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Channel: 高村光太郎連翹忌運営委員会のブログ
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『智恵子のまち夢くらぶ 発会10周年記念誌』。

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智恵子の故郷・福島二本松で智恵子の顕彰活動を続けられている「智恵子のまち夢くらぶ」さんから、『発会10周年記念誌』をいただきました。
 
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平成17年(2005)の結成からの年表、会員・会友の皆さんの文章、さらに会のイベントなどで協力された方々の寄稿も多く、読みごたえがあるものです。ほぼ全ページカラーで、ビジュアル的にも面白く感じました。
 
拙稿も載せていただきました。二本松市長さんなどのお偉方の玉稿より先に掲載していただき、恐縮しております。そういうことならもっと真剣に書いたのですが(笑)。
 
また、昨年逝去された光太郎の令甥・高村規氏が、ご生前、会に送られた書簡なども掲載されています。会の皆さんがパリの光太郎の足跡を辿る研修旅行に行かれるというので、資料を送付なさった際のもの。しみじみとした気持ちにさせられました。
 
こうした地道な活動がないと、地元であっても先人の功績は忘れ去られて行ってしまいます。智恵子の名を100年後、200年後に伝えるためにも、さらに頑張っていただきたいものです。
 
 
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 1月22日
 
昭和30年(1955)の今日、長野県の上木島村・往郷村・穂高村組合立中学校(現・安曇野市立穂高東中学校)で、光太郎が題字を揮毫した荻原守衛作の彫刻「坑夫」が除幕されました。
 
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この題字のプレートが光太郎の揮毫です。
 
守衛を援助した新宿中村屋の相馬黒光による碑陰記がこちら。
 
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曰く、
 
「坑夫」は明治四十年荻原守衛が滞仏中の作品で我国に近代彫刻の道を拓いた不滅の傑作である
この度作者の郷里に学舎が設けられたのを祝って遺族荻原家が原作を提供し学校が之を銅像として建てたのはその雄渾な精神を以て深く子弟を薫育し郷土の宝として永久にこの作を伝えん為であって誠によろこばしい事である
昭和廿九年四月 相馬黒光
 
もともとこの彫刻は、黒光の文章にもあるとおり、守衛滞仏中の習作です。明治40年(1907)11月、留学でロンドン滞在中だった光太郎が、同じく留学でパリにいた守衛のもとを訪れ、粘土で作られたこの彫刻を目にし、「ぜひ石膏に取って日本に持ち帰るように」と進言したそうです。約50年を経て、その彫刻の題字を揮毫したというわけです。
 
ただし、もはや光太郎の健康状態は、この除幕式への参加を許しませんでした。

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