信州安曇野にある、光太郎の盟友・碌山荻原守衛の個人美術館、碌山美術館さんから、館報第37号が発行されました。
館のご厚意で、4/2の第61回連翹忌にて、ご参会の皆様に無料で配布するため、昨日、当方自宅兼事務所に宅急便でどさっと届きまして、早速拝読。
毎号充実の内容で(今号も全60ページ)、感心しきりなのですが、特に今回は光太郎がらみの記事が多く、ありがたいかぎりでした。
いきなり表紙が光太郎のブロンズ「薄命児頭部」(明治38年=1905)。同館顧問の仁科惇氏の解説「高村光太郎の詩魂を見る」という解説の短文がついています。
目玉の記事は、「新資料紹介 荻原守衛書簡発見報告」。学芸員の武井敏氏の筆になります。
昨秋、当方の手元に送られてきた古書店の合同目録に、画家の白瀧幾之助にあてた荻原守衛の書簡が掲載されており、同館に情報を提供したところ、同館で購入の運びとなりました。同時に販売されていた光太郎から白瀧宛の書簡は当方が購入しました。
さらに同館では光太郎、守衛と親しかった戸張孤雁から白瀧宛の書簡も購入、その他、個人や台東区立書道博物館さん蔵の、これまで知られていなかった守衛書簡の情報も得(そちらの情報も一部、当方が提供しました)、それについても記述されています。
このうち、明治40年(1907)8月2日消印で、パリ在住だった守衛が訪れたロンドンから送られた絵葉書には、光太郎の名も記されていました。当時、光太郎もロンドン在住でしたが、守衛はロンドンに着いたばかりで「高村兄にはまだ会はぬ」としています。この後、二人は再会し、一緒に大英博物館を訪れるなどしています。
また、従来、「碌山」の号の使用は、この年の秋頃からと推定されていたとのことですが、8月の時点で既に使われていたことも判明したそうです。
その他、同館五十嵐久雄館長の「ロダン没後百年に思う」、昨年12月に同館で開催された「美術講座 ストーブを囲んで 「荻原守衛 パリ時代の交友」を語る」の記録でも、光太郎に触れてくださっています。
そして巻末に、昨年8月、同館の夏季特別企画
展「高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」の関連行事として行われた、当方の記念講演「高村光太郎作《乙女の像》をめぐって」の筆記録。9ページもいただいてしまいまして、恐縮です。
筆記録といいながら、実際にはかなり手を入れさせていただきました。というのは、当初、スタッフの方が録音された当方の講演をそのまま文字に起こしたものが送られてきたのですが、読んでみて「こりゃだめだ」(笑)。自分は普段、こんな滅茶苦茶なしゃべり方をしているのか、とショックでした。
とにかく、ずらずらずらずらと区切れが無く、主語述語ははっきりぜず、「てにをは」も滅茶苦茶(笑)。内容的にも、時間配分を誤り、前半はどうでもいいような余談ばかりで、後半に配した本題の「乙女の像」関連が駆け足の消化不良となっていました。
そこで、徹底的に手を入れて、「こういうことをしゃべりたかったんだよ」という形にまとめさせていただきました。
さらに最終ページには、同館の来年度の予定が載っていました。またまた光太郎関連をいろいろ取り上げてくださるとのことで、感謝です。
7/1(土)~9/3(日) 夏期特別展「『ロダンの言葉』編訳と高村光太郎」
12/2(土) 美術講座「ストーブを囲んで 「荻原守衛と高村光太郎の交友」を語る」
それぞれまた近くなりましたら詳しくご紹介いたします。
さて、館報第37号、4/2の連翹忌ご参会の方々には、館のご厚意で無料配布いたします。その他の皆様、ご入用とあらば、同館までお問い合わせください。
【折々のことば・光太郎】
雷獣は何処に居る。 雷獣は天に居る。風の生れる処に居る。 山に轟くハツパの音の中に居る。 弾道を描く砲弾の中に居る。 鼠花火の中に居る。 牡丹の中に、柳の中に、薄の中に居る。 若い女の糸切歯のさきに居る。 さうして、どうかすると、 ほんとの詩人の額の皺の中に居る。
詩「雷獣」より 大正15年(1926) 光太郎44歳
連作詩「猛獣篇」の一編。「雷獣」は落雷とともに現れるという、架空の妖怪です。詩「清廉」では、同じく架空の妖怪「かまいたち」をモチーフとしていましたが、こうしたモンスター系も、光太郎にとっては「猛獣」の範疇に入るものでした。
「牡丹」「柳」「薄(すすき)」は、線香花火の様態変化を表します。その他様々なシチュエーションで、激しく火花や轟音を発する「雷獣」。「ほんとの詩人」でありたい自分の額にもいてほしい、というところでしょうか。