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Channel: 高村光太郎連翹忌運営委員会のブログ
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「十和田湖乙女の像のものがたり」朗読劇。

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青森・十和田市の広報紙『広報とわだ』の今月号に、以下の記事が載りました。 

 「十和田湖乙女の像のものがたり」朗読劇イメージ 1

乙女の像建立60 周年記念に十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会が発刊した「乙女の像のものがたり」を安斉将(まさる)さんのイラストを投影して上演します。

❶とき 4月16 日㈯ 午後3時~
  ところ 十和田湖観光交流センター「ぷらっと」
        十和田市大字奥瀬字十和田湖畔休屋486
 定員 50 人(先着順)

❷とき 4月17 日㈰ 午後3時~
 ところ 市民交流プラザ「トワーレ」
                  十和田市稲生町18-33 
 定員 60 人(先着順)

入場無料

どちらも30 分前開場

問い合わせ 
 劇団エムズ・パーティー・仲島 ☎ 090-7066-2873


昨年の今頃、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さんの編集で刊行された『十和田湖乙女の像のものがたり』。当方も監修として名を連ねさせていただき、巻頭に年少者向けの「乙女の像ものがたり」、資料編に「「乙女の像」概説」と、2本の原稿を書かせていただきました。

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先月、ボランティアの会さんの方からご連絡があり、十和田市内に活動拠点を置く劇団エムズ・パーティーさんが、年少者向けの「乙女の像ものがたり」を換骨奪胎し、同書の挿絵に使われたイラストレーター・安斉将の作品や効果音をプロジェクタで流しつつ、朗読劇にしたいというお話を戴きました。メールで送られてきたシナリオを拝見、もちろん快諾いたしました。

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その公演が2回、今月行われます。最初が十和田湖畔の観光交流センター・ぷらっとさんで16日に。次の日には十和田市街の市民交流プラザ・トワーレさんでの開催だそうです。

当方原作の瑕疵は朗読や演出でをカバーし、成功させてていただきたいものです。

お近くの方、ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

パラタンのあさき緑とこんじきの砂を背にして君立てりけり
明治42年(1909) 光太郎27歳

イタリア旅行中の作。「パラタン」は古代ローマ七丘の一つ、「パラティーノ」の丘です。この際には一人旅でしたが、「君」とは誰なのか……旅先で知り合った人か、単なる妄想か、気になるところです。

第60回連翹忌/岩手県交通路線バス太田線。

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イメージ 2今日、4月2日は、光太郎忌日・連翹忌です。昭和31年(1956)に亡くなった光太郎を偲ぶため、翌昭和32年(1957)に第1回連翹忌が、光太郎終焉の地・中野の中西家アトリエで行われました。

発起人は実弟の豊周、草野心平、佐藤春夫ら。彼等によって、光太郎が愛し、その葬儀の際に棺に飾られたアトリエの庭に咲いていた連翹(レンギョウ)にちなみ、「連翹忌」と名付けられました。

その第1回は、いくつか置かれたリンゴ箱に板を渡し、テーブルクロス代わりの白い布を敷いただけの即席の会場だったそうです。

爾来、場所を変えながら一度も途切れることなく連綿と続き、平成11年(1999)の第43回からは、明治末から大正初年、光太郎智恵子がデートをし、また、芸術家達の集まりであった「パンの会」の会場としても使われた日比谷松本楼さんで行っています。

今年は60回の節目の連翹忌です。午後5時半から、松本楼さんで集いを持ちます。土曜ということもあり、昨日の時点で、ここ数年で最も多い77名の皆様のご出席申し込みがありました。生前の光太郎をご存じの方も10名近く。それから新規の方も多く、泉下の光太郎も喜んでいることでしょう。

様子は明日以降のブログにてレポートいたします。

同じく今日、光太郎が戦中戦後の足かけ8年を過ごした花巻でも、花巻としての連翹忌が行われます。午前9時からは光太郎が独居生活を送った山小屋(高村山荘)敷地内で詩碑前祭、午後1時からは、光太郎が毎年のように智恵子や光雲の法要を行ってもらっていた、花巻市街の松庵寺さんで、花巻としての連翹忌です。

こちらも報道されれば、明日以降のブログでご紹介します。

さて、その高村山荘へのアクセスですが、花巻駅からの路線バス(岩手県交通さん)が、昨日から復活しました。かつては定期便で運行されていたものが、廃線となりました。それが昨秋、試験運行と言うことで復活。ただし、10,11月の2ヶ月間の限定でした。

すると、花巻市さんの広報紙『広報はなまき』の今月号に、以下の記事が載りました。 

県交通路線バス情報 太田線の増便

昨年度に引き続き、太田線の花巻駅から高村山荘までの区間を増便する試験運行が実施されます。
【運行期間】 4月1日(金曜日)~11月30日(水曜日)
【問い合わせ】  本庁都市政策課(0198-24-2111内線562) 県交通株式会社花巻営業所(0198-23-1020)

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高村山荘まで行くのは日に2往復ですが、タクシーだと片道3,000円以上。ありがたいところです。また、途中の「花巻清風支援学校前」までしか行かないバスもありますが、そこからでも高村山荘まで直線距離で3㌔㍍ほど。のんびり歩くにはいい距離かも知れません。途中には光太郎ゆかりの石碑なども点在しています。

ぜひあちら方面に行かれる場合にはご利用下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

夕月や満山の花仙に入る                明治33年(1900) 光太郎18歳

当方、日比谷松本楼さんでの連翹忌の前に、駒込染井霊園にある光太郎の墓参を致します。こちらはソメイヨシノ発祥の地。また、日比谷松本楼さん周辺も桜が見事なはずです。満開であろう桜の中で、光太郎を偲ばせていただきます。

第60回連翹忌レポート。

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昨日は光太郎の命日、連翹忌でした。

まずは昼頃、駒込染井霊園の高村家墓所に香華を手向けに参りました。昨日が連翹忌というのが、意外と知られているようで、当方が着いた際に、一般の方々が10名程、お参りして下さっていました。ありがたいかぎりです。

さすがは発祥の地、ソメイヨシノがみごとでした。

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その後、日比谷松本楼さんへ。午後5時30分から、連翹忌の集いです。当方は2時30分過ぎには会場入りし、準備。多くの皆さんが、配付資料の袋詰めや名札の準備、受付などでお手伝い下さり、助かりました。ありがとうございました。

午後5時30分、開会。まずは光太郎に、そしてこの1年に亡くなった関係者の皆様に、ということで黙祷を捧げました。つい先だって、光太郎の親友だった作家の水野葉舟のお孫さんで、さらには光太郎に私淑した詩人・尾崎喜八のお嬢さんにあたる尾崎榮子様が亡くなったそうで、昨日、初めて知りました。一昨年に鎌倉でお会いしたのが最後になりました。生前の智恵子を知る方でした。残念です。

当会顧問の北川太一先生のご挨拶。最近、フランスで実物が確認されたアンリ・マチスと光太郎の往復書簡についてお話下さいました。

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続いては、光太郎の実弟で鋳金の人間国宝だった高村豊周のお孫さんにして、現在の高村家当主・達氏の御発声により、献杯。

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その後はビュッフェ形式で料理を戴きつつ、アトラクションとしての音楽家の皆さんの演奏と、全国からお集まりの皆さんからスピーチを賜りました。

演奏は毎年ひと組の方にお願いしていたのですが、今年は是非にというお申し出もありましたし、60回の節目だから盛大にいこうと、3組の皆さんにお願いしました。

バリトン歌手・森山孝光氏と、ピアノの康子様ご夫妻による歌曲「千鳥と遊ぶ智恵子」「案内」。

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作曲された野村朗氏もいらしていて、スピーチをお願いしました。

その後はスピーチをいろいろな方に。

遠く花巻からいらした市の生涯学習交流課長・高村光太郎記念館長の市川清志様。

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智恵子の故郷・二本松の観光大使をなさっている女優の一色采子さイメージ 9ん。お父様は二本松出身の日本画家、故・大山忠作氏です。智恵子をモチーフにした作品も多く描かれました。「二本松さくら展」などについてお話しいただきました。

九段下の書道用品店・玉川堂さんは、明治末と推定される光太郎直筆の短冊を持ってきて下さり、そのお話を。

詩人の曽我貢誠氏、碌山美術館学芸員の武井敏氏。

太平洋美術会の坂本富江さんと沼津第一小学校長・斎藤匡洋先生には、智恵子が描いた油絵「樟」についてお話しいただきました。

出版社、コールサック社の鈴木比佐夫様、鋳金家の後藤信夫様。

女川光太郎の会の佐々木英子さん。震災から5年の現状を語って下さいました。先頃、天皇皇后両陛下が女川をご訪問された際のお話なども。
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そしてシンガーソングライター・北村隼兎(はやと)さんのギター弾き語り。曲目は「レモン哀歌」「十和田湖畔の裸像に与ふ」。3年前の智恵子命日の集い「レモン忌」で演奏を聴かせていただき、ぜひ連翹忌でも、とお誘いし続けていましたところ、今年、とうとう実現しました。

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熱の籠もった歌声に、会場も感動。

仙台からいらした朗読家の荒井真澄さんには、急遽、「あどけない話」の朗読をお願いしました。突然の無茶ぶりにも快く応じて下さいました。

さらにシャンソン系のモンデンモモトリオ。モモさんに歌っていただくのは5年ぶりくらいです。

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チェロの伊藤耕司さん、ギターの田嶌道生さんの伴奏で、「オーロードコレクトミー」「樹下の二人」「道程~冬が来た」。いつもながらに素晴らしい演奏でした。

ご参会の方全てに光太郎智恵子への思いを語っていただきたかったのですが、そういうわけにもいかず、盛会のうちに、閉幕。充実した会でした。

来年以降も4月2日には、日比谷松本楼さんで連翹忌の集いを行います。ご興味のある方は、ぜひぜひご参加下さい。参加資格はただ一つ、「健全な精神で光太郎智恵子を敬愛すること」のみです。


【折々の歌と句・光太郎】

桜狩り桜をめでて日をめでて暮れてかへるに君か要(い)るべき
明治38年(1905) 光太郎23歳

駒込染井霊園、そして日比谷公園も桜が満開でした。当方自宅兼事務所のある千葉県北東部はまだ2~3分咲き。今月は信州などにも出かけますので、満開の桜が長い間見られます。

花巻連翹忌報道。

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4月2日、東京では日比谷公園松本楼さまで、第60回連翹忌の集いを開催いたしました。

同日、光太郎が戦中戦後の足かけ8年を過ごした岩手花巻でも、旧太田村の山小屋(高村山荘)敷地で詩碑前祭、午後から光太郎ゆかりの花巻市街にある松庵寺さんで、花巻としての連翹忌が開催されました。

東京の方はなかなか報道されませんが、岩手の方は報道されていますのでご紹介します。
 

光太郎に思いはせる 詩碑前祭 小中学生が詩を朗読

 花巻ゆかりの詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1イメージ 1956年)の命日である2日、花巻市太田の高村山荘敷地内広場で「詩碑前祭」が催され、今年も太田山口地区の住民ら約50人が地元に教えを残した光太郎の遺徳をしのんだ。
 山関、上太田両行政区全94戸で組織し、光太郎の顕彰活動を続けている高村記念会山口支部が毎年主催。照井康徳支部長、来賓で花巻高村光太郎記念会の高橋邦宏事務局長のあいさつに続き、太田小学校の高橋百花さん(3年)、中島絢星君(1年)が光太郎の詩「雪白く積めり」が刻まれた石碑と遺影に献花した。
 同支部の平賀仁理事が「厳しき自然の中に先生は7年間住まわれ、自然をたたえ、詩にうたい、地方の私たちに数々の教えを注いでくださった」と祭文を読み上げて光太郎に感謝を伝え、地元の上太田子供会、戸来園子さん、高橋新吉さん、太田区長会が「山の広場」「岩手の人」など光太郎の詩を高らかに朗読した。
 光太郎は1945年、東京のアトリエを空襲で焼失し、詩人で童話作家の宮沢賢治の生家の招きで花巻に疎開。旧太田村山口の山小屋で7年間、農耕自炊の生活を営みながら住民と交流し、多くの詩作品を生み出した。
 高村山荘の近くにある高村光太郎記念館は、老朽化のため全面改修され、2015年4月にリニューアルオープンし、多数の入場者を迎えている。
 照井支部長は「少子高齢化の影響で地区の子供も減っており、今年は詩の朗読に小学生だけでなく中学生も加わってもらった。高村先生を覚えている人も減っている。リニューアルした記念館とともに行事を通じて先生のことを伝えていきたい」と話していた。
『岩手日日新聞』 2016/04/03
 

”高村光太郎の命日”で法要

 詩人で彫刻家、高村光太郎の命日の2日、光太郎が太平洋戦争の時に疎開していた花巻市で法要が営まれました。
 高村光太郎は、昭和20年の空襲で東京のアトリエを失ったあと、知人を頼って花巻市に疎開し、その後、7年間を過ごしました。
 光太郎の命日の2日、花巻市双葉町の松庵寺で光太郎が好きだったというレンギョウの花の名前をとって「連翹忌」と呼ばれる法要が営まれました。
 法要には、光太郎ファンの市民などおよそ20人が集まり、松庵寺の小川隆英住職が、お経を読みあげたあと、光太郎の詩、「松庵寺」を紹介しました。
 小川住職は、この詩について、「若くして亡くした妻、智恵子への愛情が込められている」などと説明していました。
 出席した70代の女性は、「光太郎の妻への愛情が身にしみてわかりました」と話していました。
 また、2日は、光太郎が過ごした山荘近くにある石碑の前でも、市民や子どもたちおよそ40人が集まり詩を朗読して光太郎をしのんでいました。
「NHKオンライン 岩手」 2016/04/02

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ありがたいことです。こちらも続けられる限り続けていっていただきたいと思います。当方、東京での連翹忌を仕切らねばなりませんので、こちらには参加できません。ただ、来月15日、昭和20年(1945)に光太郎が疎開のため東京を発って花巻に向かった日には、やはり高村山荘敷地内で、光太郎を偲ぶ「高村祭」が開催されます。こちらには例年通り参加させていただきます。


【折々の歌と句・光太郎】

春雨や赤き袴(ジユボン)と黒き傘 明治42年(1909)           光太郎27歳

イタリア旅行中の作。「ジュボン」=「ズボン」に「袴」の漢字を当てる辺りがにくいですね。赤と黒の対比がいかにも南欧の鮮やかな風景を演出しています。

日本では菜種梅雨、というところでしょうか。今日もかなり雨が降っています。2日の連翹忌の日も、朝、そして帰途に就いている途中も激しい雨でした。

光太郎は生前から何か節目の時には必ず雨か雪(連翹忌の日に最終回を迎えたNHKさんの「あさが来た」の新次郎さんみたいですね)。亡くなった昭和31年(1956)4月2日は、東京では季節外れの大雪が積もっていたそうです。没後も雨や雪を降らせる神通力は健在。連翹忌当日は、絶対といっていいほど、雨が降ります。

第60回連翹忌にていただきもの。

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過日、日比谷松本楼さんで執り行った第60回光太郎忌日・連翹忌の集いに、全国から約80名の方がご参集下さいました。

参会の皆さんに、ということで資料をお持ち下さった方も多く、また、運営委員会代表の当方に、ということでいただきものもしてしまいました。

チラシなどに書かれていた情報(ソフト)的な部分は順次ご紹介しますが、もの(ハード)としていただいたものの中からいくつかご紹介します。



作曲家・野村朗氏から、今年1月に名古屋で行われたコンサート「Gruppo Giglio Vol.8」の模様を撮影したDVD。参会者全員分用意して下さいました。

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野村氏作曲、第60回連翹忌で演奏をご披露下さった森山孝光・康子ご夫妻の演奏による連作歌曲「智恵子抄巻末の短歌六編より」が収録されています。

コンサート当日は当方、他の用事のため足を運べなかったもので、ありがたく存じました。


冊子『高村光太郎入村70年記念 ~思い出記録集~ 大地麗』。

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花巻市太田地区振興会さんの発行で、同会の佐藤定氏が当方に、ということでお持ち下さいました。

昨年10月、花巻郊外太田村時代(昭和20年=1945~同27年=1952)の光太郎を知る皆さんの座談会が行われた、その記録です。70年前から65年前の話で、当時を知る方が少なくなり、変な話ですが、残った方もご高齢。今のうちに皆さんの記憶を記録に残そうという試みでした。

これまで活字になったことがないのではないか、というようなエピソードや、当方も初めて見る写真などが掲載されており、非常に貴重な記録です。

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上記は大田村役場落成記念に撮られた集合写真。昭和25年(1950)11月25日です。この際に光太郎は、「大地麗(だいちうるわし)」と書いた大きな扁額を村に贈っており、冊子の題名はここから採られています。


高村光太郎研究会発行の雑誌『高村光太郎研究37』。連翹忌当日の発行です。

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当方も寄稿しているため、1冊戴きました。当会顧問の北川太一先生の玉稿、昨秋行われた、「第60回高村光太郎研究会」で発表をされた田所弘基氏、西浦基氏などの論考等が掲載されています。


その他、光太郎には直接関わりませんが、連翹忌でスピーチをお願いした、鋳金家の後藤信夫様から鋳金関係の書籍を3冊戴きました。

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後藤氏は光太郎の実弟・豊周、その弟子筋に当たる故・西大由氏、故・斎藤明氏の流れをくむ方です。光太郎のブロンズ彫刻は前記の人々らにより鋳造されています。戴いた書籍を読んで、鋳造方面について勉強させていただきます。


連翹忌には、顧問の北川太一先生が高校教諭をなさっていた頃の教え子の皆さんも多数参加下さっています。「北斗会」という名前で、毎年、北川先生を囲む新年会をなさったり、8月の宮城女川光太郎祭にご参加下さったりしています。

その「北斗会」さんの中心で、箔押(書籍の表紙や背などの文字に金箔などを施す特殊印刷)の会社を経営されている小川義夫さんから、こんなものを。

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小川さんが唄っている演歌のCDです。なぜ印刷会社の社長さんが……というと、『歌の手帖』という雑誌のコピーが添えられていました。


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心臓病の予後のリハビリのためにカラオケに取り組み、大会などに出場するうちに、あれよあれよと歌手デビューなさったそうです。失礼ながら、齢(よわい)70を過ぎてからこういうこともあるのですね。当方も芸能界入りを目指そうかと思いました(笑)。



逆に当方から参会の皆様にお配りしたもの。

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年2回発行している、手製の冊子です。

「光太郎遺珠」から 第九回 詩人として(二)   ……  『高村光太郎全集』に収録されていない光太郎作品集成です。
・光太郎回想・訪問記 『読売新聞』より  …… 明治大正期の『読売新聞』さんに載った光太郎の記事です。
・光雲談話筆記集成 『味覚極楽』より「四谷馬方蕎麦」(その一)  …… 光太郎の父・光雲の談話筆記です。
・昔の絵葉書で巡る光太郎紀行 浅虫温泉・蔦温泉(青森)  …… 題名の通りです。
・音楽・レコードに見る光太郎 「新穀感謝の歌」(その一)  …… 昭和16年(1941)、信時潔によって作曲された儀式歌「新穀感謝の歌」に関する論考です。
・高村光太郎初出索引
・編集後記

当会名簿に記載のある個人・団体様には順次発送しています。その他でご入用の方、こちらまでご連絡下さい。送料のみでお分けします。



【折々の歌と句・光太郎】

春の水小さき溝を流れたり                明治42年(1909) 光太郎27歳

何のひねりもない句に見えますが、詠めそうでいてなかなか詠めない句だと思います。

福島二本松市『広報にほんまつ』。

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智恵子の故郷・福島二本松市の広報誌『広報にほんまつ』の今月号。智恵子関連のイベント情報などが満載です。

まず表紙。

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道の駅「安達」智恵子の里下り線にそびえる万燈桜。樹齢約270年だそうです。


今年度の市の事業についてのページには、以下の記述。

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先頃、協力要請がありましたが、二本松歴史資料館さんで、智恵子展が10月2日(日)~11月23日(水・祝)の予定で開催されます。平行して故・原節子さん主演の東宝映画「智恵子抄」(昭和32年=1957)の上映も。


過日のこのブログでご紹介した大山忠作美術館さんでの「二本松さくら展」についても記述がありました。

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さらに、耳寄りな情報。

昨年も行われた、智恵子生家の2階部分――智恵子の部屋を含む――の限定公開が、また行われます。智恵子紙絵の実物展示も行われます。

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高村智恵子生誕130年記念事業 智恵子の生家2階特別公開

智恵子を育んだ「生家」の2階を特別公開します。また、期間中は奇跡といわれる「紙絵」の実物を記念館にて展示公開します。
 
明治の初期に建てられ、清酒「花霞」を醸造した旧長沼家。智恵子が過ごした部屋が当時のまま保存されていますので、この機会にぜひご覧ください。

公 開 日 : 4月9日(土)〜5月8日(日)で、さくら展期間中の土・日・祝日
公開時間 : 午前9時〜正午 午後1時〜4時
入 館 料 : 一般四一〇円 小・中学生二〇〇円
◎問い合わせ…文化課文化振興係 ☎0243(55)5154  智恵子記念館 ☎0243(22)6151


先の話になりますが、智恵子生家では関連行事としてこんなイベントも。こちらは来月です。

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そして、智恵子ゆかりの場所の探訪イベントもいろいろと。

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二本松をもっと知ろう 現地研修会

日 時 5月29日(日)7:50集合 17:00解散予定(市役所)
コース・見学場所(変更になる場合あり)
 二本松・安達コース
  霞ヶ城公園、大隣寺、智恵子の生家、和紙伝承館(体験)、奥岳(あだたらエクスプレス→薬師岳散策)など
 岩代・東和コース
  隠津島神社、羽山の里クマガイソウ、道の駅ふくしま東和、杉沢の大杉、日山パークゴルフ場(体験)、宮森城跡、西念寺など
参加費 5,000円(当日徴収)  ※バス代・昼食代・体験代を含む
定 員 各コースとも40人    ※申し込みが定員を超えた場合は抽選
申込方法 4月18日(月)~25日(月)までに観光課または各支所地域振興課に備え付けの申込用紙に必要事項を記入の上、申し込みください。
◎問い合わせ…観光課観光立市係☎0243(55)5095

 

春さがし号(市街地循環バス)-二本松の名所旧跡を巡る-

期間 4月9日(土)~5月8日(日)
運 行ルート 市民交流センター→二本松駅前→本町→安達ヶ原ふるさと村→智恵子の生家→智恵子の杜公園→霞ヶ城公園→霞ヶ城見晴らし台→大隣寺→市民交流センター
※昨年とルートが違います(10:00-15:00の間、1時間おきに運行)
運賃(1日フリー乗車券) 大人(中学生以上)500円 小学生250円 乳幼児無料 ※区間ごとの運賃でも乗車可

乗車券取り扱い 臨時バス車内 二本松駅観光案内所
◎問い合わせ… 福島交通㈱二本松営業所☎0243(23)0123 二本松観光協会☎0243(55)5095

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第11回好きです智恵子青空ウォーク~桜章~

高村智恵子生誕130周年、高村光太郎没後60周年記念事業として、智恵子の生家や智恵子の杜公園、霞ヶ城などの智恵子ゆかりの地を巡る

4月17日(日) ※雨天決行
智恵子記念館駐車場脇9:00集合(受付8:30)
※昼食は各自持参
参加費 大人1,000円 学生 500円
定 員 50人
智恵子のまち夢くらぶ(熊谷) ☎0243(23)6743


智恵子生誕130年ということで、大いに盛り上がっています。ありがたいかぎりです。二本松、これから桜満開でしょう。ぜひ足をお運び下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

ぱきぱきと表紙を鳴らし子供らは新教科書をひとりひとり持てり
大正15年(1926) 光太郎44歳

「桜」、といえば新学期ですね。自らは子供のいなかった光太郎ですが、アトリエのすぐ近くに千駄木小学校がありました。アトリエの前を通って行く子供たちを謳ったものでしょう。

第1回「朗読と音楽の刻(とき)・虹」〜朗読とピアノとオカリナのコラボレーション〜。

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千葉市から朗読イベントのご紹介です。
 

第1回「朗読と音楽の刻(とき)・虹」〜朗読とピアノとオカリナのコラボレーション〜

期   日 : 2016年4月11日(月)
時   間 : 開場13時00分 開演13時30分
会   場 : 千葉市美浜文化ホール(2F音楽ホール)
主   催 : 「朗読と音楽の刻・虹」
料   金 : 入場無料(定員150名)

プログラム
 【朗 読】
  「カーニバルのおくりもの」レミイ・シャーリップ&バートン・サプリー原作
  「花咲き山」斎藤隆介原作
  「雪の夜の話」太宰治原作
  「智恵子抄」高村光太郎原作
  「名前」角田光代原作
   ♪朗読作品への挿入曲
      村の踊り(ベートーヴェン) アラベスク第1番(ドビュッシー) ソルヴェイグの歌(グリーク) 愛の挨拶(エルガー)他
 【オカリナ・ピアノ演奏】
  「愛のよろこび」ジャンポール・マルティーニ作曲

出   演
 朗 読   吉田光子 内田洋子 吉永裕恵子 助川由利
 ピアノ   杉本美津子
 オカリナ  積田由史子   

お問い合わせ・お申し込み 043−277−3255(杉本) 043−265−8793(助川)


少し半端ですが、今年は智恵子生誕130年という節目の年に当たります。それがどの程度意識されているのか不明ながら、今年に入って、「智恵子抄」をさまざまにアレンジした音楽、演劇、朗読などの公演が相次いで行われています。

さらにこうした動きが広がって欲しいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

「ゴンドラ」を一丁漕ぎぬ春の風             明治42年(1909) 光太郎27歳

イタリア旅行中、ベネチアでの作です。ベネチアといえば水の都。現在も観光用のゴンドラが有名です。

当方自宅兼事務所のある千葉県香取市も水郷地帯で、ゴンドラならぬ「サッパ舟」が観光客に人気です。笹の葉の形に似た小舟で、「笹葉舟」転じて「サッパ舟」。昭和30年代くらいまでは生活の足として活用されていました。

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現在は、江戸の面影を残す旧市街の中心部を流れる小野川で、観光船として運行。テレビの旅番組系でもしょっちゅう取り上げられ、レポートにいらっしゃるタレントさんもよく乗られています。

三宅裕司さん。冬のロケだったので、舟にはコタツ。

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中本賢さん。

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にしおかすみこさん。

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ガレッジセール・川田広樹さん。

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伊藤かずえさん。

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武蔵野美大に通っていらした榎木孝明さんは、橋の上でさらさらっと舟のスケッチ。

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5~6月、アヤメの季節には郊外の水生植物園でも。北斗晶さん、天野ひろゆきさん、ウド鈴木さん他、「もしもツアーズ」ご一行様。

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はっきりと記録が残っていないのですが、明治35年(1902)頃、光太郎もこの近辺でこの手の舟に乗ったのではないかと思われる短歌も残っています。

いわき市立草野心平記念文学館「春の企画展 草野心平の詩 青春無頼編」。

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今月2日、日比谷松本楼さんで執り行った第60回連翹忌の集いに際し、ご参会いただいた文学館、美術館関係の皆さんから、近々開催となる企画展のチラシや招待券などが配布されました。

まずは福島県いわき市立草野心平記念文学館さん。 

春の企画展 草野心平の詩 青春無頼編

期  日 : 2016年4月16日(土)〜6月19日(日) 月曜休館(5/2は臨時開館)
会  場 : いわき市立草野心平記念文学館 福島県いわき市小川町高萩字下夕道1番地の39
時  間 : 9時から17時まで
料  金 : 一般 430円(340円)/高・高専・大生 320円(250円)/小・中生 160円(120円)
         ( )内は20名以上団体割引料金

 草野心平(1903〜1988)が詩を書き始めたのは、中国の嶺南大学に留学していた1922年頃。彼は第一の青春をそこで謳歌しました。帰国後は苦しい生活と繰り返す転職、泥酔の挙げ句の喧嘩や野宿など、型破りな第二の「青春無頼」のなかで詩作を続けます。
 本展では、心平が「青春無頼」の日々に手がけた詩や随筆などを展観。彼を取り巻く交友関係にもふれながら、等身大の詩人の魅力を紹介します。


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光太郎よりちょうど20歳年下の草野心平。大正14年(1925)、中国の詩人・黄瀛の仲介で、光太郎の知遇を得ました。それぞれ数えで光太郎42歳、心平22歳。

爾来、お互いの芸術的人格に魅せられ、歳の差を超えた交流が、光太郎最晩年まで続きます。というか、第1回連翹忌の発起人代表となった他、光太郎没後も心平は光太郎顕彰に取り組み続けました。

その心平の、まさに光太郎と出会った前後、青春時代にスポットを当てた企画展です。しかし、チラシのコピーには、「青春がどのへんから始ってどの辺で終ったのか、或いはまだ終らないのかも私には分らない」とあり、幅広い時期を扱うようにも思われます。


併設展示などがこちら。 

矢内靖史写真展「二十一世紀の蛙」

期日、時間等、上記に同じです。

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スポット展示 「猪狩満直」

会期 2016年4月2日(土)〜6月26日(日) / 会場 文学館常設展示室前 / 観覧券が必要です。

猪狩満直は心平と同郷、いわき出身の詩人です。

早くから心平と交流がありましたが、大正14年、北海道釧路で開墾生活に入ります。その経験を謳った詩集『移住民』は各方面から絶賛され、光太郎も好意的な評を、雑誌『南方詩人』に寄せています。


ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

「ゴンドラ」に雨あたたかし水の色            明治42年(1909) 光太郎27歳

昨日に続き、イタリア・ベネチアでの吟です。



第29回ゆーりんプロデュース公演 ~詩と語りと芝居で紡ぐ~「智恵子抄」。

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昨夜は、2日に執り行った第60回連翹忌の後始末もほぼ終わり、時間が取れたので、東京・新橋に行っておりました。

内幸町ホールさんにて開催の、「第29回ゆーりんプロデュース公演 ~詩と語りと芝居で紡ぐ~「智恵子抄」」拝見のためです。

主催は声優としてもご活躍中よこざわけい子さんが代表を務められる「ゆーりんプロ」さん。かなりの大所帯のようで、1回の公演で20名以上のキャスト、それが10公演(複数回ご出演される方もいらっしゃいますが)。したがって、同プロあげての大規模な公演だったようです。



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一昨日から公演が始まり、昨夜は2回目の公演で、「☽チーム」さんという方々のご出演でした。一昨日は「☆チーム」さんだったので、「☽チーム」さんとしては初の舞台でした。

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こちらは会場のホワイエ。パネルで関連写真等の展示が為されていました。

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イメージ 9こちらで今回の公演のテーマ曲「春の吹雪」という曲のCDが販売されており、早速ゲットしました。よこざわけい子さんの作詞だそうです。ジャケットには光太郎の愛した連翹の花。

ホワイエのテーブルには桜とレモン。こういう細かなこだわりは好ましいですね。

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さて、いよいよ公演を拝見しました。

途中休憩なしで、2時間10分ほどの長い舞台でした。光太郎の実弟・豊周の子息で写真家の故・規氏が、ストーリーテラー。社会思想社さんから規氏や当会顧問の北川太一先生、故・伊藤信吉氏の編による『紙絵と詩 智恵子抄』が刊行された昭和40年(1965)に、その出版にからめて、若き日の規氏が光太郎智恵子を回想する、という設定でした。そこで、公演のパンフレットは同書の表紙を模したデザインになっていました。


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生前の規氏に、千駄木のご自宅碌山美術館さんなどでお話を伺ったことを懐かしく思い出しました。

物語は、明治末のパンの会の狂躁あたりから、光太郎智恵子の出会い、恋愛時代、結婚生活、そして実家の没落や進まない絵画修行から、徐々に心を病む智恵子、そしてその死、智恵子没後の光太郎と、ほぼオーソドックスに進みました。親しくさせていただいている渡辺えりさん作の「月に濡れた手」などは、かなり前衛的で、観る人を選ぶ芝居、という感じでしたが、こちらはかなりわかりやすい作りでした。

また、プロジェクタで古い写真を投影するなどの演出も見事でしたし、脚本も、当時の関係者の回想などからの引用が効果的に使われ(智恵子の主治医だった斎藤玉男など)、好感が持てました。

2時間10分の長い舞台でしたし、役者さん達の熱演もあり(生身の人間が目の前で演じているのを観る、というインパクトは大きいと思います。)、一般の方々にも二人の辿った道程が理解しやすかったのではないかと思います。当方も制作のお手伝いさせていただいたNHKさんの「日曜美術館」や「歴史秘話ヒストリア」などは、よくまとまってはいましたが、いかんせんそれぞれ45分間と尺が短く、ある意味、消化不良の感がぬぐえませんでした。

個人的には岩手太田村時代の話がもう少しあっても良かったのかな、という気もしましたが、欲張りすぎでしょうか。

終演後の出演者の方々。

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本公演は明日まで、さらに会場で戴いたチラシによると、「よこざわけい子 声優・ナレータースクール 第二十三期生 卒業公演」ということで、11日(月)~14日(木)、同じ内幸町ホールさんで公演があるそうです。

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ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

「ゴンドラ」にゆらりと乗りぬ春の宵           明治42年(1909) 光太郎27歳

一昨日からの連作で、イタリア・ベネチアでの作。すべて留学仲間の画家・津田青楓(パリ在住)に送った絵葉書にしたためられたものです。


「美術館に満開の桜 二本松さくら展9日開幕」/「見事な枝ぶり「万燈桜」 道の駅「安達」智恵子の里下り線」。

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福島の地方紙二紙から一件ずつ。

まずは『福島民報』さん。 

美術館に満開の桜 二本松さくら展9日開幕

 大山忠作氏、東山魁夷氏ら日本画の巨匠が桜を描いイメージ 1た名画33点が並ぶ特別企画展「二本松さくら展」は9日、二本松市の大山忠作美術館で開幕する。
 大山氏の長女で、さくら展実行委員長を務める大山采子(さいこ)さんが7日、福島民報社のインタビューに答え、見どころや寄せる思いを語った。
 
 -さくら展の見どころは。
 
 「“門外不出”といわれる東山魁夷の『花明り』をはじめ桜を描いた名画がそろいます。花明りは『福島復興の一助になれば』との東山家の厚意で特別に貸し出されました。京都の円山公園の桜を満月とともに描いた名作です」

 -県内の桜を題材にした作品もありますね。

 「大山忠作の『花霞』は二本松市の智恵子記念館開館の記念に描いた作品です。高村智恵子の生家の酒蔵で造っていた日本酒『花霞』をイメージし、安達太良山と青い空、桜が柔らかく表現されています。牧進の大作『黎明瀧桜』は三春町の滝桜を描いています」
 
 -企画のきっかけは。
 
 「霞ケ城公園や合戦場のしだれ桜など桜の名所が多い二本松を、屋外も美術館も花盛りというイメージで盛り上げを図ろうと考えました」
 
 -県民にメッセージを。
 
 「絵画に詳しくなくても理屈抜きで楽しめる展覧会です。二本松に来て、桜の名所と名画を両方満喫してください」
 
   ◇   ◇
 
 さくら展は「アフターデスティネーションキャンペーン(アフターDC)」に合わせて二本松市教委が企画した。会期は5月8日まで。
 入館料は一般410円、高校生以下200円。問い合わせは市文化課 電話0243(55)5154へ。
( 2016/04/08)


過日ご紹介した二本松の大山忠作美術館さんでの、「二本松さくら展」に関してです。大山画伯のご令嬢にして女優の一色采子さん(本名・大山采子さん)、さすがは連翹忌ご常連、しっかり智恵子がらみでアピールして下さいました。ありがとうございます。

先月、「花霞」が印刷された官制葉書が一色さんから届きました。非売品なのではないかと思われます。

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下記はやはり連翹忌、さくら展がらみで一色さんから先月届いた絵葉書です。

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これも大山画伯の絵で、「(残照)安達太良山」。大山忠作美術館さんで販売しているポストカードです。ぜひ「花霞」も広く商品化していただきたいものです。昔、解説が印刷された台紙付きのテレホンカードが販売されていましたが。

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もう1件、『福島民友』さんから。
 

【二本松】見事な枝ぶり「万燈桜」 道の駅「安達」智恵子の里下り線

 二本松市の国道4号道の駅「安達」智恵子の里下りイメージ 3線の入り口にあるエドヒガンザクラの巨木「万燈(まんとう)桜(ざくら)」のライトアップが5日、始まった。点灯は24日までで、毎日午後6時~同11時に点灯する。
 万燈桜は満開となっており、最も美しい時期にライトアップがスタートした。樹齢約270年の一本桜で、高さが約30メートル。枝ぶりが美しいと評判の桜で、今回は6基の投光器を使って桜や根元を美しく照らし出した。根元のライトアップは色が変化する。
 初日は同所で点灯式が行われ、道の駅を運営する二本松市振興公社の鈴木隆ゼネラルマネージャー(GM)と鈴木克裕市産業部長が点灯のスイッチを押した。
(2016/04/07)

この道の駅は、智恵子の生家から5㎞程。万燈桜は樹齢約270年だそうですので、かつて智恵子がその目で見たかもしれません。先月発行された「オリジナル フレーム切手「ほんとの空に 咲き誇る 桜をめぐり ぶらり旅 あだたら桜回廊」にも写真が採用されています。


他にも二本松周辺には、素晴らしい桜がたくさんです。しかも関東で盛りを過ぎてからもまだ見られます。ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

夢、うつつ、まぼろし、かくて終(つひ)の世のきよきまよひの靄に消えむまで
明治34年(1901) 光太郎19歳


霞(かすみ)ならぬ靄(もや)を謳った短歌です。


こちらは千葉の桜。当方自宅兼事務所から50㍍の公園で、ひそかな花見スポットとして人気です。

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「光太郎 在りし日の面影 太田地区振興会 思い出記録集を発行」。

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岩手の地方紙『岩手日日』さんの報道です。 

光太郎 在りし日の面影 太田地区振興会 思い出記録集を発行

 花巻市の太田地区振興会(佐藤定会長)は、晩年の一時期を同地イメージ 1区で過ごした詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)の思い出を記録集「大地麗(だいちうるわし)」にまとめた。地区住民らの記憶に残る郷土ゆかりの偉人との触れ合いを収録している。
 かつて稗貫郡太田村だった同地区に東京出身の光太郎が入村したのは1945年。以降、帰京するまでの7年間を質素な山小屋で過ごし、地域住民と交流を重ねた。記録集発行は、入村70年を記念し光太郎の人柄を示すエピソードを残そうと、市の地域づくり交付金を活用して事業化した。
 掲載したのは2015年10月に同振興会が開いた光太郎の「思い出を語る会」の内容が中心で、いわて教育文化研究所の吉見正信顧問による記念講演や、地域住民らのエピソードを収録。記録集の発行に合わせて新たに寄せられた体験談なども盛り込んでいる。
 いずれも運動会での奮闘の様子や、いつもあいさつしてくれたことなど、光太郎の人柄が感じられる話ばかり。自身も小学生の頃に光太郎と交流した経験のある高橋征一副会長は「実際の記憶が残っている人がいるうちに記録をまとめたいと取り組んだ。偉大な芸術家と地域のつながりを後世に伝えたい」と話す。
 A4判、18ページ。タイトルには1950年の村役場落成式で光太郎が揮毫(きごう)した「大地麗」を引用した。発行は260部。今後、太田小学校と西南中学校、高村光太郎記念館などに配布するほか、県外の関係団体にも贈ることにしている。


過日のこのブログでご紹介した冊子『高村光太郎入村70年記念 ~思い出記録集~ 大地麗』に関してです。当方は第60回連翹忌の席上で戴きました。

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題名に採られている「大地麗」は、昭和25年(1950)に光太郎が旧太田村役場の落成記念に贈った扁額に書かれた語です。

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最後の「麗」の字が、はじめは誰も読めなかったというようなエピソードなども紹介されています。確かに当方もいきなりこれを見せられても読めません。

これら生前の光太郎を知る一般の方々の証言が多数掲載されています。エラい先生方が自分勝手な解釈でああでもないこうでもないとひねり出した「論文」などより、こうした生の証言の方が、何層倍も計り知れない価値があるように思われます。

入手につきましては、記事にある旧太田村の高村光太郎記念館さんまでお問い合わせ下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

春の宵好言伶色鮮無仁                  明治42年(1909) 光太郎27歳

「好言伶色鮮無仁」は、「こうげんれいしょくすくなしじん」。『論語』の一節で、日本でもことわざ的に使われていますね。通常、「好言伶色」は「巧言令色」と書きます。違う字を使うところに何か意図があったのかなど、不明です。

それにしても『論語』の一節を五・七・五中の七・五に配してしまうというのも、なかなかの荒技のような気がします。不思議な魅力のある句ですね。

足利市立美術館企画展「画家の詩、詩人の絵 絵は詩のごとく、詩は絵のごとく」。

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紹介すべき事項が多く、うっかり事前に紹介するのを忘れていました。光太郎の絵画が出展されている企画展です。 
会  期 : 2016 年4月9 日(土) ~6月12 日(日)
時  間 : 10:00 ~ 18:00
会  場 : 足利市立美術館 栃木県足利市通2丁目14-7
休 館 日 :  月曜日(ただし5月 2日は開館)、 5月6 日(金)
料  金 : 一般700(560)円、高校・大学生500(400 )円、中学生以下無料 *( )内は20名以上の団体料金
        6月12日(日)は「栃木県民の日」協賛で観覧無料 

詩人と画家、
それはふたつの人種ではない。
二人はある日、どこかで出会ったのだが、
あとから確かめるすべもなく
ふたつが、ひとつのものの
          なかで出会う

これは瀧口修造の詩です。瀧口は画家と詩人は本来ひとつだと言っています。彼らは 表現方法は異なりますが、自身の意や情にかたちを与えるべく、やみがたい思いに駆られている点ではひとつなのです。ときとして絵の果てに言葉が、言葉の果てに絵が顕れ、画家は詩を、詩人は絵を手がけました。それは、言葉でしか、あるいは絵でしか表現できないものと彼らが出会ったことによります。このとき画家は自身の内に詩人を、詩人は画家を見出します。本展はそのような画家と詩人の展覧会です。

 そもそも画家と詩人を分けること自体、便宜的なことなのかもしれません。古来、「絵 は黙せる詩、詩は語る絵」といわれてきました。ときに絵は詩のように語りかけ、詩は絵のような豊かな色彩とかたちをありありと提示します。もとより日本には文人画の伝統があり、絵画と詩の分かちがたい表現こそ、その独自性を表していると言えるでしょう。今後、詩と絵は越境し、ともども新たな境地を開いていくと思われます。 

本展は、明治から現代までの画家と詩人の 詩と絵を一堂にあつめ、彼らの絵と詩は、けっして一方が他方を補足するものではないという観点から見直す試みです。「ひとつのもののなかで出会う」画家と詩人 詩と絵をご覧ください。

出品作品
画家
小杉未醒、青木繁、竹久夢二、萬鐵五郎、藤森静雄、恩地孝四郎、田中恭吉、中川一政、長谷川利行、古賀春江、川上澄生、村山槐多、谷中安規、三岸好太郎、棟方志功、長谷川潾二郎、難波田龍起、山口薫、香月泰男、津高和一、南桂子、松本竣介、浅野弥衛、飯田善國、草間彌生、田島征三、芥川麟太郎、藤山ハン、難波田史男、イケムラレイコ、 瓜南直子、 O JUN、 鴻池朋子、小林孝亘、村瀬恭子、伊庭靖子、篠原道生(特別出品)  
詩人
正岡子規、高村光太郎、 北原白秋、 木下杢太郎、 萩原朔太郎 、佐藤春夫、 西脇順三郎 、宮沢賢治、 佐藤一英、 尾形亀之助、 稲垣足穂、 岡崎清一郎、 富永太郎、 小熊秀雄 、北園克衛 、瀧口修造、 草野心平、 中原中也、 長谷川四郎、 まど・みちお、 立原道造 、三好豊一郎、 新国誠一、 木島始、 春日井建、 吉増剛造、 田畑あきら子、 山本陽子

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昨年、神奈川平塚市美術館さんを皮切りに始まり、愛知碧南市藤井達吉現代美術館さん、姫路市立美術館さんと巡回した企画展です。図録を兼ねた書籍『画家の詩、詩人の絵-絵は詩のごとく、詩は絵のごとく』広く販売中です。

光太郎作品はのべ3点。大正3年(1914)に描かれた「日光晩秋」が会期中ずっと。前期(4/9~5/8)で、同年に描かれた洋酒の瓶と果実を描いた「静物」。後期(5/9~6/12)に、新潟・佐渡島の歌人・渡邊湖畔の息女を描いた「渡辺湖畔の娘道子像」(大正7年=1918)です。

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関連行事として、以下の通り開催されます。 

講演会 宮沢和樹氏(林風舎代表取締役) 「祖父  清六から  聞いた  兄  宮沢賢治 -絵画について-」

日時: 4月9 日(土)午後2 時より    終わってしまいました。すみません。
会場:足利市立美術館多目的ホール 定員 : 60名 参加費:無料 

講演会 吉増剛造氏(詩人) 「〝たったいま性〟について」

日時: 4月24 日(日)午後2 時より 会場:足利市立美術館多目的ホール 定員: 60 名 参加費:無料
 *参加ご希望の方は電話(0284-43-3131 )でお申込みください。定員になり次第締め切らせていただきます。
*展覧会観覧の場合は別途観覧料(高校生以上)が必要となります。
 

学芸員によるギャラリートーク

日時: 5月4 日(水・祝)、6月5 日(日)午後2 時より
*参加ご希望の方は当日午後2時に美術館入口受付までお集まりください。
*参加は無料ですが、観覧料(高校生以上)が必要です。
 

対話型鑑賞の会「作品の声を聴こう」

日時: 4月17日(日)、 5月8日(日)各日午後2 時より
 対話型鑑賞とは、一点の作品を、美術の知識にたよらず自由に観て、その感想をみんなで話し合いながら作品の理解を深める鑑賞方です。展示室で出品作品をもとに、ファシリテーター(司会役) が参加者に質問をしながら対話を進めます。
4月17 日(日)対象:小学生 定員:15名 参加費:無料
5月8日(日)対象:中学生~一般 定員:15名 参加費:無料 *ただし、高校生以上は観覧券が必要。
 *それぞれ、参加ご希望の方は電話(0284-43-3131)でお申込みください。 定員になり次第締め切らせていただきます。


ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

春の日や御堂をさして畷道               明治42年(1909) 光太郎27歳

イタリア旅行中の作ですので、「御堂」はやはりキリスト教の教会や修道院の類、「畷道(なわてみち)」は麦畑的なところを通る小径でしょう。しかし、日本の田園風景としてイメージしてもいい句ですね。



                 

秋山ちえ子さん訃報。

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ラジオパーソナリティーとしても長年にわたりご活躍された、評論家の秋山ちえ子さんの訃報が出ました。 

秋山ちえ子さん死去 ラジオ「談話室」 99歳

 日本の女性イメージ 2放送ジャーナリストの草分けで、40年以上にわたってラジオ番組のパーソナリティーとして活躍した評論家の秋山ちえ子(あきやま・ちえこ、本名橘川ちゑ〈きっかわ・ちえ〉)さんが6日、呼吸器感染症のため東京都目黒区の自宅で死去した。99歳だった。葬儀は近親者で営んだ。
 仙台市出身。ろうあ学校教師などを経て、48年のNHKラジオ「婦人の時間」で戦後女性の視野を広めるためのリポーターを担当。54年に日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した。
 57年に始まったTBSラジオ「秋山ちえ子の談話室」(スタート時は「昼の話題」)は、暮らしのささやかな話題から時事問題まで扱うコラム的番組として人気になり、02年まで1万2512回も続く長寿番組となった。
(『朝日新聞』)

 

<秋山ちえ子さん死去>ラジオから反戦訴え

 放送ジャーナリストの草分けで、ラジオ番組「秋山ちえ子の談話室」(TBSラジオほか全国で放送)を45年間続けた評論家の秋山ちえ子(あきやま・ちえこ、本名・橘川ちゑ=きっかわ・ちえ)さんが6日、呼吸器感染症のため東京都内の自宅で死去した。99歳。葬儀は近親者で営んだ。喪主は次男宣夫(のぶお)さん。

 ◇評伝 「談話室」45年

 市民の視点から生活実感のある評論でラジオによるルポルタージュという新分野を開拓した秋山さん。1948年からNHKラジオ「婦人の時間」のリポーターを務め、54年に第2回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した。

 57年から45年間続いた「秋山ちえ子の談話室」は、放送回数1万2512回を数えた。番組終了後も定期的にラジオに出演した。「国際間のもめごとを戦争で解決しないこと、置き去りにされる人のいない国づくり」のために語り続けた。

 菊池寛賞、東京都文化賞、エイボン女性年度賞などを受賞。華々しい功績を残す一方で、「それぞれができる小さなこと」を大事にする人だった。

 67年からは終戦記念日の8月15日に、東京・上野動物園で戦時中に餓死させられた象の物語「かわいそうなぞう」(土家由岐雄作・金の星社)の朗読を続け、戦争の悲惨さを訴え続けてきた。この朗読も、娘が持ち帰った児童書に収録されていたのを見つけたのがきっかけだった。

 弱い者の立場に立ち、子どもを慈しんだ。戦前には国立東京聾唖(ろうあ)学校教諭を務めた経験もある。スタジオの外に飛び出し、社会から置き去りにされた障害児支援に取り組み、毎日新聞小児がん征圧キャンペーンのコンサートにも足を運び、子どもたちを励ました。

 秋山さんの自宅を訪ねたのは2007年夏だった。「戦争の惨めさを知らない人が増えて、ちょっと勢いを得たように、憲法改正なんてとっても簡単におっしゃる。私は怖いのね」と声高ではなく、穏やかに語り、第1次安倍晋三内閣の政権運営を案じていた。

 昨年夏も、自宅で収録した「かわいそうなぞう」をラジオを通して読み聞かせた。「最後まで庭の草花を見ながらこの家で」と願った秋山さんは、最期も暮らしの中にいた。【本橋由紀】
(『毎日新聞』)


昨年までの3年間、このブログでは【今日は何の日・光太郎】というコーナーを設け、365日×3年間、毎日光太郎関連であった出来事をご紹介して参りました。その中で、昨年の5月4日に、秋山さんのことを書かせていただきました。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月4日

昭和29年(1954)の今日、中野のアトリエに、ラジオパーソナリティ・秋山ちえ子さんが訪問。ラジオ番組の録音を行いました。

当日の日記です。

晴、涼、 (略) NHK録音班3人と秋山ちゑ子さんくる、録音、

秋山ちえ子さんといえば、TBSラジオで放送されていた「秋山ちえ子の談話室」を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。こちらは平日の朝、昭和32年(1957)から平成14年(2002)まで45年間もの長きにわたって放送されていました。

光太郎の談話が録音された昭和29年(1954)当時、秋山さんが担当していたのは、NHKさんの「私の見たこと、聞いたこと」という番組です。この時期の光太郎日記は記述が簡潔で、オンエアを聴いたという記述は見あたりません。当時のテープなどが残っていればと思うのですが、難しいでしょう。


というわけで、光太郎とも面識のあった秋山さん。今頃は空の上で、「その節は……」「いやいや、どうも」などと光太郎とお話ししているのでは、などと想像してしまいます。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々の歌と句・光太郎】

光太郎智恵子はたぐひなき夢をきづきてむかし此所に住みにき
昭和13年(1938)頃 光太郎56歳頃

昭和20年(1945)の今日、太平洋戦争の空襲で、東京駒込イメージ 1林町の光太郎アトリエが全焼しました。

大正の初めから智恵子と共に暮らした思い出深いアトリエと共に、多くの光太郎作品などが灰になりました。

亡き智恵子が遺した紙絵は、それ以前に花巻、山形、茨城取手に分散疎開させていたので無事でした。

光太郎はその後、一時的に近くにあった妹の婚家に身を寄せ、さらに1ヶ月後、宮澤家の誘いで花巻に疎開、そのまま戦後もとどまり続け、昭和27年(1952)に、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再び上京するまで、岩手で暮らしました。

再上京した翌日、まだ更地だったこのアトリエ跡地を訪れ、感慨深そうにしていた光太郎の様子が、令甥の故・高村規氏の回想に記されています。


中村屋サロン美術館企画展示「生誕150年記念 中村屋サロンの芸術家 中村不折の魅力展」。

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直接、光太郎智恵子には関わりませんが、過日の第60回連翹忌にてご案内いただきましたので、ご紹介します。 

生誕150年記念 中村屋サロンの芸術家 中村不折の魅力展

期  日 : 2016年4月30日(土)~7月24日(日)
会  場 : 中村屋サロン美術館 東京都新宿区新宿3丁目26番13号
時  間 : 10:30~19:00
休 館 日 : 毎週火曜(5月3日は開館)
料  金 : 300円 高校生以下無料

中村屋サロンゆかりの洋画家であり、「新宿中村屋」のロゴを書いた書家としても知られている中村不折。その生誕150年を記念し、台東区立書道博物館の所蔵作品を中心に、不折の初期から留学期そして晩年までの油彩画、素描、日本画、書、本の装丁など、合わせて約50点をご紹介します。激動の時代、常に誠実に芸術と向き合った多才な不折の世界をお楽しみください。

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中村不折は慶応2年(1866)、江戸に生まれた画家です。荻原守衛と交流が深く、いわゆる「中村屋サロン」の一員でした。書にも造詣が深く、中村屋さんのロゴは不折の作ですし、信州安曇野にある荻原守衛の墓石も揮毫しています。

光太郎とはすれ違いに欧米留学、帰国後に太平洋画会の講師となり、智恵子を指導しています。同会で、人体画を描く智恵子に「エメラルドグリーンの多用は避けるように」と言ったエピソードは比較的有名です。

学芸員さんによるギャラリートークが2回、予定されています。5/21(土)、6/25(土)、それぞれ午後2時からです。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

柳既に梨も漸くみどりかな                明治42年(1909) 光太郎27歳

画像は過日、当方自宅兼事務所がある千葉県香取市の旧市街、江戸の街並みが残る伝統的建造物群保存地域で撮影しました。街の真ん中を流れる小野川べりに植わっている柳の並木、青々とした新芽がきれいでした。

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「昭和32年 コーラ本格上陸 みんな作って、みんないい」/「「乙女の像」制作 朗読劇で 劇団「エムズ・パーティ」16、17日十和田で上演」。

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一昨日の『朝日新聞』さんの夕刊に、光太郎の名が出ました。

「あのとき、それから」という、昔懐かしのアイテムなどを紹介する連載で、コーラを紹介するものでした。

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長い記事ですので全文は引用しません。上記画像をクリックすると拡大されます。

記事は、光太郎が亡くなった翌年の昭和32年(1957)、コカ・コーラとペプシコーラの日本法人が本格的に輸入、製造、販売を開始したことに始まり、アメリカでそれぞれが誕生した歴史、本格輸入前の日本での受容が紹介されています。

その中で、光太郎の名が。触れられている段落のみ引用します。

 日本では、大手ブランド2社の上陸前に輸入は始まっていた。輸入小売店の明治屋が1910年代後半に「コカコラタンサン」の広告を出した。高村光太郎の詩集「道程」(14年刊行)には「コカコオラもう一杯」とあり、芥川龍之介が25年に記した手紙にも登場する。

この件はそれなりに有名な話で、日本コカ・コーラ株式会社さんのサイトにも記述がありますし、このブログでも以前にちらっとご紹介しました。

「コカコオラもう一杯」は、『道程』所収の「狂者の詩」(大正元年=1912)という作品の一節です。長い詩ですので、該当部分のみ引用します。

(略)
コカコオラ、THANK YOU VERY MUCHイメージ 2
銀座二丁目三丁目、それから尾張町
電車、電燈、電線、電話
ちりりん、ちりりん、
柳の枝さへ夜露の中で
白ぼっけな腕を組んで
しんみに己に意見をする気だ
コカコオラもう一杯
サナトオゲン、ヒギヤマ、咳止めボンボン
(略)
ああ、髪の毛の香ひがする
それはあの人のだ、羚羊(りんやん)の角(かく)
コカコオラもう一杯
きちがひ、きちがひに何が出来る
己はともかくも歩くのだ
銀座二丁目三丁目、それから尾張町
(略)

というわけで、「コカコオラ」の語が三回出て来ます。

初出は大正元年(1912)12月の雑誌『白樺』第3巻第12号。この際には「コカコオラ」は「COCA COLA」でした。その他、詩集『道程』(大正3年=1914)に収録される際に、かなりの改変が見られます。

以前は、この時期にコーラはまだ輸入されていなかったはずだ、として、米国留学時代(明治39年=1906~翌年)を思い出しての光太郎の幻想だという説もありました。たしかに、この詩全体が酔っぱらいの幻覚のような内容なので、それも全く否定は出来ません。しかし、近年、コーラ受容の歴史が明らかになるにつれ、本当に銀座でコーラを飲んでいてもおかしくないことがわかってきました。

『朝日新聞』さんの記事に、「輸入小売店の明治屋が1910年代後半に「コカコラタンサン」の広告を出した。」とありますし、明治44年(1911)に発行された雑誌『飲料商報』第27号には、アメリカのコカ・コーラ工場の様子が紹介されています。

イメージ 3
 米国人に好かるゝ飲料にコカ、コーラと云ふのがある。此の飲料の壜詰工場は、米国アトランタ州にあつて、主人をモント君と云ふ。モント君非常な八釜敷屋(やかましや)で、工場に向つて「絶対的清潔」を命令するので、職工共は一と通りならぬ、注意と苦心を重ねて居るが、其の結果、此の工場は米国でも第一流の仲間入りが出来て、其の製造にかゝるコカ、コーラの信用は、国の上下に厚いのである。

「狂者の詩」以前に、既にコカ・コーラが紹介されていました。したがって、ネット上に時折「光太郎が初めてコカ・コーラを日本に紹介した」という記述がありますが、それは誤りです。

この話は、画家の林哲夫氏が雑誌『彷書月刊』第212号(平成16年=2004)に発表した「光太郎、スカッとさわやか――清涼飲料の時代」という記事に引用されていました。

ちなみに『彷書月刊』、題字は当会顧問の北川太一先生作の木版によるものです。

閑話休題。林氏、さらに「サナトオゲン、ヒギヤマ、咳止めボンボン」に注目し、「コカコオラ」を含め、薬局のソーダファウンテンで売られていたのでは、と推測されています。

ソーダファウンテンは、現代のファミレスなどで、ドリンクバーに使われている機械です。やはり林氏によれば、明治35年(1902)に、資生堂さんがアメリカから機械一式を輸入し、全国の薬局や菓子店などが追随したとのことです。資生堂さんといえば資生堂パーラー。ここは光太郎も訪れた店で、銀座で現在も営業中。かつては連翹忌会場に使わせていただいたこともあります。また、林氏は、銀座一丁目で薬品や化粧品を扱っていた佐々木源兵衛商店もその候補に挙げています。

おそらく、そのあたりで正解なのでしょう。

ところで、東北地方に展開する「みちのくコカ・コーラボトリング」さんの工場は、光太郎が戦後の7年間を過ごした花巻郊外旧太田村(現・花巻市太田)にあります。そんなご縁で、昨年5月15日に開催された第58回高村祭のプログラムには、広告を出して下さいました。

イメージ 4

ありがとうございました。


さて、もう1件。明日の話題が予告報道されていますので、今日のうちにご紹介します。 

「乙女の像」制作 朗読劇で 劇団「エムズ・パーティ」16、17日十和田で上演

 十和田八幡平国立公園の指定80周年を記イメージ 5念し、青森県十和田市の劇団「エムズ・パーティ」(仲島みちる代表)は16、17の両日、市内の2会場で、十和田湖の象徴となっている「乙女の像」をテーマにした朗読劇を上演する。本番を控え、団員たちは声の抑揚や場面を切り替えるポイントの確認など練習に熱を入れている。

 タイトルは「乙女の像のものがたり」で、「十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会」が、像の建立60周年を記念して編集した冊子を基に制作した。

 像の作者である高村光太郎の波乱に満ちた人生を交え、像が完成するまでの過程などを描く。上演時間は約50分。

 練習会場は市民交流プラザ「トワーレ」。夜、仕事を終えた団員が集い、台本を手に感情豊かに、せりふを読み上げた。せりふを切り出すタイミング、声のトーン、場面の進行などを入念にチェックしている。

 仲島代表は「郷土の歴史や文化を子どもたちに伝えたい。朗読劇といっても役者として取り組む以上、感情を込めて表現したい」と意欲を見せる。

 会場は16日が十和田湖観光交流センター「ぷらっと」、17日が十和田市民交流プラザ「トワーレ」で。いずれも午後3時開演。入場は無料。座席数に限りがあるため予約が優先となる。

 申し込み、問い合わせは仲島代表=携帯電話090(7066)2873=へ。


過日もご紹介した「乙女の像のものがたり」朗読劇に関してです。青森の地方紙『デーリー東北』さんでご紹介下さいました。

言い出しっぺである十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さんのサイトにも紹介されています。原作は当方です。自分の作ったものがこういう形で公演されるというのも、不思議な感覚です。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々の歌と句・光太郎】

赤き屋根のあちこちにあり青畠             明治42年(1909) 光太郎27歳 

当方自宅兼事務所のある千葉県香取市では、そろそろ田植えです。田には水が張られ、蛙の大合唱も始まりました。

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「<高村光太郎>智恵子ゆかりの地巡って」。

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仙台に本社を置く『河北新報』さんの記事です。過日、『広報にほんまつ』に掲載されましたので、その折にこのブログに書きましたが、明日行われるイベントをご紹介下さいました。 

<高村光太郎>智恵子ゆかりの地巡って

 福島県二本松市民らでつくる「智恵子のまち夢くらぶ」は17日、詩人高村光太郎の妻で、ことし生誕130周年を迎える洋画家高村智恵子(1886~1938年)のゆかりの地をたどる「好きです智恵子青空ウオーク」を市内で開く。
 午前9時に智恵子純愛通り記念碑前を出発し、生家や満福寺、霞ケ城公園など智恵子が慣れ親しんだ地を歩く。記念館に立ち寄るほか、霞ケ城公園にある詩碑では光太郎の詩集「智恵子抄」の朗読会を開く。約4~5キロの行程で午後3時ごろ解散となる。
 定員50人。参加費は大人1000円、学生500円。智恵子の作品が描かれた絵はがきなどのプレゼントもある。
 同団体は6月に東京の高村夫妻ゆかりの地を巡るツアー、10~12月に智恵子の生涯を学ぶ講座なども予定する。連絡先は事務局0243(23)6743。


『福島民報』さん、『福島民友』さんなどでも紹介されているかと思い、調べてみましたが、ネット上では見つかりませんでした。紙面には載ったのかもしれませんが。

代わりに、今月2日、第60回連翹忌の日の『福島民友』さんの一面コラムで、連翹忌について触れて下さっていたのに気付きました。連翹忌前後はバタバタしており、今の今まで気がつきませんでした。 

【4月2日付編集日記】安達太良山

 家族や友人、恋人など大切な人と共に眺めた「思い出の風景」は、誰にでもあるのではないか。詩人高村光太郎と、「智恵子抄」のモデルとなった妻智恵子にとっては、安達太良山の景色がその一つだったろう
 ▼〈あれが阿多多羅山 あの光るのが阿武隈川 ここはあなたの生れたふるさと〉。光太郎は二本松市の智恵子の実家を訪ね、裏山から安達太良山を一緒に眺めた。詩「樹下の二人」は、そのとき夫婦で過ごしたかけがえのない記憶を描いたものだ
 ▼きょうは、光太郎の没後60年の命日に当たる。来月20日には智恵子の生誕130年を迎える。ことしは、二人にとって節目の年だ
 ▼光太郎が「樹下の二人」を収めた智恵子抄には「智恵子の半生」の一編もあり、そこには〈彼女の清純な態度と、無欲な素朴な気質と、限りなきその自然への愛とに強く打たれた〉と、光太郎が智恵子に抱いていた思いがつづられている
 ▼光太郎の「思い出の風景」は、智恵子にとっては愛する古里そのものの姿だ。過ぎゆく年月にかかわらず安達太良山の美しい稜線(りょうせん)は、いまも見る人を楽しませてくれる。目を転じると阿武隈川が悠久の流れをたたえている。そんな古里をいつまでも守っていきたい。


書かれているとおり、今年は智恵子生誕130年にもあたります。二本松駅前の大山忠作美術館さんでは「二本松さくら展」、智恵子の生家では2階の智恵子の部屋の限定公開なども行われています。

ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

烟突の遠くに見えて春野かな              明治42年(1909) 光太郎27歳

遠景として彼方に見える煙突、近景として目の前に広がる野原。巧みな視点の配置です。

中江有里「朝ドラのヒロインのような人生――末盛千枝子『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―』」。

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過日のこのブログでご紹介した、末盛千枝子さイメージ 1ん著『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―』が一冊、版元の新潮社さんから送られてきました。

おそらく第60回連翹忌関連の資料を末盛さんにお送りしたので、そのご返礼として、末盛さんのご指示だろうと解釈、ありがたく頂戴いたしました。ただ、自分でも一冊購入していますので、いずれどなたかに差し上げようと思っています。

新潮社さんで作られた同書のチラシ、さらに同社のPR誌『波』(元々、『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―』は同誌の連載でした)の今月号に載った、中江有里さんによる書評のコピーが同封されていました。

チラシの方は、書籍のチラシというのはこういう風に作ればいいのだな、と、参考になります。


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中江さんの書評は、以下の通り。

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朝ドラのヒロインのような人生 ――『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―』  中江有里

 以前テレビの取材で、末盛さんの弟さんで彫刻家の舟越桂さんにお会いしたことがあります。世田谷のアトリエにお邪魔してインタビューさせて頂いたのですが、その時はご家族のお話は伺わなかったので、皇后様のご講演録『橋をかける』を手がけられた名編集者である末盛さんが、このように波乱に満ちた人生を送られているとは、全く知りませんでした。四十二歳のとき最初の旦那さんを突然亡くされたこと、ご長男の難病と障害、再婚相手の方の介護と看取り、経営していた出版社「すえもりブックス」の閉鎖、そして岩手に移住した直後の東日本大震災……。お写真を拝見すると、とても品がありお優しそうでいらっしゃって、苦労や不幸をまったく感じさせない佇まいに驚くのですが、自伝的エッセイである本書を読み、その理由が分かったような気がします。
  末盛さんは、一九四一年に彫刻家・舟越保武さんの長女として生まれ、高村光太郎によって「千枝子」と名付けられました。「女の名前は智恵子しか思い浮かばないけれど、智恵子のような悲しい人生になってはいけないので字だけは変えましょうね」と高村さんは言われたそうです。その時点でもう、ある種の「運命」を感じてしまうのですが、彫刻だけで家族八人が食べていくことには、大変な困難が伴いました。そんな貧しさのなか、ひたむきに芸術と向き合うお父様と、お父様のことを尊敬し支え続けたお母様の生き様は、「本当に美しいものは何か」といったことや、生きる上での「覚悟」を末盛さんに教えたのだと思います。お金はなかったかもしれませんが、六人の子供たちはとても自由にそれぞれの生き方を選び取っていて――桂さんが苦労を承知の上で、お父様と同じ彫刻家という職業を選んでいるくらいですから。
  また、「信仰」も末盛さんの人生を語る上で欠かせないものです。末盛さんが小学校四年生のとき、八カ月で亡くなった弟さんの死をきっかけに、ご家族全員でカトリックの洗礼を受けました。外国人神父さまとの交流など、日本に暮らしながら「日本的でないもの」に幼い頃から触れてきたことで、この世界には様々な価値観が存在することを、自然と教えられたのでしょう。その中でも、大学時代にある神父さまから、「愛はすすめではなく、掟です」と言われたというエピソードは、その後の末盛さんの人生を示唆するようでもあり、かなり印象的でした。つまりは、最初の旦那さんの突然死といった、愛するがゆえに苦しみが与えられてしまう出来事があったとしても、愛を憎むことなく受け容れるのだということで、厳しい教えでありながら、「私にとってすべての始まりだった」と末盛さんは書かれています。
  空腹だからご飯が美味しく食べられるのと同じで、困難があるからこそ、幸せを感じることができる――末盛さんの人生を拝読して、何より強く感じたことです。そんな末盛さんを支えたものの一つに、忘れられない「ある光景」があったということに、私は非常に共感を覚えました。二十代半ば頃、末盛さんが初めてヨーロッパを旅され、スイスのアルプスに登られたときのこと。五十ドルもする登山鉄道に意を決して乗り込んだものの、すぐに土砂降りになってしまった。しかし頂上に近づくにつれて辺りは明るくなり、光り輝くアルプスの峰々を眺めることができた……そんな「奇跡」のような出来事なのですが、私自身も、旅行や撮影で、思いがけない瞬間に思いがけないほど美しい景色に出会ったことがあるので、その時の、言葉にできないほどの感動――天候といった自分ではどうにもできないことだからこそ強く心を打たれるし、まるでご褒美をもらったかのような、何かに守られているような確信めいた気持ちになるということが、本当によく分かります。それに、自分自身の存在を肯定されているようにさえ思えるのです。「信じること、希望し続けることという意味で、この光景は、私の人生の北極星のようなものになった」とあり、末盛さんの生き方の神髄を感じました。
  他にも、皇后様との友情や絵本編集者としての仕事など、常に前を向き生きるその姿には、読んでいる人の心を揺さぶり、励ます力があります。まるでNHKの朝ドラの主人公のように、この世界を肯定し続ける女性の「物語」に、今の時代だからこそ、一人でも多くの人に出会ってもらいたいです。

 

驚いたのは、「朝ドラのヒロインのような人生」という題名。先月、このブログで同書をご紹介した際に、末盛さんの来し方を、当方も「NHKさんの朝ドラの主人公になってもおかしくないような感がしました」と書きました。同じことを考える人がいるんだと、苦笑しました。NHKさん、ぜひご検討下さい(笑)。

ブログをお読み下さった皆様、ぜひお買い求め下さい。

光太郎に関する部分も必読ですが、後半の、東日本大震災の被害(末盛さんは岩手県八幡平市ご在住)から立ち直るというくだりも感動的でした。ご自分も大変な思いをされているのに、被災した子供達を思いやり、「3.11絵本プロジェクトいわて」を立ち上げ、心のケアに奮闘されたお話など。

九州では大変なことになっています。九州の皆さんにも、落ちつかれたら是非お読みいただきたいと思います。生活再建のための一つの指針となるかと存じます。


【折々の歌と句・光太郎】

つま立つて乙女が行くや春の雨            明治42年(1909) 光太郎27歳






生涯学習講座いろいろ。

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各地で開催される市民講座的なもので、光太郎智恵子の世界を扱ってくださる企画がありますので、ご紹介します。

まずは、光太郎がその生涯の一番長い期間を過ごした文京区から。
 
期  日 : 2016/05/12(木)~2016/06/09(木)[毎週木曜 全5回]
会  場 : アカデミー文京 学習室 東京都文京区春日1-16-21 文京シビックセンター地下1階
時  間 : 各回とも午前10時30分から正午まで
講  師 : 早稲田大学名誉教授 榎本 隆司氏
受 講 料 : 3,000円
対  象 : 15歳以上の区内在住・在勤・在学の方(中学生を除く)
定  員 : 40名(抽選)
問い合わせ : アカデミー文京 学習推進係 03-5803-1119
内  容 :
没後60年。光太郎の絶筆は空襲により駒込林町のアトリエで焼失した彫刻等、数々の作品の覚書でした。長沼智恵子との愛に生き、独自の美を造形した光太郎の足跡を明らかにします。

反逆―パリから根付の国へ 05/12
愛と生命―『樹下の二人』ほか 05/19
人間界の切符―『風にのる智恵子』ほか 05/26
絶唱―『レモン哀歌』ほか 06/02
戦う光太郎―『おそろしい空虚』06/09

受付を終了させていただきました。定員に余裕がある場合は、2次募集を行います。詳しくは、下記へお問い合わせください。 アカデミー文京 学習推進係 TEL 5803-1119


もう1件、同じ文京シビックセンターさんでの開催です。
 
期  日 : 2016/05/14(土)
会  場 : 文京シビックホール 小ホール 東京都文京区春日1-16-21 文京シビックセンター2階
時  間 : 13:00 〜 14:40
講  師 : 作家・編集者 森まゆみ氏
受 講 料 : 無料
対  象 : 15歳以上の区内在住・在勤・在学の方(中学生を除く)
定  員 : 300名(抽選)  
問い合わせ : アカデミー文京 学習推進係 03-5803-1119 
申込方法 
往復はがきに①特別公開講座・5月②住所③氏名(ふりがな)④年齢⑤電話番号⑥在勤者は勤務先名・所在地・電話番号、在学者は学校名と、返信用にもあて先を明記し下記へ 4月27日(水)必着
〒112-0003 文京区春日1-16-21 アカデミー文京学習推進係

内  容 :「『青鞜』の冒険-女が集まって雑誌を作ること」で第24回紫式部文学賞を受賞した作家森まゆみ氏による特別公開講座です。『青鞜』に関わった女性たちと谷根千ゆかりの文豪たちの人間模様をお話しします。


さらに、富山県高岡市から。
 
期  日 : 2016/05/07(土)~09/03(土) 毎月第一土曜日
会  場 : 高岡市生涯学習センター和室603、スタジオ401
時  間 : 14:00 〜 15:30
講  師 : 市民教授 茶山千恵子氏
受 講 料 : 運営費1,500円 受講料1,000円 資料代500円(全5回分) 合計3,000円(初回納付)

定  員 : 10名  
お申込み
氏名・住所・年齢・電話番号・講座名をお知らせください(リレー講座は受講希望講座名も)。
申込期間4月1日(金)~4月30日(土) 締切厳守 電話ではお受けできませんので、はがき(当日消印有効)〒933-0023 高岡市末広町1-7ウイング・ウイング高岡3階 Fax 23-0515 または 020-4666-1182 メールgakuyujyuku@yahoo.co.jp のいずれかでお申し込みください。


内  容 : 
彫刻家・高村光太郎と荻原碌山(守衛)は親友であり、互いに影響を与え合いました。高岡と関わりのある二人の軌跡を巡りましょう。
5/7(土) 光太郎と守衛のパリでの出会い (和室)
6/4(土) 光太郎と守衛、パリとロダン (スタジオ401)
7/2(土) 光太郎と守衛のそれぞれの愛 (和室)
8/6(土) 守衛の死後 (スタジオ401)
9/3(土) 博物館門庭「女」の像見学会 (野外学習)


こうした動きがもっともっと広まって欲しいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

羊飼ひの背中に春の夕日かな             明治42年(1909) 光太郎27歳

イタリア旅行中の作です。ミレーの農民画を彷彿とさせられますね。

『豊科近代美術館友の会会報』。

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長野県安曇野市の豊科近代美術館の学芸員さんから、同館友の会という組織の会報を戴きました。同館は、それぞれ光太郎と親交のあった彫刻家・高田博厚、画家の宮芳平の作品を柱としています。

そんなわけで、連翹忌関連の資料、当方編集の『光太郎資料』などをお送りしており、その添え状に「当方、高村光太郎文筆作品、彫刻・絵画作品等の資料集成をライフワークとしており、光太郎に関する稀少資料(書簡、草稿、揮毫、稀覯雑誌他)を所蔵されている個人、団体等の情報がございましたら、御一報いただければ幸甚に存じます。」と書きましたところ、応えて下さいました。

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送って下さった学芸員さんによる「昭和6年に出した2枚のハガキ」という記事が載っており、未知の光太郎書簡が紹介されていました。宛先は滞仏中の高田博厚。高田に宛てた光太郎書簡はこれまで確認できていなかったので、驚きました。さらに戦前、それからフランスに送った外信用はがきというのも驚きです。

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内容的には身辺近状の報告といったところですが、面疔を病み半強制的に入院させられたこと、「ロマン・ロラン友の会」で一緒だった片山敏彦や、パリで客死した平林初之輔などに触れており、興味深いものでした。

「僕も仕事に精進してゐます」という一節があります。しかし、この直後、智恵子の心の病が顕在化し、その看病のため、光太郎はしばらく彫刻不可能の状態に陥ります。そうした史実を踏まえて読むと、心が痛みます。

以前にも書きましたが、筑摩書房刊行の『高村光太郎全集』第21巻には、書簡宛先の人名索引が載っています。しかし、あるべきはずの名前が抜けていたりします。たくさん手紙を送っていたはずの人の名がないということで、その人あての書簡が見つかっていないのです。例えば有島兄弟、石井柏亭、志賀直哉、梅原龍三郎、岸田劉生、黒田清輝、深沢省三・紅子夫妻、吉井勇などなど。また、与謝野晶子や荻原守衛、武者小路実篤、川路柳虹、佐藤春夫などにあてたものは、それぞれ1~2通ずつしか見つかっていません(晶子、武者、佐藤あてはここ数年で見つけましたがそれでも1通ずつです)が、もっともっとあったはずです。
 
受けとった人自身が処分してしまったか、関東大震災や太平洋戦争などで焼失してしまったか、それとも人知れず眠っているかと言ったところですね。
 
新たな書簡により、少しずつ空白が埋まり、光太郎の新たな一面が見えてくるものです。人知れず眠っているものの発掘をライフワークの一環として続けて参りますので、ご協力をよろしくお願いします。


【折々の歌と句・光太郎】

春風やアルプスの雪遠く白し              明治42年(1909) 光太郎27歳

スイス経由イタリア旅行中の吟で、ここでいう「アルプス」は本物のヨーロッパアルプスのことです。

日本の中部地方には日本アルプスがあり、毎年、4月22日には、その麓の安曇野市碌山美術館さんで、光太郎の盟友・荻原守衛を偲ぶ「碌山忌」が開催されています。毎年、寄せていただき、今年も行く予定でした。さらに近くにあるいろいろな美術館さん、文学館さんに立ち寄るのも楽しみで、今年は豊科近代美術館さんに寄ろうと心に決めていました。

しかし今年は碌山忌当日に当方居住地の自治会長の集まりがあり(今年度、町内会長をやっております)、泣く泣く欠礼することにしました。

夏には碌山美術館さんで「夏季特別企画展 光太郎没後60周年記念 高村光太郎-彫刻と詩-展」があり、関連行事としての講演を頼まれておりますので、その機会に伺いますが、残念です。

合唱団CANTUS ANIMAE The 20th Concert つながる魂のうた 「智恵子の手紙」。

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東京豊島区で練習を行っている一般合唱団CANTUS ANIMAE(カントゥス アニメ)さん。全日本合唱コンクールなどのご常連です。

そちらの第20回定期演奏会が来月行われ、智恵子がらみの作品が初演されます。 
期  日 : 2016/05/08(日)
会  場 : 第一生命ホール 東京都中央区晴海1-8-9 晴海トリトンスクエア内
時  間 : 13:00開場 13:30開演
料  金 : 一般2,500円(前売り2,000円)/高校生以下 1,000円(全席自由)
プログラム :

三善晃 作曲  「地球へのバラード」より 鳥  詩:谷川俊太郎
安藤寛子 作曲  「智恵子の手紙」 (委嘱初演) 文:高村智恵子

三善晃 作曲  「黒人霊歌集」より Sometimes I feel like a Motherless Child
森田花央里 作曲  「青い小径」  詩:竹久夢二  「石像の歌」 (委嘱初演) 詩:リルケ 訳詩:森田花央里

三善晃 作曲  「その日 – August 6 -」  詩:谷川俊太郎
松本望 作曲 タイトル未定 (委嘱初演) 

[指揮]雨森文也 [ピアノ]平林 知子、松本望、森田花央里

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「智恵子抄」などの光太郎詩をテキストに使った楽曲はそれなりに多く作られていますが、智恵子が書いたものを使ったそれはおそらく初めてではないでしょうか。

作曲の安藤寛子さん、ご自身もCANTUS ANIMAEさんで歌われているようです。ブログに以下の記述がありました。

機会をいただき、新作の混声合唱曲(アカペラ)を発表していただけることになりました。
テキストは、高村光太郎の妻、高村智恵子が実母に宛てた手紙です。
「智恵子抄」でよく知られている、あの"智恵子さん"です。

ふるさとの空を「ほんとうの空」と言った智恵子。
智恵子は、自身が目指した芸術もうまくいかず、実家も破産し、度重なる家族の死や弟の放蕩などの苦難の中、実母を励まし自分を奮起させる手紙を書きます。その手紙を題材とした合唱作品です。
高村光太郎があえて描かなかった智恵子の姿に焦点をあてることで、「智恵子抄」を別の視点で味わうご提案ができる楽曲になればと思います。

取り上げられた智恵子の書簡は、おそらく昭和6年(1931)7月29日の消印で、福島の実家である長沼酒造が破産し、東京中野に出て来ていた母・センに宛てた長い手紙と思われます。

母上様
 きのふは二人とも悲くわんしましたね。しかし決して決して世の中の運命にまけてはなりません。われわれ死んではならない。いきなければ、どこ迄もどこ迄も生きる努力をしませう。皆で力をあはせて皆が死力をつくしてやりませう。心配しないでぶつ倒れるまで働きませう。生きてゆく仕事にそれぞれとつかゝりませう。私もこの夏やります。やります。そしていつでも満足して死ねる程毎日仕事をやりぬいて、それで金も取れる道をひらきます。かあさん決して決して悲しく考へてはなりません。私は勇気が百倍しましたよ。やつてやつて、汗みどろになつて一夏仕事をまとめて世の中へ出します。悲しい処ではない。そしてそれが自分の為であり、かあさん立ちの為にもなるのです。金を自分の手でとれるやうになつて、かあさんが困らないやうになつたら、ああ、どんなに愉快でせう。
(略)
力を出しませう。私不幸な母さんの為に働きますよ 死力をつくしてやります。金をとります。いま少しまつてゐて下さい。決して不自由かけません。もしまとめて金がとれるやうになつたら、みんなかあさんの貯金にしてあげますよ。決して悲観してなりません。けふは百倍の力が出てきました。それではまた。

あまりに長い上に、途中で日本語が崩壊しています(引用した部分でも「てにをは」がおかしいところがあります)ので省略しましたが、この倍ぐらいの長さです。現物は当会顧問の北川太一先生がお持ちで、以前に見せていただきました。

この頃から智恵子の心の病が顕在化します。光太郎は、というと、この1週間後に、『時事新報』の依頼で紀行文執筆のために約1ヶ月家を空け、三陸を旅します。この直前には、昨日ご紹介したとおり「僕も仕事に精進してゐます」と、ある意味のんきなことをフランスの高田博厚に書き送っていました。こうした齟齬が、智恵子の心の病を引き起こす決定打になったように思われます。

こうした手紙がどのように合唱曲になるのか、実に興味深いですね。

ところでCANTUS ANIMAEさん、一昨年に紀尾井ホールで行われた「The Premiere Vol.3 〜夏のオール新作初演コンサート〜」にもご出演されていました。当方、その際は女声アンサンブルJuriさんの演奏、光太郎詩4篇に三好真亜沙さん作曲の「女声合唱とピアノのための「冬が来た」」を聴きに行ったのですが、CANTUS ANIMAEさんの演奏も記憶に残っています。素晴らしい演奏でした。

こうした取り組みももっともっと広がってほしいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

我が顔の窓にうつるや春の宵             明治42年(1909) 光太郎27歳

青森では昨日あたり桜の開花宣言だそうですが、こちら(房総)ではもはや晩春の様相です。
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