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長沼智恵子と日本女子大学校(その2 花開く智恵子の才能)。

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12/20(日)に、智恵子の故郷、福島県二本松市で行っイメージ 8た市民講座「智恵子講座’15 高村智恵子に影響を与えた人々 成瀬仁蔵と日本女子大学校」の内容を換骨奪胎してお届けしております。

今回は日本女子大学校入学後の智恵子について。

明治36年(1903)、福島高等女学校を卒業した智恵子は、日本女子大学校普通予科に入学します。翌年には四回生として家政学部に進みました。この四回生というのは、第四回入学生という意味です。

単なる良妻賢母教育にとどまらなかった同校で学ぶことによって、智恵子の才能が開花します。

まず絵画への傾倒。

一昨日のブログでご紹介した松井昇が同校で絵画の指導に当たっており、必修科目ではありませんでしたが、智恵子はそれを選択しました。福島高等女学校時代にも絵の才能は見せていましたが、そのころ取り組んでいたのは岩絵の具を使った日本画。おそらくここではじめて油絵の具に出会います。

智恵子の絵の才能は周囲も認め、女子大学校名物の一つ、秋季文芸会(文化祭的な)では、生徒による演劇の背景画を任されました。夜遅くまで講堂の地下でそれに取り組んでいた智恵子の姿が記憶されています。卒業後も智恵子は母校に残り、松井の助手として勤務、さらに太平洋画会に入会して、洋画家への道を目指します。『三つの泉』、『家庭』といった同校の刊行物や、雑誌『青鞜』などを、智恵子の描いた画が飾りました。

さらにテニス。家政学部で智恵子の一年上にいた平塚らいてうの回想が残っています。

 どちらが先にテニスをやりだしたか、それは忘れましたが、とにかくこのひとの打ち込む球は、まつたく見かけによらない、はげしい、強い球で、ネットすれすれにとんでくるので悩まされました。あんな内気なひと――まるで骨なしの人形のようなおとなしい、しずかなひとのどこからあれほどの力がでるものか、それがわたくしには不思議なのでした。
(『高村光太郎と智恵子』 筑摩書房 昭和34年=1959収録、「高村智恵子さんの印象」より)

下記は平成22年(2010)に朝日新聞出版さんから刊行された『週刊マンガ日本史44 平塚らいてう』です。

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智恵子、完全に悪役顔です(笑)。

らいてうは「どちらが先にやりだしたか、それは忘れましたが」と書いていますが、智恵子は福島高等女学校時代には既にテニスに取り組んでいました。

明治36年(1903)、智恵子が普通予科に入学した年の『日本女子大学校学報』第四号に、この年の運動会の様子がレポートされています。正式種目ではなく、オープニングアクトの「番外」で、テニスがプログラムに入っており、附属高等女学校生を含む15組が対戦したとあります。その選手の中に普通予科の「長沼ならゑ」という名が見えます。

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ところが、後の卒業生名簿を見ると、この年に普通予科だった智恵子と同級の生徒の中には、「長沼」という苗字は智恵子しか居ませんし、「ならゑ」という生徒も居ません。これはもしかすると「長沼ちゑ」を「長沼ならゑ」と書き誤ったのかな、などとも思えます。しかし、中退者も多かったので、卒業生名簿にはなくても「長沼ならゑ」という生徒が存在していたのかも知れません。また、智恵子の一学年下に「中西ならゑ」という卒業生がおり、そのあたりと混同していた可能性もあります。ただ、一つ下では計算が合わないのですが……。智恵子が入学早々に選手として活躍していたとすれば、素晴らしいですね。

さらに女子大名物の自転車も、智恵子は早々と乗りこなしたとのこと。

智恵子と寮の同室だったという秋広あさの回想。

その頃自転車は全く珍しい乗り物でしたが、寮にも一台備えられ、時間決めで練習させられました。皆は“珍しいけど厄介なこと”と云い乍らも誰が最初に乗れるか興味を持つておりました処、他ならぬ智恵子様が一番乗りしたのでした。それと申しますのも、雨の日には雨天練習場に乗り入れて練習したからだつたのでしよう。
(『高村光太郎資料第六集』 文治堂書店 昭和52年=1977収録「智恵子様のこと」より)

他にも秋広の回想は多方面にわたります。たたむ必要のない「無精袴」を考案したり、寮内で堂々と禁止されている間食をしたり、秋広が事情があって中退する時には涙を流して見送ってくれたり……。


卒業後も智恵子は同窓会である「桜楓会」の仕事にも携わっています。機関誌『家庭』や『家庭週報』に、絵や詩文を寄せていますし、同窓会大会の分科会で絵画修行について発表したという記録も見つけました。

当時の桜楓会の組織は「家庭部」「教育部」「社会部」の三つに分かれ、智恵子は「社会部」に所属しました。「社会部」の中に「出版部」があり、その関係で『家庭』や『家庭週報』と関わったと推測されます。

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そして明治43年(1910)4月5日から7日にかけて行われた桜楓会第七回総会の2日目、分科会である社会部大会で、智恵子が絵画修行について発表したことが、同会の年刊誌『花紅葉』第8号に記録されていました。これは従来の智恵子年譜には漏れていた事実です。ちなみにその前年にも社会部大会に出席しています。

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智恵子が光太郎と巡り会うのは、翌明治44年(1911)。今回講師を務めさせていただき、いろいろ調べる中で、光太郎と知り合う前の智恵子のきらめく青春時代が、改めて実感できました。


日本女子大学校で智恵子が関わった人々も、綺羅星の如し。明日以降、それらの人々をご紹介していきます。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月23日

昭和6年(1931)の今日、春陽堂から『明治大正文学全集 第三十六巻 詩篇』が刊行されました。 

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光太郎作品9篇が掲載されました。こうしたアンソロジーの類は多いのですが、光太郎自身が作品の選択、詩句の校訂に関わっていると確認できているものは少なく、これはその一つです。

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長沼智恵子と日本女子大学校(その3 成瀬仁蔵と広岡浅子)。

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12/20(日)に、智恵子の故郷・二本松で当方が講師として行った市民講座「智恵子講座’15 高村智恵子に影響を与えた人々 成瀬仁蔵と日本女子大学校」の内容を換骨奪胎してお届けしております。

今回から、日本女子大学校における、智恵子をとりまく人々。

まずは創立者にして初代校長の成瀬仁蔵。イメージ 1

安政5年(1858)、周防国(現・山口市)に長州藩下級武士の子として出生、明治初期から教育者の道を歩み始めました。2度のアメリカ留学を果たし、その経験から女子教育の必要性を痛感、大阪梅花女学校や新潟女学校で教鞭を執り、やがて女子大学校設立の構想を持ちます。そして広岡浅子や渋沢栄一、大隈重信等の援助を取り付け、明治34年(1901)に日本女子大学校を設立します。

以後、校長として個性的な学校運営を推進するかたわら、自らも教壇に立ち、全校生徒対象の「実践倫理」という講義を受け持ちました。

歿したのは大正8年(1919)。その直前に、女子大学校として、成瀬の胸像制作を光太郎に依頼、光太郎は病床の成瀬を見舞っています。ところが像はなかなか完成せず、結局、14年かかって、昭和8年(1933)にようやく完成しました。別に光太郎がサボっていたわけではなく、試行錯誤の繰り返しで、作っては毀し、毀しては作り、自身の芸術的良心を納得させる作ができるまでにそれだけかかったということです。

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校長時代の成瀬は、教育者としての厳格な一面も当然ありましたが、決して融通の利かない石頭ではなく、生徒たちに愛される存在でもあったようです。

「偉人は子供である」とは何人(なんびと)でもがいふ校長の総評である。
 一事をばかり熱心に考へていらつしやるので、その余のことは、ぬかつて失敗ばつかり。つひこの間も、欧州からお帰りの渋沢男爵を横浜まで迎へに行つたのに、上着を着て居なかつたさうである。男爵にお目にかゝつて挨拶をしようとして外套を脱ぎにかゝると、はじめて心づいた。
 上着を着て居ないのである。チヨツキの上に外套をかけたまま来てゐる。
 先生の大勢の子供たちが、この事をきいてもう笑ひころげてしまつた。
(『目白生活』 滝本種子 大正3年=1914)

大正期の生徒の回想です。特筆すべきは、こういう失敗をやらかしたことよりも、それを隠さずに生徒に語っているということ。生徒に対する成瀬のスタンスが見て取れます。

さて、智恵子。当然、『実践倫理』の講義は受けていますし、それ以外にも成瀬との個人的な関わりがあります。卒業後の明治43年(1910)11月に、旅行先の群馬赤城山から成瀬に送った絵葉書が現存しています。保存状態が良くなく、□の部分は判読不能です。

 葉鬱せし木も今は骨露はなる冬の赤城 牛は郷に帰り山は眠りに入て風のみ独り暴威を振ひ候 昨今の山籠りはあまり識れる□□□□□なく候へども余り□故にのみ止まりて少しばかりスタデーはし居り申候 御健祥に渡何よりと嬉しく存上まつり候 来月に入りての上帰京し伺申上たく候 御健康を切に願上げ候 早々

すでにご紹介したとおり、智恵子は卒業後、松井昇の助手として母校の教壇に立っていましたし、同窓会である桜楓会の業務にも携わっていました。そこで、在学中よりも卒業後の方が、成瀬との関わりは深まっていたのかも知れません。


続いて、広岡浅子。現在NHKさんで放映中の朝ドラ「あさが来た」のヒロインです。

浅子は嘉永2年(1849)の生まれ。世代的には光太郎智恵子の一世代前で、嘉永5年(1852)生まれの光太郎の父・光雲より年上です。朝ドラを見ていると、波瑠さん演じる若々しい姿しか思い浮かびませんが。

浅子は成瀬の女子教育推進に共鳴、いろいろと援助を行います。このあたりもやがて朝ドラの重要な展開として描かれるでしょう。ちなみに成瀬役は瀬戸康史さん、役名は「成澤泉」だそうです。「あさが来た」では、実名で登場する人物(五代友厚、土方歳三、大久保利通、福沢諭吉ら)と、仮名になっている人物とが入り乱れています。「泉」は成瀬の雅号「泉山」に由来するのでしょう。

ちなみに「あさが来た」、9月の第一回放送は、日本女子大学校(これも仮名で「日の出女子大学校」)の第一回入学式のシーンから始まりました。これが明治34年(1901)、浅子は数え53歳です。

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その後も浅子はたびたび同校を訪れ、生徒や卒業生と交流していたということで、明治36年(1903)入学の智恵子との関わりもあるのでは、と、いろいろ調べてみました。

はたしてありました。

こちらは智恵子卒業時(明治40年=1907)の集合写真です。

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左の方に智恵子、右下に成瀬仁蔵校長、そして浅子。同じ写真に写っていました。こちらは『財団医療法人明治病院百年のあゆみ』という書籍から採らせていただきました。福島市に現在も続く同院の創設者、幡英二の妻・ナツ(中央の赤丸)が、智恵子と同級生で、しかも二本松に隣接する本宮出身ということで、仲が良かったそうです。明治病院についてはこちら

そして、智恵子卒業後の明治43年(1910)、同窓会である桜楓会総会中の分科会・社会部大会。ここで智恵子が自らの絵画修行について発表したことは昨日触れましたが、その智恵子の発表の前に浅子が発言していました。

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こんな縁もあったのです。

また、浅子は御殿場にあった別荘を開放し、女性たちの啓発セミナーのような活動も行っていました。ここには女子大学校卒以外でも、市川房枝や村岡花子なども参加していたとのこと。残念ながら智恵子が参加したという記録は見つかっていませんが可能性はゼロではありません。

さらに、これは以前にもご紹介しましたが、光太郎がやはり日本女子大学校卒の小橋三四子(こちらも後ほどご紹介します)に宛てた書簡に、浅子の名が出て来るものがあります。浅子が歿した大正8年(1919、成瀬と同じ年でした)のもの。

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拝啓
今日新聞で広岡浅子刀自のなくなられた事を知り非常に感動を受けました
先達て頂戴した一週一信をよんではじめて刀自の真生活を知つたばかりの時此の訃音に接して残り惜しい心に堪へません
あなたの御心もお察し出来る気がいたします
しかし刀自の魂は此から後どの位実際的に人〻を導くか知れない事と信じます
どうも黙つてゐられない気がして此の手がみを書きました
刀自に対する尊敬と吊意とをおくみ取り下さい
  一月十六日                                                 高村光太郎
 小橋三四子様


文面にある「一週一信」というのは、前年12月に刊行された浅子の随筆集です。

浅子自身に送った書簡類は確認できていませんが、もしかすると光太郎、さらには智恵子から浅子宛のものが残っているかも知れません。期待したいところです。

成瀬仁蔵・広岡浅子と因縁浅からぬ光太郎智恵子夫妻。というわけで、朝ドラにもぜひ登場させてほしいものです。


明日は同じく日本女子大学校での智恵子をとりまく人々のうち、雑誌『青鞜』を巡る人々をご紹介します。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月24日

昭和49年(1974)の今日、銀座吉井画廊で開催されていた「白樺派とその周辺――書画展」が閉幕しました。

光太郎の作品も並びました。日本近代文学館所蔵の、美術史家・奥平英雄に贈った書画帖「有機無機帖」です。最晩年の昭和29年(1954)、奥平に贈られました。

長沼智恵子と日本女子大学校(その4 『青鞜』の人々)。

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12/20(日)に、智恵子の故郷・二本松で当方が講師として行った市民講座「智恵子講座’15 高村智恵子に影響を与えた人々 成瀬仁蔵と日本女子大学校」の内容を換骨奪胎してお届けしております。

今回は、雑誌『青鞜』に関わった日本女子大学校出身者イメージ 1について。

まずは平塚らいてう(明治19年=1886 ~ 昭和46年=1971)。家政学部三回生で、智恵子と同じ生年ですが、早生まれのため、智恵子の一級上になります。しかし、卒業後の明治41年(1908)、漱石門下の作家・森田草平と心中未遂事件を起こし、学校の名誉に傷をつけたと云うことで、卒業生名簿から除籍されてしまいました。処分が解除になり、ふたたび卒業生として認められたのは没後の平成4年(1992)のことでした。

高級官僚だったらいてうの父は、これにより、らいてうがまともな結婚をすることをあきらめたといいます。その結婚資金としてためていた資金を使って、明治44年(1911)に創刊されたのが『青鞜』。らいてうはその表紙絵を智恵子に依頼しました。女子大学校時代の絵画の才能を知っていましたし、テニスを通じ、智恵子の芯の強さ的な部分を認めていたのでしょう。


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もう一人、作家の田村俊子(明治17年=1884 ~ 昭和20年=1945)。国文学部一回生ですが、病気中退のため、卒業生名簿には名前がありません。やはりらいてうの呼びかけで、『青鞜』創刊号に寄稿しています。その時点で既に俊子と同じく幸田露伴門下の田村松魚と結婚しており、田村姓でした。

『青鞜』メンバーの中では、特に智恵子と仲が良く、どこまで真実か解りませんが、一種の同性愛的な部分もあったことが、俊子の作品に描かれています(「二三日」、「魔」、「わからない手紙」、「悪寒」(以上明45年・大正元年=1912)、「女作者」(大正2年=1913))など。

また、明治45年(1912)には、光太郎の手を離れた画廊・琅玕洞で、智恵子との二人展「あねさまとうちわ絵」を開催しています。俊子が千代紙であねさま人形、智恵子がうちわ絵を出品しました。

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その後、光太郎と結婚した智恵子と、夫婦ぐるみの交際が続きますが、やがて松魚と別れ、大正7年(1918)、新しい恋人・鈴木悦を追ってカナダに渡ります。その際には光太郎智恵子は、横浜港まで見送りに行っています。鈴木が亡くなって、昭和11年(1936)に帰国。その際には智恵子はもはや心の病でゼームス坂病院にいました。歴史に「たら・れば」は禁物ですが、もっとも仲の良かった俊子が日本にずっといたら、智恵子の心の病ももしかしたら回避できたかも知れません。


智恵子と俊子は、『青鞜』メンバーの中ではちょっと浮いた存在だったようです。智恵子は俊子とはよく行動を共にしましたが、らいてうをはじめとする『青鞜』中心メンバーとは、少し距離を置いていました。智恵子が中心メンバーとの大きな集まりに顔を出したのは、確認できている限り2回のみです。

初めは明治45年(1912)、大森の富士川という料亭で開催された青鞜社の新年会。写真が残っています。

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智恵子がこういう会合に顔を出すのは珍しい、ということで、中央に据えられたのではなかろうかと思われます。右から二人目がらいてうです。

『青鞜』第2巻第2号(明治45年=1912 2月 この号も智恵子の表紙絵)に、新年会のレポートが掲載されています。智恵子に関わる部分のみ抜粋します。

正月二十一日と云ふ日曜日大森藤ヶ崎の富士川で新年会をした。在京社員全体とは行かなかつたが、松村とし、武市綾、小磯とし、長沼智恵、荒木郁、林千歳、宮城房、らいてう、白雨等が午前から初大師の人の波を押し分けて、集つたので楽しい、盛んな会合だつた。
 会合は翌日の午前二時頃迄続いた。女の世界、全世界の女は皆幸福な者としか思へなかつた。

 長沼氏と荒木氏とらいてう氏と林氏とはいつまでも泡立つコツプに未練を残して席を立たない。「ええゝゝ、さうです、さうです、それです」と我が意を得た人の話を幽に胸 息をはづませながら、受け取るは朦朧体の長沼氏で生れて以来青空を見た事がないと云つた様子に、顔を火鉢より低く垂れて、ぐつたりと川土左宜敷、夢のやうに話しては皆んなを悩した。
 「あたし鏡花が大好き、エヽ夏目さんも好きよ。けれどもまだ他に今の若手で二人好きな人があるの、それはおしくてとても云へないわ、」前に延した首は三間も先きの方でかう云つた。撫で肩すらりつと着流した羽織を後にさばいて、品を作つて、こゝみがたに顎をつき出して居る。時々白い歯を見せて笑ふ鏡花式の、はなやかな方は宮城氏で、長沼氏と相隣り、一つの火鉢に睦じそうだつた。

そろそろ隠芸がはじまる。皮切はいつも荒木氏だ。「三味線がなければ」とか何とか難題を持ち出すのは長沼氏だ。

三人丈は雨の止むと共に遅く帰つた。

らいてうは狸寝だらう、何と話しかけても返事をしない。ふと昼間写真をとつた時、「どうすれば美人らしく見えるでせう」と長沼氏を捕へて真顔に訊いて居たのを思出して可笑しくなると共に、脱がさうとする荒木氏のコートを襠のやうに引つかけた海月のやうな長沼氏の姿が浮んだ。

100年以上前ですが、現代の女子会のようですね(笑)。

この時書かれた寄せ書きも、この号に掲載されています。智恵子の筆跡もあるはずなのですが、不鮮明なので解りません。

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2回目はぐっと時代が下って、昭和4年(1929)。「旧青鞜同人のあつまり」ということで、新宿中村屋で行われました。

『朝日新聞』に予告と報告の2回、記事が出、報告の方には写真も載りました。しかし、智恵子は野上弥生子が壁になって、顔の右側の輪郭しか解りません。2年後には心の病が顕在化、悲劇的な末路へと進む運命を暗示しているように見える、というと考えすぎでしょうか。

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その他の初期『青鞜』メンバー中の日本女子大学校出身者には、次のような人々がいました。家政学部四回生だった智恵子と近い年次の人々のみ載せました。

発起人
 保持研子  国文学部四回生 イメージ 9
  途中退学 のち復学し八回生として卒業
 中野初子  国文学部四回生
 木内錠子  国文学部四回生
社員
 井上民    国文学部一回生
 大村かよ  国文学部一回生
 山本龍    国文学部三回生
 龍野ともえ 英文学部三回生
 上田君    国文学部四回生
 佐久間トキ 国文学部四回生
 茅野雅子  国文学部四回生 (歌人)
 阿久根俊  国文学部五回生
 松村とし   英文学部五回生イメージ 10
  武市綾子  英文学部六回生 など  
その他
 木村政     補助団員 家政三
 潘しん      寄付者   家政三
 竹井たかの 賛助員   英文三
 平塚孝     寄付者   国文一 
    (らいてう姉・病気中退)
 上代たの   賛助員   英文七
   (後の女子大学校第6代校長)
 鈴村不二   賛助員   英文七  他

初期『青鞜』の活動は、世間から受け入れられていました。「新しい女」と揶揄されたり、罵詈雑言を浴びせられたりするのは、後に女子美術学校卒の尾竹紅吉が加わり、「五色の酒事件」や「吉原登楼事件」を起こしてからのことです。

こうした『青鞜』の活動も、成瀬仁蔵による個性的な教育の影響が見て取れるような気がします。


次回は、女子大学校同窓会の桜楓会で活動していたメンバーについて。やはり光太郎智恵子と深く関わった人々がいます。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月25日

昭和26年(1951)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、クリスマスケーキを野生動物に食べられてしまいました。

翌日の日記の一節に、こうあります。

昨夜旧小屋のケーキを野獣がくふ。犬か。

熊は冬眠に入っているはずです。狐か狸かもしれません。先だって、花巻を訪れた際、花巻高村光太郎記念館近くにお住まいの花巻高村光太郎記念会高橋事務局長が、「今朝は犬の散歩中に狐と狸の両方に遭遇した」とおっしゃっていました。

この年6月には、明確な印税制を採らなかった龍星閣(『智恵子抄』版元)が罪滅ぼし的に費用を出して、山小屋に新棟が増築され、寝泊まりはそちらでして居ました。新棟は現在は50㍍ほど移築され、倉庫として使っています。

長沼智恵子と日本女子大学校(その5 桜楓会の人々)。

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12/20(日)に、智恵子の故郷・二本松で当方が講師として行った市民講座「智恵子講座’15 高村智恵子に影響を与えた人々 成瀬仁蔵と日本女子大学校」の内容を換骨奪胎してお届けしております。

今回は、日本女子大学校の同窓会である桜楓会の中心にいたメンバーについて。やはり光太郎智恵子と浅からぬ縁のある人物がいろいろいます。

小橋三四子(みよこ 明治16=1883~大正11=1922)。国文イメージ 10
学部卒、一回生です。

卒業後、桜楓会の機関誌『家庭週報』の編集に携わりました。その後もその経験を生かし、女性編集者として活躍し、『読売新聞』記者を経て、雑誌『婦人週報』を創刊します。広岡浅子の薫陶を最も強く受けた一人で、浅子の随筆集『一週一信』の編集にも携わっています。

光太郎と智恵子を結びつけるのにも一役買っています。智恵子は明治末頃、いろいろな先輩芸術家に話を聴くと云うことを繰り返していましたが、その中で、雑誌『スバル』に「我が国初の印象派宣言」とも云われる評論「緑色の太陽」を発表した光太郎にも眼をつけ、小橋に相談。小橋はさらに同じ国文学部一回生だった柳八重に話を持って行きます。八重の夫・敬助は、画家で、明治39年(1906)、アメリカ留学中に光太郎と知遇を得ていました。


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そういうわけで、柳八重(旧姓・橋本 明治16=1883~昭和47=1972)。小橋とともに『家庭週報』の編集に携わり、やはりその後も女性編集者として活躍しました。

明治44年(1911)末、小橋から頼まれた八重は、駒込林町の光雲宅に居候していた光太郎のもとに、智恵子を伴います。これが光太郎智恵子、二人の運命的な出会いでした。

その後も、夫・敬助と共に大正3年(1914)、上野精養軒で開かれた光太郎智恵子結婚披露宴に出席していますし、夫婦ぐるみでの交際が続きました。

光太郎智恵子、それぞれが八重に宛てた書簡が複数残っています。以下は結婚披露直後のもの。

拝啓 この間はお忙かしい中をおいで下さつて恐入りました それに美しいブーケ迄頂戴して本当にうれしくおもひました まだあの蘭がにほつて居ます 長沼さんはあなたにはじめて紹介されたのが知り合ひの初めなので何だか特別ニあなたにお礼を申さねばならない様な気がします 今度は結婚といふ事についていろんな事を考へました 此から少しは落ちついて製作の出来る様になればいいと思つて居ます 何れ又お目にかかつて御礼を申し上げますが取りあへず手がみにて 二十七日 高村光太郎 柳八重子様
(大正3年=1914 12月27日 光太郎から八重)

 お目出度う存じます
 どうぞ相変りませず御願ひ申上げます
 旧冬私ども結婚の節は御多用の御内をお揃で御臨席下されましてありがたく存じました また其折は結構なお祝ひを頂戴いたし御礼を申上げます その御礼をも申上げませんうちまたこの程わざわざ御光来被下重ねがさね恐れ入りました あのバタは新らしくてほんとにバタらしいにほひです ありがたう存じあげます そのうち是非御伺ひ申上様と存じて居ります 御主人様御母上様にも何卒よろしく御願ひ申上げます 先づは幾重の御礼かたがた御わびまで早々申上ました
智恵
 柳八重子様
  どうぞまた御ゆるりと御越を願ひます
(大正4年=1915 1月3日 智恵子から八重)

微笑ましいですね。


今回、市民講座の講師を仰せつかって、小橋と八重、二人についても改めて調べたところ、こんな評を見つけました。

 柳八重子、(旧橋本)(三十一)は国文科一回の出で、今は西洋画家柳氏の令閨である。在学中校内評判の美文韻文家として、其艶麗な筆は今も尚ほ母校の語り草になつてをる。
 小林(注・小橋の誤り)三四子(三十)八重子と同期同科の卒業生で、桜楓会から発刊する家庭週報に毎号掲げる論文イメージ 12の巧みなのは、校中に比較する者なく、前者の美文に対し後者の論文は供に双璧の噂さ専らにて、尚ほ永く人の記憶に残るであらうとのこと。
(平元兵吾著『八大学と秀才』 大正元年=1912より)

二人が編集に携わり、さらに智恵子も詩文を寄稿している『家庭週報』についても、こんな評がありました。

 特に注意すべきは桜楓会家庭週報が単に卒業生五名の手によりて毎週発刊せられつゝあることにして、欧米の諸大学に於ては日刊をも発行し居るのに比すれば敢て珍しき事にはあらずと雖も、我帝国大学にすら学生の手になる日刊は愚か週刊すらなきに比すれば、才媛諸子の活動寔に敬服の外なし、況や其内容も整頓し、記事の明確なる等到底之が斯の如き少数女性の経営に成るものと信ずること能はざるの観あり、想ふに本邦に於て女子の経営する週報は実に之を以て嚆矢となす、
(雑誌『新日本』第四号 明治39年=1906 7月 「女子大学校と其桜楓会の活動」芙蓉子 より)

画像は『家庭週報』の広告です。


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さらに井上秀(明治8年=1875~昭和38年=1963)も外せません。

井上は、日本女子大学校第四代校長を務めました。在任期間は昭和6年(1931)~同21年(1946)です。家政学部一回生で、卒業後、欧米留学を経て明治43年(1910)から女子大学校教授を務め、桜楓会初代幹事長でもありました。

京都府立第一高女で、広岡浅子の娘・亀子(朝ドラ「あさが来た」では「千代」)と同窓。その関係で浅子に女子大学校進学を強く勧められました。入学時には既に既婚、子供もいたということです(そういう女性も特に珍しくはなかったと云うことですが)。小橋と共に浅子の薫陶を最も強く受けた一人です。

光太郎が成瀬仁蔵胸像を制作中に、アトリエを訪問していますし、昭和13年(1938)10月の智恵子葬儀に際し、女子大学校代表として参列してもいます。

智恵子の葬儀後の、光太郎から井上宛の書簡も残っています。

拝啓 先般妻智恵子死去の節は御多忙中を御会葬下され千万忝く存上候
このたびは智恵子の同期生諸姉を始め大方の御哀悼を辱うし難有事と存居候ところ中陰の期も追々すゝみ候については一々御答礼可仕筈に候へ共本人の素志もあり母校たる御校へ些少ながら金三百圓御寄附いたして一々の答礼に代へ度本来小生出頭可仕なれど略儀を以て右為替同封致候間御受納下され度奉願候
         敬具
     昭和十三年十一月三日                    高村光太郎
    日本女子大学校長 井上秀子様

光太郎との関わりは、戦後まで続いています。光太郎最晩年、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京してから、井上が光太郎に講演の依頼をし、実現しています。

 今、井上先生が僕についてエラク能書を申し上げたが、こんなに思われているとは考えなかつた。有り難いんだが。また面はゆい気もする。どうか皆さん、余り期待しないで聞いて下さい。期待しすぎると、期待はずれということがある。陰で考えるとそう悪くないが本物を見るとつまらない、こなければよかつた(笑)……こんなことになるかも知れない。

 元来、僕はしやべるのが苦手で、あまり人前ではしやべらないことにしている。それがこうしてのこのこ出て来なければならなかつたのは、亡くなつた妻の母校の校長さんをしておられた井上先生に頼みに来られたからである。井上先生に頼まれたんでは仕方がない。絶体絶命である。悪るい人がいてくれたもんだと思う。(笑)しかし考えてみればこれも縁で。機縁を尊ばなければならぬ。機縁を尊び、いたるところに種をまいてゆく。とすれば、しやべるということもまた一つの菩薩行であろう。自分も一生懸命勉強するが、人にも勉強させる。自分の勉強したところを独り占めしないで、人にも話す、自分の見出したもの、得たもの、或いは自分の苦しみや喜びを人にも訴える、これも人間の務ぢやないかと思う。僕は矢張り話す機会を与えて下さつた井上先生に感謝しなければならない。
(「炉辺雑感」 昭和28年=1953 6月1日発行『女性教養』第173号。「本稿は昭和二十八年二月二十八日 中山文化研究所婦人文化講座の講演筆記であります。」の前書きがある。)


もう一人、仁科節。智恵子の一学年下にあたる国文学部五イメージ 15回生で、小橋や八重ののちに『家庭週報』編輯に携わりました。光太郎による成瀬仁蔵胸像制作に際し、実質的に光太郎とのパイプ役を務めたようです。その関係で駒込林町アトリエを訪問し、その様子は『家庭週報』に3回ほどレポートされています。

そのうち、昭和4年(1929)6月の第990号には、駒込林町のアトリエの写真も掲載されています。現存するアトリエ外観の写真は少なく、貴重なカットです。

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繰り返しご紹介していますが、現在NHKさんで放映中の朝ドラ「あさが来た」。日本女子大学校設立に尽力し、開校後も学生や卒業生と交流が深かった広岡浅子が主人公です。今回ご紹介した小橋三四子や井上秀は、特に浅子と縁の深かった人物。おそらく「あさが来た」にも登場するでしょう。期待しています。


次回は最終回として、智恵子と縁のあった東北出身の同校卒業生をご紹介します。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月26日

平成21年(2009)の今日、地上波テレビ朝日系で「はぐれ刑事純情派 最終回スペシャル さよなら安浦刑事!命を懸けた最後の大捜査!  福島二本松、岳温泉に消えた、“母と呼べない息子”の連続殺人トリック! 人情刑事・安浦、衝撃の過去が明らかに!」が放映されました。

昭和63年(1988)に連ドラとして放映が始まり、平成17年(2005)で一旦終了。「必殺シリーズ」で伝説の殺し屋・中村主水を演じた故・藤田まことさんが、一転してヒューマニティーあふれる役どころで新境地を開きました。その後、スペシャル版として4本が制作された人気ドラマの最終回でした。

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悪人たちの罠に嵌り、殺人事件の容疑者にされた実は無実の青年――安浦刑事と旧知の仲――が、故郷の二本松に潜伏したという設定で、二本松でのロケが敢行されました。

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智恵子生家も登場。

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山手中央署の刑事さんたち、何故か観光スポットのみで聞き込み捜査(笑)。

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二本松市や岳温泉観光協会さんのバックアップなので(笑)。

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クライマックスは岳温泉に近い岳ダムでした。

長沼智恵子と日本女子大学校(その6 東北出身の人々その他)。

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12/20(日)に、智恵子の故郷・二本松で当方が講師として行った市民講座「智恵子講座’15 高村智恵子に影響を与えた人々 成瀬仁蔵と日本女子大学校」の内容を換骨奪胎してお届けしておりますが、今回で終わります。イメージ 1

今回、まずは智恵子と同じく東北出身で、智恵子と深く関わった人々をご紹介します。

服部マス(明治11年=1878~昭和23年=1948)。智恵子の恩師です。明治30年(1897)、智恵子は故郷・安達郡油井村(現・二本松市)の油井小学校高等科に進みますが、同じ年、福島師範学校を卒業した服部も油井小学校に赴任、智恵子の唱歌の授業を担当しました。明治33年(1900)には二本松小学校に転任しましたが、翌34年(1901)、日本女子大学校が開校するや、退職して国文学部に一回生として入学しました。

マスが三年生になった時、智恵子が福島高等女学校を終えて同校普通予科に入学。これに際し、服部は進学許可を渋る智恵子の両親に説得の手紙を書いたといいます。智恵子の両親も「服部先生が通っている学校なら……」と、進学を認めました。

卒業後は北京予教女学堂、奉天女子師範学堂に勤務。帰国後、大正11年(1922)頃から中華民国留学学生援護機関日華学会理事、中国留 日女子学生寮寮監を務め、「中国人留学生の母」と称されました。


幡ナツ(旧姓・小松 明治19年=1886~昭和37年=1962)。智恵子と同じ家政学部四回生でした。二本松に隣接する本宮町出身で、卒業後すぐ、福島市明治病院長・幡英二と結婚しました。明治42年(1909)、卒業後も智恵子が住んでいた女子大学校楓寮が閉鎖となり、住む所に困っていた智恵子を、自身が下宿していた日本画家・夏目利政宅に住まわせました。

明治45年(1912)、智恵子が福島の明治病院に滞在。ここで絵を描いたそうです。智恵子はこの年、太平洋画会展覧会に油絵「雪の日」「紙ひなと絵団扇」を出品しており、それかもしれません。明治病院さんには、ほぼその当時のまま中庭が残っていて、「高村智恵子ゆかりの中庭」として整備されています。

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左から智恵子、幡英二、ナツ。ナツが抱いているのは長男・研也です。さらにその子息の研一氏は、昨年の智恵子命日の集い、レモン忌にご参加下さいました。

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野村ハナ(旧姓・橋本 明治21年=1888~ 昭和43年=1968)。岩手県出身。教育学部二回生(同部は遅れて開設されたため、他学部で云うと七回生に当たります)。智恵子のすぐ下の妹、セキと同級生でしたが、セキより智恵子と仲良くなったと云うことです。帰省や上京の際には、福島の智恵子の実家に寄って泊まることがあったそうです。

同郷の、「銭形平次」シリーズ作者で、音楽評論家でもあった野村胡堂と一大ラブロマンスを経て結婚しました。その際に智恵子がハナの、金田一京助が胡堂の介添えを務めました。胡堂は絵の才能もあり、智恵子がそれを担当するようになる前、女子大学校名物の「文芸会」(文化祭的な)の演劇の背景画を頼まれて描いたそうです。それが智恵子の役目となり、「彼氏の仕事を奪ってしまったわね」と、智恵子とハナは笑いあったとのこと。

また、血のつながりはないそうですが、花巻の宮澤家と遠縁で、赤ん坊の頃の賢治をだっこしたこともあるそうです。


長沼セキ(明治21年=1888~昭和50年頃=1975頃)。智恵子のすぐイメージ 4下の妹で、野村ハナと同じく教育学部二回生でした。明治43年(1910)に卒業、大正4年(1915)、児童学研究 の名目で渡米します。その間も郷里に帰らず、東京にいましたが、何をして生活していたのか不明でした。しかし、徐々にわかってきました。

まず、明治45年(1912)7月の、東京高等女子師範学校(現・お茶の水女子大学)の卒業生名簿にセキの名を見つけました。日本女子大学校を終えたあと、入学し直したようです。

また、同じ年には博文館から発行されていた少女雑誌『少女世界』に少女小説を寄稿しています。同じ雑誌の別の号には、智恵子の絵も掲載されています。

さらに、前後しますが、明治43年(1910)、日本女子大学校の同窓会である桜楓会編集部会報『桜楓会通信』の編輯員に任命、という記録も見つけました。

大正2年(1913)、智恵子の福島高等女学校時代の親友・上野ヤス の婚家(静岡・沼津)で、漱石門下の小宮豊隆(妻子あり)の子を出産。渡米は日本に居づらくなってのことだったと思われます。彼の地で日本人移民と結婚、二子をもうけ、昭和50年(1975)頃歿したそうです。

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セキと野村ハナが一緒に写った写真もありました。中央がセキ、右が野村ハナです。

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宮崎千代(生没年不明)。家政学部一回生。山形米沢出身。弟の省吾は光太郎も参加したヒユウザン会(のちフユウザン会)に所属した画家でした。同じ東北、ということで智恵子と親しくなり、大正3年(1914)、上野精養軒で開かれた光太郎智恵子結婚披露宴に出席しています。智恵子から千代宛の書簡5通が現存しており、貴重な資料です(智恵子書簡は70通たらずしか見つかっていません)。


その他、東北出身ではありませんし、これまでにご紹介してきた『青鞜』や桜楓会本部ともほとんど関係ない、しかし智恵子と関わった女子大学校出身者をざっと紹介します。

永野初枝 家政学部三回生イメージ 8
 明治42年(1909)、楓寮解散後、一時期、智恵子を自宅に下宿させる。右の画像は『花紅葉』第7号、明治42年(1909)より。

秋広あさ子 中退のため卒業生名簿に記載なし 学部等不明
 明治36年(1903)当時、女子大学校自敬寮で智恵子と同室。智恵子の女子大時代のエピソードの大半は、秋広の回想による。ゼームス坂病院入院前の智恵子を見舞う。昭和21年(1946)、義子と孫が花巻郊外太田村の光太郎を訪問。光太郎晩年まで文通。

旗野八重 国文学部四回生
 歴史地理学者・吉田東伍の姪。智恵子と親しかった。卒業直後、病没。

佐藤澄子 家政学部七回生
 旧姓旗野。八重の妹。在学中、松井昇の助手として勤務していた智恵子に画を教わる。大正2年(1913)、新潟の実家に智恵子を招いて共にスキーに興じた。大正5年(1916)にも智恵子は旗野家別荘に滞在(下写真)。
 のち、立川農事試験場長佐藤氏(姉も女子大学校四回生)と結婚。光太郎詩「葱」のモチーフとなる。智恵子歿後の戦時中には光太郎を援助。

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藤井勇(ゆう) 英文学部四回生
 大正元年(1912)、智恵子、セキとともに、光太郎が滞在していた千葉銚子犬吠埼へ同行。

廣瀬さき 家政学部五回生
 明治39年(1906)、文芸会の背景を描く智恵子の助手を務めた。

内田龍子
  光太郎と交流のあった真壁仁による「高村智恵子の一生」(『高村光太郎と智恵子』  草野心平編 筑摩書房 昭和34年=1959)に、在学中の智恵子と自敬寮で一緒だったとして紹介。卒業生名簿に「内田龍子」名なし。国文学部三回生・山本龍か?


この他にも情報をお持ちの方、こちらまでご教示いただければ幸いです。特に「うちのばあさんが智恵子さんと親しかったので、手紙や写真が残っている」などは大歓迎です。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月27日

昭和4年(1929)の今日、『東京朝日新聞』読書欄に散文「ホヰツトマンの「草の葉」が出た」を発表しました。

「ホヰツトマン」はアメリカの詩人、ウォルター・ホイットマン。光太郎は大正10年(1921)、ホイットマンの『自選日記』翻訳を叢文閣から刊行するなど、彼に傾倒していました。

この年11月、長沼重隆訳のホイットマン詩集『草の葉』が刊行され、それを受けて書かれました。書き出しはホイットマンに傾倒していた光太郎らしく、「ブラボオ! と叫びたい事がある」としています。

新聞各紙から。

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昨日まで延々と約一週間、智恵子の故郷・二本松で当方が講師として行った市民講座「智恵子講座’15 高村智恵子に影響を与えた人々 成瀬仁蔵と日本女子大学校」の内容を換骨奪胎してお届けしてきました。その間に全国の新聞各紙で光太郎智恵子の名が出ていますので、ご紹介します。 

まずは『長崎新聞』さんの一面コラム。 

水や空 言うまいと思えど…

「You might think but today 's some fish.」。冬が来るたびに中学時代のある日の英語の授業を思い出す。黒板にこう書いた先生がニヤリと笑って「和訳してごらん」▲広く知られる言葉遊びらしい。正解は「言うまいと/思えどきょうの/寒さかな」...。めったに冗談など言わないタイプの人だったから、あ、笑うところか、とクラスの皆が気づくのに、微妙な間が空いたことまで覚えている▲「暖冬」の予測がなかったか、と思わず記憶を確認したくなるような「言わずにいられない寒さ」がここ数日続いている。秋の気温が高めだったことも、いくらか体感には影響しているだろうか▲この季節を「きりきりともみ込むような」「人にいやがられる」「草木に背かれ、虫類に逃げられる」と表現したのは高村光太郎。こちらは国語の教科書が懐かしい▲凡人のわが身は「僕に来い、僕に来い」「しみ透(とお)れ、つきぬけ」と、厳しさを迎え撃つ心境にはなれない。でも、春がうれしいのは、冬の向こう側にあるから、ということぐらいは分かる。受験生はいよいよスパートの頃か▲あすは冬至。一年で最も昼が短いこの日を「冬が至る」と名付けた先人のセンスに脱帽しつつ、それぞれの春を目指す皆さんにエールを送る。(智)
(2015/12/21)

めっきり「冬」となりました。


続いて、同じ日の『朝日新聞』さんの「朝日歌壇」。

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「レモン香る智恵子の空を見しことも」 (東京都)大澤都志子

清々しいレモンの香りは、冬の凛とした空気によく似合うような気がします。


さらに同日の『福島民友』さん。過日の「智恵子講座’15 高村智恵子に影響を与えた人々」第3、4回の模様を報じています。

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12月23日には青森の地方紙『デーリー東北』さんの一面コラム。 

天鐘

 奥入瀬渓流の名所・銚子大滝の近くに詩人佐藤春夫の作品を刻んだ岩が残る。「おちたぎり急ぎ流るるなかなかに…」。渓流の美しさをたたえた長歌「奥入瀬谿谷(けいこく)の賦(ふ)」の返歌だという▼詩碑は国立公園指定15周年を記念し、湖畔休屋に立つ高村光太郎の「乙女の像」と同じ1953年10月21日に除幕された。今では十和田湖のシンボルとなった一対の裸婦像とは対照的に、詩碑は見ることも難しい▼遊歩道からほど近い場所なのに、岩は草木に覆われてしまい、苔(こけ)むして文字が容易に判別できない。何より詩碑の位置確認を困難にしているのは、自然保護の観点から、近づかないように規制されているためだ▼同じ理由からだろうか。環境省は、奥入瀬渓流の石ケ戸付近で以前は見られなかった藻が2年ほど前から急激に増えているという市民団体の指摘に対し、自然現象として推移を見守る構えだという▼小紙の報道によれば本格的な調査をしておらず、どんな藻なのか特定されていない。生態系に害を及ぼす恐れのある特定外来生物に指定されている植物は13種。その中にはオオフサモという藻もある▼幸い、奥入瀬渓流の藻は特徴が異なり、該当しないようだ。それでも、環境省が植生の変化に無頓着でいいはずがない。単に時の流れに委ねるなら無為無策のそしりは免れない。些細(ささい)な変化を見逃して手遅れの事態を招く愚挙だけは避けたい。


記述があるとおり、光太郎の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」と同じ日に除幕され、光太郎もその除幕式に立ち会った佐藤春夫の碑に関してです。

昨年、当方も現地に行きました。たしかにもはや石碑であることすらわからない状態です。しかし、当の佐藤春夫はそうなるならそれはそれでいい、的な発言をしていました。

自然保護の観点がからみ、難しい問題ですね。



訃報も出ました。 

浪曲師の国本武春さん死去 「うなるカリスマ!」

 「うなるカリスマ!」で知られる浪曲師で、NHK・Eテレ「にほんごであそぼ」出演でも親しまれた国本武春(くにもと・たけはる、本名加藤武〈かとう・たけし〉)さんが24日、脳出血による呼吸不全のため亡くなった。55歳だった。葬儀は近親者で営む。後日、お別れの会を開く予定。

 千葉県出身。浪曲師の両親のもとに生まれ、1981年に東家幸楽に入門した。曲師が弾く三味線を伴奏に演目を語る従来の浪曲にとどまらず、三味線の弾き語りのスタイルで活躍。浪曲界の牽引役(けんいんやく)の中核だった。2000年には芸術選奨文部大臣新人賞を受賞し、テレビや舞台にも数多く出演した。日本浪曲協会副会長も務めた。

 10年12月、公演中に意識を失って入院。リハビリを経て5カ月後に舞台に復帰したが、今月、脳出血で救急搬送され、休養していた。

 代表作は古典「赤穂義士伝」、三味線弾き語りでは「ザ・忠臣蔵」シリーズなど。
(『朝日新聞』 2015/12/24)

 

浪曲師、国本武春さん死去 55歳

 浪曲師の国本武春氏(くにもと・たけはる、本名・加藤武=かとう・たけし=)が24日、急性呼吸不全のため死去した。55歳。通夜、葬儀・告別式は近親者による密葬、後日、東京都内でお別れ会を行う予定。喪主は妻、桂子(けいこ)さん。

 12日の公演リハーサル中に脳出血を起こし、治療中だった。浪曲師の母の勧めで、三味線を学び、昭和56年東家幸楽に入門し浪曲師に。「忠臣蔵~殿中刃傷編」が十八番。三味線の弾き語りで、ロックやバラードを演奏。忠臣蔵や民話・昔話などを題材にしたオリジナル作品を数々発表した。ブロードウェイ・ミュージカル「太平洋序曲」(宮本亜門演出)に出演するなど幅広く活動した。NHK・Eテレの子供番組『にほんごであそぼ』にも出演、うなりやベベン役で子供から人気を集めた。平成11年度第50回芸術選奨文部大臣新人賞、13年度花形演芸大賞など受賞。日本浪曲協会副会長。
(『産経新聞』 2015/12/24)


つい最近、今月放映されたNHKさんの「にほんごであそぼ」でも、光太郎の詩に曲をつけた「ベベンの冬が来た」の演奏が放映されました。

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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月28日

昭和27年(1952)の今日、ブロンズ彫刻「腕」の箱書きをしました。

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作品自体は大正7年(1918)のものですが、戦後になって、画商が箱書きを頼みにやってきました。

現在は岡山県倉敷市の大原美術館さんに所蔵されています。

回顧2015年(1~4月)。

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早いもので、今年もあと残すところ3日となってしまいました。

今日から3日間、4ヶ月ずつ区切って、今年あった光太郎智恵子、光雲をめぐる主な出来事を振り返ります。書籍等の刊行日は、奥付記載の日付を採りました。実際に店頭に並んだ日とずれている場合があります。

1月2日(金) 台東区東京国立博物館内の黒田記念館が、約三年間かけイメージ 1ての耐震工事を終え、リニューアルオープンしました。二階黒田記念室入り口には、昭和7年、光太郎作の黒田清輝胸像が再び据えられました。

1月10日(土) NHKEテレにて、「戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 知の巨人たち 第5回吉本隆明」が放映されました。当会顧問・北川太一先生がビデオ出演し、吉本と光太郎について語りました。再放送、17日(土)。

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1月16日(金)~19日(月) 兵庫県伊丹市立演劇ホールAI・HALLにて、劇団青年団主催の演劇公演「暗愚小伝」が行われました。作・平田オリザ氏。光太郎が主人公。前年10月の東京公演の地方巡回でした。22日(木)~24日(土)、香川善通寺市四国学院大学ノトススタジオに巡回公演されました。

1月17日(土)~3月22日(日) 福島県いわき市立草野心平記念文学館で、「平成26年度所蔵品展 草野心平と高村光太郎往復書簡にみる交友」が開催されました。戦後、光太郎と心平の間に交わされた四十通余りの往復書簡、心平「高村光太郎病床日記」他が展示されました。

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全く同一の日程で、群馬県立土屋文明記念文学館において、第87回企画展「近代を駆け抜けた作家たち~文豪たちの文字は語る~」が開催され、光太郎書も展示されました。2月15日(日)、記念講演会「編集者の仕事とは」。講師・石原正康氏(幻冬舎取締役兼専務執行委員編集本部本部長)。

1月28日(水)~4月19日(日) 英国リーズ市ヘンリー・ムーア・インスティテュートにおいて、武蔵野美術大学との共催による「A Study of Modern Japanese Sculpture」が開催されました。光太郎彫刻「白文鳥」「手」、他に、橋本平八、佐藤朝山、水谷鉄也、宮本理三郎の作品が展示されました。

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1月31日(土) 東洋出版社から『未来を拓く 学校の力 地域と学校の心触れ合う教育活動』が刊行されました。全国連合退職校長会編。光太郎が卒業生である荒川区第一日暮里小学校の元校長・天野英幸氏「バトンを繋ぐ」を収めます。学校図書館の活用により、6年生の総合的な学習の時間に於ける、先輩・光太郎についての調べ学習や、全校生徒による光太郎詩の群読などについて述べられています。

2月9日(月) NHKBSプレミアムで、「にっぽん百名山 安達太良山」が放映され、「智恵子抄」に触れられました。再放送、15日(日)、19日(木)。

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2月11日(水) NHK総合テレビで「歴史秘話ヒストリア 第207回 ふたりの時よ永遠に 愛の詩集「智恵子抄」」が放映されました。北川太一先生、作家・津村節子氏、太田村時代の光太郎を知る高橋愛子さんらがビデオ出演しました。司会、渡邊あゆみさん。再現ドラマの部分は、光太郎役を鈴木一真さん、智恵子役を前田亜希さんが演じました。再放送、2月18日(水)、11月4日(水)。

2月14日(土) ネイチュアエンタープライズから山岳雑誌『岳人』第813号が刊行されました。特集「言葉の山旅 山と詩人 上高地編」。当方執筆の「高村光太郎と智恵子の上高地」を含む他、草野心平、尾崎喜八等にも触れています。

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2月20日(金) 八木書店から日本近代文学館編『近代文学草稿・原稿研究事典』が刊行されました。「第四部 作家的事例」で、群馬県立女子大学教授・杉本優氏が光太郎の項を担当しました。

2月21日(土)〜4月12日(日) 山口県立美術館で、「特別展 超絶技巧!明治工芸の粋」が開催されました。前年4月から日本橋三井記念美術館他で開催された展覧会の地方巡回。光雲作「西王母」「法師狸」の木彫二点が展示されました。郡山市立美術館(4月21日(火)~6月14日(日))、富山県水墨美術館(6月26日(金)~8月16日(日))、岐阜県現代陶芸美術館(9月12日(土)~12月6日(日))にも巡回しました。

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2月21日(土)〜5月17日(日) 京都市の清水三年坂美術館で、企画展「明治の彫刻」が開催され、光雲木彫「聖観音像」「月宮殿天兎」「老子出関」「西行法師」が展示されました。

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2月25日(水) ハーツ&マインズから品川区の地域情報誌『月刊おとなりさん』第380号が刊行されました。「特集 智恵子 愛と芸術の生涯」を収めています。

3月1日(日) 『佛教大学大学院紀要 文学研究科篇 第四十三号』が発行されました。佛教大学総合研究所特別研究員・田所弘基氏「高村光太郎の短歌と美術評論 ―留学直後の作品を中心に―」を収めています。

3月10日(火) 十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会編刊『十和田湖乙女の像のものがたり』が刊行されました。平成25・26年度、十和田市づくり市民活動支援事業の助成により、建立から60年を経た「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の背景を多方面からまとめたもの。当方が監修と一部執筆を担当させていただきました。

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3月12日(木) 現代企画室から『少女は本を読んで大人になる』が刊行されました。クラブヒルサイド+スティルウォーター編。平成25年から翌年にかけ、全10回で行われた読書会「少女は本を読んで大人になる」の筆記を元にしたもの。彫刻家・舟越保武の長女、末盛千枝子さんの「高村光太郎著 『智恵子抄』を読む」を含みます。

3月20日(金) 日本近代文学館から『日本近代文学館年誌―資料探索 第10号』が発行されました。上智大学教授小林幸夫氏「〈軍服着せれば鷗外だ〉事件 ―森鷗外「観潮楼閑話」と高村光太郎」を含みます。

3月21日(土)~6月21日(日) 宮内庁三の丸尚蔵館において、「第68回展覧会 鳥の楽園-多彩,多様な美の表現」が開催され、光雲木彫「松樹鷹置物」「矮鶏」が展示されました。

4月1日(水) 東京国際芸術協会から、野村朗氏作曲『連作歌曲智恵子抄~その愛と死と~』楽譜集が刊行されました。森山孝光、康子夫妻演奏による同曲のCDも同日発行されました。

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4月2日(木) 第59回連翹忌が、日比谷松本楼に於いて開催されました。

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この日、『光太郎資料43』が参加者に無料配布されました。当会の刊行です。

また、高村光太郎研究会より『高村光太郎研究36』が刊行されました。北川太一先生「高村光太郎・最後の年 1月⑵」、山田吉郎氏「高村光太郎と雑誌『創作』―自選短歌を中心に」、坂本富江さん「詩人野澤一という人―そして高村光太郎との関係性―」、当方執筆の「光太郎遺珠⑩」「高村光太郎没後年譜」、野末明氏「高村光太郎文献目録」「研究会記録・寄贈資料紹介・あとがき」。

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同日、文治堂書店から、北川太一先生の『ヒユウザン会前後―光太郎伝試稿―』が刊行されました。『高村光太郎研究』連載の単行本化です。

やはり同日、岩手花巻でも、旧太田村の光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)近くで詩碑前祭、松庵寺にて花巻連翹忌が開催されました。

さらに同日、和歌山県高野町の高野山真言宗総本山・金剛峯寺で、開創千二百年記念大法会が始まりました。これまで開帳された記録が残っていない、高野山の総本堂、金堂の本尊・薬師如来像(光雲作)の特別開帳が行われました。5月21日(木)まで。

この日はいろいろ重なり、港区の増上寺でも、新たに宝物展示室がオープンしました。光雲が監修に名を連ね、東京美術学校が制作した英国ロイヤルコレクション所蔵の「台徳院殿霊廟模型」(徳川二代将軍・秀忠霊廟)が展示されています。明治43年、ロンドンで開催された日英博覧会に東京市の展示物として出品されたものです。

4月16日(木) 墨田区すみだトリフォニーホールに於いて「第25回 21世紀日本歌曲の潮流」が開催され、森山孝光、康子夫妻により、野村朗氏作曲『連作歌曲智 恵子抄~その愛と死と~』が演奏されました。

4月20日(月) 小学館より石川拓治氏著『新宿ベルエポック 芸術と食を生んだ中村屋サロン』が刊行されました。中村屋創業者の相馬愛蔵・黒光夫妻、碌山荻原守衛を中心とし、光太郎にも触れています。

4月22日(水) 碌山美術館より『荻原守衛書簡集』が刊行されました。守衛の書簡約百五十通、光太郎を含む守衛宛の書簡が、原本が残る物は全て写真付で収められています。

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4月28日(火) 花巻高村光太郎記念館がリニューアルオープンしました。平成25年5月から、元の花巻市歴史民俗資料館を改装し、暫定オープンしていたものが、全面的な改修工事を行い、展示室面積はおよそ2倍となりました。

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4月30日(木) 邑書林からわたなべじゅんこ氏著『歩けば俳人』が刊行されました。光太郎を含む十五名の文化人の俳句に言及しています。


明日は、5月~8月の出来事を。



【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月29日

平成16年(2004)の今日、東海テレビ・フジテレビ系で放映されていた昼の帯ドラマ「愛のソレア」が最終回を迎えました。

荻野目慶子さん主演。東海テレビさん制作のいわゆる「ドロドロの昼ドラ」です。昭和30~50年代を舞台とし、随所に光太郎の詩が用いられました。

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回顧2015年(5~8月)。

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昨日からの続きで、今年あった光太郎智恵子、光雲をめぐる主な出来事を振り返ります。今日は5月から8月。

書籍等の刊行日は、奥付記載の日付を採りました。実際に店頭に並んだ日とずれている場合があります。


5月6日(水) 大田区のライブハウス・風に吹かれてに於いて、シンガーソングライター潮見佳世乃さん演奏の「歌物語コンサート 智恵子抄」が開催されました。

5月15日(金) 岩手花巻の高村山荘敷地で第58回高村祭が開催されました。特別講演は当方の「高村光太郎と花巻・山口」でした。

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 同日、山荘に隣接する花巻高村光太郎記念館の企画展示「高村光太郎山居七年」(前期)が始まりました。太田村時代の光太郎の書、遺品等の展示でした。9月28日(月)まで。
 また、花巻高村光太郎記念会より佐藤隆房編著『高村光太郎山居七年』が復刻されました。元版は昭和37年(1962)でした。

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やはり同日、日本古書通信社から月刊で発行されている『日本古書通信』第1030号で、廣畑研二氏「幻の詩誌『南方詩人』」の連載が始まりました。鹿児島の詩誌『南方詩人』に関しての調査で、これまで知られていなかった光太郎の翻訳等が掲載されていたことが報じられました。8月15日発行の第1033号まで連載されました。

5月17日(日) 仙台市Jazz Me Blues Nolaにおいて、「無伴奏ヴァイヲリンと朗読「智恵子抄」」の公演が行われました。ヴァイオリン・佐藤実治氏、朗読・荒井真澄さんでした。

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5月25日(月) 幻戯書房から奥田万里氏著『大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣』が刊行されました。「パンの会」会場にもなったメイゾン鴻乃巣店主・奥田駒蔵評伝。随所で光太郎に触れています。

5月25日(月)~8月16日(日) 武蔵野美術大学美術館に於いて「近代日本彫刻展 −A Study of Modern Japanese Sculpture−」が開催されました。1月~4月、英国ヘンリー・ムーア・インスティテュートにて開催されたものの日本巡回。日本展では、木彫「白文鳥」、東京国立近代美術館及び台東区朝倉彫塑館所蔵の、二種類のブロンズ彫刻「手」(ともに光太郎自身が台座を木彫で制作したもの)が展示されました。ブロンズ部分を取り外して撮影された珍しい写真を含む図録が刊行されました。

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5月27日(水)~31日(日) 千葉県流山市の生涯学習センターで「後閑寅雄喜寿チャリティ書画展」が開催されました。「参考借用陳列敬仰作品」に、明治末と推定できる光太郎の未知の短歌が記された短冊(神田玉川堂さんの所蔵)が出品されました。

5月31日(日) NHKEテレで「日曜美術館 一刀に命を込める 高村光雲が生きた道」が放映されました。再放送、6月7日(日)。

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6月6日(土) 福島二本松市の智恵子生家で、智恵子の部屋を含む通常非公開の2階部分限定公開が始まりました。8月23日(日)まで、10・11月と平成28年2月の土日祝日に実施されました。

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6月9日(火) 静岡沼津の地方紙『沼津朝日』に「沼津に足跡残す高村智恵子 ゆかりの大熊家の所在知りませんか 智恵子が描いた一枚の絵 エッセイストがモデルの木を探す」という記事が掲載されました。坂本富江さんによる沼津での大正年間の智恵子足跡調査を報じています。



6月16日(火) 『朝日新聞』の東北版に「戦争協力、自ら罰した光太郎」と題する記事が掲載されました。同紙北上支局長・石井力氏の執筆でした。

6月17日(水)~21日(日) 東京芸術劇場ギャラリー1に於いて、「心のアート展 創る・観る・感じる パッション――受苦・情念との稀有な出逢い」が開催されました。東京精神科病院協会主催。智恵子の紙絵(複製)、書簡類などの関連資料が展示されました。図録には北川太一先生の「智恵子の場合」が収められました。

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7月1日(水) 青森県十和田市の広報紙『広報とわだ』に「特集 十和田湖再発見」が組まれ、「十和田湖畔の裸婦像(通称・乙女の像)」について詳しく紹介されました。

7月7日(火) 虹の会より文芸同人誌『虹』第6号が刊行されました。豊岡史朗氏「〈高村光太郎論〉晩年」が収められました。

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7月26日(日) 仙台に本社を置く東北の地方紙『河北新報』に「戦災の記憶を歩く 戦後70年 ⑧高村山荘(花巻市) 戦意高揚に自責の念」という記事が掲載されました。

7月29日(水) 十和田湖畔の観光交流センターぷらっとにおいて、「「乙女の像」でつながる花巻市太田地区のみなさんと十和田湖関係者との交流会」が開催されました。十和田市と花巻市が友好都市交流を行っている縁で、光太郎が戦後の七年間を暮らした旧太田村の太田地区振興会が十和田湖を訪問、十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会さんなどがこれを迎えました。

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7月30日(木) 晶文社から、森まゆみ氏著『「谷根千」地図で時間旅行』が刊行されました。古地図や絵図などを読み解くことで、光太郎ら千駄木周辺で生きた人々の息遣いをたどるというコンセプトでした。
 同日、文芸同人誌『青い花』第四次81号が発行されました。宮尾壽里子氏「「第59回連翹忌」に参加して」を収めています。

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8月3日(月) BSフジで「発掘!歴史に秘めた恋物語〜高村光太郎と智恵子〜決して女神でない」が放映されました。ゲストコメンテーターは、詩人・郷原宏氏、女優・石田えりさん。北川太一先生、智恵子の里レモン会副会長・根本豊徳氏らがビデオ出演しました。

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8月7日(金) 紅書房から星野晃一編『多田不二来簡集』が刊行されました。詩人・多田不二のもとに寄せられた、光太郎からの5通を含む各界著名人194名からの書簡集です。

8月9日(日) 宮城県女川町きぼうのかね商店街で、第24回女川光太郎祭が開催されました。町内外の人々による朗読、当方による記念講演、北川太一先生の講話などが行われました。

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8月18日(火)~31日(月) 千葉県勝浦市芸術文化交流センター・キュステにおいて、第39回千葉県移動美術館「高村光太郎と房総の海」が開催され、千葉県立美術館所蔵の光太郎ブロンズ6点が展示されました。

8月19日(水) 『東京新聞』の千葉中央版に「〈九十九里の赤とんぼ 千葉の戦後70年〉智恵子が愛した砂浜 句に込めた平和への思い」が掲載されました。

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8月24日(月)~10月30日(金) ノエビア銀座ギャラリーにて、銅版画家山本容子さんの「山本容子のアーティスト図鑑」展が開催されました。雑誌『本の話』(文藝春秋)の表紙画として作成されたアーティストの肖像画32点が並び、光太郎と智恵子のそれも展示されました。

8月28日(金) 書肆心水から『異貌の日本近代思想1』が刊行されました。「高村光太郎……美と生命/日本美の源泉」を含みます。


明日は最終回的に、9月から12月篇をお届けします。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月30日

平成9年(1997)の今日、元花巻高村記念会事務局長、浅沼政規が交通事故で歿しました。

浅沼は宮澤賢治の教え子で、戦後、光太郎がいた頃の太田小学校山口分教場(のち山口小学校に昇格・下記参照)の校長先生でした。その分教場を光太郎は「風の又三郎の舞台のよう」と言っていました。氏には『高村光太郎先生を偲ぶ』(平成7年=1995 ひまわり社)などの貴重な光太郎回想があります。

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ご子息の隆氏は今も山荘近くにお住まいで、花巻の財団法人高村記念会理事として、毎年5月15日の高村祭開催に尽力されています。

回顧2015年(9~12月)。

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一昨日からの続きで、今年あった光太郎智恵子、光雲をめぐる主な出来事を振り返ります。今日は9月から12月。

書籍等の刊行日は、奥付記載の日付を採りました。実際に店頭に並んだ日とずれている場合があります。


9月2日(水) 名古屋市のメニコンアネックスにおいて、舞踊公演「智恵子抄~故郷 福島への想い~ パート1  あわい 愛~」が開催されました。10月5日(月)、「智恵子抄~故郷 福島への想い~ パート2  あわい 淡~」が追加公演されました。

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9月5日(土) 岐阜県関市中池公園内旧徳山村民家において、語り人あきと弦術師aokiによるユニット梅弦が「梅弦ワンマンコンサート」を開催、「智恵子抄」の朗読を行いました。
 同日、二本松市の現代詩研究会から文芸同人誌『現代詩研究 第75号』が発行されました。智恵子のまち夢くらぶ会長・熊谷健一氏の「「高村光太郎留学の地芸術の都パリ研修」報告」が収められました。
 さらにこの日、元女優の原節子さんが老衰のため死去しました。95歳。昭和32年、東宝映画「智恵子抄」(熊谷久虎監督)で智恵子役を演じました。

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9月8日(火) 女優の宝生あやこさんが老衰で死去、97歳。昭和42年、松竹制作の映画『智恵子抄』で智恵子の母、長沼センを演じました。

9月12日(土) 筑波大学東京キャンパス文京校舎において、国際シンポジウム「書の資料学~故宮から」が開催されました。第3部・討議で矢野千載氏(盛岡大学教授)による「高村光太郎書「雨ニモマケズ」詩碑に見られる原文および碑銘稿との相違について」の提言がありました。

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9月13日(日) 山形市中央公民館多目的ホールにおいて、「山形大学特別プロジェクト いま、言葉を東北の灯(ともしび)に 第8回山形大学高校生朗読コンクール 」が開催されました。課題は「智恵子抄」でした。

9月18日(金)~22日(火) 福島県いわき市のワタナベ時計店特設ギャラリー「ナオ ナカムラ」において、「毒山凡太朗+キュンチョメ展覧会今日も きこえる」 が開催されました。共に映像作品を主とする現代アート作家で、東日本大震災に伴う福島第一原発の事故を、光太郎詩「あどけない話」にからめたメッセージ性溢れるものでした。

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9月18日(金)~12月20日(日) 栃木県佐野市の佐野東石美術館で、「木彫の美―高村光雲と近現代の彫刻―」展が開催され、光雲木彫「牧童」「狛犬」が展示されました。


9月19日(土) 晶文社から『吉本隆明全集10[1965‐1971]』が刊行されました。春秋社版『高村光太郎選集』の解題として書き継がれた光太郎論を収録しています。

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9月19日(土)~11月8日(日) 神奈川県平塚市美術館に於いて企画展「画家の詩、詩人の絵―絵は詩のごとく、詩は絵のごとく」が開催されました。光太郎油彩画「静物(瓶と果物)」「渡辺湖畔の娘道子像」が展示されました。

9月19日(土)~11月29日(日) 和歌山県高野山霊宝館において、光雲作の金剛峯寺秘仏本尊薬師如来像の頭部試作品が展示されました。

9月20日(日) 二本松市智恵子の生家近くの智恵子純愛通り石碑前で、智恵子純愛通り記念碑第7回建立祭が開催されました。地元小中高生による朗読等が行われました。

9月26日(土) FTV福島テレビで「いっしょに歩こう―ふくしま・わがまま!気まま!旅気分 愛か、お笑いか⁉初恋カップルIN福島~城下町・二本松の旅」が放映されました。出演、タレント・白鳥久美子さん他。智恵子生家等で撮影が行われました。10月3日、BSフジで全国放映されました。

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10月1日(木) NHK出版より『NHKテレビテキスト 趣味どきっ! 女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門』が刊行されました。11月放映の同名のテレビ番組テキスト。「智恵子、愛と死 自省の「道程」 高村光太郎×高村智恵子」が収められました。
 同日、無明舎出版から成田健著『「智恵子抄」をたどる』が刊行されました。地方紙『北鹿新聞』に連載されたものの単行本化です。

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10月2日(金) 光太郎詩に自作の曲を附けて歌うモンデンモモの東北ツアー「モンデンモモ日本を歌う!/モンデンモモ 智恵子抄を歌う!」が始まりました。2日(金)、秋田県鹿角市旧関善酒店特設ステージ、3日(土)、二本松市鐵扇屋酒蔵。これに合わせてCD「モンデンモモの智恵子抄」がリリースされました。

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10月3日(土) 『産経新聞』にコラム「日本の書〈37〉近代篇⑨高村光太郎「うつくしきものみつ」」が掲載されました。

10月4日(日) 二本松市らぽーとあだちにて、第21回レモン忌が開催されました。智恵子の里レモン会主催。特別講演は児童文学者・金田和枝さん。

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10月4日(日)~11月1日(日) 和歌山県の高野山金剛峯寺で、 金堂御本尊の秋の特別開帳が行われました。春に続き、秘仏である光雲作の薬師如来坐像の特別公開がありました。

10月9日(金) 京都外国語大学国際交流会館において、「日本ソロー学会創立50周年記念2015年度全国大会」が開催されました。記念シンポジウムで立正大学教授・齊藤昇氏「ソロー・野澤一・高村光太郎」の発表がありました。

10月9日(金)~11月10日(火) 光太郎の実妹・しづの孫にあたる山端通和夫妻が経営する鎌倉市の笛ギャラリーで「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情 その四」が開催されました。光太郎書作品、書簡等が展示されました。

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10月9日(金) 平成28年2月22日(月)迄の予定で、花巻高村光太郎記念館の企画展示「高村光太郎山居七年」(後期)が始まりました。太田村時代の光太郎の書、遺品等の展示です。

10月10日(土) 青幻社から『画家の詩、詩人の絵 絵は詩のごとく、詩は絵のごとく』が刊行されました。平塚市美術館他で開催された同名の企画展の図録を兼ねています。

10月11日(日) 名古屋市のドルチェ・アートホールNagoyaで「作曲野村朗・フルート吉川久子 智恵子抄の世界を遊ぶ ~その愛と死と~」が開催されました。

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10月12日(月) 二本松市市民交流センターで、智恵子のまち夢くらぶ主催の「智恵子講座'15」が始まりました。第1回は智恵子の里レモン会会長・渡辺秀雄氏「長沼家の家族とふるさと二本松」。

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10月14日(水) 秋田公立美術大学サテライトセンターで、公開講座【明治の彫刻と工芸性】が開催されました。光雲に触れました。講師は同大教授・志邨匠子氏でした。

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10月17日(土) 文治堂書店から、北川太一先生著『いのちふしぎ ひと・ほん・ほか』が刊行されました。著者自選の随想集。随所で光太郎に触れています。

10月17日(土) 神奈川県立近代美術館鎌倉館で「鎌倉からはじまった 1951-2016 PART 3:1951-1965 「鎌倉近代美術館」誕生」がはじまりました。平成28年1月31日(日)まで。同館閉鎖に伴う最後の企画展で、光太郎ブロンズ「裸婦坐像」、油彩画「上高地風景」が展示されました。

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10月23日(金) 講談社から清家雪子さん著の漫画『月に吠えらんねえ』第4巻が刊行されました。「第十七話 あどけない話」が収められました。

10月24日(土)~12月23日(水) 秋田県横手市の雄物川郷土資料館で、第3回特別展「横手ゆかりの文人展 大正・昭和初期編~あの人はこんな字を書いていました~」が開催され、同市出身の画商・旭谷正治郎に宛てた全集等未収録の光太郎書簡が展示されました。

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10月24日(土) 平成28年3月13日(日)迄の予定で、埼玉県加須市のサトヱ記念21世紀美術館において、「生誕130年記念 斎藤与里展~巨匠が追い求めた永遠なる理想郷~」が始まりました。光太郎の戯画が描かれた与里書簡など、ヒユウザン会展関連の資料も多数展示されました。

10月27日(火) 平成28年2月15日(月)迄の予定で、盛岡市の盛岡てがみ館で第48回企画展「宮沢賢治を愛した人々」が開催され、同館所蔵の光太郎書簡5通が展示されました。

10月29日(木)・30日(金) 神戸アートビレッジセンター KAVCホールにおいて、舞踊「Tubular Bells」の公演が行われました。「智恵子抄」をイメージし、智恵子と彼女の幻影を対比的に描かれました。

10月29日(木)~31日(土) 世田谷区「劇」小劇場で、「J-Theater日本人作家シリーズ ドナルカ・パッカーン第一回公演2015年秋 「暗愚小伝」」が開催されました。作・平田オリザ氏。

11月2日(月) 女優の加藤治子さんが心不全のため死去しました。92歳。昭和37年、文化放送からオンエアされたラジオドラマ「智恵子抄」で、智恵子役を演じました。

11月3日(火) NHKEテレで、「趣味どきっ! 女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門」の第五回「高村光太郎×高村智恵子」が放映されました。ナビゲーター、書家・石川九楊氏、女優・羽田美智子さん。再放送、11月5日(木)、11月10日(火)。

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イメージ 2611月14日(土) 十和田市主催で、友好都市花巻を訪れる「花巻探訪ツアー」が開催され、十和田市民が花巻高村光太郎記念館、高村山荘などを訪れました。
 同日、東京美術学校西洋画科で光太郎と同級生だった画家・藤田嗣治を描いた映画「FOUJITA」が封切られました。小栗康平氏監督、オダギリジョーさん主演。光太郎詩「雨にうたるるカテドラル」が劇中で使用されました。

11月15日(日) 二本松市の福島県男女共生センターで、智恵子のまち夢くらぶ主催の「智恵子講座'15」の第2回が開催されました。講師は福島県中国交流史学会長、元福島女子高教頭・小島喜一氏、題は「油井小学校と福島高等女学校の先生達」。

11月17日(火)~12月20日(水) 愛知県碧南市藤井達吉現代美術館で、企画展「画家の詩、詩人の絵―絵は詩のごとく、詩は絵のごとく」が開催されました。9月~11月の平塚市美術館に続いての巡回で、平塚で展示された2点に加え、光太郎油彩画「日光晩秋」も展示されました。
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11月21日(土) 文京区アカデミー音羽で第60回高村光太郎研究会が開催されました。発表は佛教大学総合研究所特別研究員・田所弘基氏「高村光太郎の戦争詩――『詩歌翼賛』を中心に――」、高村光太郎研究会員・西浦基氏「「画家アンリ・マティス」高村光太郎訳」。

12月11日(金)~13日(日) 大阪市ABCホールに於いて、劇団レトルト内閣 第24回本公演「まことに神の造りしをんな―智恵子抄―」が公演されました。作・三名刺繍氏。

12月20日(日) 二本松市の福島県男女共生センターで、智恵子のまち夢くらぶ主催の「智恵子講座'15」の第3、4回が開催されました。題はそれぞれ「松井昇と太平洋画会研究所」(講師、太平洋美術会員・坂本富江さん)、「成瀬仁蔵と日本女子大学校」(講師、当方)でした。

12月24日(木) 浪曲師の国本武春さんが亡くなりました。55歳。NHK Eテレで放映中の「にほんごであそぼ」で、「うなりやベベン」として、たびたび光太郎詩に曲をつけた作品を披露なさいました。


というわけで、今年一年、実にいろいろなことがありました。いろいろな方が、いろいろな分野で光太郎智恵子、光雲を取り上げて下さり、ありがとうございました。

来年以降も引き続き、この世界がもっともっと広がっていくことを願ってやみません。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月31日

昭和39年(1964)の今日、東京宝塚劇場で開催された「第15回NHK紅白歌合戦」で、二代目コロムビア・ローズさんが「智恵子抄」(作詞・丘灯至夫、作曲・三塚博)を歌いました。

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二代目コロムビア・ローズさん。昭和37年に「白ばら紅ばら」でデビュー、「智恵子抄」でブレイクし、紅白歌合戦出場を果たしました。当時は紅白に出る、というのは大変なことでした。現在は米国・ロサンゼルスにお住まいで、時折日本に帰ってきてテレビ出演等をされています。

今年3月には、「コロムビア・ローズ三代そろい踏みということで、中野サンプラザで開かれたコンサート「コロムビア大行進2015」で、初代、三代目のコロムビア・ローズさんと共演なさいました。

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さて、このブログ、一昨年は【今日は何の日・光太郎】、昨年は【今日は何の日・光太郎 補遺】、そして今年は【今日は何の日・光太郎 拾遺】ということで、まる3年間、光太郎・智恵子・光雲に関し、「その日」にあった出来事を紹介して参りました。

どうにもネタが見つからず、周辺人物の話になったり、日常の些細な出来事を取り上げたりもしましたが、365日×3年間=1,095件をご紹介する事ができました。

さすがにこれ以上は無理です。来年以降は別の方向性で行きますので、お楽しみに。

新年あけましておめでとうございます。

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改めまして、新年明けましておめでとうございます。今年も高村光太郎・智恵子、光雲の世界を広めるため、さまざまな情報をご提供して参りますので、よろしくお願いいたします。


それ以外の部分では、昨年までの3年間、毎日、【今日は何の日・光太郎】シリーズで、その日にあった光太郎智恵子、光雲関連の出来事をご紹介していました。さすがに3年間でネタが苦しくなりましたので、今年は方向性を変えます。

というわけで、早速。

【折々の歌と句・光太郎】

年ごとに年はむかへつたぐひなき今年の年のいよよまさきく
昭和22年(1947) 光太郎65歳

彫刻家、そして詩人として名高い光太郎ですが、その生涯に数多くの短歌や俳句なども残しています。そこで、かつて『朝日新聞』さんに詩人の大岡信氏が約30年連載した「折々のうた」(第1回が光太郎の短歌でした)に倣い、一日一首・句ずつ、折々の光太郎作品を取り上げていく予定です。

さて、昭和22年(1947)、光太郎は花巻郊外太田村の山小屋で、2度目の新年を迎えました。移住当初は本阿弥光悦へのリスペクトから「昭和の鷹ケ峯」を作る、といった無邪気な夢想とも云える考えでしたが、山林孤棲、独居自炊の生活の中で、自らの戦争責任を省察する毎日を送るうちに、ある意味ストイックな修行僧のような暮らしへと、その意義が変容していきました。

そうした中で生まれたこの一首。「まさきく」は「真幸く」。「幸せに」の意の副詞です。



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画像は当方の自宅兼事務所のある千葉県香取市、利根川河畔での初日の出です。

ほんとうに今年一年が「まさきく」あってほしいものです。


作品の表記は筑摩書房『高村光太郎全集』、そこに未収のものは当方編集の「光太郎遺珠」に従い、光太郎の年令は数え年で表記いたします。

岩手日報「風土計」/デーリー東北「天鐘」。

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地方紙の一面コラムから。

まずは昨日の『岩手日報』さん。 

風土計 2016.1.1

「老猿」は明治大正期の木彫家高村光雲の代表作。力と威厳に満ちた姿が真に迫る。著書「幕末維新懐古談」にある制作秘話は含蓄がある
▼白猿を彫るため光雲は純白のトチノキを求め栃木の山村へ。山猿のような老人から良材を3円で買うが、問題は東京への運搬。結局、運賃など200円も掛かった。いよいよノミを入れたら純白どころか茶褐色。そこで、野育ちの猿を彫ることに
▼こうして傑作は生まれた。自然を生かし、生かされてこそ真実に到達する。長男光太郎は詩「道程」で「僕を一人立ちにさせた広大な父よ」とうたうが、父とは光雲であり、自然という大いなる父でもあることだろう
▼彫刻家、詩人として名をはせた光太郎。太平洋戦争末期、空襲で東京のアトリエを失い、花巻に疎開した。玉音放送、一億号泣、そして山小屋での独居自炊生活へ。そこには戦時中、戦意を鼓舞する詩をつくったことへの深い悔恨の念があった
▼深い雪に閉ざされた冬の山小屋で独り、自らの内面を見つめ、戦争責任に向き合い続ける日々。厳しくも豊かな岩手の自然に包まれた7年もの歳月を経て、芸術家として再出発した
▼2016年が始まった。後ろには戦後70年の道。だが、私たちの前に道はない。清らかな岩手の自然のただ中に立ち、確かな一歩を踏み出したい。


続いて青森の地方紙『デーリー東北』さん。こちらは昨年暮れに掲載されたものです。 

天鐘(12月29日)

 高村光太郎は昭和28年、完成させた十和田湖畔の裸像に寄せて「銅とスズの合金が立っている。どんな造形が行はれようと(略)はらわたや粘液や脂や汗や生きもののきたならしさはここにない」という一編の詩を綴(つづ)った
▼亡き妻智恵子そっくりの「乙女の像」に自身の魂を吹き込んだのであろう。無機質の造形には穢(けが)れがなく、自然と堂々調和して永遠に残ってほしいとの願いを込めた
▼同じブロンズだがソウルの日本大使館前にある「少女像」は慰安婦を象徴したものだという。4年前、市民団体が設置し始め、今では韓国内に10数体、米国にも2体ある
▼碑文には慰安婦を「性的奴隷」と英訳。日本政府に「慰安婦問題の障害」とまで言わしめた象徴である。穢れなき無機質の造形のはずが両国を分かつ高い障壁となり、反日感情を扇動する動力源となってきた
▼28日の日韓外相会談で日本が反省し、新設する財団に資金拠出することで50年来の懸案が氷解することになった。日韓に刺さった棘(とげ)のため日米韓の連携も長く機能不全に陥っていたが、やっと足並みが揃(そろ)いそうだ
▼だが政府間は合意しても反日感情は沈静化するのか。鍵を握る少女像は拳を握り締め口を閉ざしたままだ。像に罪はないが韓国内に「日韓が背を向けたのは像のせい」との批判も出ているとか。脂や汗を洗い流し、早く少女らしい明るい笑顔を取り戻してほしいものだ。


昨年は戦後70年ということで、いろいろと検証が為されました。しかし、まだまだ充分とは云えません。逆に戦前のような世の中に戻そうという輩も横行。今こそ光太郎の精神に学びたいものですね。


【折々の歌と句・光太郎】

初夢の棄てどころ無し島のうち
大正末期 光太郎44歳頃

「歌と句」ということで、このコーナーでは俳句もご紹介します。

友人の作家・田村松魚に宛てた葉書の末尾に記された句です。消印が不鮮明で年月日は特定できませんが、葉書の様式や、多くの書簡を田村に送っていた時期から、大正末期と推定されます。

この時期の光太郎は、関東大震災(大正12年=1923)後に露わとなった社会の矛盾に対し憤りを感じ、プロレタリア文学者たちと近い立ち位置にいました。大正13年(1924)には、詩「清廉」を書き、外部社会への鋭い批判と生の決意を謳う「猛獣篇」の時代に入ります。

この句の書かれた葉書にも、以下の文言があります。

今のままで貧乏しながら行けるところまで行きませう。いよいよせつぱつまつたら ずつと遠い処へ旅立つばかり。僕のやうな性情のものが今日の世に生きてゐるのは時代錯誤と思ひます。

「島」は「日本」。この国に対する「棄てどころ」のない怒りが見て取れます。

ところで、初夢と言えば「一富士 二鷹 三なすび」。それにまつわるNHKさんのスペシャルドラマ「富士ファミリー」が今夜、オンエアされます。


富士山のふもとにある小さなコンビニ『富士ファミリー』には近所で評判の美人三姉妹がいた。長女の鷹子(薬師丸ひろ子)は、一家の大黒柱。自由奔放な次女・ナスミ(小泉今日子)は、東京から夫の日出男(吉岡秀隆)を連れて帰るとすぐに、病気で亡くなってしまう。三女の月美(ミムラ)は面倒な店の経営から逃げるため、さっさと嫁いでいた。
年の瀬もせまったある日、笑子バアさん(片桐はいり)の前に死んだはずのナスミが現れ、あるメモを見つけて欲しいと言う。ケーキ、懐中電灯、四葉のクローバー、光太郎……ナスミの文字でメモに残された脈絡もない7つの言葉。このメモをきっかけに騒動が巻き起こる…。

この「光太郎」が「高村光太郎」なのかどうか、わかりません。とりあえず今夜、視聴してみます。

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『男の隠れ家』 2016年2月号 「文豪の描いた世界へ 名作の舞台を往く」。

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雑誌新刊情報です。 
株式会社三栄書房 2015.12.26発売 特別定価730円

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特集「文豪の描いた世界へ 名作の舞台を往く」の中に、「高村光太郎『智恵子抄』を往く 智恵子生家(福島県・二本松市)」があります。


他のラインナップは以下の通り。

故郷への思いを捨てきれなかった「太宰治」 太宰治『津軽』を往く(青森県・津軽半島)
自身の体験を投影した「川端康成」の自伝的小説 川端康成『伊豆の踊子』を往く(静岡県・伊豆半島)
果てなき故郷への「島崎藤村」の眼差し 島崎藤村『夜明け前』を往く(岐阜県・馬籠宿)12人の子供たちへの「壺井栄」の想い 壺井栄『二十四の瞳』を往く(香川県・小豆島)
懸命に生きた若者の群像を描いた「司馬遼太郎」 司馬遼太郎『坂の上の雲』を往く(愛媛県・松山市)
作品を制作することへの「夏目漱石」の想い 夏目漱石『草枕』を往く(熊本県・熊本市~玉名市)

三島由紀夫『潮騒』を往く 神島(三重県・鳥羽市)
志賀直哉『城の崎にて』を往く 城崎温泉(兵庫県・豊岡市)
伊藤左千夫『野菊の墓』を往く 矢切(千葉県・松戸市)
三浦綾子『氷点』を往く 見本林(北海道・旭川市)
織田作之助『夫婦善哉』を往く 法善寺 夫婦善哉(大阪府・大阪市)

永井荷風が愛した浅草を食べ歩く 
雑司ヶ谷・染井霊園で文豪のお墓参り


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太宰から漱石までは扱いが大きく、各8頁。三島、志賀直哉が各1頁。光太郎を含め、伊藤左千夫から織田作之助までは各半頁。光太郎の扱いが小さいなとは思いますが、まあ、こういうこともあるでしょう。

智恵子の故郷・二本松の智恵子生家/智恵子記念館を取り上げて下さっています。

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それから、「雑司ヶ谷・染井霊園で文豪のお墓参り」の項で、染井霊園の高村家墓所が紹介されています。

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2月号の扱いですが、発売は昨年暮れ。現在も店頭に並んでいます。ぜひお買い求めを。


昨日のこのブログでご紹介した、NHKさんで放映された新春スペシャルドラマ「富士ファミリー」。劇中に「光太郎」が出て来ましたが、高村光太郎とは直接の関係はありませんでした……。すみません。

こちらは確実に高村光太郎・智恵子にからむドラマの放映です。 

浅見光彦シリーズ22首の女殺人事件~福島‐島根、高村光太郎が繋ぐ殺人ルート!智恵子抄に魅せられた男が想いを託した首の女の謎

BSフジ 2016年1月 6日(水)12:00~13:57

福島と島根で起こった二つの殺人事件。ルポライターの浅見光彦(中村俊介)と幼なじみの野沢光子(紫吹淳)は、事件の解決のため、高村光太郎の妻・智恵子が生まれた福島県岳温泉に向かう。
光子とお見合いをした劇団作家・宮田治夫(冨家規政)の死の謎は?宮田が戯曲「首の女」に託したメッセージとは?浅見光彦が事件の真相にせまる!!

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初回放送はもともとは平成18年(2006)。年に1~2回、再放送されています。岩手花巻の、現在は使用されていない、元の高村記念館(ただしドラマでは花巻という設定ではありませんが)、福島二本松の智恵子の生家・智恵子記念館などでロケが行われました。

ご覧になったことのない方、ぜひどうぞ。


【折々の歌と句・光太郎】

うつぶきてわれうなづかむえにしありそのかきぞめのこころを問ふな
明治34年(1901) 光太郎19歳

与謝野鉄幹・晶子夫妻の新詩社に出入りしていた頃の作品です。この頃の作には、鉄幹の添削がかなり入っているそうですし、内容的にも架空の恋を謳ったものなども多いのですが、とりあえず。

戦後、花巻郊外太田村の山小屋に移ってからの光太郎は、毎年1月2日に書き初めをする習慣があったことがはっきりしていますが、おそらく若い頃からそうだったのではないかとは思われます。

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花巻市情報誌『花日和』、「高村光太郎記念館をたずねて」。

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光太郎が晩年を過ごした岩手県花巻市の情報誌『花日和』。県外向けに発行しているPR誌です。時折、光太郎がらみの記事を載せて下さっています。

先月刊行されたそちらの2015年冬号に、「高村光太郎記念館をたずねて」という記事が掲載されています。

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平成27年4月28日にリニューアルオープンした高村光太郎記念館。常設展示室二室に企画展示室も新たに整備され、彫刻や書の展示、映像や詩の朗読などにより光太郎をわかりやすく紹介。平成28年2月22日までは、開館記念企画展「山居七年」を開催中。

以下はPDFファイルでご覧下さい。光太郎の生涯、花巻と光太郎との関わり、もちろん記念館の様子も詳しくレポートされています。

冊子になっている現物は、市のサイトによれば「首都圏のほか、市内では花巻市観光協会、花巻観光案内所などで配布しています。」とのことです。


【折々の歌と句・光太郎】

うたがるたひとつひとつによみて見てよせてそろへて憂き思あり
明治34年(1901) 光太郎19歳

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「うたがるた」は、正月の風物詩の一つ、百人一首ですね。華やかな札を見ながらも、「憂き思」。青年期のやるせない煩悶が表されています。

『日本経済新聞』 「生きる命 十選 掌編の試み (1)高村光雲「老猿」」丸山健二。

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昨日の『日本経済新聞』さんの紙面から。 

生きる命 十選 掌編の試み (1)高村光雲「老猿」

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作家の丸山健二氏が、「危機と緊張感に満ちた生をおのれの本能と才知のみで生きる命」を宿した美術品10種を選び、それぞれを評する連載です。「掌編」と謳っており、評と言うより、短編小説の趣さえあります。

第1回で、光雲作の「老猿」を取り上げて下さいました。「感情や本能の高い障壁を乗り越えてきた証としての、強い意志に支えられた心組み」を持ち、「深い孤独を背負ってはいても、しかし、鋭い眼光には啓発されること大なるものがあり」、「心魂の奥深くには、他者の心中を思いやる、門外不出の宝物を秘めている」と描写されます。

そのまま作者・高村光雲その人を評しているようにも感じられます。そして、そうした血脈は、長男・光太郎にも受け継がれているのではなかろうかとも思いました。

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左が光雲、右が光太郎。明治24年(1891)、光雲39歳、光太郎8歳のカットです。


さて、「老猿」。上野の東京国立博物館さんに収められていますが、残念ながら現在は展示されていません。同館では「博物館に初もうで」ということで、「えとの申の特集、そして松竹梅に鶴亀など、吉祥をテーマにした作品の数々」などを展示中ですが、「老猿」はラインナップに入っていません。なんだかもったいないような気がしますが、作品保護などの観点もあって、「あるから展示する」というわけにもいかないのでしょう。

一昨年昨年と、夏の時期に展示されていますので、今年もそうなるのかな、と思っています。

詳細が解りましたらまたお知らせいたします。
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【折々の歌と句・光太郎】

寒き日の自炊の水を運びけり
明治39年(1906) 光太郎24歳

画像は我が家の「老猿」ならぬ「老犬」です。つい先だって、12歳になりました。寒くなるとこの犬の水も凍るのですが、今シーズンはまだそうなっていません。

ここ数日、関東地方は記録的な暖かさでしたが、このあとは冬らしくなるそうです。

「第71回国民体育大会 希望郷いわて国体」「第16回全国障害者スポーツ大会 希望郷いわて大会」。

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岩手盛岡の地方紙『盛岡タイムス』さんの記事から。 

いわて国体 成功へ年頭の気勢 大会実行委事務局 開幕へ準備も追い込み

 希望郷いわて国体・大会の開催の今年に控えた希望郷いわて国体・大会実行委員会事務局は4日、仕事始めを迎えた。岩間隆事務局長が職員約100人に「高村光太郎の詩の一節を拝借すれば、『ついにその成すべきを成す』時がきた。2007年に国体開催の内々定を受け、今まで積み重ねてきたもの、携わってきた関係者、県民の方々の思いをしっかりと形にするという、集大成の年になる」と訓示した。

 岩間事務局長は「被災地で初めて開催する両大会。全国からの注目も非常に大きいものがあり、全国の方々にこれまでに頂いた支援にしっかりと感謝を示す。さらに、将来の岩手づくりのために大いなるきっかけとなる大会にしたい。オール岩手で引き続き準備を進めていきたい」と説いた。

  職員に対し「われわれの役割は大きく二つ。国体、大会の主役である選手の方々がこれまでの練習の成果をいかんなく発揮できるような大会運営に万全を期す。もう一方の主役である県民の方々が、国体・大会に参画する環境を整えること。ぜひ全体的な視点、広い視野を持って関係者の方々と連携を取りながら、自らの責任を果たしてもらいたい。皆さんの奮励努力を」と期待した。

  「岩手で開催してよかったと全国の方々、県内の方々、全ての方に思ってもらえるような大会にしたい。まずは冬季大会に全力を尽くし、その成功を弾みに本大会、障害者スポーツ大会に結び付けたい。全力で取り組もうう」と結び、全職員のガンバロー三唱で開催の意気を上げた。
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今年は岩手会場で、「第71回国民体育大会 希望郷いわて国体」「第16回全国障害者スポーツ大会 希望郷いわて大会」が開催されることを受けての記事です。国体の方は、早くも今月末からスキー、スケートなどの冬季大会が始まります。一般競技及び障害者大会の方は秋だそうです。

記事にもあるとおり、東日本大震災後、被災地で初めて開かれるそうで、その意味でも注目されますね。調べてみたところ、震災のあった平成23年(2011)は山口県会場。以後、岐阜、東京、長崎、和歌山と回って、今年の岩手です。

ちなみに震災の前年、平成22年(2010)は、当方自宅兼事務所のある千葉でした。当方、柔道有段者でして、当時中学生だった息子(こちらは今も柔道を続けています)と一緒に柔道競技を見に行きました。成年男子団体決勝は千葉対東京。1-1で迎えた大将戦、千葉県警の加藤博剛選手(90㌔級)が100㌔超級の立山選手(JRA)から小内巻き込みで技ありを奪って破り、優勝。感動しました。右はその時買ったストラップ。柔道着姿のチーバくん(千葉県のゆるキャラ)です。

さて、「高村光太郎の詩の一節を拝借すれば、『ついにその成すべきを成す』時がきた。」とありますが、こちらは昭和24年(1949)の元旦、『新岩手日報』に掲載された光太郎の詩「岩手の人」が元ネタです。
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   岩手の人 

岩手の人眼(まなこ)静かに、
鼻梁秀で、
おとがひ堅固に張りて、
口方形なり。
余もともと彫刻の技芸に游ぶ。
たまたま岩手の地に来り住して、
天の余に与ふるもの
斯の如き重厚の造型なるを喜ぶ。
岩手の人沈深牛の如し。
両角の間に天球をいただいて立つ
かの古代エジプトの石牛に似たり。
地を往きて走らず、
企てて草卒ならず、
つひにその成すべきを成す。
斧をふるつて巨木を削り、
この山間にありて作らんかな、
ニツポンの脊骨(せぼね)岩手の地に
未見の運命を担ふ牛の如き魂の造型を。


昨年、ラグビーワールドカップが一躍脚光を浴びましたが、同大会、2019年には日本で開催されます。岩手でも、釜石市が会場に選定され、それを報じた『岩手日報』さんの「論説」でもこの詩が取り上げられました

牛のように愚直(というと失礼かも知れませんが)で勤勉な県民性を活かし、国体系も、ラグビーW杯もともに成功に導いていただきたいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

こほり結ぶ霜もものかは父君の雪の旅路にいます思へば
明治32年(1899)頃 光太郎17歳頃

「ものかは」は「問題にならない、物の数ではない」の意。この頃の光太郎は、まだ孝行息子でした。父・光雲が雪国を旅していることを思えば、東京の寒さなど「ものかは」だ、というわけですね。

明治32年(1899)、光雲は古社寺保存会の命で福井、石川方面に出張に行った記録が残っています。

佐伯彰一氏訃報。

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一昨日、アメリカ文学者・文芸評論家の佐伯彰一氏のご逝去が報じられました。新聞各紙には昨日掲載されています。 

文芸評論家の佐伯彰一さん死去 「三島由イメージ 5紀夫全集」編集

 米文学者で、比較文学や伝記研究の手法を用いた評論で知られる文芸評論家の佐伯彰一(さえき・しょういち)さんが1日、肺炎のため亡くなった。93歳だった。葬儀は近親者で営まれた。
 富山県出身。東京大や中央大で教壇に立ち、アーネスト・ヘミングウェーやフラナリー・オコナーの翻訳を手がけた。80年に日本翻訳文化賞を受賞。同年「物語芸術論」で読売文学賞、86年、「自伝の世紀」で芸術選奨文部大臣賞を受けた。「三島由紀夫全集」の編集を担当し、三島由紀夫文学館や世田谷文学館の館長も務めた。
(『朝日新聞』 2016/01/05)
 

<訃報>佐伯彰一さん93歳=米文学者、文芸評論家

 国際的な視野をもつ批評で活躍した文芸評論家で米文学者、東京大名誉教授の佐伯彰一(さえき・しょういち)さんが1日、肺炎のため東京都内の病院で死去した。93歳。葬儀は近親者で営んだ。喪主は長男で東京工業大教授(米文学・米文化史)の泰樹(やすき)さん。
  1922年生まれ、富山県育ち。43年東京大英文科卒。米ミシガン大などで日本文学を講じた。ヘミングウェーやフォークナーらの研究・翻訳のほか、戦前、戦中に知識人の転向や挫折を見せつけられたのを原点に50年代から文芸評論に取り組んだ。68年から東京大、83年から中央大の教授を歴任した。
  三島由紀夫研究の第一人者としても知られ、新潮社刊行の全集(35巻・補巻1、76年完結)の編集を担当。95年に東京・世田谷文学館、99年には山梨県・三島由紀夫文学館のいずれも初代館長を務めた。谷崎潤一郎らが自己の資質を見いだす過程を追った「物語芸術論」で80年読売文学賞。他の著書に「日本人の自伝」(74年)、「評伝三島由紀夫」(78年)、「自伝の世紀」(85年)など多数。保守系の論客としても知られた。
  評論家の業績で82年日本芸術院賞。88年日本芸術院会員。99年に正論大賞(特別賞)。
(『毎日新聞』2016/01/05)


当方、佐伯氏のご著書を一冊持っております。

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昭和59年(1984)、文藝春秋社さんから刊行された『日米関係の中の文学』。当時の日米貿易摩擦を背景にしています。初出は同社刊行の雑誌『文學界』への連載でした。

全13章のうちの第8章にあたる「ジャップの「憤り」」で、光太郎のアメリカ留学をメインに扱っています。改めて読み返してみました。

光太郎は明治39年(1906)、数え24歳で欧米留学に出ます。2月末、最初の目的地であるニューヨークに到着。翌年6月にホワイトスターラインの豪華客船・オーシャニックでロンドンに向けて船出するまでをアメリカで過ごしました。私費留学のため、自分で金を稼がねばならず、彫刻家ガットソン・ボーグラムの通勤助手として働いたりもしました。後にボーグラムは現代でもアメリカの観光案内などによく写真が使われる、マウント・ラッシュモアの巨大彫刻を手がける彫刻家です。しかし、ボーグラムの元で働いたのは4ヶ月ほど。あとはどのようにして収入を得ていたのか、よくわかりません。日本から持っていった2,000円を小出しにして使っていたのでしょうか。倹約のため、窓のない屋根裏部屋に下宿をしたりもしました。

10月から翌年5月までは、ボーグラムが講師を務めていたアート・スチューデント・リーグの夜学に通い、特待生の資格を得、その賞金をボーグラムの好意によって現金で受けとり、イギリスへと旅立ちます。ほぼ時を同じくして、父・光雲の奔走で農商務省の海外実業練習生に任ぜられ、月々の手当が支給されるようにもなりました。

さて、佐伯氏の論考。滞米中の体験を基にした詩「象の銀行」(大正15年=1926)、「白熊」(同14年=1925)を中心に、光太郎の内面を分析しようとする試みです。どちらの詩も、滞米時から20年ほど経ってからの作品であること、これらを含む連作詩「猛獣篇」の問題、この後展開されて行く翼賛詩の濫発、そして戦後の花巻郊外太田村での隠遁生活などに触れられます。さらには比較文学論的に、やはり滞米経験のある永井荷風や有島武郎、岡倉天心などとのからみ、当時のアメリカの世相などにも論が及びます。それぞれ周辺人物の遺した手記などにも材を取り、非常に示唆に富んだ論考でした。もちろん、滞米時の光太郎のエピソードもふんだんに紹介されています。柔道技で米国人学生をたたきのめしたことなど。
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ちなみに氏は、戦時中に光太郎の講演を生で聴かれたこともあるそうです。

経歴でわかるとおり、氏は右寄りの立ち位置にいらした方です。しかし、氏は光太郎の翼賛詩を良しとしません。そのあたりは現今のレイシストどもとの大きな相違ですね。

また、氏は90年代に日本図書センターさんから刊行されていた「作家の自伝」シリーズ第一期の監修にも携わっていらっしゃいました。この中には『高村光太郎 暗愚小伝/青春の日/山の人々』もラインナップに入っています。年譜及び解説は、当会顧問・北川太一先生でした。

謹んでご冥福をお祈りいたします。


【折々の歌と句・光太郎】

摘みてこし川上とほくみかへりてふたり指さす春の山うすき
                                        明治34年(1901) 光太郎19歳

河原か堤防か、川上から川下へ、おそらく七草摘みでしょう。ふと振り返ると、その先に見える山は、まだ春は名のみのたたずまい……。いいですね。

当方、野草にはあまり詳しくありませんが、こちらは春の七草の一つ、ゴギョウだと思います。自宅兼事務所の庭のプランターに勝手に生えています。

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また、犬の散歩コースでは、三が日には記録的な暖かさで、これも七草の一つ、ホトケノザが既に花をつけていました。

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雪国の皆様には申し訳ないような気持ちです。

原節子さん「智恵子抄」上映。

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昨秋、ご逝去された原節子さん。追悼特集的な取り組みがいろいろと行われています。

そうした中で、昭和32年(1957)、原さんが智恵子役を演じた熊谷久虎監督による東宝映画「智恵子抄」の上映があります。2件、情報を得ています。
 
池袋新文芸坐 東京都豊島区東池袋1-43-5 マルハン池袋ビル3F


◆一般1300円 ◆学生1200円 ◆友の会1050円 ◆シニア・障がい者・小学生以下(3歳以上)1050円
◆ラスト1本850円

1/17(日) 東京暮色(1957/松竹/140分)/18:00東京物語(1953/松竹/136分)
18(月)   美しき母(1955/東宝/98分)/巨人傳(1938/東宝/127分)
19(火)   安城家の舞踏会(1947/松竹/89分)/誘惑(1948/松竹/85分)
20(水)   青い山脈(1949/東宝/91分)/続・青い山脈(1949/東宝/91分)
21(木)   白雪先生と子供たち(1952/KADOKAWA/89分)/白痴(1951/松竹/167分)
22(金)   河内山宗俊(1936/日活/82分)/新しき土〈日独版〉(1937/T&Kテレフィルム/106分)
23(土)   山の音(1954/東宝/95分)/めし(1951/東宝/97分)
24(日)   小早川家の秋(1961/東宝/103分)/秋日和(1960/松竹/129分)
25(月)  路傍の石(1960/東宝/104分)/智惠子抄(1957/東宝/98分)9:40/13:25/17:10/20:55終映22:35
26(火)   慕情の人(1961/東宝/96分)/愛情の決算(1956/東宝/112分)
27(水)   女ごころ(1959/東宝/95分)/(1958/東宝/101分)
28(木)   大番(1957/東宝/117分)/ふんどし医者(1960/東宝/115分)
29(金)   娘・妻・母(1960/東宝/123分)/驟雨(1956/東宝/90分)
30(土)   晩春(1949/松竹/108分)/麦秋(1951/松竹/126分)

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日本映画傑作選

川崎市市民ミュージアム 神奈川県川崎市中原区等々力1-2(等々力緑地内)

2016年01月26日 10:30-/14:00

「智恵子抄」 原作:高村光太郎 監督:熊谷久虎  昭和32年 モノクロ

入場無料



他にも上映の情報がありましたら、こちらまでご教示いただければ幸いです。


【折々の歌と句・光太郎】

はこべらを朝のさ粥に摘みいれてわが初春の乏しともなし
制作時期不詳

「はこべら」は「はこべ」。春の七草の一つですね。七草すべてとはいかなくとも、みずみずしいはこべを摘み入れれば、お粥もプチ贅沢になり、自分の生活も決して悲観するほどひどくはないよ、というところでしょうか。

いつ作られた歌か不明ですが、昭和23年(1948)に刊行された歌集『白斧』に収録されています。おそらくその頃の、花巻郊外太田村に移ってからの作品ではないでしょうか。

週刊朝日増刊 昭和の美神 原節子去りぬ。

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昨日のこのブログでは、原節子さん主演の東宝映画「智恵子抄」(昭和32年=1957)の上映情報を書きました。

同様に追悼的な内容の雑誌、ムック等がいろいろ刊行されていますが、その中から一つ。
 

週刊朝日増刊 昭和の美神 原節子去りぬ

2015/12/20 朝日新聞出版 定価780円

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目次

秋山庄太郎 写真館 永遠の恋人 銀幕スター原節子 千葉伸夫 (映画評論家)「永遠の処女 原節子の輝き」
「新人女優、原節子」 貴田庄 (ノンフィクション作家)
節子の休日 本誌オリジナル秘蔵写真 再録・あなたはどう答えますか?
原節子を観る 映画ベスト20 植草信和
評伝「沈黙のまま表舞台を去った」 朝日新聞・ 石飛徳樹 編集委員
横尾忠則(美術家)寄稿 「原節子 物質世界を超えた魂の美」
四方田犬彦 (映画史・比較文学研究家) 寄稿「不死の人、原節子」
さよなら節子さん
 岡田茉莉子 宝田 明 有馬稲子 香川京子 松島トモ子 佐藤忠男 大林宣彦 司 葉子
             山田洋次 仲代達矢 川又 昂
原節子を知る book list
「買い出し女優とピカピカの民主主義」 宮本治雄 (編集者)
原節子をたどる 生涯&全出演作リスト
評伝 「会田昌江と原節子」 河谷史夫
彼女は何を語り、どう書かれたか 朝日新聞記事で振り返る原節子


元『キネマ旬報』編集長の植草信和氏による「原節子を観る 映画ベスト20」という項で、東宝映画「智恵子抄」が紹介されています。使われているスチールは、二本松霞ヶ城でのカットです。背後には「ほんとの空」と安達太良山。

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原さんの出演作品の中では、「智恵子抄」は高い評価を得ているとは言い難い作品ですが、原作の知名度的な部分と、3本しかない熊谷久虎作品のうちの一つ、といった観点からランクインしているように思われます。

ちなみに同じ年に制作された小津安二郎監督・松竹配給で「東京暮色」では有馬稲子さんが妹役でした。こちらは比較的高い評価を得ています。


ところで「智恵子抄」。かなり前にVHSテープで販売されました。「日本映画傑作全集」というラインナップでした。

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しかし、DVD、ブルーレイ等でのデジタル化はされていません。この際、「原節子コンプリート」的な企画でボックス化していただきたいものです。ただ、そうなると、「分売不可」というケースもあり、悩みどころですが……。


【折々の歌と句・光太郎】

雪の朝高楼に朱簾まくは誰           明治32年(1899)頃 光太郎17歳頃

「すだれ」を単に「簾」とせず、「朱簾」としているところが肝ですね。白妙の雪と朱色の簾とのコントラストが絶妙です。

同時に、それを巻く「誰」かも、否応なしに原節子さんのような美女を想像させられます。これがいかつい男では絵にも何にもなりません。「朱」一文字でそれをやってのける弱冠数え17歳の文才には脱帽です。

北川太一先生を囲む新年会。

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昨日は、東京本郷にて、当会顧問にして光太郎研究の第一人者・北川太一先生を囲む新年会に参加させていただきました。

主催は北川先生が高校の先生をなさっていた頃の教え子の皆さんである北斗会さん、会場は東大正門前のフォーレスト本郷さん。北斗会さんが北川先生がらみの会をもたれる時は、いつもこちらです。

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おいしい料理を戴きながら、歓談のひととき。

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皆さん、戦後すぐの頃の教え子の方々ですので、70代、80代という方々が中心です。ご卒業後、数十年経ってもこうして先生のために集まられるというのが素晴らしいところです。北川先生ご自身は、今年91歳になられます。

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この会に参加すると、先生からは年賀状が届かず、この会で渡されます。

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視よ聴け喋れ さるのとし 反三猿老人

最初のご挨拶の中で、ご解説がありました。「戦前のような時代に戻りつつある今、さらに国際的にも激動の時代、「見ざる聞かざる言わざる」では駄目で、こういう時代こそ、しっかりと視て聴いて喋ることが大事なのだ」というメッセージだそうです。その通りですね。終戦時には予科練生を率いる四国の部隊の下士官で、明日をも知れぬ毎日を送られたというご経験から絞り出されるお言葉は、重みが違います。

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さらに、昨年、先生のご著書『ヒュウザン会前後―光太郎伝試稿―』『いのちふしぎ ひと・ほん・ほか』を刊行された文治堂書店さんのPR誌、『トンボ』をいただきました。

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巻頭言が北川先生の手になります。

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こちらは版元の文治堂さんから戴いた年賀状。近刊予告が出ています。

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夏にはまた北川先生のご著書を刊行予定だそうで、今から楽しみです。

いつまでもこの会が続くことを願ってやみません。


【折々の歌と句・光太郎】

門人ら我ら相寄り先生の齢(よはひ)と言へる不可思議を見る
大正12年(1923) 光太郎41歳

〔与謝野寛五十歳の賀に〕の詞書きがあります。4月1日発行の第二次『明星』第3巻第4号に掲載されました。

この年の鉄幹の誕生日である2月26日、帝国ホテルの大広間で百余名が集っての祝賀晩餐会が開催され、発起人一同を代表して光太郎が祝辞を述べました。

光太郎が鉄幹の新詩社に出入りし始めたのは明治33年(1900)。何十年経っても、ともに青年だったその頃の印象が強く、「先生の齢(よはひ)と言へる不可思議」なのでしょう。

70代、80代の北斗会の皆さんも、90歳の北川先生を前に、こういう感覚なのではないでしょうか。

台東区立朝倉彫塑館/いわて銀河プラザ。

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一昨日、東京本郷で、当会顧問にして光太郎研究の第一人者・北川太一先生を囲む新年会に参加していまいりました。

この会には、早めに自宅兼事務所を出、そう遠くない場所にある、光太郎智恵子にからむ施設を訪れてから参加することにしています。一昨年は太平洋画会での智恵子の師・中村不折を紹介する台東区立書道博物館さん、昨年は、光太郎彫刻「黒田清輝胸像」が出迎えてくれる東京国立博物館黒田記念館さん。

今年は光太郎と同時代の彫刻家・朝倉文夫の旧居を改装して作られた、台東区立朝倉彫塑館さんに足を運びました。

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朝倉は光太郎と同じ明治16年(1883)、大分県の生まれ。やはり東京美術学校彫刻科出身(学年はずれていますが)です。国指定の重要文化財「墓守」や、たくさん作った猫の彫刻で有名です。

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留学の経験はなく、長沼守敬などから続く穏健な作風を継承し、光太郎や荻原守衛などのロダニズムとは一線を画しています。彫刻家として独り立ちしてからは、文展などのアカデミズム系を活躍の場としていました。そのため、光太郎はその作を余り高く評価していません。新聞等に発表した文展などの観覧記では、酷評を与えています。

当方、朝倉の作品をまとめて観るのは初めてでしたが、これはこれで美術史上、重要な位置を占めるものだと思いました。こうしたアカデミズム系の流れがあるから、光太郎や守衛の彫刻の特異性が際立つわけで、光太郎や守衛を飛沫を上げて迸る奔流、激流とすれば、朝倉はとうとうと流れる穏やかな大河、といった印象を持ちました。

建物自体も国の有形文化財に登録されています。昭和10年(1935)に完成したそうですが、アトリエ部分のおそろしく高い天井、茶室まで構えた純和風の居住空間、4階にあたる屋上に造られた庭園など、興味深く拝見しました。同じ区域と言っていい光太郎のアトリエが、昭和20年(1945)の空襲で灰燼に帰したのが、返す返すも残念です。

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残念、と言えば、同館には光太郎の代表作の一つ、ブロンズの「手」―それも大正期に鋳造され、台座の木彫部分は光太郎が彫ったもの―が収蔵されているのですが、展示されていなかったことです。昨年、武蔵野美術大学美術館さんで開催された「近代日本彫刻展」で、現物は見ていますが。


さて、朝倉彫塑館を後に、本郷までぶらぶら歩き、北川先生を囲む新年会に出席いたしました。


その後、地下鉄で銀座に出ました。次なる目的地は、東銀座の「いわて銀河プラザ」さん。岩手県のアンテナショップです。

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過日、このブログでご紹介した、「高村光太郎記念館をたずねて」という記事の載った花巻市発行の情報誌『花日和』をゲットするのが目的で、ちゃんと置いてありました。

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ところで、意外と思える程に多くのお客さんで賑わっていました。東日本大震災からの復興支援にもつながりますので、ありがたいことです。当方も愚妻の好物・ゆべしと、帰省している息子の好物の100%林檎ジュースを購入しました。驚くほど安い価格でした。だから繁盛しているのか、と納得しました。

皆様も是非足をお運び下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

倦めば楽(がく)さむれば匠(たくみ)ぬればうた老(おい)はわが世の道になきもの
明治35年(1902) 光太郎20歳

今日は成人の日です。当方の息子も新成人ですが、当方の住む市では昨日、成人式が行われました。

というわけで、光太郎20歳の歌。

「匠」=彫刻、「うた」=短歌や詩、「楽」は音楽だと思いますが、光太郎が神田の高折周一音楽講習所でヴァイオリンを習い始めるのはこの2年後なので、今一つ謎です。聴くのは既に好きだったということでしょうか。やることが多すぎて、自分が老いることなど考えられないという青春の日々です。

現代の新成人諸君もそうなのでしょうが、光太郎のように、何度もつまづきながらであっても、「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」という気概で、自分の道を切り開いていってほしいものです。
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