれだけ長生きするつもりだったのでしょうか(笑)。

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さて、館内へ。

受付のすぐ前には、ロダンの「考える人」。像高40㌢ほどの小さなバージョンですが、それだけにあふれ出る生命観がかえって凝縮されているように感じます。

展示室は5つに分かれ、ただ「ロダンですよ」、「影響を受けた作家の作品ですよ」とずらっと並べるだけでなく、先ほどの藤井氏の美術講座の内容とリンクして、「生命の芸術」、「不完全の美」、「アッサンブラージュ」、「ロダンへの反発」と、それぞれテーマが与えられています。

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光太郎作品は3点。碌山美術館さん所蔵の「腕」(大正7年=1918)、「十和田湖畔の裸婦群像中型試作」(昭和28年=1953)、そして朝倉彫塑館さん所蔵の「手」(大正7年頃=1918頃)。

この朝倉彫塑館さんの「手」は、光太郎生前に鋳造された数少ないもののうちの一つで、台座の木も光太郎が彫ったものです。一昨年、武蔵野美術大学美術館さんで開催された「近代日本彫刻展 −A Study of Modern Japanese Sculpture−」で拝見して以来でした(上の方に「アートシーン」からの画像があります)。

その他、ロダンを始め、影響を受けた彫刻家の作品。なかなか見応えがありました。平櫛田中も木彫家でありながら、原型は塑像で制作をしていたり、塑像家の石井鶴三らと交流があったりと、やはりロダンの影響を受けています。

帰りがけ、図録を購入。こちらについては明日、ご紹介します。


今週末にもまた行って参ります。もう一つの関連行事として、以下があるもので。

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講師の橋幸次先生のご講演を以前にも拝聴し、すばらしかったのと、やはり橋先生には連翹忌にご参加いただいているのと、「ロダンと同時代のフランス音楽」も当方大好きなもので。

今から楽しみです。


【折々のことば・光太郎】

詩はおれの安全弁。

詩「とげとげなエピグラム」より 大正12年(1923) 光太郎41歳

光太郎は詩人としても有名ですが、なぜ彫刻家が詩を書き続けたのでしょうか。その答えは光太郎自身の言から引きましょう。

昭和14年(1939)に書かれた散文「自分と詩との関係」によれば、光太郎にとっての詩は「彫刻の範囲を逸した表現上の欲望」によって彫刻が「文学的になり、何かを物語」るのを避けるため、また「彫刻に他の分子の夾雑して来るのを防ぐため」に書かれたものだというのです。

青年期には光太郎もそういう彫刻を作っていましたが、謎めいた題名やいわくありげなポーズに頼る彫刻ではなく、純粋に造型美だけを表現する彫刻を作るため、自分の内面の鬱屈などは詩として表現するというわけです。
まさしく詩は安全弁だったのです。

だからといって、光太郎の詩が副次的な産物や二義的なものということにはなりませんが。

第61回連翹忌(2017年4月2日(日))の参加者募集中です。詳細はこちら





小平市平櫛田中彫刻美術館特別展「ロダン没後100年 ロダンと近代日本彫刻」図録。

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日曜日に拝見して参りました、小平市平櫛田中彫刻美術館さんの特別展「ロダン没後100年 ロダンと近代日本彫刻」。図録が販売されていましたので購入して参りました。A4判158ページ、なかなか充実した図録でした。

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作品図版は展覧会の構成に従い、「生命の芸術」、「不完全の美」、「手(Hand)」、「醜の中の美」、「群像表現」、「アッサンブラージュ」、「変貌するロダニズム」、「あとに続く作家たち」、「人体構造の追求―ロダン《バルザック》と平櫛田中《鏡獅子試作裸像》との比較から」、「ロダンへの反発」、「リプロデュースとマケット―ロダン《地獄の門》を中心に―」の、それぞれの小題にまとめられています。

その後に出品作家のプロフィール。さらに関連論文。

まずは日曜日に開催された関連行事の美術講座「ロダンと近代日本彫刻」の講師で、今回の特別展の中心と成られた同館学芸員・藤井明氏の「荻原守衛帰国以前の国内におけるロダン受容について」。

ロダン本人から「あなたは私の弟子だ」とお墨付きをもらった荻原守衛が、海外留学から帰国したのは明治41年(1908)。それ以降、日本国内でロダンの名が浸透していきますが、それ以前のロダン受容に的を絞った考察です。どうも東京美術学校関係者に限定される形で、かなり早い時期からロダンの存在が知られていたことが紹介されています。

明治23年(1890)に、同校で岡倉天心が行った講義「泰西美術史」の中に、既にその名が見えています。そして、同38年(1905)、海外留学に出る前年の光太郎が、雑誌『日本美術』に発表した「アウグスト ロダン作「バプテスマのヨハネ」」という評論を大きく取り上げて下さっています。『高村光太郎全集』第7巻に収録されていますが、当方、その存在を失念していました。『日本美術』では、「ヨハ子」と表記されていますが、これは変体仮名的な表記で「子」は「ネ」。十二支の「子・丑・寅・卯・辰・巳」の「子」です。明治末年にはまだ仮名表記も確立していません。したがって、『高村光太郎全集』では、仮名とみなして「ヨハネ」の表記を採っています。

余談になりますが、光太郎、仮名の「し」も、時折、変体仮名的に「志」で表す時がありました。「しま志た」のように。こういったケースも、『高村光太郎全集』では仮名表記と見なし、通常の「し」に置き換えています。

余談ついでにもう一つ。この評論はロダン出世作の「青銅時代」に続く大作「洗礼者ヨハネ」(明治13年=1880)を紹介するものですが、この「洗礼者ヨハネ」、光太郎晩年の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」との関連が夙に指摘されています。すなわち、それぞれこういうポーズをとった場合に、上がるはずの後ろ足の踵が上がっていない点です。これが上がっていると、見た目には非常に不安定になります。具象彫刻として一般的な技法なのかもしれませんが。

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閑話休題。この評論が、一般向けにロダンを国内で紹介した最も早い例だというので、驚きました。これまで、ロダン受容を論じる論文等で、この評論がほとんど紹介されてこなかったそうで、そういわれてみればそうだな、という感じでした。そこで当方も、この評論の存在を失念していました。

続いて、今週土曜日に関連行事として講演「歿後100年。本当のロダンをご存知ですか?」をなさる日本大学芸術学部の橋幸次教授の「ロダンとは誰なのか、そして何なのか」。端的にまとめられたロダン評伝で、手っ取り早くロダンその人を知るにはもってこいです。

さらに、静岡県立美術館学芸員の南美幸氏の「フランスにおける日本人のロダン作品体験 1900年~1918年―文献からの分析・整理」。荻原守衛、光太郎ら12人の日本人芸術家が、フランスで実際に見たであろうロダン作品の一覧を表にしています。面白い試みだと思いました。しかし、光太郎に関しては、参照されている文献が少なく、実際に光太郎が見たとされているのは「ジャン=ポール・ローランスの胸像」のみ。疑念が残ります。

そして、いつもお世話になっている碌山美術館の武井敏学芸員による「笹村草家人のロダン感」。笹村は師の石井鶴三ともども荻原守衛や光太郎に私淑し、戦後、花巻郊外太田村の山小屋に隠遁中の光太郎を訪ねたりもしている彫刻家で、興味深く拝読しました。

資料編として、「ロダン年譜」、「ロダンと日本 関連年譜」、光太郎の「アウグスト ロダン作「バプテスマのヨハ子」全文、さまざまな彫刻家のロダン評などの抜粋「ロダンへの言葉」、「参考文献」。

実に充実の内容で、これで2,000円は超お買い得です(笑)。

同展は3月12日(日)までの開催。ぜひ足をお運びの上、図録もご購入下さい。


【折々のことば・光太郎】

ロダンを嫌ふのが 進んだ人人の合言葉。 今こそ心置きなく あのロダンを讃嘆しよう。

「とげとげなエピグラム」より 大正12年(1923) 光太郎41歳

王道を歩く者は、王道を歩くがゆえに批判に晒されることが多々あります。ロダンも例外ではありませんでした。その地位が確立した後は、もはやロダンは古い、と。そして、その手の王道批判こそが知識人の証しのように考えられることがありますね。

そんな中で、あえて「あのロダンを讃嘆しよう」とする光太郎。軽佻浮薄な批判には与しないと宣言しているわけです。ただ、光太郎のロダン崇拝も、猿まね的なものや、狂信的・盲従的なものではなく、尊敬はするが、自分の北極星は彼とは別の所にある、としています。また、光太郎は彫刻のロダン以外にも、文学方面のロマン・ロランやホイットマンなど、ある意味同じように王道を歩みながら、それゆえ批判にもさらされる先達に対して同様の発言をしています。いずれまたそういう文言を紹介します。

ところで、光太郎自身もそういう憂き目にあっていますね。「光太郎は古い」と。生前もそうでしたし、現代においてもです。最近も、昨年発行された雑誌に載った辛口の批評で知られる文芸評論家のセンセイの光太郎批判が、今年になってある新書におさめられたようです。そこには全くといっていいほど、光太郎ら、そこで取り上げている人物に対するリスペクトの念が読み取れません。さらに云うなら、リスペクトの念がないから詳しく調べるということもしないのでしょう、出版事情等に関し、事実誤認だらけです。そういうものはこのブログではご紹介していません。あしからず。


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