先週、H氏賞詩人で宮沢賢治の研究家としても知られる入沢康夫さんの訃報が出ています。
入沢康夫さん死去 詩人・宮沢賢治研究
実験的な作風で1960年代以降の現代詩をリードした詩人で、宮沢
賢治研究の第一人者としても知られた入沢康夫(いりさわ・やすお)さんが10月15日に亡くなった。86歳だった。
松江市出身。仏文学者で明治大教授を務めた。55年に詩集「倖せそれとも不倖せ」を発表。68年の詩集「わが出雲・わが鎮魂」では、古事記などを踏まえた神話的世界を先鋭的な表現で作り出し、60年代以降の現代詩を代表する存在の一人となった。同作で読売文学賞を受賞。82年の詩集「死者たちの群がる風景」で高見順賞、94年の「漂ふ舟」で現代詩花椿賞など受賞多数。98年に紫綬褒章、2008年に日本芸術院会員。
宮沢賢治の研究では「新校本宮澤賢治全集」の編集委員を務めた。宮沢賢治学会イーハトーブセンターの代表理事を務め、宮沢賢治賞も受けた。
(『朝日新聞』2018/11/30)
光太郎と交流のあった賢治の研究家ということで、平成11年(1999)の『賢治研究』に掲載された「賢治の光太郎訪問」など、二人の交流についても論考を残されています。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
【折々のことば・光太郎】
此の多くの無惨の死者が、若し平和への人類の進みに高く燈をかかげるものとならなかつたら、どう為よう。
散文「小倉豊文著「絶後の記録」序」より 昭和24年(1949) 光太郎67歳
小倉豊文は明治32年(1899)生まれの元広島大学名誉教授。千葉県生まれですが(千葉には小倉姓、意外と多くあります)、旧制広島文理科大学卒業後、同校助教授だった昭和20年(1945)8月6日に、原爆投下に遭いました。奥様はその後、原爆症で亡くなり、その経緯を綴ったのが『絶後の記録』です。