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花巻市高村光太郎記念館企画展「智恵子の紙絵」。

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岩手県花巻市の高村光太郎記念館さんからの企画展情報です。 
期 日 : 平成28年7月15日(金)~11月23日(水祝)
時 間 : 8:30~16:30
場 所 : 高村光太郎記念館(花巻市太田3-85-1)
概 要 : 彫刻家で詩人として知られる高村光太郎の妻、智恵子。その智恵子が晩年制作していた紙絵を展示する企画展。

入館料 : (高村光太郎記念館・高村山荘):一般550円、高校生・学生400円、小中学生300円
連絡先 : 高村光太郎記念館 0198-28-3012


 彫刻家で詩人として知られる高村光太郎。その妻、智恵子は雑誌『青鞜』創刊号の表紙絵を描き、新鋭の画家として注目されるなか光太郎と出会い、結ばれました。結婚後、智恵子は自身の油絵に対する芸術的苦悩や実家の一家離散が重なり、心の病に侵され睡眠薬で自殺を図ります。一命は取りとめたものの長い療養生活に入り、その後回復することはなく、昭和13年に入院先のゼームス坂病院でこの世を去ります。享年数え53歳の生涯でした。
 晩年の智恵子は作業療法として身の回りにあった色紙や包装紙など、様々な紙をマニキュア鋏で切りぬき、台紙に貼りつける「切り抜き絵」を多く制作します。それらは光太郎ただ一人に見せるために作られました。後に光太郎は智恵子の遺作となった切り抜き絵を「紙絵」と名づけました。太平洋戦争の空襲で光太郎はアトリを全焼し自身の作品の多くが焼失しましたが、智恵子の紙絵は花巻など地方に疎開させていて難を逃れました。
 智恵子が生み出し、光太郎が守り抜いた紙絵、紙絵の疎開先であり、詩集「智恵子抄その後」が送り出された当地で開催する企画展で、繊細な表現と独自の色彩感覚を持つ智恵子の紙絵をご覧いただき、光太郎と智恵子の思いを感じていただければ幸いです。

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というわけで、智恵子生誕130年を記念し、紙絵の現物が展示されます(複製も)。

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過日、その打ち合わせのため、記念館のスタッフお二方と共に、千駄木の高村家に行って参りました。紙絵の大半は今も高村家に保管されています。

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一昨年、光太郎の令甥にあたり、永らく高村光太郎記念会理事長を務められていた写真家の高村規氏が亡くなり、今は令息でやはり写真家の達氏が高村家を守られています。

搬入、搬出の日程やら、展示方法等の確認などをして参りました。額装はせず、そのまま斜めに置いて展示すること、作品保存のため、2週間くらいのスパンで作品を入れ替えること等々。紙絵は昭和11年(1936)~同13年(1938)の間に制作されたと推定され、80年が経過しようとしています。もともと高級な紙を使用しているわけでもなく、一日出せばその分褪色するという、非常にあえかな作品です。そのため、展覧会等で現物を出す場合には、照明を落としたり、その照明も熱を発しないものにしたりと、細やかな配慮が必要です。

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現物の何枚かを、手に取らせていただきました。見たことは何度もありますが、触れるのは初めてで、感動しました。約80年を経た智恵子の息遣いが聞こえてきそうでした。

また近くなりましたら改めてご紹介しますが、信州安曇野の碌山美術館さんでも、この夏、智恵子の紙絵現物が展示されます。こちらは「夏季特別企画展 光太郎没後60周年記念 高村光太郎-彫刻と詩-展」(7/23~8/28)においてです。

さらに智恵子の故郷・福島二本松でもこの秋に歴史資料館さんで、企画展「智恵子と光太郎の世界展」があり、そちらでも(或いはそれに合わせて智恵子記念館さんで)紙絵の現物が展示されます。

以前にも書きましたが、色彩の美は複製で感じられるものであっても、紙絵の現物は、厚さ1ミリに満たない中にも紙の重なりによる立体感が感じられ、これは複製にはないものです。

いずれかの機会に、実際にご覧になることをお勧めします(欲をいえば、3つの機会とも)。


【折々の歌と句・光太郎】イメージ 8

よび鈴をそつと鳴らして逃げし子はいま横丁をまがらんとする
大正15年(1926) 光太郎44歳

昭和20年(1945)の空襲で全焼した駒込林町のアトリエ。上記の実家とはほとんど背中合わせのような位置関係でしたが、実家は焼け残り、アトリエは灰燼に帰しました。

玄関入り口には紐を引くと中でカランと鳴る呼び鈴があったそうで、それを鳴らすと光太郎か智恵子が玄関脇の小窓を開けて顔を出したそうです。

大正末にはすでにピンポンダッシュの悪戯があったのですね。90年前にそんな子供が近所にいたんだと思いつつ、千駄木の街を歩きました。

福島川内村第51回天山祭。

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昨日、自宅兼事務所に案内が届きました。当会の祖にして光太郎と深い縁で結ばれた、草野心平が愛したイベントです。心平没後は心平を偲ぶイベントとなりました。 

第51回天山祭

期  日 : 2016/07/09(土)
時  間 : 午前11時30分から14時まで
場  所 : 天山文庫前庭 福島県双葉郡川内村大字上川内字早渡513 
        雨天時は川内村村民体育センター 福島県双葉郡川内村大字上川内字小山平15

当日の送迎バス(要予約 6/30〆切)
 川内村行き 郡山駅西口発 午前9時15分 (東北新幹線やまびこ125号に接続 東京発7:32 郡山着8:55)
 郡山駅行き 川内発 午後2時45分 (東北新幹線やまびこ216号に接続 郡山発16:39 東京着18:16)

翌日の送りバス(要予約 6/30〆切)
 郡山駅行き 川内発 午前8時30分  (東北新幹線やまびこ132号に接続 郡山発10:27 東京着11:48)

村内宿泊施設
 小松屋旅館         川内村上川内字町分211         0240-38-2033
 ビジネスホテルかわうち  川内村大字上川内字町分394       0240-38-3181
 ビジネスホテルアゴラ   川内村大字上川内字瀬耳上265番地3  0240-23-6300
 いわなの郷コテージ    川内村大字上川内字炭焼場516     0240-38-3181  グループのみ

申し込み (送迎バスの利用がなければ不要)
 天山祭り実行委員会事務局 : 川内村教育委員会教育課生涯学習係 0240-38-3806


ネット上には今年の第51回の案内等はまだ出ていません。例年の様子としてこちら。当方、昨年まで3年連続で行っておりました。平成25年(2013)、平成26年(2014)、平成27年(2015)、それぞれのレポートにリンクを貼っておきます。

川内村ではつい先週、東日本大震災に伴う福島第1原発事故により、村内で継続されていた避難指示が全て解除されました。 

川内村全域で避難解除=指示継続の2地区―福島

 東京電力福島第1原発事故により、福島県川内村の一部で継続されていた避難指示が14日に解除され、全域が避難対象から外れた。
  同村では2014年10月に避難指示解除準備区域の避難が解除されたが、居住制限区域だった2地区は解除準備区域に変更された上で、避難指示が続けられていた。
  今回解除対象の同村荻、貝ノ坂地区の人口は19世帯51人(今月1日時点)。村では、両地区内の除染終了を受け昨年11月から帰村に向けた準備宿泊を実施していたが、登録者は1世帯2人のみで、解除後すぐに村へ戻るのはごく一部にとどまるとみられる。
  政府や村は、住民から不安の声が上がっていた放射線への対策として、希望者に線量計を配布。線量の高い地点が見つかり次第、追加の除染を行う。
(時事通信 6月14日(火)0時25分配信)

しかし、避難指示解除即住民帰還とはならないようです。それも致し方ないとは思いますが、天山祭などを通じて村が盛り上がり、やがてはかつての活気を取り戻すことを祈念しております。


【折々の歌と句・光太郎】

赤蛙にげるな汝を取るといへど喰ふにはあらず皮むくにあらず
大正13年(1924) 光太郎42歳

草野心平といえば、蛙。梅雨時で蛙も活気づいています。川内村の平伏沼では、心平が愛し、村と心平の架け橋になったモリアオガエルの産卵が始まったそうです。

さて、大正13年(1924)の光太郎。木彫のモデルにでもするために、蛙を捕まえようとしていたのではないかと思われます。だから「喰ふにはあらず皮むくにあらず」。

しかし、戦後の花巻郊外太田村の山小屋(高村山荘)での暮らしでは、蛙を捕って食べていたそうです。

昭和27年(1952)に行われた、詩人の竹内てるよ、食料産業研究所長・川島四郎との座談会「簡素生活と健康」(『主婦之友』に掲載)の一節。

竹内 主食の量は違いましたか。
高村 主食はもともと少かつたんですが、食糧には困らなかつた。みんな持つて来てくれるんです。お米でも
    稗でも、漬物や南瓜なども……。蛋白質だけはなかつたな。
川島 田舎ではね……
高村 それで蛙をとつて食べたんです。赤蛙をね、まだ動いているのを皮をはいで……。近所にはいゝ奴が
    どつさりいたんです。蛇もいたが、これは歯が悪いので駄目でした。

ワイルドですね(笑)。

十和田八幡平国立公園十和田八甲田地域指定80周年記念 第51回十和田湖湖水まつり。

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彫刻家高村光太郎最後の大作である「十和田国立公園功労者記念碑のための裸婦群像(通称・乙女の像)」が建つ、青森十和田湖からのイベント情報です。 

十和田八幡平国立公園十和田八甲田地域指定80周年記念 第51回十和田湖湖水まつり

期 日 : 2016年7月16日・17日、18日(花火は16日・17日
場 所 : 十和田湖畔休屋  十和田市十和田湖畔休屋486
時 間  : 16日・17日 10:00~21:00 18日は花火予備日 クルージングのみ10:10~

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16日(土)、17日(日)の両日とも、18:00から乙女の像のライトアップ、さらに20:00から花火の打ち上げがあります。その他、燃料電池車MIRAIの試乗会、魚つかみどりなど、さまざまなイベントが企画されています。

18日(月・祝)は、花火の予備日であるとともに、遊覧船に500円で乗れるというワンコインクルーズが実施されます。昨年までは抽選で決めていたようですが、今年は先着200名だそうです。

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ぜひ足をお運び下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

五月雨の山窟(やまむろ)くらき狸汁奇士大(だい)さんの笑ひやうかな
明治37年(1904) 光太郎22歳

舞台は青年期の光太郎が足繁く登った上州赤城山。「大さん」は、その山中に独居していた一風変わった人物(奇士)です。なぜか光太郎とは馬が合い、光太郎はよく訪ねていきました。

光太郎の親友であった作家の水野葉舟がこの年に記した「夏籠――赤城日記」から。

 道々高村君は大さんの身の上話をした。もとは上州でも有名な博徒であつたが、女房が変な奴だとかで、大さんは多少ある財産を持つて、わづらはしい生活をするのを嫌つて、突然其を女房と息子にくれてやつて、この山上(やまのうへ)の氷小屋の番人になつたのだ。――顔なども剛な処があつて、それでひどく無邪気だ。笑ふ時などはまるで子供の様だ。高村君がこう話したので、
「幾歳(いくつ)位だい?」
と聞くと、
「五十四五だらうね」

大さんの暮らす氷小屋(山窟)の様子は以下の通り。

 小さな路がついて居て、藪を廻ると、倒れかゝつた垣根があつて、其処に鶏が遊んで居る。小屋と言つても、私などが嘗て見た事の無い程のあばら屋だ。一方土を切り下げ壁の代りにして、小屋が建てられてある柱には皮のまゝの木が使つてあつて、其に一つもそろつて居ない板が乱雑に打ち付けてある。そして入口には筵が下げてあつた。

しかし、この時、大さんは近在に熊が出たというのでそれを仕留めに行っていて留守。

 炉には大きな鍋がかかつて居た。小屋の中は二つに仕切つてある。一つは物置らしく、まつくらだ。一つの方は、僅かに、床があつて、其上に板が並べてある。其板の上には筵が敷いてあつた。寝道具が一隅(ひとすみ)に、其他色々な道具を入れる棚の様なものが有る。――大さんの坐たらしい炉のふちには山犬の皮が二三枚敷いてあつた。窓と言つては一つもない。中はいつも薄暗く、たゞ入口の筵の間からと、壁の板の隙からと、日がさし入つて来るが、穴の中の様な心持がした。

戦後、光太郎が独居生活を送った花巻郊外太田村の山小屋(高村山荘)を彷彿とさせられます。光太郎も山小屋生活を始めるにあたって、おそらく40数年前に訪れた大さんの氷小屋をイメージしていたのではないかと思われます。


本郷新記念札幌彫刻美術館 開館35周年記念 ロダン展。

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直接的には光太郎には関わりませんが、光太郎が多大な影響を受けた、ロダンの企画展。北海道札幌での開催です。 

開館35周年記念 ロダン展

会  場 : 本郷新記念札幌彫刻美術館 札幌市中央区宮の森4条12丁目
会  期 : 2016年7月9日(土)~9月25日(日) 
休  館 : 月曜日 ただし7/18(月・祝)、9/19(月・祝)は開館し、7/19(火)、9/20(火)は休館
時  間 : 10:00~17:00(入館は16:30まで)  7月17日(日)、8月27日(土)は19:30まで (入館は19:00まで)
料  金 : 観覧料:一般 1,000(800)円、65歳以上 800(640)円、高大生 600(540)円、中学生以下無料

本郷新記念札幌彫刻美術館は今年で開館35周年を迎えます。
これを記念し、フランスの彫刻家・オーギュスト・ロダン(1840-1917)の展覧会を開催します。
パリで生まれたロダンは、ほとんど独学によって彫刻家として大成し、身体の生命感を彫刻の本質と捉えた独自の表現により、「近代彫刻の父」と称賛されました。
札幌生まれで戦後日本の具象彫刻を牽引した彫刻家・本郷新(1905-1980)は、師・高村光太郎の著作『ロダンの言葉』や、ロダンの実作を通して、この巨匠に多くを学んでいます。
本展は、日本近代の彫刻家たちに多大なる影響を与え、彫刻家・本郷新の源流ともなったロダン芸術の魅力を広く伝えようとするものです。
代表作《地獄の門》の関連作をはじめとする、国内美術館所蔵のロダンの彫刻作品22品を中心に構成します。

〔出品作品〕
 《考える人》 1880年 (静岡県立美術館蔵)
 《カレーの市民》 第一試作 1884年 (静岡県立美術館蔵)
 《パオロとフランチェスカ》 1887-89年頃 (静岡県立美術館蔵)
 《眠れる女(裸婦)》 1887年 (札幌芸術の森美術館蔵)
 《フロックコートを着たバルザック》 1891-92年 (札幌芸術の森美術館蔵)
 《ジャン・デールの裸体習作》 1868-89年頃 (中原悌二郎記念旭川市彫刻美術館蔵)
 《衣をまとったバルザック》 1897年 (北海道立函館美術館蔵)
  ほか

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関連行事 

ロダンナイト

開館35周年を祝い、開館時間を延長、無料で観覧いただけます。イベントも開催
日 時:7月17日(日)17:00~19:30
 

ギャラリートーク

日 時:7月23日(土)、8月6日(土)、9月10日(土) 各回14:00~14:40
※申込不要、要展覧会観覧料
 

ロダンにタッチ!

一部の出品作品にさわって鑑賞いただけます。手でロダン彫刻を味わう特別なひとときをお楽しみください。
日 時:会期中の毎週土曜10:00~11:00
 

ミュージアムコンサート

日 時:8月27日(土)17:00~18:00
会 場:札幌彫刻美術館 本館


館の名前になっている本郷新は、舟越保武、佐藤忠良らとともに、光太郎に影響を受けた彫刻家です。光太郎没後の10年間限定で行われた「高村光太郎賞」の選考委員に名を連ねました。

同館は「記念館」と「本館」から成り、ロダン展は「本館」、「記念館」は本郷のアトリエをそのまま使い、本郷の作品などの常設展示が為されています。

併せてご覧下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

ゆるぎなく水面(みのも)の影のこむらさき緑さすよと見れば消えたり
明治34年(1901) 光太郎19歳

「こむらさき」は美しい紫色の羽を持つ蝶です。一回り大きいオオムラサキは日本の国蝶ということになっています。

智恵子のヌード写真 『永遠なれ! レトロスペース・坂会館』。

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注文して置いた書籍が届きました。 
2016年7月20日 北野麦酒著 彩流社 定価1,800円+税

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北海道・札幌にある親会社(ビスケットの坂栄養食品)との軋轢から存続の危機に直面している「レトロスペース・坂会館」。

本社と苦闘する坂館長と対峙した渾身のドキュメントを緊急出版します!

札幌市内の私設博物館「レトロスペース・坂会館」。 坂一敬館長は自己の好みを基準として昭和のモノをこれでもかと蒐集し、特異でかつレトロな空間を具現化。いままさに当館が直面する存亡の危機に「命を賭してココを守る!」と意気軒昂だ。

前作の『蒐める!』(彩流社刊)以上のエネルギーで坂館長がこれまでの人生を語り尽くした秘話満載。

「智恵子抄」の高村智恵子のヌード写真、レトロスペースから無くなったマネキンたち、これまで出会った有名・無名の人たち、そして館長をめぐる女性たち、 夢にまで見た幻の1冊。なぜ坂館長はこれほどのモノを蒐めたのか。 運営存続への支援の輪がいま、全国で展開中である!


「レトロスペース・坂会館」さんは、札幌にある、膨大な数のレトログッズを展示している私設博物館のような施設だそうです。ネット上に公式サイト? もありました。

花巻南温泉峡にある「昭和の学校」さんと似た雰囲気のようですが、そこに「秘宝館」的なアヤシい要素がかなり加わっているようで、あちこちのサイトなどで「珍スポット」的な紹介もされています。

書籍の方は、全8章から成り、そのうちの第2章が「坂館長が見た「智恵子抄」の智恵子の幻のヌード写真」、第7章が「ヌード写真の智恵子」となっています。ただし、それぞれ智恵子に触れている部分は少しずつで、大半は別件の記述です。

「智恵子のヌード写真」……いったいどういうことかというと、光太郎との結婚前に智恵子が通っていた太平洋画会美術研究所に関わっています。

坂会館さんの館長・坂一敬氏が、その作品に惚れ込み、親交を結んでいた画家の故・宮田清氏という方がいらっしゃいました。あまり有名な画家ではなかったようで、ネット上に載っている情報も多くはありませんが、裸婦画を得意としていたようです。こちらのサイトに載っているプロフィールが最も詳しいと思われます。それによると、明治22年(1889)、札幌の生まれ。明治末、太平洋画会美術研究所で、智恵子と共に学んだとのこと。明治19年(1886)生まれの智恵子の3歳年下になります。他のサイトによれば昭和61年(1986)ころ亡くなったとのことです。

その宮田氏が、晩年に坂氏に、「薪ストーブで焼いてくれ」と、段ボール二箱半のヌード写真を渡したそうです(宮田家には薪ストーブがなかったとのこと)。おそらく今で云う「終活」の一環だったのでしょう。裸婦画を描くために撮ったヌード写真、生きているうちに処分してしまいたかったというわけです。宮田氏はフィルムの現像や印画紙への焼き付けも自分で行う技術、機材を持っていたそうです。

その中に、「下宿の畳の上で撮ったもののよう」な智恵子のヌード写真が数枚あったというのです。坂氏、それ以前に智恵子と宮田氏のつながりを聞いていたし、通常の智恵子の写真も見たことがあったようで、すぐに智恵子だと分かったとのこと。

智恵子と宮田氏のつながり、というのはこうです。明治末、宮田氏と、それから仲の良かったやはり太平洋画会美術研究所に学んでいた彫刻家の中原悌二郎の二人が、揃って性病に感染、その治療費を捻出するために春画を描いて売りさばくことを考え、そのモデルを智恵子に依頼したというのです。有り得ない話ではありません。

ところが、写真は現存しません。坂氏、それら数枚に写っているのが智恵子とわかり、それらだけ抜いておこうかとも考えたそうですが、坂氏を信頼して処分を委託した宮田氏の心情を慮り、そのまま火にくべたそうです。

もしそれが残っていて、間違いなく智恵子のヌード写真であれば、とんでもない資料です。しかし、他の写真も含めて、脱いでくれた女性たちと宮田氏の間の信義、処分を託された坂氏と宮田氏の間の信義、そういったことを考えると、残っていてはいけない写真でしょう。

そういうわけで、真偽の程は明らかではありませんが、永遠の謎やロマン的なエピソードとして扱いたいと思います。

ちなみに「レトロスペース・坂会館」さん、現在、存続の危機に立たされているそうで、それを救うため、坂氏と親交のある北野氏が本書を執筆したとのこと。北野氏には同趣旨の『蒐める! レトロスペース・坂会館』というご著書もあり、今回のものと同じ彩流社さんから上梓されています。

場所は札幌市西区の手稲通り沿いだそうです。ご興味のある方は是非どうぞ。


【折々の歌と句・光太郎】

わかき日のこの煩悩のかたまりを今はしづかにわが読むものか
昭和22年(1947) 光太郎65歳

作歌の背景は、この年札幌青磁社から刊行された『道程』復元版にかかわります。晩年を迎え、若き日の詩群を読み返しての感想です。

当方、今日は神田の東京古書会館さんで、「七夕古書大入札会2016」の一般下見展観を拝見して参ります。光太郎若き日の書簡なども手に取って見ることが出来ます。光太郎自身が見れば、やはりこの歌と同じような感想を抱くのではないでしょうか。

また、のちの智恵子が若き日の自分のヌード写真を見たとしたら……などと想像が膨らみます。

講道館/東京古書会館。

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昨日は都内に出て、2箇所を廻っておりました。

まずは文京区春日の講道館。柔道の聖地です。

息子が柔道をやっており、その息子が出場する大会が昨日と今日、行われています(今日は講道館ではなく別の会場ですが)。こちらは年に一回、全国持ち回りで行われているもので、一昨年は京都、昨年は仙台でした。さすがに千葉からそこまで観に行くほど親バカではありません。しかし、今年は東京、さらに昨日の会場が講道館ということで、観に行きました(また、後述しますが、歩いて行ける範囲にある東京古書会館での七夕古書大入札会2016の一般下見展観もありましたので)。

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なぜ講道館にこだわるかというと、当方も講道館柔道初段を持っているということもありますが、やはり光太郎がらみです。意外といえば意外ですが、光太郎と講道館には関係があります。下記画像をご覧下さい。


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講道館柔道の祖・嘉納治五郎師範の肖像レリーフです。このイメージ 4作者が光太郎なのです。昭和9年(1934)、父・光雲の代作として制作されました。

これが講道館の2階にある柔道資料館に展示されているので、見てこようと思った次第です。

作品自体はブロンズですので、同一の型から取ったものが多数存在し、これまでに開催された光太郎がらみの企画展にもよく出品されていて、何度も見ています。しかし、やはり柔道の聖地・講道館に所蔵のものとなると、ある意味、別格のような気がします。

ところが、柔道資料館、土・日・祝日は休館でした。残念。

息子の試合は、一試合だけ見ました。講道館柔道を母体とする通常の国際ルールの試合ではなく、「高専柔道」という、特殊な柔道です。

試合は団体戦のみで、7チームが参加。15人対15人というすさまじい人数での闘いです。ちなみに試合時間は8分、凄い長さです(オリンピックは5分)。さらに先鋒対先鋒、次鋒対次鋒という「点取り方式」ではなく、勝った選手は相手チームの次の選手と続けて試合をするという「勝ち抜き戦」です。したがって、理論上1人で相手チーム15人を全員抜くことも可能なわけです(実際にはあり得ませんが)。

息子のチームは一昨年は準優勝、昨年は優勝しました。今年もその調子で、と思っていたのですが、何と一回戦敗北(涙)。息子は引き分けでした。勝てる相手だったのですが、相手は最初から引き分け狙い。国際ルールと異なり、消極的だという意味での「指導」がほとんど与えられませんので、引き分け狙いが可能です。息子も引き分け狙いの相手を強引に仕留めるだけの実力はなく、情けない試合でした。しかし、8分間、相手の猛攻を凌ぐというのも、それはそれで大変なことですし、高専柔道の場合にはそうした「分け役」という役どころが存在し、相手はきっちりその役を果たした、ということですね。相手を褒めましょう。

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その一回戦だけ見て、次なる目的地、神田の東京古書会館さんに移動したのですが、その後、息子のチームは敗者復活戦に廻って、そちらは勝利。今度は息子は1勝1分けだったそうで、多少は貢献できたようです。敗者復活に廻っても、その後勝ち上がれば優勝できるという変則的なルールですので、まだどうなるかわかりません。

続きは会場を移して今日行われますが、今日は当方、山梨県立文学館さんに、渡辺えりさんの講演を聴きに行って参ります。試合結果はネット上の速報で見ます。


さて、神田の東京古書会館さんでの「七夕古書大入札会」イメージ 6一般下見展観。年に一度の古書業界最大の市です。古代から現代までの希少価値の高い古書籍(肉筆もの等も含みます)ばかり数千点が出品され、一般人は明治古典会に所属する古書店に入札を委託するというシステムです。毎年、いろいろな分野のものすごいものが出品され、話題を呼んでいます。

昨年は光太郎がらみの品にめぼしいものがなかったので行きませんでしたが、今年は「これは」と思うものが多く、観に行った次第です。

たまたま光太郎がらみの品の並ぶ一角に、いつも目録を送って下さり、当会顧問の北川太一先生とも関係の深い、本郷の森井書店さんが若い店員さんを連れていらっしゃっていて、一緒に拝見させていただきました。

明治44年(1911)、画家の山下新太郎に宛てた長い書簡が一番の目的でした。こちらは『高村光太郎全集』未収録で、公開されている画像は部分的にしか写って居らず、どんな内容なのか、是非読んでみたかったものです。

毛筆の崩し字で、ところどころ判読に苦労しましたが、三人寄れば文殊の知恵、ほぼ読めました。といってもほとんど森井さんが読んで下さったので、大感謝です。

最低落札価格の設定額が低かった書の二点は、予想通り保存状態が良くないものでした。筆跡的にはいいものなのですが……。その他、草稿や書簡、識語署名入りの著書など、光太郎の息吹が感じられる品々を手に取ることができ、こうした場合のいつもながらに、感激でした。

残念だったのは、最も驚いた出品物、昭和19年(1944)の詩集『記録』の草稿のみ、ガラスケースに入れられていて、手に取れなかったことでした。こちらの最低落札価格は100万円。他の作家の品も、このレベル以上のものはガラスケース入りの「特別陳列」でした。

色々な出品物、他の作家のものも含め、納まるべきところに納まってほしいものです。


さて、今日は先述の通り、山梨行きです。来週は盛岡(花巻にも寄るつもりです)、月末にまた花巻、来月前半は信州安曇野、三陸女川と、しばらく出張が続きます。風来坊(死語?)の本領発揮です(笑)。


【折々の歌と句・光太郎】

見ずやこれ富士は何山(なにやま)足柄の野より二尺は高しともこそ
明治34年(1901) 光太郎19歳

山梨といえば、富士山。当方、中高生の頃、4年近く甲府に住んでおりましたので、毎日のように雄大な富士山を見ていました。ある意味、人生観が変わりましたね。

ただ、短歌は足柄ですから、太平洋側のいわゆる「表富士」。しかし、山梨県民は山梨県側から見る富士山こそが「表富士」だ、と言い張ります。一昨年のNHKさんの「花子とアン」でも、主人公・村岡花子の祖父(石橋蓮司さん)のセリフにそれがありました。

山梨県立文学館 特設展 宮沢 賢治 保阪嘉内への手紙/渡辺えりさん講演「宮沢賢治と保阪嘉内」。

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昨日は、甲府市の山梨県立文学館さんに行っておりました。


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まずは同館にて先週末から開催中の「特設展 宮沢 賢治 保阪嘉内への手紙」を拝見。

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大正のはじめ、賢治と盛岡高等農林学校時代の同級生で、文芸同人誌『アザリア』の仲間だった、山梨出身の保阪嘉内との交流に的を絞った展示でした。

比較的長命だった光太郎と異なり、戦前に数え38歳で歿した賢治ですので、遺っている書簡は多くありません。そうした中で、今回の展示では保阪に宛てた73通もの賢治書簡が展示されていました。俗な話になりますが、まず最初に、市場価格に換算したらどうなるのだろう、と思ってしまいました。一昨日、明治古典会さんの七夕古書第入札市一般下見展観を見ていたせいもあるでしょう。

しかし、賢治独特の丸っこい文字を読み進むにつれ、だんだん二人の交流の深さに引き込まれていきました。賢治と保阪は、賢治童話の代表作の一つ「銀河鉄道の夜」のジョバンニとカムパネルラに比定されています。

さらに、常設展的な展示も拝見。現在は賢治同様、光太郎と縁の深かった与謝野晶子をはじめ、山梨出身だったり、山梨との縁が深かったりした文学者に関しての展示でした。

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こちらも充実した展示で、興味深く拝見しました。

展示を見終わり、午後1時30分から、特設展の関連行事である講演会「宮沢賢治と保阪嘉内」。講師は渡辺えりさんです。


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えりさんは、平成24年(2012)に初演の舞台「天使猫で、賢治を主人公とした幻想的な演劇を作られ、そこに保阪嘉内も登場。その戯曲の制作のため、保阪家の皆さんとのご交流がおありだということで、今回の講演が実現しました。

さらにいうなら、そもそもえりさんも、山梨県立文学館のスタッフの皆さんも、当会主催の連翹忌にご参加下さっており、そのご縁もあるかと存じます。また、先月、盛岡で行われた啄木祭での、えりさんのご講演は欠礼しましたので、これは行かねば、というところもありました。

当方、えりさんのご講演拝聴は三度目でしたが、いつもながらに巧みな話術にひきこまれました。お話は、賢治や嘉内の人となり、保阪家の方々との交流などはもちろん、生前の光太郎を知るお父様・渡辺正治氏との関わりから、光太郎にもかなりの時間を割いて下さいました。お父様は賢治の精神にも強く惹かれていたということもあり、光太郎からお父様への書簡(花巻高村光太郎記念館にご寄贈下さいました)には「宮沢賢治の魂にだんだん近くあなたが進んでゆくやうに見えます」との一節があったりもします。

さらに、お父様が戦時中、武蔵野の中島飛行機の工場にお勤めだった頃、空襲で亡くなったご同僚のリーダーが山梨の方で、最近になってお父様とその墓参が実現したお話などもありました。

終演後のえりさん。サイン会の合間にお話をさせていただきました。

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さて、「特設展  宮沢 賢治 保阪嘉内への手紙」は来月末まで開催されています。ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

飄々と富士の御霊(ミタマ)を訪ひ行けば白雲(ハクウン)満た我にしたがふ
明治32年(1899)頃 光太郎17歳頃

「満た」は「あまた」と読みます。この歌が詠まれたと推定される明治32年(1899)、光太郎は祖父の兼松とともに富士登山を果たしています。

昨日、帰りがけには雄大な姿が拝めました。

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当方、甲府に4年近く住んでいました(今回初めて知りましたが、保阪嘉内は高校の先輩でした)が、最近、甲府に行くたび、甲府から見える富士山はこんなにも大きかったっけ、という感覚です。

文治堂書店『トンボ』第2号。

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当会顧問・北川太一先生のご著書をはじめ、光太郎関連の書籍を数多く上梓されている文治堂書店さんが刊行されているPR誌『トンボ』の第2号が届きました。

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PR誌、というよりは、同社と関連の深い皆さんによる同人誌的な感じなのかも知れません。

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目次の最後、「詩歌三評 野沢一詩集 木葉童子詩経イメージ 3」で、光太郎に触れられています。

野沢一(はじめ)は、1904(明治37)年、山梨県出身の詩人。昭和4年(1929)から同8年(1933)まで、故郷山梨の四尾連湖畔に丸太小屋を建てて独居自炊、のち上京しています。昭和14年(1939)から翌年にかけ、面識もない光太郎に書簡を300通余り送りました。いずれも3,000字前後の長いもの。光太郎からの返信はほとんどなく、ほぼ一方通行の書信です。ちなみに光太郎からの返信2通は、一昨日訪れた山梨県立文学館さんに所蔵されています。

昭和9年(1934)、野沢は丸太小屋生活の中での詩篇をまとめ、『木葉童子詩経』として自費出版、昭和51年(1976)と、平成17年(2005)に、文治堂書店さんから再刊されました。

今回、『トンボ』に載ったのは、この再刊本を元にした三氏の野沢評。目次には詳細が記されていませんが、酒井力氏の「『木葉童子詩経』をよむ」、曽我貢誠氏で「森と水と未来を見つめた詩人」、古屋久昭氏による「自然と対話し愛した詩人」。それぞれ、光太郎との沢の交流について触れて下さっています。

そのうちの曽我氏から、『トンボ』が送られてきました。多謝。
曽我氏と古屋氏、それから野沢の子息の野沢俊之氏は、連翹忌にご参加いただいております。

さらに、平成25年(2013)、坂脇秀司氏解説で刊行された『森の詩人 日本のソロー・野澤一の詩と人生』に関する記述も。坂脇氏も連翹忌にご参加いただいたことがありました。


こうした光太郎と縁のあった文学者と光太郎のつながりに関しても、まだまだいろいろ知られていない事実等がたくさんあることと思われます。それぞれの研究者の方々との連携を図りたいものです。

そうした光太郎と縁のあった文学者の一人、詩人の黄瀛をメインにした、宮沢賢治イーハトーブ館さんの「宮沢賢治生誕120年記念事業 賢治研究の先駆者たち⑥ 黄瀛展」を、今日、拝見します。

 今日から2泊3日で、花巻経由の盛岡行きです。今日は花巻に寄って黄瀛展を拝見し、盛岡に。明日は盛岡少年刑務所さんで行われる第39回高村光太郎祭に出席し、講演をして参ります。一般には非公開のイベントですので、ブログではご紹介しませんでしたが、帰ってきましたらレポートいたします。明後日はまた花巻で途中下車、花巻高村光太郎記念館さんに立ち寄ろうと考えております。


【折々の歌と句・光太郎】

きらきらと焼野に長き線路かな             明治42年(1909) 光太郎27歳

欧米留学の末期、スイス経由イタリア旅行中の作です。季節的には3月中頃と考えられ、「焼野」は冬枯れた野原という意味なのでしょうが、ゆらゆらと陽炎の立つ焼け付くような野原、と捉えてもいいように思われます。

盛岡、花巻となると、自家用車での移動ではきついので、長い線路の旅になります。この句をしのびつつ、行って参ります。



盛岡に来ています。

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昨日から岩手県の県都盛岡に来ています。

宿泊は北ホテルさんというところで、戦後に光太郎が来盛した際に常宿にしていた菊屋旅館さんの後身です。

メインの目的は、今日、盛岡少年刑務所さんで開催された第39回高村光太郎祭。当方が講演を仰せつかり、先程、つつがなく終えました。

明日は帰りますが、花巻で途中下車、高村光太郎記念館さんに立ち寄ります。明後日から開催される企画展「智恵子の紙絵」の報道向け内覧会がありますので、そちらに顔を出して参ります。

その他色々と用事を済ませて参りました。詳細は帰ってからレポート致します。


【折々の歌と句・光太郎】
はかなかる旅の行方は明日もあり思ふは今よ風草に吹け
明治34年(1904) 光太郎19歳

草枕の歌。盛岡はさすが東北、晴れていますが風が爽やかです。

岩手レポート その1 宮沢賢治イーハトーブ館 黄瀛展。

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2泊3日の行程を終え、岩手から千葉に帰って参りましたので、レポートです。まずは一昨日、花巻の宮沢賢治イーハトーブ館さんで開催中の「宮沢賢治生誕120年記念事業 賢治研究の先駆者たち⑥ 黄瀛展」。午後2時過ぎ、東北新幹線新花巻駅に着き、コインロッカーに荷物を放り込み、歩くこと20分ほど。同じエリアの宮沢賢治記念館さん、花巻市立博物館さんともども、何度か訪れた場所でした。

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これには驚きました。

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さて、館内へ。展示スペースはあまり広くなく、こぢんまりした展示でしたが、内容の濃いものでした。

黄瀛は中国人の父と日本人の母を持ち、日本で青少年期を過ごした詩人です。光太郎の知遇を得、草野心平を光太郎に紹介する橋渡しを務めたり、ここ花巻で晩年の宮沢賢治に会ったりしたこともあります。戦中戦後は日中戦争や国共内戦、さらに文化大革命の嵐に翻弄され、長い獄中生活を送ったりもしましたが、晩年は名誉回復、日中の文学的交流の架け橋となりました。

黄瀛をメインにした企画展というのは、おそらくこれが初めてなのではないかと思われます。黄瀛の人となり、文学的功績などに関わる様々な展示がなされ、光太郎が序文を書いた黄瀛詩集『瑞枝』や、光太郎作の黄瀛像を表紙に使った雑誌『歴程』など、興味深く拝見しました。

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また、賢治と黄瀛の作品が、同じ雑誌に並んで掲載されているというケースが何度かあり、お互い影響しあっていたような点も見られ、ほう、と思いました。

何より、解説パネルが充実しており、感心いたしました。また、拝観後に購入した図録に、そのパネルの文章がそのまま使われていて、これは貴重な資料になります。モノクロ印刷と云うこともあって、たった300円。これは非常に得をした気分です。

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これを機に、もっともっと黄瀛について、世に知られるようになって行ってほしいものです。

上記画像の通り、10月15日(金)までと、長い開催期間になっています。ぜひ足をお運びください。


その後、また歩いて新花巻駅へ。ちょうど釜石線の快速はまゆり号盛岡行きがあり、新幹線を使うより安く済みました。盛岡についてはまた明日。


【折々の歌と句・光太郎】

おのづから雲こごりきて夏の夜(よ)の明神嶽の尾根をはなれず   制作年不詳

やはり草枕の覊旅歌。「明神嶽」は信州上高地付近に聳える山ですので、智恵子と共に上高地を訪れた大正2年(1913)頃の作かも知れません。

岩手レポート その2 盛岡少年刑務所 第39回高村光太郎祭。

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岩手レポートの2回目です。

7/12(火)、花巻宮沢賢治イーハトーブ館さんで開催中の「宮沢賢治生誕120年記念事業 賢治研究の先駆者たち⑥ 黄瀛展」を拝観した後、盛岡へ。2泊お世話になる内丸の北ホテルさんに入りました。

こちらはかつて菊屋旅館さんといい、光太郎が盛岡で定宿としていたところです。昭和25年(1950)1月18日には、こちらで「豚の頭を食う会」なる催しがありました。「豚の頭」は大げさな表現で、光太郎を囲んでの中華料理をメインにした食事会でした。

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窓からは、同27年(1952)5月3日に光太郎が講演を行った岩手県公会堂がすぐ近くに見えました。こちらではフランス楽団のコンサートを聴いたりもしています。

この日は外で夕食、早めに休みました。というか、いつもですが旅先ではすぐに寝てしまいます。

翌朝、早めに起きて周囲を散歩。

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先述の岩手県公会堂をはじめ、盛岡には当方の大好きなレトロ建築がたくさん遺っており、嬉しくなりました。

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また、そうと知らずにちょっと歩いただけで、光太郎と縁のある人々ゆかりのものがいろいろあって、驚きました。
上は岩手県公会堂前の原敬像。作者は光太郎の父・光雲の高弟である本山白雲です。土佐桂浜にたつ有名な坂本龍馬像の作者でもあります。

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新渡戸稲造像。こちらは光太郎と交流の深かった高田博厚の作。中津川沿いの与の字橋近くにありました。

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何度か訪れた深沢紅子野の花美術館。まだ開館前でしたので入れませんでしたが、昨年、子息の竜一氏の元を渡辺えりさんと共に訪れ、お話を伺ったこともあり、感慨ひとしおでした。

不来方城址では、地元の柔道家の瀬川正三郎像と、裸婦像。深沢を含め、それぞれ岩手県立美術工芸学校で教鞭を執り、同校のアドバイザー的な立場だった光太郎と交流のあった、舟越保武、堀江赳の作品です。

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南部利祥騎馬像の台座。像そのものは戦時の金属供出で無くなりました。南部の身体部分は光雲・光太郎親子と縁のあった新海竹太郎の作、馬は光雲が主任となって作られた皇居前広場の楠正成像の馬、同じく上野の西郷隆盛像の犬を作った後藤貞行の作だったとのこと。

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あまりに有名な石川啄木歌碑。啄木も与謝野鉄幹の新詩社や、その後の『スバル』を通じ、光太郎と面識がありました。

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宿に戻って朝食後、盛岡少年刑務所さんからお迎え。そもそも今回の岩手行きは、同所での第39回高村光太郎祭への参加です。

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こちらでは、昭和25年(1950)1月14日(「豚の頭を食う会」の4日前です)、光太郎が五百数十名の青少年受刑者を前に講演を行いました。その際には、「心はいつでもあたらしく」と揮毫した書をこちらに残し、昭和52年(1977)、岩手県教誨師会の発意で、その書を刻んだ石碑が敷地内に建立。さらに翌年から、法務省主催の「社会を明るくする運動」月間である7月に、高村光太郎祭が開催されています。ただ、少年刑務所自体が光太郎が訪れた頃とは違う場所に移転しているということで、その点は少し残念でした。

入所者による光太郎詩の群読、更生にかける思いを綴った作文の発表などにまじって、講演がプログラムに入っており、今回、当方が講演をさせていただきました。

この講師は、毎年5月15日に行われている花巻高村祭の記念講演で講師を務めると、翌年の盛岡少年刑務所さんでの講師を依頼されるというシステム?になっているようで、一昨年には渡辺えりさん、昨年は先述の舟越保武の息女・末盛千枝子さんが務められました。そんなわけで、末盛さんの近著『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘― 』に、昨年の様子が触れられています。

さて、今年の第39回高村光太郎祭。会場は講堂という建物です。向かって右半分に200名ほどの入所者、左半分は主に地元の招待者(花巻高村光太郎記念館の方々もいらしていました)、総勢数百人と、かなりの人数です。

開会のあと、愛唱歌斉唱。光太郎がこちらに遺した「心はいつでもあたらしく」という句をそのまま題名にした歌で、これが毎日朝夕、館内放送で流されているということです。

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その後、光太郎遺影への献花、所長さんの式辞、来賓の皆さんの祝辞に続き、入所者の皆さんによる詩の朗読。ちなみに少年刑務所といいつつ、入所者のほとんどは成人、全員男子です。彼等が普段働いている所内の工場単位で数十名ずつの群読でした。「新緑の頃」「生けるもの」「あどけない話」「十和田湖畔の裸像に与ふ」「孤独で何が珍らしい」。気合いの入ったいい群読でした。光太郎詩の精神が、少しでも彼等の心の琴線に触れているとすれば、泉下の光太郎も満足でしょう。

続いて、作品発表ということで、更生にかける思いを綴った作文を、2名の入所者が朗読しました。こちらも立派な発表でした。

そして、当方の講演。45分ほどで、パワーポイントを使いながら、光太郎の生涯をざっと語りました。やはり刑務所ということで、順風満帆な生涯ではなく、何度もつまづいて転びながらも、そのたびにそれまでを反省して立ち上がり、「心はいつでもあたらしく」と、道を追い続けた点を強調しました。入所者の皆さんには直接感想を聞けませんでしたが、来賓の方々や、花巻高村光太郎記念館皆さんからは好評でした(お世辞半分でしょうが(笑))。

昨日の『岩手日報』さんに記事が出ましたので、載せておきます。

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閉会後、所内の見学。15年ほど前に、「心はいつでもあたらしく」の石碑は見せていただいたことがあったのですが、それ以外の場所は初めてでした。岩手らしく、南部鉄器の加工を行う工場などなど。どの作業場にも「心はいつでもあたらしく」の語が掲げてあり、光太郎の精神を生かそうと考えられている点、感動しました。

その後、昼食を頂いて、少年刑務所さんでの用件は終わりました。長くなりましたので、午後からについてはまた明日、レポートいたします。


【折々の歌と句・光太郎】

風鈴やここ料亭の四畳半            大正中期(1920頃) 光太郎40歳頃 

「料亭」は浅草駒形橋付近のようです。

盛岡北ホテルさん、光太郎が泊まった頃とは異なり、近代的なビジネスホテルになってしまっていましたが、四畳半くらいの部屋のベッドで寝ころびつつ、この句を思い起こしました。

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岩手レポート その3 花巻高村光太郎記念館企画展「智恵子の紙絵」他。

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岩手レポートの3回目です。他にもいろいろ書くことが山積みですので、一気に行きます。

7/13(水)、盛岡少年刑務所さんで開催された第39回高村光太郎祭のあと、花巻高村光太郎記念館スタッフの方お二人と合流、盛岡市内の加藤千晴氏のお宅にお邪魔いたしました。

加藤氏は今年5月15日、第59回花巻高村祭の記念講演で講師を務められました。氏のお母様の加藤照さんが光太郎の従妹(いとこ)、おばあさまの故・中山ふゆさんが光太郎の叔母という方です。ただ、ふゆさんは叔母といっても光太郎と年令が近く(光太郎の6歳上)、光太郎と「ふーちゃん」「みっちゃん」と呼び合う仲だったそうです(光太郎の本名は「みつたろう」です)。戦前にご夫婦で樺太に渡り、豪商として鳴らしたものの、敗戦で状況が一変、戦後になって内地に引きあげ、お嬢さんの照さんの嫁ぎ先の盛岡に住まわれることになったとのこと。

ふゆさんは昭和35年(1960)に亡くなったそうですが、その息女で光太郎の従妹(いとこ)にあたる照さんは、今年ちょうど100歳。少々お耳が遠くなられているものの、お元気で、貴重なお話をうかがうことができました。

また、加藤家に遺る光太郎関連の品々を拝見しました。光太郎やその家族が写っている古写真、光太郎から照さんへの書簡、光太郎の姉で、16歳で夭折した咲が絵を描いた扇子などなど。咲は日本画を狩野派に学び、将来を嘱望されていました。

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千晴氏は、そうした加藤家と高村家の歴史についての手記を執筆され、花巻高村光太郎記念会として出版する予定とのことです。それ以外にも花巻ではいろいろと出版物を刊行する計画があって、当方も関わらせていただくことになり、今回の加藤家訪問につながりました。


その後、千晴氏のご案内で、ご自宅からほど近い、岩山という山へ。こちらは盛岡市街を一望できるスポットでした。

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岩手山や姫神山もよく見えました。イメージ 5

また、こちらにも啄木の歌碑、さらに啄木の銅像も立っていました。


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ここで加藤氏とは分かれ、花巻高村光太郎イメージ 6記念館スタッフの方に送られて、北ホテルさんに戻りました。


翌日(7/14)、盛岡をあとに、再び花巻へ。この日はそれまでの2日間とは一転、雨でした。

在来線の花巻駅から岩手県交通さんの路線バスに乗り、花巻高村光太郎記念館さんへ。出版関係の打ち合わせは、前日に済んでいましたが、翌日(7/15)から開催の企画展、「智恵子の紙絵」の関連で、寄らせていただきました。

当初は午後2時半からの報道陣向け内覧に出る予定でしたが、早く帰宅せねばならない事情が出来、内覧はパスしました。しかし、職権濫用(笑)で、企画展示室を一足早く拝見させていただきました。


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紙絵の現物は、高村家から20点ほどお借りし、1~2点ずつ展示。元々、記念館で持っている2点の現物と合わせて、3点前後が常に展示されるそうです。上記画像で、中央のガラスケースに入っているのがそれです(周囲の壁に掛けてあるのは複製です)。一日展示すれば、それだけ褪色するという本当にあえかな作品なので、1点の展示期間は短くし、どんどん入れ替えるとのこと。昨日から始まりましたが、最初はチラシにも使われた、こちらの作品が出ています。

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金と銀の部分は、チョコレート系の包み紙ですね。おそらくゼームス坂病院に光太郎が届けた見舞いの品でしょう。

複製の方は、企画展示室に20点ほど、それから普段、常設展示を行っている第二展示室にもパーテーションパネルを出し、さらに20点ほどを展示しています。

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昨日の報道から。 

「智恵子の紙絵」展示/花巻・高村光太郎記念館 原画含む30点 一堂に

 花巻市太田の高村光太郎記念館で、15日から企画展「智恵子の紙絵」が開かれる。詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)の妻智恵子は晩年、作業療法として身の周りにあった色紙や包装紙を切り抜き、台紙に貼り付ける「切り抜き絵」を制作した。光太郎が「紙絵」と名付けた作品が紹介される。
 智恵子は結婚後、自身の油絵に対する芸術的苦悩や実家の一家離散により心の病に侵され、睡眠薬で自殺を図った。一命を取り留めたものの、長い療養生活を送り、1938年に入院先の病院で53歳の生涯を終えた。智恵子は療養中に光太郎に見せるために「切り抜き絵」の制作に取り組んだ。光太郎は岩手と山形、茨城へ紙絵を疎開させて戦争の難から守った。
 智恵子は、花や魚、野菜など身近にモチーフを求め、さまざまな紙をマニュキアばさみで切り抜いて紙絵を制作。独特の色彩感覚による表現方法で、紙の質感を生かした繊細な作品が多い。
 智恵子の紙絵を所有し、今回の企画展に協力している、光太郎の弟の孫高村達さん(48)=東京都=は「デザインを意識したシンメトリーな作品も多い。オリジナルが展示されるのは3年ぶり。これだけの作品が一堂に見られるのは貴重な機会」と話している。
 光太郎没後60年、智恵子生誕130年にちなんだ企画展。展示作品はオリジナルと複製を合わせて約30点。オリジナルは計23点で、期間中に随時入れ替えて紹介される。
 同展は11月23日まで。入場料は、一般550円、高校生・学生400円、小・中学生300円。開館時間は午前8時30分~午後4時30分。
(『岩手日日』)
 

智恵子の紙絵 色とりどりに

花巻市太田の高村光太郎記念館で15日から「智恵子の紙絵」展が始まる。光太郎の妻智恵子が療養中に身近にあった色紙や包装紙などを切り抜いて台紙に貼り付けた作品のオリジナルと複製品を展示。同館は「繊細な表現と色彩感覚を見てほしい」としている。
 今年、智恵子の生誕130年、光太郎の没後60年となるのをログイン前の続き記念して開催する。智恵子が1938年10月に亡くなるまで1千点以上を制作した。光太郎は「紙絵」と名付け、戦時中も花巻など地方に疎開させて大切に保管した。光太郎は作品について「智恵子の詩であり、抒情(じょじょう)であり、機知であり、生活記録であり、此(こ)の世への愛の表明である」と記している。
 14日に内覧会があり、光太郎の弟の孫にあたる写真家高村達さん(48)は「オリジナルを展示する機会はあまりない。身近に感じてほしい」と話した。
 11月23日まで。同館と高村山荘の入場料は一般550円など。問い合わせは同館(0198・28・3012)へ。(石井力)
(『朝日新聞』)


ところで、関連行事、というわけではないのですが、ロビーコンサート的な催しが開かれます

期  日 : 2016年7月29日(金)
会  場 : 花巻高村光太郎記念館 第一展示室
時  間 : 13:00~ 40分間ほど
料  金 : 無料
出  演 : 大西ようこ(テルミン)  荒井真澄(朗読)


仕掛人の一人が当方のような部分がありまして……。

まずテルミン奏者の大西さん。一昨年に「もう一つの智恵子抄」「otoyoMuseum 四ノ館『智恵子抄』」というコンサートを開かれ、それがご縁で昨年の連翹忌でも演奏をしていただきました。

その大西さん、7/31(日)に、岩手の大槌町でコンサートをなさるそうで、その前に花巻に泊まって高村光太郎記念館・高村山荘に寄りたい、とおっしゃるので、鉛温泉さんをご紹介しました。すると、どうせなら演奏したい、というお話になり、大西さんと、毎年連翹忌や、智恵子の故郷・二本松でのレモン忌にご参加いただいている花巻高村光太郎記念会の浅沼隆氏とで話がまとまったそうです。

また、仙台ご在住のヴォイスパフォーマー・荒井真澄さんが巻き込まれました(笑)。荒井さんも「無伴奏ヴァイオリンと朗読 智恵子抄」、「シューマンと智恵子抄」などで、光太郎作品を手がけられています。今年の連翹で、大西さんと意気投合されたとのこと。

こうした試みは記念館がリニューアルされてから初めてで、どうなることやらというところですが、ぜひ足をお運びください。


話がそれましたが、以上、2泊3日の岩手レポートを終わります。


【折々の歌と句・光太郎】

大海(おほうみ)の圓(まろ)きがなかに船ありて夜を見昼を見こころ怖れぬ
明治39年(1906) 光太郎24歳

もうすぐ「海の日」ですので、今日から海がらみの作品をいくつかご紹介します。

この年、3年半に及ぶ欧米留学のため、横浜港からバンクーバーに向けて出港したカナダ太平洋汽船のアセニアン号の船中で詠んだ歌です。

「連続テレビ小説 とと姉ちゃん」/「にっぽん百名山 安達太良山」。

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本日はテレビ放映系のネタをいくつか。

7/13(水)、岩手盛岡少年刑務所での第39回高村光太郎祭での講演を仰せつかり、市街内丸の北ホテルさんに宿泊しておりましたが、その朝、NHKさんの「連続テレビ小説 とと姉ちゃん」で、智恵子がその創刊号表紙絵を描いた『青鞜』に触れられました。

この番組で『青鞜』ネタになるのは都合3回目。最初は、高畑充希さん演じる主人公・小橋常子(モデルは『暮しの手帖』を創刊した大橋鎭子)や妹の鞠子(相良樹さん)、親友の中田綾(阿部純子さん)らが女学校時代、片桐はいりさん扮する東堂先生に『青鞜』の存在を教えられ、影響を受けたというエピソード。2回目は、戦後、没落した綾が常子と再会、苦しい時も『青鞜』を心の支えとして頑張ってきたと語るシーンでした。

そして3回目。

大橋鎭子と共に『暮しの手帖』を刊行した花森安治がモデルの花山伊左次(唐沢寿明さん)が、過去を語る場面。亡くなった花山の母がやはり『青鞜』を精神的支柱としており、そこから、花山は言葉で人の心を豊かにすることを考えて、編集者の道を歩み始めたと語られました。

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しかし、戦争が始まり、事態は一変。花山は言葉によって、ある意味、国民を死に追いやることに加担したと述べます。その反省から、ペンを置くことにしたのだ、とも。

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このあたり、光太郎を彷彿とさせられます。

光太郎も戦時中の翼賛活動を恥じ、悔い、花巻郊外太田村の粗末な山小屋に7年間蟄居しました。ただし、その間、光太郎が置いたのはペンではなく、彫刻刀。光太郎は自身で「私は何を措いても彫刻家である」と語っていましたので、その本業である彫刻を封印することで、自らを罰したわけです。

他から許されないうちは、自分でも自分を許さないと決めた光太郎でしたが、7年後に、青森県から十和田湖の国立公園指定15周年記念事業としてのモニュメント制作の話があり、自らの死期がそう遠くないことも考え、依頼を受けます。それが「乙女の像」として結実するわけです。

結局花山は、困窮する常子一家の現状を見、さらに荒廃した人心を再び豊かにすることを考え、常子に協力して再びペンを執ることを選ぶところで、先週の放映が終わりました。


今後も『青鞜』はこのドラマの一つのモチーフとして活かされ続けるようです。というか、平塚らいてうが登場します。

昨日の『スポーツニッポン』さんの記事。 

「とと姉ちゃん」平塚らいてう役に真野響子 最後の追加出演者発表、古田新太ら出演

 女優の高畑充希(24)がヒロインを務めるNHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」(月~土曜前8・00)の最後の追加キャストが15日に発表され、作家の平塚らいてう役を女優の真野響子(64)が務めることが分かった。俳優の筧利夫(53)、上杉柊平(24)、古田新太(50)、野間口徹(42)、矢野聖人(24)、石丸幹二(50)、吉本実憂(19)も出演する。

 昭和初期から高度経済成長期を背景に、亡き父親に代わり、一家の大黒柱として母親と2人の妹を守る「とと(=父)姉ちゃん」こと小橋常子(高畑)が戦後の東京で女性向け雑誌を創刊する姿を描く。モデルは雑誌「暮しの手帖」を創刊した大橋鎭子(しずこ)。

 真野は高畑演じる常子が女学校時代、夢中になって読んだ雑誌「青踏」創刊メンバーの中心人物、平塚らいてう役。常子の妹・鞠子(相楽樹)から雑誌「あなたの暮し」への寄稿をお願いされる。

 古田は雑誌「あなたの暮し」で自社製品の評価が低かったことに激怒する電化製品メーカーの社長役。朝ドラ初出演となる吉本は、鞠子の長女で常子の最初のめいとなる水田たまきを演じる。常子に性格が似ていて、のちに「あなたの暮し」出版に入社する。

 筧は水田正平(伊藤淳史)の父、上杉は宗吉(ピエール瀧)が経営する「キッチン森田屋」のコック、野間口は古田演じる電化製品メーカー社長のおいで会社の部下、石丸は新聞記者を演じる。

 制作統括の落合将氏は「日本が戦争の傷跡から立ち直り、豊かになっていく時代の中でも、常子と花山(唐沢寿明)の“庶民の暮らし”を守るためのスタンスは変わりません。追加の豪華キャストの方々と、この物語の最後で常子と花山がどんなドラマを繰り広げるか、最後まで見守っていただければと願います」とコメントした。


前作、「あさが来た」では、終盤、日の出女子大学校(日本女子大学校)時代の小生意気ならいてうを、元AKB48の大島優子さんが演じていました。

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戦後になって成長した(笑)らいてうを、真野響子さんが演じるとのこと。レギュラー出演者ではないにせよ、朝ドラ2作続けて同一人物が描かれるというのは、例がないのではないでしょうか。楽しみです。


さて、テレビ放映系のネタということで、もう1件。明日のオンエアです。 

にっぽん百名山「安達太良山」

NHKBSプレミアム 2016年7月18日(月)  19時30分~20時00分

福島県の安達太良山は、ダイナミックな噴火口を持つ火山の荒々しい素顔と山麓に広がる新緑の森が対をなし、変化に富んだ景観で登山者を魅了する。今回は1泊2日の山旅だ。

安達太良山は、磐梯山と並んで福島を代表する名峰だ。ダイナミックな噴火口を持つ火山の荒々しさと山麓に広がるたおやかな樹林帯が対をなし、変化に富んだ景観が登山者を魅了する。今回は山の東側、塩沢登山口から1泊2日のコース。1日目は、初夏にふさわしい爽快感を味わえる新緑の森と渓谷沿いを進む。宿泊は「くろがね小屋」。2日目は、荒々しい岩石が連なる尾根を進み、大迫力の巨大噴火口跡の沼ノ平から絶景の山頂に。

出演 佐藤哲朗    語り 鈴木麻里子   テーマ曲「空になる」さだまさし

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この番組では、昨年にも安達太良山が取り上げられ、その再放送が今年3月にありました。再々放送かな、と思ったら、新作のようです。

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昨年のオンエアでは光太郎の「あどけない話」が取り上げられましたが、今回はどうなることか。ちょっとでもいいので触れて欲しいものです。


また、来週には十和田湖をメインで取り上げる番組もありますが、またのちほどご紹介いたします。


【折々の歌と句・光太郎】

海にして太古(たいこ)の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと
明治39年(1906) 光太郎24歳

かなり前にご紹介しましたが、明治39年(1906)、海外留学のため横浜から出航したカナダ太平洋汽船の貨客船、アセニアン船上で詠んだ短歌のうち、最も有名な作であり、光太郎自身も気に入っていたものです。「海を見て」となっているバージョンも存在します。

末盛千枝子さん『「私」を受け容れて生きる 父と母の娘』書評等さらに追加。

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先週、岩手盛岡に2泊3日で行っておりましたが、その間に当ブログの閲覧数がまた跳ね上がりました。帰ってきてからアクセス状況の解析ページを調べてみると、『「私」を受け容れて生きる 父と母の娘』を刊行された末盛千枝子さん関連で、当ブログにたどり着かれた方がたくさんいらっしゃいました。

5月にも同じことがあり、その際には『日本経済新聞』さんと『朝日新聞』さんに書評が載った直後でした。そこで、また何かのメディアで取り上げられたのだろうと思い、そちらも調べてみました。

すると、まず7/12(13日未明)、NHKさんの「ラジオ深夜便」に末盛さんがご出演、「困難が私を導く」と題されてお話をされていました。

末盛千枝子さん「困難が私を導く」<7月12日(火)深夜放送>

末盛千枝子さんは、1986年に国際的な児童図書の展示会「ボローニャ国際児童図書展」でグランプリを受賞、その後、皇后・美智子さまの講演録やターシャ・テューダーの絵本を手がけるなど編集者として活躍してきました。しかしその陰では、夫の急死や経営していた出版社の閉鎖、移住した岩手で起きた東日本大震災など、さまざまな困難を乗り越えてきました。この「困難」こそ、自分の人生を導いてきた原動力だという末盛さんに、2回にわたってお話を伺いました。その1回目です。

こちらは2回に分けてのオンエアだそうで、2回目も近々放送されるでしょう。番組情報に気をつけていたいと思います。


それから、『週刊文春』さんでも取り上げられていました。

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文春さんというと、スキャンダルというイメージになりつつありますが、もちろんそういうわけではなく「新 家の履歴書」という連載で4ページにわたって末盛さんの紹介でした。

『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―』についても触れられており、さらにその中で語られている光太郎との縁についても記述がありました。

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さかのぼって、7/10には、『産経新聞』さんにも書評が出ています。 

【聞きたい。】末盛千枝子さん『「私」を受け容れて生きる-父と母の娘-』 世の中の良い所を見続ける

「私にとってはそんなに大変なことではなかった。読んだ方の反応に、逆にびっくりしています」と末盛千枝子さん。皇后さまの講演録『橋をかける』や、皇后さまが英訳されたまど・みちおさんの詩集『どうぶつたち』などを手掛けた絵本出版社「すえもりブックス」の元代表だ。自伝的エッセーである本書では『橋をかける』にまつわるエピソードや、詩人の高村光太郎との交流、家族の思い出が語られる。
 大学卒業後、絵本出版社に勤めたがキャリア志向はなく結婚退社。しかし、夫は8歳と6歳の息子を残して急死。生来の難病を抱える長男はスポーツでのケガで下半身不随に。脳出血で倒れた再婚相手の看護、出版社の経営難など、“激動と波乱の人生”だが、語り口は非常に静かだ。表題にある「受け容(い)れて」生きることの尊さが胸にしみる。
 「自分の大変さではなく、世の中の良い所を見続けることがとても大事」と話す。例えば、天気の良い秋の日、長男がいるリハビリ専門病院では、生涯忘れられない風景を見たという。「息子の入院仲間で金色の髪をしたお兄さんがね、光り輝くようなイチョウの木の下で、2、3歳の子供と奥さんと一緒にお弁当を広げていた。病院でのピクニックは、本当に美しくまるで聖家族のよう。大変な最中でも、こういうことに出合う幸せがある」
 会社をたたみ平成22年、長男らとともに父の故郷の岩手県に居を移した。翌年の東日本大震災後、被災した子供たちに絵本イメージ 4を届ける活動を開始。懸命に本を求める保育園児の姿に感動した。「ある子は、流されてしまった自分の大好きな絵本を見つけ『あった!』と、その本を抱きしめた。本好きの仲間と出会うのが何よりうれしい」。そしてこう言葉を接いだ。「困難があったからこそ今がある。いろんなことをこれで良かったと思える」。ほほ笑む末盛さんがとてもまぶしかった。(新潮社・1600円+税) 村島有紀

【プロフィル】末盛千枝子
 すえもり・ちえこ 昭和16年、東京生まれ。父は彫刻家の舟越保武。慶応大卒。63年「すえもりブックス」を設立。「3・11絵本プロジェクトいわて」代表。


『毎日新聞』さんと『読売新聞』さんでも取り上げて下さいましたし、NHKさんの、「中江有里のブックレビュー・6月の3冊」でも紹介されています。

まだ読まれていない方、ぜひお買い求め下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

いさましき夏の遠海(とほうみ)雲きれぬををしく晴れよ今は汝(な)が世ぞ
明治34年(1901) 光太郎19歳

今日は「海の日」だそうで。しかし関東はまだ梅雨明けせず、今一つ青い空、もくもく白くわきあがる入道雲、という感覚になりませんね……。


群馬県立館林美術館 再発見!ニッポンの立体。

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群馬から企画展の情報です。 
期  日 : 2016年7月16日(土)~9月19日(月・祝)
会  場 : 群馬県立館林美術館  群馬県館林市日向町2003
時  間 : 午前9時30分~午後5時(入館は午後4時30分まで)   
休 館 日 : 毎週月曜日 (祝日・振替休の場合はその翌日 8月15日を含む週は休館しません)
料  金 : 一般610円(480円)、大高生300円(240円)   ※( ) 内は20名以上の団体割引料金
         ※中学生以下、障害者手帳等をお持ちの方とその介護者1名は無料。
         ※震災で避難されてきた方は無料で観覧できますので、受付でお申し出ください。

わが国には土偶や埴輪、仏像や神像、人形、寺社を装飾する彫り物、置物など、信仰や生活に結びついた豊かな造形表現があります。ところが明治以降、西洋の彫刻がわが国に知られると、それらが刺激となって立体造形に大きな変化がもたらされます。それでも江戸時代以前の造形感覚が忘れられたわけではありません。精巧な技術を駆使して本物そっくりを目指した木彫の栗や象牙の貝殻には、西洋美術が得意とする写実表現とは異なる意識がみられます。それらは根付け、水滴、香合など小さな立体に寄せる日本人の感性に特によく表れています。一方で、現代のゆるキャラやマスコットにみる簡略化は、だるまや招き猫、各地で大切にされたこけしの造形と結びついています。本展ではジャンルを超えた多彩な造形表現によって日本固有の美意識を探ります。

学芸員による作品解説会 (申込不要・要観覧料)   展覧会担当学芸員による解説を聞きながら、作品を鑑賞します。
日時:7/27(水)、8/12(金)、9/11(日) 各日午後2時-(約40分)  会場:展示室

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案内文にあるとおり、古代から現代までの「立体」作品を集めた企画展です。

光太郎のブロンズ彫刻が3点、展示されています。代表作の「手」(大正7年頃=1918頃)、「裸婦坐像」(同6年=1917)、そして「大倉喜八郎の首」(同15年=1926)。

また、それぞれ近くなりましたらもう一度ご紹介しますが、下記の美術館さんにも巡回予定です。

2016年11月15日(火)~2017年1月9日(月・祝)静岡県立美術館
2017年1月24日(火)~4月9日(日)三重県立美術館

ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

地を去りて七日(なぬか)十二支六宮(ろくきう)のあひだにものの威を思ひ居り
明治39年(1906) 光太郎24歳

「海の日」がらみで、光太郎が欧米留学のため横浜から乗船した、カナダ太平洋汽船のアセニアン号船中での作、最後です。

生まれて初めての長い船旅、大きなインパクトがあったようです。



東北系地方紙報道/テレビ放映情報。

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まずは福島。

智恵子の故郷、福島二本松に聳える安達太良山で日曜日に行われた朗読イベントについての報道です。 

顕彰団体が詩朗読 智恵子生誕130年を記念 二本松

 福島県二本松市出身の洋画家高村智恵子を顕彰してイメージ 1いる智恵子のまち夢くらぶは17日、安達太良山(1700メートル)8合目の薬師岳で詩人高村光太郎が妻智恵子を詠んだ詩集「智恵子抄(ちえこしょう)」の朗読会を開いた。
 智恵子生誕130年と光太郎没後60年を記念して開催した。
 参加者約15人はあいにくの梅雨空から姿をのぞかせた山頂を背に、智恵子抄の一節「レモン哀歌」「樹下の二人」「あどけない話」「風にのる智恵子」などをそれぞれ読み上げた。小野町出身の丘灯至夫さんが作詞した歌謡曲「智恵子抄」を合唱した。
(『福島民報』)
 

安達太良山で「智恵子抄」朗読会 心の目で青い空を

 二本松市出身の洋画家・紙絵作家高村智恵子の顕彰に取イメージ 2り組む同市の智恵子のまち夢くらぶは17日、同市の安達太良山で、夫光太郎の詩集「智恵子抄」の朗読会を開いた。参加者が「樹下の二人」「あどけない話」などを朗読した。
  智恵子生誕130年・夫光太郎の没後60年記念事業。あどけない話に「阿多多羅(安達太良)山の山の上に毎日出てゐる青い空が智恵子のほんとの空だといふ」という一節があることから、初の朗読会が企画された。
  約15人が参加。薬師岳の「この上の空がほんとの空です」と書かれた標柱の前で朗読会を開いた。熊谷健一代表が「曇り空だが、心の目で青い空を見てほしい」とあいさつ。全員で「智恵子抄」の歌を合唱した後、順番に朗読した。
  暗唱で「あの頃」を朗読した郡山市の日高計子さん(73)は「この詩からは智恵子の芯の強さがうかがえる」と話した。
(『福島民友』)


夢くらぶさん、地味な活動ですが、こういうことが大事なのだと思います。


安達太良山ということで、過日、NHKさんの「にっぽん百名山」をご紹介しました。が、残念ながら光太郎智恵子には触れられませんでした。


続いて青森。

やはり先週末に行われた第51回十和田湖湖水まつりの報道です。 

十和田湖畔休屋で湖水まつり開幕

 第51回十和田湖湖水まつり(主催・同まつり実行委員会)イメージ 3が16日、青森県十和田市の十和田湖畔休屋で始まった。訪れた人たちがイベントや乙女の像のライトアップ、花火などを楽しんだ。
 休屋の太陽広場では「チームわんぱくとわだっこ」がよさこい演舞を披露。十和田湖自然ガイドクラブの人たちは、いつも早朝案内している1時間の湖畔散策を午前と午後の2回行い、周辺の歴史や見どころを観光客に紹介した。
 午後6時からは乙女の像がライトアップされ、幻想的な姿を見せた。夕方、強い雨が降ったものの、花火大会も無事行われ、1860発が打ち上げられた。
(『東奥日報』)

十和田湖湖水まつり開幕

 国立公園指定80周年を迎えた十和田八幡平に夏の訪れをイメージ 4告げる、第51回「十和田湖湖水まつり」が16日、3日間の日程で、十和田湖畔休屋で開幕した。夜にはあいにくの雨の中、約2千発の花火が湖上から打ち上げられ、湖上を彩った。
 花火は午後8時にスタート。上空を雲が覆い、鮮やかな大輪とはならなかったが、水中花火が湖面に映えると歓声が上がった。遊覧船から眺める人もいて、十和田湖ならではの風情を満喫した。
 日中は広場で地元チームがよさこい演舞を披露するなど、湖畔は終日、大勢の人でにぎわった。
(『デーリー東北』)


ここで、十和田湖関連のテレビ放映情報を。 
BSジャパン 2016/07/24(日)  10時30分~11時00分

日本各地にある、歴史に埋もれた謎の断片、密かに語られてきた妖しき伝承…それらを紐解いた先に見えてくるものとは…?ミステリアスな世界にいざないます。

舞台は、国の特別名勝、天然記念物に指定される美しい十和田湖で有名な青森県十和田市。県内指折りの観光地だ。しかし、そんな風光明媚な十和田湖は、恐山と並び称される霊場であることをご存じだろうか?湖には龍神伝説があり、水神信仰の聖地として崇められてきた。そんな伝説を伝えるのが、荘厳な十和田神社と、湖畔にそびえる赤色の断崖絶壁。今回は、十和田湖に伝わる神秘的な霊場の龍神伝説を紐解いていく。

ナビゲーター 西本智実

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近年、パワースポットとして人気の、「乙女の像」の裏手にある十和田神社がメインで取り上げられますが、「乙女の像」もちらっと映るようです。予告編に映像が入っていました。

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ぜひご覧下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

三角の木ぎれ手に持ち墨引きていとしきものか蝉の眼をみれば
大正13年(1924) 光太郎42歳

夏、といえば蝉ですね。光太郎、木彫で蝉を複数制作しましたが、それにまつわる短歌も数多く残しています。しばらく、蝉関連の短歌をご紹介していきます。

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東京国立近代美術館工芸館 所蔵作品展 こども+おとな工芸館 ナニデデキテルノ?。

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光太郎の実弟にして、鋳金の道に進み、人間国宝に認定された高村豊周の作品が展示されています。 
期  日 : 2016年7月16日(土)~9月8日(木) 月曜休館 
会  場 : 東京国立近代美術館工芸館 千代田区北の丸公園1-1
時  間 : 10:00~17:00
料  金 : 一般210円(100円) 大学生70円(40円)  ( )内は20名以上の団体料金。いずれも消費税込。
        高校生以下および18歳未満、65歳以上、「MOMATパスポート」をお持ちの方、友の会、賛助会  
        員、MOMAT支援サークルパートナー企業(同伴者1名まで、シルバー会員は本人のみ)、キャン
        パスメンバーズ、障害者手帳をお持ちの方とその付添者(1名)は無料。
無料観覧日 : 8月7日(日)、9月4日(日)

こどもたちと一緒に工芸を見たことはありますか?
工芸鑑賞はちょっとむずかしそう…と心配されることがあるけれど、作品を見たこどもたちは、おとなの予想を軽く乗り越えて、生き生きと反応してくれます。きらきら輝く目のなかは「!」や「?」でいっぱい――好奇心が踊るようにあふれでて、そのわくわく感に周囲で見守るおとなたちも嬉しくなるほどです。
こどもの興味を惹きつけるのは、なんといっても、それが何でできているのか?ということ。
「工芸」とひとくくりに呼んでいますが、種類はさまざまで、それを分ける決め手となるのが素材です。でもちょっと見にはそれが判断つかないものが少なくないのも工芸の特徴。土、石、草や木、虫など、素材に選ばれたものの元の姿を知っていると、ますます「!」や「?」が飛びだします。
工芸がこれだけ多彩に発展してきたのは、私たち人間が「こうしたい」と思ったことがらを形にしたものだから。それもよりよく、より美しくと、尽きない願いに応えて、あらゆる素材を吟味しては多方面に可能性を試し、磨き上げてきた結果が作品の魅力を築き、見る人、そして作る人自身をも惹きつけてきたのです。
そんな風に考えてみると、「ナニデデキテルノ?」というシンプルな発言には、作品へのお近づきの挨拶とともに感動のほとばしりが潜んでいそうです。知識豊富な大人の皆さんも、あらためて、こどもと一緒にこのひと言をつぶやいてみませんか?まだ気づいていなかった、知恵と情熱満載の工芸の秘密を探る鍵がみつかるかもしれません。

人間国宝から人気の現代作家まで当館所蔵作品、約120点を展示
繊維、土、石、ガラス、金属、木、貝殻など、展示室ごとにさまざまな素材の魅力を紹介します。


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豊周の作品は、「朱銅まゆ花瓶」(昭和39年=1964)、「青銅花瓶」(大正15年=1926)の2点。

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その他、有名どころでは、染色の志村ふくみさん、芹沢介らの作品、さらに竹久夢二作のオブジェ、六代清水六兵衛、ルーシー・リーの磁器なども展示されています。出品目録はこちら

ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

しきりに桜の幹をいそぎのぼる蝉は止まりてなきはじめたり
大正13年(1924) 光太郎42歳

「新御徒町 幻の高村光雲の大仏」。

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先週の『朝日新聞』さんの夕刊に、以下のコラムが載りました。

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(各駅停話)新御徒町駅 幻の高村光雲の大仏

 駅を出るとすぐ、65店舗が並ぶ「佐竹商店街」がある。1898年に組合組織のできた、日本で2番目に古い商店街という。
 あたりには江戸時代、大名の佐竹氏の屋敷があったが、明治時代に撤去されて原っぱになった。佐竹商店街振興組合の秋本邦雄理事長(73)によると、明治時代には、鎌倉の大仏より大きな大仏があったという。
 つくったのは、近所に住んでいた彫刻家、高村光雲(1852~1934)。光雲の懐古談に、原っぱに見せ物用の大仏をつくって中に客を入れる構想を冗談半分に口にしたところ、周囲が乗り気になり、実現したという話が出てくる。
 1880年代中ごろにできた大仏は高さ約15メートル。後に同じく光雲のつくった西郷隆盛像の建つ、東京・上野近辺からも眺めることができたらしい。しかし、完成した年、嵐で骨組みだけ残して吹き飛んでしまったという。
 こうした話は、商店街の酒井孝昌さん(82)が30年近く前、地元の歴史を残そうと掘り起こした。大仏があったと思われる場所に案内してもらうと、小学校になっていた。「大仏が、地域の歴史に目を向けるきっかけになればうれしい」と酒井さん。(石山英明)


場所は台東区台東4丁目、現在、平成小学校のある辺りで、記事にあるとおり、江戸時代には佐竹家の屋敷があったため、「佐竹っ原」といわれていた空き地でした。時は明治22年(1889)、光雲は数え38歳、岡倉天心に請われて東京美術学校に奉職した年です。この頃、佐竹っ原にはよしず張りの簡素な飲食店や見世物小屋などが立ち並んでいました。ところが、目玉になるようなものはなく、どうにもさびしい状態だったとのこと。

そこで光雲と職人仲間との雑談の中で、あそこに何か目玉になるものを作ろう、という話になりました。モニュメントとかオブジェというニュアンスではなく、見世物小屋の延長として、しかし、ただ小屋を建てるのでは芸がないから、小屋全体を展望台も兼ねた大仏の形にしてしまえ、というのが光雲の発案でした。

光雲は冗談半分だったのですが、仲間たちは乗り気になり、光雲にひな形を作れ、と迫ります。言い出しっぺの光雲としては断り切れず、どうせ実際に作るとなると無理だと言われるに決まっている、と思いながら二尺四寸のひな形を作りました。すると、案に相違して仲間たちには好評、専門の大工などに見せても、これなら出来る、とのことで、実現します。

これが佐竹っ原の大仏で、材料は丸太、板、竹、漆喰。つまりほとんど張りぼてです。光雲の異母兄で大工の中島巳之助や、仕事師と呼ばれる今で言う足場組立職人、芝居の大道具師、左官屋、興行師なども巻き込み、2ヶ月ほどで完成します。光雲も、大工たちの間に入って陣頭指揮したとのこと。

高さは四丈八尺(約14.5㍍)。内部は、さざえ堂を参考にした螺旋階段を設置、大仏の頭部が展望台を兼ねた部屋で、眼や耳に開けられた穴から街並みが見渡せる仕組み。胴の内部は仏像やら古布などを展示、さらにステージまで設けて踊りも披露するという凝った作りでした。

完成した五月には、大入りになりましたが、その後、梅雨と真夏の猛暑の時期には客足が落ち込み、秋口になって、さあ盛り返すぞ、というところで台風の直撃を受け、骨組みだけを残して壊れてしまったそうです。というわけで、わずか4ヶ月ほどの命だったこの大仏、残念ながら写真や絵図などの現存が確認できていません。

このあたり、昭和4年(1929)に刊行された『光雲懐古談』に詳しく記述があり、「青空文庫」さんで読むことができます。まだ日本彫刻界の頂点に上る前の壮年期の光雲。しょうもないといえばしょうもないこともやっていたわけですが、微笑ましいエピソードです。


お読み下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

なきかけ又なきなほすみんみんのあかるきかなや必死のうたは
大正13年(1924) 光太郎42歳

『愛・性・家族の哲学① 愛 結婚は愛のあかし?』。

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新刊、といっても4月の刊行なので3ヶ月ほど経ってしまっていますが、最近まで気付きませんでした。
 
2016/04/15  藤田尚志・宮野真生子 編 ナカニシヤ出版 定価2,200円+税

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「愛」の一語が秘めた深遠な思想史の扉を開く。よりアクチュアルに,より哲学的に,何より身近なテーマを問うシリーズ、第1巻。

目次
Ⅰ 西洋から考える「愛」
  第1章 古代ギリシア・ローマの哲学における愛と結婚 (近藤智彦)
     ――プラトンからムソニウス・ルフスへ――
 第2章 聖書と中世ヨーロッパにおける愛 (小笠原史樹)
 第3章 近代プロテスタンティズムの「正しい結婚」論? (佐藤啓介)
     ――聖と俗、愛と情欲のあいだで――
 第4章 恋愛の常識と非常識 (福島知己)
     ――シャルル・フーリエの場合――
Ⅱ 日本から考える「愛」
  第5章 古代日本における愛と結婚 (藤村安芸子)
      ――異類婚姻譚を手がかりとして――
 コラム 近世日本における恋愛と結婚 (栗原剛)
      ――『曾根崎心中』を手がかりに――
 第6章 近代日本における「愛」の受容 (宮野真生子)


編者のお二方は、それぞれフランス近現代思想、日本哲学史を専攻され、九州の大学で教鞭を執られている研究者です。

最初にこの書籍の情報を目にしたとき、「哲学」の文字から、小難しい理屈の羅列かと思いましたが、さにあらず。前半は西洋、後半は日本に於いて、「愛」がどのように捉えられてきたのか、その思想史的な考察……というと堅苦しいのですが、様々な実例を引きながら(近年の映画『エターナル・サンシャイン』や『崖の上のポニョ』まで含め)、いわば帰納的に「愛」の在り方が、かなりわかりやすく説かれています。

特に日本編は興味深く拝読しました。『古事記』や『源氏物語』、『曽根崎心中』、夏目漱石の『行人』、そして『智恵子抄』。

キリスト教の「love」の概念や、中国に於けるどちらかというと道徳的な「愛」の影響を受けつつ、対象と一つになることを理想とする恋愛の形の出現、そして一つにならねばならない、というある種の強迫観念がもたらした光太郎智恵子の悲劇、といった流れで、「なるほど」と首肯させられました。

本書でも、光太郎智恵子の悲劇の考察だけを取り出すのであれば、ほぼこれまでにも様々な論者が述べてきたことの焼き直しのような感がありますが、いわば「近代恋愛史」的なマクロ視点の中にそれを置くことで、また違った見方で見えてきます。ある意味、光太郎智恵子の悲劇は、「近代恋愛史」という壮大なパズルの無くてはならないピースのように、起こるべくして起こった、というような……。

版元のナカニシヤ出版さん。京都の書肆です。こうした真面目な、しかしはっきりいうと商業的にはどうなのかな、という出版に真摯に取り組まれる姿勢には敬意を表します。

ぜひお買い求め下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

鳴きをはるとすぐに飛び立ちみんみんは夕日のたまにぶつかりにけり
大正13年(1924) 光太郎42歳

『少年少女に希望を届ける詩集』。

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昨日に引き続き、新刊情報です。 
2016/08/02   曽我貢誠・佐相憲一・鈴木比佐雄 編 コールサック社 定価1,500円+税

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詩人、作家、教育関係者などによる200人詩集。いまを生きる多感な少年少女へ、そっとエールをおくりたい。「教えるとは希望をともに語る語ること」(ルイ・アラゴン)。誰でもいつかは少年少女、そんな視点で心のうたをお届けします。学校で、塾で、電車の中で、家庭で読んでいただきたい1冊です。

目次
 はじめに 未来を切り開くために 曽我貢誠
 第一章 学ぶ
 第二章 歩む
 第三章 立つ
 第四章 こころ
 第五章 いのち
 第六章 希望
 第七章 家族の中で
 第八章 自然の中で
 第九章 世界の中で
 第十章 未来
 解説 『少年少女に希望を届ける詩集』 人間そのものを思うこと 佐相憲一
 解説 少年少女のしなやかな心が語り合える詩集になることを願って『少年少女に希望を届ける詩集』に寄せ  て 鈴木比佐雄 
 おわりに 曽我貢誠  

編者お三方のうち、曽我貢誠氏は詩人で、連翹忌の御常連です。鈴木比佐雄氏は同社の社長さん。今年の連翹忌にご参加下さいました。佐相憲一は詩人、評論家、編集者。
広く募集した書き下ろしの稿と、光太郎などの物故詩人の作品が入り交じる構成になっています。詩が根幹ですが、エッセイ的な散文も多く収録されています。
ご存命の有名どころでは、谷川俊太郎氏、覚和歌子氏、あさのあつこ氏、落合恵子氏、新川和江氏、水谷修氏、尾木直樹氏、浅田次郎氏、小山内美江子氏、明石康氏など。
物故詩人としては、山村暮鳥、武者小路実篤、宮沢賢治、金子みすゞ、吉野弘、島崎藤村、河井酔茗、高田敏子、宗左近、坂村真民などにまじって光太郎も。光太郎の作品は、『道程』と『冬が来た』が掲載されています。
また、今年の連翹忌で、募集のチラシが配られたため、御常連の皆さんで、それに応じられた方々がいらっしゃいます。作曲家・野村朗氏、詩人・野澤一のご子息の野澤俊之氏。当方は、忙しさに取り紛れて欠礼いたしました。
上記2枚目の画像(裏表紙)で、寄稿者全員のお名前が確認できます。
ぜひお買い求め下さい。

【折々の歌と句・光太郎】
いつしんになきどよもせば袋もて採る気になれず蝉の腹を見る
大正13年(1924) 光太郎42歳
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