青森の地方紙『デーリー東北』さんから。
内なる魂を感じて 高村光太郎のブロンズ胸像寄贈/青森・十和田
青森市在住の元教員田村進さん(84)が、詩人で彫刻家の高村光太郎の偉大さを伝えようと、ブロンズ製の胸像「光太郎山居(さんきょ)」を完成させた。田村さんは8日、青森県十和田市役所に小山田久市長を訪ね、市に寄贈することを報告。胸像は来年4月から、十和田湖畔休屋の光太郎が制作した「乙女の像」の周辺にある十和田湖観光交流センター「ぷらっと」で展示される予定だ。
田村さんは10代から光太郎の詩や書、彫刻などの作品に親しんだ。乙女の像が完成した1953年には、除幕式の翌日に本人と直接会う機会に恵まれ、以後も光太郎の芸術世界を思い続けてきたという。
県内の中・高校で美術教員を務め、退職後の80歳の時に、今回の胸像の原型となる石こう像を4カ月半かけて制作。昨年7月、十和田八幡平国立公園の十和田・八甲田地域指定80周年の記念式典会場に展示された。これを契機に市への寄贈の話が進み、石こう像から型を取ったブロンズ像を完成させた。
像は高さ74センチ、幅78・5センチ。重さが85キロあり、台座を市が今後準備した後、ぷらっとに展示する。
この日は田村さんが胸像の写真パネルを小山田市長に贈り、制作の経緯などを説明。小山田市長は「観光などで訪れる多くの人に見ていただき、高村や乙女の像について関心を持ってもらえればと思う」と謝辞を述べた。田村さんは取材に「胸像から高村の内なる魂、すごさ、優しさを感じてもらいたい」と話していた。
県内の中・高校で美術教員を務め、退職後の80歳の時に、今回の胸像の原型となる石こう像を4カ月半かけて制作。昨年7月、十和田八幡平国立公園の十和田・八甲田地域指定80周年の記念式典会場に展示された。これを契機に市への寄贈の話が進み、石こう像から型を取ったブロンズ像を完成させた。
像は高さ74センチ、幅78・5センチ。重さが85キロあり、台座を市が今後準備した後、ぷらっとに展示する。
この日は田村さんが胸像の写真パネルを小山田市長に贈り、制作の経緯などを説明。小山田市長は「観光などで訪れる多くの人に見ていただき、高村や乙女の像について関心を持ってもらえればと思う」と謝辞を述べた。田村さんは取材に「胸像から高村の内なる魂、すごさ、優しさを感じてもらいたい」と話していた。
田村進氏、記事にあるとおり、青森市在住の彫刻家で、昭和28年(1953)には光太郎本人とも会われたという方です。連翹忌にも3回、ご参加下さっています。
平成24年(2012)頃から、光太郎像の制作にかかられ、レリーフ習作を経て、平成26年(2014)には胸像本体の原型が完成したそうです。で、このたび、ブロンズに鋳造したものが十和田市に寄付されたとのこと。
展示は来春からになるそうですが、十和田湖畔の「十和田湖観光交流センターぷらっと」にてなされるそうで、元々ある光太郎がらみの展示と合わせ、多くの方々に見ていただきたいものです。
十和田市さんのブログサイト「駒の里から」でも報じられているほか、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会の方から、さらに詳しくこの件を扱った地元紙『十和田新報』さんの記事を、メールで頂きました。
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来春以降、十和田湖にお立ち寄りの際は、ぜひご覧下さい。
【折々のことば・光太郎】![イメージ 4]()
南へ 北へ (あるけ あるけ) 東へ 西へ (あるけ あるけ) 路ある道も (あるけ あるけ) 路なき道も (あるけ あるけ)
歌詞「歩くうた」 より 昭和15年(1940) 光太郎58歳
日本放送協会選定の国民歌謡として作られた、飯田信夫作曲による歌曲です。戦意高揚という部分を抜きに考えれば、詩としては悪くないと思います。
徳山(たまき)らの歌唱などでSPレコード化され、それなりにヒットしたそうです。