青森レポートの2回目です。
7月29日、定宿にしている十和田湖山荘さんで、朝、5時前に目覚めました。それでも前夜8時過ぎには眠ってしまったので、睡眠時間は十分です。旅先ではいつもこんな感じです。早速、温泉で朝風呂。その後、朝食は7時半ということなので、その前にいったん宿を出て、あちこち動きました。今回はレンタカーを借りていたので、少し足が伸ばせます。
まず、何はなくとも湖畔の乙女の像。前日は宿に伝えてあったチェックイン予定時刻を過ぎての十和田湖到着で、もう日も暮れていましたので、行っていませんでした。親子連れなど、他にもすでに散策している人がいましたが、いつもの昼間のように混雑はなく、ゆっくり見られました。
波打ち際には鴨がのんびりと餌を探していました。
さて、像と対面。昨秋以来、9ヶ月ぶりです。
その顔は、やはり智恵子を彷彿とさせられます。
そして若き日に作ったブロンズの「手」にも通じる像の手。
光太郎は、二人の像の間にできるこの空間に注目してほしい、と語っていました。
少し引いて、平成6年(1994)に建立された「十和田湖畔の裸像に与ふ」詩碑を通しての眺め。
こちらが詩碑の碑面。
その後、近くの十和田神社に参拝、道中安全と、この地の平安を祈願しました。
まだ朝食までには時間があるので、やはり湖畔の宇樽部地区に車を向けました。ここには「東湖館」という宿がかつてあり、昨日レポートした浅虫温泉の「東奥館」同様、光太郎が昭和27年(1952)の下見の際に1泊、乙女の像の除幕式があった翌28年(1953)にも1泊しています。除幕の際は日記には「宇樽部泊」としか書いていないのですが、おそらくここでしょう。
浅虫の「東奥館」はもはや建物自体なくなっていますが、宇樽部の「東奥館」は、昭和50年代ぐらいで営業はやめたものの、当時の建物が残っています。そうと気づかずに何度かその前を通っていたのですが、今回、事前に調べてそれを知り、見に行くことにしていました。
乙女の像のある休屋地区から5㌔㍍あまり、ものの数分で着きました。平成18年(2006)にトンネルが開通したためです。
こちらが東湖館です。
看板も残っていました。「A級旅館」とあります。当時の格付けでしょうが、それに恥じない立派な造作です。大正13年(1924)の建築で、皇族方や大町桂月なども宿泊したとのこと。また、昭和42年(1967)公開、加山雄三さんや司葉子さんが出演された映画「乱れ雲」のロケに使われたそうです。監督は成瀬巳喜男。前年には「智恵子抄」をモチーフに使い、安達太良山の麓の福島県本宮を舞台にした「こころの山脈」(山岡久乃主演)の監督も務めています。不思議な縁を感じました。
周囲を歩いていろいろな方向から撮影しました。非常にいいレトロな感じです。せっかくの由緒ある建物ですが、現在は廃墟。何とか有効活用する方法はないものでしょうか。
↓おそらくこの棟に光太郎も宿泊したのではないかと思いました。
昭和28年(1953)の乙女の像除幕に際し、光太郎の近くにいて、下見にも同行したり、像の製作中も何くれとなく世話を焼いたりした草野心平が作った詩「高村光太郎」の一節です。
たしかにおれは十和田の宿屋での晩。智恵子の裸かをつくろうと決めた。
(略)
湖の。あの一種の絶景を見て。
あの絶景のなかへなら女の裸をつくりたいと。
それはほんとうにそう思つた。
そしてその晩。
自分の部屋へもどつてきて。電気を消して。
独り寝つかれずにじつとしていたとき。智恵子はおれにささやいた。
この湖のほとりなら。あたくしをつくつて下さい。
そんなささやきをきいた思いをおれがして。いや。おれがきつぱり決めたので智恵子がそんな気持ちになつたのかもしれなかつた。
(略)
あの十八のモデルのからだを媒体にしておれは智恵子の精神をつくる。
精神は肉体であるその実在を。
かたちにする。
(略)
湖の。あの一種の絶景を見て。
あの絶景のなかへなら女の裸をつくりたいと。
それはほんとうにそう思つた。
そしてその晩。
自分の部屋へもどつてきて。電気を消して。
独り寝つかれずにじつとしていたとき。智恵子はおれにささやいた。
この湖のほとりなら。あたくしをつくつて下さい。
そんなささやきをきいた思いをおれがして。いや。おれがきつぱり決めたので智恵子がそんな気持ちになつたのかもしれなかつた。
(略)
あの十八のモデルのからだを媒体にしておれは智恵子の精神をつくる。
精神は肉体であるその実在を。
かたちにする。
この「十和田の宿屋」というのが、東湖館か、翌日に泊まった休屋の観光ホテルのどちらかです。
東湖館の前はすぐ湖畔です。
さて、東湖館を後に、十和田湖山荘に戻りました。帰りはトンネルのできたバイパスでなく、光太郎も車で通ったであろう御倉半島を通る旧道を使いました。途中にあったキャンプ場から撮った宇樽部の集落がこちら。
さて、宿に戻って朝食、チェックアウト。メインの目的である岩手県花巻市太田地区振興会の皆さんと、十和田湖国立公園協会さんや、十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会さんなど地元関係者との交流会に向け、ふたたび休屋地区に車を走らせました。
会場となっている十和田市の施設「十和田湖観光交流センターぷらっと」に車を駐め、まだ時間があるので周囲を散策しました。
「ぷらっと」の向かいにある「喫茶憩い」。先日のこのブログでご紹介しましたが、NPO法人十和田奥入瀬郷づくり大学でガイドを務める蝦名隆さんが貸し出した光太郎関連の蔵書が並んでいます。残念ながらまだ開店前でしたので、外から撮らせていただきました。
秋田県寄りに建つ「十和田ビジターセンター」。初めて足を踏み入れました。
動植物など、自然科学系の展示がメインなのですが、一角に古い写真が展示してありました。
乙女の像、建立当初の数年間、厳冬期には雪囲いをしていたという話は知っていましたが、このようにしていたと初めて知りました。当方のイメージとは違いました。
女優の原節子さんが写っている写真もありました。原さんといえば、昭和32年(1957)の東宝映画「智恵子抄」(熊谷久虎監督)での智恵子役です。十和田湖にもいらしていたのか、と驚きました。
花巻の皆さんが到着する時刻が近づきましたので、いざ、「ぷらっと」へ。以下、また明日。
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月31日
昭和30年(1955)の今日、茨城に住む実弟の藤岡孟彦から鉄道便で桃が届きました。
孟彦は光雲の四男ですが、藤岡家に養子に行きました。植物学を修め、戦後には茨城県の鯉渕学園に赴任。こちらは現在も公益財団法人農民教育協会鯉淵学園農業栄養専門学校として続いています。
旧制一高時代には明治の文豪・大町桂月の子息で、昆虫学者となった大町文衛とも机を並べています。大町桂月と言えば、乙女の像は、本来、桂月ら、十和田湖を広く世に紹介したりした三人の顕彰モニュメント。不思議な縁を感じます。