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Channel: 高村光太郎連翹忌運営委員会のブログ
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新聞雑誌各紙誌から。

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まずは仙台に本社を置く『河北新報』さん。先週15日(金)の「阿武隈川物語」という連載で、光太郎智恵子に触れて下さいました。 

<阿武隈川物語>(36)新しい女育んだ山河

 みちのくの入り口の阿武隈川沿いは古来、歌や俳句、詩の題イメージ 1材として親しまれた。時に人生にもたとえられる川の流れは、詩情をかき立てる。豊かな文学を育んできた流域を散策した。(角田支局・会田正宣)
 あれが阿多多羅山、
 あの光るのが阿武隈川。
 あまりに有名な「智恵子抄」の「樹下の二人」。「ほんとの空」の下、二本松市を歩くと、高村智恵子が夫の光太郎を、喜々として故郷を案内した姿が目に浮かぶようだ。
 酒造業の実家が破産し、統合失調症を発症した智恵子。美しい詩はかえって、智恵子の悲劇を浮き彫りにする。光太郎は後に、「智恵子抄は徹頭徹尾くるしく悲しい詩集であった」と述懐している。
<朗読大会を開催>
 精神を病んだ智恵子は、地元ではタブーだった。智恵子イメージ 2没後50年の1988年、同市の理容業熊谷健一さん(68)が旧安達町商工会青年部で記念事業を企画。「智恵子のふるさと」のまちづくりの一歩になった。
 熊谷さんは「智恵子のまち夢くらぶ」を結成し、講座や行事を開催。没後80年の2018年は智恵子抄朗読大会を開いた。
 熊谷さんは「完璧な人間はいない。葛藤を乗り越え、美と愛に生きた智恵子と光太郎の生き方が人々の胸に迫る」と魅力を語る。
 芸術と恋愛に生きた智恵子は「新しい女」の一人だった。高校時代から智恵子抄を熟読する同市の詩人木戸多美子さん(60)は「画家を目指す女性はいなかった。おとなしく見えて、内に激しい情熱を秘めた人だった」と敬意を込める。
<愛テーマに詩作>
 智恵子が光太郎を追って訪れた上高地(長野県)で2人は婚約した。光太郎が結婚後初めて、愛をテーマに妻に贈った詩が、詩集「道程」に所収の「山」だ。
 「無窮」の力をたたへろ
 「無窮」の生命をたたへろ
 私は山だ
 私は空だ
 木戸さんは「光太郎には自然と一体化する表現が多いが、そ
イメージ 3れは智恵子との出会いがもたらした。東京育ちの光太郎が、深く広い福島の自然を喜んだ」と解釈する。「樹下の二人」に、生命の循環や、山から流れた水が大河を形成するイメージを読み取るという。
 山を愛する人は、克己、自立といった近代的価値観と人生観を投影する人が少なくない。詩に彫刻に、芸術家として山のような存在である光太郎。では、智恵子は奔流と言うべきか。
 智恵子に、雑誌のアンケートに答えたこんな遺文がある。「生命と生命に湧き溢(あふ)れる浄清な力と心酔の経験、盛夏のようなこの幸福、凡(すべ)ては天然の恩寵(おんちょう)です」
 智恵子は、安達太良山と阿武隈川に育まれた。
[高村智恵子]1886~1938年。旧姓長沼。日本女子大に進学、洋画家を志す。平塚らいてうの雑誌「青鞜」創刊号の表紙絵を描く。光太郎との夫婦生活は自由恋愛を貫き、入籍は智恵子の死の5年前。統合失調症を発症後、紙絵を制作した。

昨秋、二本松市で開催された「高村智恵子没後80年記念事業 全国『智恵子抄』朗読大会」に触れています。記事にある木戸多美子さんは、その審査員を務められた方です。


続いて、『茨城新聞』さん。3月17日(日)の一面コラムです。 

いばらき春秋 2019.3.17

その自転車道は「五輪への道」と呼ばれる。筑西市を縦断する五行川の左岸5.7㌔に及ぶ堤上。喜多(旧姓川)真裕美さん(38)はここから、オリンピックへ羽ばたいた▼下館二高で競歩を始め20004年アテネ、08年北京、12年ロンドンと3大会に出場した。北京まで海老沢製作所(筑西市)に所属、高校時代から親しんだ自転車道が練習場所だった▼歩き続ける彼女を見守ったのは、はるか南東の名峰筑波のみではない。地元経済人団体の同友クラブは「夜も安全なように」と照明灯を設置してくれた。喜多さんは「この道がなければ今の私はない」と振り返る▼「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」。人生はしばしば道に例えられる。詩人・彫刻家の高村光太郎は詩「道程」で、自ら人生を切り開いていく決意を高らかにうたった▼卒業シーズン、進学や就職へと巣立ち行く若者たちはどんな道を歩むのだろう。試練もあろう。大切なのは、自転車道を黙々と歩いた少女のように夢を諦めないことだ▼五輪のへの道に沿う桜並木のつぼみが膨らんできた。間もなく花開き、旅立つ者たちを祝福してくれるだろう。喜多さんは今、石川県小松市の粟津温泉「喜多八」で若女将(おかみ)を務める。道は続いている。

成人式の頃と、卒業・入学シーズンには定番のように「道程」が取り上げられます。ありがたいことです。


さらに『週刊新潮』さん。「文庫双六」という連載で、先週、今週と2週にわたって光太郎の名が。 

【文庫双六】『智恵子抄』の舞台となった房総半島の“淋しい漁村”

 獅子文六はフランス人の女性と結婚し、大正十四年に娘が生まれた。奥さんは病気になり、フランスに帰国後、亡くなった。
  そのあと獅子文六は男手ひとつで娘を育てたが、男やもめの暮しに疲れて再婚する。『娘と私』はその事情を描いた家庭小説。昭和三十六年にはNHKでテレビドラマ化され大人気になった(北沢彪(ひょう)主演)。
  娘は身体が弱かった。そのため、獅子文六は小学生の娘を連れ、ひと夏を九十九里浜の片貝(かたかい)で過ごした。
  昭和十年頃。当時、東京の人間は避暑に湘南や房総に行くことが多かった。湘南の場合は別荘が普通だったが、房総では漁師や農家の家を借りた。
  獅子文六も鰯漁が盛んな片貝漁港に近い漁師の家を借りた。
  空気はいい。魚はうまい。牛乳や卵も新鮮。娘はたちまち元気になった。「私」も海辺の暮しが気に入る。
  とくに漁師料理「なめろう」が好きで毎晩、これで晩酌したほど。
  房総半島の海辺の町にはいまでもひなびた昭和の漁村の面影が残っている。その風景に惹かれ、私は五十代の頃、中年房総族と称し、よく房総を旅した。
  片貝にも行った。ここは高村光太郎と妻イメージ 5の智恵子ゆかりの地と知った。昭和九年、光太郎は精神を病んだ智恵子を片貝漁港に近い真亀納屋(まがめなや)の親類の寓宅に預けた。週に一度、薬や食料を持って東京から見舞いに行く。当時はこのあたり、淋しい漁村だった。
  詩集『智恵子抄』に収められた「千鳥と遊ぶ智恵子」はここを舞台にしている。
 「人つ子ひとり居ない九十九里の砂浜の 砂にすわつて智恵子は遊ぶ 無数の友だちが智恵子の名をよぶ。 ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――」
  現在、真亀の浜辺にこの詩碑が建てられている。
  かつてこの片貝まで東金からの九十九里鉄道という軽便(けいべん)鉄道があった。昭和三十六年に廃線になったが可愛い、いい鉄道だった。いま遊歩道が作られている。

[レビュアー]川本三郎(評論家)
1944年、東京生まれ。文学、映画、東京、旅を中心とした評論やエッセイなど幅広い執筆活動で知られる。著書に『大正幻影』(サントリー学芸賞)、『荷風と東京』(読売文学賞)、『林芙美子の昭和』(毎日出版文化賞・桑原武夫学芸賞)、『白秋望景』(伊藤整文学賞)、『小説を、映画を、鉄道が走る』(交通図書賞)、『マイ・バック・ページ』『いまも、君を想う』『今ひとたびの戦後日本映画』など多数。訳書にカポーティ『夜の樹』『叶えられた祈り』などがある。最新作は『物語の向こうに時代が見える』。
 新潮社 週刊新潮 2019年3月7日号 掲載 

【文庫双六】光太郎と賢治の“意外な接点”――梯久美子

 高村光太郎が詩集『智恵子抄』を出版した1941年はイメージ 4、太平洋戦争が始まった年である。真珠湾攻撃のニュースに高揚し、〈この日世界の歴史あらたまる。アングロサクソンの主権、この日東亜の陸と海とに否定さる〉(「十二月八日」)と詠ったことはよく知られている。
  45年4月の空襲で東京のアトリエが焼失、光太郎は岩手県花巻町(現在の花巻市)の宮沢清六の家に身を寄せた。清六は宮沢賢治の弟である。
  光太郎は生前の賢治に一度だけ会っている。26年12月、上京した賢治は光太郎のアトリエを訪ねた。夕刻になってからの突然の訪問で、手の離せない仕事があった光太郎は翌日来てくれるように言って玄関先で別れた。だが、賢治はそれっきり訪ねてこなかったという。
  無名の賢治は当時30歳、すでに名の知れた詩人で彫刻家だった光太郎は43歳。おそらく賢治は遠慮したのだろう。
  37歳で賢治が死去した後、光太郎は賢治の詩を高く評価し、全集の編纂にもかかわった。
  そうした縁から賢治の弟・清六と親しくなり、空襲で焼け出されたとき、清六を頼って花巻に疎開したのである。
  清六の著書『兄のトランク』には、その当時を回想した文章が収録されている。疲れ果てた様子で宮沢家にやってきた光太郎は、ていねいなもてなしを受けて元気を取り戻すが、8月10日、花巻に大規模な空襲があり、宮沢宅も焼けてしまう。
  戦後の光太郎は、花巻の郊外に小屋を建て、7年間、独居する。
  戦時中に戦意高揚詩を多数書いたことへの自責の念からと言われているが、その場所が花巻だったのは、玄関先で顔を合わせただけに終わった賢治との縁からだった。
  終戦直後、光太郎は宮沢家の避難先を見舞い、その後も長い間、賢治と清六の父のために山羊の乳を届けたという。
[レビュアー]梯久美子(かけはし・くみこ ノンフィクション作家) 新潮社 週刊新潮 2019年3月14日号 掲載

最後の一文、若干、勘違いがあるようですが……。


他に『信濃毎日新聞』さんにも関連記事が出ているのですが、また日を改めてご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

秋の彼岸が来て、或る朝芙蓉の葉に風が鳴る音を聞くと、私は生きかへつたやうに木を彫る事をおもふ。秋から冬にかけて木彫の仕事をするたのしさは言ふべくもない。心が澄み、身に生気が満ち、手は能く物の円みを知り、鑿は殆ど一個の生きものとなる。
散文「制作」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

ちょうど半年ずれた時期の文章ですが、あしからず。

とにかく夏の暑さに弱かった光太郎でしたが、それだけでなく、夏場は湿度が高すぎて木彫用の鑿や彫刻刀が悲鳴をあげるというのです。


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