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Channel: 高村光太郎連翹忌運営委員会のブログ
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福島二本松 第10回「好きです智恵子青空ウオーク」。

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昨日に引き続き、来月初めのイベント紹介です。 

と  き     2015年5月4日( みどりの日)  午前9 時30 分受付 10 時開会  雨天決行
ところ      智恵子純愛通り記念碑前( 智恵子の生家近く) 集合出発
参加定員   先着5 0 名( 各自昼食持参)
参加費    大人1000 円 学生500 円
申し込み先 智恵子のまち夢くらぶ事務局 TEL 0 2 4 3 - 2 3 - 6 7 4 3
主  催    智恵子のまち夢くらぶ
後  援    二本松市二本松教育委員会 智恵子の里レモン会 あだち観光協会 他

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毎年この時期に、智恵子の故郷・二本松で開催されているイベントです。智恵子の生家周辺のゆかりの地を歩くというもので、5月20日が智恵子の誕生日であるため、その近くに設定されています。

5連休のど真ん中ですね。ぜひご参加下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月26日

昭和23年(1948)の今日、花巻南温泉峡の鉛温泉で、朝湯を楽しみました。

前日から藤三旅館に宿泊、深さ1.25㍍の「白猿の湯」に入りました。

当日の日記から。

昨夕温泉に久しぶりにて入る。深い共同風呂にも入る。泉質よきやうなり。温度余に適す。
(略)
朝五時頃入浴。二三人老人が入り居るのみ。きれい也。

当方も明日の晩、鉛温泉さんに宿泊します。

宮内庁三の丸尚蔵館「鳥の楽園」/調布市武者小路実篤記念館「一人の男」/モンデンモモミニミニライブ。

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昨日も、都内に出、3件の用事を済ませて参りました。

一つずつ詳しくレポートしたいところなのですが、今日から花巻に泊まりがけで出かけますので、そちらのレポートも書かねばならず、昨日の分はダイジェストで記述します。

まず、皇居東御苑内の三の丸尚蔵館さん。企画展「鳥の楽園-多彩,多様な美の表現」を観て参りました。

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先月から始まっているのですが、一昨日から「中期」日程(5/17まで)に入り、展示替えで光雲木彫が展示されています。明治22年(1889)作の矮鶏(ちゃぼ)置物と、大正13年(1924)作の「松樹鷹置物」です。

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どちらも平成14年(2002)、茨城県立近代美術館で開催された企画展「高村光雲とその時代」展で観て以来、13年ぶりに拝見しました。何度観ても、光雲の刀技の冴えは、神業の域です。

「矮鶏」はポストカードが販売されていました。さらに図録を購入。花巻から帰ってからゆっくり読みます。


続いて、都下・調布の武者小路実篤記念館さんへ。こちらはこのブログを始める前、震災の年の夏にお邪魔したことがあり、2度目の訪問でした。その際は、収蔵されている光太郎から武者小路宛の葉書の調査でした。

こちらも一昨日、春の特別展「一人の男~武者小路実篤の生涯~」が始まりました(6/14まで)。同館の特別展では、これまでに「実篤と○○」、「白樺派と××」的ないわばミクロ的視点の企画が多かったようですが、今回は、生誕130年記念やら開館30周年やらということで、実篤その人をマクロ的に取り上げ直す、といったコンセプトのようでした。すると、光太郎もからんできますし、同館から招待券を戴きましたので、観に行った次第です。

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入ってすぐ、巨大な年譜が展示されており、ざっと見ただけでも武者小路が主宰したり関わったりした雑誌で、光太郎が寄稿している雑誌が結構あることに、改めて気づきました。『白樺』をはじめ、『生長する星の群』、『大調和』、『星雲』、『向日葵』、『心』など。また、それらの現物も並んでいましたし、展示されていた写真パネルには光太郎が写っているものも。興味深く拝見しました。

こちらも詳しくレポートしたいところですが、先を急ぎます。すみません。


最後に練馬の光が丘。「智恵子抄」を中心として、光太郎詩にオリジナルの曲をつけて唄っているシャンソン歌手のモンデンモモさんの「ミニミニライブ 第13回」です。

何が「ミニミニ」かと言いますと、会場です。ホールやライブハウスなどではなく、民家の一室(それも一戸建てでなく、光が丘団地の集合住宅)でやってしまうという大胆な試みで、したがって、キャパシティー的に「ミニミニ」です。それでも20名ほどお客さんが集まっていました。

プログラム的には「ミニミニ」ではなく、みっちり2時間。前半が「智恵子抄」ということで、モモさんオリジナル曲を中心に、モノドラマ形式のステージでした。後半は「イタリアン・ポップス」。伴奏はもはや「相棒」と化しているピアニストの砂原dolce嘉博さん。いつもながらに息の合った演奏でした。

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民家の一室だけあって、非常に家庭的な雰囲気、さらに終演後にはお部屋をご提供下さった澤村様ご夫人の手料理を賞味しつつの懇親会も行われました。当方、帰ってやることもあり、途中で退散いたしましたが。


というわけで、またまた有意義な1日でした。先述の通り、今日かイメージ 1ら花巻です。明日は花巻高村光太郎記念館のリニューアルオープンと言うことで、そちらの式典、さらに午前中は報道陣への内覧があり、当方も説明のお手伝いです。特になにもなければ1泊で(宿泊は光太郎も泊まった鉛温泉さん)帰る予定ですが、もしかすると滞在が延びるかも知れません。いずれにせよ、有意義な旅としたいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月27日

大正8年(1919)の今日、『時事新報』で連載「ホヰツトマンのこと」が始まりました。

ホヰツトマン」は、ウォルト・ホイットマン(1819~1892)。アメリカの詩人です。光太郎は大正6年(1917)から、『白樺』などにホイットマンの「自選日記」の翻訳を発表、同10年(1921)には単行本として刊行しています。

花巻高村光太郎記念館リニューアルオープン。

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先ほど、昨日から行っておりました岩手花巻より帰って参りました。

今日、午前11時から、花巻高村光太郎記念館のリニューアルオープン記念式典があり、その関係でした。

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昭和20年(1945)から、同27年(1952)までの7年間、光太郎が独居自炊の生活を送ったこの地に、最初の記念館が建設されたのは昭和41年(1966)。約半世紀が経って建物の老朽化が進み、2年前には、近くにあった、もともと花巻市の歴史民俗資料館だった建物を高村光太郎記念館として移転、暫定オープンいたしました。その時点では、2棟ある建物のうち、手前の1棟のみの使用でしたが、このたび、2棟めも使用してのグランドオープンとなった次第です。

テープカットは今月2日の第59回連翹忌にもご参加下さった上田東一花巻市長、昨年亡くなった、光太郎の令甥・高村規氏令息の高村達氏、㈶花巻高村光太郎記念会会長・佐藤進氏(宮澤賢治の主治医で、昭和20年=1945には光太郎が一時その邸宅に寄寓していた佐藤隆房令息)、花巻市議会議長・川村伸浩氏、そして生前の光太郎を知る、花巻市太田地区振興会長・佐藤定氏。

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以前から使っていた手前の棟も、内容を一新。「展示室1」と名付けられ、彫刻作品の展示と、映像・音声を駆使したハイテク展示コーナーなどが設けられています。

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ハイテクコーナーでは、声優の堀内賢雄さんによる朗読と、岩手の四季のイメージ映像が組み合わさり、玄妙なバーチャル空間が創出されています。

さらには壁に埋め込まれたディスプレイでは、光太郎の紹介ビデオも。よくまとまっています。

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こちらは光太郎代表作、「手」のレプリカ。本物はガラスケースに入っていますが、こちらはレプリカですので、自由に触れます。

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「十和田湖畔の裸婦群像」(通称・乙女の像)のための中型試作。実物およそ2分の1です。当方監修の書籍『十和田湖乙女の像のものがたり』が刊行されたばかりですので、感慨深く拝見しました。


渡り廊下を通って、2棟目が「展示室2」。こちらには光太郎の遺品、書、草稿、著書、彫刻、智恵子の紙絵(本物)、その他100点ほどが並んでいます。それも雑多に並べるのではなく、小テーマごとに展示しています。光太郎と花巻との関わり、岩手ということで、石川啄木や宮澤賢治とのつながり、書、智恵子、山小屋生活、といった具合に。


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すぐ上の画像に写っているえんじ色の説明パネル、当方が執筆させていただきました。また、展示品の一部も当方がお貸ししています。2枚上の画像に写っている日本読書組合版の『宮澤賢治全集』です。こちらは賢治の弟・清六と、光太郎の編集。装幀・題字は光太郎。全10冊の予定が6冊刊行されて中断してしまったものですが、既刊6冊が揃っているのはなかなか珍しいものです。

さらに、こちらでも光太郎紹介のビデオが流れています。展示室1とは異なる内容で、一昨年、千葉市美術館他を巡回した「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展に際して作られたものを転用させていただきました。故・高村規氏もご出演なさっています。

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さらに、今日の段階ではまだ閉鎖していますが、来月中頃からは「企画展示室」も使用を開始します。今のところの予定では、1年間のスパンで、さらに細かくテーマを決めて、展示の入れ替えをするコーナーです。最初はこの地での光太郎の7年間の生活にスポットを当てる予定です。追ってご紹介します。

ここに来るまでの、関係者の皆様のご労苦には、頭の下がる思いです。㈶花巻高村光太郎記念会スタッフの方は、最後のイメージ 21頃は不眠不休に近かったとか……。


それを狙って、今日のオープンに設定したのですが、ゴールデンウィークです。さらに、こちらも追ってご紹介しますが、来月15日にはこの地で「第58回高村祭」が開催されます。5月の花巻は、一年中でもっともいい季節。ぜひぜひ、足をお運び下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月28日

昭和46年(1971)の今日、日比谷芸術座でフラメンコダンサー、アキコ・カンダの第5回リサイタル「能の音によるモダンダンス―智恵子抄 Poems to Chieko」が上演されました。

演出/天野二郎、振付/アキコ・カンダ、音楽/観世寿夫でした。

花巻高村光太郎記念館リニューアル報道。

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昨日リニューアルオープンなった花巻高村光太郎記念館に関する報道です。 

岩手)花巻・高村光太郎記念館がリニューアルオープン

『朝日新聞』 岩手版 

 彫刻家で詩人の高村光太郎の記念館(花巻市太田)のリニューアル工事が終わり、28日、再オープンした。展示面積がこれまでの3倍に広がり、市は「初心者から深く知るファンまで満足できる展示となるよう工夫した」とPRしている。
 記念館は光太郎が1945年から52年まで暮らした「高村山荘」の近くにある。以前は財団法人高村記念会が「高村記念館」を運営していたが、2013年5月に市が花巻歴史民俗資料館を改修し、「高村光太郎記念館」と改称して暫定オープンしていた。昨年12月から資料庫だったスペースも展示スペースに改修し、今回、本格オープンした。広さは約640平方メートルで、改修費は約1億6300万円。
 展示室は1と2に分かれ、1では青森県の十和田湖畔にある「裸婦像」の中型試作などの彫像を展示。映像コーナーもあり、光太郎の詩と岩手の風景を流して、「光太郎の世界に導く」という。2では、書や詩などテーマ別に作品を展示しているほか、花巻での暮らしぶりなども詳しくパネルで紹介している。展示品は全体で約110点。イメージ 1
 2では妻の智恵子についても紹介しており、今回、智恵子の「紙絵」の「いちご」と「あじ」の実物2点を展示している。「いちご」には光太郎直筆の短歌も添えられており、館は「唯一の合作」と説明している。紙絵の色あせを防ぐため、「当分の間」という限定展示だ。
 この日の記念式典には高村家から光太郎の弟の孫にあたる写真家高村達(とおる)さん(47)=東京都文京区=も参加し、「全国でもただ一つの光太郎記念館。7年間暮らした花巻に造っていただき、ものすごくうれしい。期待以上の展示になっています」と話していた。
 入場料は高村山荘がある敷地内が一般200円で、記念館がほかに同350円。問い合わせは記念館(0198・28・3012)へ。(石井力)
 

光太郎の作品世界を体感 花巻・記念館リニューアル

『岩手日報』

 花巻市太田の高村光太郎記念館は28日、リニューアルオープン記念式典を現地で行い、関係者ら約100人がテープカットなどで再出発を祝った。2013年に移設し暫定的に開館していたが、今回は旧収蔵庫を展示スペースに改修し全面開館。記念館は光太郎が暮らした高村山荘にも隣接し、花巻での生活とともに作品世界を体感できる。新緑のさわやかな光と風に包まれ、自然環境と調和した文化拠点に生まれ変わった。
 終戦70年の節目に重なる意義深い記念式典となった。光太郎が花巻に疎開したのは1945年。今回の全面改修で記念館の総面積は約636平方メートルとなり、展示スペースは約2倍に拡充された。
 二つの展示室は渡り廊下でつながり、入り口側の「展示室1」は白を基調とした内装。「乙女の像(中型試作)」などの彫刻作品を紹介する。
 朗読体験コーナーでは「道程」「レモン哀歌」などの音声が流れ、風景映像とともに作品世界を感じ取れる。レプリカの彫刻「手」は実際に触ることができるなど体感型コーナーが充実した。
 開館記念で29日は入館無料。

【写真=誠実な人柄で愛された高村光太郎。書や詩など貴重な展示作品が並ぶ】
 

詩の朗読、映像と共に 光太郎記念館リニューアル 愛用品、多数展示

 
『岩手日日』

 花巻市太田の高村光太郎記念館で28日、リニューアルオープン記念式典が行われ、関係者によるテープカットで新たな門出を祝った。光太郎の詩の世界を映像や音声で堪能できる機器を設置したほか、光太郎と妻・智恵子の唯一の合作とされる切り絵も実物を初めて展示。29日まで入場無料とし、来場者を歓迎する。
 約80人が出席した。上田東一市長は「記念館が全国のファンの聖地となることを祈念する」とあいさつ。光太郎の弟の孫にあたる高村達氏と上田市長、市議会の川村伸浩議長、花巻高村光太郎記念会の佐藤進会長、太田地区振興会の佐藤定会長の5人でテープカットを行い、来場者を迎えた。イメージ 2
 記念館は旧館の老朽化に伴い、旧花巻歴史民俗資料館を活用して2013年5月に暫定オープン。その後、資料の保存や展示の環境整備、内容充実などに向けて、14年12月から全面的に改修した。
 改修後は、ゆったりした空間が特徴の展示室1でブロンズ像の「手」や「裸婦坐像」など彫刻を中心に紹介。「手」は新たに複製を設け、実際に触れて造形の奥深さを感じられるようにした。
 映像や音声で光太郎の世界を紹介する仕組みも導入。大型スクリーンに映し出される岩手の風景と共に朗読される詩を楽しむことができ、早速、来場者が光と音による演出を体感していた。
 収蔵庫を改修した展示室2では、書や詩などの作品と愛用のパイプなどを紹介。宮沢賢治らとの親交や地域住民との交流などを示す展示も含め、同記念館ならではの構成となっている。
 特に注目されるのは、初めての実物展示となる智恵子が作った切り絵。このうち「いちご」と題された切り絵には光太郎の短歌が添えられており、唯一の二人の合作とされている。
 光太郎は太平洋戦争末期から終戦後にかけて花巻に居住。同記念会事務局の高橋卓也さんは「花巻は光太郎の暮らしにゆかりのあるものがそろっている。愛用品を展示できるのはここだけ。今後もファンの声を聞きながら、展示を充実させていきたい」と話していた。

 

高村光太郎記念館がリニューアル

IBC岩手放送ニュース

改修工事が行われていた花巻市の高村光太郎記念館が28日リニューアルオープンし、記念の式典に多くの人がかけつけました。詩人で彫刻家の高村光太郎は太平洋戦争末期に花巻に疎開し、終戦後、花巻市太田に移り住みました。28日は花巻市の上田市長や光太郎の弟の孫である高村達さんがテープカットをして記念館のリニューアルを祝いました。記念館は去年末からおよそ1億6300万円をかけて改修工事が行われました。館内は展示室の広さが2倍になり、光太郎の詩を映像で表現するコーナーが設けられました。また彫刻作品や直筆の詩などおよそ110点が展示されています。高村光太郎記念館では来月15日に、詩の朗読や講演会などが行われる「高村祭」が開かれます。


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高村光太郎記念館リニューアル

NHK盛岡放送局

 花巻市にある、詩人で彫刻家の高村光太郎の記念館が彫刻の展示室や大型スクリーンなどを新たに設けて、28日、リニューアルオープンしました。
 詩人で彫刻家の高村光太郎は、昭和20年の空襲で東京のアトリエを失ったあと、知人を頼って花巻市に疎開し、その後、7年間を過ごしました。
 昭和42年に開館した高村光太郎記念館はおととしから現在の場所に移って展示を行っていますが、展示内容を大幅に見直して、28日、リニューアルオープンしました。
リニューアルした記念館には、光太郎の彫刻を展示する展示室や光太郎が作った詩などを紹介する大型スクリーンなどが新たに設けられました。
 記念館には、光太郎が大正7年に制作した「手」というブロンズ像や、光太郎と妻の智恵子が合作したとされる「いちご」という切り絵などが展示されています。
 光太郎の弟の孫にあたる高村達さんは「山の中をイメージした記念館のデザインは光太郎が花巻市で滞在していた山小屋のイメージとぴったりとあっています。展示も工夫されていてとてもよかったです」と話していました。
 訪れた69歳の女性は「千葉県や埼玉県に知り合いがいるので、ぜひ案内してみたいです。すばらしい記念館になったのでみんなで大切にしていきたいです」と話していました。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月29日

平成21年(2009)の今日、「妄想姉妹〜文學という名のもとに〜」DVDコンプリートBOXが発売されました。

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妄想姉妹〜文學という名のもとに〜」は、地上波日本テレビ系でこの年に深夜ドラマとして放映されていたものです。吉瀬美智子さん、紺野まひるさん、高橋真唯さん、田中哲司さんらが出演していました。

2月14日オンエアの第5話が「智恵子抄」。紺野さんが智恵子役、光太郎役は高橋洋さんでした。

DVDコンプリートBOXは3枚組。第11話までの全編と、メイキングの特別編が収録されています。

鉛温泉。

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一昨日の高村光太郎記念館リニューアルオープンのため、岩手花巻に行きましたが、オープン前日に花巻入りし、鉛温泉藤三旅館さんに宿泊いたしました。豊沢川の渓流沿い、花巻南温泉峡の奥の方です。

昨年1月に泊めていただいた時以来、2度目の逗留でした。

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少し前にも書きましたが、光太郎もこの鉛温泉藤三旅館さんに泊まっています。確認できている限りでは、昭和23年(1948)に3回、それぞれ一泊しています。同24年(1949)と25年(1950)の日記が失われている他、それ以外の時期にも日記執筆をサボっていることがあるので確認できませんが、もしかするとその間にも泊まっているかもしれません(旅館ではその頃の宿帳は保存していないとのこと)。

その当時の建物もまだ健在。前回は、宿泊前に下調べを十分にして行かず、光太郎がどの部屋に泊まったのかわかりませんでしたが、今回はちゃんと調べてから行きました。

二度目に訪れた昭和23年(1948)5月11日の日記に、以下の記述があります。

午后五時五分の電車にて二ツ堰発、鉛温泉まで。 宿にては村長さんより電話ありたりとて待つてゐたり。此前と同じ室三階三十一号室。畳あたらし。

また、三度目の宿泊となった同月18日の日記では、

二ツ堰より電車にて鉛温泉。 乗車中豪雨降る。後止み、晴れる。温泉にては前と同じ31号室(三階)。

とあり、確認できている3回とも、3階の31号室に泊まったことが分かりました。ちなみに「電車」は花巻電鉄です。

当方の部屋は、同じ3階の85号室。だいぶ番号が離れているので、昔と部屋番号が変わってしまっているのかも、と思いましたが、部屋に備え付けの館内案内を見てみると、ちゃんと「31号室」があり、早速行ってみました。

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当方の部屋は後から建て増しされた棟のようで、光太郎の泊まった31号室は古い棟の角部屋でした。渡り廊下的な場所からこういう風に見えます。

さらに、帰ってからネットの公式サイトで調べてみると、「寛ぎのゆったり部屋」ということで紹介されていました。

ちなみに20号室という部屋は、田宮虎彦が泊まって小説「銀心中」を執筆したということで、「文人ゆかりの部屋」と紹介されています。

それよりは光太郎が泊まった部屋を前面に押し出すべきだと思うのですが、どうも藤三旅館さんではそのことをご存じないようです。

機会があったら、ぜひこの31号室を予約しようと思います。ただ、このタイプの部屋は、通常、1名での宿泊は受け付けていないようです。どなたかご一緒しませんか(笑)。

前回泊まった時も書きましたが、料理は美味しく、それでいて料金はリーズナブルでした。

それから、深さ約130㌢の「白猿の湯」をはじめ、光太郎も誉めた温泉もやはりグッドでした。1泊で3回入ってきました。当方の好きながっつり熱い湯もあったのが嬉しいところでした。

館内あちこちのレトロな雰囲気もいい感じです。

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翌朝、高村光太郎記念館リニューアルオープンに向かう前に、宿の周辺を散歩しました。市街地ではないため、昭和20年代の光太郎がいた頃の雰囲気がまだよく残っているように感じました。

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このあたりも春を迎え、いろいろな花が咲き誇っていました。関東では盛りを過ぎた桜、連翹、さらにカタクリやふきのとう。

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特にカタクリ(すぐ上の画像)が普通に道端に咲いているのは、初めて見たように思いました。

さらに迎えに来ていただいた㈶花巻高村光太郎記念会事務局長さんの車の中からは、やはり道端にミズバショウが咲いているのも見えました。

ちなみに高村光太郎記念館、そして光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)周辺も、花々が咲き乱れていました。

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山荘は、隣接する便所「月光殿」の鞘堂を改築中です。
右の画像は、記念館前のコブシの花です。

この地域、これから1年中でもっともいい季節となります。ぜひ足をお運び下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月30日

昭和22年(1947)の今日、雑誌『農民芸術』に、宮澤賢治がらみの散文「玄米四合の問題」を発表しました。

賢治の「雨ニモマケズ」中の「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」に触れ、次のように述べています。

 私の見るところでは宮澤賢治の食生活は確に彼の身を破り彼の命数を縮めた。宮澤賢治に限らず、かういふ最低食生活をつづけながら激しい仕事をやつてゐたら、誰でも肋膜にかかり、結局肺結核に犯されて倒れるであらう。
(略)
 私は玄米四合の最低から、日本人一般の食水準を高めたい。牛乳飲用と肉食とを大いにすすめたい。日本人の体格を数代に亘って改善したい。消極的健康から積極的健康に日本人を転換させたい。食生活の合理化を実行して此の結核国から結核を駆逐したい。精神力涵養に不可欠な身体力の培養に十全の力をそそぎたい。

賢治を殺し、智恵子を奪い、そして今また、自らの身を冒す結核への憎しみが見て取れます。

「安達太良山の自然満喫 ロープウエー運行再開」他。

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あちこち出かけてのレポートを書いているうちに、光太郎智恵子の名がちらっと出た新聞記事が何件か、たまってしまいましたので、まとめてご紹介します。
 
まずは『岩手日報』さんの一面コラム。

風土計 2015.4.22

 高村光太郎は「木彫ウソを作った時」と題した随筆に、「あの木彫りのウソは実物のウソよりも、もっとほんとにウソのようだ」と書いた
▼しゃれっ気たっぷりの文章にある「木彫りのウソ」とは、東京・亀戸天神社の鷽替(うそかえ)神事に登場する柳の木で作ったウソ。店先で「ヒューヒュー」と声がするので近づくと、ウソという鳥が「思いきった直立の姿勢」で止まり木にいた
▼その姿に重なったのが鷽替のウソだ。自分でも彫ってみようと1羽を求め、ためつすがめつ眺めては特徴を事細かに記したのが、くだんの随筆。仕上げた作品は毎日懐に入れ持ち歩いた。健康だった智恵子も欲しいとせがんだという
▼県内の今年の桜は記録的な早咲きとなったが、ウソの亜種の冬鳥アカウソに花芽を食われた木々が多いようだ。小社に近い盛岡市内丸の岩手公園もまだら加減だが、おかげで彼らは栄養を蓄え、無事に旅立ったと心を慰めるのも一興だろう
▼鷽替神事は「学問の神様」菅原道真に由来して、ウソは「幸運を招く鳥」。ウソを嘘(うそ)にかけ、木のウソを新しいものと「取り(鳥)替える」ことで旧年のうそを清算、吉を招くとされる
▼花見には少し寂しい風景も、被災からの復興に幸多い未来を約してくれたと思えば違って見えるというもの。食い逃げは、うそでもしないでね。


「あの木彫りのウソ」はこちら。大正14年(1925)の作です。

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続いて同じ日の『東京新聞』さんのコラム。

本音のコラム 渦中の人 斎藤美奈子

 何事も渦中にいるときは「いま何が起きているのか」がわからないことが多い。「戦時下の日本では異常なことが起きていたのだ」と人々が知ったのは敗戦後だった。
 「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」(「道程」一九一四年)や「智恵子は東京に空が無いといふ、ほんとの空が見たいといふ」(「あどけない話」『智恵子抄』一九四一年所収)など、国語の教科書にも載っている詩で知られる高村光太郎は、日本文学報国会詩部会会長を務めるなど、戦時中は熱心な戦争協力詩人だった。
 「つひに太平洋で戦ふのだ。/詔勅をきいて身ぶるひした」「身をすてるほか今はない。/陛下をまもらう。/詩をすてて詩を書かう」とは「真珠湾の日」(『暗愚小伝』所収)という詩の一節。これは戦後(一九四七年)に書かれた詩なのでまだ自省的だが、戦意高揚をあおる戦中の詩はそりゃ強烈だった。
 光太郎に限らず戦争に協力した文学者は少なくない。彼らは当時「何が起きているのか」がわからなかったのだろう。
 ひるがえって現在はどうか。自民党の情報通信戦略調査会がNHKとテレビ朝日の幹部を呼びつけ、事情を聴くという異常な事態。これが報道の自由の侵害、言論統制の一環でなくてなんだろう。このままでは戦中に逆戻り? いやいやいや、私たちすでに渦中にいるのである。


題名の「渦中の人」は、すなわち私たちということですね。決してそうではないことを祈りますが、国会に法案提出されてさえいない事項をアメリカで確約してくる総理が支配している国ですから、何とも言えませんね……。


最後に『福島民友』さん。

安達太良山の自然満喫 ロープウエー運行再開

 二本松市奥岳温泉の富士急安達太良観光(稲葉通彦社長)が安達太良山麓で運行する高速ゴンドラ「あだたら山ロープウェイ」は25日、グリーンシーズンの運行を開始した。運行は11月8日まで。初日からツアー客も訪れ、雪が残る安達太良山の自然を満喫した。
 これまでの「あだたらエクスプレス」から名称を改めた。麓から山頂駅までを約10分間で結ぶ。地上とは違った雄大な眺望が満喫できるほか、高村光太郎の詩集「智恵子抄」で「ほんとの空」と歌われた青く澄みきった空や、絶景の大パノラマも楽しめる。
 東京から訪れた女性は「登山はしなかったが、雪の上で登山家になったつもりで記念撮影した。近くでは桜も見ることができ、二つの世界を楽しめた」と話した。
 (2015年4月26日 福島民友トピックス)

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山開きの記事も付いています。そちらに関しては、後ほど詳しくご紹介します。



【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月1日

昭和2年(1927)の今日、茨城県大洗で山村暮鳥詩碑の除幕式に参加しました。

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画像は当時の『読売新聞』。「水戸市」となっているのは、「磯浜町」の誤りで、現在の大洗町になります。

キャプションに光太郎の名。写真が不鮮明で、どれが光太郎かよくわかりませんが。

光太郎と暮鳥、それほど深い接点はなかったようですが、詩碑の除幕式には参加しています。

以下、暮鳥の歿した大正13年(1924)12月、地方紙「いはらき」に載ったという光太郎の文章。

 山村暮鳥さんとは数年前上野池の端の電車の中で初めに会ひ、又それが最後の事になつてしまひました。
 あんなに人なつこかつたこの詩人に其後会ふ機会をつくらなかつた事を残念に思つてゐます。常に遠くから親密の情は捧げてゐたくせに。
 晩年の彼の詩の深さにはうたれます。

この文章が載った「いはらき」が未見です。したがって、掲載年月日も不明。昭和10年(1935)刊行の『暮鳥研究』第一輯に転載されたということで、筑摩書房『高村光太郎全集』では、そちらを底本としています。

「いはらき」は水戸の茨城県立図書館にマイクロフィルムが所蔵されているのですが、そちらは欠号が多く、この文章は発見できませんでした。

情報をお持ちの方は、こちらまでご教示いただければ幸いです。




福島郡山市立美術館「超絶技巧!明治工芸の粋」。

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昨年4月から、全国を巡回中の「超絶技巧!明治工芸の粋」展。日本橋の三井記念美術館さんを皮切りに、静岡三島の佐野美術館さん、山口県立美術館さんと、巡回されました。

当初の予定では、先月、山口展が終わった後、間が空いて、6月から富山県水墨美術館さんに行く予定だったのですが、その前に、福島の郡山市立美術館さんが入りました(もしかすると、もともとどこかしらで開催する予定ではいたものの、会場が未定だったのかもしれませんが)。

そういうわけで、郡山の情報に気づくのが遅れ、もう始まってしまっています。
会    期  2015年4月21日(火曜日)~6月14日(日曜日)
開館時間  午前9時30分から午後5時まで(入館は午後4時30分まで)
休  館  日 毎週月曜日(5月4日(月曜日・祝日)は開館、5月7日(木曜日)休館)
主    催  郡山市立美術館
協    力  清水三年坂美術館
監    修  山下裕二(明治学院大学教授)
企画協力  広瀬麻美(浅野研究所)
観  覧  料 一般:1000(800)円高大500(400)円()内は20名以上の団体料金
        中学生以下、65歳以上、障がい者手帳をお持ちの方は無料

明治時代、表現力・技術ともに最高レベルに達した日本の工芸品は、万国博覧会に出品され海外の人々を驚嘆させました。ところが、それらの実物を日本国内で見ることはほとんどできません。それは、明治の工芸品の多くは海外輸出用であったためです。
本展では、村田理如(まさゆき)氏の収集による京都・清水三年坂美術館の所蔵品のうち、並河靖之らの七宝、正阿弥勝義らの金工、柴田是真、白山松哉らの漆工、旭玉山、安藤緑山らの牙彫をはじめ、驚くべき技工が凝らされた薩摩焼や印籠、近年海外から買い戻された、ほとんど未紹介であった刺繍絵画など、選りすぐりの約160点を紹介します。
鋭い観察眼から生まれたリアリティ、ミクロ単位で刻まれた文様、繊細な手仕事……海外の人々を驚愕させた明治の日本人たちの真の底力をぜひ感じとってください。

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関連行事

対談 「再発見、明治工芸の粋」
講師:村田理如(まさゆき)さん(清水三年坂美術館館長) 山下裕二さん(本展監修者、明治学院大学教授)
日時:2015年4月29日(水曜日・祝日)午後2時から 会場:多目的スタジオ(参加無料)
※終わってしまいました。すみません。

美術講座「知られざる明治工芸の魅力」
講師:当館学芸員
日時:2015年5月23日(土曜日)午後2時から
会場:講義室(入場無料)

ギャラリートーク
講師:当館学芸員
日時:2015年5月9日(土曜日)、6月6日(土曜日)午後2時から
会場:企画展示室(観覧券が必要です)

 

チラシには書いていないようですが、電話で確認したところ、これまでの巡回先と同様に、光雲の木彫2点「法師狸」、「西王母」が展示されています。

それ以外の七宝や牙彫、自在置物なども目を見張るものばかりです。

特に福島の方、お見逃し無く。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月2日

昭和5年(1930)の今日、詩「春の一年生」を執筆しました。

いい香(にほひ)がする、
あたらしい香がする。
この学校の香かしら、
このカバンの香かしら、
この本の香かしら。イメージ 3
おなか一ぱい息を吸ふと、
しんからうれしくなるやうな、
こんないい香がする。

小学校はもう昔、
今日から新規の一年生。
ほんとに新規、ほんとに始まり。
どんなお話や、どんな学科や、
どんな遊戯や、どんなお友だちが、
この学校に待つてるのかしら。
おもしろい、たのしい、
さうして、少しはむづかしい、
まだ聞いたこともない事がたくさん、たくさん、
あの原つぱの草の芽のやうに青々と、
桜の花の蕾のやうにあかあかと、
きつとみんなを待つてゐる。
みんなといつしよに勉強するのはいいな。
声をあはせてうたふのはいいな。
組をそろへて遊ぶのはいいな。
今日から新規の一年生、
立派な新規の一年生。

空には春かぜ、地には希望、
少年少女は春のやうだと、
ラヂオのをぢさんが言つてゐた。
春のやうならたのしいな。
春は何でもきれいで明るい。
私が春ならどうしよう。
うそは決してつくまい、
正しい人にならう、真理を究めよう、
すなほに、やさしく、のびのびと、
朝日のやうにいきいきと進まう。
ああ、ほんとにいい香がする。
おなか一ぱい息を吸ふと、
ひとりでうれしくなるやうな、
こんないい香がする。


右上の画像は光太郎の手許に残された草稿です。欄外に「冨山房教科書一年生用のために。」と書き込みがあります。ただ、この詩が載った当時の教科書がまだ確認できていません。

「一年生」といっても、「小学校はもう昔」とあるので、小学一年生ではありません。当時の教育制度に鑑みると、小学校卒業後に進む、旧制中学校(5年制)や高等女学校などの一年生です。使われている語句も、その年代の子供が対象と考えて矛盾はありません(「遊戯」がひっかかるのですが……)。

情報をお持ちの方は、こちらまでご教示いただければ幸いです。


岩手花巻 第58回「高村祭」。

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先頃リニューアルオープンした、花巻高村光太郎記念館。例年、同じく光太郎が戦後の7年間を過ごした高村山荘敷地内で、光太郎の遺徳を偲ぶ「高村祭」が催されています。開催日は、昭和20年(1945)光太郎が空襲で東京を焼け出され、花巻に向けて旅だった日に合わせ、5月15日に設定されています。

今年は高村光太郎記念館の開館記念、さらに光太郎がこの地に住み始めて70周年の節目の年になります。以下、花巻市さんのサイトから。

第58回「高村祭」

1 日時 平成27年5月15日(金)10時から

2 概要
   献花、献茶、主催者あいさつ
   楽器演奏(太田小学校)、合唱(西南中学校)、
   詩の朗読(花巻南高校、花巻高等看護専門学校)、
   特別講演(小山弘明氏 演題「高村光太郎と花巻・山口」)
    *小山弘明 氏
    (高村光太郎研究者・高村光太郎連翹忌運営委員会代表・高村光太郎記念館の展示の指導者)

*高村祭の主催は、(財)花巻高村光太郎記念会、高村記念会山口支部

3 その他 5月15日(金)は入館料無料

 担当 生涯学習部 生涯学習交流課 0198-24-2111 内線416

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というわけで、記念講演を仰せつかりました。

昨年までの57回の記念講演は、初期の頃は草野心平、伊藤信吉、深沢省三、高田博厚、北川太一先生、最近も、渡辺えりさん末盛千枝子さんなど、錚々たるメンバーが務めてこられました。その流れを崩さぬよう、精一杯やらせていただきます。

題目は「高村光太郎と花巻、山口」。「山口」というのは、高村山荘、そして高村光太郎記念館の建つ地区の名前です。やはり光太郎がこの地に住み始めて70周年の節目、さらにリニューアルオープンした高村光太郎記念館でも、この地と光太郎との関わりをかなり詳しく掘り下げた展示を行っていますので、そうした内容をメインとしようと考えました。

式典の中では、地元の小中高生、看護専門学校生の皆さんが朗読や演奏で花を添えて下さいます。それがなぜ行われているのか、といったことも講演の中でお話しさせていただこうと思っております。

リニューアルなった記念館の見学と合わせ、ぜひ、足をお運び下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月3日

昭和27年(1952)の今日、盛岡市の岩手県公会堂で開催された独立記念式で講演を行いました。

「独立」とは、サンフランシスコ講和条約の発効(4月28日)により、日本の主権が回復したことを指します。

この日の講演は、その一部分がNHK盛岡放送局からラジオで放送されました。

下記画像が岩手県公会堂。昨年、盛岡に行った際に、偶然、その前を通りかかりました。

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ちなみに本日を以て、当ブログ、開設より4年目に突入いたしました。これからも細々と(笑)更新していきますので、よろしくお願いいたします。

テレビ放映情報。

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テレビ放映情報です。  
 

<BSフジサスペンス劇場>『浅見光彦シリーズ22 首の女殺人事件』

BSフジ・181 2015年5月5日(火)  12時00分~13時55分
 
福島と島根で起こった二つの殺人事件。ルポライターの浅見光彦(中村俊介)と幼なじみの野沢光子(紫吹淳)は、事件の解決のため、高村光太郎の妻・智恵子が生まれた福島県岳温泉に向かう。光子とお見合いをした劇団作家・宮田治夫(冨家規政)の死の謎は?宮田が戯曲「首の女」に託したメッセージとは?浅見光彦が事件の真相にせまる !!
 
出演 中村俊介 紫吹淳 姿晴香 菅原大吉 冨家規政 中谷彰宏 伊藤洋三郎 新藤栄作 榎木孝明 野際陽子ほか
 
もともとは平成18年(2006)2月24日に、地上波フジテレビさんが放映した2時間ドラマです。地上波フジテレビさん、BSフジさんで、年に1~2回は再放送されています。

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岩手花巻の、現在は使用されていない、元の高村記念館(ただしドラマでは花巻という設定ではありませんが)、福島二本松の智恵子の生家・智恵子記念館などでロケが行われました。

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ご覧になったことのない方、ぜひどうぞ。


もう1件。 

歴史秘話ヒストリア 「高野山1200年へのいざない~平安のスーパースター空海の物語」

NHK総合 2015年5月13日(水) 22時~22時43分

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開創1200年を迎え、秘仏である金堂(総本堂)の本尊薬師如来(高村光雲作)が初めて開帳されています。それに触れられるかどうか不明ですが、とりあえずご紹介しておきます。

ただ、ネット上には、同番組で一昨年2月に放映された「空海からの贈りもの ~天空の聖地・高野山~」の回と同一の内容である旨の記述もあり、そうであれば、新たに撮っていないことになり、光雲作の薬師如来像には触れないような気がします。

詳細がわかりましたらまたご紹介します。



それから、同じく詳細はまだ発表されていませんが、今月末には光雲がメインの番組があります。

日曜美術館 一刀に命を込める 高村光雲が生きた道

NHK Eテレ 2015年5月31日(日) 9:00~10:00

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こちらは完全に新たな制作です。高村家には先週、そのための取材が入ったそうです。

これも詳細がわかりましたらまたご紹介します。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月4日

昭和29年(1954)の今日、中野のアトリエに、ラジオパーソナリティ・秋山ちえ子さんが訪問。ラジオ番組の録音を行いました。

当日の日記です。

晴、涼、 (略) NHK録音班3人と秋山ちゑ子さんくる、録音、

秋山ちえ子さんといえば、TBSラジオで放送されていた「秋山ちえ子の談話室」を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。こちらは平日の朝、昭和32年(1957)から平成14年(2002)まで45年間もの長きにわたって放送されていました。

光太郎の談話が録音された昭和29年(1954)当時、秋山さんが担当していたのは、NHKさんの「私の見たこと、聞いたこと」という番組です。この時期の光太郎日記は記述が簡潔で、オンエアを聴いたという記述が見あたりません。当時のテープなどが残っていればと思うのですが、難しいでしょう。

ちなみに秋山さん、大正6年(1917)のお生まれですが、まだご存命で、朗読などのご活動をなさっています。

市民大学たかおか学遊塾「高村光太郎・智恵子の世界を語ろう会」。

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富山県は高岡から市民講座の情報です。
 

市民大学たかおか学遊塾「高村光太郎・智恵子の世界を語ろう会」

高村光太郎「智恵子抄」を通して、精神性や愛、又は二人の交友関係から芸術家との関わりより見えてくる生き方、真実に生きる姿、愛について談り愛(かたりあい)ましょう。

時間 土曜日 10:00~12:00  定員 10人
運営費1,500円 受講料1,000円 資料代500円(全5回分) 合計3,000円(初回納付) 
会場 高岡市生涯学習センター研修室504B 富山県高岡市末広町1番7号(ウイング・ウイング高岡内)

講師:茶山千恵子市民教授  富山県子どもと詩を楽しむ会 劇団「喜び」主宰 女優

2015/5/9 (土) 高村光太郎について
    6/13(土) 高村智恵子について
    7/11(土) 二人の結婚生活
    8/1 (土) 智恵子没後
    9/12(土) 交友関係、高岡とのつながり

お申込み
 氏名・住所・年齢・電話番号・講座名をお知らせください。
 申込期間4月1日(水)~4月30日(木) 締切厳守  電話ではお受けできませんので、はがき(当日消印有効)
  〒933-0023 高岡市末広町1-7ウイング・ウイング高岡3階  Fax 23-0515 または 020-4666-1182  
  メール
gakuyujyuku@yahoo.co.jp  のいずれかでお申し込みください。


申し込み締め切りを過ぎてしまっているのですが、定員に達していないことがあるかもしれませんので、ご紹介しておきます。

こうした市民講座的なものでも、光太郎智恵子、光雲などについて、もっともっと取り上げていただきたいものです。関係者の皆さん、ご検討を。

講師のあてがない、という場合、日程さえ調整できればお引き受けしますし、ご紹介もできます。こちらまでご連絡下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月5日

明治34年(1901)の今日、雑誌『文庫』第百冊臨時増刊「松風」号に、光太郎を含む72名のアンケート「松籟颯々」が掲載されました。


『文庫』は少年園から刊行されていた、当時流行の投稿雑誌です。前月2日、上野韻松亭で『文庫』100号を記念して、投書家の集まり春期松風会が催され、その席上で出席者に用紙を配り、アンケート回答を募りました。

質問項目は次の通り。

一、年令  二、生地  三、職業  四、短所  五、長所  六、希望  七、嗜好  八、宗教  九、愛読の書  十、理想の人物(古人今人)イメージ 1

光太郎の回答は以下の通り。

二、下谷区。
八、たゞ我が信ずる所。
十、砕雨。

十項目のうち、七項目は無視。これは全回答者のうち、最少です。「十、理想の人物(古人今人)」に対しての回答ですが、「砕雨」というのは、当時の光太郎が使っていたペンネームです。数え19歳の光太郎、自分の名前を挙げてしまっているわけです。やりますね。

無伴奏ヴァイヲリンと朗読「智恵子抄」 。

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仙台からコンサート情報です。
 

無伴奏ヴァイヲリンと朗読「智恵子抄」 

2015年5月17日(日)  午後の会 開演 15:00  夜の会  開演 19:00   開場はどちらも30分前
会場 Jazz Me Blues Nola(ジャズミーブルースノラ) 仙台市青葉区錦町1-5-14ノーバル・ビル1F 022-398-6088
前売券 3,500円  当日券 4,000円 1ドリンク付き
お問合せ・前売りチケットお申込み Happy Voice Project ハッピーボイスプロジェクト アライ070-5474-3444

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朗読の荒井真澄さんは、3年前、同じく仙台で開催された「シューマンと智恵子抄」というコンサートで、やはり「智恵子抄」を扱って下さいました。とても素敵な朗読をされる方です(朗読だけでなく、ご本人もとても素敵な方です)。

それ以前から「智恵子抄」の朗読を手がけられていて、youtubeに平成21年(2009)の動画がアップされています。下の画像をクリックすると動画視聴画面に飛びます。

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ぜひお申し込みを。当方は既に申し込みました。

ところで今日は、東京大森に行って参ります。先月の第59回連翹忌にご参加下さいました潮見佳世乃さんの歌と語りによる歌物語コンサート「智恵子抄」を聴きに、です。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月6日

昭和61年(1986)の今日、銀座の東京セントラル美術館で「the光太郎・智恵子展」が開幕しました。

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光太郎歿後30年、智恵子生誕100年記念ということで、けっこう充実した企画展でした。

当方はこの時大学生。卒論が光太郎で、この企画展が初めて観た光太郎展でした。その頃には、まさか30年後に自分がこういう立場になっているとは思いもよりませんでした(笑)。

ちなみに昨日、BSフジさんで再放送があった「浅見光彦シリーズ22 首の女(ひと)殺人事件」の原作、内田康夫氏の『「首の女」殺人事件』(同じく昭和61年=1986)では、この企画展が事件の発端という設定でした。

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ところでこの企画展は光太郎歿後30年、智恵子生誕100年記念でしたが、来年、2016年は光太郎歿後60年、智恵子生誕130年です。美術館、文学館、イベント会社の皆さん、よろしくお願いいたします。

潮見佳世乃さん「歌物語コンサート「智恵子抄」」。

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昨日は、東京大森で、「歌物語コンサート「智恵子抄」」を聴いて参りました。

会場は大森駅にほど近い雑居ビルの2階にある「風に吹かれて」というお店。「フォーク居酒屋」と銘打っていますが、比較的広い店内に、ステージがしつらえてあるライブハウス兼酒場といった趣でした。

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唄うは潮見佳世乃さん。ジャズ系もやられているということで、ハスキーボイスが素敵な雰囲気を醸し出すボーカルでした。先月の第59回連翹忌にご参加いただいています。先週リニューアルオープンなった花巻の高村光太郎記念館にも早速行かれたとのこと。すばらしい。

伴奏はたつのすけさん。フォークギターとキーボードを入れ替えながら、息のあった伴奏。一曲はソロの演奏もありました。

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オリジナル曲、民話系の「歌物語」のあと、後半が約30分の「智恵子抄」でした。光太郎詩9篇にオリジナルの曲を付け、全体を「歌物語」として構成されていました。

まずは、「樹下の二人」。「あれが阿多多羅山、/あの光るのが阿武隈川。」のフレーズが有名ですね。大正12年(1923)、智恵子の故郷、油井村(現・二本松市)を訪れ、智恵子の生家(裕福な造り酒屋)周辺を案内してもらっている光太郎というシチュエーションの詩です。結婚披露から8年半、智恵子もまだ健康、それなりに幸福な毎日を送っていた時期の作品で、のびのびと明るいドゥア(長調)で、それが表されていました。

2曲目は「智恵子は東京に空がないといふ、/ほんとの空が見たいといふ。」の「あどけない話」。昭和3年(1928)の詩ですが、智恵子の実家・長沼酒造は次第に家業が傾き、不動産登記簿によればこの詩が書かれた前日に家屋の一部が福島区裁判所の決定で、仮差し押さえの処分を受けています。翌昭和4年(1929)には、長沼家の全ての家屋敷は人手に渡り、実家の家族は離散、智恵子は帰るべきふるさとを失います。実家の斜陽化に心を痛め、しかしどうしてやることもできず、子供のように涙を流す智恵子。さらにそれを知りつつどうしてやることもできない光太郎。そういう姿が半音進行を多用し、不安をあおるようなメロディーで表現されていました。

続いて、心を病んでしまった智恵子を、千葉の九十九里にいた母と妹夫婦のもとに預けていた昭和9年(1934)を回想して作られた「千鳥と遊ぶ智恵子」「風にのる智恵子」。二つの詩の詩句を行ったり来たりしながら、「人間商売さらりとやめて/もう天然の向うへ行つてしまつた智恵子」「もう人間であることをやめた智恵子」が謳われます。激しい曲調と、「ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――」という千鳥の鳴き声が印象的でした。
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ほとんどアタッカ(曲間を開けないこと)で、「値(あ)ひがたき智恵子」。

智恵子は見えないものを見、
聞えないものを聞く。

智恵子は行けないところへ行き、
出来ないことを為る。

智恵子は現身(うつしみ)のわたしを見ず、
わたしのうしろのわたしに焦がれる。

智恵子はくるしみの重さを今はすてて、
限りない荒漠の美意識圏にさまよひ出た。

わたしをよぶ声をしきりにきくが、
智恵子はもう人間界の切符を持たない。

詩と音楽が一体となって迫り、胸が締め付けられるような思いがしました。

そろそろ智恵子の臨終を謳う「レモン哀歌」かな、と思ったら、時間の流れを少し遡って「山麓の二人」でした。九十九里で智恵子が療養した前年の昭和8年(1933)、自分にもしもの事があった場合の智恵子の身分保障のため、それまで無視してきた入籍を果たし、悲しい新婚旅行に出かけた先の、裏磐梯での光景です。こちらはア・カペラ(無伴奏)での朗読。徐々に静謐な世界に入っていく暗示のように感じられました。

次が予想していた「レモン哀歌」でした。哀愁漂うメロディーに乗せ、天に昇っていく智恵子が謳われます。ここまでフォークギターの伴奏だったのが、曲の途中でキーボードに替わり、見事に変化をつけているなと思いました。

最後が智恵子歿後の昭和14年(1939)に作られた「亡き人に」。ここでモール(短調)からドゥア(長調)に戻り、まとめがつけられました。

雀はあなたのやうに夜明けにおきて窓を叩く
枕頭のグロキシニヤはあなたのやうに黙つて咲く

朝風は人のやうに私の五体をめざまし
 あなたの香りは午前五時の寝部屋に涼しい

私は白いシイツをはねて腕をのばしイメージ 6
夏の朝日にあなたのほほゑみを迎へる

今日が何であるかをあなたはささやく
権威あるもののやうにあなたは立つ

私はあなたの子供となり
 あなたは私のうら若い母となる

あなたはまだゐる其処にゐる
 あなたは万物となつて私に満ちる

私はあなたの愛に値しないと思ふけれど
 あなたの愛は一切を無視して私をつつむ


「歌物語「智恵子抄」」はここまで。このように、途中途中でいろいろと変化をつけながら、単調になったり、バラバラの寄せ集めになったりせず、しっかり一本の流れとして全体の構成を考えてのステージだったことに非常に感心しました。当方はそれぞれの詩の背景を知っていて、なおかつ納得のいく構成だったので、いっそう楽しめました。光太郎智恵子の世界をあまりご存じでない方も、全体の流れで「智恵子抄」の世界にひたれたのではないでしょうか。実際、終演後の他のお客さんの反応も上々でした。

この9篇からなる構成が短いバージョンだそうで、もっと長いバージョンもあるそうで、ぜひ聴いたみたいものです。そうした機会にはお知らせいただくようお願いしておきましたので、期待しております。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月7日

昭和21年(1946)の今日、花巻郊外太田村の昌歓寺で「仏供養」という法会に参列しました。

前年秋から太田村の山小屋(高村山荘)での独居生活を始めた光太郎、確認できている限り、初めての遠出です。太田村は非常に信心篤い人々が多く、たくさんの村人が集まり、さらに県下の各郡から僧侶が一人ずつ派遣されて、盛大な法会だったそうです。太平洋戦争での戦没兵士等の追善読経も行われました。

昌歓寺では、昭和25年(1950)の一回だけ、光雲・智恵子の法要もやってもらいましたし、十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)制作のため、再び上京したあとに、観音像の制作を光太郎に依頼しています。ただし、それは叶いませんでしたが。

道の駅「安達」智恵子の里/安達太良山山開き。

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智恵子の故郷、福島は二本松からのイベント情報と報道です。
 

第61回 安達太良山 山開き

 2015年5月17日(日)
今年はふくしまDC本番の中迎える第61回安達太良山の山開き!
山頂での行事に加え、ふくしまDC記念としての企画もございますので、皆さんお誘い合わせのうえ、おいでください! 

◆山頂イベント◆
 10:00~ ふくしまDC記念山開き参加ペナント配布(先着3,000名)
 11:00~ 安全祈願祭
 11:20~ Ms.あだたらコンテスト(未婚、既婚は問いません。入賞者には記念品を贈呈します。)
※山頂の天候次第で、途中で催事が中止となったり、予定していた時間も変更となる場合がございます。
  また、雨天の場合は山頂イベントは中止し、奥岳登山口で午前10時~安全祈願祭を開催します。
【お問い合わせ】
安達太良連盟事務局(二本松観光協会)TEL:0243-55-5122

下記画像(3枚)、クリックで拡大表示されます。

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キャッチコピーは「ほんとの空がここにある。」「智恵子の愛したほんとの空」。いいですね。


麓を走る国道4号線沿いの「道の駅「安達」智恵子の里」さんでも、イベント開催中です。地元紙『福島民友』さんから。

高村智恵子の世界発信 DCに合わせ道の駅「安達」

『福島民友』 2015年5月5日(火)
 二本松市の道の駅「安達」智恵子の里を運営する同市振興公社は大型観光企画「ふくしまデスティネーションキャンペーン(DC)」に合わせ、同市出身の高村智恵子を広く発信する企画を開始した。智恵子が最後に食べた様子が「レモン哀歌」にも詠まれたレモンをテーマにイベントを企画した。
 このうち上り線の「和紙伝承館」では今月いっぱい、レモンの皮を伝統の上川崎和紙に漉(す)き込んでうちわを制作するうちわ漉き体験が行われている。体験料600円で、午前9時から午後5時まで。うちわは20~30分で完成する。
 

“レモン香るうちわ” 道の駅「安達」智恵子の里で制作体験

『福島民友』 2015年5月6日(水)
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二本松市の道の駅「安達」智恵子の里を運営する同市振興公社は大型観光企画「ふくしまデスティネーションキャンペーン(DC)」に合わせ、同市出身の高村智恵子を広く発信する企画を開始した。
 智恵子は詩人・彫刻家高村光太郎の妻で詩集「智恵子抄」にも描かれたように、光太郎との純愛でも知られる。同道の駅の名前の由来にもなった智恵子を多くの人に知ってもらおうと、「レモン哀歌」にも彼女が「死の床」で最後に食べた様子が詠まれたレモンをテーマにイベントを企画した。
 上り線の「和紙伝承館」では今月いっぱい、レモンの皮を伝統の上川崎和紙に漉(す)き込んでうちわを制作するうちわ漉き体験が行われている。あおぐとかすかにレモンの香りが漂う。折りたたんだ紙をはさみやカッターで切るとレモンの形が現れる「紋切り」の技法で作ったレモンの形も漉き込める。体験料600円で、午前9時~午後5時。うちわは20~30分で完成する。

 下り線にはハート型のメッセージボードを置き、レモンの形をしたメッセージカードに願い事が記入できるようにした。智恵子の129回目の誕生日に当たる20日は、記入した人129人にレモンが入ったミニカップケーキをプレゼント。物産コーナーでレモン販売などを予定し、担当者は「レモンにこだわり智恵子をPRしたい」と話している。


風薫る5月。「ほんとの空」が美しい季節です。ぜひイメージ 5足をお運び下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月8日

平成元年(1989)の今日、文治堂書店から『光太郎と葉舟』が刊行されました。

「葉舟」は光太郎の親友だった作家・水野葉舟(ようしゅう)。青年時代には同じ与謝野鉄幹の新詩社に籍を置き、互いに切磋琢磨していました。

後年は成田三里塚に移り住み、晴耕雨読の生活に入り、光太郎もたびたび彼の地を訪れています。

この書籍は、光太郎、葉舟それぞれの、それぞれに触れた文筆作品の集成です。編集は当会顧問の北川太一先生、成田の旧家のご出身で、葉舟や鈴木三重吉の研究をなさっていた故・山田清吉氏です。


静岡市美術館開館5周年記念 大原美術館展 名画への旅/本郷新記念札幌彫刻美術館 彫刻の美~本郷新に学ぶ彫刻鑑賞

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光太郎のブロンズ作品が1点ずつ出品されている企画展が開催中です。

まずは静岡。
 

静岡市美術館開館5周年記念 大原美術館展 名画への旅

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会  場 : 静岡市美術館 静岡県静岡市葵区紺屋町17-1葵タワー3階
会  期 : 2015年4月18日(土)~5月31日(日)
時  間 : 10:00~19:00
休館日  : 月曜日
料  金 : 一般1300円 大高生・70歳以上900円 中学生以下無料

大原美術館は、日本で初めて西洋美術が鑑賞できる美術館として1930(昭和5)年岡山県倉敷市に開館しました。その豊富なコレクションの基礎を築いたのは、実業家・大原孫三郎(1880-1943)とその盟友で岡山県出身の洋画家・児島虎次郎(1881-1929)でした。虎次郎は孫三郎の支援を受けて三度渡欧し、フランス、ベルギー、ドイツ、スペインなどを巡ります。今でこそ西洋絵画は身近な存在ですが、海外の情報を得ることも旅行も容易でない当時に、虎次郎がもたらした名品の数々は、日本で高い関心と熱狂をもって受け入れられました。美術館創設時の強い公共精神―若い芸術家や一般の愛好者のために優れた美術作品を鑑賞、研究する場を提供する―は現在まで受け継がれ、そのコレクションはそれぞれの時代を反映しながら豊かに発展してきました。
静岡市美術館開館5周年記念となる本展では、児島虎次郎の作品をはじめ、珠玉の西洋絵画、日本近代美術の名作、そして静岡ともゆかり深い芹沢介や民藝運動の作家、さらに山口晃ら近年活躍めざましい現代の作家たちの作品など、大原美術館を代表する75点を一堂に紹介します(会期中一部展示替えあり)。大原美術館のこれまでの活動を辿りながら、孫三郎と虎次郎が目指した美術館、そして初めて本物の西洋絵画に触れた当時の人々の熱い想いに、改めて触れる機会となれば幸いです。
 

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光太郎の作品は、「腕」(大正7年=1918)が並んでいます。非常に迫力と量感に溢れた作品です。

藤島武二、岸田劉生、梅原龍三郎、バーナード・リーチなど、光太郎と縁の深い作家の作品も出展されています。

気づくのが遅くなり、主な関連行事のうち、未実施のものは以下だけになってしまいました。すみません。

講演会「洋画家たちの挑戦-大原美術館所蔵作品を中心に」
日 時 2015年5月10日(日)14:00~15:30 (開場13:30~)
講 師 柳沢秀行氏(大原美術館学芸課長)


続いて北海道は札幌から。
 

彫刻の美~本郷新に学ぶ彫刻鑑賞

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会  場 : 本郷新記念札幌彫刻美術館 札幌市中央区宮の森4条12丁目
会  期 : 2015年4月25日(土)~6月28日(日)
時  間 : 10:00~17:00
休館日  : 月曜日
料  金 : 一般500円 65歳以上400円 大高生300円 中学生以下無料

彫刻家本郷新(札幌生まれ、1905-1980)による『彫刻の美』は、青少年向けの芸術叢書として1942年に冨山房から出版されました。彫刻の本質や魅力を平明かつ的確に、また美しくつづった名著として再版を重ね、今なお読み継がれています。 本展は、本書のなかの本郷の言葉を手がかりに「彫刻の美」を味わおうとするものです。「量」「動勢」「調和」「材質」等、本郷の提示する彫刻の要素に着目しながら、作品の見どころを紹介します。 当館および札幌芸術の森美術館の所蔵品のなかから、日本近代彫刻の優品を中心に、その源流にあるロダン等の西洋近代彫刻の作品を加えて構成。彫刻と言葉の響き合う空間にぜひおでかけください。

[おもな出品作家]イメージ 4
 荻原守衛、戸張孤雁、高村光太郎、中原悌二郎、本郷新、佐藤忠良、舟越保武、ロダン、ブールデル、マイヨール、デスピオ

関連行事

■美術講座「彫刻の美~本郷新芸術の源流」
当館学芸員が本郷新の彫刻芸術とその源流にある西洋近代彫刻についてお話しします。
日時:2015年5月16日(土)14:00~15:00 会場:本館研修室     講師:樋泉綾子(当館学芸員)
*申込不要、要展覧会観覧料

■講習会「おとなのデッサン教室」
講師とともに「彫刻の美」展の作品を鑑賞し、彫刻のデッサンを学びます。
日時:2015年5月30日(土)14:00~16:30 講師:國松明日香氏(彫刻家) 参加料:1,800円   定員:20名
申込方法:5月13日(水)9:30より電話受付開始(011-642-5709)


光太郎作品は、「裸婦坐像」(大正6年=1917)。小品ですが、愛らしい彫刻です。

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それぞれ光太郎作品は1点ずつの展示ですが、お近くの方で、普段、光太郎の彫刻の実物を目にする機会のない皆さん、ぜひどうぞ。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月9日

平成22年(2010)の今日、音楽ユニット古川本舗のCD「SING ALONG」がリリースされました。

いわゆるVOCALOID系で、田中到氏作曲の「レモン哀歌」(若干の詩の改変有り)が収録されています。なかなか軽妙、それでいて哀愁漂うメロディーで、一度聴くとけっこう頭から離れません。

埼玉東松山レポート。

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昨日は埼玉県東松山市に行って参りました。こちらにお住まいの、光太郎と交流のあった田口弘氏のお宅を訪問させていただくのが第一目的でした。

氏は同市の教育長を永らく務められ、在任中には、今も同市で開催されている日本スリーデーマーチの誘致、運営に骨を折られました。退任後は市立図書館顧問、幼稚園の園長先生などを歴任、現在はご隠居なさっています。大正11年(1922)年生まれの、御年93歳だそうです。

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氏と光太郎、出会いは昭和19年(1944)、軍属として南方へ出征される前に、駒込林町の光太郎アトリエを訪れたのが最初だそうです。この点、3月に女優の渡辺えりさんとご一緒にお話を伺いに行った、深沢竜一氏と似ています。

氏は南方で乗っていた輸送艦が撃沈されて命からがらの目にあいました。その際、出征前に光太郎に揮毫して貰った書は海のもくずとなったそうです。戦後は捕虜としてジャワ収容所に入れられ、昭和21年(1946)に帰国されたとのこと。

昭和22年(1947)には、花巻郊外太田村に隠棲していた光太郎を訪問。その後も2回ほど太田村の光太郎の元を訪れたそうです。

光太郎ゆかりの品々を、拝見して参りました。イメージ 5

山小屋で書いて貰ったり、埼玉のご自宅に送り届けられたりした書が4点、光太郎からの書簡が10通、光太郎から贈られた献呈署名入りの中央公論社版『高村光太郎選集』全六巻、それらが小包で届いた際の包み紙(宛名や差出人の部分が光太郎筆跡)、鉄道荷札。さらに、光太郎歿後に、特に高村家にお願いして作らせて貰ったという、ブロンズの「大倉喜八郎の首」など。

こちらは軸装された書。聖書の一節です。氏がクリスチャンであるため、光太郎が特にこの言葉を選んで揮毫してくれたそうです。

我等もしその見ぬところを望まば忍耐をもて之を待たん ロマ書 光太郎

と読みます。

他の3点の書は、色紙。しかし、太田村の山小屋で、目の前で書いて貰ったという2点は、戦後の混乱期ゆえ、色紙というよりボール紙のようなものです。よくある縁取りもされていません。
しかし、それだけにかえってよそゆきでない雰囲気が感じられました。

書かれているのは短句「うつくしきもの満つ」「世界はうつくし」、短歌「太田村山口山のやまかげにひえをくらひて蟬彫る吾は」。短句二つは、南方の海に沈んだ書と同じ言葉を、再度書いて貰ったそうです。

うつくしきもの満つ」は、光太郎が好んで書いた言葉で、他にも類例がありますが、この言葉を最初に書いて貰ったのは、昭和19年(1944)の自分が最初ではないかというのが氏の弁です。

世界はうつくし」。昭和16年(1941)には「うつくし」が漢字の「世界は美し」という詩が作られていますが、この言葉が書かれた書は類例がありません。

それぞれ氏が私刊された書籍(『詩文集 高村光太郎の生き方』)などで写真は見たことがありましたが、やはり実物を手に取ってみるのとでは大違いですね。


氏とは、10年ほど前の連翹忌でお会いしていますが、長々お話ししたのは初めてでした。氏から当方の自宅兼事務所に電話があり、一度会って話がしたい、ということでお邪魔いたしました。こうした品々の今後について、これからご相談させていただくことになります。

昨日のお話の中で、氏のおっしゃった言葉が非常に心に残りました。光太郎について詳しく研究するのはいいが、それだけでなく、そこから何を学ぶか、自分の人生にどのように活かしていくかが重要だ、とのお言葉。まったくもってそのとおりですね。


帰りがけ、氏のお宅から2㌔ほどの所にある市立新宿小学校さんに寄りました。こちらには、氏のお骨折りで建立された石碑があります。

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光太郎が昭和26年(1951)、太田村の山口分教場が小学校に昇格した際、校訓として贈った言葉「正直親切」が刻まれています。

10年ほど前にこの碑を見に行ったことがありましたが、昨日、建立の際のお話も伺ったので、改めて観て参りました。

文字は渋る石屋さんを、「あなたの仕事が半永久的に残るんだから」となだめすかし、手彫りでやってもらったとのこと。機械を使っての彫りでは、光太郎の書の感じがうまく表せないという理由です。

この書の現物は花巻の高村光太郎記念館にありますし、光太郎の母校である東京荒川区の第一日暮里小学校さんも校訓として使用、やはりが建っていますし、花巻の山口小学校跡地にも碑が建っています。

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小学一年生でも読めるようにと、ひらがなのルビも光太郎が書き添えています。

「正直親切」。単純なようで、奥の深い、いい言葉です。


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他にも東松山市には、やはり田口氏のお骨折りで出来た、光太郎を敬愛していた彫刻家・高田博厚の作品を配した「彫刻通り」があります。こちらには光太郎胸像もあるのですが、一昨年、観て参りましたので、昨日はパスしました。イメージ 3


それにしても、貴重なお話が伺えました。当方、生前の光太郎は存じません。その分、直接交流のあった方々の証言など、積極的に聴いておきたいと考えております。

来週末には、花巻高村祭のためまた花巻に行きます。その際、地元の、やはり生前の光太郎を知る方々とお話しできる機会を設けて下さるとのこと。ありがたく拝聴して参ります。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月10日

大正13年(1924)の今日、古今書院からロマン・ロラン作、光太郎訳の戯曲『リリユリ』が刊行されました。

装幀、題字も光太郎です。

つい先だって、今まで知られていなかったロマン・ロランの文章の光太郎訳が見つかりました。のちほど詳細をレポートします。

岩手花巻 第58回「高村祭」交通案内。

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今週金曜日、5月15日に岩手花巻で行われる第58回高村祭につき、高村山荘・高村光太郎記念館さんのサイトに案内がアップされました。

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毎年、高村祭当日はJR東北本線花巻駅(東北新幹線新花巻駅ではありません)から無料のシャトルバスが出ていますが、今年は2本出ます。鉄道でお越しの方、花巻市街にご宿泊の方、ご利用下さい。かつてあった路線バスは廃線になっています。

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発車は花巻駅西口。改札があるのは東口ですのでご注意下さい。東口改札から出て左にゆくと、西口に通じる地下道があります。

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敷地内の高村光太郎記念館は、当日は入館無料。先月末にリニューアルオープンした新しい記念館も、ぜひご覧下さい。

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【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月11日

平成3年(1991)の今日、岩手県北上市の飛勢(とばせ)城址に、光太郎詩「ブランデンブルグ」の一節を刻んだ碑が除幕されました。

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この日、市内で6つの文学碑が除幕されました。若山牧水、子日庵一草、寺山修司、浜夢助、豊田玉萩、そして光太郎です。全国の各市町村に1億円が公布された、いわゆる竹下内閣の「ふるさと創生事業」によるものでした。

詩「ブランデンブルグ」は、J・S・バッハの「ブランデンブルグ協奏曲」に題を採ったもので、昭和22年(1947)の作。この年、花巻町で行われた稗貫郡農会でのレコードコンサートでこの曲を聴いた印象が元になっています。太田村の山小屋の近くを歩きながら、この曲が幻聴のように聞こえていた、というエピソードも伝わっています。

昭和25年(1950)には、光太郎は黒沢尻町(現・北上市)の文化ホールで講演を行い、その際にこの詩を朗読したとのこと。そのためにこの詩の一節が採られています。

高くちかく清く親しく、
無量のあふれ流れるもの、
あたたかく時にをかしく、
山口山の林間に鳴り、
北上平野の展望にとどろき、
現世の次元を突変させる。

高村達氏 写真展「Botanical Garden~植物園」。

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先だって、ご案内を戴きましたが、光太郎の実弟・豊周の令孫にして、現在の高村家当主の高村達氏の写真展が開催されています。
 

高村達氏 写真展「Botanical Garden~植物園」

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会 期 : 2015年5月9日(土)~5月21日(木) 10:30-18:30   ※最終日は16:00まで 
会 場 : ホテル椿山荘東京「アートギャラリー」ホテルロビー階 東京都文京区関口2-10-8 03-3943-1111
入場無料

達氏は、昨夏亡くなった父君・規氏の跡を継いで、同じ写真家としてご活躍中です。

ところで、現在、高村家では「たか」の字は「」(いわゆる「はしごだか」)を使われています。

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ちなみに「」の字を、旧字体だと思いこんでいる方が多いのですが、この字は旧字体ではなく、「俗字」という扱いです。この問題は、戦後になって改訂された旧字体、新字体の問題ではありません。戦前から通常の「」の字はちゃんと存在しました。

以前から気になっていたのですが、故・規氏のからんだ光雲や豊周に関する書籍はほとんど「」になっていました。下の画像は平成11年(1999)に刊行された光雲の彫刻写真集の内容見本です。

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どういうことかと思っていたのですが、先月末、花巻の高村光太郎記念館リニューアルオープンの際、記念式典にいらしていた達氏との雑談の中で、その話が出て、疑問が氷解しました。

高村家では、昔からはしごだかの「」の字を慣習的に使用していたとのこと。光太郎も少年時代は「」の字を使っていました。下の画像は明治27年(1894)、数え12歳、高等小学校時代の習字です。

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しかし、それがいつのことか詳細が不明なのですが(おそらく明治期)、戸籍の届け出の際に、光雲の弟子の誰かが代わって手続きに行き、「」ではなく、通常の「高」の字で届け出てしまったとのこと。

したがって、高村家では戸籍上は「村」、しかし慣習として「村」を使い続けているということです。

ところが光太郎は、少年期は別として、長じてからは、戸籍通りにすべきだろうということで、「村」としていたそうです。

複雑ですね。

このブログでも、煩瑣になるのを避けるため、「村」で統一させていただきます。

ところで達氏写真展、当方、明後日、花巻高村祭に向けて千葉の自宅兼事務所を出ますが、その際に立ち寄っていこうと思っております。みなさんもぜひどうぞ。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月12日

明治43年(1910)の今日、広島に住む画家の南薫蔵に宛て、葉書を書きました。

 あの葉書が届いた相ですね。
 チエルジイのあのエムバアクメントや リツチモンドのキングスホテルを思ひ出させて 人に身顫ひさせる 悪いわるい意地の悪い夏が来ましたね。日本に住んで居るといふ外は 僕と日本とは今の処没交渉です。Ah!

前年に欧米留学から帰朝、光雲を頂点とする古い日本彫刻界との闘いを余儀なくされていた時期のものです。

光太郎と南は、明治40年(1907)から翌年にかけ、ともに留学でロンドンに滞在、彼の地で親しく交わりました。「エムバアクメント」はテムズ川のヴィクトリア堤防、「リツチモンド」もロンドンの地名です。

『十和田湖乙女の像のものがたり』紹介。

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昨日の『毎日新聞』さんの青森版に、先月、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さん編集・発行の『十和田湖乙女の像のものがたり』を紹介する記事が載りました。

執筆はATV青森テレビさんのアナウンサー・川口浩一氏。同書に「十和田湖と「乙女の像」を巡る人々(国立公園指定八十年に寄せる)」を寄稿なさっています。

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青森県内数カ所でしか販売されていませんが、電話等での注文は可能かと存じます。

十和田市 大七書店  0176-23-5371
十和田湖総合案内所  0176-75-2425
奥入瀬渓流館      0176-74-1233
なりた本店 しんまち店 017-723-2431

また、明後日、花巻郊外旧太田村の高村山荘高村光太郎記念館敷地にて行われる第58回高村祭にて販売いたします。他にも当方の関わった書籍、雑誌類も販売します。お買い求め下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月13日イメージ 3

昭和22年(1947)の今日、花巻郊外太田村の山小屋前で、さまざまな野菜の種や苗を植えました。

手帖のメモから。

畑にジャガを五畝いける。インゲン出かかる 南瓜苗床に三種まく。(鶴首、千成、北海道。)茄子をまく。キヤベツ仮植。

かなりの程度の自給自足を目指し、前年から本格的に農業に取り組んだ光太郎。ところが前年は同じ時期に右掌が化膿、花巻町で切開手術を受けたりで、思うように出来ませんでした。

今年こそは、と気負って臨み、この年以降はある程度の成果を上げています。ただし、穀類は配給に頼らざるを得ませんでした。

また、昭和26年(1951)は結核性の肋間神経痛がひどく、耕作を中止しました。

武蔵野美術大学美術館「近代日本彫刻展 −A Study of Modern Japanese Sculpture−」。

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今年1月のこのブログで、英国ヘンリー・ムーア・インスティテュートにおいて開催された「近代日本彫刻展(A Study of Modern Japanese Sculpture)」についてご紹介しました。

これは、日本の武蔵野美術大学美術館さんとの共同開催で、基本的に同じ内容を、先に英国で、のちに日本で開催するというものです。

そういうわけで、光太郎の木彫「白文鳥」とブロンズの「手」が、海を渡りました。

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その日本展が、今月末から、武蔵野美術大学美術館さんで始まります。
会 期 : 2015年5月25日(月)~8月16日(日)
会 場 : 武蔵野美術大学美術館 展示室5
休館日 : 日曜日、祝日 ※6月14日(日)、7月20日(月・祝)、8月16日(日)は特別開館
時 間 : 10:00ー18:00(土曜日、特別開館日は17:00閉館)
入館料 : 無料
主 催 : 武蔵野美術大学 美術館・図書館
監 修 : 黒川弘毅(武蔵野美術大学彫刻学科教授)

イギリス、ヘンリー・ムーア・インスティテュートの企画による本展では、森川杜園、高村光太郎、佐藤朝山、橋本平八、横田七郎の木彫など、日本の近代彫刻の特徴を示す自然物をモチーフにした彫刻約10点を紹介する。明治以降、彫刻史において独自のポジションを形成した近代日本彫刻の意義を検証すると同時に、その作品の魅力に迫る。

<出展作品>
・「手」 高村光太郎 1918年 ブロンズ、木彫(台座部分)
  東京国立近代美術館所蔵/台東区立朝倉彫塑館所蔵(注
・「白文鳥」 高村光太郎 1931年頃 木彫 個人蔵(フジヰ画廊)
・「冬眠」 佐藤朝山 1928年 木彫 福島県立美術館所蔵(横井美恵子コレクション)
・「石に就て」 橋本平八 1928年 木彫/「石に就て」 の原型となった石 個人蔵(三重県立美術館寄託)
・「静物」など5点 横田七郎 1928年~1929年 木彫 平塚市美術館所蔵
・(予定)「蘭者待 模刻」 森川杜園 1873年 木彫 東大寺所蔵

注) 台東区立朝倉彫塑館所蔵作品は全期間、東京国立近代美術館所蔵作品は5月25日から6月中旬までの展示を予定。いずれもブロンズ部分は「真土(まね)鋳造法」によるもの。高村光太郎によって作られたと推定され木製台座の形状は異型で、この2作品の同時展示は初の試みとなる

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おそらく木彫の「白文鳥」は、一昨年、千葉市美術館さん、岡山井原市田中美術館さん、愛知碧南市藤井達吉現代美術館さん、で開催された「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展以来の展示です。

「手」に関しては、少し書きにくい問題があります。全国の美術館等に、いったいこれがいくつあるのか、当方も把握できていません。ブロンズの彫刻はそういうものが多く、かの有名なロダン作「考える人」も世界中に存在します。

重要文化財に指定されている荻原守衛の「女」にしてもそうです。ただし、「女」は石膏原型が残っており、厳密に言うと重要文化財に指定されているのは、この原型です。

ところが、「手」の原型は、おそらく昭和20年(1945)の空襲で、駒込林町の光太郎アトリエもろとも焼失してしまったと推定されます。

それでは、全国にあまたある「手」はどうやって作られたのかということになりますが、大正期に鋳造された初めの「手」から採った型で作られているのです。したがって、厳密に言えば複製です。

複製ではなく、大正期に鋳造されたものは、多分、竹橋の東京国立近代美術館さん所蔵のものと、台東区の浅倉彫塑館さん所蔵のもの。他にも有るかもしれませんが、当方が把握しているのはこの2点のみ。それが両方とも今回の武蔵野美術大学美術館さんに展示されます。

この2点には、木製の台座が付いています。この台座も、光太郎が彫ったものと推定されています。当方、ブロンズ部分を取り外した台座のみの写真を見せて貰ったことがあります。「白文鳥」などの木彫を手がけるようになったのは、この「手」の台座の制作が、一つの契機になっているのではないかという説もあります。

ところで、全国にあまたある「手」の台座は、木製ではなく樹脂製。やはりコピーなのです。

見に行かれる方、ぜひ、台座に注目して下さい。


当方、今日から3泊4日で、東北に行って参ります。

その前に、東京で高村達氏写真展「Botanical Garden~植物園」を拝見。 その足で東北新幹線に飛び乗り、今夜はまた鉛温泉藤三旅館さんに宿泊です。花巻の㈶高村光太郎記念会さんのご尽力で、昭和23年(1948)に光太郎の泊まった31号室に泊めていただくことになりました。有り難い限りです。

明日は光太郎が昭和20年(1945)から7年間を過ごした花巻郊外旧太田村の山小屋、高村山荘敷地にて第58回高村祭。記念講演を仰せつかっています。明日の宿泊は大沢温泉山水閣さん。こちらも光太郎が足しげく通った温泉宿で、光太郎が泊まった部屋を復元した「牡丹の間」に泊めていただきます。

その後、現地でいろいろと調査。そして17日(日)には仙台で、朗読の荒井真澄さん他による「無伴奏ヴァイヲリンと朗読「智恵子抄」 」を聴いて参ります。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月14日

昭和13年(1938)の今日、東京資生堂画廊で「岸田劉生十周忌回顧展覧会」が開幕しました。

同4年(1929)に数え39歳で早逝した岸田の回顧展です。そのパンフレットに光太郎執筆の「寸言-岸田劉生十周忌回顧展覧会」が掲載されました。

花巻光太郎祭、無事終わりました。

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本日(15日)、花巻郊外旧太田村の光太郎が昭和20年(1945)から7年間を過ごした山小屋(高村山荘)敷地内にて、第58回高村祭が行われました。

地元小中高生、看護学校生による朗読や演奏、当方の記念講演などがあり、光太郎の遺徳を偲びました。

心配された天気もどうにかもち、つつがなく終了。ほっと胸をなで下ろしております。

詳しくは帰ってからレポートいたします。

【今日は何の日 光太郎・拾遺】 5月15日

慶応4年(1868)の今日(旧暦ですが)、薩長軍と、彰義隊を中心とする旧幕府軍の間で上野戦争が起こりました。

光太郎の父、光雲は師匠・東雲の元で年季奉公中。砲弾銃弾の飛び交う下を、師匠の兄弟弟子のもとに向かったことが、昭和4年(1929)刊行の『光雲懐古談』に記されています。
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