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現地調査。

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仙台のホテルに居ます。

昨日、第58回高村祭を終え、花巻郊外の大沢温泉Image may be NSFW.
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山水閣さんに泊まり、今日は主に宮城との県境に近い奥州市で現地調査を致しました。

行った先は、水沢図書館、そしてかなり山の中に入った人首米里地区にある人首文庫さん。こちらは光太郎と親交のあった詩人、佐伯郁郎の生家です。

昨日、高村祭の後には花巻市街にお住まいの内村義夫氏(やはり光太郎と親交のあった写真家、内村皓一の縁者)とお会いし、実に貴重な資料を拝見したり、戴いたりしました。
今日は今日で、これまたとんでもない資料の数々に出会い、頭がくらくらしております。
やはり詳しくは帰ってからレポートいたします。

明日は仙台にて、朗読の荒井真澄さん他による「無伴奏ヴァイオリンと朗読 智恵子抄」を聴いて、千葉に帰ります。


【今日は何の日 光太郎・拾遺】 5月16日

昭和11年(1936)の今日、東京府美術館で光太郎の実弟にして、のちに鋳金の人間国宝となる豊周も参加した実在工芸美術会第一回展が開幕しました。

東京まで戻りました。

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3泊4日の旅も終わりに近付き、東京まで戻って参りました。

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に乗り、千葉の自宅兼事務所に向かっております。

今日は仙台にて、朗読の荒井真澄さん他による「無伴奏ヴァイオリンと朗読 智恵子抄」を聴いて参りました。
やはり詳細は帰ってからレポートいたします。


【今日は何の日 光太郎・拾遺】 5月17日

平成10年(1998)の今日、日本テレビ系列で放映された「知ってるつもり?!」で智恵子がメインで取り上げられました。

司会は関口宏さん、千野志麻アナウンサー。ゲストは俳人の黛まどかさん、俳優の榎木孝明さん、女優の有馬稲子さん、映画監督の大林宣彦さん、沖縄国際大学教授の黒澤亜里子さん。ナレーションは池田昌子さんでした。

東北レポートその1 花巻光太郎祭。

3泊4日の東北行を終え、昨日遅くに自宅兼事務所に帰りました。数回に分けてレポートいたします。

まずは5月15日(金)に執り行われました、第58回高村祭について。

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佐藤進花巻高村光太郎記念会会長

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上田東一花巻市長


翌日の新聞各紙を購入して帰りましたので、その記事を元にします。 

岩手)参加者ら詩を朗読、光太郎しのぶ 花巻で高村祭

『朝日新聞』 岩手版

詩人で彫刻家の高村光太郎が東京から花巻に疎開した日を記念して開かれている「高村祭」が15日、花巻市太田の高村山荘詩碑前広場であった。新緑の中、参加者全員で「雪白く積めり」を朗読し、光太郎をしのんだ。
 空襲で東京のアトリエを失った光太郎は1945年5月15日、夜行列車で東京を出発し、翌日、花巻に着いた。光太郎がその詩を高く評価した宮沢賢治の実家に疎開。10月に旧太田村山口に移り、7年間過ごした。高村祭は花巻高村光太郎記念会が主催、今回が58回目。疎開から今年でちょうど70年となり、記念会の佐藤進会長は「高村先生をしのびたい」と話した。
 地元の小中学生らが詩を朗読、合唱を披露した後、高村光太郎連翹忌(れんぎょうき)運営委員会の小山弘明代表が講演し、「戦争に協力した自分を自分で罰するため、ここでは彫刻を封印し、自省する日々を過ごした」などと話した。(石井力)

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記事に有るとおり、昭和20年(1945)の詩「雪白く積めり」の朗読を全員で行いました。自分の隣には上田市長がいらしたのですが、誰よりも大きな声で朗読なさっていました。すばらしい。

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地元小中高生、看護学校生のみなさんによる朗読や演奏。太田小学校の2年生児童は、統合で廃校となった旧山口小学校の校歌も披露し、同校卒業生の皆さんは非常に懐かしがっていました。

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高村光太郎の功績 後世へ

『読売新聞』 岩手版

 詩集「智恵子抄」などで知られ晩年を太田村(現花巻市)で過ごした彫刻家高村光太郎(1883~1956)の功績をしのぶ高村祭が15日、花巻市太田の高村山荘詩碑前で行われた。     
 1945年5月15日、高村は東京のアトリエを空襲で失い、親交のあった宮沢賢治の弟・清六を頼りに夜行列車に乗った。この旅立ちの日を記念して毎年、高村祭が開かれている。今年で70年を迎え、児童・生徒らが高村の手掛けた詩の朗読や合唱などを行った。
 高村山荘は、疎開した高村が7年間、腰を落ち着けて暮らしたゆかりの地。狭い小屋ながら地域住民と触れ合い、農耕と自炊の生活を送った。
 元中学校教諭で、高村光太郎を研究している小山弘明さん(50)は講演で、「高村はこの地で大きく視野を広げた。残念なのは、一時期の日記や手紙が全く見あたらないこと。高村の功績を考え、しっかりと後世に伝える必要がある」と話した。
 高村山荘に隣接する高村光太郎記念館では、高村が太田村山口で暮らした7年間を紹介する企画展も開かれている。問い合わせは、記念館(0198・28・3012)へ。

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「日記や手紙が」とありますが、正しくは「日記が」です。以前にも書きましたが、昭和24年(1949)と25年(1950)の
大部分が行方不明です。同じく行方不明だった昭和20年(1945)の分は、花巻で見つかりました。そう考えると、24、5年のものも、もしや……と考えています。

企画展に関しては後日、詳述します。
 

光太郎の思い 次代に 疎開70年、花巻で高村光太郎祭 住民ら500人がしのぶ 朗読や合唱のびやか

『岩手日報』

 花巻市で晩年を過ごした彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)を顕彰する第58回高村祭は15日、同市太田の高村山荘詩碑前で開かれた。児童生徒らが朗読や合唱を披露し、光太郎の花巻疎開から70年の節目に思いを重ねた。
 花巻高村光太郎記念会(佐藤進会長)などが主催し、住民ら約500人が参加。佐藤会長は「今年は高村光太郎記念館がリニューアルオープンし感謝している。高村先生をしのび楽しい一日にしたい」とあいさつ。上田東一市長は「70年前のきょう、高村先生は東京を出発し花巻に向かった。新しい記念館も見ていただき、高村先生の功績と人生に思いをはせてほしい」と参加者に呼び掛けた。
 太田小児童が楽器演奏を披露し、西南中の生徒は光太郎が残した「心はいつもあたらしく」の言葉を歌詞にした「精神歌」を合唱した。花巻高等看護専門学校1年の大尻真海(まみ)さん(18)は花巻空襲で負傷者救護に尽力した看護師らをたたえる「非常の時」を朗読。「光太郎先生が岩手を愛し、深く地域と関わっていたことを高村祭であらためて感じた」と話した。同専門学校はコーラスも披露し、会場に優しい歌声を響かせた。
 光太郎の妻智恵子の出身地、福島県二本松市からメンバー約20人と訪れた「智恵子の里レモン会」の渡辺秀雄代表は「新緑の林の中で開かれる高村祭は規模も大きく、伸び伸びとしている。雰囲気がいい」と感心していた。
 光太郎は45年5月15日、戦災のため花巻に疎開し約7年間を過ごした。

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看護学校の大尻さんは、詩「非常の時」の朗読をなさいましたが、朗読だけでなく、その前に、この詩が作られた背景を説明して下さり、感心しました。


光太郎の偉業 しのぶ 高村祭 詩朗読や楽器演奏

『岩手日日』 はなまき

 花巻市ゆかりの彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ第58回高村祭(花巻高村光太郎記念会など主催)が15日、同市太田の高村山荘の詩碑前で行われた。多くの参加者が、かつて光太郎が暮らした自然環境に親しみながら、詩の朗読や合唱、有識者による特別講演を通じ、その偉業に思いを巡らせた。
 同記念会の佐藤進会長や上田東一市長をはじめとする関係者や地元の児童生徒ら約600人が参加。彫刻の代表作とされる「乙女の像」がある青森県十和田市や、光太郎の妻・智恵子を顕彰する福島県二本松市の智恵子の里レモン会からも関係者が来場した。
 光太郎の遺影を飾った詩碑に、太田小学校の戸來尚暉君(2年)と橋百花さん(同)が花を手向け、三彩流新茗会の新田社中が献茶。碑に刻まれた「雪白く積めり」の詩を一同で朗読した。
 同校2年生16人が詩の群読や楽器演奏、光太郎が指導したという旧山口小学校の校歌を披露。西南中学校の1年生54人も「心はいつもあたらしく 日々何かしら見いだそう」という光太郎の言葉を盛り込んだ同校の精神歌を合唱した。
 続いて詩作「道程」を花巻南高の久保田彩花さん(3年)、同じく「レモン哀歌」を池田菜美さん(2年)が朗読。静かに心へ染み入るような光太郎の詩の魅力を会場全体で味わった。
 花巻高等看護専門学校の大尻真海さん(1年)は、1945年の花巻空襲で、身をていして負傷者を救護した医師や看護師に光太郎が贈った詩「非常の時」を朗読した。同校1年生男女40人の混声合唱では、光太郎作詞の「最高にして最低の道」などを披露した。
 太田小学校の安藤大翔君(2年)は「上手に発表できた。自分が中学生になった時も、今日の中学生に負けないように頑張りたい」と笑顔。花巻高等看護専門学校の石澤直人君(1年)は「伝統ある高村祭に参加できてうれしい。高村先生のように強い意志を自分も持って看護師を目指す」と意欲を見せていた。
 高村祭は、戦火で東京のアトリエを失った光太郎が、70年前に花巻へ疎開してきた日に合わせて毎年開催。今回はリニューアルした高村光太郎記念館のオープン記念も兼ねている。
 同記念館では、新設の企画展示室を活用した初の企画展「山居七年」が同日から開幕。9月28日までの前期は希少な光太郎の水彩画など18点と詳細な年譜などを紹介し、10月9日から2016年2月22日の後期は展示を入れ替える。問い合わせは同記念館=0198(28)3012=へ。

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『岩手日報』さんと『岩手日日』さんは、二本松の智恵子の里レモン会さんにも触れています。渡辺代表、夕方のローカルニュースでもご出演。
 
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真摯に生きた光太郎の姿紹介 小山代表が特別講演

『岩手日日』 はなまき

 15日の第58回高村祭では、高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会の小山弘明代表が「高村光太郎と花巻・山口」をテーマに特別講演。つまずきながらも真摯(しんし)に生きた光太郎の姿を多くのエピソード共に紹介した。
 小山代表は、花巻での光太郎について「戦争を賛美した自らに最も重い罰を科そうと彫刻を封印していた。だが、地元の人から敬愛され、幸せな日々を送ることができたのでは」などとした。
 高村光太郎記念館で同日開幕した企画展「山居7年」を監修。「光太郎が過ごした花巻ならではの展示を見てほしい」と呼び掛けている。

さらに当方も写真入りでご紹介下さいました。よい記念になります。


ところで記事にはなっていませんが、第二部もあり、そちらは地元の皆さん(モンデンモモさんも特別出演)の歌や踊りなどでした。地元の皆さんはこちらを楽しみにしています。自分で講演をやっておいてこういうのも何ですが、こういう催しは講演とか朗読とかの小難しいことだけをやっていても駄目ですね。高村祭の、半分は地域のお祭り的な要素が、長く続いている秘訣だと思います。泉下の光太郎も、存命中は地元の田植え踊りや神楽に非常に興味をひかれていました。そういう意味では、いいはなむけにもなっています。

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しかし、先述の『読売新聞』さんで、当方の講演の要旨として、「高村の功績を考え、しっかりと後世に伝える必要がある」というのが、肝です。そこで、小中高生、看護学校生などの若い皆さんが出演して下さり、さらに講演を聴いていただき、次の世代へとしっかりと光太郎の遺徳を伝えることを考えているのも、素晴らしい点だと思います。上記新聞各紙の見出しに「次代に」「後世へ」といった語を入れていただいたのは、そういう意味では非常にありがたいかぎりです。

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その頃まで当方が生きているとも思えませんが、42年後は第100回高村祭、その頃まで変わImage may be NSFW.
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らずに続いていって欲しいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月18日

大正12年(1923)の今日、新潮社から詩話会編纂の『日本詩集 1923版』が刊行されました。

光太郎詩「真夜中の洗濯」「米久の晩餐」が掲載されています。

詩話会は、詩人の大同団結を目指し、大正6年(1917)に結成された団体です。『日本詩集』は年刊誌として毎年刊行。さらにこれと別に『日本詩人』という機関誌もあり、ともに光太郎も何度か詩を載せています。

しかし、こうした団体の常で、主義主張の相違から、大正15年(1926)には会が崩壊してしまいました。

東北レポートその2 花巻高村光太郎記念館企画展示「山居七年」。

昨日ご紹介した花巻高村祭に関しての新聞報道で、各紙とも触れて下さっていましたが、花巻高村光太郎記念館で企画展示「山居七年」が始まりました。

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彫刻を中心とした展示室1、光太郎の業績を幅広く紹介する展示室2は、基本的に常設展として展示替えはあまり行いません。ところが、その2室に並べきれない貴重な資料がまだまだたくさんあり、そういったものを半年~1年のスパンで出していこうというわけです。また、将来的には外部からの資料等も活用する方向です。

最初の企画展「山居七年」は、昭和20年(1945)から27年(1952)までの、この地での光太郎の暮らしにスポットを当てています。9月28日までが前期、10月9日から2016年2月22日を後期とし、展示を入れ替えます。前期は春から秋の生活、後期は冬の暮らしを中心にとのことでした。

そのために、足かけ8年分の詳細な年譜を作成しました。それが壁面にパネルとなって貼られています。下の画像の緑色のパネルです。

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「どこどこに講演に行った」とか、「××温泉に何泊した」とか、「何々の文字を書いた」などです。

その下の白いパネルは、『高村光太郎山居七年』という書籍からの抜粋。こちらは花巻高村光太郎記念会を創設した佐藤隆房の編集になるもので、佐藤自身の回想や、花巻町、太田村、さらに岩手県内の他の地域の人々の証言などをまとめたものです。元版は昭和37年(1962)に筑摩書房から刊行され、記念会に版権を移して再刊されていましたが、それも品切れとなり、このたび新装版が刊行されました。

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以前は函入りハードカバーでしたが、今度のものはソフトカバーです。その分、定価1,800円+税と、お求めやすくなっています。ぜひお買い求めを。

さて、展示に話を戻します。

現在並んでいるのは、光太郎が佐藤に贈った水彩画「牡丹」、光太郎が文字を書いた山口小学校や絵画サークル雑草社の標札板、光太郎が山口小学校に寄贈した楽器や映写機、当時の写真などです。

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『高村光太郎山居七年』からの抜粋のパネルは、それぞれのものの由来などがわかるような部分を抜き出しています。

また、リニューアル前に流していた、昭和29年(1954)、ブリヂストン美術館制作の映画「高村光太郎」も常時上映中。この地での光太郎の姿が写っている貴重なものです。

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ちなみに、こんなものも並んでいます。かなり大きいので、等身大かと思いきや、これでもまだ小さいということ。ボードの上下幅が最大180㌢しか取れないというので、確かに光太郎の身長ははそれ以上ありました。

企画展示室、狭い部屋ですが、こうした充実した内容になっています。

繰り返しますが、10月からは展示替えです。以後、半年から1年のスパンで内容を変更していきます。当方、アドバイザーとして関わっており、これからの内容を考えると、あれもやりたい、こんなものも並べたい、とワクワクしてきます。
当方自宅兼事務所にも珍しいものがいろいろあり、そういうものも見ていただきたいと考えたりもしています。既に展示室2に当方がお貸ししたものも並んでいますが。

そこで皆様にお願いです。光太郎智恵子に関し「家にこんなものがある」という方、ぜひ記念館にお知らせください。どういうものかよくわからないけれど、という場合でも結構です。また、岩手時代のものでなくてもかまいません。もしかするとものすごいお宝かも知れません。

明日のこのブログでご紹介しますが、まさしくそういうケースで貴重なものが出てきましたので。


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【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月19日

平成8年(1996)の今日、劇作家の北條秀司が歿しました。

北條は、光太郎が歿した昭和31年(1956)、雑誌『婦人公論』に戯曲「智恵子抄」を発表、初代水谷八重子主演で上演されました。光太郎生前から上演の話はありましたが、自身が登場することに光太郎が難色を示していたため実現しませんでした。

その後、この戯曲は藤純子(現・富司純子)さんや有馬稲子さん主演でも上演されています。

光太郎と北條の出会いは戦時中。ともに日本文学報国会に所属し、情報局の命で光太郎に軍歌の作詞を頼みに行ったのが北條だったそうです(ただし断られました)。

そのあたり、北條の著書『演劇太平記(二)』(昭和61年=1986 毎日新聞社)に記述があります。

東北レポートその3 花巻現地調査。

5月15日、第58回高村祭終了後、生前の光太郎を知る人々からお話を伺うことが出来ました。

まず、JR東北本線花巻駅近くにお住まいの、内村義夫さん。内村さんの奥さんのお父様が、故・内村皓一氏。平成5年(1993)に亡くなった写真家で、光太郎の日記にお名前が散見されます。国内より国際的に評価され、海外のコンクールで多数の入賞歴があります。

平成21年(2009)の5月3日、地元紙『岩手日報』さんに以下の記事が載りました。

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昭和26年(1951)6月16日に、光太郎は花巻公会堂で講演を行っています。その際、同時に光太郎作詞の「初夢まりつきうた」が舞踊となり、上演されています。その「初夢まりつきうた」が収められたレコードの発見が報じられた記事でした。記事中に「一九四六(昭和二十一)年」とあるのは誤りです。

この件について詳しく調査しようと思っていたところ、内村さんと連絡が取れ、高村祭のため当方が花巻に滞在中にお会いできることになりました。内村さんは、お仕事が終わってから、わざわざ高村光太郎記念館までお越し下さいました。

事前にお願いしてあったので、レコードの現物をご持参下さいました。当時の新聞記事と一緒に額に入れて保管されているとのこと。

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記事はこちらです。クリックで拡大します。

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光太郎の講演、「初夢まりつきうた」の上演と同時に、内村皓一氏の写真展も開催されていたとのことです。

この日の光太郎日記が以下の通り。

細雨、 ひる近く花巻新報の平野智敬氏、及写真家内村皓一氏車で迎にくる。一緒に花巻行、ヤブにて中食、商工会議所の連中集まる、後公会堂行、講演一席、後舞踊見物、まりつきうた。 花巻温泉に一泊。紅葉館、皆とのむ、小田島氏、岩田氏は十一時頃辞去、平野氏、内村氏は泊る、

さて、レーベルを見て驚きました。印刷ではなく手書きです。記念館事務局の方曰く、その場で録音されたものではないか、とのこと。昭和50年代くらいまで、テープレコーダーのようにその場で録音したものをレコードにする機械が使われていたそうで、これもそうなのでは、というわけです。

ちなみに手書きの文字は以下の通り。

花巻初夢まりつき唄  作詞 高村光太郎  作曲 杵屋正邦  唄 宮田五郎  三味 杵屋正邦  小謡 梅田金太郎  打楽器 梅田勝法  ピアノ 加納時雄  

裏面のレーベルには「花巻新報社」とのみ書かれています。

ネットで調べてみると、杵屋正邦、宮田五郎という名は、当時の邦楽家としてヒットしました。花巻新報社で、中央の邦楽家を引っ張り出したようです。

先述の平成21年(2009)の記事に「劣化が進んでおり聴くことはできない」とありますが、盤が割れてしまっているわけではなく、現在の技術ならレーザー光線等で凹凸を読み取ってデジタル化することも可能らしく、そちらの手配は記念館の方にお任せすることにしました。聴くのが楽しみです。また、ひょっとすると光太郎の講演も収録されているのでは、などと期待しています。


内村さんは、他にも貴重な資料をたくさんお持ち下さいました。

光太郎から皓一氏宛の葉書2通のコピー。こちらは『高村光太郎全集』等に未収録のものです。帰ってから詳しく調べてみたところ、昭和25年(1950)2月と、27年(1952)3月のものと判明しました。

前者は、

帰つて来ましておたよりと小包とをいただきました、大好きな、しかも上質な唐辛子をお贈りいただき、忝く存じました、朝の味噌汁がどんなにたのしみか知れません、
盛岡には五日ほど居てかなりしやべりました、前後十日間ほどになり少々疲れましたが、もう恢復しました、高橋氏より「群像」の写真の原画も先日ありがたく存じました、「群像」では皆によろこばれました、

という文面で、1月13日から22日にかけ、盛岡や西山村(現・雫石町)を廻ったことが記されています。ちなみに以前にご紹介した深沢竜一氏のお宅が西山村で、この時に光太郎が2泊しています。「群像」は雑誌名。来週、他の調査と合わせて国会図書館で調査して参ります。

この時期の光太郎日記は失われているのですが、「通信事項」という郵便の授受を記したノートの2月10日の項には、「内村皓一氏へ礼ハカキ(唐からし礼)」と書かれています。


後者は、

先日はいろいろいただき、思はぬたのしい半日を過ごしました。おハガキと唐がらしと感謝。
唐がらしは早速つけものに入れます。朝鮮づけのやうに。
ここの土壌は南蕃に合はぬと見えて昨年つくつたものも殆と辛味がなく出来ました。 今雪の下でホウレン草が育つてゐることでせう。もうハンの木の花が出かかつてゐます。

とあり、3月2日の日記の、

宮澤清六氏内村皓一 氏来訪、岩手川一升豚鍋の材料いろいろもらふ。豚鍋をして岩 手川をのむ。夕方辞去。

と照応しています。

こういうパズルのピースがぴたっと合った時のような感覚は、たまりません。

さらに内村さんから、こんなものを戴きました。まったく同じものを、記念館に一つ、当方に一つ。ご自宅にあったものだそうです。

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一見、何の変哲もないただの丼です。中島誠之助氏が「いい仕事してますねー」と讃えるようなものではなく、大量生産の品のようです。

しかし、こちらの写真をご覧あれ。

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何と、光太郎の足元に写っているこちらと、同一のものです。驚きました。

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写真右端の方の模様が濃くなっているのがおわかりでしょうか。実際にこの丼もそうなっています。

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内村さんもなぜこれがご自宅にあったのかよく分からないとのことでした。写真に写っているものは、先の光太郎日記にあった豚鍋の会の際に皓一氏が持参したものかも、と思ったのですが、残念ながら写真が撮られたのが昭和26年(1951)で、豚鍋の会の前年でした。

想像するに、別の機会に皓一氏、または共通の知人(宮澤清六など)から贈られたか、たまたま花巻町の同じ店でそれぞれが購入したか、といったところでしょう。いずれにしても、光太郎ゆかりの丼ということで、大切にしたいと思います。感謝に堪えません。


内村さんとの会見後、記念館近くの公民館で、高村祭の打ち上げが行われ、当方も顔を出し、地元の皆さんと酒を酌み交わしました。

この場にも、生前の光太郎を知る方が何人もいらっしゃいました。当時山口小学校の児童だったという方々です。下は昭和24年(1949)、山口小学校の学芸会に現れたサンタクロース(光太郎)と撮った写真です。

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66年前の、右から二人目のお子さんが、こちらの方です。面影が残っていますね。

写っている他の方のうち、既に亡くなった方もいらっしゃるそうですが、大半はご存命だそうです。

ちなみに以前もご紹介しましたが、後ろの窓から顔を出している子供は、浅沼隆さん。花巻高村光太郎記念会山口支部の中心になっている方です。お父様は山口小学校の校長先生で、貴重な光太郎回想をたくさん残されました。当方の書いた年少者向けの「乙女の像ものがたり」に「隆君」として登場させて戴きました。

皆さん口々に、「大人たちが光太郎先生は偉い人だ、と言っていたからそうなんだろうと思っていたが、子供の自分達にとっては優しい普通のおじいさんだった」とおっしゃっていました。何だか涙が出そうになりました。


この日は、大沢温泉山水閣さんに一泊。前日の鉛温泉藤三旅館さんと合わせ、明日はそのあたりをレポートします。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月20日

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昭和9年(1934)の今日、黄瀛詩集「瑞枝」が刊行されました。

黄瀛(こうえい)は、中国人の父と、日本人の母を持つ詩人。光太郎と草野心平の出会いを演出しました。

「瑞枝」には光太郎が寄せた序文、光太郎が制作した黄瀛像彫刻の写真が掲載されました。

一部抜粋します。

つつましいといへばつつましいし、のんでゐるといえばのんでゐる。黄秀才は少しどもりながら、最大級を交へぬあたりまえへの言葉でどこまで桁はづれの話をするか知れない。黄秀才の体内にある尺度は竹や金属で出来てゐない。尺度の無数の目盛からは絶えず小さな泡のやうなものが体外に向かって立ちのぼる。泡のはじけるところに黄秀才の技術的コントロオルが我にもあらず潜入する。まことに無意識哲学の裏書きみたいだ。

ちなみに今日は智恵子の誕生日ですが、そちらは2年前にご紹介しました。

東北レポートその4 光太郎が泊まった部屋。

5月15日(金)に行われた花巻高村祭のため、前日から花巻入りし、花巻には2泊しました(もう1泊は仙台)。

14日(木)は鉛温泉藤三旅館さん。昨年先月に続き、3回目の宿泊でした。今回は、㈶花巻高村光太郎記念会さんのご厚意で、昭和23年(1948)に光太郎が泊まった3階の31号室に泊めていただきました。

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リフォームはされているようですが、基本的に昔のままのようで、部材や調度品などは非常にレトロな感じでした。また、非常に天井が高いのが印象的でした。

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窓を開けると、下には豊沢川の清流。

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館内各所にも、レトロなアイテムが随所に見られます。

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深さ約130㌢の自噴岩風呂「白猿の湯」や、渓流沿いの露天風呂など、堪能しました。

よく「枕が変わると寝られない」という方がいらっしゃいますが、当方はそんなことはなく、というか真逆で、「枕が変わると起きていられない」という感覚です。旅先では夕食を摂って一風呂浴びると、もう眠くて仕方がありません。8時から9時にはたいがい眠ってしまいます。その代わり、2時とか3時とか、真夜中に目が覚めます。そこでまた温泉に浸かるとまた眠くなり、朝までぐっすり。また5時、6時くらいに起きて、さらに一風呂。今回の3泊ともそうでした。

2泊目は大沢温泉山水閣さん。こちらも光太郎がよく泊まっており、当方も学生時代から、数え切れないほど泊まっています。ただ、大沢さんは宿が3つに別れており、学生時代は自炊部さん(基本的に湯治客用の木賃宿)、その後は築160年という別館の菊水館さんに泊まっていて、山水閣さんでの宿泊は初めてでした。山水閣さんは少し高級な温泉ホテルという感じです。3館は全て館内でつながっています。

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左奥の白い建物が山水閣さん、右手の古い2棟が自炊部さん。

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こちらが菊水館さん。茅葺きです。下は3館共通の露天風呂、「大沢の湯」です。

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さて、山水閣さんでは、「牡丹の間」という部屋に泊めていただきました。こちらも光太郎ゆかりの部屋です。

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山水閣さん自体が建て替えられた際、光太郎がよく利用した部屋を再現したそうで、部材や調度品は当時のものを転用しているそうです。

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こちらの箪笥、飾りかと思っていたら、ちゃんと浴衣が入っている実用のものでした。

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そして、「光太郎ゆかりの部屋」を前面に押し出しているため、室内には光太郎の書「大地麗」、水彩画「牡丹」の複製が。本物はともに記念館に展示されています。

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床の間には渡辺えりさんのお父様、渡辺正治氏の書。渡辺氏も当方と同じく、高村祭の記念講演講師をなさった際にここに泊まられています。

さらに出てすぐの廊下には、智恵子の紙絵の複製も。

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この部屋はスイートルームの扱いなので、非常に広く、3部屋もあります。

また、やはり窓を開ければ豊沢川の清らかな流れ。鉛温泉さんより下流に位置し、流れも多少穏やかで、この季節、耳を澄ませばカジカガエルの声が聞こえます。

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さらに館内廊下には、光太郎や賢治ゆかりの品々が。光太郎自身の書「顕真実」、仏典の言葉です。さらに渡辺氏同様、高村祭の講師をなさった、鋳金家の故・斎藤明氏、光太郎の実弟・豊周の子息、故・高村規氏の書。

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その他、昨日もご紹介した光太郎写真や、光太郎が訪れた頃の大沢温泉さんの写真などなど。

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廃線となった花巻電鉄の駅が、温泉入り口にかつてあり、その写真です。

こちらでも温泉を堪能しました。それから鉛温泉さん、大沢温泉さんともに料理もすばらしく、おそらく太って帰りました(笑)。

花巻にお越しの際は、ぜひ両館にお泊まり下さい。鉛さんの31号室大沢さんの牡丹の間、ともにスイートルーム的な部屋ですが、プチ贅沢ということで。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月21日Image may be NSFW.
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昭和56年(1981)の今日、佐藤隆房が歿しました。

佐藤は総合花巻病院の院長を長らく務め、宮澤家ともども、昭和20年(1945)、戦災で焼け出された光太郎を花巻に招くのに一役買いました。

さらに、戦後、太田村に移る前の光太郎を約1ヶ月、自宅離れ(光太郎が「潺湲楼-せんかんろう」と名付けました)に住まわせました。太田村移住後の光太郎は、花巻町に出てきた際には主にここに宿泊しています。

光太郎歿後は顕彰運動を進めるべく、財団法人高村記念会を立ち上げ、その先鞭をつけました。

『高村光太郎山居七年』をはじめ、貴重な光太郎回想も数々残しています。

また、宮澤賢治の主治医だったことでも知られ、賢治の詩「S博士に」のモデルが佐藤だと言われています。

現在の㈶花巻高村光太郎記念会会長、進氏は、佐藤の子息です。


東北レポートその5 奥州市水沢図書館にて智恵子資料。

5月16日土曜日、大沢温泉さんを後に、花巻南温泉峡組合さんで運行する無料シャトルバスに乗り込んで、東北新幹線の新花巻駅に向かいました。この日は南下して、奥州市で現地調査です。

駅前の土産物屋で買い物を終えて外に出ると、豪快な汽笛が聞こえました。「SL銀河」がJR釜石線の新花巻駅に入線していました。

当方鉄道マニアではありませんが、レトロなものは大好き人間ですので、見に行きました。しかし、残念ながら釜石方面へ向けて出発したところで、後ろ姿しか見えませんでした。

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ちなみにこの機関車はC58型239号機。昭和15年(1940)製で、同18年(1943)から宮古機関区に配属され、同48年(1973)まで現役でした。その後、盛岡で静態保存されていたのが、昨年、再び運行が開始になりました。

だいぶ以前にこのブログでご紹介した、当方の住む千葉県北東部を期間限定で走った「おいでよ銚子&佐原号」のC61-20号機同様、もしかすると光太郎もこの機関車が牽引する列車を利用したかも知れない、などと思いながら見送りました。

さて、東北新幹線やまびこ号にて、水沢江刺駅に着き、駅前で予約していたレンタカーを借りました。地方では路線バスがどんどん少なくなり、かといってタクシーは料金が高く、逆に最近のレンタカーは高性能のカーナビも標準装備ですので、それほどの長時間でなければこちらの方が便利です。

目的地は2ヶ所。まず、一ヶ所目の、奥州市水沢図書館さんに行きました。水沢江刺駅から約5㌔です。

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こちらでは、昭和25年(1950)11月、当時の水沢町公民館で1日だけ開催された智恵子切抜絵展に関する資料が所蔵されているというので、それが目当てでした。その情報を花巻の記念会さんから得た際には「二つ折り見開きの簡易なパンフレット的なものだろう」と思っていました。

ところが、書庫から出していただき、手に取ってみると、あにはからんや、20ページ以上もある冊子でした。

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前半は、日本画家の夏目利政が書いた文章とカット、後半は光太郎の「智恵子抄」からの抜粋でした。

夏目利政は光太郎より10歳、智恵子より7歳年下で、東京本郷動坂の生まれ。光太郎同様、岩手(水沢)に疎開し、そのまま水沢にとどまっていました。

その頃から数えて約40年前、明治42年(1909)から大正元年(1912)にかけ(まさしく光太郎と知り合って恋に落ちた頃です)、日本女子大学校を卒業した智恵子が夏目家の離れに下宿していたのです。それ以前に入居していた同校卒業生用の楓寮が閉鎖となり、同郷で同窓だった幡ナツ夫妻が、自分達も下宿していた夏目家に智恵子が下宿できるよう計らってくれたとのこと。そうした縁もあり、戦後の水沢での智恵子展の開催に、夏目が骨を折りました。

夏目の文章、初めは花巻の佐藤隆房邸で智恵子の紙絵を初めて観た際の印象が語られています。観る前はたいしたものではなかろう、とたかをくくっていたのが、実際に目にして、瞠目したことが書かれています。後半は、夏目家に下宿していた頃の智恵子の回想。約40年前の回想ですが、芸術について生き生きと語る智恵子の姿が再現されています。

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智恵子の言葉の部分を一部引用します。句読点、改行等は原文のままです。明らかな誤字は訂正しました。

ほんとうのことって よっぽどしっかりしないと、
持ちつづけられないわ
嘘は、すぐわかるから、たいした、おそろしいものではない
一番こわい、たえず警戒しなければならないのは、
妥協すること、よ  妥協が一番きらい
ほんとうのような姿で、親切らしい形で
やってくる、しつっこく、執拗に、よ
けれど一歩でも妥協をゆるしたら それこそ大変
あとから、あとから、絶間なしにくる
これで、皆 大てい崩れてしまう、新しい命を失ってしまう
人間が生きながら干物のようになってしまう
生きているように見せかけることばかり気にする様になる
生きた絵も、生きた生活だって出来やあしない
妥協こそ卑俗に落ちる第一歩なのよ
ほんとうを失って生きるのなら
生きたって、無意味
卑俗への妥協 憎むべきだわ妥協
もし、妥協しないで、生き抜くことの出来ない
そんなのが世の中なら、
けれども立派に生きて絵をかいている人がある
立派な絵がある
ゴッホなんて 気が狂ったって尊いわ
この生きている絵 いつまでも生きている絵――

いかにも智恵子が語りそうな内容ですね。

右上と下は、夏目がその頃の智恵子を思い起こして描いたカットです。上記のゼームス坂病院と思われる表紙画も夏目作です。

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こうした貴重な資料がまだまだ埋まっているのだな、と、感慨ひとしおでした。

その後、水沢図書館を後にし、同じ奥州市の山中、米里人首(よねさとひとかべ)地区にレンタカーを走らせました。こちらは光太郎と親交のあった詩人、佐伯郁郎の生家があり、遺品を展示する「人首文庫」として公開されています。そちらについてはまた明日。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月22日Image may be NSFW.
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昭和21年(1946)の今日、雑誌『和』に詩「和について」が掲載されました。

同誌は大阪の四天王寺事務局内太子鑽仰会発行の雑誌です。

  和について

物思はせたまふ時
太子斑鳩の宮に入らせたまふ。
ただおんひとり幽暗の座を占めたまふ。
大陸の文化に伴ふ大陸の強圧。
帰化豪族らの不規異例。
守屋がともがら今は亡けれど
蘇我の権門やうやく微妙の兆(きざし)あり。
門閥世襲の割拠独善。
部曲(かきべ)の民を財とする兼併貪癡。
貧富の隔絶すでにはげしく
飯(いひ)に餓ゑてやせこける民は巷にあり。
われらに今欠けたるもの和なり。
億兆の和なくして社稷なし。
和は念慮にして又具顕なるを。
大いなるかな和をおもふことの力。
これ人倫のもとゐ社稷の血脈。
わがものせんとする文(ふみ)すでに成れり。
太子まなこを開きて座を起こさせたまふ。
香煙袖を追うて春の宵いまだ暮れやらず。

飛鳥の世の話を、戦後間もない当時の世相に擬しているように思われます。

東北レポートその6 人首文庫。

5月16日土曜日、奥州市水沢図書館さんをあとに、同じ奥州市内の米里人首地区にレンタカーを走らせました。光太郎と親交のあった詩人の佐伯郁郎の生家、人首文庫さんが目的地です。

こちらには、佐伯郁郎の厖大な遺品が収蔵されており、その中に佐伯に宛てた光太郎の書簡が複数あって、10年ほど前に当主の佐伯研二氏にコピーを送っていただきました。それらの現物を見てみたい、というのと、もしかすると他にも光太郎関連資料があるのでは、という思いがありました。結果的にそれが当たりました。

さて、大船渡方面につながる盛街道を東へ、山あいののどかな風景の中を走ること30分あまり、目指す人首地区に着きました。

ここは宮澤賢治の作品に登場する種山ヶ原の麓に位置し、賢治もたびたび訪れたそうで、賢治ゆかりの場所の大きな案内図が道端に建っていました。

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目的地の人首文庫さんは地区のほぼ中心、人首城跡の入り口にありました。江戸時代には人首城主・沼辺家の家老職、廷内に学問所を併設していたというだけあって、豪壮な構えでした。

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しかし、当方が着いた時には、お留守でした。こちらの電話番号を把握して居らず、また、旅の途中ゆえ、何らかのトラブルで訪問できなくなる危険もなきにしもあらずでしたので、事前に来意は告げてありませんでした。ただ、門が開いているので、近くに出かけているだけだろうと思い、しばし門前で待たせていただきました。やがて佐伯研二氏ご夫妻がご帰宅。推測通り、お買い物に出かけていたとのこと。

門をくぐって敷地内に入ると、立派な庭園、いかにも格式のある母屋、そして蔵が何棟もあって驚きました。

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樹齢200年という桜の木もあり、花の時期にはものすごいことになるだろうな、と思いました。

早速、資料を収蔵してある蔵を拝見しました。
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一歩入って驚愕しました。天井まで届く複数の大きな書棚に溢れんばかりの書物、展示ケースや壁には書幅や色紙などの類、しかもそれが一室でなく、何部屋もあるようです。

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佐伯氏は、突然の来訪にもかかわらず、懇切ご丁寧にご説明下さり、恐縮でした。「こんなものもあります」と、次々にいろいろなものを出して見せて下さいました。

佐伯郁郎は戦前に内務省に入省、戦時中は情報局文芸課に勤務、検閲の任にあたっていたという特異な経歴があり、非常に文壇内で顔が広かったようです。有名どころからマイナー、マニアックな文学者まで、著書や書簡、肉筆原稿、書など、いったいどれだけあるんだ、という感じでした。

こちらは光太郎の書。

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先日、埼玉の田口弘氏のお宅で拝見したのと似た、若干粗悪な色紙に書かれています。おそらく物資の乏しかった戦後の物でしょう。

「針は北をさす」という句は、初めて目にしました。類似の例として「いくら廻されても針は天極をさす」という揮毫は何種類かあるのですが、「北をさす」という揮毫は類例が確認できていません。岩手という北の大地に流れてきての思いが込められているのかも知れません。

こちらは光太郎から佐伯郁郎宛の葉書。以前にコピーを送っていただいたものでした。

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これら以外にも、『全集』等未収録の光太郎からの葉書が2通、ありました。昭和6年(1931)の、佐伯の第一詩集『北の貌』、同10年(1935)の第二詩集『極圏』の、ともに受贈に対する礼状でした。それぞれ50名ほどでしょうか、他の文学者たちからの礼状とともに、一括してまとめられていました。

昨日ご紹介した、水沢図書館での智恵子資料などと合わせ、まだまだ岩手には未知のお宝が眠っていたということで、大興奮でした。

また、光太郎とも親交のあった文学者たち(特に詩人)の資料も数多くあり、興味深く拝見しました。以前に連翹忌にご参加くださっている詩人の宮尾壽里子様からいただいた文芸同人誌『青い花』第79号に掲載されていた柏木勇一氏の「第一次「青い花」創刊の頃の中原中也」という評論で紹介されていた萩原朔太郎と中原中也、そろっての署名など。

書簡類も、それぞれの文学者の全集に未収のものがほとんどのように思われます。近代詩人の研究をされている方、ぜひ一度、足をお運び下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月23日

昭和23年(1948)の今日、詩人の大上敬義に詩集受贈の礼状を書きました。

北海道の更科源蔵氏から貴著詩集「愁ひの実」を回送され、又貴下のおてがみを昨日いただきました。御恵贈ありがたく存じます。今は畑のいちばん忙しい時なので、中々読んでゐられませんが、そのうち繙読するのをたのしみに存じます。

上記の佐伯郁郎との親交も、こうした詩集受贈から始まっています。

確認できている光太郎書簡の中には、この手のものがかなり多く存在します。光太郎は詩集などを贈られると、相手が無名の詩人であっても、貰って貰いっぱなしではなく、必ずと言っていいほど礼状を書いています。

この手のもの、やはりまだまだ眠っている物も多数存在するはずです。「うちのおじいさんはあまり有名ではなかったけど、詩人だった」などという方、捜してみて下さい。

東北レポートその7 「無伴奏ヴァイオリンと朗読 智恵子抄」。

東北レポートの最終回です。

5月17日の日曜日、仙台にて、朗読家の荒井真澄さん、ヴァイオリニストの佐藤実治さんによるコンサート「無伴奏ヴァイオリンと朗読 智恵子抄」を聴いて参りました。午後の部と夜の部の2回公演で、当方、午後の部を拝聴。

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「杜の都」と称されるだけあって、この季節の仙台は緑が溢れていました。さらに、この日は「仙台青葉まつり」。多くの人でにぎわっていました。

コンサート会場は、ジャズフェスティバルが開催されることでも有名な定禅寺通りに近いJazz Me Blues Nola(ジャズミーブルースノラ)さん。

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大きな窓から外の光が差し込み、行き交う人々が見える状態ですが、防音はしっかりしているようで、外の喧噪は伝わってきません。

先月の第59回連翹忌でチラシをお配りしたところ、二本松在住の「智恵子のまち夢くらぶ」の熊谷夫妻もいらしていました。熊谷氏、夢くらぶさん作成の智恵子のふるさとマップを会場の皆さんに配布、最後にはステージでご挨拶もされました(当方もでしたが)。

さて、午後の部は3時開演。

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当方、荒井さんの朗読を聴くのは3年前と、一昨年に続き、3回目でした。以前の2回は、一昨年の第57回連翹忌で、ピアノ演奏に合わせてのアクションペインティングをご披露下さいました斎藤卓子さん、一関恵美さんとのコラボでしたが、今回は佐藤さんのヴァイオリンによる演奏の合間、時には演奏にかぶせ、荒井さんの「智恵子抄」から11篇の詩の朗読でした。

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相変わらず情感たっぷりの、素晴らしい朗読でした。元々「智恵子抄」が大好きだという荒井さんですので、その作品に対する思いのたけが表されているように感じました。

ちなみにこの日に公演を組まれたのも、5月20日の智恵子の誕生日に近いという理由もあってのことだそうです。

第2部は、佐藤さんと、ピアノの及川久美子さん(佐藤さんの奥様だそうです)とによる演奏。ご夫婦ならではの息のあった演奏でした。ヴァイオリン演奏では定番の「チャルダッシュ」は、超絶技巧が冴えわたっていました。

最後にアンコール、第1部になかった荒井さんの「もしも智恵子が」の朗読と演奏で幕を閉じました。

いつも同じようなことを書いたり、講演などで喋ったりしていますが、こういう形で光太郎智恵子の世界を広めていただくことも、本当に有り難いかぎりです。全国の様々な分野の表現者の皆様、ぜひよろしくお願いいたします。

ところで荒井さん、宮澤賢治作品などの朗読にも取り組まれています。いただいたチラシを掲載しておきます。ともに仙台での開催で2件。クリックで拡大します。

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【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月24日

昭和23年(1948)の今日、花巻郊外太田村の山口小学校で、増築の上棟式に参加しました。

同校は昭和45年(1970)に廃校となり、校舎は10年ほど前まで残っていたのですが、老朽化のため解体されました。

下は20年ほど前に撮った写真です。

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大阪・九条 シネ・ヌーヴォ「銀幕デビューから八十年 女優原節子のすべて」。

延々と東北レポートを書いているうちに、他に紹介しなければならないイベント情報や報道、新刊情報、テレビ放映情報などが溜まってしまいました。

まずは映画関連。 
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期間 : 2015年4月25日(土)~6月12日(金)
会場 : シネ・ヌーヴォ 大阪市西区九条1-20-24 TEL 06-6582-1416

戦前から戦後にかけて昭和と共に生きた女優・原節子。小津安二郎、成瀬巳喜男はもとより今井正、黒澤明、木下惠介など日本映画の巨匠の作品に数多く出演し、日本映画の黄金時代を支えた屈指の大女優。日本人離れした類い稀な美貌と共に、生涯独身を通し、「永遠の処女」と呼ばれた。今年は、1935年の映画デビューから80年、そして1962年の最後の出演作から53年を迎える。「20世紀の映画スター・女優編」(2000年/キネマ旬報)で日本女優の第1位に輝くなど、日本・世界で今尚新たなファンを獲得し続けている原節子出演作品を一挙上映する過去最大の大特集。 日本映画屈指の伝説の美女が、いま再び、銀幕に降臨する!!


全42作品のうち、熊谷久虎監督作品「智恵子抄」(昭和32年=1957 97分)が、先週から上映されています。


智恵子抄
1957年/東宝/97分/35mm/白黒
  監督:熊谷久虎/原作:高村光太郎/脚本:八住利雄/撮影:小原譲治/美術:清水喜代志/音楽:団伊玖磨 出演:原節子(高村智恵子)、山村聡、柳永二郎、三好栄子、津山路子、太刀川洋一

◆詩人・彫刻家の高村光太郎の詩集『智恵子抄』を映画化。智恵子の童女の如き純真な愛に出会い、光太郎は生きる喜び、愛の幸せに包まれるが、仕事と家庭の板ばさみか
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ら、やがて智恵子は心を病んでいき…。原が愛と狂気に揺れる智恵子を演じ切った感動作。

上映日程

5/22(金) 12:25~
5/23(土) 21:05~
5/24(日) 12:35~
5/25(月) 14:55~
5/26(火) 10:40~
5/27(水) 17:55~

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(クリックで拡大)

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この昭和32年(1957)原節子版、昭和42年(1967)の岩下志麻さん主演の「智恵子抄」ともども、時折上演されています。こういう機会がもっと増えてほしいものですが。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月25日

昭和28年(1953)の今日、日比谷公会堂で米国の黒人歌手、マリアン・アンダーソンのコンサートを聴きました。

NHKが招聘し、東京、大阪、広島、名古屋と巡回し、再び東京に戻って5月22日、25日と公演がありました。

伴奏はクルト・ウェス指揮のNHK交響楽団。ブラームス、フォーレ、ヴェルディ、サン・サーンス、ドビュッシーなどの作品や黒人霊歌がプログラムに入っていたそうです。



日曜美術館「一刀に命を込める 彫刻家・高村光雲」。

テレビ放映情報です。 

日曜美術館「一刀に命を込める 彫刻家・高村光雲」。

NHKEテレ 2015年5月31日(日)  9時00分~9時45分  再放送 6月7日 20時00分~20時45分

日本の近代彫刻を切り拓いた高村光雲。高野山金剛峰寺におさめた本尊が80年ぶりに公開されるのを機に、職人としての姿勢を貫きながら新たな芸術を探求した生涯に迫る。

開創1200年を迎えた高野山で、金剛峯寺金堂の本尊が、昭和9年におさめられて以来、初めて開帳された。作者は、幕末から昭和にかけて、日本の近代彫刻を切りひらいた彫刻家・高村光雲。金堂の本尊は、70歳を過ぎ、なみなみならぬ思いで彫り上げたこん身の作。職人であることに誇りを持ちながら、新たな時代の彫刻を探求し続けた、その生涯に迫る。
高村光雲は、11歳で仏師のもとに弟子入りし、ひとりの職人としてその道を歩み始めた。
明治維新の後、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)などの影響で、木彫の世界が厳しい状況に追い込まれる中、決して信念を曲げず修行を重ねた。西洋の彫刻を学んだ息子の光太郎は、職人としての姿勢を貫こうとする光雲を強く批判したが、光雲自身も新しい彫刻を模索し、「老猿」など、近代彫刻を代表する傑作を世に送り出した。

そんな光雲が、最晩年「現代第一流ノ人格手腕ヲ具備スル彫刻家」と目され、依頼を受けたのが高野山の秘仏だった。死を意識しながら、何を目指したのか。職人と芸術家、相反する領域をひょうひょうと行き来しながら、木彫一筋に生きた光雲の実像に迫る。

出演 アーティスト…須田悦弘
司会 井浦新 伊東敏恵
朗読 石橋蓮司

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高野山開創1200年の特別開帳にからめての内容のようです。

昭和4年(1929)刊行の『光雲懐古談』をはじめ、光雲は詳細な談話筆記を大量に残しています。おそらく石橋蓮司さんの朗読というのは、そのあたりからでしょう。ぴったりの感じがします。

ぜひご覧下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月26日

明治31年(1898)の今日、臨画「布袋図」を描きました。

光太郎数え16歳、東京美術学校の予備ノ課程に在学中でした。「乙 高村光太郎」と署名があります。他の作品では「予備科乙」となっているものがあり、「乙」はクラス名のようです。

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縦98センチ、横44センチ。驚嘆の出来ですね。

この頃の日本画の講師には川端玉章らがいました。

橋本雅邦は、この年4月に校長・岡倉天心へのバッシング、「美術学校事件」に連座して、図案科の助教授だった横山大観らと共に退職しています。

ちなみに嘱託職員には座学の美学担当で森鷗外がいました。

渡辺えりさん還暦記念コンサート。

お父様が光太郎と親交がおありだった関係で、連翹忌にもたびたびご参加下さっている、女優の渡辺えりさん。演劇以外にも歌手としてのご活動もなさっています。

今月16日の『朝日新聞』さんの岩手版に、以下の記事が載りました。 

敬愛の光太郎・賢治へ 歌声届け 渡辺えりさん、花巻で来月公演

 女優で劇作家の渡辺えりさん(60)が「還暦記念コンサート」を6月1日、花巻市文化会館で開く。渡辺さんには高村光太郎や宮沢賢治の作品から触発された劇作品があり、2人にゆかりの花巻市で「感謝を込めて、力いっぱい歌いたい」と張り切っている。

 渡辺さんの父が光太郎や賢治が好きで、幼い頃から2人の作品に親しんできたという。これまで光太郎の作品から「月にぬれた手」、賢治から「天使猫」を作ってきた。上演には予算や時間もかかり、出演も大人数になるため、「小回りがきく」コンサートを開くことになったという。
 4月30日には同誌のイーハトーブ館で、賢治の弟の孫にあたる宮沢和樹さんと対談。渡辺さんは「光太郎は大事な人にあげる色紙に賢治の『雨ニモマケズ』を書いて贈った」と話し、宮沢さんは「光太郎先生は賢治の作品を最初に評価した人。それがなければ賢治は世に出なかったかもしれない」と話した。
 コンサートでは渡辺さん作詞のシャンソンやオリジナル楽曲を「歌い語る」という。賢治の「星めぐりの歌」も歌う予定だ。「花巻はしょっちゅう訪れていて、親戚がいるような気持ち。感謝の気持ちと震災からの復興への思いを込めて歌いたい」と話している。
 コンサートは6月1日午後6時半から、全席指定で4800円。公演の問い合わせは「オフィス3○○(さんじゅうまる)」(03・6804・4838)、チケットの問い合わせは市文化会館(0198・24・6511)へ。

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というわけで、「光太郎・賢治へ捧げるコンサートだそうです。

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ちなみに「還暦記念コンサート」としては、東京、そして渡辺さんの故郷・山形でも公演があります。

 2015年5月31日(日) 東京キネマ倶楽部 台東区根岸1丁目1-14
 昼公演 13:30開場 14:00開演
 夜公演 17:30開場 18:00開演

 2015年6月2日(火) 山形市民会館 山形市香澄町2-9-45
 18:00開場 18:30開演

それぞれ問い合わせ等はオフィス3○○(さんじゅうまる)さんへ。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月27日

昭和22年(1947)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、詩人・宮崎稔の長男の命名揮毫をしました。

宮崎は、光太郎が取り持って、智恵子の最期を看取った智恵子の姪の春子と結婚。長男を「光太郎」と名付けました。

光太郎智恵子関連新聞記事等。

東北に3泊4日で出かけたり、延々とそのレポートを書いたりしている間に、新聞各紙で光太郎智恵子に関する報道が数件なされています。まとめてご紹介します。ネタの少ない時には5日間にわけて紹介する内容ですが、紹介しなければならないネタが多く、苦渋の選択です。

まずは智恵子の故郷・福島二本松の安達太良山がらみで、福島の地方紙2紙の1面コラム。開催中のふくしまディスティネーションキャンペーン、今月17日が安達太良山の山開きだった関係です。 

あぶくま抄

『福島民報』 5月17日
 高村光太郎の詩集「智恵子抄」にある「あどけない話」は、二本松市、猪苗代町などにまたがる安達太良山の名を全国区に広げた。妻智恵子が愛した、東京にはない「ほんとの空」に近づける山として。
 3日に亡くなった詩人長田弘さんも故郷の自然に愛着を抱き続けた。東日本大震災後、本県出身の詩人を代表し、日本記者クラブで2回ほど講演した。高校時代まで親しんだ福島市の信夫山は、街のど真ん中にあり盆地を遠く見渡せる。講演で石川啄木の短歌<ふるさとの山に向ひて言ふことなし…>を引いた。「山は変わらない。山は古里の象徴だ。そういう風景によって生かされている」。景観を壊す復興に異議を唱えた。
 安達太良山はきょう、山開きを迎える。奥岳登山口から途中、ゴンドラを使えば約1時間半で山頂にたどり着く。登山初心者に優しい。地元グループが山道の倒木を片付け、朽ちかけた橋を修復した。受け入れ準備は整った。
 20日は智恵子の129回目の生誕日だ。安達太良山だけでなく、二本松市内の生家や「樹下の二人」の詩碑などを訪ねてみてはどうか。天空で安らかに過ごしているであろう、智恵子と光太郎が歓迎してくれる。

 

【編集日記】

『福島民友』  5月23日
 さわやかな日が続く。初夏の風が吹きすぎるだけで、日々の雑事で生まれた心のもやもやも、すっと消し飛んでしまう気がする▼1931(昭和6)年5月出版された作家梶井基次郎の代表作「檸檬(れもん)」は主人公の青年が、書店で本の上にレモンを置いて立ち去り、その爆発を夢想する。青年の屈託を吹き飛ばすようなレモンの色彩イメージが発表当時、反響を呼んだという▼「智恵子抄」で知られる詩人で彫刻家の高村光太郎も、妻智恵子の死の翌年、レモンをかじる妻の姿を思いおこして詩「レモン哀歌」を作った。人は心が沈んだとき、レモンのさわやかさが必要になるのかもしれない▼智恵子の生家がある二本松市では、道の駅「安達」で、この詩にちなんで、智恵子の誕生日である今月20日からレモンをテーマにしたキャンペーンが始まった。月末までレモンを食材にした食事やグッズが提供される▼さらに、6月6日からは生家で、智恵子の部屋など、通常は公開されていない場所が期間限定で公開されるという。苦難の多かった智恵子と光太郎だが、今は多くの人から愛されている。震災からの復旧、復興を目指す郷土も、さわやかな二人の力を借りて、屈託を吹き飛ばしたい。

智恵子の生家の特別公開に関しては、また後日、ご紹介します。


続いて『朝日新聞』さん。2件あり、1件は岩手版の記事。今月15日、高村祭の日から始まった花巻高村光太郎記念館の企画展に関してです。 

岩手)高村光太郎記念館 企画展「山居七年」始まる

『朝日新聞』岩手版 5月22日
 花巻市の高村光太郎記念館で企画展「山居七年」が開かれている。光太郎が同市太田にある「高村山荘」と呼ばれる小屋で過ごした1945年からの7年間の足跡をパネルや記録映画で紹介。水彩画など約20点を展示している。
 同記念館が4月にリニューアルしたことと、光太郎が花巻に疎開してから今年で70年になるのを記念して開催した。水彩画は「牡丹(ぼたん)」。疎開直後に発症した肺炎が完治した記念に主治医に贈ったものという。このほか、地元の小学校の学芸会にサンタクロースに扮して遊戯に参加したエピソードなどを紹介している。
 今回の展示は9月28日まで。10月からは展示資料を入れ替えて続けるという。



さらに先週土曜の全国版夕刊。過日、当方がお話をうかがってきた埼玉東松山の田口弘氏にからむコラムです。東武東上線高坂駅がその舞台。 

(各駅停話)高坂駅 つややか ブロンズ通り

 高坂駅は三角屋根に時計台が載ったヨーロッパ風のかわいらしい駅舎。西口を出てれんが敷きの歩道を進むと、延々とブロンズ像が並んでいるのに気づく。
高村光太郎やガンジーの像、胴体だけの男女の裸像――。約1キロにわたり、30体以上もある。いずれも日本を代表する彫刻家高田博厚(ひろあつ、1900~87年)の作品だ。
 高田は31年に渡仏。肖像彫刻の技術を磨き、ノーベル賞作家のロマン・ロランらとも親交を持った。モデルと会話することで、作品にその人の思想を表現するよう意識していたという。
 駅前の像は86年、東武鉄道が駅舎を今の姿に改築したのにあわせて、東松山市が街のシンボルにしようと整備した。高田は晩年を鎌倉のアトリエで過ごしていたが、東松山でも、当時の市教育長だった田口弘さん(93)の誘いで展覧会や講演会を開いていた。それが縁になり、「彫刻通り」の構想につながった。
 「高田の作品がこれだけ集まるのは全国でも珍しい。半日くらいかけて、彫刻の良さを感じてほしい」と田口さん。像は酸性雨で溶けないよう、年に1回お色直しをしている。約30年経つ今も、つややかで美しいままだ。(鈴木智之)

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ブロンズ通りに関しては、一昨年のこのブログでご紹介しました。


最後に、大阪の地方紙『大阪日日新聞』さんから。御堂筋の光太郎彫刻「十和田湖畔の裸婦群像のための中型試作」――御堂筋では「みちのく」――に関してです。 

智恵子が2人、御堂筋に立つ

『大阪日日新聞』 5月23日
今回の案内人 亀井澄夫 日本妖怪研究所所長
中央区高麗橋「高村光太郎作 みちのく」
「智恵子は東京に空が無いといふ、ほんとの空が見たいといふ」(高村光太郎著『智恵子抄(ちえこしょう)』より)
 彫刻家であり詩人の高村光太郎が、長沼智恵子に出会ったのは明治45年、智恵子27歳、光太郎29歳のときである。大正3年、2人は結婚。芸術家とその妻は、お互いを最良の理解者として生活を共にする。
 しかし、結婚生活は24年を経て、智恵子の死によって終わりを告げる。その後、智恵子への思いをつづった詩集『智恵子抄』で、彼女は新たな生をうけ、それぞれの人の心に智恵子像を刻むことになる。『智恵子抄』は芸術に関心がなくとも、異様な感動を呼ぶ愛と狂気の傑作である。光太郎は晩年、2体の裸婦が向き合う作品を十和田湖に残している。それと同じテーマの裸婦像が御堂筋の歩道上にある。久しぶりに御堂筋を歩いてみた。
 2体の裸婦は同じ顔、同じ姿で手を重ねようとしている。生の波動が手から手へ伝わるようである。一瞬の後、手がスイッチとなり、2人のエネルギーがお互いをかけめぐり、動きだす。この顔は、もちろん智恵子である。光太郎と出会った頃の写真とうり二つである。
 「智恵子は(中略)まだ餓死よりは火あぶりの方をのぞむ中世期の夢を持っています」
 智恵子は芸術家にとって、意欲をたかぶらせる魔女である。できた作品を最初に鑑賞し、的確な評を述べ、それを愛し、その心を慈しんだ智恵子。
 光太郎は智恵子との生活で智恵子を呼吸し、自身を内なる炎で燃やし、浄化した。そんな彼の作品を路上で見られる大阪人は幸せである。たまには足をとめて、智恵子とともに空を見上げてみてはいかがだろうか。もう人間であることをやめた智恵子。恐ろしくきれいな朝の天空は絶好の遊歩道。智恵子飛ぶ。

終末部分、正しくは「遊歩道」ではなく「遊歩場」なのですが……。

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というわけで、各紙で光太郎智恵子を取り上げて下さり、ありがたいかぎりです。いつも同じようなことを書いたり喋ったりしていますが、どこの新聞にも光太郎智恵子の名がまったく載らない、という事態にはなってほしくないものです。当方の活動がそのための一助と成れば幸いです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月28日

平成12年(2000)の今日、新潟県立近代美術館で開催されていた企画展「生誕110年記念 広川松五郎 高村豊周展」が閉幕しました。

豊周は光太郎の実弟にして、鋳金の人間国宝。殆どの光太郎ブロンズ作品の鋳造を手がけました。広川は豊周の盟友にして染織工芸家。ともに近代工芸の改革者として、活躍しました。

右の画像は図録の表紙です。豊周の「挿花のための構成」という作品で、大正15年(1926)のものです。斬新ですね。

武蔵野美術大学美術館「近代日本彫刻展」/後閑寅雄喜寿チャリティ書画展レポート。

東北から帰ってきてからも、あちこち出かけています。

一昨日は、都下小平の武蔵野美術大学美術館さんに出かけて参りました。以前にご紹介した「近代日本彫刻展 −A Study of Modern Japanese Sculpture−」が始まりました。

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他にも企画展が開催されており、「近代日本彫刻展」は一室のみでの開催でした。

光太郎作品としては、木彫の「白文鳥」(昭和5年=1930頃)、ブロンズの「手」(大正7年=1918頃)が2種類、展示されています。


「白文鳥」は、一昨年に全国3館を巡回した「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展でお借りして以来、約1年半ぶりに観ました。

愛くるしい彫刻です。分類すれば写実彫刻なのですが、全体にざっくりした彫刻刀の痕を残しており、完璧な写実ではありません。また、光雲のように羽毛の一本一本を様式化して彫るということもやって居らず、ロダンに学んだ粘土での表現を木彫に反映させているのがよくわかります。

しかし、写実以上に写実。生命力に溢れています。Image may be NSFW.
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今回は、この「白文鳥」を入れていた共箱も展示されていました。こちらは初めて観ました。

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さらに「手」が2点。竹橋の東京国立近代美術館さんと、上野の朝倉彫塑館さん所蔵のものです。以前にも書きましたが、この2点は確実に大正期の鋳造です。また、木製の台座も光太郎の制作。2つ並んでいるのを観るのは初めてで、今まで気づいていませんでしたが、台座の形がかなり異なっています。

全国各地にある「手」の台座は、東京国立近代美術館さん所蔵のものを模しています。意外と台座の板の部分が薄タイプです(右の画像)。ところが朝倉彫塑館さん所蔵のものは、板の部分の厚さがこの2倍近くあります。

どちらも面の処理の仕方が、「白文鳥」とよく似ており、この台座の制作が後の木彫作品(「蟬」「蓮根」など)を多く作るようになった一つの契機というのがうなずけます。

図録には、ブロンズをはずした台座のみの写真も載っています。ただし、図録の印刷が間に合わなかったそうで、受付で名簿に住所氏名等を書き、代金を支払って、後ほど郵送していただくシステムになっていました。

こちらは8月16日まで開催されています。ただし、東京国立近代美術館さんの「手」は6月20日までの展示だそうです。


もう1件、展覧会レポートを。というか、まだこのブログではご紹介していませんでしたので紹介も兼ねます。
開催日 2015年5月27日(水) ~ 5月31日(日)
時 間 9時~21時(ただし小ギャラリーは16時30分まで。最終日は16時まで)
会 場 流山市生涯学習センター 
     千葉県流山市中110 つくばエクスプレス(TX)流山セントラルパーク駅3分
入場無料
 
 流山市にお住いの書道家。学校サポートボランティアによる毛筆授業の指導補助を長年続けられています。文字を読む、書くということから離れつつある中で学校教育における書道の指導の重要性が高まり、市民との協働による日本の伝統文化である毛筆授業を平成12年11月から続け、毎年約800人の児童を対象に通年で約100回の授業補助を行っています。平成26年度には流山市育成会議連絡協議会から青少年の育成功労者として表彰されました。

参考借用陳列敬仰作品(小ギャラリー)
西川春洞、西川寧、浅見筧洞、新井光風、田中東竹、牛窪梧十、青山杉雨、成瀬映山、梅原清山、有岡陖崖、金子鷗亭、金子卓義、佐藤氷峰、金子大蔵、張廉卿、宮島詠士、上條信山、田中節山、市澤静山、高塚竹堂、今関脩竹、清水透石、中山竹径、佐藤竹南、深井竹平、尾上紫舟、日比野五鳳、杉岡華邨、高木東扇、高木厚人、池田桂鳳、榎倉香邨、小林章夫、今井凌雪、村上三島、古谷蒼韻、斗盦、和中簡堂、鈴木槃山、渡辺大寛、内藤富卿、黒野陶山、松井如流、鈴木桐華、野口白汀、小木太法、宮沢賢治、高村光太郎、村上鬼城、中村不析、北村西望、殿村藍田、清水比庵、山本直良、与謝野晶子、山手樹一郎、吉田茂、片山哲、他

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流山在住の書家、後閑(ごかん)寅雄(号・恵楓)氏の作品展です。

参考出品ということで、古今の書もたくさん展示され、その中に光太郎の名があったので、観に行きました。


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後閑氏の作品は素晴らしいものでした。一時流行った、書なのか絵画なのか解らない、墨痕の形のおもしろさだけに頼った「読めない書」ではなく、また、これは現代でもよくあるのですが、書かれている言葉のみに頼り、造型性の薄い書(「誰々の詩句を書きました」というだけのもの)でもありませんでした。

そして参考借用陳列敬仰作品。光太郎の書も展示されているとはいえ、比較的新しく、類例の多い戦後の色紙か何かだろうと勝手に思いこんでいて、軽い気持ちで観に行ったのですが、実際に眼にし、仰天しました。Image may be NSFW.
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展示されていた光太郎作品は、短歌が書かれた短冊でしたが、おそらく明治末のものです。

右の画像は、以前から知られている短冊ですが、よく似ています。こちらは明治44年(1911)頃のものです。「天そそる家をつくるとをみなよりうまれし子等は今日も石切る」と読みます。

白黒反転で、一見、版画のように見えますね。しかし、これは手書きです。といっても、黒地に白で書いているのではなく、字の周りを墨で囲んで塗りつぶしているのです。この手法を「籠書き」と言います。光太郎はこの手法を得意としており、書籍の装幀、題字などでも同じことをやっています。

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左は明治45年(1912)の雑誌「劇と詩」、右は同44年(1911)の同じく『創作』の、それぞれ表紙です。

今回展示されていた短冊も、この籠書きの手法。しかも、「天そそる……」の短冊同様、上部に墨絵が描かれており、ますます同じ時期のものと思われました。贋作特有の反吐が出そうないやらしさは感じられず、間違いないものだと思います。第一、こうした手法のものでは贋作の作りようがありません。

さらに驚くべきことに、書かれている短歌が、『高村光太郎全集』等に未収録のものでした。「金ぶちの鼻眼鏡をばさはやかにかけていろいろ凉かぜのふく」と読めました。眼にした段階で「こんな短歌、記憶にないぞ」と思ったのですが、その場では資料がありません。急いで自宅兼事務所に帰り、調べてみると、はたして、『高村光太郎全集』等に未収録のものでした。こういうこともあるのですね。

こちらは東京の書道用品店さんの所有だそうで、近いうちに行って手にとって見せていただこうと考えております。

ところで、参考借用陳列敬仰作品、他にはどんな物が並んでいたかというと、他の光太郎のものは、複製が1点。関連する人物として、与謝野晶子の色紙、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の複製、それから昨年個展を拝見した金子大蔵氏の作品も並んでいました。氏は好んで光太郎の詩句を取り上げられていますが、やはり光太郎の詩「最低にして最高の道」の一節を書かれていました。

こちらの展覧会は31日(日)までです。会期が短いのが残念です。


武蔵野美術大学さんともども、ぜひ足をお運び下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月29日

昭和26年(1951)の今日、55年ぶりに手に取った少年時代の彫刻に墨書揮毫をしました。

彫刻は木彫レリーフの習作「青い葡萄」。明治29年(1896)、数え14歳の作品です。

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これを詩人の菊岡久利が入手、花巻郊外太田村の光太郎の元に送りました。以下、菊岡の回想。

 僕はそれを鎌倉の古物店で見つけたのだが、人々は、まだ塗らない鎌倉彫の生地のままの土瓶敷ぐらゐに思つたらしい。一五センチ四方、厚さ二センチの板にすぎないのだから無理もなく、ながくさらされてゐたものだ。(略)当時岩手の山にゐた高村さんに届けると、『どうしてかゝるものを入手されたか、不思議に思ひます。確かにおぼえのあるもので、小生十三、四の頃の作』と書いて来て、レリーフの裏に、
 五十五年
 青いぶだうが
 まだあをい
と詩を書いてよこしてくれたものだ。

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こちらが裏面。後半の「明治廿九年八月七日 彫刻試験 高村光太郎」は明治29年(1896)の署名です。

愛すべき光雲。

一昨日の『東京新聞』さんの一面コラムです。 

筆洗

彫刻家の高村光雲はカツオの刺し身をある時から還暦になるまでぷっつりと口にするのをやめた。こんな理由がある▼師匠の家で奉公していた時、食事にカツオの刺し身が出たが、若い光雲には満足できる量ではなかった。師匠の分が台所にある。光雲は大根で猫の足跡の印形を彫り、判子(はんこ)のようにあちこちに押した。猫の犯行に見せ掛けて、師匠の分を平らげた▼気の毒なのは裏長屋の無実の猫で、師匠の妹さんに捕まり、ひどいお仕置きを受けた。「それ以来、無実の罪を得て成敗を受けた猫のために謝罪する心持ちで鰹(かつお)の刺身だけは口に上さぬように心掛け」ていたとは殊勝だが、若き日は、カツオの刺し身の魅力に勝てなかったか▼カツオではなく、豚肉である。六月中旬から食中毒防止のため飲食店などで生レバーや生肉を提供できなくなる。豚の生肉を食した経験はないが、がっかりしている人もいるだろう。お気の毒だが、危険がある以上、御身のためである▼カツオのたたきには、真偽の分からぬ「伝説」があるそうだ。土佐藩主の山内一豊が腹を痛めやすいとカツオを刺し身で食べることを禁じたが、それでも食べたい庶民が表面だけを焼くたたきを編み出したという▼光雲の猫の足跡ではないが、豚の生肉の提供禁止を受け、食いしん坊の日本人が新たな「味」を発見するのではないか。前向きに考えてみる。


元ネタは、昭和4年(1929)刊行の『光雲懐古談』です。同書には、この他にもこうした落語のような話が満載で、飽きさせません。むろん、真面目な話も多いのですが。

東京美術学校教授、帝室技芸員として当時の彫刻界の頂点に上り詰めた光雲。しかし、その若き日には廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、輸出向けの象牙彫刻が大流行し、木彫の灯は風前の灯火でした。そうした頃の苦労譚の一つです。

さて、明朝9時から、NHKEテレさんの「日曜美術館」で、「一刀に命を込める 彫刻家・高村光雲」が放映されます。

下記は現在発売中のNHKさん刊行の番組情報誌『NHKステラ』に載った同番組の紹介記事です。クリックで拡大します。

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予想通り、「『光雲懐古談』の朗読を交え」とあります。朗読は石橋蓮司さん。楽しみです。

再放送もありますが、お見逃し無く。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月30日

昭和25年(1950)の今日、創元社から『現代詩講座 第2巻 詩の技法』が刊行されました。

当時の錚々たる詩人、二十余名の寄稿から成りますImage may be NSFW.
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。光太郎も寄
稿しています。

しかし、この巻は「詩の技法」というサブタイトルで、他の詩人達が「現代詩の構成」(村野四郎)、「現代詩のレトリック」(丸山薫)、「現代詩に於ける「俳句」と「短歌」」(三好達治)など、大まじめに書いている中、光太郎は「詩について語らず」という題です。書き出しからしてこうです。

詩の講座のために詩について書いてくれといふかねての依頼でしたが、今詩について一行も書けないやうな心的状態にあるので書かずに居たところ、編集子の一人が膝づめ談判に来られていささか閉口、なほも固辞したものの、結局その書けないといういはれを書くやうにといはれてやむなく筆をとります。

なぜ「詩について一行も書けないやうな心的状態にある」のでしょうか。やはり、戦時中、大量に空疎な先勝協力詩を書き殴った自責の念がそこに垣間見えます。

以前には断片的ながら詩について書いたこともありましたが、詩についてだんだんいろいろの問題が心の中につみ重なり、複雑になり、卻つて何も分らなくなつてしまつた状態です。今頃になつてますます暗中模索といふ有様なのです。

かえって詩に対する真摯な態度が読み取れる、と言えばほめすぎでしょうか。

日曜美術館「一刀に命を込める 彫刻家・高村光雲」を観ました。

NHKEテレさんで、本日放映の日曜美術館「一刀に命を込める 彫刻家・高村光雲」を観ました。

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いつもながらに丁寧な番組造りで、高村光雲という巨匠の生きざまが、しっかりと浮き彫りになっていました。

代表作「老猿」や「矮鶏」、東京美術学校として取り組んだ「楠木正成像」など、そして息子・光太郎の視点を通じ、「職人」なのか「芸術家」なのかという問に対する答えを導き出そうという試みがなされていました。結論としては、単に旧来の江戸の伝統を守るだけでなく、文明開化によって流入してきた西洋美術の方向性も取り入れようとしたその姿勢が高く評価されていました。

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軸足を旧来の伝統に置きながら、新しい西洋の美も取り込もうとした光雲。ロダンをはじめとする西洋近代美術を自己の核として、しかし幼い頃から叩き込まれた日本の良き伝統も忘れなかった光太郎。言い換えれば、単なる守旧にとどまらなかった光雲と、軽薄な西洋かぶれに終わらなかった光太郎。結局、光雲と光太郎は表裏一体なのではないかと思います。

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番組では、開創1200年を迎え、特別開帳された光雲晩年の作である高野山金剛峯寺の秘仏も紹介されました。ここにも単なる守旧にとどまらなかった光雲の真髄が表されているように感じました。

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そして、石橋蓮司さんによる、昭和4年(1929)の『光雲懐古談』などからの朗読。ぴったりでした。

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再放送が来週日曜日、6月7日の20時00分から、やはりNHKEテレさんです。ご覧になっていない方、ぜひご覧下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月31日

昭和25年(1950)の今日、細川書店から日本ペンクラブ編纂『現代日本文学選集Ⅺ 現代詩』が刊行されました。

光太郎作品「冬が来た」「秋の祈」「山麓の二人」「雷獣」が収められました。

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光雲関連展示等。

昨日の「日曜美術館 一刀に命を込める 彫刻家・高村光雲」を受けて、光雲彫刻作品が見られる機会をご紹介します。 

まずは光雲が教授を務めていた東京美術学校と縁の深い法隆寺での展観です。既に始まって久しいのですが、今月いっぱい開催されています。 
場  所 : 法隆寺大宝蔵殿 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内1の1
期  間 : 2015年3月20日(金)~6月30日(火) (無休)
時  間 : 午前9時~午後4時
料  金 : 一般(中学生以上)500円  小学生250円

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公式サイトより
平成13年春、聖徳太子1380年御聖諱を記念して、毎年、春と秋に特別公開「法隆寺秘宝展」を開催させていただくこととなり、本年で15回目となりました。 
今回は飛鳥・奈良時代の至宝をはじめとして、法隆寺において展開された信仰とともに伝存した数々の宝物に加え、大正十年(1921)の聖徳太子1300年御忌法要に際して、制作奉納された中村不折筆の西園院客殿の襖絵や、東京美術学校(現在の東京藝術大学)教授でもあった高村光雲をはじめとする彫刻家によって刻まれた行道面なども、展示させていただきました。
ゆっくりとご鑑賞いただければと存じます。



光雲作品は大正10年(1921)作「行動面 綱引」。伎楽・舞楽系のものかと思いますが、すみません、よくわかりません。同じ種類の「行動面」は、光雲以外に門下の錚々たるメンバーが手がけています。米原雲海、平櫛田中、山崎朝雲、加藤景雲、山本瑞雲などなど。


続いて昨日の「日曜美術館」でも詳しく取り上げられていた重要文化財の「老猿」。東京国立博物館の所蔵ですが、明日から蔵出しです。光太郎のブロンズ「老人の首」も並びます。 
場  所 : 東京国立博物館 本館 18室  東京都台東区上野公園13-9
期  間 : 2015年6月2日(火)~7月12日(日) (月曜休館)
時  間 : 9:30~17:00
料  金 : 一般620円、大学生410円

公式サイトより
明治・大正の絵画や彫刻、工芸を中心に展示します。明治5年(1872)の文部省博覧会を創立・開館のときとする当館は、万国博覧会への出品作や帝室技芸 員の作品、岡倉天心が在籍していた関係から日本美術院の作家の代表作など、日本美術の近代化を考える上で重要な意味を持つ作品を数多く所蔵しています。こ れらによって明治、大正、そして昭和の戦前にかけての日本近代の美術を概観します。
日本画は、水鳥など水景をとらえた作品や梅雨の季節に因んだものを展示します。洋画は、明治期における日本の風景をとりあげた作品を中心にご覧いただきます。彫刻は写実表現の際立つ高村光雲の老猿とともに、個人の内面感情まで表現された光雲の子光太郎の老人の首などを展示します。工芸は、明治26年(1893)にアメリカで開催されたシカゴ・コロンブス世界博覧会に出品された作品を中心に、明治時代後半における工芸の諸相をご覧いただきます。

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館のサイトでは7月12日(日)までとなっていますが、「日曜美術館」では8月23日(日)までとなっていました。とりあえず7月12日でいったん区切られ、やはり人気のある作品なので、その後も「老猿」は続けて展示されるということでしょうか。


さらに、こちらも昨日の「日曜美術館」でも詳しく取り上げられていた、高野山金剛峯寺金堂の秘仏・薬師如来。春の御開帳は先月21日で終わりましたが、秋の御開帳があります。 

高野山金堂御本尊特別開帳

場  所 : 高野山金剛峯寺 和歌山県伊都郡高野町高野山132
期  間 : 2015年10月4日(日)~11月1日(日)

838年に「高野山の総本堂」として建立され、開創当時は「講堂」と呼ばれていました。現在の金堂は、度重なる火災に見舞われ、7度目に再建されたもので昭和9年に完成したものです。内部には仏師・高村光雲氏により作られた御本尊・薬師如来がおまつりされています。

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こちらはまた近くなりましたら詳しくご紹介します。


現存する光雲作品は数が多く、その他にもぽつりぽつりと各地で展示されています。先月まで奈良でもそういった機会があったのですが、詳細が不明なものはなかなか紹介しにくいところです。電話で問い合わせても要領を得ない場合があります。そこで、主催者の皆さん、ネット等にはできるだけ詳しく情報を載せていただきたいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月1日

大正2年(1913)の今日、雑誌『詩歌』第3巻第6号に詩「人類の泉」を発表しました。

智恵子への愛を高らかに謳う、『智恵子抄』前期の傑作の一つです。


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世界がわかわかしい緑になつて
青い雨がまた降つて来ます
この雨の音が
むらがり起る生物のいのちのあらはれとなつて
いつも私を堪らなくおびやかすのです
そして私のいきり立つ魂は
私を乗り超え私を脱(のが)れて
づんづんと私を作つてゆくのです
いま死んで いま生まれるのです
二時が三時になり
青葉のさきから又も若葉の萠え出すやうに
今日もこの魂の加速度を
自分ながら胸一ぱいに感じてゐました
そして極度の静寂をたもつて
ぢつと坐つてゐました
自然と涙が流れ
抱きしめる様にあなたを思ひつめてゐました
あなたは本当に私の半身です
あなたが一番たしかに私の信を握り
あなたこそ私の肉身の痛烈を奥底から分つのです
私にはあなたがある
あなたがある
私はかなり残酷に人間の孤独を味つて来たのです
おそろしい自棄の境にまで飛び込んだのをあなたは知つて居ます
私の生(いのち)を根から見てくれるのは
私を全部に解してくれるのは
ただあなたです
私は自分のゆく道の開路者(ピオニエエ)です
私の正しさは草木の正しさです
ああ あなたは其を生きた眼で見てくれるのですImage may be NSFW.
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もとよりあなたはあなたのいのちを持つてゐます
あなたは海水の流動する力を持つてゐます
あなたが私にある事は
微笑が私にある事です
あなたによつて私の生(いのち)は複雑になり 豊富になります
そして孤独を知りつつ 孤独を感じないのです
私は今生きてゐる社会で
もう萬人の通る通路から数歩自分の路に踏み込みました
もう共に手を取る友達はありません
ただ互に或る部分を了解し合ふ友達があるのみです
私はこの孤独を悲しまなくなりました
此は自然であり 又必然であるのですから
そしてこの孤独に満足さへしようとするのです
けれども
私にあなたが無いとしたら――
ああ それは想像も出来ません
想像するのも愚かです
私にはあなたがある
あなたがある
そしてあなたの内には大きな愛の世界があります
私は人から離れて孤独になりながら
あなたを通じて再び人類の生きた気息(きそく)に接します
ヒユウマニテイの中に活躍します
すべてから脱却して
ただあなたに向ふのです
深いとほい人類の泉に肌をひたすのです
あなたは私の為めに生まれたのだ
私にはあなたがある
あなたがある あなたがある

ただし、よく読むと、すでに後の大いなる悲劇――智恵子の統合失調症の発症――につながる要因が見て取れます。

「私は今生きてゐる社会で/もう萬人の通る通路から数歩自分の路に踏み込みました/もう共に手を取る友達はありません/ただ互に或る部分を了解し合ふ友達があるのみです/私はこの孤独を悲しまなくなりました/此は自然であり 又必然であるのですから/そしてこの孤独に満足さへしようとするのです」

のちに光太郎自身、こうした生活を「智恵子と私とただ二人で/人に知られぬ生活を戦ひつつ/都会のまんなかに蟄居した。」 (「美に生きる」 昭和22年=1947)と語っています。光太郎にとってはそれでよくても、智恵子にとってどうだったのでしょうか。

また、終末部分、光太郎は「あなたは私の為めに生まれたのだ」とは謳っていますが、「私はあなたの為めに生まれたのだ」とは謳いません。あくまで「私」が中心なのです。

まぁ、こういったことは後になってから言えることですが。

智恵子の紙絵&生家二階限定公開。

福島は二本松、智恵子生家・智恵子記念館からの情報です。

まず概略を説明する代わりに地元紙『福島民友』さんの記事を。 

「智恵子の生家」限定公開 二本松市合併10周年記念

 詩人・彫刻家高村光太郎の妻で詩集「智恵子抄」で知られる高村智恵子を育んだ二本松市油井の「智恵子の生家」で、智恵子の部屋を含む非公開の2階部分が6月6日から限定公開される。大型観光企画「ふくしまデスティネーションキャンペーン(DC)」や、同市の合併10周年を記念し、公開する。
  智恵子の部屋は収納と一体になった急な階段を上った所にある。大通りに面し、低い天井が当時をしのばせる。また、今回は別の急な階段を上った場所の杜氏(とうじ)などの部屋も新たに公開される。
  限定公開日はDCや夏休み、二本松の菊人形の期間中、冬期間の計47日間。土、日曜日と祝日で、時間は午前11時~午後0時30分、午後1時30分~同3時。入館料は一般410円、高校生以下200円。
  問い合わせは市智恵子記念館(電話0243・22・6151)へ。

  智恵子の生家限定公開日
 【6月】6、7、13、14、20、21、27、28日
 【7月】18、19、20、25、26日
 【8月】1、2、8、9、15、16、22、23日
 【10月】10、11、12、17、18、24、25、31日
 【11月】1、3、7、8、14、15、21、22、23日
 【2月】6、7、11、13、14、20、21、27、28日


通常、立ち入りの出来ない生家二階の智恵子の部屋に入ることができます。また、隣接する智恵子記念館では智恵子紙絵の実物の展示も。

二本松市さんのサイトから。 
明治初期に建てられ、清酒「花霞」を醸造していた旧長沼家。智恵子を育んだ「生家」であり、通常は立ち入りが制限されているこの「生家」二階を期間限定で公開します。
座敷を通り、階段を上がると、智恵子が過ごした部屋が当時のまま保存されています。
また、奇跡と言われる高村智恵子の「紙絵」の実物も期間限定で展示します。この機会に是非ご覧ください。

ふくしまデスティネーションキャンペーン期間(平成27年6月)
 6月の土曜日、日曜日
夏休みシーズン(平成27年7月~8月)
 7月の土曜日、日曜日、祝日
  ※ただし、4日(土曜日)、5日(日曜日)、11日(土曜日)、12日(日曜日)は公開しません。
 8月の土曜日、日曜日、祝日
  ※ただし、29日(土曜日)、30日(日曜日)は公開しません。
秋の観光シーズン(平成27年10月~11月)
 10月の土曜日、日曜日、祝日
  ※ただし、3日(土曜日)、4日(日曜日)は公開しません。
 11月の土曜日、日曜日、祝日
  ※ただし、28日(土曜日)、29日(日曜日)は公開しません。
冬季期間(平成28年2月)
 2月の土曜日、日曜日、祝日

公開時間 午前の部 11時00分~12時30分  午後の部 13時30分~15時00分

入館料金  一般410円 ※20名以上の団体は360円  高校生以下200円 ※20名以上の団体は150円
休  館  日 水曜日(祝日の場合は、その翌日)

来館者の方へのお願い
 建物内では、必ず係員の指示に従ってください。
 混雑状況により、入場を制限させていただくことがあります。
 明治期の建物のため、窮屈であったり急な箇所がありますので、十分にご注意ください。

智恵子の「紙絵」公開期間(予定)

奇跡と言われる高村智恵子の「紙絵」の実物を展示します。
 平成27年6月4日(木曜日)~6月30日(火曜日)
 平成27年10月8日(木曜日)~11月24日(火曜日)

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「場所」のもつ空気感というものは、大事なものです。数十年の時を経ていても、かつて光太郎や智恵子が居たその「場所」に身を置くことで感じられること、新たに見えてくるものもあります。

のちほどレポートしますが、つい先日は、光太郎終焉の場所、中野の中西家アトリエにお邪魔して参りました。中に入れていただいたのは初めてで、感慨ひとしおでした。

今度は智恵子の部屋で、思いを馳せてこようと思っています。皆さんもぜひどうぞ。

それから、隣接する智恵子記念館では、智恵子紙絵の実物の公開。こちらは例年、5月のGWと秋の菊人形期間に合わせて行っていますが、今年は「ふくしまデスティネーションキャンペーン」のからみで、6月と10月だそうです。

複製や画像では感じられない、実物のもつ存在感、迫力といったものを味わってみて下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月2日Image may be NSFW.
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昭和48年(1973)の今日、文治堂書店から高村豊周遺稿歌集『清虚集』が刊行されました。

豊周は光太郎の実弟。鋳金の道に進み、いわゆる人間国宝に認定されました。

実兄・光太郎同様、文才にも恵まれ、特に短歌は独自の境地を開き、昭和39年(1964)には皇室の歌会始の召人を務めたり、生前には3冊の歌集を刊行したりもしました。

この『清虚集』は、1年前のこの日に亡くなった豊周の遺稿歌集です。解説は盟友とも言える間柄だった草野心平が書きました。

田辺裕信騎手/トゥルースカイ。

競馬関連のネタを2つ。

先週の『日刊スポーツ』さんに以下の記事が載りました。 

祭りが生んだ名騎手田辺/福島県二本松市

 ちょうちんと芸術センスが、名ジョッキーを生んだ-。変幻自在な騎乗で知られる競馬騎手田辺裕信(31)は福島県の古き城下町、二本松市出身。家族、友人を訪ねていくと、同市独特の歴史と文化に秘密が隠されていた。

 田辺と記者は実は二本松一中の同級生だ。中3の秋「田辺が競馬学校に受かった!」と学校中が大騒ぎになったのを今でも覚えている。あれから約16年。現在、全国リーディング9位(5月17日現在)。騎乗依頼もひっきりなしに来ると聞く。トップジョッキーとなった田辺のルーツを探るため、まずは二本松駅近くにある実家のご両親を訪ねた。まず出てきたのは「祭り」の話だった。

 父敏勝さん(60) とにかくお祭りが大好きで。太鼓を買ってあげて、小さい頃からたたいていたから半端じゃなく上手なのよ。

 祭りとは、江戸時代から約350年続く郷土行事「二本松提灯祭り」のこと。市内7町の太鼓台に約300個のちょうちんが飾られ、秋の夜空を照らす幻想的な祭りだ。「タンタ、タンタ、タンタタン」のリズムを打つ「しゃぎり」というはやしが特徴。各町に代々伝わる無数の祭りばやしも聞き応えがある。毎年10月4、5、6日前後に行われ、外に出た人たちも故郷に帰ってくる一大イベントだ。男の子なら、幼い頃からちょうちんで彩られた太鼓台に乗るのを夢見る。通常、小3から祭りに参加し、太鼓をたたくことができるが、田辺は我慢しきれずその前に、自ら太鼓台を作ってしまったという。

 母夏江さん(59) 乳母車を改造して太鼓を乗せて「ミニ太鼓台」をつくるわけ。最初は段ボールにちょうちんの絵を描いて付けていたけど、次は木材でやぐらを作ったり。どんどんグレードアップしていって。

 この手作り太鼓台で一緒に遊んでいた小、中の同級生加藤大史さんに聞くと「確かにあいつは学年で(太鼓をたたくのが)一番うまかった。センスがあった」と教えてくれた。中3の秋、競馬学校の1次試験日は祭りの翌日の10月7日だった。誰もが認める「祭り大好き男」は、祭りへの参加をやめ、試験勉強に集中した。「提灯祭り」は二本松の男が、仕事、家庭を犠牲にしても命をかけて守るもの。祭りにかけていたエネルギーをそのまま競馬にぶつけたからこそ、今の成功につながったんじゃないだろうか。

 「こんなのも残してあるのよ」と夏江さんが見せてくれたのが小学校の図工の時間に作った「提灯祭り」をモチーフにした箱。箱を開けると、ちょうちんが付いた「スギナリ」が飛び出す仕組みで、太鼓台を細部まで紙と絵で表現してある。小学生が作ったとは思えない高いクオリティーに正直びっくりした。

 敏勝さん あいつは、絵も上手で、小学生の時に祭りの絵を描いて、賞を取ったこともあった。海外に出品されて戻ってこないんだけど。見ている人が細かく描いてある、すごい絵だったよ。

 田辺の祖父勝利さんは大工だったという。手先の器用さはそこから受け継いだのか。思えば、二本松は芸術の町でもある。明治時代から大正時代にかけ、当時女では珍しい画家を目指し上京した高村智恵子。昭和にかけ日展で活躍した木彫家橋本高昇。現在では日本画家の大山忠作。多くの芸術家を輩出してきた。音楽でも、伝説のパンクロッカー遠藤ミチロウがいる。城下町で坂が多く、絵になる風景がたくさんある。精緻な調度が魅力の二本松箪笥(たんす)を売る家具ストリートもある。

 私も芸術の学校に進んだし、二本松市の知り合いには音楽、文筆、写真、デザインと文化系の道を進んでいる人が確かに多い。前に田辺に競馬で心がけていることを聞いた時、「人と同じことしちゃダメ。やっぱり目立たないと」と話していた。後輩の競馬記者柏山自夢にいわせれば田辺は「型にとらわれない騎乗をする『美浦の魔術師』」だそうだ。祭りで培われたリズム感。風土の影響を受けた自由な精神。二本松の土地が知らずと、変幻自在のジョッキーを生んだと納得して故郷を後にした。【高場泉穂】

 ◆二本松市 福島県中通り地区にある元二本松藩の城下町。05年に安達、岩代、東和町と合併。総面積は344・60平方キロメートル。人口5万7376人。(15年5月1日現在)主な特産は日本酒、和菓子。主な出身有名人に歴史学者の朝河貫一、「智恵子抄」で知られる高村智恵子、ミュージシャンの遠藤ミチロウら。

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智恵子と同じ二本松出身で、こういう方がご活躍なさっているとは存じませんでした。

競馬界で活躍、と言えば以前にもご紹介した、「智恵子抄」から名を取った競走馬「トゥルースカイ」。今年3月には初勝利を収めました。初勝利の次のレースは7着と振るわなかったのですが、先月あった2回のレース、5月1日の「サンライズ賞」で1着、先週の「稲荷山特別」でも2着と、また好成績でした。

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田辺騎手、トゥルースカイ、ともに今後とも、さらに飛躍してほしいものです。

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【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月3日

平成11年(1999)の今日、草の根出版会から小松健一著『母と子でみる A8 詩人を旅する』が刊行されました。

著者の小松氏はフォトジャーナリスト。

「自己を罰した奥羽の山小屋」の項で、二本松、そして花巻での光太郎智恵子を紹介しています。

その他、宮沢賢治、石川啄木、萩原朔太郎、与謝野晶子、佐藤春夫、中原中也、北原白秋など、光太郎と縁の深かった詩人達も取り上げられています。


東京精神科病院協会「心のアート展 創る・観る・感じる パッション――受苦・情念との稀有な出逢い」。

当会顧問、北川太一先生から情報のご提供を戴きました。 

第5回 心のアート展 創る・観る・感じる パッション――受苦・情念との稀有な出逢い

主  催 : 社団法人東京精神科病院協会
会  期 : 平成27年6月17日(水)~6月21日(日) 10時~19時(最終日は17時まで)
会  場 : 東京芸術劇場 ギャラリー1  東京都豊島区西池袋1-8-1

心のアート展 ―新たな使命としての芸術・文化活動―
 〈社団法人〉東京精神科病院協会では、平成20年度より芸術展「心のアート展」を企画、平成21年度からは「心のアート展実行委員会」という専門委員会を設け、作品の募集、発掘、審査、ディスカッション、展示準備、展覧会運営、展覧会カタログの作成、広報などの展覧会活動をおこなっている。
 展覧会のメインは公募作品展示。協会会員の66病院に呼びかけ作品を公募し、それを審査員長・加賀乙彦(小説家、精神科医)、審査員・立川昭二(北里大学名誉教授、医学医療史)、仙波恒雄(日本精神科病院協会名誉会長)、齋藤章二(斎藤病院理事長・院長)、安彦講平(〈造形教室〉主宰)の5名の審査員が、一作一作、真摯に向き合い、心ゆさぶられ、熱意を込めて審査。「声なき声、呟き、ため息、独り言、そして魂の叫び」を表現した多様な世界を展示、紹介している。

特集展示 高村智恵子
近代日本を代表する彫刻家・詩人、高村光太郎の妻、高村智恵子(1886-1938)の紙絵復刻、関連資料を展示・紹介します。49才で「ゼームス坂病院」に入院した智恵子は、寝食を忘れるほど紙絵の制作に取り組み、千をこえる作品を遺しました。潤沢で豊穣な芸術家の魂の表現をご覧下さい。

ギャラリートーク(20.21日 13:00~)
「病む」とは何か、「表現」とは何か、「生きる」とは何か。実作品を前に作者や関係者の方々に、作品解説や制作の背景について語っていただきます。参加自由。

座談会(20日 16:00~)
審査員やゲストを交え、表現活動やアートの持つ力、意味、可能性について語り合いましょう。参加自由。

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 というわけで、智恵子の紙絵の複製、関連資料(どういったものか不明です。すみません)の展示があります。

社団法人東京精神科病院協会さんの主催ということで、通常の美術展とはまた違った切り口で智恵子紙絵の紹介が為されるのではないかと期待しております。

ぜひ足をお運び下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月4日

昭和16年(1941)の今日、『読売新聞』に「芸術局の創設 文学で貫く民の声・四銃士の肚決る」という記事が掲載されました。

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「四銃士」とは光太郎、菊池寛、尾崎士郎、山本有三。記事本文では「翼賛四銃士」となっており、タイトルもこれを受けてのものです。

この月16日から20日にかけ、大政翼賛会第一回中央協力会議が開催され、四名とも出席。これに先立つ3日に築地の料亭錦水で発言内容等の打ち合わせを四名が行ったというのが記事の趣旨です。

光太郎の談話も掲載されています。

日本の芸術といへば外国人はすぐに浮世絵とか三味線といつたものを連想する、珍しいもの、変つたものだけが日本の芸術だと思つてゐる、これだから日本の国威が外国に宣揚されないのです、もつと日本芸術の本当の厚みとか深さといふものを彼等に知らせて精神的な圧力を加へてやりたい、このために日本芸術による国威を海外に示したいものだ

時に太平洋戦争開戦前夜。智恵子を失った「おそろしい空虚」(連作詩「暗愚小伝」 昭和22年=1947)を埋めるように、積極的に社会と関わろうとしていた光太郎。その社会がとんでもない方向に進んでいったのは、大きな悲劇でした。




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