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ドキュメンタリー映画「サンマとカタール 女川つながる人々」テレビ放映。

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光太郎とのゆかりのある宮城県女川町を舞台に、東日本大震災から5年のあゆみを追ったドキュメンタリー映画、「サンマとカタール 女川つながる人々」。今年の5月に封切られ、当方は先月、浦安のシネマイクスピアリさんにて拝見して参りました。

ほぼ劇場公開は終了しましたが、驚いたことに、もうテレビで放映されます。 

映画「サンマとカタール 女川つながる人々」女川町の復興を追ったドキュメンタリー

BSジャパン 2016年7月30日(土)  16時00分~17時24分

壊滅的な被害を受けた宮城県女川町の復興5年目を追う!前向きに生きる力を映像に込めた感動のドキュメンタリー。今だからこそ伝える5年間の想いに心が熱くなる!

東日本大震災から5年。住民の1割近くが犠牲となり、8割近くが住まいを失った宮城県女川町は今、目覚ましく復興し、新しい町に生まれ変わるために力強く歩んでいる。人々はどうやって立ち上がったのか?そして中東カタールの関わりとは? 復興5年目の女川町で生きる人々を約2年撮影したドキュメンタリー。女川町の復興の軌跡、切なくて強い人間の底力に迫ります。

監督 乾弘明  ナレーション 中井貴一

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直接、光太郎に関わる部分はありませんが、ぜひご覧下さい。


女川と言えば、来月9日は第25回女川光太郎祭が開催されます(昨年の様子はこちら)。こぢんまりと行うイベントですので、今のところネット上に詳細な情報等は出ていないようです。詳細がわかりましたら、またお伝えいたします。


【折々の歌と句・光太郎】

子供等に蝉を分けてもらひたりうれしくてならず夕めしくふにも
大正13年(1924) 光太郎42歳


熊。

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先週、青森十和田湖畔に立つ光太郎最後の大作である「乙女の像」をキーワードにネット検索をしていたところ、熊の出没情報のページが引っかかりました。近くの十和田湖小学校さんでは、熊の糞らしきものが発見されています。
 

青森県の熊(クマ)目撃・出没情報

十和田市の乙女の像付近
• 日時:7月21日午後1時50分ごろ
• 場所:奥瀬字十和田湖畔休屋「乙女の像付近」の藪

十和田市の「十和田湖小学校」付近
• 日時:7月12日午後2時ごろ
• 場所:十和田市奥瀬十和田湖畔休屋
• その他:クマの”ふん”らしきものを発見


今年は特に東北で、熊による痛ましい事故が相次ぎました。秋田県鹿角市の十和田大湯地区では、山菜採りの方連続して亡くなる被害も出て、十和田湖の近くだから心配だと思っていましたが、先月30日には、十和田湖を泳ぐ熊の姿が撮影されたというニュースも報じられました。

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しかし、十和田湖も広いので、人の立ち入らないエリアでの話だろうと思っていて、まさか、観光施設も建ち並ぶ休屋地区にある乙女の像の近くに現れるとは思っていませんでした(その「まさか」がいけないのでしょうが)。

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「乙女の像」といえば、上記画像、テレビ東京系のBSジャパンさんで24日の日曜日に放映された「ミステリアス・ジャパン【恐山に並ぶ霊場・十和田湖 ~青森・十和田市~】」から。20秒ほどでご紹介いただきました。


続いて岩手県。

2週間前、岩手花巻の宮沢賢治イーハトーブセンターさんに「宮沢賢治生誕120年記念事業 賢治研究の先駆者たち⑥ 黄瀛展」を観に行った際に、付近に出没したという掲示が出ていました。

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花巻市さんのサイトに、光太郎が7年間を暮らした山小屋(高村山荘)・高村光太郎記念館のある、同市太田地区でも目撃情報があったことが出ています。同じ太田地区でも、山荘や記念館とは少し離れたところでしたが。
記念館では、熊よけのためにラジオ放送を大音量で流したりもしています。

光太郎が住んでいた戦後すぐの時期にも、もちろんイメージ 5熊が居たようで、昭和24年(1949)に書かれた「案内」という詩に、熊が現れます。

    案内

三畳あれば寝られますね。
これが水屋。
これが井戸。
山の水は山の空気のやうに美味。
あの畑が三畝、
いまはキヤベツの全盛です。
ここの疎林がヤツカの並木で、
小屋のまはりは栗と松。
坂を登るとここが見晴し、
展望二十里南にひらけて
左が北上山系、
右が奥羽国境山脈、
まん中の平野を北上川が縦に流れて、
あの霞んでゐる突きあたりの辺が
金華山沖といふことでせう。
智恵さん気に入りましたか、好きですか。
うしろの山つづきが毒が森。
そこにはカモシカも来るし熊も出ます。
智恵さん斯ういふところ好きでせう。


記念館には、光太郎が実際に使っていた熊よけの鈴も展示されています。

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熊は非常に恐ろしい動物ですが、こうした工夫でかなり被害は防げるはずです。むやみに怖れるあまり、「青森も岩手も行かないよ」ということにはなってほしくないものです。

当方、明後日にも花巻に行って参ります。高村光太郎記念館において、テルミン奏者の大西ようこさん、朗読の荒井真澄さんによるロビーコンサート的な催しがあります。熊には十分注意したいと思います。


【折々の歌と句・光太郎】

ぢりぢりときしる蝉の音すみゆけば耳にきこえずただ空に満つ
大正13年(1924) 光太郎42歳

JR東日本賞 交通広告グランプリ2016。

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昨日の『福島民友』さんから。
 

福島県の作品が「JR東日本賞」 交通広告グランプリ2016

 県は25日、ジェイアール東日本企画主催のイメージ 1「交通広告グランプリ2016」で、県の作品が特別賞に当たる「JR東日本賞」を受賞したと発表した。同日、都内で表彰が行われ、県広報課の早川真也主任主査が賞状を受けた。
 作品は高村光太郎の詩集「智恵子抄」にある「ほんとの空」を背景にイメージ。「あなたの思う福島はどんな福島ですか?」や「福島にも様々な人が暮らしています」「光の部分、影の部分。避難区域以外のほとんどの地域は日常を歩んでいます」「お時間があれば今度ぜひいらしてくださいね」「みなさんからの応援に感謝します」などの文言を配置し、メッセージ性を強調した。電通とクリエイティブディレクターの箭内道彦さん(郡山市出身)が協力。JR東日本管内などの32駅に掲示された。
 早川主任主査は「改めて福島に関心を持つきっかけになってくれたらうれしい。大勢の人が足を運び、ありのままの福島を感じてもらいたい」と喜びを語った。


「交通広告グランプリ」とは、公式サイトによれば、光太郎が亡くなった昭和31年(1956)から開催された「秀作車内ポスター展」まで遡ります。 同展は東京近郊の国鉄・私鉄・都電に掲出された車内ポスターの中から選ばれた優秀作品が一堂に会する、当時としては大規模な広告展示会でした。さらに、「国鉄広告展」、新幹線の車内や駅を対象とした「新幹線広告展」が相次いでスタート。

それらを段階的に統合する形で、平成元年(1989)、㈱ジェイアール東日本企画主催による「JR東日本ポスターグランプリ」が誕生。平成18年(2006)より名称を「交通広告グランプリ」と変更し、JR東日本の他、つくばエクスプレス、りんかい線、ゆりかもめ、JR貨物に掲出された作品も審査の対象としているそうです。

福島県の作品は「あなたの思う福島はどんな福島ですか?」という題で、「JR東日本賞」を獲得。「ほんとの空」をイメージしたという、ミントブルーからだんだん淡い水色へ遷るグラデーションをバックに、会津の赤べこ、そしてコピー文「福島の未来は、日本の未来。あたたかなみなさんからの応援に感謝します。原発の廃炉は、長い作業が続きます。これからもどうぞよろしくお願いします。ほんとにありがどない。 福島県」。シンプルな中に、さまざまなメッセージ、そして郷土福島を愛する心が伝わってくる作品です。

また、記事にはありませんが、駅ポスター部門の優秀作品賞に、ふくしまデスティネーションキャンペーンの「会いに行こう。福島」が選ばれています。


受賞作品の展示会が、来月末、JR東京駅近くで開催されます。事前申し込みが必要らしいので、早めにご紹介します。 

交通広告グランプリ2016 受賞作品展示会

期  日 : 2016年8月23日(火)、24日(水)
時  間 : 10:00~18:00
会  場 : サピアタワー ステーションコンファレンス東京 4F 401、402A~D 東京都千代田区丸の内1-7-12
申込方法 : 申込用紙をダウンロードしてご記入の上、ファクシミリにて「(株)ジェイアール東日本企画交通広告グランプリ事務局宛」にお申込み下さい。 【FAX】03-5447-0967

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他にもauの三太郎や、ムササビ(モモンガ?)に扮したスキージャンプの高梨沙羅選手(ANA)など、楽しい作品がいっぱいです。また、『福島民友』さんの記事と照らし合わせると、公式サイトでは受賞作も作品の一部のみの公開になっているようで、全体像はこちらでないと確認できないようです。

ぜひどうぞ。


【折々の歌と句・光太郎】

天上にひびきどよもす夏の日の歌のうたひ手さびしき小蝉
大正13年(1924) 光太郎42歳

明日あたり、いよいよ関東も梅雨明けだそうです。蝉の天下の到来ですね。

碌山美術館 「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」図録。

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信州安曇野の碌山美術館さんで先週末から開催中の 「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」の図録が届きました。

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B5判111ページ、立派な図録です。

同館館長・五十嵐久雄氏の「ごあいさつ」、島根県立美術館長・長谷川三郎氏の論考「彫刻家高村光太郎」、同館学芸員・武井敏氏の論考「高村光太郎の彫刻と詩―桃と乙女、そしてレモン―」、光太郎智恵子略年譜、彫刻に関わる光太郎の詩文、そして豊富な図版から成ります。図版は出展作品はもちろん、それ以外の参考図版も充実しています。

図版を見て、改めて思いました。それほど大規模な展覧会ではありませんが、光太郎智恵子芸術の精髄を集めており、二人の芸術世界を概観するには充分すぎる展示内容です。

光太郎の木彫が7点。「蝉」、「白文鳥」、「桃」、「柘榴」、「蓮根」、そして「鯰」が2種類。 ブロンズが12点。「獅子吼」、「薄命児男子頭部」、「園田孝吉胸像」、「裸婦坐像」、「腕」、「手」、「老人の首」、「黒田清輝胸像」、「光雲一周忌記念胸像」、「倉田雲平胸像」、「乙女の像(小型試作)」、「乙女の像(中型試作)」。このうち、「白文鳥」、「乙女の像(小型試作)」、「乙女の像(中型試作)」は、それぞれ2体で一対です。

さらに光太郎の作品としては、油絵の「自画像」、鉛筆書きの「乙女の像構想スケッチ」、肉筆詩稿(主に彫刻に関わる詩篇をセレクト)が18点、詩集が7冊(うち5冊は当方がお貸ししました)。

そして智恵子の紙絵の実物が40点。

22:35追記 山梨県の清春白樺美術館さんで所蔵の智恵子油絵「樟」も出品されています。書き落としました。


これほど充実した企画展ですが、それほど報道されておらず、残念です。地方紙のサイトでも開催予告的な記事は見つかりましたが、開幕した、という記事が見あたりません。今後に期待したいところです。

今後といえば、8月7日(日)、午後1時30分から当方の記念講演があります。

ぜひぜひ足をお運び下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

羽を彫り眼だまをほれば木の蝉もじつと息して夕闇にはふ
大正13年(1924) 光太郎42歳

碌山美術館さんで展示されているのが、この短歌で詠まれている「蝉」です。

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三重桑名石取祭。

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来週末のイベントです。 

桑名石取祭

期  日 : 2016年8月6日(土)~2016年8月7日(日)
会  場 : 三重県桑名市春日神社周辺 三重県桑名市本町46番地
問い合わせ : 桑名市物産観光案内所 0594-21-5416

「日本一やかましい祭り」「天下の奇祭」として知られる、桑名市の春日神社を中心に行われる祭です。華麗な装飾を施した30数台の祭車に鉦や太鼓をつけ、それらを一斉に打ち鳴らす音が、見る者を圧倒させる勢いある勇壮な祭りです。桑名の夏の風物詩として、地元の方に昔から親しまれています。

本楽では春日神社への巡行を行うため、旧東海道などを練り歩くその姿は荒々しく、勇敢さを感じると言われています。立川和四郎富重の彫刻や高村光雲作の飾り物をもつ歴史的にも価値の高い祭車もあり、各地区の住民は総出で参加し、一年一度の最大の娯楽行事ともなっています。2007(H19)年3月7日に国の重要無形民俗文化財に指定されました。


というわけで、光雲作の飾り物をつけた祭車も出るという祭りです。公式サイトはこちら

調べてみましたところ、40台あまりの祭車が存在するようですが、そのうちの「羽衣」地区の祭車が大正12年(1923)の光雲の手になる飾り、また、「太一丸」という、こちらは地区でなく、何らかのグループでの参加と思われますが、この祭車の飾りは明治30年(1897)で光雲工房作となっています。また、「太一丸」の祭車は、共に光雲が制作主任を務めた上野の西郷隆盛像の犬、皇居前広場の楠木正成像の馬を手がけた後藤貞行による神鹿の飾りも装備しているそうです。

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このブログでも何度かご紹介した横浜伊勢佐木町の日枝神社例大祭、それから高村家お膝元の文京区本駒込・駒込天祖神社例大祭(今年は4年に一度の本祭だそうで、追ってご紹介します)など、光雲が飾りを手がけた神輿が繰り出す祭礼がいくつかあります。ただ、そういったものが全国にどの程度あるのか、はっきりつかめていないのが現状です。

うちの方の祭りで光雲作の神輿(山車・祭車)が出るよ、という方、こちらまでご教示いただければ幸いです。


【折々の歌と句・光太郎】

だしぬけにぢぢと声立てまた黙るかなしき蝉よ籠の中の蝉
大正13年(1924) 光太郎42歳

花巻高村光太郎記念館ロビーコンサート。

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昨日は、日帰りで花巻に行っておりました。

光太郎が戦後の七年間を過ごした旧太田村に建つ花巻高村光太郎記念館で、現在、企画展「智恵子の紙絵」が開催されています。その関連行事、というわけではないのですが、話がとんとん拍子に進み、テルミン奏者の大西ようこさんと朗読家の荒井真澄さんのコラボによるコンサートが実現しました。

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テルミン奏者の大西さん。一昨年に「もう一つの智恵子抄」「otoyoMuseum 四ノ館『智恵子抄』」というコンサートを開かれ、それがご縁で昨年の連翹忌でも演奏をしていただきました。

朗読家の荒井さんも無伴奏ヴァイオリンと朗読 智恵子抄」、「シューマンと智恵子抄」などで、光太郎作品を手がけられています。今年の連翹忌で、大西さんと意気投合されたとのこと。

同館にはそうした催しを行うためのホール的なスペースはなく、スタッフの皆さんも、アドバイザーを務める当方も、これまでこうした催しは考えても居ませんでしたが、大西さんが同館を訪れることになる → どうせなら演奏 → それなら荒井さんも巻き込む → 場所はないが、何とかする、という流れで、手前の展示室1(光太郎の彫刻作品が並んでいます)が比較的広いので、そこでやってしまえ、ということになりました。

というわけで、本番は光太郎彫刻に囲まれての演奏・朗読となりました。

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これまで様々な機会に光太郎智恵子がらみのコンサート等に足を運んで参りましたが、光太郎彫刻に囲まれてのそれは記憶にありません。

リハーサル風景。

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さて、本番。お客様の入りはどうだろうと心配でしたが、何やかやで50名くらいの皆さんが集まって下さいまして、一安心。

仕掛人の一人、花巻高村光太郎記念会理事にして、生前の光太郎をよくご存じの浅沼隆氏が司会。

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当方も、一言、ご挨拶申し上げました。

最初は大西さんのソロ。カッチーニの「アヴェ・マリア」など。

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テルミンを見るのも聴くのも初めて、という方がほとんどで、興味深く聴かれていたようです。

途中から荒井さんが合流、大西さんの演奏をバックに『智恵子抄その後』の中から、当地に関わる詩篇と散文を朗読されました。

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急に決まった企画でしたので、お二人での合わせは当日まで行われず、ある意味、ぶっつけ本番だったそうですが、どうしてどうして、ぴったり息のあったコラボレーションでした。

最後は荒井さんのリードで、会場の皆さんと共に2代目コロムビア・ローズさんの「智恵子抄」を歌いました。智恵子の故郷・二本松の皆さんはどなたもご存じの歌ですが、花巻ではどうかと思っていました。しかし、意外とご存じの方が多かったようでした。

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盛会のうちに終わりました。

終演後は、皆さんと光太郎が実際に暮らした山小屋(高村山荘)付近を散策したり、記念館の展示を拝見したりしました。

役得で、普段非公開の山荘内部にも入れていただきました。

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というわけで、充実の1日でした。


光太郎記念館も、こうしたコンサートなどの新たな活用法の方向性が見え、大きな収穫でした。ただ、どなたにでも会場を開放し、場を提供するというわけにも行かないかとは存じます。今日のこのブログ、題名が「ロビーコンサート」ですが、結局はロビーではなく「展示室コンサート」ですので、そうそういつもいつもこうした場合に対応できません。また、ぜんぜんご存じない方に場を提供し、いざ公演となったらとんでもない内容だった、などということも無きにしもあらずですし……。

今後、こうした活用法も含めて、館のスタッフの方々と詰めて行きたいと思います。


【折々の歌と句・光太郎】

生きの身のきたなきところどこにもなく乾きてかろきこの油蝉
大正13年(1924) 光太郎42歳

昨日は東北でも梅雨明けが宣言されました。高村山荘周辺では、まだ今一つ蝉の声は聴けませんでしたが、地面には幼虫が羽化のため出て来たのであろう穴が目立ちました。

ドキュメンタリー映画「サンマとカタール 女川つながる人々」/第25回女川光太郎祭。

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光太郎とのゆかりのある宮城県女川町を舞台に、東日本大震災から5年のあゆみを追ったドキュメンタリー映画、「サンマとカタール 女川つながる人々」。今年の5月に封切られ、当方は先月、浦安のシネマイクスピアリさんにて拝見して参りました。

昨日、BSジャパンさんで放映され、録画、拝見しました。何度見てもいいですね。

「2011年3月11日 宮城県女川町」「住民の1割、建物の8割を失った」とのテロップ。背景には、あの日の光景。

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そしてタイトルバック。


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中東のカタールの支援で、水産業の中核施設・大型冷蔵庫「マスカー」が建設された件。カタールロケも敢行されています。

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メインは女川町で行われた昨年春の「復幸祭」。営業再開した女川駅、津波からの避難を想定してのロードレース「復幸男」、ももいろクローバーZさんのライヴ。

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さらに昨冬の駅前商店街オープン。

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定点カメラによるコマ送りなども含まれ、記録映画としても貴重なものです。

そして、毎年、女川光太郎祭でお世話になっている須田善明町長をはじめ、女川に生きる人々の姿。苦境に立ち向かう人々の姿に、勇気がもらえます。まさしくヒューマンドキュメンタリーと呼ぶにふさわしいものです。

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ぜひともDVD化して販売されることを希望します。


さて、今年も8月9日に、女川光太郎祭が開催されます。こぢんまりと行うイベントで、ネット上に詳細情報等有りませんが、問い合わせた結果と昨年までの要項を参考にまとめると、以下の通りです。 

第25回女川光太郎祭

期 日 : 2016年8月9日(火)
時 間 : 午後2:00~
場 所 : 女川フューチャーセンターCamass 宮城県牡鹿郡女川町女川浜字大原75-7 女川駅から徒歩2分
内 容 : 
 献花
 光太郎紀行文、詩などの朗読
 講演 「高村光太郎、その生の軌跡 ―連作詩「暗愚小伝」をめぐって④―」
     高村光太郎連翹忌運営委員会代表 小山弘明 
 ギター・オペラ演奏 宮川菊佳(ギタリスト) 本宮寛子(オペラ歌手)


会場が昨年までの仮説商店街から女川駅前に変更、今年は地元和太鼓サークルの演奏は無いそうです。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

手に取れば飛ばうともせずのろのろと手のひら痒くあるきまはる蝉
大正13年(1924) 光太郎42歳

テレビ放映情報。

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テレビ放映の情報です。 

新・BS日本のうた

NHKBSプレミアム 2016年8月7日(日)  19時30分~21時00分

今回は「もう一度逢いたい」「味噌汁の詩」「智恵子抄」「私が生まれて育ったところ」「夜空ノムコウ」「他人船」「奥入瀬」「不思議なピーチパイ」「帰らざる日々」「男の背中」【スペシャルステージ】は「兄弟仁義」「博多の女」「加賀の女」「函館の女」「矢切の渡し」「長崎の鐘」「夕霧岬」「男の勝負」「与作~秋田草刈唄入り~」【イマオシ!】は西方裕之、森昌子、千昌夫、北島三郎&藤あや子。

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6/23、神奈川県座間市での公開収録だったそうです。「智恵子抄」は、昭和39年(1964)、2代目コロムビアローズさんの歌唱でリリースされたものですが、森昌子さんがカヴァーして持ち歌にされています。今回も森さんの演奏です。森さんは千昌夫さんと共に司会も務められるそうです。

 

人権啓発映画「ほんとの空」(字幕スーパー)

RNC西日本テレビ(地上波) 2016年8月5日(金)  10:25~11:05

高齢者や外国人に対する排除、不利益な扱い、同和問題や原発事故に伴う風評被害の問題、これらに共通する根っこの部分は、誤った考え方や思い込み、偏見という「意識」である。誰もが他者の排除や差別がよくないことは理解している。その一方で、自分や身近な人に関わる出来事には敏感に反応するが、それ以外のことは他人事のように感じたりする。また、自分や家族の生活を守るために、あるいは誤解や偏見に気付づかず、他者を排除したり傷つけたりしがちである。 誤解や偏見に気づき人と深く向き合うこと、他者の気持ちを我がこととして思うこと。 すべての人権課題を自分に関わることとしてとらえ、日常の行動につなげていくようにと訴える。

出演  白石美帆 鳥羽潤 湯浅美和子 浦上晟周 石川大樹

RNC西日本テレビさんは、香川県に本社を置くローカル局。香川・岡山の両県で視聴可能です。

このブログで何度かご紹介してきました「ほんとの空」。光太郎詩「あどけない話」を一つのモチーフに、兵庫県人権啓発教会さんによる企画、県教委の協力で、東映さんが制作したものです。制作当初は各地で上映会が行われ、現在も時折学校さんなどで上映されています。DVDの個人向け貸し出しも行われており、それを活用して拝見しましたが、なかなか考えさせられる内容です。

香川・岡山両県の皆さん、ぜひご覧下さい。


ところで、昨日のNHK Eテレさんの「アートシーン」(「日曜美術館」とセットの番組)で、信州安曇野の碌山美術館さんで開催中の「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」。をご紹介いただきました。

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今週末の日曜日(8/7)には当方の記念講演もあります。ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

どこに口があるかわからぬこの蝉に何をあたへんあたふるものなし
大正13年(1924) 光太郎42歳



埼玉東松山市立図書館「高村光太郎資料展~田口弘氏寄贈資料による~」。

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先頃、埼玉県東松山市の元教育長・田口弘氏が、書簡や書など光太郎関連資料を寄贈された件がニュースになりました。地元テレビ局・テレ玉さんの報道がこちら。『東京新聞』さんと『毎日新聞』さん、そして『産経新聞』さんはこちら

少し遅れて先週、『朝日新聞』さんの埼玉版にも記事が載りました。 

埼玉)高村光太郎の書簡、元東松山市教育長が寄付

 元教師で、東松山市教育長を長く務めた田口弘さん(94)がイメージ 1先月、詩人で彫刻家の高村光太郎(1883―1956)から届いたはがきや封書、色紙、直筆サイン入り全集など約100点を市へ寄贈した。書簡は主に戦中戦後、田口さんが高村に送った自作の詩や食料品に対するお礼状で、高村の誠実な人柄がうかがえる。
 田口さんは旧制松山中学に在学当時、国文学者だった恩師の影響で高村研究を始めた。師範学校専攻科で、新聞や雑誌に載った高村の記事や作品をノートに書き写すなどして卒業論文にまとめた。44年4月、その恩師に連れられて高村を訪ね、論イメージ 2文を見せたところ、「僕より僕のことを知っているね」と言われたという。
 「すでに『智恵子抄』などを発表した著名人だったのに、初対面の学生の論文を丹念に読んでくれた」と感激した田口さんは、ますますファンに。海軍軍属として南方戦線へ赴く直前に会うと、「世界はうつくし」など色紙2枚を書いてくれたという。田口さんはインドネシアで捕虜生活をおくりながら詩作に励み、「ジャワ抄」にまとめた。
 復員後、岩手県の疎開先へ高村を訪ねた田口さんが、戦地で色紙を失ったことをわびると書き直してくれた。新制松山中学の教諭となった田口さんは、その後も妻が編んだ靴下や高村が好物の練乳など食料品を送り続け、生まれた長男には「光夫」と名付けた。
 練乳に対して高村は「かかる乳製品の貴重なものを老人がいただくのは世の嬰児達(えいじたち)に相済まぬ気がいたしましたが」「紅茶に入れたり、うすめて朝ののみものにしたり、パンをつくったりしてよろこんで居(お)ります」と封書をしたためた。
 田口さんが送った作品には「立派なものです。新鮮で、ほんとの感じに満ちてゐます」などと評し、「ジャワ抄」で田口さんが用いた「カンポン」(集落)という現地語を返礼のはがきの文面に使うなど気遣いも随所に見せている。
 田口さんは「高村は今も、私の生き方の教科書。若い時代の出会いが人生を決める。寄贈する書簡で、若い人が高村の崇高な人間性にふれてくれれば」と話す。市は書簡を市立図書館に所蔵し、8月10日から公開することにしている。(西堀岳路)

記事にある「ジャワ抄」は正しくは「ジャワ詩抄」。田口氏手製の詩集です。


記事にある市立図書館での公開及び田口氏の講演会について、市の広報誌『広報ひがしまつやま』の今月号に、案内が掲載されました。 

高村光太郎資料展~田口弘氏寄贈資料による~

期  日 : 8月10日(水)~28日(日) 
会  場 : 東松山市立図書館3階展示室 東松山市本町2-11-20
時  間 : 午前9時30分~午後7時
休 館 日 : 第4月曜日

講演会
期  日 : 8月21日(日)午前11時~11時45分
会  場 : 市立図書館3階研修室
講  師 : 田口 弘 氏
定  員 : 50人(申込順)
申込み 8月5日(金)から直接又は電話で市立図書館へ。[TEL] 0493(22)0324

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『広報ひがしまつやま』、さらに田口氏と光太郎の関わりについての記事も掲載されています。

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当方も講演会にはお邪魔しようと考えております。

展示される資料も、光太郎自筆ハガキ以外にも、筑摩書房『高村光太郎全集』の口絵を飾った書や、それらが贈られた際の小包の包装紙、鉄道荷札などもあるはずで、光太郎の息吹がありありと感じられる逸品ぞろいです。ぜひご覧下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

つつましく手にはふ小蝉ぢぢとなきたちまち飛びて青空に入る
大正13年(1924) 光太郎42歳




彦根市立図書館創設100周年記念事業 プレミアム講演会 「彦根で育った詩人 高祖 保~その生涯と作品~」。

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滋賀県彦根市からイベント情報です。 

彦根市立図書館創設100周年記念事業 プレミアム講演会 「彦根で育った詩人 高祖 保~その生涯と作品~」

日  時 : 2016年8月7日(日)13:00~
場  所 : 彦根市立図書館 滋賀県彦根市尾末町8番1号
講  師 : 外村彰氏 ( 国立呉工業高等専門学校 教授)
料  金 : 無料
定  員 : 50名(申込先着順)  ※申込受付 7/8(火)~
問い合わせ: 彦根市立図書館  TEL.0749-22-0649

高祖保は明治43年に生まれた詩人で、彦根尋常高等中学校(現彦根東高校)で学び、高村光太郎や堀口大学 など著名な詩人と交流し、『椎の木』『雪』『文藝汎論』などに特集を数多く投稿しています。戦時中34歳の若さで永眠されました。
高祖は8歳から旧制彦根中学(現・彦根東高校)を経て大学に進学するまで、母の郷里・彦根で過ごしました。
本講演では、高祖保の文学・人物について語っていただきます。


高祖保(こうそ・たもつ)は岡山県出身の詩人。『希臘十字』(昭和8年=1933)、『雪』(昭和17年=1942)などの詩集がある他、光太郎も寄稿した雑誌『門』を主宰しました。

昭和18年(1943)には、光太郎の年少者向け詩集『をぢさんの詩』の編集を行いました。平成25年(2013)の明治古典会七夕古書入札市で、光太郎から高祖に贈られた識語署名入りの『をぢさんの詩』他がひょっこりと出て来、今年の同会でも出品されています。

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今回の講演会場である彦根市立図書館さんにも、光太郎から高祖に宛てた書簡が1通所蔵されており、5年ほど前に拝見に伺いました。昭和19年(1944)に刊行された高祖生前最後の詩集『夜のひきあけ』に関する内容でした。高祖はこの年、ビルマへと召集され、翌年同地で戦病死しています。

また、高祖の出身地、岡山にも光太郎から高祖宛の書簡が遺っているようですが、そちらを収蔵している施設が今一つよくわかりません。


こういったマイナーな文学者を取り上げての講演会。こういう取り組みこそ大切だと思います。頭が下がります。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々の歌と句・光太郎】

飛びたつとき吾が手を掻きてゆきし蝉の足の力の忘られなくに
大正13年(1924) 光太郎42歳



連続テレビ小説 とと姉ちゃん第19週「鞠子、平塚らいてうに会う」。

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現在NHKさんで放映中の「連続テレビ小説 とと姉ちゃん」。これまでも智恵子がその表紙を描いた雑誌『青鞜』が、一つのモチーフとしてドラマの中で効果的に使われてきました。


来週のサブタイトルが「鞠子、平塚らいてうに会う」です。8月8日(月)~10日(水)あたりで、平塚らいてうが登場するようです。 

連続テレビ小説 とと姉ちゃん「鞠子、平塚らいてうに会う」

第109回 2016年8月8日(月)
 水田(伊藤淳史)からのプロポーズに答えを出せない鞠子(相楽樹)。大学まで出たのに中途半端なまま仕事をやめる決心がつかない鞠子は仕事で成果を出そうと奮闘するが…。常子(高畑充希)が理由を尋ねると、大学まで出してもらったのに出版の仕事もままならず引け目を感じているのだと言う。東堂(片桐はいり)からの助言もあり、鞠子はまず仕事で成果を出そうと奮闘する。ある日、突然作家がおりてしまい予定の原稿に一つ穴があいてしまう。他に良い作家はいないかと花山(唐沢寿明)に言われ皆が悩む中、鞠子がある提案をする…。

第110回 2016年8月9日(火) 
 予定していた原稿に突然穴があき、騒然とする編集部。鞠子(相楽樹)は、平塚らいてう(真野響子)に原稿を依頼してはと提案する。信頼している編集者としか仕事をしないというらいてう。鞠子は門前払いを受けるも、担当編集者の元に何度も足を運び交渉を続け、やっと会うことができたらいてうに『青鞜』で自分が感動した様な女性に向けての言葉を寄稿してほしいと依頼する。しかしらいてうが提案してきたのは意外な内容だった…。

第111回 2016年8月10日(水)
 平塚らいてう(真野響子)からの原稿を無事受け取り帰社した鞠子(相楽樹)は、原稿を読んだ花山(唐沢寿明)から、すばらしい言葉を書かせたと褒められる。仕事に一区切りつけられたと感じた鞠子は、その帰り道、水田(伊藤淳史)にプロポーズを受けることを伝える。水田が小橋家に結婚の挨拶に行くと、常子(高畑充希)たちも大喜びで二人を迎える。早速結婚式の準備を始めた水田と鞠子は、花山に媒酌人を依頼するのだが…。


らいてうに扮するのは真野響子さん。前作「あさが来た」では元AKB48の大島優子さんが、日の出女子大学校(日本女子大学校)時代の小生意気ならいてうを演じられていました。成長した(笑)らいてうを、真野さんがどのように演じられるのか、楽しみです。


平塚らいてう、といえば、らいてうの生涯を追ったドキュメンタリー映画が上映されます。 

京橋映画小劇場No. 34 ドキュメンタリー作家 羽田澄子

会  期 : 2016年8月9日(火)−8月28日(日)
会  場 : 東京国立近代美術館 フィルムセンター小ホール 東京都中央区京橋 3-7-6
定  員 : 151名(各回入替制 観覧券は当日・当該回のみ有効)
料  金 : 一般520円/高校・大学生・シニア310円/小・中学生100円/障害者(付添者は原則1名まで)、        
        キャンパスメンバーズは無料

フィルムセンターは《京橋映画小劇場》第34回企画として、2009年の「ドキュメンタリー作家 土本典昭」以来7年ぶりに、日本の優れたドキュメンタリー映画監督の歩みを回顧する特集を開催します。今回は、1950年代から現在まで、幅広い対象を粘り強くとらえ続け、日本の社会や文化に新たな視座を提供している羽田澄子監督を取り上げます。

本特集は、羽田監督のデビュー作から最新作まで、計26作品を18プログラムに組んで上映し、その足跡をたどる格好の機会となります。ぜひご来場ください。

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上映26作品の中に「元始、女性は太陽であった 平塚らいてうの生涯」(140分)が含まれています。 

元始、女性は太陽であった 平塚らいてうの生涯

1911年,女性だけによる文芸誌『青鞜』の創刊により日本の女性解放運動の先駆けとなった平塚らいてう(1886-1971)。「その名をきくと,すべての女性の心に灯りがともる」という羽田が,らいてうの思想形成の原点になった禅の体験から説き起し,らいてうの一人称の語りとスチル写真によって,彼女を突き動かした時代の姿を再構築した。企画は1998 年に「平塚らいてうの記録映画をつくる会」から高野悦子を通じて羽田に持ち込まれた。平和運動に帰結したらいてうの生き方は,軍国主義の時代に青春を送った羽田の反戦への思いと重なる。
2001 企画:平塚らいてうの記録映画をつくる会 製作:自由工房
(140分・16mm・カラー)

8 / 13(土)11:00am  8 / 25(木)2:00pm


らいてうは日本女子大学校家政学部で、智恵子の1級上の先輩でしたが、早生まれのため、生年は智恵子と同じ明治19年(1886)。したがって、智恵子と同じく、今年が生誕130周年にあたります。それを記念してのイベント等も企画されているようですので、また折を見てご紹介します。


【折々の歌と句・光太郎】

小刀(こがたな)みな研ぎをはり夕闇のうごめくかげに蝉彫るわれは
大正13年(1924) 光太郎42歳

デーリー東北「天鐘」。

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今週火曜の青森の地方紙『デーリー東北』さんの一面コラム「天鐘」。光太郎智恵子に触れて下さいました。 

天鐘(8月2日)

 1970年代の東京で学生時代を過ごした。高度経済成長の恩恵と引き替えにスモッグが空一面を覆い、目に染みた。高村光太郎の『智恵子抄』同様「東京には空がない」と思った▼あの頃、東京は日本の縮図であり、地方はその大都会に憧れ、模倣した。東京は日本を代表する夢のモデル都市であった。都政の変遷をたどれば戦後わが国の政治や経済、社会がまるで手に取るように分かる▼初代都知事の安井誠一郎氏は戦後の復興、2代東龍太郎氏は東京五輪に向け、首都高などインフラ整備に尽力。3代美濃部亮吉氏は成長の裏に隠された公害問題と闘った▼4代鈴木俊一氏は財政再建、5代青島幸男氏は都市博の中止、6代石原慎太郎氏はディーゼル車の規制、7代猪瀬直樹氏は東京五輪招致を果たしたが、政治とカネで沈没。8代舛添要一氏は承知の通りである▼復興から成長、産業発展と公害、財政逼迫に再建と一定の因果で動いてきた。続く初の女性都知事、小池百合子氏は「見たこともない都政」を宣言。崖から飛び降りた度胸の持ち主が何を見せるのか、期待したい▼往時は東京が始めると地方がすぐ真似た。そんな一例に「歩行者天国」がある。46年前の今日、銀座や新宿などで始まった。当時の美濃部知事が「東京に青空を」とスモッグの元凶である車を締め出した。9代小池氏が期待を乞う都政とは―地方も大いに注目である。


当方も記者の方と同じく1970年代、東京に住んでおりました。といっても幼稚園・小学校低学年の頃で、まだ「高村光太郎」の名は知りませんでした。確かに当時は「光化学スモッグ注意報」あるいは「警報」が頻繁に出、そういう時は決まって深呼吸すると気管が痛いと感じたものです。

その反面、当時住んでいたのは都下多摩地区で、まだ宅地化はそれほど進んでおらず、田んぼにはドジョウやタニシやザリガニ、森にはミヤマクワガタという状況で、今考えるとアンバランスでした。PCのストリートビューで住んでいたあたりを見ても、もはや別の町のようになってしまっています。

ただ、「スモッグ」という単語がもはや死語となりつつあるのは、いいことだと思います。

光太郎は東京生まれの東京育ち。元々先祖は鳥取藩士だったそうですが、曾祖父で幕末文久年間に亡くなった富五郎は八丁堀の鰻屋、祖父の兼吉は浅草の露天商、そして父・光雲は仏師と、絵に描いたような庶民階級、いわゆる「江戸っ子」でした。

昭和20年の空襲で駒込林町のアトリエを焼かれるまで、海外留学の期間を除いて、光太郎は東京以外に居住したことはありませんでした。それが疎開のため移った岩手で足かけ8年を過ごすうち、清冽な自然の中での生活にすっかりはまり、戦後のある種むちゃくちゃな復興をする東京を毛嫌いするようになりました。

下記は、昭和27年(1952)の『週刊朝日』に載った、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、8年ぶりに上京した光太郎へのインタビュー「おろかなる都 光太郎東京を叱る」です。

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同じ昭和27年(1952)には、こんな詩も作っています。イメージ 2

   報告   

 あなたのきらひな東京へ
 山からこんど来てみると
 生れ故郷の東京が
 文化のがらくたに埋もれて
 足のふみ場もないやうです。
 ひと皮かぶせたアスフアルトに
 無用のタキシが充満して
 人は南にゆかうとすると
 結局北にゆかされます。
 空には爆音、
 地にはラウドスピーカー。
 鼓膜を鋼で張りつめて
 意志のない不生産的生きものが
 他国のチリンチリン的敗物を
 がつがつ食べて得意です。
 あなたのきらひな東京が
 わたくしもきらひになりました。
 仕事が出来たらすぐ山へ帰りませう、
 あの清潔なモラルの天地で
 も一度新鮮無比なあなたに会ひませう。


画像は岩手から上京した際に上野駅で撮られたショットです。「長靴で出て来るか」という感じですね(笑)。東京もなめられたものです。

しかし、光太郎、再びの東京暮らしをけっこう満喫していました。草野心平ら、ある種の「悪友」たちと飲み歩いたり食べ歩いたり、ストリップを観に行ったり……。東京に対する悪口雑言も、東京を愛するが故の箴言警句だったのかもしれません。

乙女の像完成後に、宣言通り一時的に岩手に帰りましたが、身体は結核でぼろぼろになっていたため、結局、設備の整った東京で療養せざるを得ず、亡くなったのも東京でした。

さて、「天鐘」にあるとおり、新都知事の誕生です。光太郎がもし現在の東京を見たら、「○○なる都」、どんな形容動詞を使うのでしょうか。


【折々の歌と句・光太郎】

じつとしてこれやこの木の朽つるまで木ぼりの蝉はあり経らんとすらん
大正13年(1924) 光太郎42歳

乙女の像。

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週末の『朝日新聞』さんから、全文が長いので、抜粋で。 

(大峯伸之のまちダネ)御堂筋のいま2

■知恵出し合う「企業町会」
 行政と企業が手を携えた街づくりが進む大阪・御堂筋。先週紹介した「御堂筋まちづくりネットワーク」の活動エリアの南側では、長堀通を中心に取り組むNPO法人の「御堂筋・長堀21世紀の会」がある。約120の会員の大半は企業だ。
■作品29体「彫刻ストリート」
 オーギュスト・ロダン、ヘンリー・ムーア、高村光太郎、佐藤忠良……。御堂筋の東西の歩道には、国内外の著名な彫刻家の作品29体が並んでいる。
 大阪市の呼びかけで1991年から沿道の企業を中心に作品を買い、置いた。いずれも本物だ。最近は「御堂筋彫刻ストリート」とも呼ばれている。
 大阪市のガイドツアー講師を務める伊藤義麿さん(78)は鐘淵化学工業(現・カネカ)で働いていた頃、御堂筋沿いの日本生命を訪問。そのとき、歩道のアントワーヌ・ブールデルの作品に気づいた。
 伊藤さんの父は美術評論家の故・柳亮(やなぎりょう)。フランスのパリで暮らし、ブールデルの弟子の清水多嘉示(たかし)と交流があった。清水の作品「みどりのリズム」もまた御堂筋の歩道にある。伊藤さんは父が残した資料を読み込み、美術の勉強にのめり込んだ。
 伊藤さんと一緒に彫刻ストリートを歩いた。「足の筋肉の表現が細かくて緻密(ちみつ)でしょう」。大阪ガスビル近くのロダンの作品「イヴ」を前に、伊藤さんの話が止まらない。作品の前に自転車が放置される時期もあったが、伊藤さんは「最近は改善されました」とほほ笑んだ。
■府市と企業で目玉イベント
 四季を通じて、御堂筋はさまざまなイベントで盛り上がる。
 かつての代表格は「御堂筋パレード」だった。1983年に始まり、マーチングバンドやバトントワリング、企業などによる「フロート(花車)」が秋の大阪を彩ってきた。
 ところが、分担金を出してきた大阪府から見直しを求められたことをきっかけに、パレードは御堂筋の完成70周年にあたる2007年が最後に。約2キロを72団体・約7千人が練り歩き、約125万人(主催者発表)が沿道を埋めた。
 08~12年の春には、歩行者天国の「御堂筋フェスタ」、秋には「御堂筋kappo(カッポ)」がそれぞれ催された。この2イベントは13年春、同じ日の開催となった。一連の取り組みは「府市統合」をめぐる動きや議論と重なったものの、府と市の担当者は企業と手をたずさえ、「御堂筋の活性化」へ知恵を出し合っていく。
 14年春。府市は一緒に「御堂筋ジョイふる」を開き、昨年秋には「御堂筋オータムパーティー」に。F1カーや100台のフェラーリ車が登場した。
 この秋、どんな「目玉企画」が出てくるか楽しみだ。(大峯伸之)

記事にある御堂筋の彫刻ストリート、光太郎彫刻は、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の中型試作が設置されています。2年前に見てきたレポートこちら

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数少ない光太郎彫刻屋外展示の一つです。


本家、十和田湖を扱うテレビ番組放映がありますので、ついでにご紹介します。 

イチオシ!2泊3日の旅 青森・奥入瀬~八甲田…水と緑の絶景!

BS日テレ 2016年8月11日 (木)  20時00分~20時54分

苔むす岩々が織りなす奇跡の渓流▽青森リンゴにこだわった贅沢高級ビュッフェ▽十和田湖の神秘的な光景に大感動▽ワイルドなボートツアー絶叫体験▽八甲田の温泉で絶品御膳

1泊2日の慌ただしい行程ではなく、「2日目をゆったり使える」2泊3日の旅を楽しみませんか?日本全国の風光明媚な景観を訪れ、旬の味覚を味わう2泊3日の“時間を贅沢に使った"旅番組です。

出演  旅人 佐伯チズ&南美希子   ナレーター 真地勇志


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ちらっとでも乙女の像の紹介があるといいのですが……。


当方、今日から地方出張で4泊5日の長旅です。

まずは信州安曇野。碌山美術館さんで開催中の企画展「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」の関連行事で講演を仰せつかり、「高村光太郎作《乙女の像》をめぐって」と題してお話しさせていただきます。それが7日(日)ですが、早のりで今日から信州に参ります。

昨年、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さん編集による『十和田湖乙女の像のものがたりという書籍が刊行され、前半部分を執筆し、「乙女の像」についてがっつり調べましたので、その成果です。元々碌山美術館さんで「乙女の像」の中型試作、小型試作を所蔵されており、「この辺の内容でどうですか」というご提案もありました。もちろんそれ以外に光太郎の生涯の俯瞰、碌山荻原守衛と光太郎との関連、智恵子についても述べる予定です。

その後、9日(火)が宮城女川で女川光太郎祭。そちらでも講演が入っており、一旦帰宅すると遠回りになるので、8日(月)、一日かけて信州から三陸まで移動します。

帰宅予定は10日(水)。その間、このブログは携帯から投稿します。字数制限がある上、画像も制約があり、内容が薄いものとなりましょうが(いつもだろ、と突っ込まれそうですが)、見捨てないで下さい(笑)。

【折々の歌と句・光太郎】

ちひさき蟲にはあれどわれよりも命ながしとはしきわが蝉
大正13年(1924) 光太郎42歳

信州に来ております。

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4泊5日の日程で講演行脚中です。

昨日、信州入りし、安曇野碌山美術館さんで開催中の企画展「高村光太郎彫刻と詩展」を拝見。今日は同館にて企画展関連行事として、講演をさせていただきました。

90分ということで時間を頂いたのですが、あれもこれもと欲張ってしまい、後半、はしょらざるを得ませんでした。反省しております。

昨日から青木湖畔のリゾートホテルに宿泊しています。

明日は信州をあとに、三陸女川に向かいます。明後日、女川光太郎祭でまた講演です。依頼が色々入り、有り難い限りです。

詳しくは帰ってからレポート致します。

【折々の歌と句・光太郎】
電燈にあてて木蝉を わが見れば見れども飽かず虫けらの蝉
大正13年(1924) 光太郎42歳

碌山美術館さんにて、この歌に詠まれた木彫の蝉を、久々に拝見しました。いつ見ても何度見ても、やはり素晴らしい作品です。

女川に到着しました。

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今朝、愛車を駆って信州を出発し、休み休み9時間ほどかけて、三陸女川に到着しました。

テレビの報道や、映画「サンマとカタール」で拝見していましたが、駅前がきれいに整備されていて、驚きました。

明日はその駅前近くの「カマス」さんという施設で、女川光太郎祭です。台風の影響が心配ですが、このイベントの時には台風が来ることがたびたびあり、一種のジンクスです。

今日明日の宿は、以前にも泊めていただいたトレーラーハウスの宿泊施設「エル・ファロ」さん。

詳細は帰ってからレポート致します。

【折々の歌と句・光太郎】
黒潮は親潮を追ふ親潮はガスまき立てて船にせまれり
昭和6年(1931) 光太郎49歳

三陸海岸を船で北上しつつ詠んだ歌です。

今朝までは北アルプスの山懐にいたのが、今は荒波打ち寄せる三陸海岸。不思議な感覚です。

女川光太郎祭、終わりました。

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三陸女川にての第25回女川光太郎祭、つつがなく終わりました。

晩年の光太郎に私淑された当会顧問・北川太一先生、光太郎の実弟にして鋳金の人間国宝だった故・高村豊周令孫である高村達氏なども駆けつけて下さいました。

今年から、震災前の会場だった、光太郎文学碑が立っていた海岸緑地公園に近い、女川駅前の「フューチャーステーション・カマス」という施設で行われました。

前座で当方の講演、地元の方、遠方よりの方などの朗読、プロの音楽家の皆さんの演奏などを通じ、光太郎の遺徳を偲びました。

詳しくは帰ってからレポート致します。

【折々の歌と句・光太郎】
山どりの瀬戸波あらし船の上にかぶさりゆるる金華山かな
昭和6年(1931) 光太郎49歳

昨日に引き続き、昭和6年(1931)、女川を含む三陸海岸一帯を約1ヶ月旅した折に詠んだ歌です。

信州安曇野碌山美術館 「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」。

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4泊5日の行程を終え、先ほど、無事に帰着しました。

5日間のレポートをざっくりと書こうと思います。

8月6日(土)、愛車で千葉の自宅兼事務所を出発。一路、信州安曇野の碌山美術館さんを目指しました。夏休みの土曜ということで、中央道は八王子あたりから山梨県内に入るまで断続的に渋滞、同館には夕方に着きました。

同館では「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」が開催中で、翌7日(日)には、関連行事として当方の講演。当日の到着では途中で何かあった場合に怖いので、前のり致しました。

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当日の午前中も企画展を拝見。光太郎芸術の凝縮された、よい展示でした。

同館には展示のための棟が4つあり、メインの碌山館は、その名が冠された碌山荻原守衛の彫刻。

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それ以外の3棟を、今回の企画展に使って下さっています。

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第1展示棟には、ブロンズの光太郎彫刻10点。それから、パネル展示として作品自体が亡失し、写真のみが残っている彫刻(全て塑像)の写真25点。

第2展示棟では、光太郎の直筆詩稿、著書、そして「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」関連。

詩稿は主に彫刻制作に関する詩が選ばれ、詩の全文を活字にしたパネルが添えられていました。著書は選詩集的なものを除く、生前刊行の詩集全てと、光太郎没後に草野心平がガリ版刷りで作成した「猛獣篇」。

「乙女の像」関連では、ブロンズの小型試作、中型試作、そして実物大に印刷した十和田湖畔の像の写真。さらに構想スケッチ(実物)やデッサン(複製)など。

そして空調の関係で、杜江館に、光太郎木彫7点と、智恵子の紙絵20点(展示替え有り)、そして光太郎智恵子それぞれの油彩画が展示されています。

同じ型から取って作成されたものが各地にあるブロンズ彫刻以外は、なかなか実物を目にする機会が少ないものばかりで、興味深く拝見しました。

一つ一つのカテゴリー内の点数は決して多くはないのですが、却って、精髄的な印象を受けますし、それほど時間をかけずに見て回ることが出来ます。

また、ミュージアムショップと、無料休憩所的なスペースを兼ねたグズベリーハウスという棟では、昭和28年(1953)、ブリヂストン美術館さん作成の「美術映画 高村光太郎」が放映されており、花巻郊外太田村や、中野のアトリエで「乙女の像」を制作する光太郎自身の姿が見られます(花巻高村光太郎記念館さんでも放映しています)。

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7日(日)は午後から、近くの研成ホールにて、当方の記念講演でした。

時間配分を誤り、肝心の「乙女の像」についての部分が短くなってしまいました。

来春刊行予定の同館の館報に、講演の筆録を乗せていただくそうですので、加筆訂正し、きちんとまとめたいと思います。


長野県松本平地区の地方紙「市民タイムス」さん、8月4日に載ったコラム。 

みすず野


安曇野市の碌山美術館で、大正から昭和期 の詩人で、彫刻家の高村光太郎の「彫刻と詩展」が始まった。なぜ、碌山美術館なのか。光太郎と碌山が親友だったからだ。美術館本館わきには、光太郎が碌山 の急死を悼んで詠じた詩「荻原守衛」の碑が、建立されている◆一部を抜粋する。「荻原守衛はにこにこしながら卑俗を無視した。/単純な彼の彫刻が日本の底 で生きてゐた。-」。二人は留学先のニューヨークで出会い、光太郎はロンドン、碌山はパリに渡り、帰国後も交友は続いた。今回は二人ではなく、光太郎の作品、それは必然的に妻智恵子への永遠の愛につながるものだが、そこに光を当てた◆「そんなにもあなたはレモンを待ってゐた/かなしく白くあかるい死の床で /わたしの手からとつた一つのレモンを-」。「レモン哀歌」と題する詩の自筆原稿も見ることができる。光太郎は智恵子の精神が壊れ、童女のようになり、やがて臨終を迎えるさまをつづった◆「智恵子の裸形をこの世にのこして/わたくしはやがて天然の素中に帰らう。-」とうたい、最後に本当に裸婦像を残した。 光太郎の生き方に触れてみては。


紹介されている詩碑はこちらです。

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同展、8月28日(日)まで開催中です。ぜひぜひ足をお運び下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

祈(ね)がば成るならばともあれやすからむ信濃にひとりまた旅ねする
明治34年(1901) 光太郎19歳

光太郎、みすず刈る信濃路の旅の途次に詠んだ歌です。

第25回女川光太郎祭。

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8月9日(火)に行われた、第25回女川光太郎祭について、レポートいたします。

当日の朝9時頃までは台風による暴風雨でしたが、その後は台風一過の晴天となりました。会場は女川フューチャーセンターCamassさん。女川駅前に新たに作られた施設です。一部は宿泊したエルファロさん同様、可動式のトレーラーハウスです。

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震災前の女川光太郎祭は、昭和6年(1931)に来訪した光太郎を顕彰するため、平成3年(1991)に建てられた巨大な文学碑の前で行われていました。

その碑は震災の津波で倒壊、碑の建設やその後の光太郎祭の運営に奔走されていた女川光太郎の会の貝(佐々木)廣氏も、命を落とされました。

女川光太郎祭は、震災の年には小学校、翌年には仮設住宅の集会所と会場を移し、3年前から3年間、仮説商店街である「きぼうのかね商店街」で行われました。それが今年は駅前の女川フューチャーセンターCamassさん。理由を聞くと、少しでも元の碑に近い場所で、ということでした。なるほど、駅前のプロムナードをまっすぐ海に向かって下っていけば、碑のあった海岸緑地公園です。

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現在は一帯が工事中で、昨年まで見に行くことの出来た倒れた碑も見られません。ただ、いずれ震災前と同様、公園になる予定だそうで、その際にはまた碑が建てられるようです。

海側からみるとこうです。船の蔭あたりに碑があるはず。

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近くにある横倒しになった元の交番の建物は、震災遺構として保存されるとのこと。

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朝から会場入りし、会場設営のお手伝いをしました。昨年と一昨年は、屋外にテントを張っての実施でしたので、それに比べれば今年は楽なものでした。

昼過ぎの列車で、東京から当会顧問・北川太一先生ご一行がご到着なさるというので、駅にお出迎え。待っている間に撮影した画像です。

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ドキュメンタリー映画「サンマとカタール」のポスターも貼ってありました。

女川駅には温泉入浴施設「ゆぽっぽ」、さらに無料の足湯も設置されています。

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駅裏の方には、民家も建ち始めていました。

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そうこうしているうちに、北川太一先生ご一行がご到着。

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晩年の光太郎に親炙された北川先生は、碑文の一部を揮毫されるなど碑の建立にひとかたならずご協力され、かつての光太郎祭の記念講演も行われていました。現在は当方が引き継いでおります。

ご一行は、さらに光太郎の実弟にして鋳金の人間国宝だった故・高村豊周令孫である写真家の高村達氏、北川先生の奥様・節子先生と令息・光彦氏、北川先生が高校教諭だった頃の教え子の皆さん。いずれも東京からで、遠路、ありがたいことです。特に北川先生は御年91歳。しかしまだまだお元気です。

さて、時間となり、開会。

まずは黙祷に始まり当方の講演。4年前からの連続講演で、戦後、光太郎が自らの来し方を振り返って20篇の詩にまとめた連作詩「暗愚小伝」を繙きながら、光太郎の人となりを語る、その4回目。明治42年(1909)の海外留学からの帰国後、父・光雲を頂点とする旧態依然の日本彫刻界と訣別し、放蕩生活を続けながらも人間として苦しみ、やがて奇跡のように智恵子と出会うまでをお話しさせていただきました。

前々日の安曇野碌山美術館さんでの講演は時間配分を誤りましたが、今回はその反省を活かし、ぴったり時間に収めました。

女川町長・須田善明氏、女川光太郎の会会長・須田勘太郎氏のご挨拶。

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その後、光太郎遺影や健在だった頃の文学碑の写真に献花。

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計12名の方による、光太郎詩文の朗読。小学生の男の子や、遠方からの方も朗読して下さいました。

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連翹忌にご参加下さっている、詩人の曽我貢誠氏が初めてのご参加。朗読も。氏は光太郎祭にいたく感激なされ、来年以降のご来訪も約されていました。

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北川先生の談話。前日に放映された天皇陛下のお言葉にも触れ、感極まって嗚咽されながらのお話となりました。予科練の少年たちを率いてのおん自らの軍隊生活、ある意味、時代に翻弄されながらも最終的には己の道を貫き通した光太郎への思いなどが、その涙に結晶したのでしょう。

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高村達氏のご挨拶、アトラクションとして、ギタリスト宮川菊由氏のギター演奏(朗読のBGMから)、オペラ歌手・本宮寛子さんの歌。花を添えて下さいました。

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最後に、故・貝(佐々木)廣氏の奥様、佐々木英子さんのご挨拶。

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さらに閉会後、昨年暮れにオープンした駅前商店街の一角にある「金華楼」さんにて懇親会。

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途中、喫煙のため店外に出たところ、美しい夕焼けが見えました。

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再会を約して、お開きとなりました。


地元紙・『石巻かほく』さんで報道されています。 

高村光太郎の生涯に思い 女川で「祭」 詩の背景、考察

 女川町を訪れた彫刻家で詩人の高村イメージ 1光太郎(1883~1956年)をしのぶ、第25回「光太郎祭」(女川・光太郎の会主催)が9日、女川町の女川フューチャーセンター・カマスで開かれた。
 町民ら約45人が参加し、光太郎が歩んだ生涯に思いをはせた。献花や、碑文などの朗読もあった。
 高村光太郎連翹忌(れんぎょうき)運営員会代表の小山弘明さんが「高村光太郎、その生の軌跡-連作詩『暗愚小伝』をめぐって」の題で講演。光太郎の生涯や詩について説明した。
 小山さんによると、光太郎が書いた詩「親不孝」は、パリなどへの留学を終え帰国した光太郎が将来を悩む心中を記した作品。「自分が目指すのはオーギュスト・ロダンのような芸術家だ」と考え、「自分の決めた道を歩むことは、親の期待を裏切ることになる」と、父親で彫刻家の光雲が用意した道を進まないことに対しての「親不孝」だと解説した。
 91年に女川のことを書いた紀行文や詩の文学碑が町内に建立され、翌92年から、光太郎が三陸地方を巡る旅に出発した1931年8月9日にちなみ、光太郎祭を開いている。


あくまで前座である当方の講演を大きく取り上げて下さって、恐縮です。


というわけで、第25回女川光太郎祭、つつがなく終了。来年以降も、続けられる限り、永続的に行われて欲しいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

黒潮は親潮をうつ親しほは狭霧を立てて船にせまれり
昭和6年(1931) 光太郎49歳

月曜日にご紹介した三陸沖での作の異稿です。詩「霧の中の決意」に添えられました。

信州安曇野豊科近代美術館。

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内容的には一昨日、昨日の記事と前後しますが、碌山美術館さんでの講演の前、8月7日(日)午前中に訪れた豊科近代美術館さんをレポートします。

前夜から宿泊していたのは、青木湖畔のホテルブルーレイク&リゾートさん。例によってさっさと就寝したので、朝は早く目が覚め、湖畔を散策。

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こんな看板がありました。

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「鹿に注意」。鹿なら見てみたいな、と思いましたが遭遇できず。「しか」し、同じ看板の裏は……

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熊はさすがにパスしたいところでした。遭遇せずに済みましたが。

朝食後、ホテルをあとに、愛車を駆って安曇野へ。1時間ほどで豊科近代美術館に到着。

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なかなか瀟洒な建物です。いきなり目的の一つ、高田博厚の彫刻がお出迎え。

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同館の通常展示は、それぞれ光太郎と縁のあった、彫刻家の高田博厚と、画家の宮芳平の作品が中心です。以前から、碌山美術館さんに足を運ぶ際には、近隣の光太郎と縁のあった芸術家の記念館なども訪れる週間となっており、今回はこちらにお邪魔しました。

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高田の彫刻は展示室に入りきれず、中庭や廊下などにも。

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そして、光太郎の胸像。下記は同館のミュージアムショップで売っているポストカードです。

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同一の型から取ったものは、岩手花巻の花巻北高校さん、埼玉東松山の東武東上線高坂駅前のブロンズ通り、それから福井市立美術館さん、さらに同じ信州の塩尻市にある古田晃記念館さんなどにも収蔵されています。

豊科近代美術館さんの光太郎胸像は、高田が他の日本人芸術家をモデルにした胸像とともに展示されていました。森鷗外、中原中也、佐藤春夫、宮沢賢治、岩波茂雄、岸田劉生、梅原龍三郎、高橋元吉などなど。その人々はそれぞれ光太郎と縁のあった人物でもあり、同窓会というかサロンというか、そんな感じを受けました。

他のジャンルの作品を含め、同時代の彫刻家の中で、早世した碌山荻原守衛を除き、光太郎が最も高く評価した高田の作品は、やはり光太郎のそれにも通じる精神性を感じるものでした。

宮芳平の絵、当方、現物は初めて観ました。鷗外が認めたという、特異な才能を感じました。

そして、高田、それぞれに宛てた光太郎書簡のコピーが展示してあり、興味深く拝見。コピーは以前から観ていましたが、こういう場で観ることで、違った見え方がしました。


他にも信州には、光太郎と縁のあった芸術家の記念館などで、訪れたことのない場所がまだまだあり、来年以降、4月の碌山忌などを使って訪れようと思っております。


【折々の歌と句・光太郎】

ああこれ山空を劃(かぎ)りて立てるもの語らず愚(おろか)さびて立つもの
明治37年(1904) 光太郎22歳

昨日は今年から「山の日」。北アルプスの山々は、やはり素晴らしいビジュアルでした。

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花巻高村光太郎記念館『光太郎 Kotaro Takamura 1883-1956』。

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信州安曇野から三陸女川への4泊5日の出張を終えて帰宅したところ、花巻高村光太郎記念館さんから宅配便が届いておりました。

同館にて刊行の展示品図録的な書籍『光太郎 Kotaro Takamura 1883-1956』。

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縦横25㌢の正方形という特殊な判型で、オールカラー48頁。充実した内容です。当方、一部を執筆し、「監修」ということにしていただいています。

抜粋で画像を提示します。ただ、校正途中に送られてきたPDFファイルから採りましたので、若干、完成品とは異なりますが、大筋はこの通りです。

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四季折々のイメージ画像をバックにした光太郎詩。4篇、8頁。

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ブロンズ彫刻、書作品、遺品などの同館展示物の画像。

展示品以外にも、光太郎芸術の紹介ということで、木彫の写真も。

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『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘』を刊行された末盛千枝子さんをはじめ、生前の光太郎を知る方々の談話。

さらには、光太郎、父・光雲、妻・智恵子の紹介、賢治や宮沢家との交流、花巻郊外太田村での生活、盛岡や花巻町などのゆかりの地の紹介などなど充実の内容。これで税込定価2,000円はお買い得です。

案内と、FAX注文書を載せておきます。プリントアウトしてご使用下さい。

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【折々の歌と句・光太郎】

とほどほしわれ必ずのせめてもの夏山夏野ただみどり濃き
明治34年(1901) 光太郎19歳
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