昨日に引き続き、最近入手した古資料等をご紹介します。今回は光太郎の父・高村光雲の関係で。
まず古絵葉書。
国指定の重要文化財である「老猿」の写真が使われています。キャプションには「東京朝日新聞社主催 明治大正名作展覧会 (猿) 高村光雲氏作」とあります。
調べてみたところ、昭和2年(1927)6月に東京府美術館で開催されたもので、明治大正期の日本画・洋画・彫刻の代表作計460点を集め、会場は連日盛況で総入場者数は17万8千余人を記録、多くの人々に日本の近代美術というものをあらためて認知させることになったとのことです。
おそらくその会場などで販売されていたものと推定され、絵葉書ではありますが、普通に焼き付けされた写真の裏面に絵葉書のフォーマットを印刷したという感じです。作品題が現在使われている「老猿」ではなく、単に「猿」となっている点が興味深いところです。
この点も気になって調べたところ、昭和4年(1929)に刊行された『光雲懐古談』でも、口絵部分のキャプションが「猿」となっていました。
しかし、本文では「栃の木で老猿を彫つた話」となっており、「老猿」の語が使われています。ただ、よく読むと、「老猿」の語は作品題というより、モチーフとして年老いた猿を作ったよ、という使い方になっているようです。いつから作品題として「老猿」が定着したのか、興味深いところです。
続いて、雑誌『キング』から。
昨日ご紹介した光太郎の「ある日の日記から」の関係で、その前後にやはり光太郎文筆作品が載ってはいまいかと探したところ、光太郎のものは見つけられませんでしたが、光雲の談話筆記が2点見つかりました。
まず昭和5年(1930)10月の第6巻第10号。「昔の芝居と今日の芝居」という題で2ページの談話が載っています。
芝居好きだった光雲、当時や少し前の役者についていろいろ述べています。挙がっている名は初代中村吉右衛門(「吉右衛門」と書いて「はりまや」とルビが振られています。粋ですね)、十五代目市村羽左衛門、そして五代目中村歌右衛門。
さらに、昭和8年(1933)2月の第9巻第2号には、「猫の話 鑿の話」という談話も1ページ載っていました。
猫に関しては、『光雲懐古談』にも載っている、徒弟修業時代に近所の猫の仕業に見せかけて、鰹の刺身をせしめた話、それから現在製本中の『光太郎資料47』に載せた、光雲ゆかりの金龍山大圓寺の発行になる『仰高』という冊子でも語られている、「団扇に眠る猫」について。
それから、木彫用の鑿について。写真が大きく載っており、最近、みすず書房さん刊行の『職人の近代――道具鍛冶千代鶴是秀の変容』を読んだこともあり、興味深く感じました。
いずれ、当方編集発行の『光太郎資料』に転載しようと思っております。
【折々のことば・光太郎】
この世では、 見る事が苦しいのだ。 見える事が無残なのだ。 観破するのが危険なのだ。
詩「苛察」より 大正15年(1926) 光太郎44歳
連作詩「猛獣篇」の一作。上野動物園の大鷲をモチーフとしています。
この時期、さまざまな社会矛盾に目を向けざるを得ず、また、光太郎の元に集った若い詩人たちの影響などもあって、光太郎はアナーキズム系、プロレタリア文学系に近づいていきます。しかし、完全にはその方面には入れずじまい。そのあたりはまた後ほどご紹介します。