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Channel: 高村光太郎連翹忌運営委員会のブログ
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「玉音放送」原盤を初公開へ。

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標記の件、今週、各紙一斉に報道されました。代表して時事通信さんのものを引用させていただきます。  

「玉音放送」原盤を初公開へ=来月1日、「聖断」の防空壕も―宮内庁

 宮内庁は9日、戦後70年に当たり、終戦の日の昭和天皇の「玉音放送」を録音したレコードの原盤(玉音盤)と音声を8月1日に初めて公開すると発表した。昭和天皇が終戦の「聖断」を下した「御前会議」が開かれた皇居の防空壕(ごう)についても、内部の写真と映像などを公開する。音声などはホームページに掲載する予定。
 玉音盤は、玉音放送前日の1945年8月14日夜、当時の宮内省庁舎内の一室で録音された。昭和天皇がマイクに向かって「終戦の詔書」を2回読み上げ、計2組の玉音盤が完成。このうち2回目に録音した方のレコードが翌15日正午にラジオで放送された。
 今回公開されるのは実際に放送された方のレコードで、時間は約4分30秒。宮内庁は原盤から音声を新たにデジタル録音したという。
 宮内庁関係者によると、天皇、皇后両陛下と皇太子さま、秋篠宮さまは6月下旬、皇居・御所で音声を聞かれたという。玉音盤は現在、皇室の私有物である「御物」として庁内で管理されている。
 宮内庁は、昭和天皇が終戦後の46年5月23日に録音し、翌日にラジオ放送された食糧問題の重要性に関するお言葉についても、原盤と音声を初めて公表する。玉音盤と一緒に保管されていたのが今回発見されたという。
 風岡典之長官は「歴史的な意義からも国民の関心からも戦後70年の機会に公表するにふさわしいと考え、両陛下のお許しを得て公表することにした。この機会に多くの方々にご覧いただきたい」と話している。


光太郎ファンなら、この記事を読んで、次の詩を思い浮かべるはずです。

  一億の号泣イメージ 4

綸言一たび出でて一億号泣す
昭和二十年八月十五日正午
われ岩手花巻町の鎮守
島谷崎(とやがさき)神社社務所の畳に両手をつきて
天上はるかに流れ来(きた)る
玉音(ぎよくいん)の低きとどろきに五体をうたる
五体わななきてとどめあへず
玉音ひびき終りて又音なし
この時無声の号泣国土に起り
普天の一億ひとしく
宸極に向つてひれ伏せるを知る
微臣恐惶ほとんど失語す
ただ眼(まなこ)を凝らしてこの事実に直接し
荀も寸豪も曖昧模糊をゆるさざらん
鋼鉄の武器を失へる時
精神の武器おのずから強からんとす
真と美と到らざるなき我等が未来の文化こそ
必ずこの号泣を母胎としてその形相を孕まん


放送のあった昭和20年(1945)8月15日、光太郎は岩手花巻に疎開していました。はじめに厄介になっていた宮澤賢治の実家は、5日前の8月10日の花巻空襲で全焼。光太郎は被災を免れた元旧制花巻中学校長・佐藤昌宅に身を寄せていました。

このあたり、加藤昭雄著『花巻が燃えた日』(熊谷印刷出版部 平成11年=1999)、同『絵本 花巻がもえた日』(ツーワンライフ 平成24年=2012)に詳しく記述があります。

イメージ 2
イメージ 1






















そして15日の玉音放送は、花巻町の中心部にある鳥谷崎神社で聴きました。

こちらが鳥谷崎神社。戦前(おそらく)の絵葉書です。

イメージ 3

翌16日には上記「一億の号泣」を執筆、さらに翌日の17日にはこの詩は『朝日新聞』と『岩手日報』に掲載されました。

ここには「聖戦完遂」のスローガンを信じて疑わなかった光太郎の、その目標を失った虚脱感がよく表されています。しかし、虚脱だけでなく、「鋼鉄の武器を失へる時/ 精神の武器おのずから強からんとす」というある種の変わり身の早さもうかがえ、この時点ではまだまだ平和の到来を喜ぶ心情は読み取れません。ましてや自身が書き殴った大量の空虚な大政翼賛の詩を読んで、膨大な数の前途有為な若者が散華していったことになど、思い及んでいません。

二度にわたり、空襲で焼け出された光太郎にしてみれば、無理もないのかも知れません。一度目(昭和20年=1945の4月13日)には、智恵子と共に過ごした思い出深い東京本郷Ⅸ駒込林町(現・文京区千駄木)のアトリエを失い、二度目はつい5日前でした。

しかし、この年の秋に、花巻町郊外の太田村の山小屋で独居自炊の生活を始め、いやが上にも自らの来し方を
省察せざるをえない日々の中で、光太郎の内部世界に変化が生じました。

同じ玉音放送を題材にしたこちらの詩は、昭和22年(1947)の作。

終戦
 
すつかりきれいにアトリエが焼けて、イメージ 5
私は奥州花巻に来た。
そこであのラヂオをきいた。
私は端坐してふるへてゐた。
日本はつひに赤裸となり、
人心は落ちて底をついた。
占領軍に飢餓を救はれ、
わずかに亡滅を免れてゐる。
その時天皇はみづから進んで、
われ現人神(あらひとがみ)にあらずと説かれた。
日を重ねるに従つて、
私の目からは梁(うつばり)が取れ、
いつのまにか六十年の重荷は消えた。
再びおぢいさんも父も母も
遠い涅槃の座にかへり、
私は大きく息をついた。
不思議なほどの脱卻のあとに
ただ人たるの愛がある。
雨過天青の青磁いろが
廓然とした心ににほひ、
いま悠々たる無一物に
私は荒涼の美を満喫する。


これは連作詩「暗愚小伝」中の一篇として書かれたものです。

光太郎は他の多くの文学者のように、無邪気に民主主義を謳歌するというわけではありませんでした。同じ「暗愚小伝」の終曲、「山林」という詩では、以下のように謳っています。
 
おのれの暗愚をいやほど見たので、
自分の業績のどんな評価をも快く容れ、
自分に鞭する千の避難も素直にきく。
それが社会の約束ならば
よし極刑とても甘受しよう。
 
他の多くの文学者たちは、というと、戦時中に書いた戦意昂揚の作品を「あれは軍の命令で仕方なく書いたものだ」と言い訳したり、その手の作品を書いたことをひた隠しにして「非戦の詩人」の称号を得たりしていました。それどころか、自らも戦争協力詩を書いていたにもかかわらず、やはりそれを隠して、公然と光太郎を非難した詩人もいます。

それに対し、光太郎は自らの過ちを潔く認め、さらに自らを罰することを実践する(花巻郊外太田村での過酷な独居生活、彫刻の封印は7年に及びました)、そういう点こそ、光太郎の素晴らしさだと考えられます。

いったいに光太郎の生涯は、順風満帆なものでは決してなく、いわばつまづきの連続でした。青年期にはロダンに学んだ新しい彫刻理念が受け入れられず、父・光雲を頂点とする旧態依然の日本彫刻界との対立を余儀なくされ、それも盟友・碌山荻原守衛の早逝により、孤軍奮闘。光雲の勧める銅像会社設立や美術学校教師の話も断り、智恵子と二人、社会との交わりを極力絶って「都会のまんなかに蟄居」(詩「美に生きる」昭和22年=1947)する清貧の生活。

そんな生活の中で、智恵子は心を病み、光太郎を残して先立ちます。その反省から、一転して社会と積極的に関わり始めたところが、社会の方が泥沼の戦時に突入。その旗振り役を務めざるを得ませんでした。

そして敗戦。公的に戦犯とされなくとも、先述の通り、過酷な環境に身を置いて、自らを罰する光太郎。

最晩年に、自らに課した彫刻封印の重罰を解き、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」をこの世に残すことが出来たのは、最後に訪れた幸福だったといえるかと思います。それすら残せず、寒村の山小屋で朽ち果てていたとしたら、虚しいだけの一生だったように思えます。

「玉音放送」の報道を知り、こんなことを考えました。乱筆御免。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月11日

昭和19年(1944)の今日、『日本読書新聞』にアンケート回答「読書会に薦める-中込友美著『勤労青年の教育』」が掲載されました。

 さき頃読んだものゝ中で、友人中込友美君の著書「勤労青年の教育」(的生活国民教育会出版部発行 売価一圓四六銭)は適当な書物と考へます。すべて実際的に書いてあります。

『高村光太郎全集』第20巻に掲載されています。どうもどこかで誤植が生じたようで、書名やカギカッコ、カッコの位置がむちゃくちゃです。

誤 「勤労青年の教育」(的生活国民教育会出版部発行
正 「勤労青年の教養的生活」(国民教育会出版部発行

です。

こういうところにも、戦時の混乱が見て取れます。



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