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Channel: 高村光太郎連翹忌運営委員会のブログ
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甲信レポートその4 四尾連湖。

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12/2(土)、3(日)、甲信地域を歩いておりましたレポートの最終回です。

光太郎の足跡が残る南巨摩郡富士川町上高下地区をあとに、再び甲府盆地に下りました。その後、笛吹川を渡り市川三郷町へ。かつて市川大門町だったエリアです。ここからまた山中に分け入ることしばし、次なる目的地、四尾連(しびれ)湖を目指しました。ここには光太郎の足跡が残っているわけではありませんが、光太郎を敬愛していた詩人・野澤一が山小屋生活を送っていました。野澤の詩碑も建てられています。

野澤に関しては、何度かこのブログでご紹介いたしましたが、改めて。光太郎より21歳年下の明治37年(1904)の生まれ。法政大学中退後、数え26歳の昭和4年(1929)から同8年(1933)まで、故郷山梨の四尾連湖畔に丸太小屋を建てて独居自炊、のち上京しています。昭和9年(1934)には、四尾連湖で書きためた詩200篇あまりを『木葉(こっぱ)童子詩経』として自費出版。昭和14年(1939)から翌年にかけ、面識もない光太郎に書簡を300通余り送りました。いずれも3,000字前後の長いもの。昭和20年(1945)に、結核のため亡くなりました。

結局、野澤と光太郎は会わずじまいだったようですし、野澤から光太郎に送った厖大な手紙の返事も数通、ほぼ一方通行という感じでした。しかし、この不思議な詩人のことを気にとめていたようで、光太郎は昭和15年(1940)、雑誌『歴程』第10号に連載していた随筆「某月某日」で、一回分の半分を、野澤について費やしています。

 木つ葉童子と自称する未見の詩人野澤一氏から二百回に亙つて毎日手紙をもらつたが、これで一先づ中止するといふ事である。彼は古今の人物を語り、儒仏を語り、地理地文を語り、草木を語り、春夏秋冬を語り、火を語り、わけても水を語り、墓地を語り、食を語り、女を語り、老僧を語り、石を語り、土を語り、天を語り、象を語り、つひに大龍を語る。甲州しびれ湖畔の自然を語る時、彼の筆は突々として霊火を発する。この詩人の人間に対する愛の深さには動かされた。童子独特の言葉づかひに偏倚の趣はあるが、それが又彼の東洋の深と大とを語るにふさはしくもある。彼は西歌的な叡智を小とし、東洋の底ぬけの無辺際を説く。彼は私を叱咤する。私の詩を読んでゐて、こんなものでいいのかといふ。こんなところに跼蹐してゐてどうするのだといふ。それを思つて肌に粟を生ずるといふ。私は此の人にどう感謝していいか分らない。二百通に及ぶこの人の封書を前にして私は胸せまる思がする。そしてこれこそ私にとつての大龍の訪れであると考へる。私は此の愛の書簡に値しないやうにも思ふが、しかし又斯かる稀有の愛を感じ得る心のまだ滅びないのを自ら知つて仕合せだと思ふ。私は結局一箇の私として終るだらうが、この木つ葉童子の天来の息吹に触れた事はきつと何かのみのり多いものとなつて私の心の滋味を培ふだらう。もう此の叱咤の声も当分きけないのでもの足らぬ気がする。私は折にふれて此等の手紙をくりかへし読まうと思つてゐる。不思議な因縁があるものだ。

光太郎をしてここまで言わしめるのは、なまなかのことではないように思われます。


さて、四尾連湖。思っていたより小さな湖でした。

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野澤がここで仙人のような暮らしを送った背景には、かれが敬愛していた19世紀アメリカの詩人、ヘンリー・ディビッド・ソローの存在があります。ソローはマサチューセッツ州 コンコード市郊外のウォールデン池畔にやはり丸太小屋を建て、2年あまりの自給自足生活を送りました。近年はエコロジストのはしりとして注目されています。これも近年、野澤は「日本のソロー」とも称されるようになり、日本ソロー学会などでも取り上げられています。また、連翹忌にもご参加下さった坂脇秀治氏の野澤に関する編著のタイトルは『森の詩人 日本のソロー・野澤一の詩と人生』

四尾連湖畔には2軒の旅館があるのみで、民家はありません。そのうちの1軒、水明荘さんに愛車を駐め、野澤の詩碑の場所を訊きました。てっきり湖畔のわかりやすいところに碑が建っていると思い込んでいたのですが、見あたらなかったもので。そこでいただいた地図がこちら。

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イメージ 3それによると、詩碑は湖畔ではありませんでした。ご主人のお話では、15分ほど登山道的な道を上っていった峠の上、車で行ける場所でもない、とのこと。歩くしかありません。

落ち葉の積もった細い急な坂道を、足下に四尾連湖を望みつつ上っていきました。

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途中に、野澤が小屋を構えていた場所。オリジナルの小屋自体は火災で焼失してしまったそうです。

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息を切らしつつ、ようやく峠の頂上へ到着。

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野澤の詩「しびれの湖を歌う」の一節が刻まれています。イメージ 9


ああ されど湖のみは
いつもながらの風光にかげうららかに
桃の枝は育ち
栗鼠はないて
小鳥はあのたのしいさわがしい唱をうたい
山は立ち
水はほとばしりいでて
とこしえに
しびれの湖とたたえられてあれよ


前述した野澤唯一の詩集『木葉童子詩経』に収められています。野澤と親しかった詩人の一瀬稔や、連翹忌御常連の野澤の子息・俊之氏、そして当会顧問・北川太一先生などのお骨折りで同書は文治堂書店さんから二度にわたって復刊されました。右は平成17年(2005)の版です。

野澤の略伝などが記された碑陰記がこちら。

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光太郎の名も。イメージ 11

光太郎はここ四尾連湖に来たことはないようですが、昨日のこのブログでご紹介したとおり、富士川町の上高下を昭和17年(1942)に訪れています。直線距離では10キロ㍍足らず。その際に、野澤のことが頭をよぎったかもしれません。

また、野澤は昭和8年(1933)に四尾連湖を引き上げた後、同19年(1943)まで東京で暮らしていましたが(その間もたびたび四尾連を訪れたそうですが)、空襲で家を失い、山梨に一家で疎開しました。初め、甲府に近い東山梨郡春日居村、ついで、南巨摩郡増穂村。光太郎が訪れた上高下は増穂村から分離した穂積村でした。もしかすると、光太郎が訪れたことを耳にしていたかもしれません。

もっとも、野澤は前述の一瀬稔に対し、「同じ東京の空の下にいるので、逢おうと思えばいつでも逢えるのですが、ぼくは別にお目にかかりたいとも思いません。作品を通してあの方のことはかなり解っているつもりです。」と語っていたそうですが。

その後、野澤は結核のため、昭和20年(1945)に甲府の療養所で亡くなり、光太郎は同じ年、やはり空襲で焼け出されて花巻の宮沢賢治の実家へ。戦後は翼賛活動への反省から、花巻郊外太田村の山小屋で7年間の蟄居生活を送ります。

光太郎の周辺には、辺境の地で芸術制作にあたっていた友人知己が少なからずおり、光太郎自身も古くからそうした生活に憧れていましたが、四尾連湖の野澤も、山小屋生活に入った光太郎の脳裏に浮かんだことでしょう。

野澤一、もっと注目されていい存在だと思われます。

四尾連湖をあとに、三たび甲府盆地へ。そろそろ夕刻が近づいた盆地から見た南アルプスと八ヶ岳。

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イメージ 13

甲府で同級生の結婚披露宴に出席していた娘を拾い、帰りました。これにて甲信レポートを終わります。またすぐに都内や花巻のレポートを書くことになりますが(笑)。


【折々のことば・光太郎】

今の日本人は経済上の都合やら色々で、成べく簡単(サンプル)な生活を余儀なくさせられる。が生活はどんなに間に合せ主義で行つても、其のためにデリケートの感情まで殺したくない。実生活は粗雑でも、趣味生活だけは贅沢にならねば感覚は依然として芽を吹かない。

談話筆記「感覚の鋭鈍と趣味生活」より 治44年(1911) 光太郎29歳

100年以上前の警句ですが、この状況は変わっていないような気もしますね。

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