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Channel: 高村光太郎連翹忌運営委員会のブログ
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光太郎終焉の地、中野アトリエ。

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イメージ 1先月30日、東京は中野区にある、中西利一郎氏のお宅にお邪魔して参りました。

氏のお父様は、水彩画家の故・中西利雄氏。小磯良平、猪熊弦一郎らと新制作協会を結成しました。同会は昭和11年(1936)、文部省による美術団体統合に異を唱える若き画家達によって結成された団体。後に佐藤忠良、舟越保武らの彫刻家も同人として加わりました。光太郎自身は加わりませんでしたが、近い位置にいた美術家の団体といえます。

右は2年ほど前に見つけたのですが、同会の機関誌的な雑誌『新制作派』の第5号。昭和15年(1940)の発行です。この中に『高村光太郎全集』未収録の「彫刻について」という短い文章が掲載されています。

そして表紙は中西利雄氏の絵です。

その中西利雄氏は、昭和23年(1948)、数え49歳で早世。その直前に竣工していたアトリエは、使われずじまいだったそうです。

その後、せっかくのアトリエを使わないでおくのももったいないということで、貸しアトリエとして使用。昭和26年(1951)頃には、彫刻家のイサム・ノグチが借りています。ノグチはその頃、昨年亡くなった李香蘭こと山口淑子さんと結婚していました。ただし、ノグチ夫妻はここに居住はしていなかったそうです。

その後、昭和27年(1952)の秋から、昭和31年(1956)4月2日まで(途中、一時的に岩手に帰ったり、赤坂山王病院に入院したりした時期もありますが)、花巻郊外太田村から出てきた光太郎がここに居住。「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が制作されました。

裸婦像完成後は再び太田村に帰るつもりでいた光太郎ですが、健康状態がそれを許しませんでした。昭和28年(1953)に一時的に太田村に帰ったものの、また上京、以後、太田村には戻れませんでした。

さらに、光太郎歿後約1年、ここで最初の『高村光太郎全集』の編集が行われました。中心になったのは、当会顧問・北川太一先生、そして草野心平。そして当会の運営する連翹忌の第1回(昭和32年=1957)も、ここで行われています。

さて、中西家アトリエ訪問。当方、外から拝見したことは以前にもあったのですが、中に入れていただいたのは初めてでした。当主の利一郎氏が時折連翹忌にご参加下さっていて、「見にいらっしゃい」的なことをおっしゃってくださっていたのですが、中々機会がありませんでした。

利一郎氏、ひさしぶりに今年の連翹忌にご参加下さり、さらに連翹忌ご常連で、智恵子の学んだ太平洋画会会員の坂本富江さんを交え、今回の訪問が実現しました。

坂本さんとJR中野駅で待ち合わせ、記憶を頼りに歩くこと約10分で到着。

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上記3枚は裏からの眺めです。

表に回るとこうです。住宅密集地なので、超広角レンズでも使わないと全体像はうまく撮影できません。

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訪いを告げ、敷地に入れていただきました。

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瀟洒な建物ですが、もう築70年ほどになりますから、やはり傷みが見られます。

そしていよいよ内部へ。

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故・高村規氏撮影の光太郎の遺影が出迎えてくれました。

こちらは『高村光太郎全集』に掲載されているアトリエ内部の図面です。

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基本的にはこの通りのままでした。ただし、光太郎が使っていた彫刻の道具類、家具類、身の回りの物などは残っていません。また、やはり超広角レンズでもなければ全体像は撮れません。

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このあたりに制作中の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が立っていました。

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窓は北向き。造形作家のアトリエでは基本です。

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ここに光太郎が起居し、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を造り、そして最期の時を迎えたかと思うと、「感慨深い」どころではありませんでした。やはりその場所の空気に触れることで、見えてくるものがあります。何が見えたかというと、うまく言葉で表せませんが。

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その後、当時の写真、光太郎が遺した中西利雄夫人宛の書簡、夫人に託した買い物メモなどを拝見しました。いずれも活字になったものやコピー、画像等は拝見したことがありますが、実物は初めてでした。また、光太郎が当時中学生の利一郎氏にくれたお年玉ののし袋――原稿用紙を折りたたんで作り「のし」と書いたもの――には、思わず笑いました。

というわけで、有意義な訪問でした。

しかし、中西家としては、いろいろ課題もあります。やはり築70年ほどで傷みの目立つこの建物を、今後どうするかという問題。あくまで中西利雄のアトリエであって、光太郎のアトリエというわけではないということもありますし。

花巻郊外旧太田村の山小屋は、中尊寺金色堂のように套屋で覆って保存されています。また、福島二本松の智恵子の生家は、大規模補修復元工事を入れました。そうなると、個人の力では不可能ですね。「色即是空」「諸行無常」とは申しますが……。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月8日

昭和20年(1945)の今日、疎開していた花巻の宮澤家で、水彩画「牡丹」を描きました。

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後に花巻病院長・佐藤隆房に送られたこの絵は、現存が確認されている中で、日本画を除いて最大の水彩画です。他にも同様の作品がこの時期に描かれましたが、他は8月10日の花巻空襲の際に焼けてしまいました。

現在、この絵は花巻高村光太郎記念館で開催中の企画展「山居七年」で展示中です。

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