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岩手レポート その5 もりおか啄木・賢治青春館/盛岡てがみ館。

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7/29(土)・30日(日)、1泊2日の岩手花巻・盛岡紀行、最終回です。

盛岡市郊外の岩手県立美術館さんで、企画展、「巨匠が愛した美の世界 川端康成・東山魁夷コレクション展」を拝観した後、返却場所が盛岡駅前ということもあり、盛岡の市街にレンタカーを向けました。

まだ時間もあったので、返却前に少しだけ光太郎に関わる常設展示が為されているところもついでに観ておこうと思い、まずはもりおか啄木・賢治青春館さんに。

こちらは明治43年(1910)竣工の旧第九十銀行本店本館の建物を使っています。

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こちらではその名の通り、旧制盛岡中学に通っていた青春時代をこの町で過ごした石川啄木と宮沢賢治に関する展示が為されています。当方、前を通ったことは何度もありましたが、いずれも開館時間外の早朝や夜だったため、中に入るのは初めてでした。入館は無料。ありがたや。

啄木、賢治の生涯が、パネルやガラスケースでわかりやすく構成されていました。

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レトロな建物の内装とマッチし、いい感じでした。

光太郎に関わるパネルも。

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賢治が亡くなった直後、昭和8年(1933)10月6日の『岩手日報』。賢治の追悼特集です。

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光太郎が賢治実弟の清六に寄せた弔意を表す書簡が抜粋されています。

 拝啓 先日訃報をいただいた時は実に驚きました、生前宮沢賢治さんとゆつくりお話をし合ふ機会もなく過ぎてしまいゐましたが此の天才といふに値する人を今失ふ事は小生等にとつて云ひやうもなく残念な事でした、折あしく当方にて手放せない病人などありまして手紙さへ差し上げられませんでしたが草野君が参上する事となつて幾分安心いたしました(略)
 昨夜は草野君が帰京直ちに来宅せられていろいろそちらのお話や賢治さんの事やら遺稿の事やらうかがふ事が出来て少々慰められました(略)
 遺稿の事などいづれ又こちらの友人達からも申出ることがあるかと存じます(略)
  八年九月二十九日                                              高村光太郎
 宮沢清六様

手放せない病人」は心の病が昂進していた智恵子、「草野君が参上」は、光太郎の命で草野心平が宮沢家に弔問に訪れ、さらに賢治遺稿の散逸を防ぐ対策を講じるよう動いたことを表します。

翌年には、清六が賢治遺稿の入ったトランクを持って上京、やはり光太郎や心平、永瀬清子らのいた中で、有名な「雨ニモマケズ」の書かれた手帳の発見へとつながりました。

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左は光太郎に私淑した彫刻家、高田博厚作の賢治像、右は舟越保武作の啄木像です。

啄木も、明治末年、与謝野夫妻の新詩社や、雑誌『スバル』の関係で、光太郎と交流がありましたが、こちらではそのあたりはあまりふれられていなかったようでした。


続いて、すぐ近くの盛岡てがみ館さんへ。

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こちらでは、企画展「舟越保武の手紙~手紙から見る制作の裏側~」が開催中でした。

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遺された舟越から諸家への書簡のうち、特に彫刻制作に関わるものをピックアップし、その背景を浮き彫りにしようというコンセプトでした。

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光太郎にも通じる、彫刻家としてのさまざまな苦労や、逆に喜びなどが綴られ、興味深く拝見しました。

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こちらは田沢湖の辰子像制作中の写真です。

常設展示では、光太郎の詩稿「岩手山の肩」(昭和22年=1947)が展示されています。


   岩手山の肩

 雪をかぶつた岩手山の肩が見える。イメージ 16
 少し斜めに分厚くかしいで
 これはまるで南部人種の胴體(トルソオ)だ。
 君らの魂君らの肉体君らの性根が、
 男でもあり女でもあり、
 雪をかぶつてあそこに居る。
 あれこそ君らの實体だ。
 あの天空をまともにうけた肩のうねりに
 まつたくきれいな朝日があたる。
 下界はまだ暗くてみじめでうす汚いが、
 おれははつきりこの眼でみる。
 岩手県といふものの大きな図態が
 のろいやうだが変に確かに
 下の方から立ち直つて来てゐるのを。
 岩手山があるかぎり、
 南部人種は腐れない。
 新年はチヤンスだ。
 あの山のやうに君らはも一度天地に立て。


さらには啄木や賢治の書簡も常設展示されています。

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いったいに、盛岡ではこうした遺産をしっかり継承し、先人の顕彰をきちんと行っていこうという気概が見え、好ましく思っております。

ところで賢治といえば、前日、新花巻駅近くの銀河プラザ山猫軒さんで、こちらを購入しました。

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帯にあるとおり、WOWOWさんで放映された「WOWOWプライム 連続ドラマW 宮沢賢治の食卓」原作のコミックです。

ドラマでもそうでしたが、賢治以外にも、清六や、父の政次郎、賢治妹のクニやシゲ、藤原嘉藤治など、光太郎と関わった人々が多数登場。そして、やはりドラマ同様、光太郎と賢治が出会う大正15年(1926)の前で、終わっています。光太郎と出会う続編を期待しております。

かくて1泊2日でしたが、ぎゅぎゅっと濃密な岩手紀行でした。行く先々でお世話になった皆さん、ありがとうございました。


【折々のことば・光太郎】

冬日さす南の窓に坐して蝉を彫る。 乾いて枯れて手に軽いみんみん蝉は およそ生きの身のいやしさを絶ち、 物をくふ口すらその所在を知らない。

詩「蝉を彫る」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

詩では翼賛的なものを大量に書き殴った光太郎ですが、造形美術の方面では、戦争協力はほとんどしませんでした。特に彫刻では、軍部や大政翼賛会の命で、戦意高揚に資する作品の制作が広く行われましたが、光太郎はその手の作品は作りませんでした。非常時でも一匹の蝉を彫る勇気を持つというのが光太郎の矜恃だったのです。この点はもう少し評価されてもいいような気がします。大量に書き殴られた翼賛詩はまったくといっていいほど見るべきものがありませんが……。

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