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シンポジウム「ほんとの空が戻る日まで-福島の復興と地方創生-」報道。

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8日の日曜日に福島大学さんなどの主催で開催されたシンポジウム「ほんとの空が戻る日まで-福島の復興と地方創生-」について、報道が為されていますのでご紹介します。 

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復興担い手増やす 福島大・医大シンポ、小泉進次郎氏ら意見

 福島大と福島医大は8日、東京都内でシンポジウム「ほんとの空が戻る日まで―福島の復興と地方創生」を開いた。前復興政務官で「ふたばの教育復興応援団」を務める小泉進次郎氏、コピーライター糸井重里氏、福島大特任研究員の開沼博氏による鼎談(ていだん)では被災地支援について「関わりたくてもできなかった人が、復興に参加できる仕組みが重要」との考えで一致した。 
 
 震災と原発事故からの復興の課題などに理解を深めてもらおうと両大が合同で企画、約300人が来場した。小泉氏は「さまざまな立場の人をどう復興に巻き込んでいけるかを意識した。特に企業に協力を呼び掛けた」と述べ、政治家や行政などのほか、幅広い支援の必要性を指摘した。
 また糸井氏は本県復興について「全員が完全にやり遂げるのは無理。それぞれの立場の人が自分の守備範囲で、無理のない範囲で関われるような仕組みが必要」と述べた。
 中井勝己福島大学長、大戸斉福島医大副理事長が主催者を代表してあいさつ。中田スウラ福島大うつくしまふくしま未来支援センター長と谷川攻一福島医大副学長が両大の震災、原発事故後の取り組みを報告した。
(『福島民友』 2015年11月10日) 


都内で福大、福医大合同シンポ 糸井氏研究の中心地に 小泉氏人生懸け取り組む

 福島大と福島医大の東京シンポジウム「ほんとの空が戻る日まで-福島の復興と地方創生」は8日、東京都千代田区の一橋大で開かれた。衆院議員の小泉進次郎氏とコピーライターの糸井重里氏、福島大うつくしまふくしま未来支援センター特任研究員の開沼博氏による鼎談(ていだん)では、小泉氏が「人生を懸けて(東京電力福島第一原発の)廃炉まで取り組む」と決意を語った。
 東日本大震災後、福島大が県外で復興シンポジウムを開くのは4回目で、福島医大との合同開催は初めて。約300人が来場した。
 鼎談で小泉氏は、広野町のふたば未来学園高の開校を振り返り、「(双葉郡の)教育に携わったというのは一過性のつながりだけでは済まない。廃炉まで50年かかるとしても自分の人生を懸けて取り組む」と述べた。
 さらに「福島大は東北の大学で唯一農学部がない。党農林部会長として力を尽くせるところだ」と述べ、福島大の農学部新設に意欲を示した。
 糸井氏は福島第一原発の廃炉は世界の最先端の取り組みだと強調し、「福島は廃炉研究の中心地になる。ぜひ若い学生に働いてほしい」と呼び掛けた。
 福島大うつくしまふくしま未来支援センターの中田スウラ・センター長による活動報告や、本県の復興をテーマにしたパネルディスカッションもあった。
 会場では、福島大の学生が福島市で収穫した新米も販売され、来場者の人気を集めた。
(『福島民報』 2015年11月10日)  

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福島の復興 東京で考える

◆小泉進次郎氏ら鼎談など
 福島の復興を考えるシンポジウム「ほんとの空が戻る日まで」(福島大、県立医大主催、読売新聞社など後援)が8日、東京都千代田区の一橋大「一橋講堂」で開かれ、大学関係者や被災者ら約300人が参加した。
 鼎談は、前復興政務官の小泉進次郎氏とコピーライターの糸井重里氏、福島大特任研究員の開沼博氏が福島の復興や福島との関わり方について議論した。
 糸井氏は、東京電力福島第一原発事故後、現地でロボットなど廃炉に関する最先端の新事業が始まったことを例に挙げ、「ピンチを経験しないとチャンスは捕まえられない。これは福島全体の問題に応用できるのでは」と指摘。小泉氏は被災地支援について、「被災地での取り組みを笑顔で前向きに発信してくれる人の参加が大切だ。始めやすいところから多くの人に始めてほしい」と語った。
 大学、企業関係者らのパネルディスカッションでは、多分野の連携や社会人教育、県外関係者の活用などの重要性が指摘された。
(『読売新聞』 福島版 2015年11月10日)  
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かけ声だけで終わることのないようにしていただきたいものですね。


当方、明後日に「智恵子講座’15」及び「第61回 二本松の菊人形」のため、二本松に行って、「ほんとの空」を見て参ります。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 11月13日

昭和27年(1952)の今日、日比谷公会堂でフランスの詩人、ジョルジュ・デュアメルの講演を聴きました。

デュアメル(1884~1966)は、ユマニストとして知られる詩人。義兄にあたるシャルル・ヴィルドラックも詩人で、大正15年(1926)に来日した際、光太郎もその歓迎会に出席しています。

来日中のデュアメルは、尾崎喜八の案内で鎌倉を散策したり、翌月には広島を訪問したりしました。

この日の講演で、光太郎はかつて「ロマンロラン友の会」で共に活動していた片山敏彦、今井武夫らと再会しています。



盛岡てがみ館 第48回企画展 「宮沢賢治を愛した人々」。

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岩手から企画展情報です。気付くのに遅れ、紹介が遅くなってしまいました。 

第48回企画展 「宮沢賢治を愛した人々」

場   所 : 盛岡てがみ館 盛岡市中ノ橋通一丁目1番10号 プラザおでって6階
期   日 : 2015年10月27日(火)~2016年2月15日(月)
時   間 : 9時から18時まで(最終入場17時30分まで)
休 館 日 : 毎月第2火曜日(祝日の場合は翌日) 年末年始(12月29日~1月3日)
入 館 料 : 個人 一般 200円、高校生 100円    団体 一般 160円、高校生  80円 (20人以上~)
中学生以下、65歳以上で盛岡市に住所を有する方、また障がい者手帳をお持ちの方と付き添いの介護者は無料。

数々の名作を残し、今もなお人々を魅了し続ける詩人・童話作家の宮沢賢治。しかし、生前に刊行されたのは心象スケッチ『春と修羅』、童話集『注文の多い料理店』の2冊のみで、無名に近い存在でした。そんな賢治の作品が没後、評価され、多くの人に知られるようになった背景には、賢治とその作品を愛した人々の努力がありました。本展では、賢治の作品を世に広めるべく尽力した人々について手紙を通して紹介します。


関連行事 

館長によるギャラリートーク 「宮沢賢治を愛した人々」

開催日・期間:11月28日(土)
時間:14:00~15:00
場所:盛岡てがみ館 展示室
講師:盛岡てがみ館 館長 磯田望
料金:入館料が必要です。 

ふみの日ギャラリートーク 「宮沢賢治を愛した人々」

開催日・期間:2016年1月23日(土)
時間:14:00~15:00
場所:盛岡てがみ館 展示室
講師:盛岡てがみ館 事業推進員 平政光
料金:入館料が必要です。


「宮沢賢治を愛した人々」の中には光太郎も含まれ、光太郎の書簡も5点、展示されています。

松本政治 宛  封 書   昭和21年(1946)1月10日
森口多里 宛  ハガキ  昭和23年(1948)10月20日
森口多里 宛  ハガキ  昭和24年(1949)3月30日
吉田孤羊 宛  ハガキ  昭和24年(1949)11月12日
吉田孤羊 宛  ハガキ  昭和24年(1949)11月21日


いずれも以前から同館に所蔵されていたもので、昨年開催された第43回企画展「高村光太郎と岩手の人」に出品されました。

また、他にも賢治自身の書簡なども展示されています。

IBC岩手放送さんのサイトから。 

「宮沢賢治を愛した人々」展

詩人で童話作家の宮沢賢治と、交友の深かった人たちの手紙を集めた企画展が盛岡で開かれています。会場の盛岡てがみ館には、賢治の死後、作品の出版に力を尽くした人達の手紙を中心に、関連資料45点が展示されています。中でも、盛岡で青少年期を過ごした洋画家の高橋忠彌に宛てて賢治が書いた手紙は賢治が亡くなる3か月前のもので、原稿の依頼に対し「自信がない」と断わっている内容から賢治の苦悩や葛藤を読み取ることができます。賢治の弟の宮沢清六や詩人で彫刻家の高村光太郎の貴重な手紙もあり、賢治の魅力を再発見することができるこの企画展は、来年2月15日まで盛岡てがみ館で開かれています。
2015/11/12

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花巻の高村光太郎記念館などを除き、光太郎の自筆をじかに見られる機会はそう多くありません。ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 11月14日

昭和28年(1953)の今日、日本芸術院第二部会員に選定された旨の新聞報道を読みました。

当日の日記の一節です。

夕刊新聞に芸術院会員決定といふ事出てゐる、第二部文学部、甚だ迷惑を感ず、

結局、辞退しました。これについては第一部(美術)での選定なら受けたのではないか、といわれています。光太郎には「私は何を措いても彫刻家である」との自負がありました。

映画「FOUJITA」レポート。

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昨日は、千葉市の京成ローザさんに行き、昨日封切りの映画「FOUJITA」を観て参りました。

ストーリー等の説明のために、一昨日の『朝日新聞』さんに載った小栗康平監督のインタビュー記事を引用させていただきます。 

分裂とゆがみ、他人事でない 藤田嗣治描いた「FOUJITA」 小栗康平監督

 「泥の河」「死の棘」の小栗康平監督10年ぶりの新作「FOUJITA」が、14日から公開される。主人公は画家藤田嗣治(1886~1968)。1920年代の狂乱のパリと第2次大戦下の日本、二つの時代を生きたフジタの「分裂とゆがみ」を、透徹したまなざしでとらえる。
 乳白色の裸婦像でパリ画壇の寵児(ちょうじ)となったフジタ(オダギリジョー)は、カフェでのバカ騒ぎやけばけばしい仮面舞踏会に興じる。時代は飛び1940年代の日本、凄絶(せいぜつ)な「アッツ島玉砕」などの戦争画で美術界の重鎮となったフジタは、迫り来る敗戦の予感の中、疎開先の農村の暗い風景を見つめる。
 「パリでは日本画の手法を油絵のど真ん中に押し込み、日本ではドラクロワのような西洋画の伝統技法で戦争を描く。そのねじれに興味を抱いた」と小栗。
 戦争協力者との批判を浴び、日本を捨てフランスに戻った戦後は、映画では描かなかった。
 「伝記映画の構造は持っていないし、人物像を提示することに興味はなかった。高村光太郎のように戦争協力を反省し蟄居(ちっきょ)する、という方が日本人的でヒューマニスティックでしょう。でもフジタは明らかに近代主義者だった。パリでエトランゼ(異邦人)の中に飛び込み、闘ってつかみ取った自我があったんだと思う」
 仮面舞踏会の悪ふざけの後、ベッドで女に「バカをすればするほど自分に近づく。絵がきれいになる」。「アッツ島玉砕」に手を合わせる人々に敬礼し、「絵が人の心を動かすものだということを初めて目の当たりにした」。取り澄ました物言いは、真意なのか、とぼけているのか。フジタは、芸術至上主義者ともくくれず、自己顕示欲の塊とも言い切れない。
 「彼の分裂とゆがみは、100年経った今の私たちにとってもひとごとではない。深く引き裂かれた人物として、ある悲しみをもってフジタを見つめることで、日本がどう近代を受容したのか、そしていまフジタと比べ成熟したのか、それを問いたかった」
 銀色に輝く水田など幽玄的な風景をとらえた映像は、デジタル撮影の威力が発揮されている。
 「前作『埋もれ木』からデジタルにしたが、10年経って別物に進化していた。見たこともない絵をつくるだけでなく、最もとらえにくい自然に対しても、とても有効だ」(小原篤)


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監督自身が「伝記映画の構造は持っていない」というように、非常に感覚的な映画でした。いわゆる「説明調」のセリフはほとんどなく、藤田の行動を淡々と追うというスタイルです。それでいて、その一つ一つが人間・藤田を存分に描ききっていました。オダギリジョーさんの演技もはまっていました。

前半は1920年代のパリ。「五人の裸婦」に代表される独自のスタイルの絵を追求し、同時にセルフプロモーションにも入念な藤田が描かれます。

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カフェのテラスで、青木崇高さん演じる日本からやってきた画学生が、藤田を前に光太郎の「雨にうたるるカテドラル」を朗読するシーンがあります。

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一瞬映し出される藤田の心象風景。ここに佇む男は光太郎なのでしょうか、それとも藤田自身なのでしょうか。

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しかし藤田は、画学生の朗読も半ばを過ぎたあたりで、少し離れた席にいたパリジェンヌ2人にちょっかいを出します。

このシーンで小栗監督は、藤田が単なる西洋への憧れで滞仏しているのではないことを描こうとしたようです。対極的に、光太郎は西洋への憧れを強く表出した人物の象徴として捉えられています。光太郎の西洋観、それほど単純ではないのですが……。

ただ、確かに光太郎には、藤田のように「何故に我々の先輩がパリに渡り、本舞台で飽くまで西洋人と闘ってこなかったのであろうか」「すべてを棄てて自分だけは少なくとも本場所の土俵の上で大相撲をとろうという覚悟であった」という気持ちはありませんでした。

また、光太郎との比較は、戦後の行動にも表れていると、小栗監督は述べられています。

「高村光太郎のように戦争協力を反省し蟄居(ちっきょ)する、という方が日本人的でヒューマニスティックでしょう。でもフジタは明らかに近代主義者だった。パリでエトランゼ(異邦人)の中に飛び込み、闘ってつかみ取った自我があったんだと思う」

先日、NHK Eテレさんで放映された「ETV特集「FOUJITAと日本」」の中でも、同様の発言がありました。しかし、光太郎のように戦時協力を反省し、蟄居したのは少数派です。まあ、藤田のように日本を見限って再び海外に渡ったのは、さらに少数派ですが……。悲しいかな、大部分の芸術家は翼賛活動を「軍部の命令で仕方なくやったことだ」と開き直り、何くわぬ顔をして「民主主義」に転向していきました。

藤田と光太郎、一見、形は違いますが、その根底に流れているものは同一のような気がします。

映画の後半は、1940年代の日本。藤田の戦争協力の様子が、これも淡々と描かれています。そして戦後の藤田については語られていませんが、エンドロールの直前に、再び渡仏した藤田が、昭和41年(1966)に自身の設計でランス市に建てたノートル・ダム・ド・ラ・ペ礼拝堂と、その内部のフレスコ画―磔刑に処されるイエスを見つめる群衆の中に描かれた藤田最後の自画像―を提示し、戦後の藤田を暗示していました。

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「彼の分裂とゆがみは、100年経った今の私たちにとってもひとごとではない。深く引き裂かれた人物として、ある悲しみをもってフジタを見つめることで、日本がどう近代を受容したのか、そしていまフジタと比べ成熟したのか、それを問いたかった」という、小栗監督の言葉が重くのしかかるエンディングでした。

余談になりますが、映画を観ていて驚いたことが一つ。何と、当方の住む千葉県香取市佐原地区ででロケが行われていました。それ自体は珍しいことではなく、重要伝統的建造物群保存地区に指定されているので、様々な映画やドラマなどの撮影がしょっちゅう行われているのですが(嵐の二宮和也さん主演、フジテレビさんの2016年新春スペシャルドラマ・夏目漱石原作「坊ちゃん」のロケも、つい数日前に行われていました)、この映画のロケが行われていたのはまったく知らなかったので、スクリーンに地元の町の風景が映った時には驚きました。

しかし、最近のデジタル技術の進歩は凄いものですね。香取市の風景の中でも、存在しない海が遠景に写っていたり、古い街並みのカットでは、逆にあるはずの新しい建物が写っていなかったりしていました。撮影後に修正しているのでしょうが、全く違和感がありませんでした。

デジタル技術の進歩という意味では、特に映画後半の幻想的な日本の風景を描いた部分が、非常に印象的でした。

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ぜひ、ご覧下さい(上映館はこちら)。


ところで、パリといえば、昨朝から悲しいニュースが飛び込んできています。『日刊スポーツ』さんに載った、昨日の小栗監督らの舞台挨拶を報じる記事から。 

「FOUJITA」初日にパリでテロ 小栗監督沈痛

 オダギリジョー(39)主演映画「FOUJITA-フジタ-」(小栗康平監督)初日舞台あいさつが14日、都内の角川シネマ有楽町で行われた。
 「FOUJITA-フジタ-」は1920年代のフランス・パリと1940年代の日本を生きたフジタを通し、時代と文化の差異を描いた。昨年9月15日に都内で撮影し、1カ月のフランスロケを経て、同12月15日にクランクアップした。初日を迎えたこの日、フランス・パリで同時多発テロが発生し、120人を超える人が亡くなった。小栗監督は舞台あいさつの冒頭に、沈痛な表情で事件について語った。
  「パリで、とても不幸なことが起きました。この映画のキャッチコピーは『パリが愛した日本人、あなたはフジタを知っていますか?』となっています。1920年代と40年代の日本とパリを、フジタを通して描いた作品です。20年代から数えますと、ほぼ100年近く時代がたっていますけれど、欧州はどういう社会なのか、あるいはアジアは欧州と違ってどうなのか…この封切りの初日に、パリのテロを受けて、あらためて私は考えました。もしかしたら、この『FOUJITA-フジタ-』で描いている世界も、14年から振り返って遠い昔のことではないんだと。今に結び付く問題が、この映画の中にもあるんだろうな、ということをあらためて今朝、しみじみと考えました」

犠牲になられた方々のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 11月15日

昭和12年(1937)の今日、銀座の服部時計店で、光太郎の実弟にして、後に鋳金の人間国宝となる豊周らが中心となった、実在工芸美術会同人作品展が開幕しました。

「智恵子講座’15」 第2回レポート。

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昨日は智恵子の故郷・二本松に行っておりました。

まずは二本松霞ヶ城に近い、福島県男女共生センターで開催された「智恵子講座’15」の第2回にお邪魔しました。

講座全体は「高村智恵子に影響を与えた人達」というテーマで行っており、今回の講師は福島県中国交流史学会長、元福島女子高教頭の小島喜一氏。題は「油井小学校と福島高等女学校の先生達」。

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油井小学校時代の智恵子の恩師の中には、後の智恵子の一生に大きく影響を与えた人物がいます。

一人は服部マス。智恵子の担任ではありませんでしたが、唱歌の授業を担当していました。智恵子より8歳上の明治11年(1878)生まれです。智恵子在学中の明治33年(1900)、他校に転任、翌年には退職し、この年創立された日本女子大学校国文学部に第一回生として入学しました。当時の日本女子大学校には、服部のように既に職業を持っていた婦人が仕事を辞めて入学したケースも珍しくはなかったそうです。

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上記は後に同校同窓会である桜楓会から刊行された雑誌に載った卒業生名簿です。ちなみに服部の3人前
にある「橋本八重」は画家の柳敬助と結婚し、さらに後に載せた小橋三四子ともども、光太郎智恵子を結びつける役割を果たします。

後を追うように、明治36年(1903)には、智恵子が同校に入学。それに際しては、はじめ智恵子の進学を渋った智恵子の両親に、服部から説得の手紙がもたらされたということですし、「服部先生がいる学校だから」ということで両親も進学を認めた経緯があるようです。

のちに服部は大陸に渡り、北京予教女学堂、奉天女子師範学堂に勤務。帰国後、大正11年(1922)頃から中華民国留学学生援護機関日華学会理事、中国留日女子学生寮寮監を務め、「中国人留学生の母」と称されました。

もう一人、智恵子の妹・ミツの担任だった小笠原トクヨ。明治13年(1880)の生まれ。小笠原も服部同様、油井小学校での勤務を経て、こちらは東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)に進み、後に二階堂体操塾(現・東京女子体育大学)を創設します。智恵子は小笠原に非常になついており、師範学校への進学に際しては、智恵子の実家の長沼家から援助があったらしいとのことです。

こうした先達の存在が、後の智恵子の日本女子大学校進学に影響を与えたことはまちがいありません。

その他、智恵子在学当時の油井小学校や福島高等女学校の教員の氏名など、当方も知らなかった資料がレジュメに記載されており、ありがたいかぎりでした。

さらに、こちらも当方は全く存じませんでしたが、二本松出身・在住だった俳人で自由民権運動家の加藤哲壽という人物が光太郎と親交があり、大正9年(1920)に光太郎が智恵子の実家に行く途上で加藤の家に立ち寄ったり、加藤が光太郎の木彫「蟬」を購入したりしたといったエピソードも紹介されました(小島氏は加藤と親交があり、実際に手に取ってみたとのこと)ただし、加藤家にあった資料類は昭和30年代、行政の無理解で散逸してしまったそうです。

小島氏は昭和3年(1928)のお生まれだそうですが、途中、短い休憩は入ったものの、2時間以上、立ちっぱなしでのご講義。そのバイタリティーには脱帽でした。

第3回の講義は当方が講師を仰せつかっていますが、パソコンとプロジェクタを使ってスライドショーを投影しながら進めますので(と言い訳しつつ)、座ってやらせていただきます(笑)。


講座修了後、「第61回 二本松の菊人形」に足を運びました。そちらは明日、レポートいたします。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 11月16日

大正15年(1926)の今日、詩人の宮崎丈二に訳詩の原稿を送附しました。

原詩はアメリカの詩人、ホイットマンの書いた「栗色の顔をした野の若者よ」。翌昭和2年(1927)1月の雑誌『太陽花』第2巻第1号に掲載されました。

『太陽花』は静岡で刊行されていた地方詩誌です。たびたび光太郎も寄稿していましたが、現存部数が非常に少ないようで、「栗色の顔をした野の若者よ」光太郎訳がどういう内容なのか、不明です。

だいぶ以前にも書きましたが、掲載誌は横浜・港の見える丘公園にある神奈川近代文学館さんに所蔵されています。しかし、「栗色の顔をした野の若者よ」の載ったページだけ破り取られており、読めませんでした。

情報をお持ちの方はこちらまでご教示いただければ幸いです。

「第61回 二本松の菊人形」レポート/演劇「売り言葉」。

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昨日に続き、まずは福島二本松レポートを。イメージ 8

「智恵子講座’15」第2回の終了後、今年も智恵子の人形が展示されているということで、「第61回 二本松の菊人形」を観に、歩いて霞ヶ城公園に向かいました。午前中は降っていた雨もあがり、「ほんとの空」も顔を出し始めていました。

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入場券を買って会場内へ。まずは人形ではなく、愛好家の方々が丹誠込めて育てた菊花の展示です。

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続いて、「菊人形ゾーン」。こちらは毎年テーマを決めて構成されています。昨年のテーマは「二本松築城600年 にほんまつヒストリア」。伊達政宗や安達ヶ原の鬼婆伝説、戊辰戦争にまじって、「あどけない話 詩人高村光太郎と智恵子結婚100周年」というわけで、光太郎智恵子の人形も展示されていました。

今年のテーマは「幕末維新伝」。池田屋事件やら和宮降嫁やら
で場面が構成され、ここには智恵子の人形はありません。

「菊人形ゾーン」の次が「ガーデンゾーン」。菊を使ったガーデニングを作品としてディスプレイするというコンセプトのコーナーです。智恵子人形はこちらにあるようです。

昨年はタイミングが悪く、当方が足を運んだ際には智恵子人形はお召し替え中でした。菊の花も生き物ですから、やがて枯れたりしてきますので、会期中に何度か付け替えなければならないのです。ただ、それほど頻繁に替えるわけでもないようなので、今年は大丈夫だろうと思っていました。

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しかし、あにはからんや、ガーデンゾーンに入る前の作業小屋に、智恵子がいました(笑)。今年もお召し替え中。つくづくタイミングの悪い男です。

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まあ、作業を間近に観ることができたのはよかったのですが……。菊も生き物ですから、しかたがありません。

本来であれば、ここに智恵子がいるはずでした。

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「二本松市合併10周年記念 特作花壇 ほんとの空と秋のにぎわい」というコーナーです。

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ところで、昨年は開幕してすぐの10月中旬に観に行きました。今年は約1ヶ月遅かったのですが、その分、紅葉が進んでいて、その意味ではいいタイミングでした。

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「第61回 二本松の菊人形」、11月23日(月・祝)までの開催です。ぜひ足をお運びください。


もう1件、智恵子がらみで。

平成14年(2002)、智恵子を主人公とした、野田秀樹さん作、大竹しのぶさん主演の一人芝居「売り言葉」が公演されました。その後、シナリオも公刊され、アマチュア劇団等で繰り返し上演されています。

世田谷は上野毛で公演があるとの情報を得ましたので、ご紹介します。 
【作】野田秀樹
【演出】小野晃太朗
【出演】畑中瀬音・平山犬

△ STAFF 装置・音響:小野晃太朗/照明:小泉萌/衣裳:須澤里佳子/演出助手:寺澤亜彩加
△ SCHEDULE 11/21(土)18:00 11/22(日)14:00 ※受付・開場は開演の30分前となります。
△ PLACE 多摩美術大学上野毛キャンパス内 演劇舞踊スタジオD
△ TICKET 無料・全席自由席 https://www.quartet-online.net/ticket/tit4tat 予約はチケットフォームより

野田秀樹の作・演出と、大竹しのぶの怪演によって『智恵子抄』で有名な高村智恵子の人生を下敷きに、高村光太郎を通して男性のエゴ、歴史的美談の欺瞞を暴きだした『売り言葉』を二人芝居として上演します。
女を書いた男を書いた男の本を演出するということについて、考えています。
もしかしたら、売り言葉に対する売り言葉になるかもしれません。

本来、一人芝居ですが、それを二人でやるということで、「売り言葉に対する売り言葉」ということのようです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 11月17日

昭和25年(1950)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、草野心平からの葉書を受け取りました。

詩集「典型」いただきました。ありがたう御座ゐます。
たいがいは一度拝見していたものですが、改めて通読して異常な感動をおぼえました。どうも考えてみますと僕などは実に甘ちよろいものです。反省と勇気を同時に持つやうな、そんな状態になりましたことを個人として感謝いたします。
書評を頼まれましたので感想を綴つてゐるところですがむずかしいです。
別封歴程お送りいたしました。今度は売れなくても続けてゆける体制をととのへました。二号はもう印刷に回つております。三号から、以前歴程にいただいた某月某日のやうなもの五枚ずつ書いていただけませんでしようか。御礼はとうてい出来ませんが。三号〆切は十一月十日なのですが。             十一月十四日

「典型」は、この年10月、光太郎が刊行した詩集。「歴程」は戦前に心平が主宰していた雑誌で、昭和23年(1948)に復刊しましたが、途切れがちの刊行だったようです。

趣味どきっ! 石川九楊の臨書入門 第8回▽最愛の妹への思い~宮沢賢治×トシ/『丹波新聞』。

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テレビ放映情報です。 

趣味どきっ! 石川九楊の臨書入門 第8回▽最愛の妹への思い~宮沢賢治×トシ

本放送 NHKEテレ 2015年11月24日(火)   21時30分~21時55分
再放送 NHK総合   2015年11月26日(木)  10時15分~10時40分 
       NHKEテレ 2015年12月1日(火)   11時30分~11時55分

「銀河鉄道の夜」と宮沢賢治最愛の妹・トシの死とは、どんなの関わりがあるのか?「雨ニモマケズ」はいかに生まれたのか?故郷・花巻への旅、そして賢治の筆跡から探る。

岩手県花巻に生まれた宮沢賢治。農業高校に学びながら、鉱物や天体への知識も養い、独特の表現で多くの物語を創作した。そんな賢治の最大の理解者が妹のトシ。24歳の若さでこの世を去ったトシは賢治にとって、どんな存在だったのか。トシの筆跡にも触れ、強い絆で結ばれた兄と妹の関係をひもとく。また「雨ニモマケズ」は、賢治がどんな思いで書いたものなのか、精密に復元された手帳を見ながら、鉛筆を使って臨書に挑戦する。

出演 石川九楊 羽田美智子 牛崎敏哉(宮沢賢治記念館副館長) 宮沢和樹(宮沢賢治の遺族・「林風舎」代表)

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過日、第5回として「智恵子、愛と死 自省の「道程」 高村光太郎×智恵子」が放映された番組の最終回です。取り上げられるのは宮澤賢治。花巻ということで、光太郎の回と同じ時期に収録が行われました。

毎回、女優の羽田美智子さんが、書家の石川九楊氏のご指導のもと、それぞれの人物の臨書に挑戦なさいますが、今回のお題は「雨ニモマケズ」。

この詩は賢治の代表作として認知されていますが、生前には発表されませんでした。元々は亡くなる2年前の昭和6年(1931)秋から翌年にかけ、主に病床で書き連ねた手帖に記されていたものです。

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賢治歿後の昭和9年(1934)、新宿で開かれた賢治追悼の会の席上、実弟の清六が持参した賢治のトランクから出て来たこの手帖に書かれていた「雨ニモマケズ」が「発見」されました。その場にいたのは光太郎、宮沢清六、草野心平、永瀬清子、巽聖歌、深沢省三、吉田孤羊、宮靜枝らでした。

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その場にいた詩人の永瀬清子の回想から。

昭和九年の二月になってふと宮澤賢治氏の追悼会をひらくので新宿の映画館の地下にある「モナミ」へ来るようにお通知が来た。
(略)
その会には弟の宮沢清六さんが来ていらした。はるばる岩手県の花巻から賢治さんの原稿のつまった大きなトランクをさげて上京されたのだ。多分あとで考えると宮沢賢治選集のはじめての出版のためであったものと思う。
 そのトランクからは数々の原稿がとりだされた。すべてきれいに清書され、その量の多いことと、内容の豊富なこと、幻想のきらびやかさと現実との交響、充分には読み切れないまま、すでにそれらは座にいる人々を圧倒しおどろかせた。
 原稿がとりだされたのはまだみんなが正式にテーブルの席につくより前だったような感じ。みな自由に立ったりかがみこんだりしてそのトランクをかこんでいた。
 そしてやがてふと誰かによってトランクのポケットから小さい黒い手帳がとりだされ、やはり立ったり座ったりして手から手へまわしてその手帳をみたのだった。
 高村さんは「ホホウ」と云っておどろかれた。その云い方で高村さんとしてはこの時が手帳との最初の対面だったことはたしかと思う。心平さんの表情も、私には最初のおどろきと云った風にとれ、非常に興奮してながめていらしたように私にはみえた。
 「雨ニモマケズ風ニモマケズ――」とやや太めな鉛筆で何頁かにわたって書き流してある。
 『春と修羅』はすでによんでいても、どうした人柄の方かすこしも聞いたことがなかったので、この時私には宮沢さんの本当の芯棒がまっすぐにみえた感じがした。或はその芯棒が私を打ったのかもしれない。でも私だけでなく一座の人々はそれぞれに何かこのめっそうもないようなものを感じとった風だった。
 この時の世の中で、この時の詩壇で、一般には考えられないようなことがそこには書いてあったのだ。それはその時までに詩のことばとして考えられていたもの以上だったから、或は粗雑で詩ではないと人はみるかもしれぬ。でもそこにはきらびやかな感覚の底にあった宮沢さん自身が、地上に露呈した鉱脈のように見えていた。又それがほかの清書された原稿ではなく、小さい小さい手帖だったから、自分自身のために書かれた一番小さい手帖だったから、いっそうその感が強かったのだ。
(『かく逢った』 昭和56年=1981 編集工房ノア)


その後、昭和11年(1936)になって、光太郎は宮澤家の依頼でこの詩の後半部分を揮毫、花巻の羅須地人協会跡にその書を刻んだ碑が建てられました。番組では、手帖発見の経緯はともかく、この碑くらいは紹介されるのではないかと思われます。ぜひ光太郎の筆跡であることも紹介していただきたいのですが、どうなりますか。市販されている番組のテキストには紹介がありますが、必ずしもテキストと番組の内容が一致はしていませんので……。

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さらに番組では、これまで毛筆での臨書に挑戦されていた羽田美智子さん、今回は硬筆(鉛筆)での臨書です。楽しみです。


書といえば、先日、京都の地方紙『丹波新聞』さんが、書についてのコラムの中で、光太郎の名を出して下さいました。 

人の縁結ぶ作品展

2015年11月15日
 「赤や黄に山々染める面白さ」。紅葉シーズンである。日に日に色づく周辺の景色を見るにつけ、秋の深まりを感じる。
  各地で作品展などが行われる中、丹波市氷上町犬岡地区の男性2人展(15日まで開催)はユニークな試み。地域に住む元会社の技術者と元教員という取り合わせも異色。写真と絵画のコラボで、地域の人たちにとっては、身近な人の作品だけに親しみがわき、刺激になったと思う。地域外からも訪れる人があり、交流の場になっている。
  どちらも定年後の趣味を生かしている点が共通する。所属するサークルなどに出品することはあるが、地元の公民館での作品展は初めて。各世帯に配りものをする地域の役員や成人の若者の笑顔をとらえた写真には、「地域ならではの作品だな」と感じた。写真を出品した人は大阪からのIターンで、新鮮な目で見た地域の風景や人が題材になった。スケッチ先で話をした老婆が作品に描かれた絵画は、会話の場面が浮かぶ。
  地域には様々な特技や趣味を持った人がいる。地域の隠れた人材を掘り起こす発表の場として、身近な場所で作品展が開けるのではないだろうか。背中を押す人も必要だ。歩いて見に行ける展覧会の輪が広がることを願う。
  詩人の高村光太郎に「甘酸是人生」という書がある。人生には、甘さと酸っぱさの両方がある。長年の仕事人生に裏打ちされた味のある作品を見ながら、そんな気持ちを抱いた。数日後、「感謝と笑顔があれば幸せは向こうからやってくる」という言葉に出合った。こういう気持ちも大切にしたい。「人と人結ぶ作品花開く」。(臼井 学)


「甘酸是人生」は、「趣味どきっ!」の光太郎の回で取り上げられた書です。おそらくこの記事を書かれた記者さん、番組をご覧くださったのでしょう。ありがたや。

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【今日は何の日・光太郎 拾遺】 11月18日

昭和33年(1958)の今日、画家の木村荘八が歿しました。

木村は、光太郎と共に大正元年(1912)のヒユウザン会(のちフユウザン会)設立に関わるなど、光太郎と縁の深かった画家です。くわしくはこちら

「第9回明星研究会<シンポジウム>秋の日のヴィオロンの~翻訳詩、あたらしき言葉の輝き」。

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東京日比谷から学会情報です。 

第9回明星研究会<シンポジウム>秋の日のヴィオロンの~翻訳詩、あたらしき言葉の輝き

 近代の詩歌は、西洋詩の翻訳から多くの栄養を吸収してきました。わけても上田敏の翻訳詩集『海潮音』(1905年)と象徴主義の紹介は、詩人歌人に大きな影響を与えています。カール・ブッセ、マラルメ、ボードレール、ヴェルレーヌといった詩人の詩は、のちに多くの日本人の心にも植え付けられ、「秋の日の ヴィオロンの ためいきの 身にしみて ひたぶるに うら悲し」の、ヴェルレーヌの詩「落葉(秋の日)」は殊に有名です。
 『海潮音』に先んじる森鴎外を中心とする『於母影』(1889年)、フランス新進詩人に挑んだ与謝野寛の『リラの花』(1914年)、そして寛主宰の雑誌「明星」から出発した北原白秋や木下杢太郎も、さまざまな形で影響を受けたのでした。その周辺にあった永井荷風、高村光太郎、堀口大学も忘れることはできません。
 翻訳詩に西欧の香りと美を見出し、想いを傾けた100年前の詩人たちについて、今あらためて考えてみたいと思います。
 多くのご参加を心待ちにしております。
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●日時● 2015年11月29(日)13時30分~16時40分 (13時 開場)
●場所● 日比谷コンベンションホール
    (千代田区日比谷公園1番4号【旧・都立日比谷図書館B1】
       (このサイトの下にある地図を参照してください)
●会費● 2,000円(資料代含む) 学生1,000円(学生証提示)●定員● 200人
●内容●
Ⅰ 13:30  開会挨拶  西川 恵(毎日新聞社客員編集委員)
Ⅱ 13:30 ~14:20
    第1部 講演「ボードレールと日本の近代詩」 酒井 健(法政大学教授)Ⅲ 14:20 ~14:40 休憩
Ⅳ 14:40 ~16:40
    第2部 ミニ講演&パネルディスカッション
    「翻訳詩、あたらしき言葉の輝き~鴎外・寛・白秋・杢太郎」
     坂井修一(歌人・「かりん」編集人)  渡 英子(歌人)
     丸井重孝(歌人・伊東市立木下杢太郎記念館) 酒井 健
     司会:松平盟子(歌人)
Ⅴ 16:40 閉会挨拶 平出 洸(平出修研究会主宰)
                      総合司会:古谷 円
●申し込み●「明星研究会」事務局あて。
 ネット上での受付は11月27日(金)まで(先着順)。
 宛先メールアドレスはapply@myojo-k.netです。
 申し込みの送信をされる際には、
  (イ)上記アドレスの(at)を半角の @ に変えてください。
  (ロ)メールの件名は、「明星研究会申し込み」とご記入いただき、
  (ハ)メールの本文に、お名前と連絡先住所、電話番号をご記入ください。
  (二)ご家族同伴の場合はご本人を含めた全体の人数も添えてください。
 なお、当日は空席次第で会場でも直接受け付けます。
●終了後懇親会●4,000円程度(場所は当日お知らせいたします)
<主催> 明星研究会 http://www.myojo-k.net/<世話人> 平出 洸
<協力>
伊東市立木下杢太郎記念館・国際啄木学会・堺市:文化学院・与謝野晶子倶楽部


昨年の同会は「巴里との邂逅、そののち~晶子・寛・荷風・・光太郎」と題し、第二部が鼎談「パリの果実は甘かったか?~晶子・荷風・光太郎」ということで、光太郎が前面に押し出されていました。ただ、当方は同じ日に第59回高村光太郎研究会があり、参加できませんでした。

今年は光太郎の名はサブタイトルに入っていませんが、「永井荷風、高村光太郎、堀口大学も忘れることはできません。」とあるので、少しは触れていただけるのかな、と思っております。


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【今日は何の日・光太郎 拾遺】 11月19日

平成2年(1990)の今日、岡山県の衛生会館三木記念ホールで、「野崎幹子ソプラノリサイタル」が開催されました。

別宮貞雄作曲「歌曲集「智恵子抄」より」から抜粋で、「人に」、「あどけない話」、「千鳥と遊ぶ智恵子」、「レモン哀歌」が演奏されました。

のち、ライブ録音のCDもリリースされました。

「ほんとの空」~人権週間・世界人権デー。

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11月も下旬となりました。そろそろ来月の話を書きたいと思います。

12月10日は「世界人権デー」。第二次世界大戦後、昭和23年(1948)に開催された第3回国連総会で、「世界人権宣言」が採択された日にちなんで制定されました。さらに日本では、それに先立つ12月4日から10日までを「人権週間」と位置づけています。そこで、この時期、各地の自治体さんなどが中心となって、「人権研修会」「人権フェスタ」などの催しが開かれる場合があります。

そういう際に上映されてきた、兵庫県人権啓発協会さん作成の「ほんとの空」というドラマがあります。光太郎の詩「あどけない話」にからめ、福島の原発事故による風評差別などを扱ったもので、平成13年度には人権啓発資料法務大臣表彰映像作品部門優秀賞を受賞した作品です。白石美帆さん他のご出演で、上映時間は36分です。

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メインは東日本大震災に伴う原発事故によるいわれなき風評被害ですが、その他にも高齢者に対する偏見、外国人や障害者、同和地区に対する差別、ネット上の無責任な書き込み、そしていじめまで、36分の中に人権問題がてんこ盛りです。それでいて、それぞれ「あるある」と感じさせるリアリティーがあります。

今年も各地の人権関連行事で上映されるという情報を得ています。愛媛県松山市北条公民館さんでの「人権学習会 ほんとの空」(11/1~29)奈良県葛城市さんが「人権教育地区別懇談会」(11/7~21)、岡山県真庭市さんで「人権を考える市民の集い」(12/6)……探せばまだあると思います。

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今後、同様の企画を考えている自治体さん(あるいは学校さんなど)、ぜひこちらの上映をよろしくお願いします。制作元の兵庫県人権啓発協会さんで団体向けに貸し出しを行っていますし、個人では公益財団法人 人権教育啓発推進センターさんの人権ライブラリーから借用できます。

また、ぽつりぽつりと全国の地方テレビ局さんで放映されているようですが、全国放映されたという話を聞きません。ぜひ放映もしていただきたいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 11月20日

平成23年(2011)の今日、いわき市立草野心平記念文学館で、朗読祭「ほんとの空~智恵子抄に故郷・福島への想いを込めて~」が開催されました。

東日本大震災のあった年です。二部構成で、第一部は一般参加者による朗読、第二部では、緑川明日香さんによる朗読が披露されました。

劇団レトルト内閣 第24回本公演「まことに神の造りしをんな -智恵子抄-」。

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大阪から演劇公演の情報です。 
期  日 : 2015/12/11(金) ~ 2015/12/13(日) 
会  場 : 
ABCホール
主  催 : 劇団レトルト内閣

出  演 :
よしもとともしよ、福田恵、川内信弥、Q本かよ、たはらもえ、山浦徹(化石オートバイ)、森田祐利栄(エイチエムピー・シアターカンパニー)、平本茜子(よしもとクリエイティブ・エージェンシー)、Maa(teamおしとやか。/pat'Z)、鎌谷潤吉(僕らの陰謀)、山田麻結、小佐田貢、福良千尋、田中尚樹(劇団そとばこまち)、北代祐太(よしもとクリエイティブ・エージェンシー)、野村亮太、古川寛、藤原奈津子、田辺学(カンセイの法則)、佐々木ヤス子、もえこぴーなっつ、sax/武井努、piano/西島芳、bass/井上歩、drums/原口裕司

脚  本 : 三名刺繍
演  出 : 三名刺繍
料  金 : 3,500円 ~ 3,800円  (前売り3,500円 当日3,800円) 5歳未満は入場不可
サ イ ト : 
http://www.retoruto.com/ ※正式な公演情報は公式サイトでご確認ください。

タイムテーブル:
12月11日(金) 19:30
12月12日(土) 15:00/19:00★
12月13日(日) 13:00/17:00☆
★の回はアフターイベント『リーマン俳優こみたおのリーマン講座「まことに神の造りしサラリーマン」』開催
☆の回はアフターイベント『安定志向のネタ披露「安定志向 M-1への道程」』開催

“あなたが黙つて立つてゐると まことに神の造りしものだ”
稀代の詩人として名を馳せた芸術家、高村光太郎。
女流洋画家を志した光太郎の妻、智恵子。
ふたりの愛は詩集『智恵子抄』に綴られ、今なお読み継がれている。
「チエコショウ?名前くらいは知ってるわ」
21世紀のある日、夫は妻に詩集を贈り、妻はその詩にメロディーをつけた。
綴られた言葉は歌になり、時をこえて問いかける―
“あなたが今いるその場所から、ほんとの空は見えていますか?”
劇団レトルト内閣、原点回帰のエレガンスロック音楽劇。
日本史上最も有名なラブストーリー・智恵子抄。

スタッフ :
照明/奥野淳也 舞台監督/奥田宏人 舞台監督補佐/土井隆(劇団そとばこまち)
舞台美術/サカイヒロト 音響/八木進(baghdad cafe') 効果映像/ハシモトシンゴ(paravora)
制作協力/宮崎由美(スタッフステーション) 意匠指導/東學(一八八) デザイン/川内信弥
衣装/Q本かよ・山田麻結・野元楓 写真撮影/一宮辰徳 映像撮影/武信貴行


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だいぶ宣伝にも力を入れているようで、劇団としての「やる気」が感じられます。

せっかくいい取り組みをしていても、事前にこれといった宣伝もないケースが多く見られます。ブログなどで、「光太郎智恵子をとりあげました」とレポート的な記述があり、「ああ、こんな公演があったんだ」と気がつき、しかし、同じブログを遡って調べても、「光太郎智恵子をとりあげます」という事前の告知が書いていない、ということが何度かありました。だからといって、「やる気」のなさの表れというわけでもないのでしょうが、できるかぎりのことはしてほしいものです。

閑話休題。題名の「まことに神の造りしをんな」というのは、「智恵子抄」中の「あなたはだんだんきれいになる」(昭和2年=1927)という詩から採ったものでしょう。

   あなたはだんだんきれいになる      イメージ 3

をんなが附属品をだんだん棄てると
どうしてこんなにきれいになるのか。
年で洗はれたあなたのからだは
無辺際を飛ぶ天の金属。
見えも外聞もてんで歯のたたない
中身ばかりの清冽な生きものが
生きて動いてさつさつと意慾する。
をんながをんなを取りもどすのは
かうした世紀の修行によるのか。
あなたが黙つて立つてゐると
まことに神の造りしものだ。
時時内心おどろくほど
あなたはだんだんきれいになる。

この詩はまだ智恵子の心の病が顕著になる前の作。福島の長沼家も健在でした。

智恵子歿後の昭和15年(1940)に書かれた随筆「智恵子の半生」(原題「彼女の半生」)で、光太郎自身が引用、解説しています。

 彼女は裕福な豪家に育つたのであるが、或はその為か、金銭には実に淡泊で、貧乏の恐ろしさを知らなかつイメージ 4た。私が金に困つて古着屋を呼んで洋服を売つて居ても平気で見てゐたし、勝手元の引出に金が無ければ買物に出かけないだけであつた。いよいよ食べられなくなつたらといふやうな話も時々出たが、だがどんな事があつてもやるだけの仕事をやつてしまはなければねといふと、さう、あなたの彫刻が中途で無くなるやうな事があつてはならないと度々言つた。私達は定収入といふものが無いので、金のある時は割にあり、無くなると明日からばつたり無くなつた。金は無くなると何処を探しても無い。二十四年間に私が彼女に着物を作つてやつたのは二三度くらゐのものであつたらう。彼女は独身時代のぴらぴらした着物をだんだん着なくなり、つひに無装飾になり、家の内ではスエタアとズボンで通すやうになつた。しかも其が甚だ美しい調和を持つてゐた。「あなたはだんだんきれいになる」といふ詩の中で、

をんなが附属品をだんだん棄てると
どうしてこんなにきれいになるのか。
年で洗はれたあなたのからだは
無辺際を飛ぶ天の金属

と私が書いたのも其の頃である。


二人の生活は、赤貧洗うが如しというほどではなかったにしろ、少なくとも智恵子は着飾ることは無くなりました。

そんな智恵子をして、「あなたはだんだんきれいになる」と謳う光太郎。たしかに智恵子は世間一般の女性よりも、服装その他に頓着することはなかったのかもしれませんが、ここに後の大きな悲劇につながる危険性が見て取れるような気がします。

それを題名に持ってくるあたり、単なる二人の純愛物語、という作りではないのでしょう。といって、PVや公式サイトで見る限り、リスペクトの要素も見て取れますので、期待したいと思います。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 11月21日

平成12年(2000)の今日、鳥取県立図書館で「高村光太郎の書――用と美の間(あわい)」展が開幕しました。

日本教育大学協会全国書道教育部門、全国大学書道学会、全国大学書写書道教育学会の三学会合同大会を記念する催しでした。関連行事として当会顧問・北川太一先生の記念公演「光太郎の人と書論」が、24日、鳥取県民文化会館で開催されました。

東京レポート。

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昨日は文京区大塚にて、「第60回高村光太郎研究会」に参加して参りました。

そちらが午後2時からということで、その前に国立国会図書館に寄りました。来月、智恵子の故郷・二本松で開催される「智恵子のまち夢くらぶ」さん主催の「智恵子講座’15」第3回で講師を仰せつかっており、その調査のためでした。

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国会議事堂周辺、色づいた公孫樹がいい感じでした。

智恵子の母校・日本女子大学校(現・日本女子大学)、その同窓会である桜楓会、同校卒の平塚らいてうらによる『青鞜』などにつき、目星をつけていた資料を漁って参りました。

そのうちの一つ、『青鞜』の明治45年(1912)2月発行、第2巻第2号。智恵子が表紙絵を描いています。

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こちらには、前月に大森の富士川という料亭で開催された青鞜社の新年会の様子がレポートされています。智恵子もこの会には参加しています。

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中央が智恵子、右から二人目が平塚らいてうです。

その記事自体は、昭和52年(1977)に文治堂書店さんから刊行された『高村光太郎資料』第六集に転載されており、以前に読んだことがありました。さらに、新年会当日の寄せ書きも掲載されていることを知り、こちらは不鮮明な画像でしか見たことがなかったので、改めて見てみました。

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この中に、智恵子の筆跡も含まれていると思われ、見つけようと思いました。『青鞜』の記事と照らし合わせると、中央に「強きものよ汝の名は女なり」と書いているのが武市綾。しかし、それ以外がわかりません。やはり記事と照らし合わせると、らいてうが「酒めし」と書いているはずなのですが、それもどこに書いてあるか不明ですし、それ以外の部分、やはりよくわかりませんでした。今後の課題とします。

それから、先だっていただいた智恵子の里レモン会さんの会報に、中村屋サロンを形作った若き芸術家の一人で、彫刻家の鶴田吾郎が語った同じく彫刻家の中原悌二郎に関する談話の中に、智恵子が登場するという記事が載っていました。出典が碌山美術館さん刊行の『中原悌二郎集』(昭和63年=1988)だそうで、その記事も調べて参りました。

中原は、明治三十九年の正月に友人と二人で北海道から上京して四谷の寺に住い金に困るものだから墓場の卒塔婆を抜いて来ては燃して自炊生活をしていました。(略)そして、中原と中村(彝)と私が太平洋(画会)へ移ったのですが、(略)当時居たのは、渡辺与平、それから水母(くらげ)と仇名された長沼智恵子、埴原桑代、坂本繁二郎などが居ました。

若き日の智恵子のあだ名が「クラゲ」。平塚らいてうは、智恵子を「骨なしの人形のようなおとなしい、しずかなひと」と評していたので、そのあたりからの連想なのかな、と思っていたのですが、先の『青鞜』の新年会の記事を改めて読み直してみると、そこにも「くらげ」が記されていました。

荒木氏のコートを襠のやうに引つかけた海月のやうな長沼氏の姿が目に浮んだ。

「海月」が「くらげ」、荒木氏は『青鞜』メンバー荒木郁、「襠」は「まち」と読みます。小柄な智恵子がコートを羽織る姿がクラゲのようだという連想ですね。

そういえば、太平洋画会研究所に通っていた頃も、

コバルト色の長いマントの衿を立てたなり羽被つて、白い顔をのぞかせ、顔の上には英国風に結つた前こごみの束髪が額七部をかくし、やつと目を見せていた。
(小島善太郎「智恵子二十七、八歳の像」昭和33年=1958 『高村光太郎全集月報11』)

という姿が記憶されています。おそらく、こうしたコートやマントといった套衣を羽織った姿が、「クラゲ」につながったのではないのでしょうか。


国会図書館ではその他、日本女子大学校関連についていろいろと調べました。

その後、護国寺駅近くのアカデミー音羽へ。第60回高村光太郎研究会に参加いたしました。

発表は佛教大学総合研究所特別研究員・田所弘基氏の「高村光太郎の戦争詩――『詩歌翼賛』を中心に――」 、『雨男高村光太郎』というご著書のある西浦基氏で「「画家アンリ・マティス」高村光太郎訳」

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お二人の熱のこもったご発表と、当会顧問・北川太一先生の的確なコメントとで、有意義なものとなりました。北川先生は、高村光太郎研究会の顧問もなさっています。

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北川先生には、先ほどの寄せ書きのコピーをお渡しし、解読を依頼して参りました。詳しく解りましたら、またレポートいたします。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 11月22日

平成5年(1993)の今日、文学座の舞台「愛しすぎる人たちよ 智恵子と光太郎と」の名古屋公演が開催されました。

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作・鈴木正光氏、演出・加藤信吉氏、光太郎役が石田圭祐さん、智恵子役は平淑恵さんでした。

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渡辺えりさん率いる劇団3○○(さんじゅうまる)の舞台「月にぬれた手」で、光太郎役をなさった金内喜久夫さん、光太郎の母・わかなどの役だった神保共子さんもご出演なさっていました。

この月11日から20日までが東京公演、さらにこの後、尼崎、貝塚、赤穂、門真、豊中と巡回公演されました。

平田俊子『戯れ言の自由』/『佛教大学大学院紀要文学研究科篇』第43号。

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新刊紹介です。 

戯れ言の自由

2015年10月31日 思潮社刊 平田俊子著 毛利一枝装幀  定価 2,300円+税

帯文から

お湯はいつでも沸かしておこうよ、誰も帰ってこない日も――。不確かな日々が求める、こころを少し明るくするもの。日本語という小さな舟がひとの思いを運んでいく。鋭くもしなやかに、全身でともすことばの灯り、詩28篇。

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故・長田弘氏の後を承け、今年から『読売新聞』さんの「こどもの詩」を担当されている平田俊子氏の詩集です。書き下ろしを含め、平成16年(2004)から今年までの詩作品28編から成ります。

光太郎に触れて下さった詩篇が二つ。

「アストラル」。商品名なのか、メーカーの名前なのか、昭和29年(1954)、草野心平が光太郎のために骨折って入手した電気冷蔵庫です。

その電気冷蔵庫をめぐり、深い絆で結ばれた光太郎、心平、宮沢賢治、そして心平の弟で、早世した草野天平(歿後、『定本草野天平詩集』により、昭和34年(1959)の第2回高村光太郎賞を受賞)をからめ、詩人達の織りなす人間模様を謳った詩です。初出は平成24年(2012)の『現代詩手帖』さん。

昭和27年(1952)、天平危篤の報に、心平はアイスクリームを魔法瓶に詰め、天平の元に向かいました。

遡って大正11年(1922)、結核に冒された賢治の妹・トシは、兄に「あめゆじとてきてけんじや(雨雪=みぞれを取ってきてください)」と言いながら、歿しました。

さらに昭和13年(1938)、智恵子は光太郎の持参したサンキストのレモンをがりりと噛んで、それなりその機関を止めました。

そして昭和29年(1954)、心平は光太郎のためにアストラルの冷蔵庫を手に入れました。

詩「アストラル」はこう結ばれます。イメージ 4

光太郎はまもなく亡くなり
アストラルは心平が譲り受けた

アストラルのその後は知らない
光太郎の死後 五十余年
心平の死後 二十余年
今もどこかで冷たいものを
いっそう冷たくしているだろうか
扉を開けると
アイスクリームとレモンと
あめゆじゆが
もの言いたげに並んでいるだろうか

右上は光太郎終焉の地・中野の中西家アトリエです。おそらく右端に写っている白い箱が問題の冷蔵庫でしょう。


『戯れ言の自由』には、もう一篇、「まだか」という詩で、光太郎に触れられています。

戦後の昭和22年(1947)、花巻郊外太田村の山小屋で書かれた連作詩『暗愚小伝』の構想段階で入っていた「わが詩をよみて人死に就けり」がモチーフに使われています。清家雪子さんの漫画『月に吠えらんねえ』第二巻でも、この断片がモチーフに用いられていました。

その他の詩篇も、ユーモアとヒューマニティーにあふれ、特に言葉に対するユニークな見方や表現は、やはり『読売新聞』さんの「子供の詩」担当だった故・川崎洋の詩を彷彿とさせられました。


もう一冊。先日、第60回高村光太郎研究会に参加した折、発表者の佛教大学総合研究所特別研究員・田所弘基氏からいただきました。 

佛教大学大学院紀要文学研究科篇 第43号 抜刷 高村光太郎の短歌と美術評論――留学直後の作品を中心に――

2,015年3月1日 佛教大学大学院文学研究科篇 田所弘基著 

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当方も、思うところあって、現在確認されている光太郎の短歌すべて(約800首)を細かく読み返しているところでして、この論文も興味深く拝読しました。

大学のエラいセンセイの論文には、枝葉末節にこだわるあまり「木を見て森を見ず」の状態に陥っているものや、いかにも紀要等にノルマとして書かなければならないから書いただけと思われる内容の薄っぺらなものや、動かしようのない史実を含めた根本的な所で大きな誤解をしているもの、牽強付会にすぎるもの、引用のみでありながらさも自分の考えのように装っているものなど、実りのあるものがあまり見受けられません。特に、文学系は、自分もそういう指導を受けてきましたが、「批判的に読む」という流れがあり、対象の人物を上から目線で捉え、けちょんけちょん(死語?)……「では、あなたの人間性はどうなの?」というものにも出くわします。

この論文はそういう所もなく、素直に書かれたいい論文です(という評をする当方も上から目線のようですが)。

入手には、こちらまでご連絡いただければ仲介いたします。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 11月23日

昭和16年(1941)の今日、『朝日新聞』に「新穀感謝の芸能祭」という記事が載りました。

新嘗祭をまへに日本文化中央聯盟では二十二日午後一時から九段の軍人会館で新穀感謝祭奉献芸能の会を開いた
新穀感謝の厳かな祭式ののち小山松吉理事長の挨拶があり、儀式唱歌『新嘗祭』や『新穀感謝のうた』がバリトン伍長伊藤武雄氏、二葉あき子さんはじめコロムビア女声合唱団によつて唱はれたがさらに舞踊、箏曲、講演などで豊穣の譜を讃へ最後に農村女子青少年団用につくられた素人劇『いろはにほへと』映画『土に生きる』が上映され同四時半終つた

『新穀感謝のうた』は光太郎作詩、信時潔作曲の歌曲です。この年に製作されました。

あらたふとイメージ 1
あきのみのりの初穂をば
すめらみことのみそなはし
とほつみおやに神神に
たてまつる日よいまは来ぬ

あらたふと
あきのみのりの田面(たのも)には
穂波たわわにしづもりて
神のたまひし稲種(たなしね)は
いま民の手に糧となる

あらたふと
あきのとりいれ倉にみち
君にささぐる國民(くにたみ)の
いきのいのちのはつらつと
いやきほひ立つ時は来ぬ

その後、題名が二転三転し、最終的には「新穀感謝の歌」で落ちつきました。

今日は勤労感謝の日ですが、この日はもともと、宮中で行われていた、五穀の収穫を神に感謝する新嘗祭(にいなめさい)を起源としています。

映画「FOUJITA」レビュー(その1)。

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今月14日に封切られ、光太郎にも触れられる小栗康平監督作品「FOUJITA」。新聞各紙のレビューをご紹介します。 

映画「FOUJITA」 描き続けた「物語を超える絵」

『産経新聞』2015年11月20日イメージ 1
 仏で活躍後、第二次大戦中に戦争協力画を描いたとして非難され、日本を捨てた画家、藤田嗣治(つぐはる)。公開中の「FOUJITA」は、「泥の河」(昭和56年)などで知られる小栗康平監督(70)が、その複雑な人物像に迫った作品だ。浮かび上がってきたのは、時代を超え、絵だけに生きようとした男の姿だった。(岡本耕治)
                   ◇
 「高村光太郎は戦後、戦争協力の詩を書いたことを反省して田舎に引っ込んだが、それが普通の日本人のメンタリティー。しかし、藤田は批判にびくともせず、反省もしなかった。その強さに興味を持った」と小栗監督は話す。
 「FOUJITA」の前半では、1920年代のパリを舞台に、乳白色の裸婦像で注目を浴び、時代の寵児(ちょうじ)となった藤田(オダギリジョー)が仲間とバカ騒ぎに興じる姿が描かれる。後半は、40年代の日本が舞台。藤田は戦意高揚のための展覧会で、展示された自作「アッツ島玉砕」の前に賽銭(さいせん)箱を置き、人々が金を投げ入れるたびに頭を下げることまでしてみせる。
 「人としてどうなのか、という批判はあるだろう。でも、仏で第一次大戦後の狂乱の時代を体験した藤田は軍部に協力しながら、実は何も信じていなかったのではないか。是非は別にして、彼は絵を描くこと、絵の世界で1番になることしか考えていなかったし、そうやって仏でも日本でも成功を収めたんでしょう」
 展覧会で、戦争未亡人らしき女性が作品の前で泣き崩れるのを見た藤田が、「絵が人の心を動かすものだ、ということを私は初めて目の当たりにしました。今日は忘れがたい日になりました」と語るシーンがある。オダギリは抑えた演技で、戦争画というジャンルに強い確信を抱いた藤田を表現。小栗監督は「(オダギリは)不思議な俳優。意見もあまり言わず、こっちの話を聞いているのか、いないのか分からない感じなのに、芝居をやらせるとすごく良い」と笑い、その演技力を絶賛する。
 「絵は絵空事なのだから、物語があった方が良い」「良い
イメージ 4絵はいつしか物語を超えて生き延びます」という藤田のせりふに、その思いが浮かび上がる。しかし、絵のみを見続けた藤田に対し、戦後の日本は激しい非難を浴びせ、藤田は日本を去ってしまう。
映画であれ、絵画であれ、純粋に作品だけを見ることはとても難しい。
 「『アッツ島玉砕』は、当時と今、さらに2030年に見るのでは意味合いが違ってみえる。作品は“その時々の物語”を持っていて、その物語に私たちはいつもだまされてしまう」と小栗監督。「私も、物語を超える映画を作っていきたいですね」と語った。

 

「FOUJITA」 小栗康平監督

『読売新聞』2015年11月14日イメージ 2
 画家、藤田嗣治を主人公にした「FOUJITA」(フジタ)が14日から公開される。「泥の河」「死の棘とげ」などで知られる小栗康平監督による10年ぶりの新作だ。
 小栗監督の映画としては2005年の「埋もれ木」以来となる本作は、日仏合作。フランス側のプロデューサーを務めたのは、「アメリ」などで著名なクローディー・オサールだ。
 小栗監督は「資金的なことも当然あるが、フジタについては、内容的にも一緒に作らないと成り立たないものでした」と語る。
 1886年、明治の日本に生まれた藤田は1913年に渡仏し、20年代のパリを代表する画家の一人として活躍。40年に帰国してからは、数多くの戦争画を手がけ、そのことで戦後、批判を受けた。その後、日本を離れ、フランス国籍を取得。カトリックの洗礼を受けてレオナール・フジタとなる。68年に死去し、自らフレスコ画などを手がけた、ランスの礼拝堂に眠る。
 映画「FOUJITA」が描くのは、二つの時代、二つの文化の中の藤田。映画の前半は20年代のパリ、後半は40年代の日本での姿を見せる。
 「伝記ではなく、20年代のパリと、40年代の戦時の日本を並置して、映画という同一の時空間にとどめることで、何をそこから感じ取るか。それをどう自分のものにするか、という作品だと思うんです」
 そして、それは、「近代とは何か」という問いかけにもつながっていく。
 「いろいろな問いかけが、フジタからひもとくことができるはずです」
 国民国家の成り立ちも、個人のあり方も、まったく違う、二つの社会を生きた藤田。パリでは日本的な線描の裸婦像で成功し、日本ではヨーロッパの歴史画を思わせる戦争画を描いた。小栗監督は、そんな藤田を「文化の衝突」の中で生きた人間と見る。
 「時代の中で闘っていますよね。そして、その闘いは今の僕らとも無縁ではない。闘っている人間だからこそ持つ悲しみのようなものがあるはずです。深く一つのことをなして生きたフジタという男だからこそ、初めて表れる悲しみや感情の起伏が映ればいい
イメージ 5、と思っていました」
 藤田はどんな場所に、どんなたたずまいで存在していたのか。この映画はロングショットでじっくりと映し出す。
 「映画は言葉を撮るわけじゃない。事物の存在の『相』というようなものを撮るわけで、ローカリティー(場所や土地)と結びつかない限り深まっていかない。それは、ものがどこにあるのかとか、場をとらえることとも関連してくると思います」
 「近代の華」として世界に広がった映画のあり方に対する問いかけも、この作品は内包している。(恩田泰子)

 

静けさから迫る実像 藤田嗣治描く「FOUJITA」14日公開

『東京新聞』2015年11月12日 朝刊イメージ 3
 「泥の河」などで知られる小栗康平監督(70)の最新作「FOUJIT(フジタ)A」が14日公開される。第2次大戦前のフランスと戦中の日本と二つの国で生きた画家藤田嗣治(ふじたつぐはる)(1886~1968年)を、静かで穏やかな映像美で描いた。 (砂上麻子)
 FOUJITAはフランス語でフジタと読む。「埋もれ木」(二〇〇五年)以来、小栗監督が十年ぶりに選んだ映画の主人公は藤田。「特別に好きな画家ではなかった。裸婦像、戦争画、戦争協力という一般的なフジタ像しかなかった」と振り返る。
 「藤田はパリの人気者、戦争協力者などあふれるほどのエピソードがあるが、エピソードを積み上げても類型的な人物像を描くだけ」と語る小栗監督がひかれたのは藤田の絵画。「絵の中の静けさから藤田を描くことができると思った」
 映画は一九二〇年代のパリと四〇年代の戦時中の日本をそれぞれ一時間ずつ前半と後半の二部構成のようにつなげた。パリ時代の「乳白色の肌」で知られる裸婦像と、「アッツ島玉砕」(四三年)など暗く重厚な戦争画とその作風からも分かるように、藤田の暮らしぶりも、ばか騒ぎを繰り広げるパリと田舎へ疎開した日本とでは対照的。「変節の人だと言われるが、異文化の中で一人の人間がねじれながらも生き抜く姿を自分なりに描いた」
 過激な表現があふれる昨今の映画を「動」とするならFOUJITAは「静」。絵画のように観客は見て感じるしかない。「絵画も映画も画像の中で事物がどう置かれるかという点で出発は同じ。映画はトーキーになり言葉が形作る物語を追い掛けるようになり最初にあった感動を
イメージ 6失ってきた。映画の原点に戻った。絵画へのオマージュだ」と話す。
 主人公藤田にオダギリジョーを選んだのは小栗監督。「猫のようになよっとした身体感覚が藤田と似ている」。劇中のオダギリジョーはおかっぱ頭に丸めがね、耳にはピアスと外見は往年のフジタにそっくり。「外見だけでなく存在そのもので藤田を演じていた」と評価する。
 終戦の年に生まれ七十歳になった小栗監督。三十五歳の時に「泥の河」でデビューした。その後も戦争の影響を感じさせる作品を撮り続けてきた。「戦後七十年の今年、藤田に出会えたのは運命だった。藤田を通じて自分も原点に戻ったようだ」と振り返った。


長くなってしまいましたので、続きは明日。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 11月24日

昭和60年(1985)の今日、埼玉県東松山市中央公民館・同市立図書館で開催されていた「高村光太郎 「智恵子抄」詩句書展」が閉幕しました。

生前の光太郎と交友のあった当時の市教育長・田口弘氏所蔵の光太郎書、資料を中心にした展覧会でした。

映画「FOUJITA」レビュー(その2)。

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昨日に続き、今月14日に封切られ、光太郎にも触れられる小栗康平監督作品「FOUJITA」の新聞各紙に載ったレビューです。 

FOUJITA:オダギリジョーが抑えめ演技とオカッパ頭でなりきり 不世出の画家・藤田嗣治を描く

『毎日新聞』2015年11月13日イメージ 1
 俳優のオダギリジョーさんが主演した映画「FOUJITA」(小栗康平監督)が14日に公開される。1990年の「死の棘」で第43回カンヌ国際映画祭審査員特別グランプリと国際批評家連盟賞をダブル受賞するなど海外でも評価の高い小栗監督が、芸術の都パリからも愛された不世出の日本人画家・藤田嗣治(つぐはる)の半生を描いた。オダギリさんは猛特訓したというフランス語も披露している。
 「FOUJITA」は日仏合作。1913年に27歳の若さで単身フランスに渡り、1920年代に発表した「ジュイ布のある裸婦」などで描いた裸婦が“乳白色の肌”と称され絶賛を浴び、一気に名声を高めた藤田の半生と藤田が生きた、“二つの時代“を描いている。“フーフー”というお調子者を意味する愛称で呼ばれ、毎夜カフェへと繰り出し、享楽的な生活を送りながら、3人の女性と結婚。さらに大作「五人の裸婦」完成により、その名声を確固たるものとした藤田の“パリ時代”と、第二次世界大戦が始まり、1940年代に入り帰国した藤田は陸軍美術協会のもとで国民の戦意高揚のため、戦争協力画を描く仕事をし、その後、疎開先の田畑が広がる山の麓の村で、日本の原風景を発見していくという時代を描いた。
 半生を描いたとはいえ、伝記映画としての色合い、見る者を引き込むような物語性は希薄で、大戦を分岐点にした二つのパラレルワールドを遠くから眺めているような感覚にも陥る不思議な作品だ。ワンシーン、ワンシーンが絵画的で、劇中で主人公のせりふに「絵はしょせん絵空事、物語があったほうがいい」とあるが、今作もいい意味で“絵空事(フィクション)”になっている。主演を務めたオダギリさんは、映画「S?最後の警官?奪還 RECOVERY OF OUR FUTURE」での狂気をはらんだテロ
イメージ 2リストや放送中の深夜ドラマ「おかしの家」でのモラトリアム青年とも大きく異なり、抑え気味の演技から藤田の画家としての傲慢さや尊大さ、プライドを匂い立たせるという見事なカメレオン俳優ぶりを発揮。一部で“藤田の生き写し”といわれる前髪パッツンのオカッパ頭にメガネ、チョビヒゲ姿というオダギリさんのなりきりぶりにも注目したい。
 藤田の“5番目の妻”君代を女優の中谷美紀さんが演じ、岸部一徳さん、加瀬亮さん、青木崇高さんらも出演。14日から新宿武蔵野館(東京都新宿区)ほか全国で公開。(山岸睦郎)

 

FOUJITA 「一対の絵画」際立つ映像美

『日本経済新聞』2015/11/6イメージ 3
「埋もれ木」に続く10年ぶりとなる小栗康平監督の新作である。1920年代のパリで活躍した日本人画家、藤田嗣治の生涯を、エコール・ド・パリの寵児(ちょうじ)としての時代と、帰国後に戦争画を描いた時代という2つの時期に分けて描きながら、時代に翻弄された天才画家の相反する姿を問いかけている。
 1920年代のパリ。乳白色の裸婦像で有名になったフジタ(オダギリジョー)は、お調子者という意味の「フーフー」の愛称で人気者となり、毎晩のようにカフェ・ロトンドに繰り出して画家仲間とバカ騒ぎをしている。そんな中、大作「五人の裸婦」も完成。新しい恋人と仮装舞踏会を開いてお祭り騒ぎに興じる。
 1940年代の日本。国民総力決戦美術展に展示された「アッツ島玉砕」の絵の前で人々に敬礼するフジタ。やがて戦局が悪化して5番目の妻の君代(中谷美紀)と田舎の村に疎開したフジタは、古くからの日本の自然や暮らしを発見していく。フジタがサイパン島のバンザイクリフの絵を描く中、母屋の小学校教師に赤紙が届くのを知る。
 物語の前半と後半は等しい描写時間を占めるが、両者の転換に一切説明はなく唐突に歳月を超えてつながっている。前半はパリでのエピソードが重ねられていく印象だが、後半はCGによるキツネの登場など、小栗監督にしばしば見られる幻想的な世界が見られて心を揺さぶられる。
 映像は際立って美しい。パリのアトリエなど暗
イメージ 4い室内シーンが見られるが、当時の光を尊重しているようなリアル感があり、好感が持てる。映画は前半と後半で一対の絵画を見るような印象が強く、両者を貫くフジタの生きざまを見るものが想像するのをうながしているようで面白い。
 ラストに映し出されるフジタが手がけたランスの教会の映像も見逃せない。2時間6分。
★★★★ (映画評論家 村山 匡一郎)



関連するテレビ番組の放映もありますので、ご紹介しておきます。 

SWITCHインタビュー 達人達(たち)「オダギリジョー×舘鼻則孝」

NHKEテレ 2015年11月28日(土)  22時00分~23時00分

達人達が見ている景色、お見せします。
 異なる分野で活躍する2人の“達人”が出会い、語り合う。ただし、単なる対談番組ではありません。
 番組の前半と後半でゲストとインタビュアーを「スイッチ」しながら、それぞれの「仕事の極意」について語り合い、発見し合う、いわばクロス×インタビューです。

オダギリジョーが指名したのは、レディー・ガガの靴のデザインで知られる舘鼻則孝。アート通ファッション通でもある俳優と世界が注目するアーティストが、静かに響き合う!

おいらんの高げたからインスピレーションを得たヒールレスシューズなど、伝統工芸と日本の現代的美意識を融合させたアバンギャルドな作品で注目される舘鼻。30歳の若きアーティストの発想の秘密にオダギリが迫る。さらに2人は美術館でオダギリが演じた画家・藤田嗣治の作品を鑑賞。オダギリの独特の存在感の秘密、役への入り方を探るうち、技術と感性のバランスの取り方など、「表現」にともなうそれぞれの葛藤が浮き彫りになる。

出演 俳優…オダギリジョー,アーティスト…舘鼻則孝,演出家…テリー伊藤
語り 吉田羊,六角精児

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美の巨人たち 藤田嗣治 「寝台の裸婦キキ」イメージ 6

本放送 テレビ東京  2015年12月5日(土)  22時00分~22時30分
再放送 BSジャパン  2016年1月13日(水) 23時00分~23時30分

ナレーション 小林薫,蒼井優


映画と併せてご覧下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 11月25日

昭和28年(1953)の今日、約1年ぶりに、花巻に戻りました。

昭和20年(1945)、東京のアトリエを空襲で焼け出された光太郎は、宮澤家の招きで花巻に疎開、その年の秋には郊外太田村の山小屋(高村山荘)に入り、独居自炊の生活を7年間送りました。

同27年(1952)、青森県から依頼された「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、再び上京。中野の故・中西利雄のアトリエを借りました。

翌28年(1953)10月には十和田湖で像が除幕。その約1ヶ月後の今日、特急「みちのく号」を使って花巻に。12月5日まで滞在しました。ただし、山小屋には行ったものの、そこで寝泊まりせず、大沢温泉、志戸平温泉、花巻温泉松雲閣などに宿泊しました。滞在中には、ブリヂストン美術館制作の美術映画「高村光太郎」のロケも行われました。

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その後も住民票は太田村に残したまま、東京と太田村を行ったり来たりしながらの生活を考えていましたが、健康状態がそれを許さず、結局、この時を最後に、二度と花巻、太田村に足を向けることはありませんでした。

原節子さん訃報。

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昭和を代表する元女優の原節子さんの訃報が出ました。既に今年9月に亡くなられていたとのこと。謹んでご冥福をお祈りいたします。 

伝説の映画女優、原節子さん死去 95歳 

 戦前から戦後にかけて銀幕のトップスターとして活躍、42歳の若さで突然引退した後は「伝説の女優」といわれた原節子(はら・せつこ、本名会田昌江〈あいだ・まさえ〉)さんが9月5日、肺炎で死去していたことがわかった。95歳だった。
 横浜市生まれ。女学校2年の時に義兄の熊谷久虎監督に女優の道を勧められ、1935年、日活多摩川撮影所に入社、「ためらふ勿(なか)れ若人よ」でデビューした。芸名の「節子」はこの時の役名からとった。
  山中貞雄監督の「河内山宗俊」など清純な美しさとかれんな演技で注目を浴び、36年、アーノルド・ファンク監督から、日独合作映画「新しき土」の主役に抜擢(ばってき)された。
  東宝系の会社に移籍。戦争映画への出演を経て、戦後の46年、黒澤明監督の「わが青春に悔なし」で、生の輝きに満ちた新しいヒロイン像を演じて注目を集めた。第2次東宝争議の最中、組合の政治闘争主義に反発し、長谷川一夫、高峰秀子らとともに組合を脱退し、47年3月に創立した新東宝に参加。この年の6月にフリーとなった。
  以降、「安城家の舞踏会」「お嬢さん乾杯!」「青い山脈」などに主演。みずみずしい美貌(びぼう)と着実に成長した演技力を発揮した。49年の小津安二郎監督の「晩春」では、大学教授の父(笠智衆)と暮らす、婚期を逸した娘のこまやかな愛情を好演。この年の毎日映画コンクールの女優演技賞を受けた。
  「白痴」「麦秋」「めし」「東京物語」「山の音」など、戦後映画を代表する作品にたて続けに主演した。54年には、白内障の手術を受けたが、翌年、「ノンちゃん雲に乗る」で鰐淵晴子の母親役で再起した。
  その後も、「東京暮色」「秋日和」「小早川家の秋」など小津作品や、「智恵子抄」などで活躍したが、62年、「忠臣蔵」を最後に突然引退した。
  その後は神奈川県鎌倉市の自宅で静かに暮らし、パーティーなどの公の場には一切登場せず、マスコミなどの取材にも応じていなかった。それがかえって神秘的なイメージを生んだ。
(『朝日新聞』)

記事にもある通り、原さんは映画「智恵子抄」にご出演、(もちろん主演の智恵子役)。昭和32年(1957)、東宝制作、熊谷久虎監督作品、光太郎は故・山村聰さんが演じられました。

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この映画は原さんの主演作としては、あまり高い評価を受けませんでした。今後、テレビ放映で「原節子追悼特集」的な企画があるかも知れませんが、「智恵子抄」は取り上げられるかどうか微妙なところです。しかし、智恵子は原さんとしてはぜひとも演じたかった役だったそうです。

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最近もときおり上映されていました。


また、かつてVHSビデオが販売されていまして、当方はそれで観ました。この際ですので「原節子全集」的なDVDボックス等を発売し、ラインナップに入れていただきたいものです。

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その他、ポスター、パンフレット、チラシ、スチール写真、撮影風景を写したスナップ写真、当時の雑誌、シナリオなどなどが手元にけっこうあります。その一部を、平成23年(2011)、群馬県立土屋文明記念文学館で開催された企画展「『智恵子抄』という詩集」の際にお貸しし、展示されました。年配のお客様には「あらー、原節子よー」ということで、好評だったそうです。「原節子展」的な企画をなさる際には、お貸ししますのでご連絡下さい。

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【今日は何の日・光太郎 拾遺】 11月26日

平成23年(2011)の今日、テレビ東京「美の巨人たち」で、「高村光太郎「乙女の像」」が放映されました。

十和田湖はもちろん、花巻郊外旧太田村の高村山荘でのロケも行われました。光太郎の令甥、故・高村規氏もご出演。ブリヂストン美術館制作の美術映画「高村光太郎」に収められた生前の光太郎の姿も使われ、内容の濃いものでした。

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十和田湖、というと、NHKさんの「小さな旅」で、十和田湖が扱われます。
NHK総合 
本放送 2015年11月29日(日)  8時00分~8時25分
再放送 12月5日(土) 午前 5:15

青森と秋田の県境にある十和田湖。紅葉の絶景を求める大勢の観光客でにぎわいます。湖畔で観光客が舌鼓を打つのは、名産のヒメマスです。放流されたヒメマスは、秋になると、産卵のため、生まれ故郷の養殖場へ遡上してきます。紅葉とともにやってくるのは冬の足音。地元の人たちは野菜やヒメマス、きのこなど、秋の恵みを蓄え、冬に備えます。山奥の湖を切り開き、守り継いできた湖畔の人々の、晩秋の暮らしを訪ねる旅です。

出演者 山田敦子(語り)

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少しでも「乙女の像」を紹介していただきたいものですが……。

火曜日に放映された「趣味どきっ! 石川九楊の臨書入門 第8回▽最愛の妹への思い~宮沢賢治×トシ」では、結局光太郎は紹介されませんでした。残念です。

ナビゲーター役の羽田美智子さんのブログでは、「賢治と高村光太郎の意外な関係も。」の一文があって、光太郎が揮毫した賢治詩碑の写真も載っており、期待していたのですが……。25分の短い番組ですので仕方がないでしょう。

「福の島プロジェクト 福島応援団四周年記念 第四回 ふくしまの食材を使ったフレンチの夕べ」レポート。

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昨日は、東京上野に行っておりました。目的は、大正3年(1914)、光太郎智恵子が結婚披露宴を行った精養軒さんでの、「福の島プロジェクト 福島応援団四周年記念 第四回 ふくしまの食材を使ったフレンチの夕べ」でした。

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東日本大震災からの復興支援ということで、福島の食材の魅力をアピールする催しで、さまざまな団体さんの協賛のもと、政財界を始め100名あまりの参加者が集い、盛大な催しとなりました。

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会場内には即売コーナーも。

まずはオープニングライブということで、「智恵子抄」に自作の曲をつけて唄われているシャンソン歌手のモンデンモモさん。会場の一角をパーテーションで仕切った即設のライブスペースで行いました。

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ピアノ伴奏は船本美奈子さん。

特に「樹下の二人」(あれが阿多多良山/あの光るのが阿武隈川)、「あどけない話」(智恵子は東京に空が無いといふ、/ほんとの空が見たいといふ。)といった、福島を謳った作品には、お聴きの皆さんも心打たれたようでした。

その後、メイン会場に戻り、「フレンチの夕べ」でした。

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主催者であられる「福の島プロジェクト」さんの小林文紀会長、「ほんとの空」にからめてのご挨拶。

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乾杯の御発声は、川内村村長・遠藤雄幸氏。

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同村で毎年開催されている、当会の祖・草野心平を偲ぶ「かえる忌」や「天山祭」の関係で、遠藤村長とは親しくさせていただいており、昨夜もいろいろお話をさせていただきました。一昨年の第2回からご参加なさっているとのこと。

その後は美味しい料理を堪能いたしました。ひさしぶりに日本酒もいただきました。

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一品ずつ、生産者や販売者の方、関係者の方による説明があってから饗されるというスタイルで、それぞれの方の熱い思いが語られました。

上記は鯉の唐揚げの際のご説明。郡山市長・品川萬里氏です。食用の鯉は、福島が全国一の生産量だそうです。

後半には再びモンデンモモさんと船本美奈子さんがご登場、今度はシャンソンのスタンダードナンバーをご披露なさいました。

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モモさん、ご来賓のフランスの方をステージに上げ、デュエット。相変わらず強引です(笑)。

そして閉会。

帰りがけ、参加者全員に、福島産の薔薇一輪と、お米「天のつぶ」(500㌘)が配られました。ありがたや。

薔薇はさっそく書斎に飾ってある光太郎遺影に供えさせていただきました。

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お米もいずれいただきます。



まだまだ福島の復興も道半ばです。いわれなき風評被害はだいぶ治まったようですが、これからは、「風化」との闘いでしょう。皆様も、ご支援のほどお願いいたします。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 11月27日

大正14年(1925)の今日、光太郎の父・高村光雲が、勲二等瑞宝章に叙せられました。

原節子さんの二本松ロケの写真発見。

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一昨日、訃報の出た元女優・原節子さんがらみの記事が、福島の地元紙『福島民友』さんに掲載されました。 

原節子さんの二本松ロケの写真発見 智恵子記念館が保管

 昭和を代表する女優で、亡くなった原節子さんが、二本松市出身の洋画家・紙絵作家高村智恵子を演じた東宝映画「智恵子抄」のロケで同市を訪れ、その際に撮られた写真が智恵子の生家近くに立つ智恵子記念館の収蔵庫に保管されていたことが26日、分かった。同市文化課の職員が発見した。
 
 写真は人目に触れる機会があまりなかったとみられ、アルバムのような形で整理されていた。この中にはロケを報じる新聞記事の切り抜きなども収められていた。
 映画は東宝が制作、1957(昭和32)年に公開された。当時の新聞記事によると、二本松ロケは同年3月に行われたとみられ、かつて酒造業を営んでいた智恵子の生家や県立霞ケ城公園でロケをしたとあった。
 写真は本丸天守台に立つ原さんと夫の光太郎役を演じた山村聰さんの姿を撮影。そのほか智恵子の生家でのロケの様子を撮った写真もあった。
 智恵子と光太郎を顕彰する「智恵子のまち夢くらぶ」の熊谷健一代表(65)は「私は当時7歳で記憶はないが、また聞きですごい人だかりだったと聞いている。智恵子の生家の通りをはさんで向かいの家も、2階まで人がびっしりだったようだ」と話した。

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東宝映画「智恵子抄」では、2回にわたり二本松でのシーンが使われています。それぞれ、旧安達町の智恵子生家、二本松霞ヶ城でロケが行われています。合間には安達太良山や阿武隈川の風景も。

まず、智恵子生家。1回目は、史実でいうと大正9年(1920)。光太郎が初めて智恵子の実家、長沼家を訪れて歓待されたというシーンです。

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2回目は、やはり史実では昭和4年(1929)、破産直後の長沼家を智恵子が一人で訪れるシーンです。

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没落後という設定で、映画が制作された昭和32年(1957)当時の智恵子生家がそのまま使われました。上記の大正9年(1920)時点の生家は、看板や板などを貼り付け、往時の姿を復元して撮ったのでしょう。かなり手が込んでいます。

ただし、内部は別の家屋、もしくはセットで撮られたようで、よく見ると階段の位置等が実際とは違っていました。

続いて、霞ヶ城。

まずは大正9年(1920)。幸福だった光太郎智恵子。お約束の「樹下の二人」の「あれが阿多多良山/あの光るのが阿武隈川」が使われました。

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こちらは宣伝用のスチール写真。

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このカットは、ポスターにも使われています。そのポスターは当方の書斎に飾ってあります。

さらに昭和4年(1929)、傷心の智恵子が一人霞ヶ城を訪れるという設定です。

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ついでですのでご紹介しますが、こちらは九十九里浜での撮影の合間に撮られたスナップ。右端に写っているのは、智恵子の実妹・セツです。歴史的にも貴重です。

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九十九里では昭和8年(1933)、実際に智恵子が療養していた辺りでのロケが行われ、その頃はセツも存命でした。ちなみにセツは、10年後に撮られた松竹制作の岩下志麻・丹波哲郎版の「智恵子抄」のパンフレットにも写真が掲載されています。

どこかでまとめて展示していただけるとありがたいところです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 11月28日

昭和2年(1927)の今日、帝国大学仏教青年会で催された大調和美術講演会で講演を行いました。




「あだたら山 奥岳の湯」。

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福島ネタが続いていますので、ついでに。

富士急行さんからのプレスリリースです。 

「あだたら山 奥岳の湯」12月17日(木)オープン

富士急行株式会社では、安達太良山麓(福島県二本松市)で展開する「あだたら高原リゾート」に、日帰り温泉施設「あだたら山 奥岳の湯」を平成27年12月17日(木)オープン致します。

標高約950mに位置する「あだたら山 奥岳の湯」は、内湯の窓を全面開放することで“半露天”としてお楽しみ頂けるうえ、露天風呂の正面にはフェンスがなく、春の新緑や秋の紅葉が絶景の山並みと、高村光太郎が『智恵子抄』の中で「ほんとの空」と詠ったことで知られる「ほんとの空」を全身で楽しんで頂くことができます。

また、内湯は「源泉かけ流し」で、泉質は全国的にも珍しいph2.5の酸性泉で、筋肉痛や神経痛、疲労回復、また皮膚病への効能や美肌効果もあると言われております。

日本百名山である「安達太良山」は、春から秋にかけては大自然を楽しむ登山やハイキング、また、冬はスキー場として、年間を通じて多くのお客様がお越しになりますが、当施設の開業により、アウトドアアクティビティ後の“癒し”要素も備えた高原リゾートエリアとして、ますます魅力が高まります。「あだたら山 奥岳の湯」の開業にどうぞご期待下さい。


【NEWS】あだたら高原スキー場 今シーズンは12/12(土)オープン
あだたら高原スキー場(福島県二本松市)は、今シーズンの営業を平成27年12月12日(土)
より開始いたします。最大傾斜28度の緩急ある「ベガコース」や、スキー競技大会で使用される「アンドロメダコース」をはじめ、バリエーション豊かな7種類のコースがあり、ファミリーから上級者まで楽しむことができます。また、ゲレンデには、広々とした雪あそび広場や、そり遊びやチュービングが楽しめるキッズパークがあり、小さなお子さまも安心して遊ぶことができます。
山々を見渡すロケーションと樹林に囲まれたゲレンデ、初心者から上級者までご満足いただける豊富なコースに良質のパウダースノー、ここに新たに「あだたら山 奥岳の湯」が加わり、より魅力がアップするあだたら高原スキー場をお楽しみ下さい。


「あだたら山 
奥岳の湯」施設概要
 ■名   称 あだたら山 
奥岳の湯
 ■所 在 地 福島県二本松市奥岳温泉
  (あだたら高原スキー場隣接・安達太良山奥岳登山道入口)
 ■開 業 日 平成27年12月17日(木)
 ■営 業 日 年中無休 ※メンテナンスにより休業する場合あり
 ■営業時間 10:00~17:00
 ■延床面積  216.9m2
 ■構  造  木造平屋建て
 ■施設内容  収容可能人数80人(男女各40人)
        浴場(男女各) 内湯(9m2 )、露天風呂(20m2 )、カラン8ケ所
 ■利用料金(消費税含む) 大人(中学生以上)   600円
              こども(4才~小学生) 400円
 ■p H 値 2.5(強酸性)
 ■泉  質 単純酸性温泉
 ■適 応 症 神経痛・筋肉痛・関節痛・運動麻痺・慢性消化器病・冷え性・疲労回復
       健康増進・慢性皮膚病
 ■アクセス
   お  車:東京から東北自動車道二本松IC(約150分)、
        国道459号岳温泉経由・県道386号(約20分)
   電  車:東京駅→郡山駅(東北新幹線約90分)、郡山駅→二本松駅(東北本線約25分)、
        二本松駅→岳温泉(福島交通バス約25分)、岳温泉からタクシー約10分
■お問い合わせ
  富士急安達太良観光株式会社 あだたら高原リゾート
  TEL:0243-24-2141  
http://www.adatara-resort.com/

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智恵子の故郷・二本松にそびえる安達太良山。その中腹にあるのが岳温泉です。その歴史は古く、平安時代には既に知られていたとのこと。その後、度重なる天災や戊辰戦争などにより、興亡をくりかえして現在に至っています。熱めの酸性泉で、当方の感覚では、「気合いの入った泉質」の温泉で、大好きです。

今回オープンする「あだたら山 奥岳の湯」さんは、温泉街よりさらに山頂に近い「あだたら高原スキー場」さんに隣接し、温泉街よりさらに源泉に近い場所となります。

同スキー場には、バブル景気の頃はよく行っていました。あの頃は猫もシャクシもスキーでしたね。最近はもっぱら一人旅ですので、スキーはもういいかな、と思いますが、この湯にはぜひ浸(つ)かりたいものです。

皆様もぜひどうぞ。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 11月29日

昭和22年(1947)の今日、花巻郊外太田村の山小屋に、深沢竜一氏が訪ねてきました。

氏はその後、上京されて彫刻家になりましたが、この頃はご両親の深沢省三・紅子夫妻と共に岩手雫石で開拓をなさっていました。

遡って、昭和18年(1943)、東京美術学校在学中だった氏は学徒動員の対象となり、先輩達三人と共に、駒込林町の光太郎のアトリエを訪ねました。光太郎はすぐさま「四人の学生」という詩にその時の模様を書き記しています。

特攻隊に配属されながら、間一髪、無事に終戦を終えた氏が、四年ぶりに光太郎との再会というわけでした。

縁ありまして、今年の3月に、女優の渡辺えりさんともども、練馬の氏のご自宅にお邪魔しまして、光太郎の思い出を聴かせていただく機会に恵まれました。

その時のレポートにも書きましたが、昭和25年(1950)1月、光太郎が雫石のご自宅にやってきた際に書いてくれたという書です。

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ご存じ宮澤賢治「雨ニモマケズ」の一節です。

「にほんごであそぼ」。

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テレビ放映情報です。 

にほんごであそぼ

NHK Eテレ 
本放送 2015年12月3日(木)   6時45分~6時55分  
再放送      〃         17時10分~17時20分
      2015年12月17日(木)  6時45分~6時55分  17時10分~17時20分

2歳から小学校低学年くらいの子どもと親にご覧いただきたい番組です。日本語の豊かな表現に慣れ親しみ、楽しく遊びながら“日本語感覚”を身につけることができます。今回は、きっぱりと冬が来た「冬が来た」高村光太郎、コニちゃんの相撲の決まり手/特殊技、文楽/白雪姫、ちょちょいのちょい暗記/7級「十二ヶ月」岐阜県 白川郷、うた/村の鍛冶屋、ベベンの冬が来た

出演者 豊竹咲甫大夫,鶴澤清介,三世 桐竹勘十郎,うなりやベベン,小錦八十吉,おおたか静流 ほか

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この番組では、年に数回、光太郎作品を取り上げて下さっています。この時期は毎年のように「冬が来た」(大正2年=1913)。以前の映像の使い回しかも知れません。
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  冬が来た
 
きつぱりと冬が来た
八つ手の白い花も消え
公孫樹(いてふ)の木も箒になつた
 
きりきりともみ込むやうな冬が来た
人にいやがられる冬
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草木に背(そむ)かれ、虫類に逃げられる冬が来た
 
冬よ
僕に来い、僕に来い
僕は冬の力、冬は僕の餌食だ
 
しみ透れ、つきぬけ
火事を出せ、雪で埋めろ
刃物のやうな冬が来た


南関東に住んでいますと、まだそれほど「冬」という感覚ではないのですが、もう明日から12月ですね。十和田や花巻、そして二本松など東北各地ではもはや冬本番なのでしょうが。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 11月30日

平成11年(1999)の今日、二玄社から『高村光太郎 書の深淵』が刊行されました。

当会顧問、北川太一先生のご著書です。

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「あの日 わたしは~証言記録 東日本大震災~宮城県女川町 勝又愛梨さん」。

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このブログでテレビ放映情報をよくお届けしています。ネットのテレビ放映情報サイトで「高村光太郎」とか「智恵子抄」「高村光雲」「ほんとの空」など特定のキーワードをいくつか登録しておき、番組名や番組説明そのキーワードを含む情報が得られるように設定してあります。

さらに地名として「十和田」「花巻」「女川」「安達太良山」「千駄木」「上高地」など、光太郎智恵子ゆかりの地もキーワードとして登録してあります。それらは番組説明を精査し、光太郎智恵子にからみそうだという場合には、このブログでご紹介しています。

さて、キーワード「女川」で1件ヒットしました。 

あの日 わたしは~証言記録 東日本大震災~「宮城県女川町 勝又愛梨さん」

NHK総合東京 2015年12月7日(月)  10時50分~10時55分

東日本大震災に遭遇した人々の証言。宮城県女川町の高校生、勝又愛梨さんは、大好きだったそう祖父母を奪った津波の怖さを後世に伝えるために災害の教材づくりに取り組む。


「あの日 わたしは~証言記録 東日本大震災~」は、平日の昼間に毎日放映されている5分間番組です。震災の翌年に始まり、その名の通り、東北を中心に、東日本大震災被災者のみなさんの声を届けるという番組です。

女川町民の方の証言が取り上げられるのは初めてではありませんが、証言者の「勝又愛梨さん」に当方のアンテナが反応しました。このブログにも検索機能を設定していますので、「勝又愛梨さん」で検索したところ、2年前の「東日本大震災から1,000日。」という記事にその名がありました。

このブログでたびたびご紹介してきた宮城県女川町の「いのちの石碑」――同じ女川町にかつて建てられた高村光太郎文学碑の精神を受け継ぐプロジェクト――に関する記事です。

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このブログ内で、「いのちの石碑」に関する記事は下記の通り。 


勝又さんをはじめ、これに関わった若者たちは、石碑だけでなく「いのちの教科書」というプロジェクトも進めているそうです。来週放映の「あの日 わたしは~証言記録 東日本大震災~」では、そのあたりが紹介されるようです。

女川といえば、今春、JR石巻線の女川駅が4年ぶりに復活しました。

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町の広報紙『広報おながわ』の今月号では、駅前に新たに大規模商業施設がオープンすることが報じられています。

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毎年8月9日の、女川光太郎祭の勧進元・佐々木釣具店さんも、現在地の「きぼうのかね商店街」から駅前に移転するようです。

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月末にはいろいろとイベントも予定されているようです。追ってご紹介します。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月1日

平成8年(1996)の今日、京都市左京区の思文閣美術館で開催されていた「智恵子抄 鮮烈な生の試み」展が閉幕しました。

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紙絵の実物等も多数出品され、光太郎よりも智恵子をメインとした企画展でした。

来年は智恵子生誕130年、光太郎歿後60年です。メモリアルイヤーということで、こうした企画がまた行われてほしいものです。

女川町「いのちの石碑」。

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昨日もご紹介した宮城県女川町の「いのちの石碑」」――同じ女川町にかつて建てられた高村光太郎文学碑の精神を受け継ぐプロジェクト――。先月には新たな碑の設置が報じられていました。 

東日本大震災:女川中卒業生、離島に初「いのちの石碑」 「津波の記憶伝え続ける」 出島の2地区 /宮城

『毎日新聞』宮城版 2015年11月01日イメージ 1
 東日本大震災の教訓を後世に伝えようと活動する女川町立女川中の卒業生グループ「女川1000年後の命を守る会」は31日、津波到達地点を知らせる「いのちの石碑」の8、9基目を町内の離島、出島(いずしま)の2地区に設置した。住民らは「子どもたちが未来を運んできてくれた。津波の記憶を伝え続ける」と約束。高校生も「もっと活動を続けなければ」と決意を新たにしていた。【百武信幸】
 出島は女川港から片道約1時間の定期便で1日3便結ばれている。震災時は2地区に約500人が暮らしていたが、25人が死亡・行方不明となり、全島避難は約4カ月に及んだ。島にあった小中学校は本土の学校に統合され、住民によると、居住者は100人以下に減少しているという。
 女川中卒業生は寄付金をもとに在学中の2013年11月から石碑の設置に取り組んでおり、町内で計21基の設置を予定している。離島は今回が初めて。
 8基目が設置されたのは島北部の出島地区にある永清寺の境内。震災時は約40人が避難した。地区の高齢者ら10人は、当時と同じように助け合いながら階段を上って除幕式に参加し、卒業生が読み上げた「大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください」という碑文の言葉に聴き入った。区長の酒井実さん(74)は「碑を見守り、頑張って出島の再生に尽くしていく」と力を込めた。
 9基目は島南部の寺間地区にある厳島神社の参道に建てられた。区長の須田菊男さん(66)は、小学5年の時にチリ地震津波に遭った記憶を卒業生に語り、「当時は人的被害がなく、その経験があだになって震災の時に家に戻ってしまった人もいる。この石碑で、1000年後まで教訓を伝えてほしい」と呼びかけた。
 参加した阿部健さん(81)は「震災後、島に子どもの姿がなくなり希望を失った気がしたが、この子たちが碑とともに未来を運んできてくれた」と笑顔で話した。
 この日参加した卒業生はメンバー23人のうち高校2年の3人。伊藤唯さんは「助けられた感謝の気持ちをもっと形にして残したい」。山下脩(しゅう)さんは「観光で島に来る人もおり、一緒に逃げて命を守ってもらえたら」。神田七海さんも「『石碑を見守っていく』という言葉がうれしかった。自覚と責任を持ってこれからも活動を進めたい」と、それぞれ今後への決意を語った。

 

取材帳から:離島の石碑 /宮城

『毎日新聞』宮城版 2015年11月22日
 「なんかやー、心に栄養が入ってきた気がしたよ。子どもらの思いで生き返ったよう」
 相好を崩す男性の顔が、海で反射した光に照らされ輝いていた。
 10月31日、女川町の出島であった「いのちの石碑」除幕式での光景。東日本大震災の教訓を1000年後に伝えるという女川中卒業生の願いがこもった石碑を前に、地元住民は心を打たれた様子だった。「心に栄養が入ってきた」と笑顔を見せたのは、寺間地区の阿部健さん(81)。震災後、島の小中学校が閉校となり、子を持つ世帯は島を離れた。若者の姿が消え、希望をなくしていたという。「子どもたちが未来を運んできてくれた。長生きして教訓を伝えないと」。卒業生たちも石碑に込めた思いを新たにしていた。
 石碑を通じ、住民たちは地域へ、若者たちは未来へ、教訓を語り継ぐ。地域という横糸と次世代という縦糸を連綿とつむいだ先に、1000年後の命がつながっていくのだろう。【百武信幸】

 

宮城)「この上まで逃げて」いのちの石碑、計10基

『朝日新聞』宮城版 2015年11月1日イメージ 2
 「大きな地震が来たらこの上まで逃げて」と呼びかける「女川いのちの石碑」2基が31日、女川町の離島・出島(いずしま)の出島、寺間両地区でお披露目された。21カ所ある町内の浜の津波到達点に、女川中学校の卒業生たちが建立をめざすもので、10月に完成した江島(えのしま)の1基を含めて、計10基になった。
 1基目ができたときは中学3年だった生徒たちも高校2年になった。以前のようには集まれないものの、この日は3人が訪れ、島の人と除幕式に臨んだ。
 それぞれの石碑には、子どもたちが作った「あの時の 悲しみ苦しみ 忘れない」「がれき見て 空に誓った 涙こらえて」の句が碑文とともに彫られている。読み上げる神田七海さん(17)の姿を島の人は目を細めて見つめ、声を合わせて一緒に読む人もいた。
 震災前は500人ほどいた島民も、今は100人を下回るといわれる。「後ろしか向いていなかったような島に、子どもたちが石碑をつくってくれて、希望もたててもらった」と話す人もいた。石碑に込めた思いは「千年後の命を守るために」。伊藤唯さん(17)は「島や町の方にがんばってねと言われ、『千年後まで残ってほしい』という気持ちが日に日に強くなっています」と話した。(中林加南子)


頭が下がります。さらにこのプロジェクトのメンバーが、千葉県の中学校を訪れて「出張授業」を行ったことも報道されていますが、そちらはまたのちほど。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月2日

昭和23年(1948)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、分教場から小学校に昇格し、翌日に開校式を迎える山口小学校の門標を揮毫しました。

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こちらは翌年に撮影された写真ですが、背後に門標が写っています。

現在、この門標は花巻高村光太郎記念館の企画展示「高村光太郎山居七年」(後期)にて展示中です。
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