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Channel: 高村光太郎連翹忌運営委員会のブログ
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信州安曇野碌山美術館 「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」。

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4泊5日の行程を終え、先ほど、無事に帰着しました。

5日間のレポートをざっくりと書こうと思います。

8月6日(土)、愛車で千葉の自宅兼事務所を出発。一路、信州安曇野の碌山美術館さんを目指しました。夏休みの土曜ということで、中央道は八王子あたりから山梨県内に入るまで断続的に渋滞、同館には夕方に着きました。

同館では「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」が開催中で、翌7日(日)には、関連行事として当方の講演。当日の到着では途中で何かあった場合に怖いので、前のり致しました。

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当日の午前中も企画展を拝見。光太郎芸術の凝縮された、よい展示でした。

同館には展示のための棟が4つあり、メインの碌山館は、その名が冠された碌山荻原守衛の彫刻。

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それ以外の3棟を、今回の企画展に使って下さっています。

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第1展示棟には、ブロンズの光太郎彫刻10点。それから、パネル展示として作品自体が亡失し、写真のみが残っている彫刻(全て塑像)の写真25点。

第2展示棟では、光太郎の直筆詩稿、著書、そして「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」関連。

詩稿は主に彫刻制作に関する詩が選ばれ、詩の全文を活字にしたパネルが添えられていました。著書は選詩集的なものを除く、生前刊行の詩集全てと、光太郎没後に草野心平がガリ版刷りで作成した「猛獣篇」。

「乙女の像」関連では、ブロンズの小型試作、中型試作、そして実物大に印刷した十和田湖畔の像の写真。さらに構想スケッチ(実物)やデッサン(複製)など。

そして空調の関係で、杜江館に、光太郎木彫7点と、智恵子の紙絵20点(展示替え有り)、そして光太郎智恵子それぞれの油彩画が展示されています。

同じ型から取って作成されたものが各地にあるブロンズ彫刻以外は、なかなか実物を目にする機会が少ないものばかりで、興味深く拝見しました。

一つ一つのカテゴリー内の点数は決して多くはないのですが、却って、精髄的な印象を受けますし、それほど時間をかけずに見て回ることが出来ます。

また、ミュージアムショップと、無料休憩所的なスペースを兼ねたグズベリーハウスという棟では、昭和28年(1953)、ブリヂストン美術館さん作成の「美術映画 高村光太郎」が放映されており、花巻郊外太田村や、中野のアトリエで「乙女の像」を制作する光太郎自身の姿が見られます(花巻高村光太郎記念館さんでも放映しています)。

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7日(日)は午後から、近くの研成ホールにて、当方の記念講演でした。

時間配分を誤り、肝心の「乙女の像」についての部分が短くなってしまいました。

来春刊行予定の同館の館報に、講演の筆録を乗せていただくそうですので、加筆訂正し、きちんとまとめたいと思います。


長野県松本平地区の地方紙「市民タイムス」さん、8月4日に載ったコラム。 

みすず野


安曇野市の碌山美術館で、大正から昭和期 の詩人で、彫刻家の高村光太郎の「彫刻と詩展」が始まった。なぜ、碌山美術館なのか。光太郎と碌山が親友だったからだ。美術館本館わきには、光太郎が碌山 の急死を悼んで詠じた詩「荻原守衛」の碑が、建立されている◆一部を抜粋する。「荻原守衛はにこにこしながら卑俗を無視した。/単純な彼の彫刻が日本の底 で生きてゐた。-」。二人は留学先のニューヨークで出会い、光太郎はロンドン、碌山はパリに渡り、帰国後も交友は続いた。今回は二人ではなく、光太郎の作品、それは必然的に妻智恵子への永遠の愛につながるものだが、そこに光を当てた◆「そんなにもあなたはレモンを待ってゐた/かなしく白くあかるい死の床で /わたしの手からとつた一つのレモンを-」。「レモン哀歌」と題する詩の自筆原稿も見ることができる。光太郎は智恵子の精神が壊れ、童女のようになり、やがて臨終を迎えるさまをつづった◆「智恵子の裸形をこの世にのこして/わたくしはやがて天然の素中に帰らう。-」とうたい、最後に本当に裸婦像を残した。 光太郎の生き方に触れてみては。


紹介されている詩碑はこちらです。

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同展、8月28日(日)まで開催中です。ぜひぜひ足をお運び下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

祈(ね)がば成るならばともあれやすからむ信濃にひとりまた旅ねする
明治34年(1901) 光太郎19歳

光太郎、みすず刈る信濃路の旅の途次に詠んだ歌です。

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