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池川玲子『ヌードと愛国』。

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本日も新刊紹介です。 
池川玲子著 2014/10/20 講談社(講談社現代新書) 定価800円+税
 
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版元サイトから
 
一九〇〇年代から一九七〇年代に創られた、「日本」をまとった七体のヌードの謎を解く。推理のポイントは時代と作り手の動機。時系列に並べたヌードから浮かび上がってくる歴史とは? ヌードで読み解く近現代史。
 
 歴史とはそもそもミステリーと相性の良いものだと思います(もしくは、ミステリーそのものと言えるかもしれません)が、本書は、「日本」をまとった七体のヌードの謎を解くことで、知られざる近現代史が浮かび上がってくる、いっそう贅沢なミステリー仕立ての歴史読みものとなっています。
 著者の池川玲子さんの専門は、日本近現代女性史。ヌードをめぐる芸術作品、美術史と女性学が交錯することで、いままで気にも留めなかった歴史の一部分がこんなにも面白くクローズアップされるのか、と原稿をいただくたびに実感し、それは嬉しい驚きの連続でした。
 本書は、一九〇〇~一九七〇年代の七体のヌードの謎をめぐる全七章の構成になっていますが、たとえば第二章では、竹久夢二が描いた「夢二式美人」がなぜ脱ぐことになったのか、というミステリーの背景として、第一次世界大戦が挙げられています(それがなぜかはぜひ本書をお読みください)。
 とりわけ、私が思わず、池川さんに、「先生! これ、スクープ・ヌードなんじゃないですか!?」と詰め寄り、鼻息を荒くしてしまったのは、第三章の「そして海女もいなくなった」です(実際に、かつて、池川さんのもとには、某通信社の記者さんから取材の申し込みがあったとか)。本章では、現存する日本映画最古のヌードが発掘されているだけでなく、なんと、それは、真珠湾攻撃のほんの数年前、日本の国際観光局が「日本宣伝映画」をつくるにあたり、よりによってハリウッドからもたらされたシナリオに端を発する、いわくつきのヌードだったという事情も詳しく述べられています(「海女もいなくなった」の意味など、ぜひ本書で)。
 第七章の「七〇年代パルコの『手ブラ』ポスター」では、あまりにも意外な事物のポスターまでもがパルコの「手ブラ」に追従した事実が、図版とともに紹介されており、驚きのあまり苦笑いしてしまうことになるでしょう(それが何のポスターかは、本書でお確かめください)。
 ……と、やはり全七章すべてが極上ミステリーのため、ネタバレを避けて紹介文も思わせぶりな内容とならざるをえません。刊行前に読んだ社内の人間からも大好評の本書、ここはぜひ、ご自分のお手に取ってお楽しみくださいませ。(編集担当:IM)
 
第一章 デッサン館の秘密 智恵子の「リアルすぎるヌード」伝説
第二章 Yの悲劇 「夢二式美人」はなぜ脱いだのか?
第三章 そして海女もいなくなった 日本宣伝映画に仕組まれたヌード
第四章 男には向かない?職業 満洲移民プロパガンダ映画と「乳房」
第五章 ミニスカどころじゃないポリス 占領と婦人警察官のヌード
第六章 智恵子少々 冷戦下の反米民族主義ヌード
第七章 資本の国のアリス 七〇年代パルコの「手ブラ」ポスター
 
こちらでは、著者の池川さんによるこの書籍に関してのエッセイも読めます。
 
タイトルに「愛国」という語が入っていますが、ヘイトスピーチ大好きの幼稚な右翼の常套句、「大東亜戦争は侵略戦争ではなかったのだ」的な馬鹿げた内容ではありません(そういう内容を期待して買わないで下さい)。逆に芸術表現としてのヌードが、しばしば反体制の表象として使われることに注目し、逆説的に「愛国」の語が使われています。
 
 
第一章では、光太郎と邂逅する前の智恵子の、太平洋画会研究所で描いたデッサンをメインに取り上げています。
 
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これはおそらく明治40年(1907)、智恵子22歳頃に描かれたものです。智恵子と同じ太平洋画会の事務監督兼助教授だった福岡県大牟田市の佐々貴義雄の遺品から、もう1枚の石膏デッサンとともに、平成11年(1999)に見つかりました。
 
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『ヌードと愛国』の第一章では、やはり太平洋画会に通っていた水木伸一の回想にからめ、智恵子を論じています。
 
さらに、当時の黒田清輝の白馬会と、明治美術会の流れをくむ中村不折の太平洋画会との対比……「白馬会-官-新派-外光派-ラファエル・コランの流れ」、「太平洋画会-民-旧派-写実重視-ジャン・ポール・ローランスの流れ」といったところまで考察が進みます。
 
そこに「歴史画」の問題、モデルの問題、そして警察による「風俗取り締まり」による裸体画の「特別室」行きなどといった問題までも盛り込まれ、非常に読みごたえのある章でした。
 
 
さらに第六章「智恵子少々」(もちろん「智恵子抄」のパロディーです)。
 
こちらのメインは昭和40年(1965)の武智鉄次監督の日活映画「黒い雪」。同年、わいせつ図画の公然陳列の容疑で起訴された(判決は無罪)作品です。背景には日米安保体制下のベトナム戦争拡大への危機感、基地問題があります。
 
武智は、昭和32年に観世寿夫と組んで新作能「智恵子抄」を作りました。その際の智恵子のイメージが、この「黒い雪」に投影されていることが、シナリオのト書きから読み取れる、というのです。ただし、それと判らない程度のインスパイアであり、そこで章の題名「智恵子少々」というわけです。
 
この章での論は、その他、光太郎と智恵子の結婚生活や、十和田湖畔の裸婦群像(通称「乙女の像」)、「智恵子抄」受容の歴史などにも及んでいます。
 
感心したのは、昭和32年(1957)の『婦人公論』に載った「座談会三人の智恵子」というかなりマニアックな記事まで参照していること。こちらは武智が司会を務め、それぞれ舞台、映画、テレビドラマで智恵子役を演じた水谷八重子、原節子、新珠三千代が参加した座談会の記録です。
 
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過日、『日本経済新聞』さんに書評が載りました。
 
長沼智恵子が描いたリアルなデッサン、服を脱いだ竹久夢二の美人画、わいせつ罪に問われた武智鉄二の映画、大胆に露出したパルコのポスター。女性史を専門とする著者が1900年代~70年代に世に現れたヌードを時代状況と照らしながら時系列で読み解く。どんな「裸」も重い日本を背負っているとわかる異色の近現代史論考だ。
 
ぜひお買い求めを。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月17日
 
昭和27年(1952)の今日、新しくオープンした中央公論社画廊で「高村光太郎小品展」が開幕しました。
 
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光太郎生前最初の、そして最後の彫刻個展です。
 
大正年代にはアメリカでの個展を構想し、その費用の捻出のため、彫刻頒布会を作った光太郎ですが、その計画はあえなく頓挫。以後、彫刻の個展の構想はありませんでした。
 
この展覧会にしても、光太郎自身はあまり乗り気ではなく、『高村光太郎選集』全六巻を刊行してくれた中央公論社への義理立てのような意味合いが強かったといいます。
 
しかし、さらにこの後の最晩年には、彫刻でなく書の個展を開くことを考えていました。
 
光太郎、つくづく大いなる矛盾を抱えた人物です。

清家雪子『月に吠えらんねえ』第二巻。

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本日も新刊紹介です。 
清家雪子著 2014/10/23 講談社(アフタヌーンKC) 定価740円+税
 
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版元サイトから
□(シカク:詩歌句)街。そこは近代日本ぽくも幻想の、詩人たちが住まう架空の街。実在した詩人の自伝ではなく、萩原朔太郎や北原白秋らの作品から受けた印象をキャラクターとして創作された、詩人たちと近代日本の業と罪と狂気の物語。衝撃的な内容で話題の1巻に続き、近代日本の闇へ踏み込む第2巻登場!
 
帯文から
朔太郎、白秋、犀星らの作品から詩人キャラをクリエイト! 厖大な資料を下敷きに妄想全開、前から後から縦横無尽にやらかした、一線を越えた詩人漫画!
 
 
昨年10月に、講談社さんの『月刊アフタヌーン』で連載が始まり、今年4月に単行本の第1巻が刊行された話題作(先月発行された詩誌『詩と思想』10月号でも大きく紹介されました)の2巻目です。
 
主人公の「朔(萩原朔太郎)」を中心に、「白さん(北原白秋)」「ミヨシくん(三好達治)」「ミッチーくん(立原道造)」「チューヤくん(中原中也)」「犀(室生犀星)」などが紡ぎ出す幻想世界の物語です。
 
第六話「1945」では、第一巻にも出てきた白皙の「コタローくん」と「機動戦士ガンダム」のガンタンクのような「チエコさん」が再登場。突如起こった空襲のために「チエコさん」は大破してしまいます。しかし、この回で、「チエコさん」は「コタローくん」が作ったラジコンだと言うことが判明。実際の「智恵子さん」はもはや死んでいることも。
 
大破して回線がショートた「チエコさん」が、まるで戦時中のラジオのようにエンドレスでつぶやき続けるのは、「コタローくん」の詩。現実の光太郎としては昭和18年(1943)に書いた「戦に徹す」です。
 
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いざといふ時気のそろふのは
日のみ子を上(かみ)にいただくわれらがともの
幾千年来かはる事なき血のしるしだ。
いま米英の大軍を敵として東亜に戦ふ。
かの元寇の国難は物の数ならず、
まさに国つ初めの戦このかた
再び来りて三たびは敢えて来らざらん
八紘(あめのした)を清め祓ふの戦だ。
この戦を戦ふ時、
われらがとも一人(いちにん)と雖も悉く戦ひ、
悉く戦の場に立ち、
悉く戦の心にきはまり、
悉く日常坐臥の生活を戦に捧げざるはない。
国民の眼(まなこ)戦の一点に集まり、
国民の思ひ戦を焦点としてめぐる。
(略)
世界を奪はんとしてのぼせ上るは米英にして、
世界を清めんとするはわれらである。
この戦のいづれに神のみこころありや。
明々白々、われら断じて信ずる。
米英破る。
世界健康の美かならず成る。
われらの手によつてかならず成る。
 
 
「コタローくん」はバグッた「チエコさん」を叩き壊します。すると、イメージ 3
次の瞬間、なぜか海上に浮かんでいる「コタローくん」。やはりバックに彼の詩が。やはり現実の光太郎の作品としては、昭和22年(1947)に書かれた連作詩「暗愚小伝」の構想段階で書かれた「わが詩をよみて人死に就けり」です。
 
爆弾は私の内の前後左右に落ちた。
電線に女の大腿がぶらさがつた。
死はいつでもそこにあつた。
死の恐怖から私自身を救ふために
「必死の時」を必死になつて私は書いた。
その詩を戦地の同胞がよんだ。
人はそれをよんで死に立ち向かつた。
その詩を毎日読みかへすと家郷へ書き送つた
潜行艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。
 
やがて「コタローくん」の前に現れる「チエコ」。こちらはラジコンの「チエコさん」ではなく、生身。ただし、もはやこの世の者ではない、幻です。
 
幻の「チエコ」のセリフが、以下の通りです。

ねえコタロー
私と同じね
狂うしかなかったのねイメージ 4
 
片田舎でひっそり暮らしていたお姫様が…
突然目覚め
膨張した
身の丈に合わない自我を
小っちゃな無垢な体に抱えきれず
ぱあんと弾けてしまったのね
 
 
ともに「壊れ」てしまった智恵子と光太郎が、よく表現されています。
 
ところで、現実の光太郎はがっしりした体躯なのに、「コタローくん」は、なよっとした青びょうたんのような風貌です。第一巻の段階では、この理由が分かりませんでしたが、どうやら白皙の「コタローくん」は、「死の恐怖から私自身を救ふために/「必死の時」を必死になつて私は書いた。」という戦時中の光太郎の痛々しい自我を象徴しているのではないかと気がつきました。ものすごい伏線ですね。
 
ちなみに「必死の時」という詩は以下の通り。昭和16年(1941)の作品です。画像は詩集『大いなる日に』(昭和17年=1942)から採りました。
 
必死にあり。イメージ 5
その時人きよくしてつよく、
その時こころ洋洋としてゆたかなのは
われら民族のならひである。
 
人は死をいそがねど
死は前方から迫る。
死を滅すの道ただ必死あるのみ。
必死は絶体絶命にして
そこに生死を絶つ。
必死は狡知の醜をふみにじつて
素朴にして当然なる大道をひらく。
天体は必死の理によって分秒をたがえず、
窓前の茶の花は葉かげに白く、
卓上の一枚の桐の葉は黄に枯れて、
天然の必死のいさぎよさを私に囁く。
安きを偸むものにまどひあり、
死を免れんとするものに虚勢あり。
一切を必死に委(ゐ)するもの、
一切を現有に於て見ざるもの、
一歩は一歩をすてて
つひに無窮にいたるもの、
かくの如きもの大なり。イメージ 6
生れて必死の世にあふはよきかな、
人その鍛錬によつて死に勝ち、
人その極限の日常によつてまことに生く。
未練を捨てよ、
おもはくを恥ぢよ、
皮肉と駄々をやめよ。
そはすべて閑日月なり。
われら現実の歴史に呼吸するもの、
今必死のときにあひて、
生死の区区たる我慾に生きんや。
心空しきもの満ち、
思い専らなるもの精緻なり。
必死の境に美はあまねく、
烈々として芳しきもの、
しずもりて光をたたふるもの
その境にただよふ。
 
ああ必死にあり。
その時人きよくしてつよく、
その時こころ洋々としてゆたかなのは
われら民族のならひである。
 
この詩について、光太郎自身、「死の恐怖から私自身を救ふために/「必死の時」を必死になつて私は書いた。」と書いているのです。
 
そうした事情も知らないヘイトスピーチ大好きな幼稚な右翼が、「格調高い名詩」などと絶賛しています。もっと勉強しろよと言いたくなりますね。
 
 
さて、「月に吠えらんねえ」。一巻ともども、ぜひお買い求めを。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月18日
 
昭和27年(1952)の今日、光太郎の実弟で鋳金の人間国宝となった豊周の初めての個展が、日本橋三越で開幕しました。

富岡幸一郎選『妻を失う 離別作品集』。

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このところ、新刊紹介ということで記事を書いています。一昨日は池川玲子『ヌードと愛国』(講談社現代新書)、昨日は清家雪子『月に吠えらんねえ(2)』(講談社アフタヌーンKC)と、講談社さんの書籍が続き、今日も講談社さんのものです。
 
別に当方、講談社さんには何の義理もありませんし(笑)、講談社さんも光太郎に何の義理もないのでしょう。たまたまなのだと思います。 
富岡幸一郎選 高村光太郎他著 2014/11/10 講談社(講談社文芸文庫) 定価1,400円+税
 
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版元サイトより
 
妻に先立たれた夫の日々は、悲しみの海だ。
男性作家の悲しみは、文学となり、その言葉は人生の一場面として心に深く沁み込んでいく。
例えば藤枝静男の「悲しいだけ」のように……。
高村光太郎・有島武郎・葉山嘉樹・横光利一・原民喜・清岡卓行・三浦哲郎・江藤淳など、静謐な文学の極致を九人の作家が描いた、妻への別れの言葉。
 
目次
 元素智恵子  高村光太郎
 裸形  高村光太郎
 智恵子の半生  高村光太郎
 小さき者へ  有島武郎
 出しようのない手紙  葉山嘉樹
 春は馬車に乗って  横光利一
 死のなかの風景  原民喜
 朝の悲しみ  清岡卓行
 にきび  三浦哲郎
 悲しいだけ  藤枝静男
 妻と私  江藤淳

 
というわけで、光太郎の詩が二篇、散文が一篇選ばれています。巻頭に挙げていただいているのがありがたいところです。
 
「元素智恵子」、「裸形」ともに、昭和24年(1949)に作られた六篇から成る連作詩「智恵子抄その後」の中の一篇です。「智恵子の半生」は昭和15年(1940)の雑誌『婦人公論』に「彼女の半生-亡き妻の思ひ出」の題で発表され、翌年刊行された詩集『智恵子抄』に改題のうえ、収められたエッセイです。
 
したがって、目新しいものではないのですが、他の作家がどのように妻の死と向き合っているのか、合わせて読むことでまた違ったとらえ方が出来るのではないかと思います。
 
個人的には江藤淳「妻と私」に感動しました。実はそれ以外の作品は未読です(昔、読んだ作品はありますが)。なかなか重たいテーマの作品集なので、読むのが辛い部分がありまして……。
 
ともかくも、ご紹介しておきます。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月19日
 
大正11年(1922)の今日、田村松魚とともに、光雲の懐古談を聞き始めました。
 
この談話は翌月まで続き、昭和4年(1929)、萬里閣書房から『光雲懐古談』が刊行され、その前半の「昔ばなし」としてまとめられました。筆録は田村です。光雲が語ったのは自己の半生、同時代の美術界の様相などです。
 
『光雲懐古談』に収められた田村の言。
 
此の「光雲翁昔ばなし」は大正十一年十一月十九日(日曜日)の夜から始め出し、爾来毎日曜の夜毎に続き、今日に及んでゐる。先生のお話を聴いてゐるものは高村光太郎氏と私との両人限りで静かな空気をこわすといけない故、絶対に他の人を立ち入らせなかつた。最初の第一回は光太郎氏宅他は今日まで先生のお宅でされつゝある。
 
ただ、以前にも書きましたが、昭和2年(1927)に春陽堂から刊行された『漫談明治初年』という書籍に収められている光雲談話と重なる部分があり、精査が必要です。
 
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原付ナンバープレートに乙女の像。

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新聞記事からご紹介します。 

原付ナンバープレートに乙女の像

 十和田市は5日、合併10周年を記念した原動機付き自転車のオリジナルナンバープレートに、十和田湖と湖畔を象徴する乙女の像の図案を決定したと発表した。
 制作者は大阪府のグラフィックデザイナー塩榮一さん。全国から応募があった31件の中から、同市の特色や魅力が端的に表現された図柄として審査会で選ばれた。
 ナンバープレートは、十和田市の魅力を目に見える形で訴える狙いもある。高村光太郎作の乙女の像は建立から60年が経過してなお、誘客に課題を抱える十和田湖観光のPR役に“就任”。市税務課は「新たなナンバープレートで十和田をアピールしてほしい」と期待を込める。
 新ナンバープレートの交付開始は2015年2月2日の予定。問い合わせは十和田市役所税務課=電話0176(51)6765=へ。
『デーリー東北』 2014/11/05
 
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調べてみると、全国的には300ほどの自治体が原付の「ご当地」ナンバーを導入しています。ただし、かなりの割合で、奇妙な「ゆるキャラ」が採用されています。それを付けて走るのも恥ずかしいんじゃないの? と思います。
 
その点、十和田市さんのものはなかなかいい図案ですね。泉下の光太郎は苦笑しているような気がしますが。
 
ちなみに当方の住む千葉県香取市は、地元の偉人・伊能忠敬のデザインです。地元民にしかわからないのでは……と思いますが、地元への愛着を深める、という意味ではいいのかもしれません。
 
近くの佐倉市では漫画家、モンキー・パンチさんが市内在住ということで、ルパン三世の図柄。これはズルい、という気がしますね(笑)。
 
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さて、新聞がらみでもう一件。 

風土計(2014/11/13)

 「威信の青空」。そう呼ぶのがぴったりの中国・北京の数日間だった。アジア太平洋経済協力会議(APEC)の期間中、北京の空は見事に晴れた
▼中国では微小粒子状物質「PM2・5」による大気汚染が深刻。気象当局は、北京は8~11日に重度から中度の大気汚染に見舞われると予報していた。大事な国際会議の空が暗い霧に覆われてはメンツにかかわる
▼このために当局が取った手段がすごかった。工場の操業停止や交通規制はまだ序の口。中国メディアによると、花火や露天のバーベキューを禁止。周辺の農家では食事や暖を取るために薪や石炭を燃やすことさえ禁じた
▼アジアの大国の威信をかけた青空の演出には恐れ入る。その効果だろうか。日本との間にかかっていた深い霧もとれて、2年半ぶりの首脳会談が実現した。2人の表情は晴れやかとはいかなかったが、まずは良しとしよう
▼とはいえ、これはつかの間の青空。高村光太郎の「智恵子抄」風に言えば「ほんとの空が見たいといふ」が隣国国民の思いではないか。両国関係が改善すれば、大気汚染を防ぐ日本の技術協力もさらに進んでいくだろう
光太郎の随筆「触覚の世界」に「彫刻家の触覚は霧を破ろうとする」とある。一番幼稚で根源的な感覚ゆえに触覚は本質をつかむ。政治家にもほしい。
『岩手日報』 2014/11/13
 
『岩手日報』さんの1面コラムです。光太郎第二の故郷ともいうべき岩手の地方紙ということで、時折、光太郎にふれて下さいます。ありがたいことです。
 
もう一件。今月8日の『毎日新聞』さんの社会面コラム「季語刻々」でも、光太郎にふれて下さっています。
 
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「ほんとの空」が広がる智恵子の故郷の山、安達太良山や、十和田ではもう雪が積もったそうです。当方の住む南関東でも初冬の気配が漂って参りました。
 
当方、光太郎と違って、冬の寒さは苦手です。「冬は僕の餌食だ」ではなく「僕は冬の餌食だ」状態なのですが、「冬来たりなば春遠からじ」と思いつつ、頑張ります。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月20日
 
昭和25年(1950)の今日、龍星閣から詩文集『智恵子抄その後』が刊行されました。
 
昨日もご紹介した「元素智恵子」や「裸形」を含む連作詩「智恵子抄その後」を根幹に、戦後に作られた他の智恵子に関する詩篇、散文などを収めています。
 
 

「ふくしま、ひとしずくの物語 ―再生へ祈りを込めて―」郡山公演。

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福島は郡山からイベント情報です。
 
日 時: 2014年11月23日(日)  開場 13時30分  開演 14時  (17時終演予定)
場 所: 郡山市民交流プラザ 大会議室 ビックアイ7階(郡山駅前)  郡山市駅前二丁目11-1
演 目: 口笛、バイオリン、ピアノの演奏、朗読
      東京から福島へのメッセージ紹介
      ふくしまをめぐる話など
出演者: バイオリニスト 山本智美さん (福島県出身、埼玉県で「森の音楽アトリエ」開設)
       口笛奏者    柴田晶子さん (国際口笛コンクール優勝)
       ピアニスト    松田光弘さん (Real Rockでメジャーデビュー)
参加無料 どなたでもご参加いただけます!
申込先: skyasu39@ybb.ne.jp 、090-8782-2774 (鈴木)
      お申込みご希望の方は上記のメールアドレス、電話番号へ「氏名」と参加人数をお知らせください。
        皆様のご参加を心からお待ちしています。
主  催 : ふくしま再生プロジェクトの会     
問い合せ : ふくしま再生プロジェクトの会 鈴木
申込み : skyasu39@ybb.ne.jp  090-8782-2774
 
この会は、福島と東北の役に立ちたいという思いをもった人と福島の人たちの心と心をつなげる憩いの催しです。

当日の主な内容は、バイオリニスト山本智美さん、口笛奏者柴田晶子さん、ピアニスト松田光弘さんの音楽コンサートと「ふくしまへおくる言葉」や詩の朗読です。

アットホームな雰囲気の中で、「心のふるさと」としての東北を感じるひと時になればと思います。

「ふくしま、ひとしずくの物語」は、10月にも東京で開催し、「ふくしまのために何かしたい」という気持ちで集まっていただいた皆様の「ふくしまへの想い」もお届けします。

当日は、参加無料でございますので、みなさまお誘い合わせの上、いらしてくださいませ。(お席の用意がございますので、なるべく事前に申込みを下さいませ)
 
 
先月、東京・豪徳寺で開催されたイベントの福島公演のようです。
 
当方、今年は11回、福島県に足を運びました。特に川内村相馬などの浜通り地区の復興はまだまだです。ハード面での支援は、我々個人には難しい部分がありますが、こうしたソフト面での支援は可能です。足を運ぶだけでも支援となります。ぜひ、足をお運び下さい。
 
 
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【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月21日
 
平成21年(2009)の今日、千葉県松戸市戸定歴史館で「千葉大学園芸学部創立100周年記念特別展 庭園の記憶 ―与謝野晶子の「松戸の丘」と園芸学校の絵画―」が開幕しました。
 
現在の千葉大学園芸学部(千葉県松戸市松戸)は、明治42年(1909)に設立された千葉県立園芸専門学校がその前身で、与謝野晶子が大正11年(1922)と同13年(1924)に同校を訪れ、雑誌『明星』(第二期)に「松戸の丘」と題する50首の短歌を発表したりしています。
 
また、明治45年(1912)に就任した第二代校長・赤星朝暉は光太郎のご近所さんで、昭和11年(1936)には、光太郎が作った赤星の像が、同校に設置されました。残念ながら戦時供出で現存せず、現在は、光太郎とも交流のあった彫刻家・武石弘三郎が作り、新潟県立加茂農林高校に建てられた像の原型を使った2代目の像が残っています。
 
図録には、市の学芸員・田中典子氏による「赤星先生像をめぐって」が掲載されています。

室生犀星記念館「『我が愛する詩人の伝記』を読む 第2回『高村光太郎』」。

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石川は金沢の室生犀星記念館でのイベント(講座)の情報です。

『我が愛する詩人の伝記』を読む 第2回『高村光太郎』。

期  日 : 2014年11月29日(土)  
時  間 : 午前10時~11時
会  場 : 室生犀星記念館 石川県金沢市千日町3-22
講  師 : 上田正行氏(同館館長)
 
※お電話でお申し込みください(室生犀星記念館:076-245-1108) 入館料が必要です。
 
 
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『我が愛する詩人の伝記』は、昭和33年(1958)に雑誌『婦人公論』に連載され、同年単行本化された室生犀星の著書です。詩人としての犀星が間近に見た詩人達の、「伝記」というより「印象記」「回想」に近いものです。
 
取り上げられたのは12人。『婦人公論』掲載順に、北原白秋、光太郎、萩原朔太郎、釈迢空(折口信夫)、佐藤惣之助、島崎藤村、堀辰雄、立原道造、津村信夫、山村暮鳥、百田宗治、千家元麿です。
 
貴重な回想を含み、さらに犀星自身、そう書いているように「詩人の伝記を書いてゐるが、どうもすぐ自分のことを書いてしまふ」というわけで、犀星本人の人間像も浮き彫りになっている一冊です。
 
したがって、この書自体が研究の対象となることも多く、今回の講座でもそういうわけで取り上げるのだと思われます。ちなみに全6回の予定だそうで、白秋を扱った初回の講座は先月終了。今後、光太郎、朔太郎、釈迢空、立原道造と佐藤惣之助、藤村と千家元麿というラインナップになっています。
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ちなみに今回の講座とは関係ないとは思うのですが、『我が愛する詩人の伝記にみる室生犀星』(葉山修平著 龍書房 平成12年=2000)という書籍も刊行されています。
 
さて、『我が愛する詩人の伝記』の中で、光太郎がどう描かれているか、少し紹介しておきます。中心になっているのは、青年期の回想です。
 
犀星は光太郎より6つ年下の明治22年(1889)の生まれ。中央の詩壇にデビューするのも大正に入ってからと、光太郎のそれより後のことです。そこで、すでに名声を得ている先輩に対するやっかみのような、シニカルな見方が垣間見えます。
 
千駄木の桜の並木のある広いこの通りに光太郎のアトリエが聳え、二階の窓に赤いカーテンが垂れ、白いカーテンの時は西洋葵の鉢が置かれて、花は往来のはうに向いてゐた。あきらかにその窓のかざりは往来の人の眼を計算にいれたある矜(ほこり)と美しさを暗示したものである。千九百十年前後の私はその窓を見上げて、ふざけてゐやがるといふ高飛車(たかびしや)な冷たい言葉さへ、持ち合すことのできないほど貧窮であつた。かういふアトリエに住んでみたい希(のぞ)みを持つたくらゐだ。四畳半の下宿住ひと、このアトリエの大きい図体の中にをさまり返つて、沢庵と米一升を買ふことを詩にうたひ込む大胆不敵さが、小面憎かつた。
 
また、そのアトリエをおとなったものの、実に三回にわたり、智恵子に追い返されたエピソードも語られています。
その時の智恵子を「夫には忠実でほかの者にはくそくらへといふ目附」と評しています。ちなみにまだこの時点では犀星と光太郎はお互い相知らぬ時期だったそうです。
 
しかし、何も光太郎智恵子をけちょんけちょんにけなしている訳ではありません。
 
光太郎の死は巨星墜つといふことばどほりのものを、私に感じさせた。巨星墜つといふばかばかしいことばが、やはりかれの場合ふさはしく、それだけ私は依然距たりをおぼえてゐたのだ。
 
ここだけ取り上げても伝わりにくいのですが、「距たり」といっても、「敬遠」とか「拒絶」ではなく、「脱帽」に近い感覚です。
 
このほかの部分にも、光太郎に対する敬愛の情がしっかり伝わってきます。また、遺された光太郎から犀星宛の書簡を見ると、光太郎の母が亡くなった際には犀星から心のこもった手紙が来たことや、逆に犀星の母(義母)の逝去に際しても、光太郎は衷心から哀悼の意を表しています。
 
先に挙げたシニカルな見方も、犀星が自らを偽悪家として韜晦する一面を見せているように思われます。そうした部分が、この書物自体、研究の対象として重要視されている一因でしょう。
 
『我が愛する詩人の伝記』、光太郎の回の最後はこんなふうに終わっています。
 
智恵子さん曰く、四十何年か前に見た人がまたいやなことを書いてゐるわね、なんてしつこい厭な奴!
 
 
さて、犀星記念館の講座。お近くの方、ぜひどうぞ。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月22日
 
昭和2年(1927)の今日、詩人の尾崎喜八に絵葉書を送りました。イメージ 3
 
この時期の光太郎は、自作の彫刻を写真に撮り、絵葉書にして使っています。この葉書もそうで、この時開催されていた大調和展覧会に出品していた塑像「某夫人の像」をプリントしています。
 
「某夫人」=智恵子です。文面は以下の通り。
 
 この間の夜は急用があつたので失敬しました。二三日前 大調和展へも来られたといふ事を千家君にききましたが その日も遅く行つたので会へないで残念でした。
 此の彫刻は誰も本当には認めませんが自分では信用してゐます。多くの芽を持つてゐると思ひます。
 
光太郎はこの他にも智恵子像を作っていますが、それらすべて、現存が確認できていません。ほとんど昭和20年(1945)の空襲で燃えてしまったと推定されています。
 
どこかからひょっこり出てこないかと期待しているのですが……。
 

第59回高村光太郎研究会レポート。

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昨日は、東京・護国寺にて開催された第59回高村光太郎研究会に参加して参りました。
 
最近では年に一回行われるもので、毎回、お二方の発表が行われ、昨日は名古屋高村光太郎談話会の大島裕子氏、鶴見大学短期大学部教授・山田吉郎氏のご発表でした。
 
 
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大島氏は「高村光太郎の詩 「N-女史に」の背景」と題してのご発表。
 
「N-女史に」というのは、光太郎智恵子結婚前の明治45年(1912)に書かれた詩で、のち、「人に」と改題され、詩集『智恵子抄』の巻頭を飾ることになる詩です。イメージ 1
 
冒頭部分は以下の通りです。
 
いやなんです
あなたの往つてしまふのが――
 
あなたがお嫁にゆくなんて
花よりさきに実(み)のなるやうな
種(たね)よりさきに芽の出るやうな
夏から春のすぐ来るやうな
そんな、そんな理窟に合はない不自然を
どうかしないで居てください
 
従来、この詩の書かれた時期に、智恵子は郷里で縁談がもちあがっており、それに対する抗議として光太郎がこの詩を書いたという解釈が為されていました。
 
しかし、大島氏の調査では、その縁談の相手とされていた人物が、どうもそうではないらしいとのこと。智恵子との結婚話は実際に家同士の口約束的なものがあったらしいのですが、それはもっと前の話だったのではないか、ということです。
 
今後のさらなる精査に期待します。
 
山田氏のご発表は、ご専門でもある短歌について。特に、若山牧水の主宰で始まった雑誌『創作』第1巻第5号(明治43年)に載った自選歌についてでした。
 
 
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当時の歌壇の傾向を踏まえての光太郎の歌風の特徴、歌人達の人間関係等にも触れ、興味深い内容でした。
 
光太郎は元々与謝野夫妻の新詩社に籍を置き、『明星』での活動がその文学的活動の出発点といってよいと思います。しかし、専門の歌人としての道を進まなかったためか、いったいに、光太郎の短歌については、あまり注目されていません。現代においてもあまた刊行されている短歌雑誌で、光太郎の短歌を特集するということが皆無に近い状態です。この点、書道関係の雑誌で光太郎の書がくりかえし特集されているのと好対照です。
 
はっきり言うと、歌壇の閉鎖性がその一因ではないのでしょうか。現代の短歌雑誌で過去の歌人の特集が組まれる場合も、その雑誌のルーツをたどるとその歌人の弟子筋に行き当たり、他の系統の歌人は黙殺、ということが行われているようで、実にくだらないと思います。伝統芸能的な分野になってくると、どうしてもそうなるのでしょうか。
 
そうした垣根を越え、もっともっと光太郎短歌に注目が集まっていいと思います。
 
 
昨日は、会の顧問・北川太一先生もご参加下さり、いろいろと貴重なご意見、新しい情報のご提供を賜りました。
 
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北川先生のお話がじかに聴ける機会は滅多になく、貴重な機会です。しかし参加者があまり多くなく、残念です。この会のさらなる発展も切に望みます。イメージ 4
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月23日
 
大正13年(1924)の今日、詩「清廉」を書きました。
 
それと眼には見えぬ透明な水晶色のかまいたち
そそり立つ岸壁のががんと大きい
山巓の気をひとつ吸ひ込んで
ひゆうとまき起る谷の旋風に乗り
三千里外
都の秋の桜落葉に身をひそめて
からからと鋪道に音(ね)を立て
触ればまつぴるまに人の肌をもぴりりと裂く
ああ、この魔性のもののあまり鋭い魂の
世にも馴れがたいさびしさよ、くるほしさよ、やみがたさよ
 
愛憐の霧を吹きはらひ
情念の微風を断ち割り
裏にぬけ
右に出て
ひるがへりまた決然として疾走する

その行手には人影もないイメージ 5
孤独に酔ひ、孤独に巣くひ
茯苓(ふくりやう)を噛んで
人間界に唾を吐く
 
ああ御(ぎよ)しがたい清廉の爪は
地平の果から来る戍亥(いぬゐ)の風に研がれ
みずから肉身をやぶり
血をしたたらし
湧きあがる地中の泉を日毎あびて
更に銀いろの雫を光らすのである
あまりにも人情にまみれた時
機会を蹂躙し
好適を弾き
たちまち身を虚空にかくして
世にも馴れがたい透明な水晶色のかまいたちが
身を養ふのは太洋の藍碧(らんぺき)
又一瞬にたちかへる
あの山巓の気
 
 
光太郎には「猛獣篇」という連作詩があります。教科書にも載った有名な「ぼろぼろな駝鳥」もその一篇です。他に
様々な「猛獣」をモチーフに、荒ぶる魂を表出した連作です。
 
光太郎生前に単行詩集としてまとめられる事はなかったのですが、没後、昭和37年(1962)に、草野心平が鉄筆を握り、ガリ版刷りで刊行されました。
 
この「清廉」はその第一作です。ただし、ガリ版刷り『猛獣篇』では、この詩の前に三里塚御料牧場の馬を謳った「春駒」を掲載しています。しかし、発表当時「猛獣篇」のサブタイトルが付けられたのは「清廉」が最初です。
 
モチーフは妖怪「かまいたち」。上記画像はWikipediaさんから拝借しました。なにかの弾みに皮膚に裂傷ができる現象を、昔の人はこの妖怪のしわざだと考えていました。Wikipediaさんによれば、科学的には真空の渦がその原因と言われていたものの、ごく最近はどうもそうではないらしいといわれているようで、結局、これだという結論が出ていないようです。やっぱり妖怪の仕業かもしれません(笑)。
 
ちなみに当方、3歳か4歳の時、川の堤防でごろごろ転がり落ちて遊んでいたら、右足をかまいたちにやられました。40年以上経った現在でも、傷跡が残っています。本当にすぱっと皮膚が裂け、しかし血は一滴も出ず、それでいて物凄く痛く、泣きながら家まで走った記憶があります。Wikipediaさんでは「痛みはない」と書いてあるのですが……。今もって不思議です。
 
閑話休題。光太郎にとってはこうした妖怪も「猛獣」だったわけですね。「駝鳥」も一般には「猛獣」とは言えません。そう考えると、荒ぶる魂を持つ獣であれば「猛獣」だという理論です。それを言い出すと、「鯰」や「龍」、果てはもはや生物ですらない「潜水艦」まで「猛獣」の範疇に入っています(どの詩を連作詩「猛獣篇」の一篇と判定するかにもよるのですが)。
 
光太郎の内面世界も、なかなか掴みきれません。

荒川区立第一日暮里小学校日本学校図書館学会研究推進校研究発表会。

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明治23年(1890)から同25年(1892)にかけ、数え八歳から十歳の光太郎が通った小学校です。母校ということで、いろいろと光太郎顕彰の取り組みもしていただいています。
 
同校で、以下の通り、研究発表会が行われます。

日本学校図書館学会研究推進校研究発表会

平成26年11月28日(金)13時45分授業開始(受付開始 13時15分)
研究主題
  自らの考えを深め、確かで豊かに表現できる児童の育成 ~学校図書館を計画的に利用しその機能の活用を通して~
 
13:45~14:30 公開授業
 1年1組 国語  としょかんへいこう      学校図書館で発見したことを文章に書き 発表し合う
 2年1組 生活  うごけ!わたしのおもちゃ  資料を読んで動くおもちゃ作りに生かす
 3年1組 算数  重さをはかろう         重さの表し方を知り 資料を基に学習課題を見付ける
 4年1組 国語  新美南吉の世界へ      新美南吉の作品を味わい読書会を開く
 5年1組 社会  自動車をつくる工業      課題解決に必要な情報を収集し選択して活用する
  6年1組 総合  先輩「高村光太郎」に学ぶ  詩や作品を通して生き方を知り 新たな課題をつくる
  6年2組 体育  病気の予防           喫煙に関する資料を基に自分の考えをまとめる
 
14:50~15:40 研究発表
15:40~16:45 対談 絵本のちから 絵本作家 なかえよしを氏 絵本コーディネータ― 東條知美氏
 
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というわけで、6年生の総合的な学習の時間で、「先輩「高村光太郎」に学ぶ」の公開授業があります。
 
同校では、以前から総合的な学習の時間に光太郎について調べるということをなさっています。当方も資料の提供をさせていただきました。
 
 
 一日小でこそできる学びがあります。6年生が、今、総合的な学習の時間に取り組んでいる、本校の伝統となっている学習「光太郎のバトンをつなぐ」。本校の卒業生である高村光太郎について調べ、詩を通してその生き方を知り、これからの自らの過ごし方を考える機会にします。これから卒業までの時間を使って、「自分流高村光太郎集」を作成し、本校図書館にその作品を残します。今までの卒業生の作品が並ぶ光太郎文庫は本校の大きな財産です。
 子供たちと一緒にたくさんの詩を味わう中で、短い詩「あたり前」と光太郎氏が岩手県の小学生に残した言葉であり、本校の校訓となっている「正直 親切」に表された氏の生き方に改めて深い感動を覚えました。
 
あたり前
あたり前の事でも僕は言ふ
あたり前の事でも僕はする
あたり前でない事でも僕は言ふ
あたり前でない事でも僕はする
 
 人があたり前と考えるかどうかではなく、自分で考えてみて正しいかどうかを問い、「自分の心で、私は行動するぞ!」と宣言した光太郎。外見や周りの評価に惑わされることなく、本当に正しいことは何なのかを自分で考え、自分の心に正直に生きる姿がたった四行の詩の中に詰まっています。本校の校訓である「正直 親切」は、まさに光太郎氏の生き方そのものを表しているのです。
 「自分に正直であれ 人には親切であれ」高村光太郎氏の言葉が、本校の子供たちのこれからの人生の道しるべになってくれることを願います。
 
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ありがたいことです。
 
また、智恵子の母校、二本松市の油井小学校さんでは、智恵子について学ぶ取り組みをいろいろと行って下さっています。特にこうした地元での学校教育を通し、光太郎智恵子の名を語り継いでいくことは非常に大切なことだと思います。
 
さて、第一日暮里小の研究発表会。一般の方は参観するのは難しいかも知れませんが、教育関係の方、お申し込みを。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月24日
 
昭和20年(1945)の今日、花巻郊外太田村山口の山小屋に、ランプを設置しました。
 
前日の日記から。
 
夕方、戸来恭三さんランプを持つてきてくれる、院長さんのたのみの由、石油一瓶針金も持参、贈与の由、夜ランプをつける
 
 
そして24日の日記。
 
朝雨、後快晴、小春日和  午前ランプの自在カギツクリ、
 
「高村山荘」として今も遺されている山小屋にあるこれでしょうか。
 
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昭和24年の2月に、村人が電線を引く工事をしてやるまで、3年余りランプの生活でした。

日本近代文学館リーディングライブ2014。

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東京駒場の日本近代文学館さんでのイベントです。

日本近代文学館リーディングライブ2014

日  時 : 2014年11月29日(土) 12:00~
会  場 : 日本近代文学館 東京都目黒区駒場4-3-55
主  催 : プチプラージュ
後  援 : 一般社団法人 日本朗読検定協会
入場料  : 無料
司  会 : 武田あさひ
 
プログラム
 第一部 12:10~12:55 小学生の詩&読み聞かせママグループ
  ・10名の小学生による詩の朗読(谷川俊太郎さんの詩、または自作)
  ・加藤啓子・栗岡まゆみ・黒澤真由美・武田美香・羽田みどり・シュナック千賀子
    「生まれたよ ぼく」「ともだち」「ありがとう」 谷川俊太郎
  ・明瀬亜希子「くまとやまねこ」湯本香樹実
  ・佐川紘子 「狼だんなとろば」外国の昔話
  ・小杉美智子・大久保幸枝・森本雅子 「あらしのよるに」木村裕一

第二部 13:00~16:00 大人の朗読会
  田中康彦・仁林結晶  「サンタクロースはいるんだ」 フランシス・ファーセラス・チャーチ/大久保ゆう訳
  葉月のりこ  「冬の日、防衛庁にて」 江國香織
  曳地政久・武田あさひ  「羅生門」 芥川龍之介
  宇田川智恵 「海のいのち」 立松和平
  田名網節子  「竹取物語」 川端康成(現代語)
  石橋玲  「ロボットのお仕事」 石橋俊一
  三枝洋子  「雪おんな」 小泉八雲
  阿部早苗  「夢十夜 第一夜」 夏目漱石
  日下昭子  「海辺の王さま」 日下昭子
  坂口亜矢子・森順子・前田裕己  「藪の中」 芥川龍之介
  加藤純恵  「コトコト、ホクホク」 宮島英紀
  北里利恵  「デューク」 江國香織
  駒田早苗  「野菊の墓」 伊藤左千夫
  角田のぶひこ  「帰ってきた先生」 角田のぶひこ
  柿原智恵子  「詩集オンディーヌより【追放】」 吉原幸子
  三上裕恵  「山からの贈物」 高村光太郎
  丸山眞宙  「小さな幸せ物語より【タイムマシン】 」川上健一
  溝呂木さゆり  「ほうすけのひよこ」 谷川俊太郎
  鈴木惠子  「草之丞の話」 江國香織
  野尻陽子  「じいさん・ばあさんの愛し方」 三好春樹
 
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というわけで、朗読のイベントです。
 
光太郎晩年の詩「山からの贈物」がプログラムに入っています。ありがたや。
 
こちらは昭和24年の雑誌『婦人之友』に掲載されたもので、詩集『典型』にも採られています。
 
   山からの贈物イメージ 3
 
  山にありあまる季節のものを
 遠く都の人におくりたいが
 おくらうとすると何もない。
 山に居てこそ取りたての芋コもいいし
 栗もいいし茸もいいが、
 今では都になんでもあつて
 金がものいふだけだといふ。
 それではいつそ
 旧盆過ぎて穂立をそろへた萱の穂の
 あの美しい銀の波にうちわたる
 今朝の山の朝風を
 この封筒に一杯入れよう。
 香料よりもいい匂の初秋の山の朝風を。
 
なるほど、いい詩ですね。
 
朗読も静かなブームのようです。いろいろな方がいろいろなイベントで光太郎作品を取り上げて下さっています。今後もそういう傾向が続いてほしいものです。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月25日
 
昭和25年(1950)の今日、光太郎が暮らしていた花巻郊外太田村の村役場落成式が行われ、列席しました。
 
光太郎は祝辞を述べた他、「大地麗」と書いた書を、役場に贈りました。「だいちうるわし」と読みます。
 
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昭和37年(1962)、筑摩書房刊行の『高村光太郎山居七年』に、この書に関するエピソードが載っており、抜粋します。
 
 いよいよ落成したので、先生に何か記念の額を書いていただきたいと思ったのでしたが、役場のできたのは十一月の末の頃の相当寒い時で、先生はすでに筆をおさめて、今年中は何も書かないという時でした。山口小学校の校長さんの浅沼さんなどが行ってたのんでも到底書いてもらえまいし、村長が自身行ってもおおよそことわられるだろう、結局この使は線のやさしいそして先生が気楽にものを考えられるであろう女の人がよいではないかとなりました。
 村長さんは、奥さんのアサヨさんに「書いてもらう使は、しょっちゅう先生のところへ出入りして気のおけないお前がいいよ、お前に行ってもらうことだな。うまく引受けてくれればいいし、ことわるにもお前だら先生も気楽だろう。」ということで、アサヨさんが使に行きました。間もなく帰ってき、「承知しました。」という返事に村長さんは飛上るほど喜びました。
 大きな筆と鳥の子の大紙が要るとのことで、村長さんは早速盛岡に行き、一番大きな筆と鳥の子の大紙二枚とを買ってきて、それを妻君に届けさせました。
 四、五日して、先生から「書きあがった。」との報せがあったので、アサヨさんは早速いただきにいきました。
「大地麗  高村光太郎 印」と書かれてあります。
 落成式が間近いので、大急ぎで表装し、庁舎階上の会議室正面に掲げました。
 落成式の当日、地元有志多数参集の中へ、小屋からは五粁もある役場ですが、喜んで列席、村人のため素晴らしい祝辞を述べました。会衆は稗貫郡全部から集まって三百人ぐらいあり、非常な盛会で、先生も愉快だったと見えて、ほろほろと酔い、来賓がバスで立ったあと、暮色せまる中を酔歩悠々小屋への道を辿られた。
 
この書は現在、花巻市太田の高村光太郎記念館で見ることができます。光太郎自身、この書が気に入ったようで、次の詩に謳っています。
 
    大地うるはしイメージ 4
 
 村役場の五十畳敷に
 新築祝いの額を書く。
 「大地麗(だいちうるはし)」、太い最低音部(バス)。
 書いてみると急にあたりの山林が、
 刈つたあとの萱原が、
 まだ一二寸の麦畑のうねうねが、
 遠い和賀仙人の山山が
 目をさまして起き上がる。
 半分晴れた天上から
 今日は初雪の粉粉が
 あそびあそびじやれてくる。
 冬のはじめの寒くてどこか暖い
 大地のぬくもりがたそがれる。
 大地麗(だいちうるはし)を書いた私の最低音部(バス)に
 世界が音程を合わせるのだ。
 大地無境界と書ける日は
 烏有先生の世であるか、
 筆を投げてわたくしは考へる。

報道いろいろ。

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地方紙で光太郎智恵子関連、3件ヒットしています。
 

復興願い演奏会 郡山

福島民報 11月24日(月)9時14分配信
 
 ふくしま再生プロジェクトの会(代表・田母神顯二郎=けんじろう=明治大文学部教授)主催のイベント「ふくしま、ひとしずくの物語~再生への祈りを込めて」は23日、福島県郡山市のビッグアイ・市民交流プラザで開かれた。
 同会は、朗読やコンサートを通して被災者らに癒やしと憩いの場を提供。県外でチャリティーイベントを実施し、福島の現状を伝える活動を続けている。
 今回は、第一部で世界的口笛奏者の柴田晶子さんとメジャーデビューしているピアニスト松田光弘さん、本県出身で仮設住宅への慰問などを続けているバイオリニスト山本智美さんの3人によるミニ・コンサートを開催した。第二部では智恵子抄の朗読と、10月に東京都で実施したイベントの際に、県民に向けて寄せられた応援メッセージの紹介などが行われた。
 市内の仮設住宅の住民らも含め参加した約70人は、心に染みるコンサートの音色や朗読に静かに聞き入っていた。
 
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また、同じ『福島民報』さんでは、当方が成田空港まで見送りに行った、智恵子のまち夢くらぶさんパリ研修についても報道されました。

智恵子ファンがフランスへ

福島民報11月25日(火)10時24分配信
 
 福島県二本松市の市民団体「智恵子のまち夢くらぶ」は発会10周年を記念し、8日間の日程でフランス・パリを視察した。
 高村智恵子生誕の地・二本松で、智恵子と彫刻家・詩人で夫の光太郎の遺徳を顕彰している。今回は光太郎留学の地を一目見ようと視察を企画した。エッフェル塔やパリ滞在中に暮らしていた住宅、美術館などを訪れた。
 代表の熊谷健一さんは「町じゅうが博物館のようで、パリの人は日常的に文化芸術に触れている。私たちも見習いたい」と夢を語っていた。
 
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こういうこともニュースになるんですねぇ。
 
 
最後に「報道」というわけではないのですが、『神戸新聞』さんの一面コラムです。

正平調 2014・11・21

パラパラ漫画、である。ノートや教科書の隅に小さな絵を描いて、めくっていくと絵が動く。国語や算数の授業が、さらに高校の物理も大学の経済学も、図工の時間と化した覚えが、ないとは言わない◆このパラパラ漫画を使ったアニメ作品で今、引っ張りだこなのがお笑いタレントの鉄拳さんだ。NHKの朝の連続ドラマ「あまちゃん」に出てきたアニメと言えば、思い浮かぶ方も多いだろう◆インタビューを読むと、手書きにこだわり、1分間のアニメを作るのにおよそ360枚を描くという。1作品で最低2千枚というから、これは職人技の手仕事である◆その鉄拳さんのアニメが、きょうからJR西日本の駅や車内の画面で流れる。忘年会シーズンを前に、転落事故防止キャンペーンに一役買うそうだ。この冬はディズニーの新作宣伝も手がける多忙ぶりで、お笑いの方は休業中とか◆手仕事のイメージから、勝手に工房のような仕事場を想像してみる。例えば、高村光太郎の詩集「をぢさんの詩」にあるような。「冬日さす南の窓に坐(ざ)して蝉(せみ)を彫る/時処をわすれ時代をわすれ人をわすれ呼吸をわすれる」(「蝉を彫る」より)◆呼吸をわすれた作家の周りを、ゆったり時間が流れる。作品に、見る人がふと立ち止まる一こまを刻むために。パラパラ漫画の奥深さよ。
 
鉄拳さんと光太郎を結びつけるという発想は当方にはありませんでした(笑)。
 
引用されている詩「蝉を彫る」は昭和15年(1940)の作。すでに智恵子亡く、孤独なアトリエでの一コマです。
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    蝉を彫る
 
冬日さす南の窓に坐して蝉を彫る。
乾いて枯れて手に軽いみんみん蝉は
およそ生きの身のいやしさを絶ち、
物をくふ口すらその所在を知らない。
蝉は天平机(てんぴやうづくゑ)の一角に這ふ。
わたくしは羽を見る。
もろく薄く透明な天のかけら、
この蟲類の持つ霊気の翼は
ゆるやかになだれて追らず、
黒と緑に装ふ甲冑をほのかに包む。
わたくしの刻む檜の肌から
木の香たかく立つて部屋に満ちる。
時処をわすれ時代をわすれ
人をわすれ呼吸をわすれる。
この四畳半と呼びなす仕事揚が
天の何処かに浮いてるやうだ。
 
画像は昨年開催された「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」千葉展のポスターです。
 
ところで『神戸新聞』さんの「正平調」では、たび たび光太郎に触れて下さっています。お書きになっている方が光太郎ファンなのでしょうか?
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月26日
 
昭和46年(1971)の今日、新橋演舞場で開催されていた「新派十一月公演」が千秋楽を迎えました。
 
昼の部で、北條秀司脚本、水谷八重子さん主演の「智恵子抄」が演目に入っていました。
 
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「装幀画展Ⅱ~文学とアートの出逢い~」。

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昨日は港区麻布十番に行って参りました。
 
詳細がよくわからなかったので、事前にご紹介しませんでしたが、以下の展覧会が開催中です。

装幀画展Ⅱ~文学とアートの出逢い~

会 期 : 2014年11月19日(水)~11月30日(日)
会 場 : パレットギャラリー 港区麻布十番2-9-4
時 間 : 11:00~19:00
 
本の装幀は、文学を彩る美術として、古くから多くの人に愛され続けています。
23人の作家が自由に好きな本を選び、その装幀画を描いていただきました。
展示では、原画とともに装幀カバーに仕立てた文庫本を展示します。
個性あふれる作品と文学とのコラボレーションを楽しんでいただけたら幸いです。
 
 
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というわけで、オリジナルの装幀(ブックデザイン)の展覧会です。
 
出典作家・作品は上記画像にも載せましたが、文字にします。その方がネット検索にひっかかりますので。
 
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石居麻耶   パパ・ユーアクレイジー(ウィリアム・サローヤン・訳伊丹十三)
岩淵華林   この闇と光(服部まゆみ)
宇野亜喜良  悪魔の辞典(ピアス/西川正身・編訳)
大竹彩奈   氷点(三浦綾子)
大谷郁代   猫を抱いて象と泳ぐ(小川洋子)
蟹江杏     杏っ子(室生犀星)
財田翔悟   魍魎の匣(京極夏彦)
新藤杏子   春と修羅(宮澤賢治)
高橋千裕   失楽園(ジョン・ミルトン)
田嶋健太郎   智恵子抄(高村光太郎)
立木美江   山月記(中島敦)
中西静香   小さいおうち(中島京子)
中原亜梨沙   金子みすゞ詩集(金子みすゞ)
名古屋剛志   サヨナライツカ(辻仁成)
成田朱希   偽偽満州(岩井志麻子)
新倉佳奈子   草迷宮(泉鏡花)
野村直子   第七官界彷徨(尾崎翠)
深瀬優子   お縫い子テルミー(栗田有起)
まちゅまゆ    鏡の中の鏡(ミヒャエル・エンデ)
宮本順子   宮澤賢治童話集(宮澤賢治)
桃田有加里   供述によるとペレイラは……(アントニオタブッキ)
山科理絵   カイン"自分の弱さに悩む君へ"(中島義道)
山城有未   ZOO1(乙一)
 
 
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芸大日本画科ご出身の、田嶋健太郎氏という方が「智恵子抄」を出展なさっています。ありがたや。
 
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「智恵子抄」というと、大正浪漫ふうの縞の着物に日傘、手にはレモン、といったところがお約束ですが、そういう固定観念にとらわれていないところが、かえっていいと思いました。
 
他の出展作家の皆さんも、それぞれに力のこもった作品です。一人一点、というところで、妥協がないような気がしました。上記リストにある通り、古今東西の作品からのインスパイアとなっている点も良いと思います。
 
いつも同じようなことを書いていますが、数十年後、「高村光太郎? 誰、それ?」、「『智恵子抄』? 知らないなぁ……」ということにならないことを祈ります。
 
今週末まで開催されています。ぜひ足をお運びください。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月27日
 
昭和7年(1932)の今日、東京美術学校講堂で「黒田清輝胸像」が除幕されました。
 
光太郎肖像彫刻、一つの頂点です。
 
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しかし、この年、智恵子が自殺未遂。その後、完全に夢幻界の住人となり、光太郎もその対応に追われ、しばらくは彫刻も非常に寡作の時期が続くことになります。

長野県北部地震。

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先週22日の土曜日、長野県白馬村を震源に起こった最大震度6弱の長野県北部地震。負傷された方が出たり、建造物の倒壊があったりと、心が痛みますが、亡くなった方がいなかったというのが何よりでした。
 
昨日の『信濃毎日』さんの報道です。

善光寺の仁王像が破損 「吽形」衣の先端折れる

 長野市の善光寺で26日までに、仁王門にある仁王像の一部が壊れているのが見つかった。県北部で22日夜に起きた地震の影響とみられ、善光寺は今後、修復する。
 仁王像は、向かって左側が口を開けた「阿形(あぎょう)」、右側が口を閉じた「吽形(うんぎょう)」。善光寺事務局によると、壊れていたのは吽形がまとう細長い衣「天衣(てんね)」の先端部分。寄せ木造りの接ぎ目付近で折れ、長さ1メートルほどの天衣の先端部分が地面に落ちた。
 現在の仁王門は1918(大正7)年に再建されたもので、仁王像はそれに合わせて造られた。彫刻家の高村光雲(1852〜1934年)と、弟子の米原雲海(1869〜1925年)の合作。文化財には指定されていない。
 
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大事にはいたらずに済んだようでよかったと思います。この像は一丈六尺、5メートル近い像ですので、倒れれば山門自体も大破したでしょうし、人が下敷きにでもなったら、ひとたまりもありません。
 
ちなみにこちらが開眼当時のお姿。古絵葉書です。
 
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足もとのこの部分が、バッキリいってしまったようですね。
 
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まずは被災した方々の支援でしょうが、そのあたりが落ち着いたら、きちんとした修復が為されることを望みます。
 
しかし、記事を読んで気になったのは、最後の「文化財には指定されていない。」の一言。
 
たしかにその通りです。というか、光雲の代表作の一つ、「老猿」は国の重要文化財に指定されていますが、それ以外にあまたある、光雲作の仏像、銅像などの類で文化財指定がされているものはほとんどないのではないかと思います。有名な「西郷隆盛像」や「楠正成像」ですらそうです。光雲作に限らず、近代の仏像、銅像で文化財指定を受けているものは、やはりほとんどありません。
 
まだ「新しい」という感覚なのかも知れません。しかし今年は元号に換算すれば明治147年、大正103年、昭和89年です。そろそろ近代の作品も、どんどん文化財指定対象として考えていい時期ではないのでしょうか。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月28日
 
昭和24年(1949)の今日、山形市美術ホールで開催されていた「智恵子遺作切抜絵展覧会」が閉幕しました。
 
戦時中、焼失を懼れ、光太郎は智恵子の紙絵を山形、茨城取手、そして花巻の三ヶ所に分けて疎開させていました。そのうち山形の真壁仁に預けられたものの中から作品を選択、この展覧会が開催されました。
 
チラシ、パンフレット等お持ちの方、あるいはそれらがここに保管されている等の情報をお持ちの方は、こちらまでお知らせ願えれば幸いです。

いただきもの(その一)。

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全国の皆様から、いろいろと光太郎智恵子がらみの品々をいただいております。三回に分けてご紹介します。
 
まずは、『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡』という書籍をお書きになった、板橋区職員の坂本富江さんから、少し前に『都政新報』の10月17日号をいただきました。
 
以前にも玉稿の載った『都政新報』をいただきました。東京の自治体専門紙だそうです。
 
さて、今回のものは以下の通り。やはり坂本さんの玉稿が紙面を飾っていました。
 
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名文ですので引用させていただきます。決して手抜きではありません(笑)。 

人生はいつも始発駅 福島で自作の紙芝居を実演 いたばし観光センター 坂本富江

紙芝居を作るきっかけ
 
 人生には思いもかけない転機が訪れるものである。 
 自作の紙芝居を福島で演じることになった。多少の絵心は持ち合わせているが、まさか偉大な人の一生を紙芝居にするとは……。初めての挑戦である。
 事のきっかけは、昨年の10月に講演をさせていただいた福島県二本松市での高村智恵子をしのぶ第19回「レモン忌」であった。そこに列席されていた智恵子の母校、二本松市立油井小学校の伊藤雅裕校長先生の一言だ。
 「あの本の中の絵の感じで、小学校4年生が先輩・高村智恵子さんの生涯を理解できるような紙芝居か絵本があるといいんですが……」
 あの本とは、2年前に出版した自著『スケッチで訪ねる智恵子抄の旅』である。
 私の人生、こういう時、不思議と高村光太郎の詩『道程』が頭を出すのである。
 僕の前に道はない
 僕の後に道はできる
 
 そして一世を風靡した「今でしょ!」が不安を払拭させ、紙芝居作成という未知への挑戦が始まったのである。
 私は長いこと保育園に勤務していたので、紙芝居は教材として活用させていただいた。けれど、作るという知識・知恵とも全く乏しかったので、まずは本物の紙芝居を研究しながら、絵と文章を同時進行させることにした。
 未来を築く小学生へのメッセージとして、何が良いだろうか。一般的に語られている智恵子論ではなく、自著でもこだわったように、時々を精いっぱい生き抜いた輝きの姿や志を貫いた強固な精神、人間性あふれるエピソード等、人が人として生きていく根源の有り様を智恵子の生涯を通して書いた。
 明治―大正―昭和の時代背景や風俗などぶつかる壁も多く、その都度、図書館に駆け込む日々でもあった。私の故郷、山梨が舞台であったNHKの朝ドラ『花子とアン』は時代背景が重なり、とても参考になった。
 4月から作業を始め、9月中旬で一応のめどが附き、友人たちの助けを借りて、原画と文章のコピーを台紙に貼る作業が終了した。34枚の大作を前に、皆で「万歳!」と爆笑の渦であった。
 昨年の秋、登山経験のない私が、もがきながら登った安達太良山の山頂に立った時の心地と同じ爽やかさであった。
 
次はどんな挑戦が待っているか
 
 待ちに待った福島入りは快晴の9月。新幹線が郡山を過ぎ、本宮に差し掛かる頃には安達太良山の上に青く澄んだ「ほんとの空」がまるで両手を広げて迎えてくれているようだった。隣席のおばあちゃんが「土地が喜んでいるんだよ」。この言葉に勇気をもらった。
 初日は地元二本松市の「智恵子のまち夢くらぶ」主催の智恵子純愛通り記念碑第6回建立祭で紙芝居を実演した。周囲は収穫期を迎える黄金の田んぼが広がり、コスモスが風に揺れる大自然の中であった。
 2日目、いよいよ油井小学校の4年生の総合学習授業に参加した。創立141年の歴史を誇るかのように、「始学の松」、しだれ桜、プラタナスの巨樹が空に高くそびえながら迎えてくれた。
 さて、私は二つの宝物を持参した。一つははるか昔、小学4年の時、私が書いた書道。二つ目は、小学3年の5月にやはり自分で作った新聞。何と「青空新聞」と命名されている。
 この宝物が生徒さん達との距離をぐーんと縮めてくれ、元4年生は年を忘れて紙芝居を読むことが出来たのである。大切に保管してくれた両親(健在)に感謝。また、後日、長時間じっと見てくれた生徒さんたち一人ひとりからのお手紙が届き、感動である。
 このような貴重な体験へ導いて下さった伊藤校長先生、智恵子のまち夢くらぶ代表の熊谷健一氏、紙芝居制作に快く協力してくれた友人達や職場の仲間にも感謝いっぱいである。
 紙芝居は小学校に寄贈した。「本校の宝物にします」と伊藤校長先生がおっしゃってくれた。
 今年は『道程』の詩が世に出て100年。光太郎、智恵子が結婚して100年。来月11月26日にはNHKの特別企画で、この2人が放映されるとのこと、大いに楽しみである。
 私にとって人生はいつも始発駅。さて、今度はどんな挑戦が待っているか今からワクワクである。
 
 
素晴らしい文章ですね。
 
ちなみに坂本さん、「多少の絵心は持ち合わせているが」とありますが、多少どころではなく、智恵子と同じ太平洋画会(現・太平洋美術会)に所属され、100号の油絵を描かれています。
 
こうした活動を通し、若い世代が光太郎智恵子の世界にどんどん興味を持って欲しいものです。坂本さんもそういうことを考えられての「挑戦」でしょう。ありがたいことです。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月29日
 
昭和27年(1952)の今日、夕食に浅草米久の牛鍋を食べました。
 
米久さんは、浅草で今も続く牛鍋屋の老舗。大正11年(1922)に光太郎は「米久の晩餐」という詩を書いて、絶賛しました。嵐山光三郎氏の『文士の料理店(レストラン)』 (新潮文庫)などに詳細が書かれています。
 
十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)制作のため、岩手太田村から上京したのがこの年の10月。その米久さんを久しぶりに訪れました。
 
しかし、前日には同じ米久さんの新宿支店で牛鍋を食べています。数え70歳にしてのこの健啖ぶり、ある意味尊敬に値します(笑)。

いただきもの(その二)。

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最近のいただきもの、2回目です。
 
青森市ご在住の彫刻家・田村進氏から、なんと、彫刻をいただいてしまいました。
 
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一昨年の作品で、「レリーフ習作・巨星光太郎」。光太郎の肖像彫刻です。
 
大きさは38㌢×28㌢、材質はブロンズで、ずしりと重たいものです。材料費だけでも何万円とか……。恐縮です。
 
昨年の連翹忌にて、画像を大きく拡大したものをパネルに入れ、会場内に展示いたしました。もとは昭和24年(1949)10月、花巻郊外太田村の山小屋を訪れた写真家の濱谷浩が撮影した下記の写真をモチーフにしています。
 
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光太郎、数え67歳です。
 
美術雑誌『花美術館』の昨年4月号に、この彫刻が大きく紹介されています。
 
そちらから引用させていただきます。
 
類稀なる一人の芸術家には、そこへ至る道筋が神の計らいの如く予(あらかじ)め用意されているのではないだろうか。然るべき時に、出会うべくして出会う人物、その作品と書物、諸々の事象までもが綿密に配線された”芸術の糸”で硬く結ばれ、やがて自己世界の確立と昇華の時を得る。田村氏と光太郎の出会いはまさに”神のはからい”のそれであった。本作は、光太郎との強い縁(えにし)で結ばれた魂の軌跡が深く刻まれ、敬慕なる純正の輝きが奥深い世界から煌めきを放っている。本作は、光太郎の芸術と人となりを再び掘り起こし、心に刻み続けてきた崇敬の念、この心震わす繊細な表現に、光太郎と初めて出会った氏の心の昂(たかま)り、感慨が我々の胸奥にも甦るかのようだ。光太郎は七十三才のまま氏が年長になる程に長年温めてきた氏の計らいが見事成就し、実に味わい深い。これも神の計らいやも知れぬ。
 
田村氏は昭和28年(1953)10月21日の、十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)の除幕式にご参加、さらにその2日後に青森の野脇中学校で行われ、光太郎も演壇に立った文芸講演会で光太郎の講演を聴かれたそうです。
 
さらに田村氏は、光太郎の、レリーフではない胸像も制作されています。題して「冷暖自知光太郎山居」。こちらも完成し、鋳造にまわされたとのこと。
 
さて、レリーフ。こんな立派なものを私するのは申し訳ありません。広く皆様に観ていただきたく存じます。そこで、来年4月2日の連翹忌では展示するつもりですし、御依頼があれば貸し出し等も行いたいと思います。こちらまでご一報下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月30日
 
昭和51年(1976)の今日、瑠璃書房から奥平英雄著『晩年の高村光太郎』が刊行されました。
 
奥平は東京国立博物館に勤務していた美術史家。十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)制作のため上京した中野のアトリエに足繁く通い、晩年の光太郎に親炙しました。その回想録です。
 
元は昭和32年(1957)に二玄社から刊行されましたものですが、復刊。限定140部、二重函、天金の特装本も刊行されました。
 
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特装本には付録として、カセットテープがついています。こちらは昭和28年(1953)12月の録音。奥平と光太郎の対談です。「彫刻と人生」のタイトルで、翌年1月、ラジオの文化放送でオンエアされました。光太郎の肉声が聴ける貴重な資料です。

いただきもの(その三)。

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福島は二本松で智恵子顕彰活動をされている智恵子のまち夢くらぶ代表の熊谷氏から、パリ研修のレポートをいただきました。
 
10月27日から11月3日までの行程で、「高村光太郎留学の地芸術の都パリ研修」と銘打ち、光太郎が住んでいたアパルトマン兼アトリエ、光太郎が訪れた場所、光太郎と関係の深い人物ゆかりの場所などを廻られたそうです。
 
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こちらは光太郎が暮らしていた建物。
 
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Boulevard de Raspail (ラスパイユ大通り)とRue Campagne-Premièr(カンパーニュ・プルミエール通り)の交わるあたりです。
 
光太郎が暮らしていた明治41年(1908)から42年(1909)頃、同じ建物の階上にはリルケが住み、ロダンもここを訪れていました。また、近くにはロマン・ロランも住み、「ジャン・クリストフ」を書いていたとのこと。
 
光太郎はアトリエに近いアカデミーグランショミエール(L'académie de la Grande Chaumière)に籍を置き、クロッキーを学びましたが、もっぱら見物に歩き回っていたといいます。
 
数年前に、光太郎帰国後の明治45年(1912)に雑誌『旅行』に載せた「曽遊紀念帖」という文章を見つけました。
 
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これを読むと、パリで何をやってたんだ? と突っ込みたくなりますが、こうした雰囲気のパリと、伝統と格式に縛られた日本のあまりの差異に打ちのめされ、かえって何もできないでいたのです。
 
いずれ当方もゆっくりとパリでの光太郎の足跡を追ってみたいと思っています。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月1日
 
平成19年(2007)の今日、テレビ東京系「美の巨人たち」で、「高村光太郎 彫刻 手」が放映されました。
 
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メインは大正期のブロンズ「手」でしたが、十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)の手にも触れました。
 
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中村屋サロン美術館開館記念講演会「中村屋サロンの芸術家たち」レポート。

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昨日は新宿方面に行って参りました。
 
用件は二つありましたが、まずは新宿文化センター小ホールで開かれた、中村屋サロン美術館開館記念講演会「中村屋サロンの芸術家たち」を拝聴。
 
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講師は大原美術館館長にして美術史家の高階秀爾氏でした。
 
スクリーンを使って画像を大きく提示しつつ、碌山荻原守衛をはじめ、新宿中村屋に集った芸術家たちのプロフィール、作品、美術史的位置づけなどを非常に分かりやすくお話下さいました。
 
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光太郎については、明治43年(1910)に書かれた評論「緑色の太陽」を軸に、同時代の美術家に与えた影響の大きさを語られました。
 
「緑色の太陽」は、日本初の印象派宣言ともいわれるもので、以下のような部分があります。
 
 僕は芸術界の絶対の自由(フライハイト)を求めてゐる。従つて、芸術家のPERSOENLICHKEITに無限の権威を認めようとするのである。あらゆる意味に於いて、芸術家を一箇の人間として考へたいのである。
 
 人が「緑色の太陽」を画いても僕は此を非なりとは言はないつもりである。僕にもさう見える事があるかも知れないからである。「緑色の太陽」がある許りで其の絵画の全価値を見ないで過す事はできない。絵画としての優劣は太陽の緑色と紅蓮との差別に関係はないのである。この場合にも、前に言った通り、緑色の太陽として其作の格調を味ひたい。
 
その他、柳敬助、戸張孤雁、斎藤与里、中村彝、鶴田吾郎らについて詳述。特に中村彝の画風に見られるルノワールの影響などのお話は、非常に興味深いものでした。
 
また、中村屋サロン美術館さんからのお知らせもありました。現在開催されている開館記念特別展「中村屋サロン―ここで生まれた、ここから生まれた―」は来年2月までですが、その後、サロンを形成した作家一人一人を取り上げていくとのこと。
 
次回企画展は柳敬助を中心にするそうです。柳といえば、やはり光太郎と親しく、また、妻の八重は日本女子大学校での智恵子の先輩。光太郎と智恵子が知り合うきっかけを作った一人です。これも観に行かなければ、と思いました。
 
いずれ光太郎も単独で扱っていただきたいものです。
 
さて、開館記念特別展「中村屋サロン―ここで生まれた、ここから生まれた」。まだ御覧になっていない方は、ぜひ足をお運びください。光太郎の油絵「自画像」、ブロンズの「手」「裸婦坐像」が展示されています。
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【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月2日
 
昭和26年(1951)の今日、花巻郊外太田村の山口小学校で、開校記念日の学芸会が行われ、光太郎が寄贈した式場用幔幕が披露されました。
 
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光太郎がデザイン案を出した校章が大きく染められています。この日の児童向け光太郎講話から。
 
 幕に染めた『校章』のことですが、『校章』は学校の印で、帽章としても使われますが、山口の学校の『校章』を、さて何にしようと考えて、結局、栗を採り入れることにしました。
 栗はここの名産です。栗の実は食べるとおいしい。栗はおいしいものの代名詞で、うまいものを栗のようだというくらいです。木は硬くて長持ちします。それに、玉の中央から上に伸びているのは雌しべで、これから大きくなるという意味です。実はふっくらと丸いのがいいのです。
 栗のことを思つていたら、、みなさんの顔も栗の実のようにつやつやして見えます。
 そういうわけで、これを採り入れたのです。
(浅沼政規著『山口と高村光太郎先生』平成7年(1995)㈶高村記念会より)
 

「えがく展 7人の絵描きと10冊の本」。

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一昨日、新宿文化センターにて、中村屋サロン美術館開館記念講演会「中村屋サロンの芸術家たち」を拝聴して参りましたが、その後、同じ新宿区の神楽坂に寄ってから帰りました。
 
神楽坂というと、「一見さんお断り」の高級料亭、というイメージですが(笑)、そういう分野ではなく、ギャラリーです。以下の展覧会が催されています。

えがく展 7人の絵描きと10冊の本

会 期 : 2014年11月29日(土)~12月14日(日)
会 場 : ギャラリー「ondo kagurazaka」 新宿区矢来町123 第一矢来ビル1階かもめブックス
時 間 : 月~土 10:00~22:00  日 11:00~20:00
 
11月29日(土)に開店をむかえる「かもめブックス」の中に開かれるギャラリー「ondo kagurazaka」。
そのこけら落とし展として開催される本展示は、大阪・東京から7名の作家が参加し、本の中に眠る美しい文章からインスピレーションを受け、絵で表現します。
テーマとなった文章は「石川啄木・宮城道雄・夏目漱石・高村光太郎・島崎藤村・夢野久作・上村松園・種田山頭火・田山花袋・太宰治」の本から選びました。
 
参加作家
 東京より……松園量介・竹谷満・日笠隼人
 大阪より……wassa・三尾あすか あづち・山内庸資
 
12月6日(土)、7日(日)の2日間、参加作家によるライブペイントや似顔絵など、かもめブックス店内でアートイベントを開催します。
 
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というわけで、行って参りました。
 
東京メトロ東西線神楽坂駅2番出口(矢来口)を出て、左折。かもめブックスさんという書店兼カフェがあり、その奥がギャラリー「ondo kagurazaka」さんです。「一見さんお断り」の高級料亭ではありませんが、実におしゃれです。さすが神楽坂。
 
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先週、麻布十番で観てきた「装幀画展Ⅱ~文学とアートの出逢い~」は、「装幀」として描かれ、本の選択も各作家さんにまかされていましたが、こちらはブックデザインというわけではなく、それぞれの本からのインスパイアというか、オマージュというか、そういったイラストでした。本の選択はギャラリーさんの指定だそうで、10冊の本に対し、7人のイラストレーターの皆さん(20~30代の若手)が1枚ずつ出品しています。即売も行っています。
 
光太郎に関しては、『智恵子抄』。さらにその中に収められている詩「あなたはだんだんきれいになる」がお題でした。
 
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会場内にはお題に出された書籍も並んでいました。
 
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『智恵子抄』を選んでいただいて、ありがたい限りです。
 
日曜を除き、夜10時までオープンしています。一つのフロアに書店とカフェとギャラリーが同居していて、珈琲でも飲もうかと思ったのですが、帰りの高速バスの時間の関係で、ゆっくりできなかったのが残念でした。ぜひ足をお運びいただき、当方の代わりにゆっくり珈琲でもご堪能下さい(笑)。
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【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月3日
 
昭和12年(1937)の今日、山形の銀行家・長谷川吉三郎にはがきを書きました。
 
文面は以下の通りです。
 
拝復 昨日見事な林檎たくさんいただきありがたく存じ上げました。今日おてがミ及書留小包にて軸其他たしかに落手、先日の色紙が立派に表装せられたのに驚きました、 おてがミの趣は承知いたしました、不日お手許に御返送申上る心組で居ります、 とりあへず御返事まで 艸々
 
「色紙」は、この少し前に丑年生まれの長谷川の依頼でかいた右の画像のものです。それを長谷川が表具屋さんに軸装してもらい、さらに光太郎に箱書きを依頼した、その返答が上記の葉書です。
 
ちなみに長谷川は牛の彫刻も光太郎に依頼しましたが、光太郎、そちらは断っています。翌年に歿する智恵子がゼームス坂病院に入院中で、創作意欲を欠いている部分があったようです。
 
牛の色紙軸装は「長谷川コレクション」の代表作の一つとして、山形美術館に現存し、時折、他館の企画展に貸し出しています。

写真歴史博物館 企画写真展 「土門拳 二つの視点」第二部「風貌」。

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昨日は六本木に行って参りました。目的地は東京ミッドタウン内のFUJIFILM SQUAREさんにある写真歴史博物館です。
 
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以下の展覧会が開催中です。

「土門拳 二つの視点」 第二部「風貌」。

開 期  2014年12月2日(火)~ 2015年2月2日(月) イメージ 1
時 間  10:00 ~ 19:00(入館は18:50 まで)
会 場  FUJIFILM SQUARE(フジフイルムスクエア) 写真歴史博物館
      港区赤坂9丁目7番3号(東京ミッドタウン・ウェスト)
入場料 無料
主  催 富士フイルム株式会社
協  力 土門拳記念館
 
第一部「こどもたち」が10月から開催されていましたが、今週から第二部「風貌」が始まりました。
 
土門撮影の、光太郎を含む26人の肖像写真が展示されています。
 
光太郎以外は以下の通り。
 
志賀直哉 谷崎潤一郎 幸田露伴 島崎藤村 永井荷風
小林秀雄 林芙美子 牧野富太郎 柳田国男 三島由紀夫
山田耕筰 志賀潔 九代目市川海老蔵 初代水谷八重子
十四世千宗室 滝沢修 濱田庄司 イサム・ノグチ 朝倉文夫
安田靫彦 小林古径 上村松園 安井曾太郎 藤田嗣治 
梅原龍三郎
 
これらは昭和28年(1953)にアルスから刊行された土門拳写真集『風貌』に収められた物だと思います。
 
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光太郎の写真は、昭和15年(1940)に駒込林町のアトリエで撮影されたもの。
 
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昨年開催された「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展でも出品させていただきましたが、木彫の「鯉」(未完)を制作中の写真です。
 
ほとんど唯一、光太郎が木彫を制作している瞬間を撮影したもので、貴重なショットです。
 
この『風貌』には、光太郎が推薦文を寄せています。
 
 土門拳はぶきみである。土門拳のレンズは人や物を底まであばく。レンズの非情性と、土門拳そのものの激情性とが、実によく同盟して被写体を襲撃する。この無機性の眼と有機性の眼との結合の強さに何だか異常なものを感ずる。土門拳自身よくピントの事を口にするが、土門拳の写真をしてピントが合つているというならば、他の写真家の写真は大方ピントが合つていないとせねばならなくなる。そんな事があり得るだろうか。これはただピントの問題だけではなさそうだ。あの一枚の宇垣一成の大うつしの写真に拮抗し得る宇垣一成論が世の中にあるとはおもえない。あの一枚の野口米次郎の大うつしの写真ほど詩人野口米次郎を結晶露呈せしめているものは此の世になかろう。ひそかに思うに、日本の古代彫刻のような無我の美を真に撮影し得るのは、こういう種類の人がついに到り尽した時にはじめて可能となるであろう。
 
他にも光太郎は、前年の昭和27年(1952)に書いた「夢殿救世観音像」という文章でも、土門を賞賛し、エールを送っています。
 
 土門拳が法隆寺夢殿の救世観音をとると伝へられる。到頭やる気になつたのかと思つた。土門拳は確かに写真の意味を知つてゐる。めちやくちやな多くの写真家とは違ふと思つてゐるが、中々もの凄い野心家で、彼が此の観音像をいつからかひそかにねらつてゐたのを私は知つてゐる。
(略)
 写真レンズは、人間の眼の届かないところをも捉へる。平常は殆と見えない細部などを写真は立派に見せてくれる。それ故、専門の彫刻家などは、細部の写真によつてその彫刻の手法、刀法、メチエール、材質美のやうな隠れた特質を見る事が出来て喜ぶ。土門拳の薬師如来の細部写真の如きは実に凄まじいほどの効果をあげてゐて、その作家の呼吸の緩急をさへ感じさせる。人中、口角の鑿のあと。衣紋の溝のゑぐり。かういふものは、とても現物では見極め難いものである。
 その土門拳が夢殿の救世観音を撮影するときいて、大いに心を動かされた。彼の事だから、従来の文部省版の写真や、工藤式の無神経な低俗写真は作る筈がない。
(略)
 救世観音像も例によつて甚だしい不協和音の強引な和音で出来てゐる。顔面の不思議極まる化け物じみた物凄さ、からみ合つた手のふるへるやうな細かい神経、あれらをどう写すだらう。土門拳よ、栄養を忘れず、精力を蓄へ、万事最上の條件の下に仕事にかかれ。
 
ただし、この撮影が不可能となり、この文章もお蔵入りになってしまいました。
 
このように土門を高く評価していた光太郎ですが、自身が撮影されることは忌避する部分がありました。
 
 写真と言うものは、あまり好きではない。いつか土門拳という人物写真の大家がやってきた。ボクを撮ろうとしたわけだ。自分は逃げまわって、とうとううつさせなかった。カメラを向けられたら最後と、ドンドン逃げた。結局後姿と林なんか撮られた。写真というものは何しろ大きなレンズを鼻の前に持ってくる。この人はたしか宇垣一成を撮ったのが最初だったが、これなどは鼻ばかり大きく撮れて毛穴が不気味に見える。そして耳なんか小さくなっているし、宇垣らしい「ツラ」の皮の厚い写真だった。カメラという一ツ目小僧は実に正確に人間のいやなところばかりつかまえるものだ。
 
昭和27年(1952)の『岩手日報』に載った談話筆記「芸術についての断想」の一部です。これは『風貌』に載った「鯉」制作中の写真のことではなく、昭和26年(1951)の5月に、土門が花巻郊外太田村の山小屋に撮影に来た時のことを言っているようです。笑えますね。
 
さて、写真歴史博物館さんでの展示、来年2月まで開催されています。ぜひ足をお運びください。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月4日
 
昭和58年(1983)の今日、東京国立近代美術館の工芸館で開催されていた「モダニズムの工芸家たち―金工を中心にして」が閉幕しました。
 
光太郎の実弟にして鋳金の人間国宝だった高村豊周の作品も8点、展示されました。図録の表紙も豊周の作品「挿花のための構成」(大正15年=1926)です。
 
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日本近代文学館展示「近代文学の名作・大正」。

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一昨日、六本木東京ミッドタウン内のFUJIFILM SQUAREさんにある写真歴史博物館にて、企画写真展 「土門拳 二つの視点」第二部「風貌」を観たあと、目黒区駒場東大前の日本近代文学館に行きました。
 
閲覧室での調べ物が主でしたが、調べ物終了後、複写をお願いしている間に、2階の展示ホールで行われている以下の展示も観て参りました。

近代文学の名作・大正

開催期間  2014年11月29日(土)~2015年3月28日(土)
開館時間  午前9:30~午後4:30(入館は4:00まで)
観 覧 料  一般 100円 団体割引はありません
休 館 日  日・月曜日、年末年始(12月26日~1月5日)、第4木曜日(1月22日、2月26日、3月26日)、
        特別整理期間(2月17日~21日(第三週))
 
日本近代文学館では春・秋2回の特別展の他に、主に複製資料から構成し、日本近代文学の代表的な作家や作品を通史的に紹介する通常展を年2回開催しています。
わが国の近代史上、元号「大正」はわずか15年の短い期間でしたが、明治維新以降に始まった急速な西欧化が実を結び、一挙に花開いた時代でした。
大正期の文学は、夏目漱石や森鷗外ら明治作家の作風の完成期であるとともに、雑誌「白樺」を中心に個人主義・人格主義を基にした文学が展開された時期でもありました。さらに、大正デモクラシーや労働運動が起こり、その中でプロレタリア派・新感覚派など新しい文学が芽生えました。
通常展示「近代文学の名作・大正」は、この日本近代文学の発展期である大正時代の文学の諸相や代表的な作家たちの功績を、当館所蔵の複製原稿・書簡、書籍・雑誌等で紹介するものです。
主な出品資料
<原稿・草稿(すべて複製)>
夏目漱石 「こゝろ」   森鷗外 「北条霞亭」   谷崎潤一郎  「痴人の愛」   
有島武郎  「生れ出る悩み」   室生犀星  「小景異情」   葛西善蔵  「暗い部屋にて」   
広津和郎  「志賀さんと私」   宇野浩二  「苦の世界」   菊池寛  「受難華」   
芥川龍之介  「蜘蛛の糸」「侏儒の言葉」「歯車」   宮沢賢治  「雨ニモマケズ」「セロ弾きのゴーシュ」
 
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残念なことに、光太郎個人の草稿や著書は展示されていませんでしたが、光太郎が寄稿していた『白樺』や、森鷗外、宮澤賢治、佐藤春夫など、光太郎関連の深い作家にまつわる品々が並んでいました。
 
ところで、日本近代文学館さんと同じ駒場公園内に、旧前田侯爵邸があります。一昨日は天気もよく、紅葉が実に見事でした。もう師走なのですが、まだまだ都内は紅葉が見られます。
 
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【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月5日
 
昭和17年(1942)の今日、NHKラジオで光太郎の詩「軍神につゞけ」「山道のをばさん」が朗読されました。
 
「軍神につゞけ」は午前7:00~の「愛国詩」という番組で、朗読は俳優の故・岩田直二。JOBK(大阪放送局)の制作でした。なお、この詩はのちに「みなもとに帰るもの」と改題され、詩集『をぢさんの詩』(昭和18年=1943)に収録されました。
 
「山道のをばさん」は午後9:00~の「詩の朗読」という番組で、JOAK(東京放送局)から和田放送員の朗読でオンエアされました。この詩は前月に日本文学報国会の事業で「日本の母」として顕彰された山梨県穂積村の井上くまを謳った詩です。
 
この時期、太平洋戦争開戦一周年が近づき、大本営や大政翼賛会は、光太郎らの戦争詩をプロパガンダとして国民の戦意昂揚に活用していました。

The Premiere Vol.3 夏のオール新作×初演コンサートCD。

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音楽CDの新譜です。 
ジョヴァンニ・レコード 2014/12/01発売 定価2,700円+税
 
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今年8月30日に、紀尾井ホールで行われた同名のコンサートのライヴ録音です。三好真亜沙さん作曲、女声アンサンブルjuri さん演奏の「女声合唱とピアノのための「冬が来た」」が含まれています。
 
混声合唱とピアノのための「平行世界、飛行ねこの沈黙」   作詩:宮岡絵美 作曲:増井哲太郎
 1 風
 2 うたひ手
 3 今日わたしは星をかった
 4 平行世界、飛行ねこの沈黙
指揮:雨森文也  ピアノ:平林知子 合唱:CANTUS ANIMAE
 
男声合唱とピアノのための「シーラカンス日和」  作詩:水無田気流 作曲:田中達也
 1 午前四時の自動販売機 
 2 名前 
 3 シーラカンス日和
 4 烏唄 
 5 音速平和
指揮:伊東恵司  ピアノ:水戸見弥子  合唱:なにわコラリアーズ
 
女声合唱とピアノのための「冬が来た」   作詩:高村光太郎 作曲:三好真亜沙
 1 冬が来る
 2 冬が来た
 3 孤独が何で珍しい
 4 冬の奴
指揮:藤井宏樹  ピアノ:五味貴秋  合唱:女声アンサンブルJuri 

 
混声合唱とピアノのための「いのち」  作詩:工藤直子 作曲:名田綾子
 1 花マルで 待つ
 2 深呼吸
 3 さようならこんにちは
 4 祝日 
 5 いのち
 6 もしも
指揮:清水敬一  ピアノ:小田裕之  合唱:松原混声合唱団
 
無伴奏混声合唱のための「花は咲く」  作詩:岩井俊二 作曲:菅野よう子 編曲:北川 昇  
指揮:清水敬一  合唱:Premiere Choir (参加者全員による合同合唱団)
 
 
それぞれ、一流の合唱団による好演です。ぜひお買い求めを。
 
また、楽譜も出版されていますので、全国の合唱団の皆さん、演奏会やコンクールなどでどんどん取り上げて下さい。特に「女声合唱とピアノのための「冬が来た」 」を扱っていただければ、このブログにてご紹介します。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月6日
 
明治25年(1892)の今日、光太郎の父、光雲に対し、「西郷隆盛像木型制作に従事し格別勉励につき」ということで、慰労金45円が下賜されました。
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