当会顧問・北川太一先生のご著書をはじめ、光太郎関連の書籍を数多く上梓されている文治堂書店さんが刊行されているPR誌――というよりは、同社と関連の深い皆さんによる文芸同人誌的な『トンボ』の第5号が届きました。奥付の発行日は1月15日となっています。
元青森テレビアナウンサーの川口浩一氏が、「十和田
湖「乙女の像」秘話 ~太宰治が結ぶ隠れた絆~」という文章を寄せられています。川口氏、一昨年には同局の特別番組「「乙女の像」への追憶~十和田国立公園指定八十周年記念~」のプロデュース的なこともなさいました。
「乙女の像」は、青森十和田湖畔に立つ、光太郎最後の大作。「十和田国立公園功労者記念碑のための裸婦像」というのが正式名称ですが、略して「十和田湖畔の裸婦(群)像」、通称「乙女の像」です。
元々が十和田湖周辺の国立公園指定15周年を記念し、十和田湖の景勝を世に知らしめるために功績のあった、作家・大町桂月、元知事・武田千代三郎、元地元村長・小笠原耕一の三氏を讃えるモニュメントとして企画されました。その時点での知事が、津島文治。太宰治の実兄です。
そして、地元の高校の校歌を作詞した縁で、たまたま十和田を訪れていた佐藤春夫が、津島知事に相談を受けます。どんなものを造ったらよいか、誰に依頼すればよいか、など。
津島知事の実弟・太宰は、昭和11年(1936)、第二回芥川賞をぜひ獲らせてくれるよう、書簡で懇願したことが有名です。津島知事としては「弟がいろいろご迷惑をおかけして……」という気持ちもあって、佐藤を下にも置かない歓待ぶりだったようです。ちなみに太宰は乙女の像プロジェクトが立ち上がる前に自裁しています。
そして佐藤がモニュメントの制作者として推挙したのが光太郎。佐藤と光太郎のつきあいは古く、大正3年(1914)に光太郎が佐藤の肖像画を描いた頃に遡ります。他にも光太郎を推す声は方々からあがり、津島知事もその方向でゴーサインを出します。光太郎への折衝の際には、佐藤が光太郎に長い手紙を書きました。「十和田湖に光太郎以外の制作物が立てられては、日本の恥だ」的な。
そうして実現した「乙女の像」。確かに太宰の存在がなければ、ありえなかったかもしれません。川口氏の文章、そうした経緯が簡略に記されています。
それから、前号より当方が連載を持たせていただいております。題して「連翹忌通信」。だいたいこんな流れで光太郎顕彰活動を執り行っていますよ、的な内容で始めました。前号は昨年で61回目を迎えた連翹忌の歴史を書かせていただきました。今号は、連翹忌の際にお配りしている当会刊行の『光太郎資料』や、高村光太郎研究会さん発行の『高村光太郎研究』に載せている「光太郎遺珠」(筑摩書房さんの『高村光太郎全集』が完結した平成10年(1998)以降に見つかり続けている、光太郎詩文の集成)について。
特に、光太郎書簡について詳述しました。『高村光太郎全集』完結の時点で、3,101通が収録されていましたが、現在、通しで振ったナンバーは3,412。それ以外に諸事情によりナンバリングしていないものが50通ほどあります。これだけ見つかると、いろいろ未知だった事柄も見えてきました。『全集』完結時点で不明だった光太郎にとって重要な事項の日付が特定できたり、こんな人物とも交流があったのか、という人物宛の書簡が見つかったりといったところです。
詳しくは同誌をご覧下さい。版元の文治堂書店さんの連絡先は下記の通りです。頒価は400円だそうです。
ちなみに、今春4月2日(月)開催予定の第62回連翹忌にご参加下さった方には、今号、それから前号もお配りするつもりで居ります。
第62回連翹忌につきましては、また近くなりましたらご案内申し上げます。
【折々のことば・光太郎】
木を彫る秘密は絶えず小刀を研ぐにあり、切味を見せんが為にあらず、小刀を指の如く使はんが為なり。
散文「彫刻十個條」より 大正15年(1926) 光太郎44歳
東京美術学校在学中には既に木彫から塑像へと軸足を動かしていた光太郎ですが、大正の半ば頃から昭和初期にかけ、再び木彫を手がけました。