『朝日新聞』さんの夕刊で連載中の、女優・黒木瞳さんのエッセイ「黒木瞳のひみつのHちゃん」。先週の木曜日は、以下の内容でした。
来年も歩く この遠い道程のため
“僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る”
当たり前じゃん、ってちょっと乱暴な感想を抱く少女だった頃。それでもこの、高村光太郎の「道程」(原形)という詩が好きだった。“どこかに通じてゐる大道を僕は歩いてゐるのぢやない”っていう1行目。誰かが決めてくれた人生を歩いているのではない、っていうその言葉から漲(みなぎ)るエネルギーが、私の心にバンバンつき刺さった。
実は久々にこの詩を思い出させてくれたのがKさん。兄のような人生の先輩のような存在だ。そのKさんがこの間「僕は70まで生きるとしたら、あと7年。何回のクリスマス、何回のGW、何回の誕生日、何回の春っていう風に考える。365日×7の夕食。無駄な人とは夕食はしたくないんだ」って私の目を真っ直(す)ぐ見つめて熱く語った。
人生は、タラタラと時間に追われて過ごすのではなく、1日1日を具体的に意味のある日として歩くのだと、彼の瞳が訴えていた。影響力のある人っているけど、まさにKさんが、そう。人を虜(とりこ)にする魔法のようなオーラがKさんから迸(ほとばし)っている。
そしてKさんは話を続けた。「地位も名誉も財産も運もない人がいて、他人から見たら、その人は可哀想な人生ねって思われたとする。でも、人の人生を他人が判断することではない。その人にとってどうだったか、ということが全てだから。僕は、自分の人生の終焉(しゅうえん)に、僕自身が僕の人生“マル”だったっていうフダをあげたい。“マル”のフダをあげられる人生を送りたい。それが、僕の夢だよ」と。
Kさんが言うところのご自分のクリスマスはあと7回。今日は7分の1のクリスマス。勿論(もちろん)、あと7回は言葉のアヤ。今日も、いい時間を満喫していらっしゃるに違いない。
“歩け歩け/どんなものが出て来ても/乗り越して歩け”と、詩は今も力強く私に訴えかけてくる。2015年も、どんなものが出て来ても乗り越して歩いていかなければ……。
今年、執筆から100周年を迎えた、光太郎の代表作「道程」を扱って下さいました。ありがたや。
「道程」は、大正3年(1914)2月9日に今知られている詩型の原型となる長大な詩を執筆、それが3月5日に雑誌『美の廃墟』に発表され、10月25日には詩集『道程』が出版されています。この時点でオリジナルの102行あった「道程」はわずか9行に圧縮されました。
『道程』100周年の最後に、大きくクローズアップしてくださり、ありがたいかぎりです。
「2015年も、どんなものが出て来ても乗り越して歩いていかなければ……。」そのとおりですね。
ところで「道程」原型。当方ブログからコピペして使って下さるのは結構ですが、詩型は変えないで下さい。長くて読みにくいからと言って、途中で勝手に1行空きを設定したり、読みにくいだろうからと、もともとないところにルビを( )で書いたり、そういう行為は詩型の改変に当たります。
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月28日
昭和13年(1928)の今日、作曲家の箕作秋吉に書簡を送りました。
啓上、文部省へも此の通りなのを送りました。甚だ妙なものが出来てしまひましたが、ともかくも御送りいたします、言葉など十分御斧正を願ひます、御注意下さるところはいくらでもなほします、もつと違つた題材のも未完であるのですが、そのうち出来たらそれもおめにかけます。十二月廿八日 高村光太郎 箕作秋吉様
これに先立つ12月11日の『朝日新聞』です。![イメージ 3]()
新国民歌六つ 紀元節に公表
新しき時代の子の歌として今後毎年選定されてゆくことになつた文部省選定国民歌の打合せ会は既報の如く十日文相官邸で開かれたが文部当局、文壇人、楽壇人との間で協議をした結果第一回国民歌として左の六曲を作製、明春紀元節の佳き日に公表する事になつた、新国民歌は大体一章六行四章から成るもので題目は未定であるが左の六テーマのもとに作製される筈
△大陸の歌 作詞北原白秋、作曲山田耕筰△日本の自然 作詞斎藤茂吉、作曲大木正夫△農村に取材した国民生活 作詞佐藤春夫、作曲池内友次郎△自然と生活 作詞高村光太郎、作曲箕作秋吉△日本女性 作詞茅野雅子、作曲信時潔△海洋の歌 作詞土岐善麿、作曲堀内敬三
新しき時代の子の歌として今後毎年選定されてゆくことになつた文部省選定国民歌の打合せ会は既報の如く十日文相官邸で開かれたが文部当局、文壇人、楽壇人との間で協議をした結果第一回国民歌として左の六曲を作製、明春紀元節の佳き日に公表する事になつた、新国民歌は大体一章六行四章から成るもので題目は未定であるが左の六テーマのもとに作製される筈
△大陸の歌 作詞北原白秋、作曲山田耕筰△日本の自然 作詞斎藤茂吉、作曲大木正夫△農村に取材した国民生活 作詞佐藤春夫、作曲池内友次郎△自然と生活 作詞高村光太郎、作曲箕作秋吉△日本女性 作詞茅野雅子、作曲信時潔△海洋の歌 作詞土岐善麿、作曲堀内敬三
記事の通り、文部省が音頭を取って、「日本国民歌」なる企てがスタートしました。日中戦争はすでに激化、太平洋戦争前夜といえる時期で、国民精神高揚のため、これに先立つ昭和11年(1936)には日本放送協会大阪中央放送局がラジオ
番組「国民歌謡」の放送を開始しており、光太郎作詞、飯田信男作曲、徳山歌唱の「歩くうた」(昭和15年=1940)も後にラインナップに組み込まれます。国としても同様の運動の展開に本腰を入れ始めたわけです。
光太郎は「日本国民歌」用に、「こどもの報告」という詩を執筆、箕作がこれに曲を付け、翌年発表。関種子歌唱によるレコードも発売されました。
ただし、他のコンビによる作品ともども不評で、1回限りで計画はポシャりました。
一
めがさめる、とびおきる。
晴れても降つても、一二三。
朝のつめたい水のきよさよ。
こころも、からだも、はつらつ。
お父さま、お早うございます。![イメージ 5]()
お母さま、お早うございます。
みんなもお早う。
テテチー テテチー
テタテ チト テタタ ター
かしこきあたりを直立遙拝。
それからご飯だ、ああうれし。
かうしてぼくらのその日がはじまる。
その日がはじまる。
晴れても降つても、一二三。
朝のつめたい水のきよさよ。
こころも、からだも、はつらつ。
お父さま、お早うございます。
お母さま、お早うございます。
みんなもお早う。
テテチー テテチー
テタテ チト テタタ ター
かしこきあたりを直立遙拝。
それからご飯だ、ああうれし。
かうしてぼくらのその日がはじまる。
その日がはじまる。
二
日がくれる、戸をしめる。
勝つても負けても、ヂヤンケンポン。
夜のたのしいうちのまとゐよ。
こころも、からだも、のびのび。
お父さま、おやすみなさいませ。
お母さま、おやすみなさいませ。
みんなもおやすみ。
タタタタ タテタテ チー
チテチテ タテタト ター
お国のまもりへ直立敬礼。
それからお寝まき、ああらくだ。
かうしてぼくらのその日がをはるよ。
その日がをはるよ。
勝つても負けても、ヂヤンケンポン。
夜のたのしいうちのまとゐよ。
こころも、からだも、のびのび。
お父さま、おやすみなさいませ。
お母さま、おやすみなさいませ。
みんなもおやすみ。
タタタタ タテタテ チー
チテチテ タテタト ター
お国のまもりへ直立敬礼。
それからお寝まき、ああらくだ。
かうしてぼくらのその日がをはるよ。
その日がをはるよ。
上記は、昭和18年(1943)に刊行された光太郎詩集『をぢさんの詩』収録詩型。作曲されたものとは若干の異同があります。
このあたりの詩型の変遷など、非常に興味深い背景があり、当方刊行の冊子『光太郎資料』で、3回にわたり考察を掲載中です。来春刊行予定の『光太郎資料43』で終了の予定です。ご希望の方は方はこちらまで。