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『広報とわだ』 2016年10月号 特集「十和田湖・奥入瀬渓流」。

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光太郎最後の大作である「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の建つ、青森十和田市の広報紙『広報とわだ』の今月号で、「特集「十和田湖・奥入瀬渓流」」が6ページにわたって組まれています。

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十和田湖のシンボル、「乙女の像」に関しても記述があります。

■乙女の像  十和田湖の誘客に寄与
 十和田湖では、1912(大正元)年に十和田保勝会(現・財団法人青森県観光事業協会)が動力観光船を運航しました。1934(昭和9)年には青森〜和井内間、1935(昭和10)年には和井内〜毛馬内(けまない)間に省営バス(現・JRバス東北)が開通され、八甲田〜奥入瀬〜十和田湖ルートが開かれています。戦後の復興期である1950(昭和25)年に、青森県知事の津島文治(太宰治の長兄)らによって、観光客誘致のため、国立公園指定15周年を記念し、十和田湖に記念碑を建立する計画が立てられました。この計画により1953(昭和28)年に完成した記念碑「乙女の像」は、高村光太郎が彫刻を引き受けたもので、一躍十和田湖のシンボル的彫刻として有名になり、また、佐藤春夫作詞の歌謡曲「湖畔の乙女」が全国的に愛唱されたこともあり、「乙女の像」は十和田湖への誘客に大いに寄与しました。
対峙する2人の像は、高村光太郎が遊覧船に乗った際、澄んだ湖面に映った自分の姿にヒントを得て「自分自身を写す人間の理性」を表現したといいます。
 風雪に耐えながら幾千年朽ちるまで立つという像は、十和田湖観光事業の栄華と衰退、将来を無言で見つめています。

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また、「乙女の像」建立の目的は、「十和田の三恩人」の顕彰。その三人についても詳しく紹介されています。

■十和田の名は全国に
 1953(昭和28)年に高村光太郎作「乙女の像」が十和田湖岸に建てられました。この台座には、十和田国立公園の実現に奔走した大町桂月(けいげつ)、武田千代三郎、小笠原耕一の3氏の功績が刻まれています。「住まば日ひのもと本 遊ばば十和田 歩きゃ奥入瀬の 三里半」 これは、十和田を全国的に知らせた高知県出身の詩人、大町桂月の一首です。   
 1908(明治41)年に大町桂月は初めて十和田湖を訪れました。その後、1921〜23(大正10〜12)年にかけて十和田湖や八甲田山中を数多く探勝しますが、拠点とした蔦(つた)温泉をこよなく愛し、1925(大正14)年に蔦で永眠するまで、晩年を蔦で送りました。この桂月の文筆活動の効果で、景勝地としての十和田の名は全国的に知られるようになります。
 1911(明治44)年、桂月の紀行文を読んだ皇太子嘉仁親王(大正天皇)から、第18代青森県知事・武田千代三郎に、「十和田湖を観賞できないか」との御下問がありました。武田知事はさっそく十和田湖を視察し、1912(大正元)年の県議会に、三本木口と黒石口両線の開削費予算を提案し、頑迷な反対派を説得し、十和田湖への道を完成させます。
 この武田知事とともに、十和田湖の発展に尽力したのが、小笠原耕一です。小笠原は、法奥沢(ほうおくさわ)村(元・十和田湖町)の村長だった当時、大凶作に見舞われており、その救済事業として、当時の青森大林区署(元・青森営林局)に、十和田道の開削を具申し、焼山から奥入瀬渓流沿い、子ノ口から休屋までの区間を、幅員4尺(約1・3メートル)の牛馬道として開削し、翌1903(明治36)年に完成させました。岩石に覆われた奥入瀬渓流を切り開くためには、大量の火薬を使う難工事だったといいます。

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その他、一昨年、十和田湖畔にオープンした十和田湖観光交流センターぷらっと の紹介も。

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こうした地域の財産を持ち腐れにしないよう、広報紙などを通じて紹介していくのはいいことだと思います。また、ネットで公開することで、他地域の人々の目にも触れ、PRになると思います。

ところで十和田湖周辺、これから紅葉の盛りでしょう。ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

ざくろの実はなやかにしてやゝにがしこのあぢはひをたれとかたらん
大正13年(1924) 光太郎42歳

木彫「柘榴(ざくろ)」を包む袱紗(ふくさ)にしたためられた短歌です。

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こうした木彫作品を包む袱紗や袋のたぐいは、そのほとんどが智恵子が縫ったものと推定されています。そこで、「たれとかたらん」=「誰と語ろうか」、この背後にはやはり智恵子の姿が見えてきます。

のちに心を病んだ智恵子、晩年の南品川ゼームス坂病院で、千数百点の紙絵を制作します。その中に、柘榴をモチーフとしたものもありました。夢幻の世界の中でも、幸せだった頃の遠い日々を思い起こしていたのかも知れません。

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