昨日の『朝日新聞』さんに載った一面コラム「天声人語」。
天声人語
戦前の昭和恐慌のころを描いたのだろう。詩人の吉田嘉七(かしち)が「銀行は倒産し……」と書き出している作品がある。「月給が下がったと言う 物が売れないのだと言う……大人達(たち)の暗い表情が 暗い街に溢(あふ)れた」。局面を変えたのが、大陸での戦火だった▼1931年の満州事変である。「物がぼつぼつ上(あが)り出し 景気が良くなって来たらしい」。軍事費が増えたおかげだろうか。「戦争が始(はじま)って良かったね」という大人たちのつぶやきが、中学生である自分たちの耳にも入った。「やがて戦争で殺されるぼくらの」耳に▼古山高麗雄(こまお)の「日本好戦詩集」から孫引きさせてもらった。戦争は望まれずに始まったわけではないと、改めて気付く。倒産や失業にあえぐ世には、朗報でもあったと▼満州の戦火から日中戦争へ。さらに米英との戦争が始まると、別の熱狂があった。41年の真珠湾攻撃の日のことを、彫刻家で詩人の高村光太郎が感激して書いている。「世界は一新せられた。時代はたつた今大きく区切られた。昨日は遠い昔のやうである」(「十二月八日の記」)▼同じアジアの中国に刃を向けることの後ろめたさが、知識人にはあったとも言われる。世界を牛耳る米英に挑戦するという大義名分は彼らの心に響いたのか▼先の戦争がいかに悲惨だったかを語り継ぐ。それだけでなく戦争がうれしいものと受け止められたことも記憶したい。戦争は上から降ってくるのではなく、ときに私たちの足もとからわき出てくるものだから。
昭和13年(1938)、最愛の妻・智恵子は粟粒性肺結核により、千数百点の紙絵を遺し、この世を去りました。最後の7年間は心の病が顕在化してもいました。
智恵子の心の病を引き起こした大きな要因の一つが、世間との交わりを極力絶ち、芸術に精進しようとする自分たちの生活態度にあったのではないかと、光太郎は考えます。また、智恵子亡き後もそういう生活を続けることで、自分もおかしくなってしまうかもしれない、という危惧を抱いたかも知れません。結果、光太郎は智恵子が亡くなる少し前くらいから、積極的に世の中と関わろうという姿勢を明確にします。
奇しくもその世の中の流れもまた、大きな転換点を迎えていました。智恵子の心の病が顕在化した昭和6年(1931)満州事変勃発、智恵子が自殺未遂を図った同7年(1932)五・一五事件及び傀儡国家の満州国建国、同8年(1933)日本の国際連盟脱退及びドイツではヒトラー政権樹立、同11年(1936)二・二六事件、同12年(1937)日中戦争勃発、智恵子が亡くなった同13年(1938)国家総動員法施行、光太郎が智恵子の最期を謳った絶唱「レモン哀歌」が書かれた同14年(1939)第二次世界大戦開戦、同15年(1940)日独伊三国同盟締結、大政翼賛会結成、そして詩集『智恵子抄』が刊行された同16年(1941)太平洋戦争開戦……。
71年前の今日、終戦を迎えるまでに、光太郎は、『大いなる日に』(同17年=1942)、『をぢさんの詩』(同18年=1943)、『記録』(同19年=1944)と、立て続けに三冊の翼賛詩集を上梓。そこに収められなかった詩篇を含め、実に200篇弱の翼賛詩を光太郎は執筆しました。それらは新聞、雑誌、各種のアンソロジー、そしてラジオの電波に乗って、国民の元に届けられました。
終戦後、それらの翼賛詩に鼓舞された、多くの前途有為の若者が散っていったことを悔い、東京を焼け出され、岩手花巻に疎開していた光太郎は、さらに花巻の郊外・太田村の山小屋(高村山荘)に入り、7年間の蟄居生活を送ります。
当初は若い頃から抱いていた、自然に囲まれての生活の実現、さらに彼の地に日本最高の文化村を作る、といった無邪気な夢想とも云える考えがありましたが、厳しい自然、そして自らの戦争責任への省察が、山小屋生活の意味を変容させます。すなわち「自己流謫」。「流謫」=「流罪」です。
外界と隔てるものは粗壁と障子一枚、冬は万年筆のインクも凍り付き、寝ている布団にすき間か舞い込んだ雪がうっすらと積もる生活。前半の3年あまりは電気も通っていませんでした。
しかし、いくら山間僻地の村はずれとはいえ、まがりなりにも人が住んでいる村です。そこに住まっているだけでは「流罪」とはいえません。そこで、光太郎は考え得る限りの罰を自らに科します。すなわち、「私は何を措いても彫刻家である」と認識していた、その彫刻の封印です。
その封印を解いたのは、青森県から依頼された「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の制作にともなってのこと。おそらく智恵子と同根の結核に冒されていた光太郎は、もはや自らの死期が近いこともわかっていたのでしょう。
亡き智恵子への、世の中への、そして自らへの、それまでの様々な思いが全て結晶し、「乙女の像」は光太郎最後の大作として、十和田湖に立てられ、その2年半後に、光太郎もその生の歩みを終えるのです。
時代に翻弄された一人の芸術家の生の軌跡。この節目の日にもう一度、かみしめたいものです。
【折々の歌と句・光太郎】
くにをおもひきはむる心おのづから世界国家といふにつながる
昭和24年(1949) 光太郎67歳
戦後の花巻郊外太田村での作です。罪深き自らの来し方と、そして未来まで、やはり罪深きこの国そのものと重ね合わせ、これぞまさしくグローバルな視点を得ていたことが「見て取れます。