8月31日(金)~9月2日(日)の花巻行で入手した書籍を2冊。
2018年9月10日 内田康夫 原作 あさみさとる/夏木美香 画 ぶんか社 定価600円+税
あさみさとる「風葬の城」
旅雑誌の取材で会津にやってきた光彦。漆器作りの現場を見学していると、職人である平野浩司が急に苦しみだし、そのまま亡くなってしまう。第一発見者となってしまった光彦は、その様子から平野氏の死が毒物による他殺だと推理する。徐々に明らかになっていくある業界の不正や金の動き。そこに隠されていた、大きな陰謀とは――?
光彦と幼馴染の野沢光子は、姉・伸子の紹介で知り合った宮田治夫と「高村光太郎・智恵子展」へ出かける。そこで光太郎の彫刻「蝉」を熱心に見ていた男が記憶に残った。ところがその男が福島県安達太良山の麓で殺され、宮田も島根県江の川で水死体で発見される。事件後、脅迫めいた「怪電話」に伸子は悩まされることになり、光彦に相談を持ちかける。
夏木美香「教室の亡霊」
群馬県の公立中学校の教室で、かつてその学校で教鞭を執っていた男の死体が発見された。毒殺されたと見られる被害者のポケットには、新人教師・梅原彩とのツーショット写真が。さらに渦中の彩が顧問を務める陸上部員の父親が殺され…? 次々と事件に巻き込まれる彩を助けて欲しいと依頼を受けた光彦が、現代の教育問題に迫る。
紹介文の通り、光太郎智恵子をモチーフとした「『首の女』殺人事件」が入っています。裏表紙のイラスト(画像右)がそちら。小説は昭和61年(1986)に刊行されています。
小説の浅見光彦シリーズは100本を超え、コミック化も'90年代後半には始まり、これまでにかなりの作品が取り上げられてきました。しかし、当方の知る限り「『首の女』殺人事件」はこれまでコミック化されておらず、残念に思っていました。コンビニのコミックコーナーで「浅見光彦」の文字を見つけるたびに「『首の女』殺人事件」の文字を探しては、「やはり、ないか」を繰り返すこと10数年(笑)。
しかし、ついに、8月31日(金)、花巻高村光太郎記念館さんをあとにして、宿泊先の鉛温泉さんに向かう途中、花巻南温泉郷入口のファミリーマートさんに立ち寄って、これを発見し、思わず心の中で快哉を叫びました。また、不思議な縁も感じました。
調べてみると、同じぶんか社さんで刊行している『まんが このミステリーが面白い!』 8月号(6月発売)が初出でしたが、そちらには気づきませんでした。
さっそく鉛温泉さんで読みました。「『首の女』殺人事件」で約150ページ。細かなところが割愛されたり、原作が昭和末期を舞台としているのを平成末期の現代に置き換えたりしている以外、ほぼ原作どおりで、なかなか読み応えがありました。
ぜひお買い求め下さい。
ちなみにフジテレビさん(平成18年=2006)とTBSさん(平成21年=2009)でドラマ化され、それぞれBS放送やCS放送で年に数回、再放送されています。明後日にもBSフジさんで再放送があります。併せてご覧下さい。。
<BSフジサスペンス劇場>『浅見光彦シリーズ22 首の女殺人事件』
BSフジ 2018年9月7日(金) 12時00分~13時58分
福島と島根で起こった二つの殺人事件。ルポライターの浅見光彦(中村俊介)と幼なじみの野沢光子(紫吹淳)は、事件の解決のため、高村光太郎の妻・智恵子が生まれた福島県岳温泉に向かう。光子とお見合いをした劇団作家・宮田治夫(冨家規政)の死の謎は?宮田が戯曲「首の女」に託したメッセージとは?浅見光彦が事件の真相にせまる !!
原 作 内田康夫
出演者 中村俊介 紫吹淳 姿晴香 菅原大吉 冨家規政 中谷彰宏 伊藤洋三郎 新藤栄作 榎木孝明 野際陽子ほか
もう一冊。
出会いの人びと![イメージ 3]()
昭和58年2月20日 鈴木實著 熊谷印刷出版部 定価1,500円+税
9月1日(土)、花巻高村光太郎記念館さんでの市民講座「実りの秋を楽しむ 光太郎の食卓 part2」の講師を務め終え、花巻市街から東北新幹線の新花巻駅などをぶらついているなかで立ち寄った、ショッピングセンター・銀河モールさんの中のTSUTAYA 花巻店さんで発見しました。
こういう書籍がないかな、と思って立ち寄って、まさにこういう書籍が手に入ったので、こちらでも思わず心の中で快哉を叫び、不思議な縁も感じました(笑)。昭和58年(1983)の書籍が新刊書店に並んでいたというのも驚きです。
著者の鈴木實氏は、元花巻北高校さんの校長先生。大正5年(1916)のお生まれだそうですので、まだご存命かどうか……。父君は宮沢賢治が技師として働いていた東北砕石工場を興した鈴木東蔵。そうした縁もあって、昭和23年(1948)に谷川徹三の揮毫で建立された賢治の「農民芸術概論綱要」碑の建立に奔走されました。
最初は宮沢家に話を通さずにその計画を進め、光太郎に揮毫を依頼したそうです。ところがそれでは筋が通らないと光太郎に強く諭されたというエピソード、さらに、やはり昭和23年に同志社大学教授だった浜田与助を光太郎の山小屋に案内したエピソードなどが語られています。また、鈴木氏は光太郎を敬愛していた高田博厚とも交流があり、高田の項でも光太郎の話題が出て来ます。
調べてみると、昭和23年8月25日の光太郎日記に記述がありました。
学校にゆかんとせし頃(十時半頃)土沢より鈴木氏といふ青年、同志舎(「社」の誤り)大学の浜田先生といふ人を案内して来る。一緒に学校にゆく。郵便物を出すため学校にゆく旨のべる。(略)浜田先生と談話。同氏は哲学専攻の由。長坂町に滞在との事。土沢では長嶌氏といふクリスチヤン農家を訪ねられたらし。長嶌氏より林檎5個もらふ。尚浜田氏よりドラ焼20数個もらふ。 十一時半頃浜田氏等帰らる。
この時の様子がかなり詳しく語られていて、興味深く拝読しました。浜田の子息が智恵子と同じ統合失調症の末、亡くなった話が出たこと、ミケランジェロや当時流行の某彫刻家を引き合いに出しての芸術論に花が咲いたこと、そして鈴木氏と浜田の帰りしな、光太郎が「まだいいですよ」と引き留めたこと(鈴木氏が光太郎の周辺人物に聞いた話では、こういうことはめったになかったそうで)などなど。
「農民芸術概論綱要」碑云々のエピソードも光太郎日記に記述があるのではないかと思われます。ただ、鈴木氏の名が記されていないようで、索引から調べることも出来ません。宿題としておきます。
この手の光太郎日記などを補完する回想等、非常に貴重なものです。今後も発見に努めようと思います。
【折々のことば・光太郎】
詩は決して紙の上だけでは出来ないし、又決して態度や心構だけでも出来ない。詩はその人の存在全部から立ち登る必然のものであつて、しかもその精神を神経組織に変調しながら表現する技術は、時代と共に何処までも進展する。とにかく停滞は自然の理法に反する。われわれは日々に新しくならなければならぬ。
散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和16年(1940) 光太郎59歳
戦後、光太郎は「心はいつでもあたらしく」という語を地元の太田中学校や盛岡少年刑務所に贈りましたが、その背景にはこうした考えがあったのですね。