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「角川文庫 創刊70周年 みんなで選ぶ、復刊総選挙 第一期 日本の名作」。

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「角川文庫」ブランドを展開するKADOKAWAさんでのキャンペーンです。 
角川文庫は、本を生み出し続けて70年。記念すべき出版1作目は、ドストエフスキーの「罪と罰」でした。
それから、何千、何万もの作品を世に送り出す間に時代は変わり、流行も変わり、娯楽もずいぶん変わりました。もちろん、本の楽しみ方も例外ではありません。
ただ、どんなに年を経ようとも、ずっと変わらないのは角川文庫が「紙の本」を作りつづけること。
いつでも、どこでも、誰でも、ページをめくるだけで、自由気ままに楽しめる本を作りつづけたいのです。
そして、この先の10年も、100年も、本を愛するひとの一番近くで寄り添いたい。
今日もポケットや鞄の中にひそみ込み、自由な想像の世界へ連れ出す時を待っています。
みんなの文庫へ 発見!角川文庫 70周年

角川文庫創刊70年の歴史の中には、数多くの名作が存在します。この貴重なアーカイブの中から、創刊70周年記念復刊を行います!
日本の名作・日本のエンタテインメント・海外作品の3つのジャンルに分けて、3ヶ月毎に全3回の選挙を実施。
読者の皆様に選ばれた上位作品の各5点を、スペシャル新カバーで復刊いたします!


投票方法
候補作品リストから、投票したい作品を選び、投票フォームへ必要事項を入力したあと、投票ボタンをクリックしてください。
※期毎に3回まで投票できますが、同じ作品への投票は1回までとなります。(同じ作品への複数回の投票は1票として集計します)

投票期間
第一期「日本の名作」:2018年4月2日(月)12:00〜6月28日(木)23:59

プレゼント
投票いただいた読者の方から抽選で、一期あたり100名様・合計で300名様に、図書カードNEXT1000円分をプレゼント!

結果発表
結果発表は、10月上旬頃に本サイトにて公開予定です。


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というわけで、70周年を迎える角川文庫で、それを記念しての復刊キャンペーンです。投票により、第一期「日本の名作」、第二期「日本のエンタテインメント」、第三期「海外作品」から、上位作品の各5点を、スペシャル新カバーで復刊するとのこと。

かつて角川文庫のラインナップに入っていた光太郎の著書が3冊、候補リストに入っています。

高村光太郎詩集』。初版は光太郎が亡くなったイメージ 2昭和31年(1956)、当会の祖・草野心平の編集により刊行されました。解説も心平が担当しています。

大正9年(1920)から、昭和28年(1953)までの光太郎詩146篇が収められています。初版刊行当時、流通していた他の光太郎詩集との重複を出来るだけ避けようという意図が見える選択です。それでも『智恵子抄』中の数篇や、詩集『典型』に収められた連作詩「暗愚小伝」などは外せない、という判断だったようです。


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評論集『美について』。初版刊行は昭和35年(1960)11月10日。当会顧問・北川太一先生、それから光太郎と交流が深かった伊藤信吉の解説です。

同名の評論集は、昭和16年(1941)8月、道統社からハードカバーで刊行されていますが、収められている作品はかなり異なります。道統社版は大正10年代から刊行直前までの、どちらかというと随筆系が多いのですが、角川文庫版は明治期の「緑色の太陽」や、長文評伝「オーギュスト・ロダン」(昭和2年=1927)なども含みます。

さらに昭和42年(1967)には筑摩選書版が出ましたが、そちらとも作品の選択が異なります。

そして『詩集 道程 復元版』。大正3年(1914)に刊行された光太郎第一詩集『道程』の覆刻です。角川文庫としては昭和26年(1951)にラインナップに入り、その後、昭和43年(1968)に改版が刊行されました。いずれもやはり当会の祖・草野心平が解説を執筆しています。今回の候補リストでは、改版の刊行日時で登録されています。

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角川さんでは、同様の復刊キャンペーンを、平成元年(1989)にも、「40周年」ということで行いました。その際は、「外国文学」、「現代日本文学」、「社会 歴史」、「伝記」、「宗教 哲学 思想」、「日本古典」というジャンル分けで、合計30冊が復刊されました。そして『詩集 道程 復元版』も選ばれています。右上の画像がそれです。

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今回も、光太郎著書のうちのどれかが選ばれてほしいものです。このあと早速、当方はサイトから投票をしますが、皆さんもよろしくお願い申し上げます。組織票ということになると、何だか、プロ野球のオールスターファン投票や、アイドルグループの選抜総選挙のようですが(笑)。



【折々のことば・光太郎】

正真正銘な自己の五臓六腑の感じ、欲し、見、望み、指さすところを基本とし、第一歩的足がかりとする処から一切は始まるのである。これが中々出来ない。しかしこれを本当に踏むことが出来ればそれは確実に地を踏み、天を踏むことなのである。その上は感性と知性との錬磨によつて何処までも生え抜きの芸術を育成させることが出来るに違ひないし、死ぬまで進歩発展するに違ひない。さもないものは皆浮遊の芸術として終る。

散文「上野の現代洋画彫刻」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳


造形芸術についての発言ですが、文学についても言えることでしょう。「道程」によって、「第一歩的足がかり」を踏み、死ぬまで進歩発展(時には道を誤ったり、後退したりもしましたが)した光太郎の道程に思いが馳せられます。

にっぽん百名山「安達太良山」/にほんごであそぼ 道程。

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昨夜、NHK BSプレミアムさんの「にっぽん百名山 安達太良山」の放映があり、拝見しました。

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同じ番組で、平成27年(2015)にも安達太良山が取り上げられまして、その際には「智恵子抄」にからめ、光太郎智恵子の紹介が約2分間。そちらは紅葉シーズンのロケでしたが、今回は雪の残る3月。今回も「ほんとの空」の下にそびえる山、的な紹介をして下さいました。

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あとは、山岳ガイド・五十嵐潤さんのナビゲートによる1泊2日の行程。

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3月とはいえ、まだまだ本格的な雪山です。

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しかし、動植物など、そここに春の気配も。

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掛け流しの温泉があるくろがね小屋、それから岳温泉やそこをつかさどる湯守の皆さんの紹介も。

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満天の星、霧氷。高山ならではですね。

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雪原を過ぎ、智恵子が麓の旧油井村(現・二本松市)で油井小学校に通っていた明治33年(1900)の噴火口跡の沼ノ平を横目に、山頂へ。

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山頂からは、昭和8年(1933)、山腹で智恵子が「わたしもうぢき駄目になる」と呟いた磐梯山も望めます。

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来月には、山開き。また近くなりましたらご紹介します。

再放送がありますので、見逃した方、ぜひご覧下さい。  

にっぽん百名山「安達太良山」

NHK BSプレミアム  2018年4月16(月) 12:30~13:00 

3月、雪の残る福島・安達太良山(1700m)で、ウサギやリスなど春を待つ生き物の息吹に触れ、山のいで湯を堪能。さらに「霧氷」など雪山ならではの風景に出会う。

雪山の初級コースとして人気の福島・安達太良山(1700m)。早春3月、出発はあだたら高原スキー場の登山口から。雪の残る森を進み、鳥の巣作り、ウサギの足跡、リスの食べかすなどを次々と発見。山小屋で一泊し、源泉かけ流しの温泉と満天の星空を楽しむ。山頂までの斜面では雪山ならではの風景である霧氷を堪能。山頂からは磐梯山、吾妻連峰など東北の名峰を望む。また雪山で温泉の通り道を守る人々の営みを紹介する。

出演 五十嵐潤    語り 鈴木麻里子 高塚正也


ついでと言っては何ですが、もう1件、テレビ放映情報を。  

にほんごであそぼ

NHK Eテレ 2018年4月13日(金)  6時35分~6時45分
再放送    4月13日(金) 17時00分~17時10分  4月27日(金) 6時35分~6時45分/17時00分~17時10分

2歳から小学校低学年くらいの子どもと親にご覧いただきたい番組です。日本語の豊かな表現に慣れ親しみ、楽しく遊びながら“日本語感覚”を身につけることができます。今回は、花鹿亭/「テスト」瀧川鯉八、ここで名文/僕の前に道はない…「道程」高村光太郎野村萬斎/ややこしや「まちがいの狂言」高橋康也、百人一首/かくとだにえやはいぶきのさしも草…(藤原実方朝臣)、名文を言ってみよう!/春はあけぼの、歌/蜘蛛の糸

出演 美輪明宏 野村萬斎 野村裕基 うなりやベベン 瀧川鯉八 ほか


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光太郎詩の代表作「道程」が取り上げられます。以前も取り上げられましたが、同じ映像か、新作か、不明です。

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こうした番組を通じて、「道程」が世の中から忘れられかけている現状に、歯止めがかかってほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

彫刻の意義は人体を人体らしく作り、情景を情景らしく表現する程度のところには断じて存在しない。もつと深い彫刻美の、のつぴきならぬ、みつちりした、有機的つながりを主題と表現との間に持つ特質の中にある。

散文「第四回文展彫刻評」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

明治期の青年時代と比べても、光太郎の彫刻観がぶれていないことに、ある意味、驚かされます。

「次世代に残したいと思う『ちば文化資産』」。

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過日、「角川文庫 創刊70周年 みんなで選ぶ、復刊総選挙 第一期 日本の名作」の件をご紹介しましたが、ある意味、似たような件です。 
オリンピック・パラリンピック競技大会はスポーツの祭典であると同時に文化の祭典でもあります。
東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会の開催は、本県の文化的魅力を発信する絶好の機会であり、この機会を活かすためには、多くの県民の皆様に本県の文化資産を再認識していただくとともに、次世代に継承していくことが重要です。
そこで、県民の皆様の参加により「次世代に残したいと思う『ちば文化資産』」(以下、『ちば文化資産』という)を選定することとしました。
先日皆様から応募いただいた内容を基に決定した候補の中から、次世代に残したいと思うものに投票してください!

投票の結果等を踏まえて100件程度、『ちば文化資産』を選定します。
選定したちば文化資産については、県民参加型の文化プログラム等を実施し、千葉県の魅力発信を行っていきます。

 
1 『ちば文化資産』とは?

『ちば文化資産』は、県内の文化資産のうち、県民参加により選定した、多様で豊かなちば文化の魅力を特徴づけるモノやコトとします。
伝統的なものに限定せず景観やイベント、祭りなど、千葉県の文化的魅力を発信するモノやコトを含みます。


2 『ちば文化資産候補』

ちば文化資産の投票候補を、県内11地域に区分して整理しています。
※一部の候補については、複数の地域にまたがって存在しているため、広域候補としています。地域や所在市町村により候補をお探しになる際は、広域候補についても御確認ください。


3 投票資格、投票の方法

 (1)投票資格
  千葉県に在住又は千葉県に通勤・通学している方
  ※お一人様1回までの投票でお願いします 候補となっている211件の中から1つだけ選んでください。
 (2)投票の方法
  インターネットの場合
   専用入力フォームから、千葉県に送信してください。
   パソコンの方用入力フォーム
   スマートフォンの方用入力フォーム
   携帯電話の方用入力フォーム
  郵送の場合
   1または2で投票してください。
   1 .「投票チラシ」をダウンロードし、必要事項を記載の上、御郵送ください。
   2 .投票したい「ちば文化資産」の番号、名称、氏名、住所、通勤又は通学先の市町村(千葉県内在住の
     方は不要)、電話番号(日中連絡がとれるもの)又はメールアドレスを記載の上、御郵送ください。この
     場合、様式は問いません。
   【郵送先】
    〒260-8667 千葉市中央区市場町1-1 千葉県環境生活部県民生活・文化課文化企画班
 (3)投票期間
  平成30年4月6日(金曜日)から6月18日(月曜日)(必着)


4 プレゼントの内容、当選者数など

  投票いただいた方の中から抽選で、今秋デビュー予定の新品種を含む県産落花生商品詰め合わせや
  チーバくんオリジナルグッズ等をプレゼントします!

 ※平成30年7月上旬に、御提出いただいた電話番号又はメールアドレスへ当選の御連絡をしますので、パソ
   コンのメール(「@pref.chiba.lg.jp」のドメイン)を受信できるよう設定をお願いします。
 ※当選の御連絡が取れない場合は当選無効とします。
 ※発送は国内に限ります。

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候補の中に、「205 九十九里浜の景観」が入っており、説明文がこちら。

九十九里浜沿岸は古来から多くの文化の跡が残されています。江戸時代以降はいわし漁等の漁業が盛んとなり、神輿を担いで浜に降りる「浜降り」や「潮踏み」等と呼ばれる習俗が現代まで続いており、海との深いつながりを感じられます。また、高村光太郎の「智恵子抄」の一節「九十九里浜の初夏」等多くの文学作品の舞台となっています。

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「智恵子抄」で言えば、詩「風にのる智恵子」(昭和10年=1935)、「千鳥と遊ぶ智恵子」(同12年=1937)も九十九里浜を舞台としています。

それに先立つ昭和8年(1933)、心を病んだ智恵子が現在の九十九里町片貝にいた智恵子の妹の婚家(田村別荘)で療養したことに由来します。この頃は光太郎、ほぼ毎週のように見舞いに訪れていました。

智恵子が療養していた田村別荘は取り壊されてしまいましたが、その跡地には木標が立ち、東金九十九里有料道路の今泉駐車場には光太郎智恵子像、海岸にほど近いサンライズ九十九里さん脇には「千鳥と遊ぶ智恵子」詩碑が建っています。

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候補の中から「100件程度」が「ちば文化遺産」に認定され、「県民参加型の文化プログラム等」を実施し、千葉県の魅力発信に役立てられるとのことですので、ぜひ「九十九里浜の景観」も選定され、さらにその後の「県民参加型の文化プログラム等」の中で、光太郎智恵子に触れる機会が持たれてほしいものです。

当方はすでに投票しましたが、千葉県ご在住、あるいは通勤されている方、ぜひとも投票にご協力を。


【折々のことば・光太郎】

私の一番底の考へでは、美術家が散らばつてしまふのはむしろ喜ぶ所であつて、善い美術家が市井や山間僻地に散在して真の善き作品を名声に関係なく作てゐてくれる様な時代を想像すると愉快であるが、現前の世の中ではそんな事は夢に近い。
散文「大調和美術展に就て」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

「大調和美術展」は、武者小路実篤らの雑誌『大調和』が母胎となって開催されたもので、光太郎は第一回展に塑像「中野秀人の首」、「某婦人の像(智恵子)」、「東北の人」、木彫「魴鮄」、「桃」、「うそ鳥」を、第二回展では、塑像「住友君の首」、木彫「柘榴」を出品しました。

花巻温泉旧松雲閣別館が登録有形文化財に登録。

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昨日、「次世代に残したいと思う『ちば文化資産』」の件をご紹介しましたので、やはり文化遺産系の話題を。

光太郎第二の故郷とも言うべき、岩手県花巻市さんのサイトから。 
花巻市で初となる登録有形文化財

花巻温泉旧松雲閣別館は、昨年11月27日に開催された文部科学大臣の諮問機関である文化審議会(馬渕明子会長)において登録有形文化財に指定するよう答申されておりましたが、3月27日付けをもって文化財登録原簿に登録され、同日付け官報に告示されました。
今回の登録では、県内から同館のほか、旧岩手県知事公舎洋館、旧千田正家住宅主屋、同板倉(金ヶ崎町)、旧上有住小学校校舎(住田町)が登録されております。

花巻温泉旧松雲閣別館の概要

松雲閣別館は、大正13(1924)年6月に新築された高級旅館松雲閣の別館として、昭和2(1927)年に建築・開業しました。入母屋作りの木造二階建て、延べ床面積約1,600平方メートルで総ヒノキ造り、赤色釉薬の花巻瓦葺き、手すきガラス使用、鉄くぎを一切使用していない組み立て方式による大規模旅館建築の建物です。
平成14(2002)年に老朽化に伴う閉館までの間、昭和天皇をはじめとする皇族の方々、後藤新平、斎藤實、高橋是清等の政治家、与謝野鉄幹・晶子夫妻、高浜虚子等の文人が利用するなど、岩手の迎賓館として長く愛されました。館内には、昭和36(1961)年の昭和天皇行幸啓時の貴賓室や浴室等もよく残り、背後の松林に映える堂々とした姿は往時の花巻温泉の景観を今に伝えています。

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花巻温泉旧松雲閣別館、上記記事に光太郎の名がありませんが、光太郎もたびたび宿泊しています。花巻温泉内の旅館の中では、最も格式の高いところで、確認できている光太郎最後の談話筆記「ここで浮かれ台で泊まる/花巻」(昭和31年=1956)に、以下の記述があります。

一番奥にある松雲閣というのが一番大きく、ちょっと高いところにある別館が一番の高級で、皇族だの、大尽様などがお泊まりになる。私なども、そこへ入れられてしまうが、さすがに建築は立派である。

昭和27年(1952)には、NHKラジオ「朝の訪問」のための、真壁仁との対談をここ松雲閣別館で録音した他、日記が失われているため詳細は不明ですが、前年の『朝日新聞』岩手版に載った当時の岩手県知事・国分謙吉との対談も、ここで行われたと推定できます。

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イメージ 8イメージ 7平成14年(2002)に閉館となりましたが、取り壊されることなく保存され、今回の指定。花巻市では初だそうで、めでたいことですね。

記事にあった『官報』等を拝見しました。北から順の掲載で、今回、北海道、青森県からの指定がなかったので、いの一番です。ただ、他にもごっそり指定されており、そういうものなのかと、初めて知りました。

光太郎智恵子ゆかりの建造物の中には、やはり老朽化ということもあって、比較的最近になって、残念ながら取り壊されたものが少なくありません。

昨日ちらっとご紹介した、九十九里浜で智恵子が療養していた田村別荘、戦後、光太郎が蟄居した花巻郊外旧太田村の山口小学校、昭和27年(1952)、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作の下見と、翌年の除幕式の際に光太郎がそれぞれ一泊した東湖館など。

また、昭和8年(1933)、光太郎智恵子が泊まった福島安達太良山麓の不動湯温泉は、火災で焼失してしまいました。

色即是空、諸行無常とは申しますが、やはり価値あるものは残すべきですね。そして、残すだけでなく、新たな活用の道を探ってほしいとも思いました。


【折々のことば・光太郎】

あの南部鉄瓶に示された此の人等の祖先が持つた精妙な工芸感覚の血が此の人等の中に脈うつてゐる事を私は信ずる。私は百の期待をかけてこの人等の今後のあらゆる工芸作品を長く見守つてゆかうと思ふ。

散文「展覧会に寄する言葉」より 昭和23年(1948) 光太郎66歳

草稿のみ遺され、どこに掲載されたか不明の散文です。「新岩手日報に送る」とメモがありますが、同紙に掲載が確認できていません。紙面の都合でボツになったのでしょうか。

いずれにせよ、岩手の造型作家へのエールです。花巻温泉旧松雲閣別館にも見られる、この地の美的水準の高さを、光太郎は高く買っていました。

仏と鬼と銚子の風景 土屋金司 版画と明かり展/銚子浪漫ぷろじぇくとpresents語り「犬吠の太郎」。

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大正元年(1912)、光太郎智恵子が愛を確かめ合った千葉銚子でのイベント情報です。 
期   日 : 2018年4月27日(金)~30日(月)
会   場 : 飯沼山圓福寺(飯沼観音)本堂 千葉県銚子市馬場町1-1
時   間 : 10:00~16:00 (最終日15:00まで)
料   金 : 無料

仏と鬼と銚子の風景を版画で表現した旭市出身の版画家・土屋金司さんの作品展。

≪特別上演≫ 語り【犬吠の太郎】
 銚子浪漫ぷろじぇくとによる「犬吠の太郎」語り公演。土屋金司氏の版画と共にお楽しみください。当日は、境内にて和スイーツの販売(雨天中止)も実施いたします。
(開 催 日) 4月29日(日・祝)
(開催時間) 1回目12:00~ 2回目14:00~
(開催場所) 飯沼観音 本堂
(料金) 無料

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土屋氏は銚子に隣接する旭市のご出身だそうで、光太郎智恵子が宿泊した暁鶏館(現・ぎょうけい館)の館内にも作品が展示されています。記憶が定かではないのですが、そのうちの一枚が、光太郎詩「犬吠の太郎」(大正元年=1912)を刻んだ版画だったはずで、「≪特別上演≫ 語り【犬吠の太郎】」につながるのだと思われます。

太郎は暁鶏館で働いていた、当時で言うと下男。知的障害があったようで、現代では差別的表現になりますが「馬鹿の太郎」と呼ばれていました。しかし、皆から愛されるキャラクターだったようです。昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」(丹波哲郎さん、岩下志麻さん主演)では、故・石立鉄男さんが演じていました。

光太郎、太郎の(ややこしいですね(笑))印象が後々まで残っていたようで、昭和3年(1928)に書かれた詩「何をまだ指してゐるのだ」にも太郎が登場します。

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    何をまだ指してゐるのだ

 逆まく波のしぶきにうつそり濡れながら、
 あの岩の出鼻に裸で立つて、
 空の果まで何にも見えない沖の深みを見透すやうに、
 馬鹿の太郎は何をまだ指してゐるのだ。

 炎天溫気(うんき)の砂ほこりのまんなか、
 ゴオストツプの忙しい生産社会の人ごみにまぎれこみながら、
 建てかけた鉄骨の外には昼の月すら見えない空に手をあげて、
 馬鹿の太郎は何をまだ指してゐるのだ。 
 

会場の飯沼観音は、銚子の中心街です。昭和4年(1929)、光太郎を敬愛していた日中ハーフの詩人・黄瀛がここを訪れ、境内の火の見櫓から見た風景を「銚子ニテ」という詩に謳っています。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

一番危険なのは、アンデパンダン展がアンパンデタラメ展となることである。

散文「アンデパンダンについて」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

光太郎には珍しく、オヤジギャグが炸裂しています(笑)。

「アンデパンダン」は仏語の「Indépendants」。本来、「独立した人々」の意ですが、サロン等の公設展覧会に対する無審査、無賞の展覧会を指すようになりました。この年4月、盛岡市の松屋画廊で「第一回岩手アンデパンダン展」が開催され、深沢省三・紅子夫妻、舟越保武らも出品しました。

無審査であるのをいいことに、デタラメな作品がまかり通るようでは本末転倒、という警句です。

堀江信男『人と作品 高村光太郎』。

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旧刊の復刊です。 
2018年4月11日  堀江信男著 清水書院 イメージ 1
定価1,296円(税込み)

詩人としても彫刻家としても一流だった高村光太郎。西洋の生活を経験し独自の近代的自我を確立するが、封建的な制度や道徳を残す日本では彼は異端な存在であった。自我を生きようとする彼の妥協することなき偉大な生涯を描く。

目次
 第一編 高村光太郎の生涯
  宿命
  ヨーロッパ留学
  美に生きる
  智恵子の死
  モニュマン
 第二編 作品と解説
  詩人光太郎の誕生
  道程
  雨にうたるるカテドラル
  猛獣篇
  智恵子抄
  典型
 年譜
 参考文献
 さくいん
 


元版は、同じ清水書院さんから昭和41年(1966)に刊行イメージ 2されています。目次を見る限り、同一の内容のようです。

著者の堀江信男氏は、現在、茨城キリスト教大学名誉教授。

前半は簡潔な光太郎評伝。後半は詩集や、詩集のない時代には代表的な詩を中心とした作品鑑賞、という構成になっています。入門編としては好著です。

人と作品」というシリーズものの一冊で、シリーズ全体は、文芸評論家の故・福田清人氏の責任編集です。

光太郎以外の既刊は、有島武郎、菊池寛、国木田独歩、林芙美子、徳富蘆花、高浜虚子、坪内逍遙、二葉亭四迷、武者小路実篤、正岡子規、夏目漱石、北原白秋、斎藤茂吉、横光利一、田山花袋、永井荷風、堀辰雄、島崎藤村、泉鏡花、与謝野晶子、宮沢賢治、森鷗外、樋口一葉、芥川龍之介、太宰治、川端康成、志賀直哉、石川啄木、谷崎潤一郎。

当方の持っている昭和60年代の判に載っている巻末の広告では、佐藤春夫、萩原朔太郎、岡本かの子らもラインナップに入っていましたし、中原中也、三島由紀夫、井上靖などが刊行予定となっていました。今後も続刊されるのではないかと思われます。

それぞれ復刊であれば、最新の研究成果が反映されているわけではないと思いますが、入門編としてはよいのではないでしょうか。ただ、怖いのは、既に否定されている過去の定説がそのまま載ること。その点は注意が必要ですね。


【折々のことば・光太郎】

絵具や筆などといふ材料(メヂアム)を駆使するに二様ある。一つは多年の工夫と錬磨とで、材料の極微な性質までも承知してしまつて、按摩が浮世話をしながら肩を揉む程な熟練の域に到るのと、一つは、生(なま)な材料、初対面の材料にでも自分の熱い息を吹きかけて、たちどころに其を自分の勢力の下に屈服させて駆使するのとである。
散文「津田清楓君へ――琅玕洞展覧会所見――」より
明治44年(1911) 光太郎29歳

津田清楓は、光太郎の留学仲間でもあった画家です。その頃の津田を回想し、賞賛したあと、現在の津田にはあの頃の燃えるような情熱が感じられないとしています。そして展開される絵画論が上記の一節です。津田はそのどちらにもたどり着いていない、というのでしょう。

琅玕洞は、前年に光太郎が神田淡路町に拓いた画廊ですが、ちょうど一年で手放し、画家の大槻弍雄に譲られていました。

新聞各紙から。

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今月2日、東京日比谷で開催した当会主催の連翹忌とは別に、光太郎第二の故郷・岩手花巻でも花巻としての連翹忌、さらに光太郎が暮らした郊外旧太田村での詩碑前祭が行われました。

毎年、ネットでその報道を検索し、このブログでご紹介していましたが、今年それを報じて下さった地元紙『岩手日日』さん、それから『朝日新聞』さん、ともに有料会員向けページでの掲載で、読むことができませんでした。

ふと、当方事務所兼自宅のある千葉県香取市に隣接する、成田市の市立図書館さんで、『朝日新聞』さんの記事検索ができるデータベースサイト「聞蔵Ⅱビジュアル」が閲覧できることを思い出し、行って検索して参りました。 

光太郎の63回忌 詩を朗読、しのぶ 花巻市の高村山荘/岩手県

 彫刻家で詩人の高村光太郎の63回忌にあたる2日、光太郎が晩年を過ごした花巻市太田の高村山荘で詩碑前祭があった。約50人の住民が参加し、「道程」や「岩手の人」、「雪白く積めり」など光太郎の詩を朗読して故人をしのんだ。
 戦時中、宮沢賢治との縁で東京から花巻に疎開した光太郎は、戦後も1945年から7年間にわたり、当時の太田村山口の山荘で暮らした。
 厳寒の地で1人暮らした理由は、戦争協力詩などを書いたことへの「自責」とされているが、山荘時代の光太郎は、野良仕事帰りの村人をコーヒーでもてなすなど地域と様々な交流を重ねたという。
 白ひげのサンタクロース姿で村の小学校の学芸会に参加したことも。そこで光太郎から駄菓子を貰った記憶がある高橋征一さん(75)は、「クリスマスなんてなかった時代に華やかな気持ちになれた。当時は入植したじいさんだと思っていたが、ありがたい人です」となつかしんだ。
(2018.4.7)

高橋征一さんは、比較的有名なこの写真で、右から二人目。太田地区振興会の副会長さんで、この詩碑前祭や毎年5月15日の高村祭などの裏方を務められ、さらに光太郎の語り部としても活動なさっています。

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ありがたいですね。


ついでに先月末の神奈川版の記事。神奈川近代文学館さんで開催中の特別展「生誕140年 与謝野晶子展 こよひ逢ふ人みなうつくしき」に関してです。こちらは無料会員でも閲覧できる記事ですが。 

【神奈川の記憶】 (105)生誕140年「与謝野晶子展」

■恋・戦争…「まことの心」詠む
 ◇大胆でパワフル 行き方たどる
 歌人与謝野晶子の作品と人生をたどる特別展が神奈川近代文学館(横浜・港の見える丘公園)で開かれている。開館から34年、「取り上げたことのない最後の大物」だったというが、生誕140年を記念しての企画となった。
 晶子といえば、まず「みだれ髪」だろう。1901(明治34)年、22歳で刊行した第一歌集である。
  その子二十櫛(はたちくし)にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな
  やは肌のあつき血汐(ちしほ)にふれも見でさびしからずや道を説く君
 今日でも奔放さを漂わせる。美への思いや恋愛を若い女性が高らかに歌い上げたのだ。同時代の人には大きな驚きだっただろう。
 展示ではその背景を紹介している。与謝野鉄幹の存在だ。詩歌革新を掲げ「明星」を創刊した鉄幹は投稿作品を熱心に添削したが、晶子への指導は〈挑発〉だったと歌人の三枝昂之さんは指摘する。「京の紅は君にふさはず我が噛(か)みし小指の血をばいざ口にせよ」と「明星」に記した。「晶子の才能を見抜き、もっと大胆に、もっとパワフルに、と煽(あお)り続け」、生まれたのが「みだれ髪」だったと三枝さんは考える。
 晶子は髪が豊かでいつも髪を幾筋か垂らしていたので「みだれ髪の君」と呼ばれていたという。
 鉄幹と晶子はこの年、結婚。晶子の作品に刺激され北原白秋、高村光太郎、石川啄木らが参加し「明星」は浪漫派の拠点となる。
     *
 晶子といえばもう一つ思い出す「君死にたまふこと勿(なか)れ」も紹介されている。
 あゝをとうとよ君を泣く/君死にたまふことなかれ/末に生れし君なれば/親のなさけはまさりしも/親は刃をにぎらせて/人を殺せとをしへしや
 日露戦争が始まった1904年、激戦地の旅順に弟が送られた。当時、問題とされたのは、今日とは異なる視点からだった。
 すめらみことは戦ひに/おほみづからは出でまさね/かたみに人の血を流し/獣(けもの)の道に死ねよとは/死ぬるを人のほまれとは/大みこゝろの深ければ/もとよりいかで思(おぼ)されむ
 天皇は戦場に出ないと指摘したこの部分が、「世を害する」と国家主義の立場から厳しい批判を浴びた。
 それに対して晶子は、何かにつけて天皇の名をあげ「忠君愛国」を説くといった風潮は危険であり、私の好きな王朝文学の中で天皇が人に死ねという場面など見たことがないと指摘。さらに「まことの心うたはぬ歌に、何のねうちか候(そうろう)べき。まことの歌や文を作らぬ人に、何の見どころか候べき」と反論した。
 〈反戦詩〉として脚光を浴びるのは第2次大戦の後のことのようで、「家族を思う〈まことの心〉」を詠んだというのが晶子の思いだったようだ。
     *
 1878(明治11)年に晶子は大阪・堺の和菓子商の家に生まれた。店番のかたわら、蔵にあった古典を読みふけり育った。
 「一生の事業」として晶子は「源氏物語」の現代語訳に取り組むが、紫式部を「12歳の時からの恩師」と慕い、「式部と私との間にはあらゆる註釈(ちゅうしゃく)書の著者もなく候」と記している。
 「新訳源氏物語」全4巻を1913年に完成させたが、納得できなかった。そこで32年に改訳に乗り出した。35年には鉄幹が急逝。「新新訳源氏物語」全6巻が完成したのは39年。その翌年に脳出血で倒れ、42年に亡くなる。文字通りのライフワークだった。
 その生涯をたどるとパワフルさに圧倒される。鉄幹との間にもうけた子どもは12人。その子育てをしながら創作に励んだ。評論も数多く、戦前期を代表する女性論客ともいえそうだ。
 経済的にも家を支えた。鉄幹が不遇の時期を迎えると、鉄幹の渡欧を実現させようと資金集めに奔走。歌を百首も書き付けたびょうぶを売り出している。
 欧州からの手紙を受け取ると、晶子は7人いた子どもを親族に託し12年にパリへと旅立っている。
 近代日本に新たな表現世界をもたらした浪漫派の代表歌人とされる晶子だが、「顕彰されるようになったのは死後いくらかたってからでした」と文学館の浅野千保学芸員は説明する。その奔放さ、大胆さは「ふしだら」と受け止められがちだったようだ。
 展示をめぐりながら、ついつい思い浮かべるのは「忖度(そんたく)」がキーワードの昨今の風潮。晶子ならどんな歌を詠むのだろう。
 「歌は歌に候。後の人に笑はれぬ、まことの心を歌ひおきたく候」
 晶子のこの言葉が強く記憶に残った。5月13日までの開催。

ちなみに、「君死にたまふこと勿(なか)れ」を批判した急先鋒は、大町桂月。のちに光太郎が、桂月ら「十和田の三恩人」を顕彰する「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を制作することになるのは、不思議な縁だと思います。


もう1件。福島の地方紙『福島民友』さんから。 

【二本松】闇夜に浮かぶ「万燈イメージ 2桜」 道の駅「安達」でライトアップ開始

 二本松市の道の駅「安達」智恵子の里下り線の入り口にあるエドヒガンザクラの巨木「万燈(まんとう)桜」が満開となり、ライトアップが4日からスタートした。22日まで毎日午後6時30分~同10時に点灯する。
 万燈桜は樹齢約270年の一本桜で、高さ約15メートル。初日は同所で点灯式が行われ、同道の駅を運営する市振興公社社長の三保恵一市長が「利用者に大いに楽しんでもらいたい」とあいさつ。同社の松坂浩統括・駅長と共に点灯のスイッチを押した。
2018/04/06

万燈桜、樹齢はおよそ270年だそうで、かつてこの近くに住んでいた智恵子も見上げたのではないでしょうか。見事ですね。


ところで「聞蔵Ⅱビジュアル」、以前に国会図書館さんでそれを使って、光太郎生前の記事をいろいろ検索させていただきましたが、久しぶりに今回使ってみると、昔の記事も増えている、というか、検索能力が上がってでヒットする件数が増えているように感じました。また、『毎日新聞』さんのデータベース「デジタル毎日」も同様でした。筑摩書房さんの『高村光太郎全集』、その補遺である当方編集の「光太郎遺珠」(雑誌『高村光太郎研究』に連載中)にも漏れている、光太郎談話等が見つかりそうで、また調べに行って参ります。


【折々のことば・光太郎】

趣味は知識でも得られない。論理でも捕捉し難い。実に厄介至極なものである。

散文「富士見町教会堂の階上にて」より 明治44年(1911) 光太郎29歳

ここでいう「趣味」とは、「趣味は音楽鑑賞です」などの、「仕事・職業としてでなく、個人が楽しみとしてしている事柄」という意味ではなく、「悪趣味」といった、「どういうものに美しさやおもしろさを感じるかという、その人の感覚のあり方」の意です。

まさしくその通りですね。

大本泉『作家のまんぷく帖』。

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新刊です。 
2018年4月13日  大本泉著  平凡社(平凡社新書)  定価 840円+税

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食を語ることが、人生を語ることにつながっていく! 
極度の潔癖症で食べるのがこわかった泉鏡花、マクロビの先駆者だった平塚らいてう。赤貝がのどに貼りついて絶命した久保田万太郎、揚げ物の火加減に厳格なこだわりを見せた獅子文六、胃痛を抱えながら、酒と薬が手放せなかった坂口安吾など、食べることから垣間見える、作家という生き物の素顔に迫る。
樋口一葉、内田百、武田百合子、藤沢周平など総勢22人を紹介!

目次
 はじめに
 ◎樋口一葉 ── お汁粉の記憶 
   樋口家の事情/半井桃水との邂逅/ごちそうするのが好きだった一葉/お汁粉の記憶
 ◎泉鏡花 ── 食べるのがこわい
   生い立ち/潔癖症だった鏡花/酒も煮沸消毒/ハイカラだった鏡花
 ◎斎藤茂吉 ── 「俺はえやすでなっす」
   二足の草鞋/病気と食事/鰻と茂吉
 ◎高村光太郎 ── 食から生まれる芸術 
   「食」の「青銅期」/智恵子との「愛」そして「食」/「第一等と最下等」の料理を知る/「食」から芸術へ

 ◎北大路魯山人 ── 美食の先駆者 
   美の原初体験/「欧米に美味いものなし」/当時の星岡茶寮/山椒魚の食べ方/魯山人の死の謎
 ◎平塚らいてう ── 玄米食の実践者
   女性解放運動の先導者/平塚明の生涯/奥村博史との食生活/玄米食の実践/
   ゴマじるこの作り方/おふくろの味
 ◎石川啄木 ── いちごのジャムへの思い
   夭折の詩人・歌人/社会生活無能者?/啄木の好物/いちごのジャムへの思い
 ◎内田百 ── 片道切符の「阿房列車」
   スキダカラスキダ、イヤダカライヤダ/酒肴のこだわり/苦くすっぱいスイーツ?/三鞭酒で乾杯
 ◎久保田万太郎 ── 湯豆腐やいのちのはてのうすあかり 
   下町に生きる/苦手なものと好きなもの/下町にある通った店/絶命のきっかけとなった赤貝
 ☆コラム◉作家の通った店 江戸料理の「はち巻岡田」
 ◎佐藤春夫 ── 佐藤家の御馳走
   早熟な文壇デビュー/学生時代/奥さんあげます、もらいます/「秋刀魚の歌」/アンチ美食家きどり/  
   佐藤家の御馳走
 ☆コラム◉作家の通った店 銀座のカフェ「カフェーパウリスタ」
 ◎獅子文六 ── 「わが酒史」の人生 
   大食漢の作家「獅子文六」の誕生/家での獅子文六/グルメのいろいろ/「わが酒史」こそ人生
 ◎江戸川乱歩 ── うつし世はゆめ 夜の夢こそまこと 
   作家江戸川乱歩の誕生/転居、転職の達人/描かれた〈食〉/ソトとウチとの〈食〉
 ☆コラム◉作家の通った店 「てんぷら はちまき」
 ◎宇野千代 ── 手作りがごちそう 
   恋に「生きて行く私」/凝った食生活/手作りに凝る/長生きの秘訣
 ◎稲垣足穂 ── 「残り物」が一番 
   足穂ワールド/明石の食べもの/「残り物」が一番/「おかず」より酒・煙草/観音菩薩
 ◎小林秀雄 ── 最高最上のものを探し求めて
   評論家小林秀雄の誕生/「思想」と「実生活」/妹から見た小林秀雄/酒と煙草のエピソード/
   江戸っ子の舌/最高最上のものを探し求めて
 ◎森茉莉 ── おひとりさまの贅沢貧乏暮らし
   聖俗兼ね備えた少女のようなおばあさん/古い記憶にある味/おひとりさまの贅沢貧乏暮らし
 ☆コラム◉作家の通った店 「邪宗門」
 ◎幸田文 ── 台所の音をつくる 
   「もの書きの誕生」/幸田文の好物/食べるタイミングの大切さ/台所道具へのこだわり/心をつぐ酒/
   台所の音をつくる
 ◎坂口安吾 ── 酒と薬の日々
   作家坂口安吾の誕生/好物と苦手なもの/酒と薬の日々/安吾と浅草/桐生時代
 ◎中原中也 ── 「聖なる無頼」派詩人
   詩人中原中也の誕生/子供そのものだった中也/葱とみつば/銀杏の味/最期の煙草
 ◎武田百合子 ── 「食」の記憶 
   作家武田百合子の「生」/『富士日記』より/〈食〉の記憶
 ◎山口瞳 ── 〈食〉へのこだわり
   サラリーマンから専門作家へ/アンチグルメの〈食〉へのこだわり/山口瞳が通った店/家庭での食生活
 ◎藤沢周平 ── 〈カタムチョ〉の舌
   作家藤沢周平の誕生/〈海坂藩〉そして庄内地方の〈食〉/父としての藤沢周平
 おわりに
 主な参考文献



著者の大本泉氏は、仙台白百合女子大の教授だそうです。

光太郎に関しては、散文、詩、日記を引き、その幼少期から最晩年までの食生活等を追っています。引用されている詩文は以下の通り。

 散文「わたしの青銅時代」     『改造』 第35巻第5号 昭29(1954)/5/1
 対談「芸術よもやま話」       昭30(1955)/9/25談 10/25放送
 散文「ビールの味」           『ホーム・ライフ』 第2巻第8号 昭11(1936)/7/1
 詩「夏の夜の食慾」          『抒情詩』 第1巻第1号 大元(1912)/10/1
 散文「三陸廻り」            『時事新報』 昭6(1931)/10/13
 詩「晩餐」                『我等』 第1年第5号 大3(1914)/5/1
 詩「へんな貧」              『文芸』 第8巻第1号 昭15(1940)/1/1
 日記                    昭31(1956)/3
 詩「十和田湖畔の裸像に与ふ」  『婦人公論』 第38巻第1号 昭29(1954)/1/1

一読して、多くの資料を読み込んでいらっしゃるな、と感じました。ひところ、その時々にもてはやされていた「文芸評論家」のエラいセンセイ方が出版社からの要請で書いたであろうもので、たしかにもてはやされるだけあって鋭い見方が随所に表れているものの、明らかに読んだ資料の数が少ないな、と思えるものが目立ちましたが(現在も散見されます)、大本氏、かなりマイナーな散文にまで目を通されているようで、感心しました。

光太郎以外にも、光太郎智恵子と交流のあった平塚らいてう、佐藤春夫、中原中也などが取り上げられており、興味深く拝読。しかし、定番の夏目漱石や与謝野晶子、宮沢賢治などがいないと思ったら、平成26年(2014)、同じ平凡社親書で出ていた『作家のごちそう帖』ですでに取り上げられていました。

賢治といえば、光太郎、その精神や芸術的軌跡には共鳴しつつも、「雨ニモマケズ」中の「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」の部分は承伏できない、としています。特に戦後は、酪農や肉食を勧め、体格から欧米人に負けないように、的な発言も見られました。

光太郎と「食」に関しては、花巻高村光太郎記念館さんで、そのテーマによる企画展等も計画中だそうで、楽しみにしております。

さて、『作家のまんぷく帖』、ぜひお買い求め下さい。


花巻といえば、別件ですが、昨日ご紹介した4月2日の花巻での光太郎を偲ぶ詩碑前祭、昨日発行の『広報はなまき』にも記事が出ましたので、ご紹介します。

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【折々のことば・光太郎】

恐らく日本画は、いはゆる西洋画家によつて救はれるであらう。恐らく木彫は、いはゆる木彫家なる専門家によつてではなく、却つてその専門家の軽蔑する、思ひもかけぬ真の彫刻家の手によつて救はれるであらう。文章を救ふものは文章家ではなく、詩を救ふものはいはゆる詩人ではないであらう。これは逆説ともなりかねる程明白な目前の事実である。

散文「遠藤順治氏のつづれ織」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

その道の専門家は、専門性ゆえに固定観念に囚われ、新機軸を打ち出せないことが多いということに対しての警句でしょう。逆にしがらみを感じることのない門外漢が、新風を吹き込むことも確かにありますね。

遠藤順治は虚籟と号した綴織作家ですが、元々は智恵子と同じ太平洋画会に学んだ画家でした。光太郎はその織物作品に対し、まだ不十分なところがあるとしながらも高い期待を寄せ、遠藤のパトロンであった小沢佐助に木彫「鯰」を贈るなどして援助しています。

「日曜美術館 ヌードがまとうもの~英国 禁断のコレクション~」/新・BS日本のうた 五木シェフの歌声レストラン!全員参加で新鮮ソング三昧」。

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テレビ放映情報を2本、いずれも次の日曜です。 

日曜美術館 ヌードがまとうもの~英国 禁断のコレクション~

NHK Eテレ 2018年4月22日(日)  9時00分~9時45分   再放送 4月29日(日) 20時00分~20時45分

テーマはヌード!イギリスの国立美術館・テートの所蔵作品が登場。初来日となるロダンのなまめかしい石像から、風景画家ターナーが生涯、隠し続けた作品まで続々、見参。

横浜美術館で開かれている、ヌードをテーマとした展覧会。美の象徴として、愛の表現として、内面を映し出す鏡として、芸術家たちが挑み、形とした作品がずらり。ゲストの作家・島田雅彦らが、存分にヌードを語る。19世紀末に、そのなまめかしさを激しく批判され、描き直したミレイの「ナイト・エラント」、そして若き日の留学中にその実物を見て衝撃を受けた日本画の大家・下村観山が模写した作品も登場する。

司会  小野正嗣 高橋美鈴
ゲスト 島田雅彦(作家・法政大学教授)  長谷川珠緒(横浜美術館学芸員)
出演  小尾修(洋画家) 大植真太郎(ダンサー) 森山未來(俳優・ダンサー) 平原慎太郎(ダンサー)

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当方も拝見して参りました、光太郎が敬愛していたロダンの「接吻」大理石像を目玉とする、横浜美術館さんで開催中の「ヌード NUDE  ―英国テート・コレクションより」展が取り上げられます。

出演される、ダンサー系のお三方は、同展の関連行事として今月5日に開催された『談ス/NUDE』公演のキャスト。おそらくその模様がVで流れるのでしょう。

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ちなみに4年間、同番組の司会を務められていた、俳優の井浦新さんは、3月でご卒業なさいました。制作のお手伝いをさせていただいた平成25年(2013)10月放映の「智恵子に捧げた彫刻 ~詩人・高村光太郎の実像」の回の収録でお会いしたのが昨日のようです。当時、相棒だった伊東敏恵アナは、現在、甲府放送局で放送部副部長さんにご栄転なさっています。それぞれ新天地でのご活躍を祈念いたしております。


もう1件、同じ日の夜。
 

新・BS日本のうた「五木シェフの歌声レストラン!全員参加で新鮮ソング三昧」

NHK BSプレミアム 2018年4月22日(日) 19時30分~21時00分

お料理ミュージカル!? 歌う!踊る!注目の歌手が赤丸急上昇の新曲を持ち寄ってレストランは大賑わい▽童謡誕生100年・菅原洋一の心の歌▽“待ってました!”のあの名曲

 古今東西名曲特選
「夜明けのブルース」「熊野古道」「かえりの港」 智恵子抄 「柳ヶ瀬ブルース」「夫婦舟」「X+Y=LOVE」「北へ帰ろう」「恋歌酒場」
名曲の輝き
「揺藍のうた」「赤とんぼ」「この道」
スペシャルステージ
「家へおいでよ(カモナマイハウス)」「ミネソタの卵売り」「ジャンバラヤ」「味噌汁の詩」「港町 涙町 別れ町」「契り」ほか。
司会 小松宏司
出演 一条貫太 五木ひろし 小沢あきこ 冠二郎 菅原洋一 瀬口侑希 中澤卓也 野村美菜 はやぶさ 藤原浩 松前ひろ子 水森かおり ミッツマングローブ

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三代目コロムビア・ローズ改め野村美菜さんの「智恵子抄」がラインナップに入っています。昭和39年(1964)、二代目コロムビア・ローズさんリリースのカバーです。平成27年(2015)には、初代コロムビア・ローズさんも加わり、お三方で歌われました森昌子さんもレパートリーになさっています。

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それぞれ、ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

この原始芸術の姿を以てわれわれの前に並べられている十余点の彫刻は、相当目を驚かす類の怪奇さを示してわれわれに迫つてくるが、よく見ていると、その怪奇さを怪奇と感じさせない芸術のデリカシーがあつてわれわれをたのしく誘いみちびく。妙に心ひかれる。

散文「現代化した原始美 土方久功彫刻個展」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

若い頃には、大英博物館で見たエジプト彫刻に魅せられた光太郎。この頃手がけていた最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」にも、プリミティブな美と、「デリカシー」が込められているような気がします。

土方久功(明33=1900~昭52=1977)は、東京美術学校での後輩にあたり、昭和初期から戦局が烈しくなるまで、日本統治下にあったパラオで勤務していました。帰国後、南方の民俗、風俗を題材とした彫刻を手がけています。

毎日新聞 季語刻々。

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『毎日新聞』さん社会面に連載されている俳人・坪内稔典氏による連載「季語刻々」。古今の名句を毎日一句ずつ紹介するコラムです。これまでもたびたび光太郎の句を取り上げて下さっていましたが、昨日もご紹介下さいました。
 

季語刻々 ゴンドラにゆらりと乗りぬ春の宵 高村光太郎

 1946年4月17日朝、光太郎が住む今の岩手県花巻市郊外の山小屋はもやに包まれ、いかにも春暁らしい風景だった。お茶、チーズ、大根や煮干しが具のみそ汁、かゆ、たくあんがこの朝のメニュー。昼間は雨がけむって降った。以上、光太郎の日記を紹介した。取り上げた句は1909年にイタリアを旅行した際のベネチアの風景である。<坪内稔典>

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句自体は明治42年(1909)春、留学先のパリから、約1ヶ月、スイス経由でイタリア各地を旅行した際の吟です。この旅中には60句ほどの句を詠みました。大半は留学仲間だった画家の津田青楓に宛てた絵葉書等にしたためたものです。

解説で用いられているのは、約40年後の昭和21年(1946)、花巻郊外旧太田村の山小屋での日記。前年秋からの山小屋生活の初期は、日々の献立を日記に詳述していました。「食」に対する光太郎のこだわりが見て取れます。

光太郎の短歌は、『明星』関連で松平盟子氏などが近年だいぶ取り上げて下さっていますが、俳句の方はまだまだ脚光が当たっていません。もっと注目されていいものだと思われます。


【折々のことば・光太郎】

南君の芸術には如何にもなつかしみがある。大手を振つた芸術ではない。血眼になつた芸術でもない。尚更ら武装した芸術ではない。どこまでもつつましい、上品な、ゆかしい芸術である。

散文「南薫造君の絵画」より 明治43年(1910) 光太郎28歳

南薫造は、津田青楓同様、光太郎の留学仲間だった画家です。

他の作家への評ではありますが、光太郎が目指す芸術の一つのありようが示されています。

中公文庫『文豪と酒 酒をめぐる珠玉の作品集』。

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新刊情報です。 
2018年4月20日 長山靖生編 中央公論社(中公文庫) 定価820円+贅

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漱石、鴎外、荷風、安吾、太宰、谷崎ら16人の作家と白秋、中也、朔太郎ら9人の詩人の作品を厳選。酒に託された憧憬や哀愁がときめく魅惑のアンソロジー。

収録作品  屠蘇……夏目漱石「元日」  どぶろく……幸田露伴「すきなこと」  ビール……森鴎外「うたかたの記」  食前酒……岡本かの子「異国食餌抄」  ウィスキー……永井荷風「夜の車」  ウィスキーソーダ……芥川龍之介「彼 第二」  クラレット……堀辰雄「不器用な天使」  紹興酒……谷崎潤一郎「秦准の夜」  アブサン酒……吉行エイスケ「スポールティフな娼婦」  花鬘酒……牧野信一「ファティアの花鬘」  老酒……高見順「馬上侯」  ジン……豊島與志雄「秦の出発」  熱燗……梶井基次郎「冬の蝿」  からみ酒……嘉村礒多「足相撲」  冷酒……坂口安吾「居酒屋の聖人」  禁酒……太宰治「禁酒の心」  
●諸酒詩歌抄 上田敏「さかほがひ」  与謝野鉄幹「紅売」  吉井勇「酒ほがひ」  北原白秋「薄荷酒」  木下杢太郎「金粉酒」「該里酒」  長田秀雄「南京街」  高村光太郎「食後の酒」  中原中也「夜空と酒場」  萩原朔太郎「酒場にあつまる」


最近流行の、文豪アンソロジーものです。

光太郎作品は、詩「食後の酒」(明治44年=1911)。「雷門にて」の総題で、雑誌『スバル』に発表された5篇のうちの一つです。

  食後の酒イメージ 2

青白き瓦斯の光に輝きて
吾がベネヂクチンの静物画は
忘れられたる如く壁に懸れり

食器棚(ビユツフエ)の鏡にはさまざまの酒の色と
さまざまの客の姿と
さまざまの食器とうつれり

流し来る月琴の調(しらべ)は
幼くしてしかも悲し
かすかに胡弓のひびきさへす

わが顔は熱し、吾が心は冷ゆ
辛き酒を再びわれにすすむる
マドモワゼル、ウメの瞳のふかさイメージ 3


「マドモワゼル、ウメ」は、浅草雷門のカフェ「よか楼」の女給・お梅。吉原の娼妓・若太夫に失恋したあと、光太郎は今度はお梅に入れあげ、日に5回も通ったとか。ところがこの年の暮、智恵子と出会い、お梅との関係は解消します。

「ベネヂクチン」は「bénédictine」。仏国ノルマンジー地方のベネディクト派修道院に昔から伝わるリキュールです。その瓶を描いた光太郎の静物画が、よか楼の壁に掛けてあったそうですが、酔った光太郎自身がナイフで切り裂いてしまったとかいう逸話もあります。

右は少し下って大正3年(1914)に描かれたやはり洋酒の瓶の静物画。おそらく似たような絵だったのではないかと思われます。

強く辛い酒に酔いながらも、心のどこかは醒めている若き光太郎、この時、数え29歳です。

他に収録されている詩の作者で、光太郎と交流の深かった吉井勇、北原白秋、木下杢太郎、長田秀雄ら、すべて芸術至上主義運動「パンの会」のメンバーです。「よか楼」が「パンの会」会場となったこともありました。

ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

その軸がかかると私の粗末な四畳半に或るほのかな匂がただよふのである。ほのかであるが消えやらない、ロワンタンであるが深く実相にしみ入るけはひ、又殆とあるかと見れば無く無きかと見れば有るもののたたずまひである。

散文「松原友規小品画頒布会」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

松原友規は、光太郎も寄稿していた雑誌『潮音』の表紙画を書くなどしていた画家です。あまり有名な画家ではありませんでしたが、光太郎はその作を高く評価し、軸装して自室にかかげていたとのこと。

「ロワンタン」は仏語の「lointain」。「漠然とした」の意です。

平成30年度曹洞宗山梨県寺族会研修会「人生はいつも始発駅 ――高村智恵子と私――」。

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昨日は山梨県に行っておりました。『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡』著者で、太平洋美術会、高村光太郎研究会に所属なさっている坂本富江さんが講演をなさるというので、そのお手伝いでした。

講演は、曹洞宗の山梨県寺族会(寺院ご住職奥様の会)平成30年度総会の一環で、会場は、甲府市に隣接する笛吹市石和温泉のホテル古柏園さん。

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玄関前には観賞用の花桃の大きな鉢。いかにも山梨です。

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参加者は90名ほど。坂本さんが山梨韮崎のご出身なので、その関係で白羽の矢が立ったようです。

何かお手伝いすることはないかと申し出たところ、パワーポイントのスライドショーを作ってくれ、というので作成し、ついでに会場でのパソコンの操作も致しました。

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休憩をはさみ、90分ほど。智恵子の生涯、光太郎とのからみ、そしてそれらから坂本さんがご自身の人生にどういう影響を受けたか、というようなお話でした。

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山梨県ということで、現存が確認されている智恵子油絵3点のうちの一つ、「樟」が所蔵されている北杜市の清春白樺美術館さん、そこからほど近い、戦時中の昭和17年(1942)に「日本の母」顕彰運動のため光太郎が訪れた富士川町上高下(かみたかおり)地区のお話も。

サプライズのゲストもいらっしゃいました。平成27年(2015)、ノーベル生理学・医学賞受賞を受賞された、大村智博士。大村博士、坂本さんと同郷、さらに年度は違いますが、同じ韮崎高校さんのご出身で、以前からお知り合いだそうです。一昨日から新宿のヒルトピアアートスクエアさんで開催されている坂本さんの個展にもいらっしゃり、古柏園さんでのご講演の件を知って、ご実家に帰られる途中に立ち寄られたとのこと。

せっかくですのでご挨拶を賜りました。

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さらに記念撮影。

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分野は違えど、世界的な研究者の方のお隣で写真にイメージ 10
収めていただき、光栄の至りでした。

ちなみに大村博士、美術にもご造詣が深く、長年に渡って収集してきたコレクションを郷里の韮崎市に寄贈され、韮崎大村美術館として一般公開されています。また、光太郎の盟友・岸田劉生のご子孫の方から、光太郎彫刻「裸婦坐像」(大正6年=1917)を譲っていただいたそうです。

可能であれば連翹忌にもご参加いただきたいものです。

思わぬところでいろいろな方のご縁がつながるものだな、と思いました。仏教用語で言うところの「結縁(けちえん)」ということなのでしょう。


明日はその坂本さんの個展、さらに文京区千駄木の旧安田楠雄邸庭園で開催中の「となりの村さん展第2弾補遺「千駄木5-20-6」高村豊周邸写真展」を拝見して参ります。


【折々のことば・光太郎】

まるで税関の倉庫のやうに思もよらない貴重な雑多なものが、見かけはとんとがらくたじみて積込んである田夫の頭の中を本当に理解してくれる人は日本に少いやうであつた。
   につぽんは まことに まことに 狭くるし
   田夫支那にゆけ かの南支那に
と曾て私も歌つて彼の支那行を送つた事がある。

散文「宅野田夫を珍重す」より 大正13年(1924) 光太郎42歳

宅野田夫(たくのでんぷ)は、初め洋画家としてスタートし、のちに南画に転じた画家です。光太郎も言うように日本という枠に収まりきらないスケールの大きな人物でした。

大村博士にしてもそうですが、いったいにノーベル賞を受賞された日本人研究者の多くも、そういう感じですね。スケールの小さい日本では正当に評価されて来ず、ノーベル賞を受賞されてから、慌てて日本の文化勲章などが授与されるような。

「となりの村さん展第2弾補遺「千駄木5-20-6」高村豊周邸写真展」/「『智恵子抄』に魅せられて そして~今~ 坂本富江個展」報道。

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本日行って参ります都内での展覧会二つ、それぞれ報道されていますので、ご紹介します。  

まずは『東京新聞』さんの東京版で、昨日掲載された記事。「となりの村さん展第2弾補遺「千駄木5-20-6」村豊周邸写真展」に関してです。 

高村光太郎の弟、鋳金家・高村豊周 書斎、庭を写真で紹介

 詩人・高村光太郎の弟で工芸家の高村豊周(とよイメージ 1ちか)(一九七二年没)が暮らした家の写真展「となりの高村さん展」が、隣接する旧安田楠雄邸庭園(文京区千駄木五)で開催されている。高村邸は来月にも解体されることが決まっており、豊周の孫で写真家の達(とおる)さん(50)が、何とか形に残したいと撮影した。達さんは「当時のまま残してあった書斎などを見てほしい」と話している。 (原尚子)

 豊周は人間国宝の鋳金(ちゅうきん)(金物工芸)家で、「藤村詩碑」など数々の作品を残した。伝統的な手法を使いながらも新しい作風で知られ、工芸の近代化運動にも貢献。与謝野鉄幹・晶子夫妻に短歌を学び「歌ぶくろ」などの歌集も出している。

 高村邸は一九五八年築の数寄屋建築で、国の登録有形文化財だった。光太郎・豊周兄弟の父で彫刻家の光雲から家督を継いだ豊周が建てたが、息子で写真家の規(ただし)氏が二〇一四年に亡くなった後、老朽化もあって解体が決まったという。

 会場には、達さんが昨秋から最近まで何度も撮り直して厳選した約三十点を展示。雪景色や桜、咲き始めたばかりの藤棚といった四季折々の庭や書棚など、豊周が愛したたたずまいが、家族ならではの温かいまなざしで表現されている。達さんは「四歳のときに豊周が亡くなり、あまり記憶はないが、最後に書斎をバックに写真を撮った思い出の場所」と話す。

 都指定名勝の旧安田邸の公開日に合わせて二十一、二十五、二十八日に開催。旧安田邸の入館料(一般五百円、中高生二百円、小学生以下無料)が必要。畳の保護のため靴下を着用する。二十一、二十五日には高村邸の見学ツアーもあり、達さんも参加する。問い合わせは、旧安田邸=電03(3822)2699=へ。


続いて、昨日もご紹介した、太平洋美術会、高村光太郎研究会に所属されている坂本富江さんの個展。坂本さんご本人からコピーを頂きまして、『読売新聞』さんの東京版の記事だそうですが、大見出しが切れています。「智恵子」というのは判読できるのですが。

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 仕方がないので小見出しから始めます。

坂本さん個展 福島など1都10県巡り

 詩人・高村光太郎(1883~1956年)の妻、智恵子の足跡をたどり、風景画などを描いている元板橋区職員の坂本富江さん(68)の個展「『智恵子抄』に魅せられて そして~今~」が18日、新宿区西新宿の「ヒルトピアアートスクエア」で始まった。
 坂本さんは中学時代に光太郎の「道程」を読んだのをきっかけに、光太郎の作品のファンとなった。一方で、その光太郎が詩集「智恵子抄」で情熱的に描いた智恵子にも次第に興味を持つようになった。
 1995年以降、区で保育の仕事をしながら、智恵子の出身地の福島県や智恵子が光太郎と暮らした文京区千駄木など、1都10県を何度も巡り歩き、300枚以上の絵を描いてきた。なかでも、福島は何十回も訪れ、生前の智恵子の姿を追い求めた。
 東日本大震災の後には、少しでも復興に協力しようと、多くの人に福島などの被災地を訪れてもらうため、「スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅」を自費出版。1000部が完売した。
 個展では各地で描いた約50点の作品を展示している。坂本さんは「作品を通じて智恵子だけでなく、被災地にも思いをはせてもらえれば」と話している。24日まで。午前10時~午後7時で、24日は午後3時まで。問い合わせはヒルトピア7アートスクエア(03・3343・5252)へ。


明日からはそれぞれのレポートを載せます。


【折々のことば・光太郎】

南洋の諸民族とわれわれとには切つても切れない血縁がある。今われわれは新東洋芸術の確立に力を致さねばならない時に来てゐるが、支那朝鮮の古美術がかなり精しく研究されてゐる割合に、われわれの遠祖の一系である南洋の古美術はまだ本当に究められてゐない。われわれが東洋芸術に包摂綜合しなければならない此等の要素がまだ日本人に十分に摂取さへもされてゐない。

散文「片岡環渡闍作品頒布会」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

片岡環という人物に関しては、ネット上でもほとんどヒットしません。この文章に依れば、「新進彫刻家」だそうです。その片岡がジャワ島の古彫刻を研究しに行くため計画された作品頒布会の推薦文です。題名の「闍」はジャワの漢字表記「闍婆」の略ですね。

同じく南洋のパラオに渡った彫刻家・土方久功の作も高く評価した光太郎、どうも南洋系のプリミティブな美への憧憬があったようです。

都内レポート その1 「『智恵子抄』に魅せられて そして~今~ 坂本富江個展」。

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昨日は都内2箇所(というか3箇所というか)を廻っておりました。3回に分けてレポートします。

まずは新宿。都庁近くのヒルトン東京さんにあるヒルトピアアートスクエアで開催中の「『智恵子抄』に魅せられて そして~今~ 坂本富江個展」を拝見して参りました。

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会場前の看板的な。智恵子の故郷、福島二本松特産の上川崎和紙だそうです。

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早速、拝見。

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坂本さん、明治末に智恵子が学んだ太平洋画会の後身である太平洋美術会の会員であらせられますが、美大等で専門の美術教育を受けられたわけではありません。いい意味で、そういう部分でのアクの強くない素人っぽさが魅力の一つです。描く対象に真摯に向き合い、自己表現というよりは、対象の美しさを画面に込めようとしているのがよく分かります。

先日、山梨で開催されたご講演の際にも駆けつけてられた、ノーベル生理学・医学賞ご受賞の大村智博士も初日にお見えだったそうで、さっそく売約の札が。

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イメージ 4油絵以外にも、ご著書『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡』の原画も。その一角は、智恵子と二本松のコーナーのような感じにもなっていました。

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福島ご出身の方などが御覧になったら、喜ばれるのではないかと思いました。

「画廊での個展」というと、気取った堅苦しい感じに受け止められがちですが、坂本さんのお人柄がよく表れたアットホームな感じ、こういうと何ですが、ある意味、高校の文化祭のような、そんな肩の凝らない感じでした。

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これらは、山梨でのご講演の際、当方がパワーポイントのスライドショーを作成しまして、そのために送信されてきたデータです。これらの作品も展示されています。

会期は24日(火)まで。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

画家が或る対象に憑かれるといふ事は、その対象の等価体としての画面に憑かれることを意味する。しかし画面に憑かれたもの、必ずしも逆に或る対象に憑かれたものとは言ひ難い。自然の対象はいつも画面の等価を無視してゐるからである。画面にのみ憑かれた画家は程なく枯れる。

散文「庫田叕君の画を見て」より 昭和10年(1935) 光太郎53歳

画家はある対象を見て、それに感動してそれを描くものでしょう。しかし、いつの間にか主客が逆転し、描いている対象よりも、描かれた自己の作品に酔い、対象へのリスペクトが薄れ、アクの強い自己主張ばかりの作品となることが往々にしてあるよ、ということでしょうか。坂本さんの作品には、そういう過剰な自己愛的なものが感じられませんでした。

洋画家・庫田叕は、光太郎とも交流のあった『歴程』同人の詩人・馬渕美意子の夫でした。

都内レポート その2 「旧安田楠雄邸庭園 となりの村さん展第2弾補遺「千駄木5-20-6」高村豊周邸写真展」。

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都内レポート2回目です。イメージ 1

新宿での「『智恵子抄』に魅せられて そして~今~ 坂本富江個展」会場を後に、文京区千駄木に向かいました。目指すは光太郎実家の隣、旧安田楠雄邸。こちらで光太郎の実弟にして鋳金の人間国宝だった村豊周令孫・村達氏の写真展「となりの村さん展第2弾補遺「千駄木5-20-6」高村豊周邸写真展」が開催されています。

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受付で観覧料金を支払い、一路、写真展会場の2階へ。邸内の説明をボランティアガイドさんがなさって下さるのですが、昨秋、「となりの村さん展第2弾「写真で見る昭和の千駄木界隈」村規写真展」」を拝観した際に拝聴しましたので、割愛。

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老朽化のため解体されることになった光太郎実家の、四季折々を収めた達氏撮影の写真が20葉ほど。ご自分の育ったお宅に対する愛おしさとでもいうようなものが感じられました。

会場の安田邸が、ボランティアガイドさんの都合もあり、水、土のみの公開のため、写真展自体も明後日25日(水)、28日(土)と、あと2回のみの開催です。

後で達氏に、ラジオ局の取材が入ったと聞き、帰ってから調べましたところ、「ブルーレディオドットコム」というネットラジオで、達氏の写真家仲間・熊谷正氏のコーナーがあって、そちらで達氏のインタビューもオンエアされていました。しばらくはネット上でも配信されているようです。

その後、安田邸内外をじっくり拝観。大正8年(1919)の建築で、関東大震災後、旧安田財閥の安田善四郎が買い取り、平成7年(1995)まで安田家の所有でした。現在は公益財団法人日本ナショナルトラストさんによって管理されており、一般公開や企画展示などに活用されています。

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窓からは、楓や柏などの新緑が目に染みました。

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ここのみ洋風になっている応接間。

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台所。天井全体から採光されるようになっており、非常に明るかったイメージ 18のが印象的でした。当時としては珍しく、シンクやガスレンジなども完備されていたとのこと。

右は電気を使わず、氷を入れて全体を冷やすタイプの木製の冷蔵庫。いい感じですね。

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昨秋訪れた際には、庭の見学は致しませんでしたが、今回はそちらも拝観。

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指呼の距離にあった光太郎アトリエや、森鷗外宅・観潮楼などは、昭和20年(1945)の空襲で灰燼に帰しましたが、この一角は無事だったわけで、今もこうして観ることができます。


その後、安田邸見学者対象に、隣接する村邸の見学ツアーが行われました。当方は一足早く村邸へ。明日はそちらをレポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

絵画に画品と言ふものが顧みられない傾向は近年ますます激しくなつたやうで、画界には腕達者やいたづら者や粗率の者が充満してゐる。私はかやうな画家の作を眼から上に置いて観る気がしない。

散文「宮崎丈二色紙の会」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

絵画に限らず、すべての造形芸術、というか、造型限定でもない芸術全般には、確かに「品」が必要ですね。そして「品」は、「品性」やら「人品骨柄」やら「気品」やらで、人間性にも直結します。

都内レポート その3 村豊周邸。

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4/21(土)、文京区千駄木の旧安田楠雄邸で開催中の、写真家村達氏による写真展「となりの村さん展第2弾補遺「千駄木5-20-6」高村豊周邸写真展」を拝観した後、隣接する村家にお邪魔いたしました。写真展見学者対象に、高村家の見学ツアーが催されますが、ツアーが始まってしまうと、達氏はその対応に追われるであろうと予測し、その前に抜け駆けです(笑)。

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昔の住所で言うと、本郷区駒込林町155番地。イメージ 3明治25年(1892)、光太郎数え10歳の秋に、一家は谷中からこの地に引っ越してきました。2年前に東京美術学校教授・帝室技芸員に任じられた光雲は、シカゴ万博に出品する「老猿」(重要文化財)の制作中。しかし、夏の終わりに光太郎の姉・さく(咲)が、肺炎のため数え16歳の若さで歿し、辛い思い出の残る谷中の家を出て、この地に移ったそうです。

光太郎は欧米留学に出る同39年(1906)まで、さらに帰国後の同42年(1909)から、同じ町内に光太郎専用のアトリエ兼住居が竣工する同45年(1912)まで、ここに住みました(ごく短期間、日本橋浜町に下宿していた時期がありましたが)。

同44年(1911)、光太郎と智恵子が運命的に出会ったのもここです。太平洋画会で油絵を学んでいた智恵子が、先輩芸術家に話を聞くため重ねていた訪問の一環として、やってきました。

その後、家督相続を放棄した光太郎に代わり、実弟で光雲三男の豊周がこの家を継ぎ、子息の故・規氏、さらに達氏と受け継がれてきました。

建物自体は戦後に建て替えられましたが、敷石や庭木などはほぼ元のままだそうです。数寄屋建築をベースにした設計は、建築家吉田五十八の弟子、中村登一だそうで、平成26年(2014)に国指定登録有形文化財に選定されました。

師匠の吉田五十八は、光太郎も訪れた熱海に現存する岩波茂雄の別荘「惜櫟荘」の設計も手がけています。

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しかし、いかんせん老朽化がひどく、文化財としての指定を解除し、解体されることとなりました。その前に、外観だけでも一般公開を、ということになって、今回の企画が実現したそうです。

ツアーの皆さんが到着する前に、内部も特別に見せていただきました。

豊周、そして規氏が書斎として使っていた部屋。蔵書等はまだそのまま手をつけていないそうです。

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鋳金の人間国宝だった豊周作の鋳銅の花瓶、それから光太郎のブロンズ「裸婦坐像」(大正6年=1917)。なにげに置いてあったのでびっくりしました。

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やがてツアーの皆さんがご到着。

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安田邸のボランティアガイドさん、それから達氏による解説で、外から見学。

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幼少期の光太郎が登って遊んでいたという椎の木。もはや巨木です。竹は母屋の床を突き破ってしまうほどだそうです。

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こうした古い建築を遺すことの難しさ――部外者は無責任にいろいろ感じますが、当事者にとってみれば難題が山積という――を、改めて感じました。

旧安田楠雄邸での達氏写真展、そして村邸の見学ツアー、明25日(水)、そして28日(土)の、あと2日です。村邸見学はそれぞれの日の、13:00と14:30の各2回。安田邸で受付となっています。

この機会にぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

かういふ特質ある画家を十分に育て上げるやうな文化的環境が是非欲しい。同君の未来に私はわれわれ民族の内面形象を大に期待する。

散文「難波田龍起の作品について」より
昭和17年(1942) 光太郎60歳

難波田龍起は、上記村邸のすぐ裏に住んでいた洋画家です。光太郎にがっつり感化され、まずは詩、そして洋画の道へと進みました。

書写の里・美術工芸館 春季特別展示「書寫山圓教寺―歴史を語る美術と工芸」。

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兵庫県から企画展情報です。 
期    日  : 2018年4月21日(土)~6月3日(日)
会    場 : 書写の里・美術工芸館 兵庫県姫路市書写1223番地
時    間 : 午前10時~午後5時
料    金 : 一般 300円  大学・高校生 200円  中学・小学生 50円  20人以上の団体は2割引
休 館 日  : 月曜日(休日を除く)、休日の翌日(土曜・日曜、休日を除く) 
          4月24日(火)から5月6日(日)までは無休

 書寫山圓教寺(しょしゃざんえんぎょうじ)は平安時代に性空上人(しょうくうしょうにん)によって開かれた天台宗の古刹で、西国巡礼第27番札所として今日も参拝者が絶えることはありません。標高371mの人里から隔絶した山上の境内は、今も聖域としての凛とした空気が流れ、法灯を守り続けてきた伝統が感じられます。
 平成30年は西国三十三所草創1300年と位置づけられており、特に書寫山圓教寺を開いた性空上人は、途絶えていた観音巡礼を花山法皇らとともに再興した一人と伝えられることから、圓教寺にとって記念すべき年といえるでしょう。
 本展では、圓教寺に残る絵画や日常用いる仏具、什物など、圓教寺の歴史やかつての巡礼の賑わいを感じさせる作品を展示紹介します。

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関連行事

実演・解説「書写塗」
 平成30年4月30日(月祝) 5月4日(金祝)   (1)11:00~12:00 (2)13:00~14:00
 講師/岡田道明氏(塗師) 場所/企画展示室前
 備考/自由に見学できますが、入館料が必要です。漆にかぶれる体質の方はお気を付けください。

講演会「書写塗と精進料理」
 平成30年5月3日(木祝) 13:30~15:00
 講師/佐藤光明氏(書寫山寿量院) 場所/会議室
 備考/当日先着順40人、講演会は無料ですが、展示をご覧になるには入館料が必要です。

講演会「西国巡礼と書寫山圓教寺」
 平成30年5月20日(日) 13:30~15:00
 講師/大樹玄承氏(書寫山圓教寺執事長) 場所/会議室
 備考/当日先着順40人、講演会は無料ですが、展示をご覧になるには入館料が必要です。



光太郎の父・高村光雲と、さらに東京美術学校で同僚だった漆工家の六角紫水による「修正会(しゅしょうえ)鬼面」が展示されています。

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この面については、平成28年(2016)のこのブログでもご紹介いたしました。


お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

水野君は天成の書家である。不思議なほど書がおのづから出来てゐる。その上正しい習学を常に怠らないので、いかにも趣の深い、衒気の微塵も無い、清純な、しかも豊かな、格のたしかな書を書かれる。

散文「私も欲しい 水野葉舟書幅販布会」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

作家・水野葉舟は、第一期『明星』以来の光太郎の親友。能書家としても知られていました。「趣の深い、衒気の微塵も無い、清純な、しかも豊かな、格のたしかな書」には、やはり書に並々ならぬ興味を持っていた光太郎の良しとした、書のあるべき姿が表されているようです。

「ぶらぶらぶらぶら美術・博物館▽横浜美術館「NUDE」展~ヌードは挑戦だ!裸体表現の変遷」他。

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テレビ放映情報です。 

ぶらぶらぶらぶら美術・博物館▽横浜美術館「NUDE」展~ヌードは挑戦だ!裸体表現の変遷

BS日テレ 2018年5月1日(火) 21時00分~22時00分

誰もが一度は目にしたことがある古今東西の名画・彫刻・文化財を、時空を超えた“ライブなお散歩感覚"で体験します。作品の背景・エピソードを知れば、美術博物は身近で楽しいものに!名解説者・山田五郎、おぎやはぎと一緒にぶらぶらしよう!

英国国立美術館テートからロダンの「接吻」はじめ、マティスやピカソなど巨匠たちが“ヌード"を表現した傑作が来日! かわいい動物と触れ合える「オービィ横浜」も紹介。

出演者 山田五郎 おぎやはぎ(小木博明、矢作兼) 高橋マリ子

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先週放映された、NHKさんの「日曜美術館」でも取り上げられた、光太郎が敬愛していたロダンの「接吻」大理石像を目玉とする、横浜美術館さんで開催中の「ヌード NUDE  ―英国テート・コレクションより」展がメインです。


その「日曜美術館」の再放送もありますので、ご紹介しておきます。 
NHK Eテレ 2018年4月29日(日) 20時00分~20時45分

テーマはヌード!イギリスの国立美術館・テートの所蔵作品が登場。初来日となるロダンのなまめかしい石像から、風景画家ターナーが生涯、隠し続けた作品まで続々、見参。

横浜美術館で開かれている、ヌードをテーマとした展覧会。美の象徴として、愛の表現として、内面を映し出す鏡として、芸術家たちが挑み、形とした作品がずらり。ゲストの作家・島田雅彦らが、存分にヌードを語る。19世紀末に、そのなまめかしさを激しく批判され、描き直したミレイの「ナイト・エラント」、そして若き日の留学中にその実物を見て衝撃を受けた日本画の大家・下村観山が模写した作品も登場する。

司会  小野正嗣 高橋美鈴
ゲスト 島田雅彦(作家・法政大学教授)  長谷川珠緒(横浜美術館学芸員)
出演  小尾修(洋画家) 大植真太郎(ダンサー) 森山未來(俳優・ダンサー) 平原慎太郎(ダンサー)


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やはり目玉の作品だけあって、最初に大きく取り上げられました。

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昨年公開されたフランス映画「ロダン カミーユと永遠のアトリエ」で描かれた、ロダンとカミーユ・クローデルの禁断の愛も紹介されました。

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併せて御覧下さい。


再放送といえば、こちらも。  

にほんごであそぼ

NHK Eテレ 2018年4月27日(金)  6時35分~6時45分/17時00分~17時10分

2歳から小学校低学年くらいの子どもと親にご覧いただきたい番組です。日本語の豊かな表現に慣れ親しみ、楽しく遊びながら“日本語感覚”を身につけることができます。今回は、花鹿亭/「テスト」瀧川鯉八、ここで名文/僕の前に道はない…「道程」高村光太郎野村萬斎/ややこしや「まちがいの狂言」高橋康也、百人一首/かくとだにえやはいぶきのさしも草…(藤原実方朝臣)、名文を言ってみよう!/春はあけぼの、歌/蜘蛛の糸

出演 美輪明宏 野村萬斎 野村裕基 うなりやベベン 瀧川鯉八 ほか

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坂本龍一さん作曲の「道程」が、おおたか静流さんの歌で流れました。


もう1件。 

新・BS日本のうた「五木シェフの歌声レストラン!全員参加で新鮮ソング三昧」

NHK BSプレミアム 2018年4月28日(土) 12時00分~13時30分

お料理ミュージカル!? 歌う!踊る!注目の歌手が赤丸急上昇の新曲を持ち寄ってレストランは大賑わい▽童謡誕生100年・菅原洋一の心の歌▽“待ってました!”のあの名曲

 古今東西名曲特選
「夜明けのブルース」「熊野古道」「かえりの港」 智恵子抄 「柳ヶ瀬ブルース」「夫婦舟」「X+Y=LOVE」「北へ帰ろう」「恋歌酒場」
名曲の輝き
「揺藍のうた」「赤とんぼ」「この道」
スペシャルステージ
「家へおいでよ(カモナマイハウス)」「ミネソタの卵売り」「ジャンバラヤ」「味噌汁の詩」「港町 涙町 別れ町」「契り」ほか。
司会 小松宏司
出演 一条貫太 五木ひろし 小沢あきこ 冠二郎 菅原洋一 瀬口侑希 中澤卓也 野村美菜 はやぶさ 藤原浩 松前ひろ子 水森かおり ミッツマングローブ

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三代目コロムビア・ローズ改め野村美菜さんによる「智恵子抄」。

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智恵子の故郷・旧福島県安達町(現・二本松市)の皆さんのソウルソングです。作詞は二本松にほど近い小野町出身の故。・丘灯至夫氏。ソウルマウンテン安達太良山も歌い込まれています。ソウルフード「ざくざく」は入っていませんが(笑)。


それぞれ、ぜひ御覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

素より人間生活の全部を趣味といふやうな事ばかりで掩ふ事はなかなか出来ません。しかし又趣味のない人間生活、乃至は趣味の低い人間生活ほど惨憺たるものはありますまい。趣味の無い所には醜悪が必ず潜んで居り、憫む可き滑稽が必ず伏在してゐるやうに思はれます。

散文「趣味といふ事」より 明治45年(1912) 光太郎30歳

ここでいう「趣味」とは、「趣味は読書です」などの、「仕事・職業としてでなく、個人が楽しみとしてしている事柄」という意味ではなく、「趣味がいい」、「悪趣味」といった、「どういうものに美しさやおもしろさを感じるかという、その人の感覚のあり方」の意です。

いわば「花より団子」の「花」でしょうか。








セシオン杉並 「音のわコンサート」。

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演奏会情報です。 

音のわコンサート

期  日 : 2018年5月3日(木・祝)
会  場 : セシオン杉並 杉並区梅里1丁目22番32号
時  間 : 午後1時 から 午後4時 まで  開場:午後0時30分
料  金 : 500円(小学生以上)
出  演 : 吉田賢二郎(テノール)、音のわアンサンブル、カンタマンマ、ほか合唱団、吉田寛子(指揮)

合唱、器楽、声楽、吹奏楽のコンサートです。
・合唱の部
  音楽物語「鹿踊りのはじまり」(宮沢賢治原作)、智恵子抄より「或る夜のこころ」(高村光太郎作詩・吉田寛
  子曲)ほか
・吹奏楽の部
   「そら行け!浪漫飛行」、テノール(吉田賢二郎)と合唱&吹奏楽による「You Raise Me Up」ほか

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今年1月にカワイ出版さんから楽譜が刊行された、吉田寛イメージ 2子さん作曲の女声三部合唱曲「或る夜のこころ」がプログラムに入っています。指揮は吉田さんご自身だそうです。

それから、「音楽物語「鹿踊りのはじまり」」。詳細な情報が出ていないのですが、故・長澤勝俊氏作曲による昭和30年(1955)の作品ではないかと思われます。楽譜も残っておらず、昭和36年(1961)に演奏されたのを最後に忘れられていた作品でしたが、平成27年(2015)に過去の演奏のテープから楽譜を再現、宮沢賢治学会に寄贈されたというものです。


ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

男も、女も、共に人間を進めてゆかなければ為やうがない。
散文「女みづから考へよ」より 大正2年(1913) 光太郎31歳

智恵子がその創刊号の表紙絵を描いた『青鞜』に端を発する、「婦人運動」について述べた文章の一節。ヒステリックに女性解放を声高に叫ぶのではなく、性別を超越した人間性の涵養こそが大事、という論調です。

新聞等コラムから。

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このところ、このブログでご紹介すべき事柄が多く、後手後手に回っています。全国の新聞等の一面コラムなどで、光太郎智恵子の名を上げて下さっているものが5件ほど溜まってしまいました。ネタの少ない時期でしたら無理矢理それ一つで1日分のブログ記事としていますが、新刊書籍等でも未紹介のものがありますし、週末にはまた遠出をしますので、そのレポートも書かねばなりません。そこで、一気に5件紹介します。

季語刻々 朝ぐもり窓より見れば梨の花イメージ 1

 「晴、雨やみ、風をさまる。うす日もさす。温。朝食、むし飯、みそ汁(コブ、フキノタウ、もどしスルメ)、たくあん。茶」。1946年4月19日の光太郎の日記の冒頭部を写した。彼は今の岩手県花巻市郊外で1人暮らしをしていた。戦争を賛美した愚かな自分をその1人暮らしで処断したのだ。俳句はイタリア旅行中の1909年の作。
<坪内稔典>
(2018/04/19)

まずは『毎日新聞』さんの俳句コラム「季語刻々」。4月17日にも取り上げて下さいました。続けてのご紹介、ありがたいです。


続いて九州は『宮崎日日新聞』さんの一面コラム。 

くろしお 続けることの尊さ

 人手不足の県内企業にとって朗報だ。県立高校を卒業した生徒の県内就職率が57・4%と過去5年間で最高となった。生徒の志向に企業が情報発信で応えた成果といえよう。
 大事なのは長く勤めることだ。全国の平均だが、高卒就職者の3年後の定着率は6割弱。適性を考えて前向きな転職ならば仕方ないが、なるべく踏みとどまってほしい。春のゴールデンウイーク明けも五月病にならないように、仕事を続ける意義を考えていたい。
 亡くなった衣笠祥雄さんは手本だ。2215試合連続出場のプロ野球記録が輝かしい。死球で骨折しても出続けた。打者の実績はもちろん立派なのだが、ベンチにいつもいるという安心感だけでもチームへの貢献度は大きかったはずだ。
 「続けることに意味がある」とよく聞く。何でもできる人でも、行う対象を制限して腰を据えて努力を注入した方が大きな業績を上げるケースを実際に見聞することが多いからだろう。生き方は人それぞれだが衣笠さんの野球人生は継続の大事さを教えてくれる。
 「牛は非道をしない/牛はただ為(し)たい事をする/自然に為たくなる事をする/牛は判断をしない/けれども牛は正直だ/牛は為たくなって為た事に後悔をしない/牛の為た事は牛の自信を強くする」。高村光太郎の「牛」という詩から。
 一つの仕事に専念する尊さを牛の姿に託した。スピード感が重視される時代ではあるが、長い目で見れば牛歩でも確実に積み上げる仕事が評価される時が来る。そのためには健康が必要条件。それも衣笠さんが教えたプロの自己管理術だ。
(2018/04/26)

引用されている「牛」は、大正2年(1913)の作。全文で115行もある長大な詩です。光太郎は、自分を牛に例えることが時々ありました。戦後の昭和25年(1950)には「鈍牛の言葉」という詩も書いています。


次に、『日本経済新聞』さん。昨日の一面コラムです。 

春秋 

 「智恵子は東京に空が無いといふ、/ほんとの空が見たいといふ」。詩人の高村光太郎は生前の妻の言葉を「あどけない話」という作品にそう残している。東京で体を壊しては故郷の福島で調子を戻す。そんな彼女にとり、本当の空は故郷の山の上に広がる青空だった。
▼「空が無い」東京も、終戦直後は広々とした青空が覆っていた。東京・九段下の博物館「昭和館」で開催中の写真展「希望を追いかけて」で、改めて知った。焼け跡、バラックの家、平屋かせいぜい2階建ての商店街。永田町も渋谷も表参道も、空の青さとそこここに残る緑が印象的だ。撮影者は米国の鳥類学者だという。
▼同じ昭和館で「女学生たちの青春」という企画展も開催している。こちらは戦争中の写真が中心で、訓練で銃を構え、ガスマスクを付け、あるいは動員されて工場や畑で働く少女たちの緊張した面持ちが並ぶ。比べて見るせいか、戦後を生きる人々の顔は子供も大人も明るい。あけっ広げな街の空気が、それとよく似合う。
▼いま東京は何度目かの再開発ブーム。オフィスに商業施設に小ぎれいなビルが増え、空は狭くなるばかりだ。「一億総活躍」の旗のもと、そこで働く人たちの顔は輝いているだろうか。智恵子は最後に心のバランスを崩した。明日から連休。しばし喧噪(けんそう)を離れ、ふるさとで、近くの公園で、自分だけの青空を探すのもいい。

ちなみに当方明日から、智恵子の愛した「ほんとの空」の下を通過し、秋田・青森方面に行って参ります。


同じく昨日、『朝日新聞』さん夕刊のミニコラム「素粒子」。 

素粒子 

 〈僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る〉。板門店での文在寅(ムンジェイン)、金正恩(キムジョンウン)両首脳の握手を見ていて、高村光太郎の詩「道程」が思い浮かんだ。
    ◎
 北朝鮮をいかに国際社会に結びつけるか。米中はじめ関係国の長い「道程」が始まる。
    ◎
 安倍政権も道普請役を果たせるかが問われる。心配なのは近い国ほど疎遠な現状だ。中国、韓国、そして北朝鮮。

ここで「道程」か、という感じでした(笑)。


ついでと言っては何ですが、物流、運送、ロジスティクス業界の業界紙『物流ウィークリー』さんでも、おそらく一面コラム的なところで「道程」を引いて下さっています。4月16日発行号です。 

射界

 先輩がつくった道を歩むのは楽で簡単だ。完成した道を忠実にたどればよいからである。そんな人に「何か新しいことをやれ」と指示しても、「前例がない」と反論するだろう。だが詩人の高村光太郎は「ぼくの前に道はない。ぼくの後ろに道はできる」と訴え、新しさに立ち向かう勇気を讃える。
  ▲時代がどんどん変化していく現在、十年一日のごとく前例踏襲の姿勢では、時流に取り残されて当然であろう。一昔前までは組織を安泰に維持するには「減点主義」がよいとの認識であった。指示された事柄を忠実にこなし、いささかのミスもないように仕上げるのがベストとされた。長い間受け継がれてきた習慣にならって過ごす…それを要諦としてきた。
 ▲しかし、時代の移り変わる速度は予想を超えて激しさを増す。そして「減点主義」では追い付かず、いよいよ「加点主義」の時代になった。いたずらに「前にならえ」の減点主義に固執していては色あせるばかり。この環境から抜け出て他人と異なる創造性を、いかに発揮できるかに価値判断の基準が進化し、「加点主義」台頭の動きが一段と活発化している。
 ▲人間の若さは、「創造の楽しみ」の多い少ないで決まると言った賢人がいるが、減点主義にはまって脱出できず、先人がつくった道を踏み外さぬ人に創造性を求めても夢でしかない。「自分の後ろに道をつくろう」という気概こそが若さである。前例のない道をつくり、歩む足どりは活気に満ちている。そこに求められるエネルギーは莫大だが感動もまた大きい。


それぞれに、光太郎智恵子に絡めて時候や時事問題を論じていますが、それぞれにさすがですね。


いつも書いていますが、光太郎智恵子の名が忘れ去られ、「道程」や「あどけない話」が引用されても、「何だ、これ?」ということにならないようであってほしいと、切に願います。


【折々のことば・光太郎】

恐らく、真に眼をさました女が満足して、十分に尊敬して手を取つてゆく男の人は稀れであらう。それは女に取つて随分不幸な事である。それだから日本のやうな思想の幼稚な国では、さういふ眼の醒めた女が独身に傾くのは已むを得ない。

談話筆記「女の生きて行く道」より 大正2年(1913) 光太郎31歳

時事問題と言えば、非常に情けないセクハラ問題が連日、メディアを賑わしています。官庁トップのキャリア官僚が聴くに堪えない品性下劣なセクハラ発言をし、開き直り、監督責任のある大臣も事の重大さを解っていない現状。100年以上前に光太郎が「思想の幼稚な国」と断じ、女性の生きにくさを嘆いた、そのままに進歩していないのですね。
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