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『石川九楊著作集Ⅸ 書の宇宙 書史論』。

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新刊情報です。

一昨年、NHK Eテレさんでオンエアされた「趣味どきっ!女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門 第5回「智恵子、愛と死 自省の「道程」 高村光太郎×智恵子」」 にて講師を務められ、光太郎の書もご紹介下さった、書家の石川九楊氏の著作集全12巻が、ミネルヴァ書房さんから刊行中です。

石川氏、光太郎の独特な書を高く評価して下さっていて、さまざまな著作で光太郎書を取り上げられています。昨年刊行された『石川九楊著作集Ⅵ 書とはどういう芸術か 書論』、『石川九楊著作集Ⅰ 見失った手 状況論』でも、光太郎に触れる部分がありました。

さて、同じ著作集の第九巻、『石川九楊著作集Ⅸ 書の宇宙 書史論』。 版元のサイトでは3月刊行となっていましたが、amazonさんなどでは今月刊行の扱いになっています。やはり光太郎に触れる部分が含まれています。定価は9,000円+税だそうです。

目次イメージ 1

序 書に通ず

第一部 書とはどういう芸術か
 第一章 書は筆蝕の芸術である
 第二章 書は文学である
 第三章 書の美の三要素――筆蝕・構成・角度
 第四章 書と人間
第二部 早わかり中国書史
 第一章 古代宗教文字の誕生――甲骨文・金文
 第二章 文字と書の誕生――篆書・隷書
 第三章 書の美の確立――草書・行書・楷書
 第四章 書の成熟とアジア――宋・元・明の書
 第五章 世界史の中の中国書――清の書
第三部 早わかり日本書史
 第一章 日本の書への道程
 第二章 日本の書の成立
 第三章 新日本の書――漢字仮名交じり書の誕生
 第四章 鎖国の頹*廃と超克
第四部 書の現在と未来を考える
 第一章 西欧との出会い――近代の書
 第二章 文士の書と現代書
 第三章 戦後書の達成
 第四章 書の表現の可能性

[書の宇宙]
 第一章 「言葉」と「文字」のあいだ――天への問いかけ/甲骨文・金文
 第二章 「文字」は、なぜ石に刻されたか――人界へ降りた文字/石刻文
 第三章 「書」とは、どういうことなのか――書くことの獲得/簡牘
 第四章 石に溶けこんでゆく文字――風化の美学/古隷
 第五章 石に貼りつけられた文字――君臨する政治文字/漢隷
 第六章 「書聖」とは、何を意味するのか――書の古法(アルカイック)/王羲之
 第七章 書かれた形と、刻された形と――石に刻された文字/北朝石刻
 第八章 書の典型とは何か――屹立する帝国の書/初唐楷書
 第九章 「誤字」が、書の歴史を動かす――言葉と書の姿/草書
 第一〇章 書の、何を受けとめたのか――伝播から受容へ/三筆
 第一一章 書の、何が縮小されたのか――受容から変容へ/三蹟
 第一二章 和歌のたたずまい――洗練の小宇宙/平安古筆
 第一三章 書の文体(スタイル)の誕生――書と人と/顔真卿
 第一四章 書史の合流・結節点としての北宋三大家――文人の書/北宋三大家
 第一五章 中華の書は、周辺を吞みこんでゆく――復古という発見/元代諸家
 第一六章 書くことの露岩としての墨蹟――知識の書/鎌倉仏教者
 第一七章 書であることの、最後の楽園――文人という夢/明代諸家
 第一八章 紙は、石碑と化してゆく――それぞれの亡国/明末清初
 第一九章 万世一系の書道――変相(くずし)の様式/流儀書道
 第二〇章 いくつかの、近世を揺さぶる書――近代への序曲/儒者・僧侶・俳人
 第二一章 書法の解体、書の自立――さまざまな到達/清代諸家①
 第二二章 篆・隷という書の発明――古代への憧憬/清代諸家②
 第二三章 篆刻という名の書――一寸四方のひろがり/明清篆刻
 第二四章 新たな段階(ステージ)への扉――書の近代の可能性/明治前後

 [書の終焉――近代書史論]
 序
 書――終焉への風景
 Ⅰ
  明治初年の書体(スタイル)――西郷隆盛
  世界の構図――副島種臣
  写生された文字――中林梧竹
  異文化の匂いと字画の分節――日下部鳴鶴
 Ⅱ
  「龍眠帖」、明治四十一年――中村不折
  再構成された無機なる自然――河東碧梧桐
  最後の文人の肖像――夏目漱石
  ことばと造形(かたち)のからみあい――高村光太郎
  短歌の自註としての書――会津八一
 Ⅲ
  位相転換、その結節点――比田井天来
  主題への問い――上田桑鳩
  諧調(グラデーション)の美学――鈴木翠軒
  〈動跡〉と〈墨跡(すみあと)〉への解体――森田子龍
  文字の肖像写真(ポートレート)――井上有一
 Ⅳ
  日本的様式美の変容――小野鵞堂・尾上柴舟・安東聖空・日比野五鳳
  現代篆刻の表出――呉昌碩・斉白石・河井荃廬・中村蘭台二世

凡 例
解 題
解 説 実感的書論(奥本大三郎)


「書の終焉――近代書史論」中の、「ことばと造形(かたち)のからみあい――高村光太郎」は、完全に光太郎の項ですが、それ以外にも、「文士の書と現代書」などの部分で、光太郎に触れられているはずです。

最新刊は別巻Ⅱの『中國書史』。これが第11回配本で、最終巻の別巻Ⅲ『遠望の地平 未収録論考』が出れば完結です。このブログでご紹介した巻以外にも、光太郎に触れられている部分がありそうな気がしますので、完結後に大きな図書館で全巻を見渡してみようと思っております。


光太郎書といえば、花巻高村光太郎記念館さんの、今年度の企画展。秋には昨年に引き続き、智恵子紙絵。そして冬には光太郎書を扱うそうです。同館には光太郎書の所蔵が非常に多く、常設展示では展示しきれません。そこで、普段、展示に出していない書にも陽の目をあてようというコンセプトになるようです。

秋の智恵子紙絵ともども、詳細が決まりましたら、またお伝えします。


【折々のことば・光太郎】

私は原理ばかり語る。 私は根源ばかり歌ふ。 単純で子供でも話す言葉だ。 いや子供のみ話す言葉だ。
詩「発足点」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

空虚な美辞麗句の羅列や、もってまわったまだるっこしい物言いでなく、だから光太郎の詩はいいのだ、と、当方は思います。

花巻に来ております。

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今朝、千葉の自宅兼事務所を出まして、光太郎第二の故郷、岩手花巻に来ております。

まず、花巻市博物館さんで開催中の企画展「没後50年 多田等観 ーチベットに捧げた人生ー」を拝見。昭和20年代、光太郎が隠遁生活を送った旧太田村の隣村、湯口村の円万寺の堂守りだったチベット仏教学者にして僧侶の多田等観に関する企画展です。

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等観と光太郎とは、お互いの草庵を行き来しており、今回、等観遺品の中の光太郎から贈られた品も展示されていて、興味深く拝見しました。

ついでに等観が堂守りを務めていた円万寺さんも参拝。

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今夜泊めていただく台温泉♨松田屋旅館さんに荷物を置き、花巻高村光太郎記念館さんに向かう途中です。

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夕方から市民講座「新しくなった智恵子展望台から星を見よう」があり、講師を仰せつかっております。ただ、現在、どんより曇っていて、星は無理そうです。

詳しくは帰りましてからレポート致します。

盛岡から帰る途上です。

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昨夜は花巻の台温泉、昭和26年(1951)に光太郎が泊まった松田屋旅館さんに泊めていただき、今日は盛岡に移動。岩手県立美術館さんで開催中の「巨匠が愛した美の世界 川端康成・東山魁夷コレクション」展を拝見しました。

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光太郎が「智恵子抄」中の詩句を記毫した扇が出品されていて、興味深く拝見しました。

その後、多少、光太郎に関わる常設展示がなされている盛岡てがみ館さん、啄木・賢治青春館さんを見まして、帰途に就いております。

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詳しくは帰りましてからレポート致します。

岩手レポート その1 花巻市立博物館「没後50年多田等観~チベットに捧げた人生と西域への夢~」展。

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1泊2日の行程を終え、昨日、岩手から千葉の自宅兼事務所に帰って参りました。5回ほどにわけてレポートいたします。

7/29(土)、最初に向かったのは、花巻市博物館さん。企画展「没後50年多田等観~チベットに捧げた人生と西域への夢~」拝見のためでした。

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左はチラシ、右は図録の表紙です。

多田等観は、明治23年(1890)、秋田県生まれの僧侶にしてチベット仏教学者です。京都の西本願寺に入山、その流れで明治45年(1912)から大正12年(1923)まで、チベットに滞在し、ダライ・ラマ13世からの信頼も篤かったそうです。その後は千葉の姉ヶ崎(現市原市)に居を構え、東京帝国大学、東北帝国大学などで教鞭も執っています。

昭和20年(1945)、戦火が烈しくなったため、チベットから持ち帰った経典等を、実弟・鎌倉義蔵が住職を務めていた花巻町の光徳寺の檀家に分散疎開させました。戦後は花巻郊外旧湯口村の円万寺観音堂の堂守を務め、その間に、隣村の旧太田村に疎開していた光太郎と知り合い、交流を深めています。

ところで、以前、このブログで等観について、「花巻(湯口村)に疎開していた」的なことを書きましたが、誤りでした。従来刊行されていた文献にそう書かれているものが多く、それを鵜呑みにしていました。正確には妻子を千葉に残しての単身赴任、といった感じだったようです。その期間が長かったのと、チベット将来の品々を疎開させたことから、地元でも「等観さんは花巻(湯口村)に疎開していた」と思いこんでいた人が多かったのこと。

さて、展示。ほとんどが、そのチベット将来の品々でした。最後に「等観と花巻」というコーナーが設けられ、光太郎から贈られたものが展示されていました。

まずは、昭和22年(1947)9月5日、光太郎が円万寺の等観の住まいを初めて訪れた際に揮毫した団扇。

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以前から写真では見ていましたが、実物は初めて拝見しました。それから、単なる渋団扇だろうと勝手に思い込んでいたところ、さにあらず。貼ってあるのはやはりチベットから持ち帰った紙だということでした。光太郎に続いて、元旧制花巻中学校長の佐藤昌も揮毫しています。佐藤は昭和20年(1945)8月10日、花巻空襲でそれまで滞在していた宮沢賢治の実家を焼け出された光太郎を、無事だった自宅に一時住まわせてくれていました。

それから、画像はありませんが、同じ時に光太郎が等観に贈った、草野心平編、鎌倉書房版の『高村光太郎詩集』。残念ながらその部分は見えませんでしたが、等観当ての識語署名が入っているとのことでした。

そしてもう一点、昭和24年(1949)1月5日に等観に宛てて書いた葉書。

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曰く、

拝啓、先日はお使ひにて八日にお招き下され、忝く、当日参上するのをたのしみに致し居りましたが、昨夜以来降雪となり、その降雪量次第で出かけにくくなるやも知れず、事によると不参になるとも考へられますので念の為め右一寸申上げます。なるべくなら出かけたいとは存じますが。

この前後の光太郎日記から。

十時頃観音山より例の老翁使に来り、八日に来訪され一泊されたしと多田等観さんの伝言を伝へらる。多分ゆけるならんと返事す。茶を入れる。(1月3日)

昨夜来雪。終日ふりつづき、一尺ほどつもる。(略)多田等観氏にハガキをかき、降雪量多ければ八日に不参するかもしれぬ旨述べる(1月5日)

観音山行を中止する。雪中歩行が一寸あぶなく感ぜられる。(1月8日)

午前多田等観氏来訪。近く東京にゆくにつき来訪の由。ゆけなかつた事を述べる。観音山の話、法隆寺の話、西蔵の話などいろいろ、(略)ひる餅をやき、磯焼にして御馳走する。午后一時半辞去。清酒一升もらふ。昨日一緒にのむつもりなりし由。(1月9日)

今回、葉書が展示されているという情報は事前に得ておりましたが、細かな日付などは不明でした。日記と照らし合わせると、おそらくこの時のものだろうと思っていましたところ、その通りでした。パズルのピースがかちっと嵌る感じで、こういうところが面白いところです。


その後、等観が単身赴任していた郊外旧湯口村の円万寺さんに。以前もここを訪れたことはありましたが、このブログではそのあたり、省略していました。

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以前に訪れた時は路線バスを使い、麓から徒歩で登りました。かなりの坂で、きつかったのを記憶しています。光太郎も「山の坂登り相当なり。汗になる。」と日記に書いていました。今回はレンタカーを借りていたため、すいすいと。光太郎先生、すみません(笑)。

それだけに、ここからの眺望はすばらしいものがあります。「イグネ」または「エグネ」と呼ばれる屋敷森がいい感じです。

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等観が起居していた草庵「一燈庵」。

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光太郎の山小屋(高村山荘)に勝るとも劣らない粗末さです(笑)。扁額はレプリカのようで、本物は企画展に展示されていました。

その材となった「姥杉」。「尚観音堂傍に祖母杉と(ウバスギ)と称する杉の巨木の焼けのこりの横枝ばかりの木あり。この枝のミにても驚くばかりの大きさなり。枯れたる幹の方の太さ想像さる。直径三間余ならん。」と、光太郎日記にも記されています。

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こんな看板もありました。さすがに自然が豊かです。

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これだけはいただけませんが(笑)。

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遠き日、二人の巨魁の築いた友情に思いを馳せつつ、下山しました。

続きは明日。


【折々のことば・光太郎】

最も低きに居て高きを見よう。 最も貧しきに居て足らざるなきを得よう。

詩「冬」より 昭和14年(1939) 光太郎57

同様の表現が、このあと頻出します。しかし、この境地に本当に達するのは、やはり戦後、花巻郊外旧太田村に隠遁してからのことになります。

岩手レポート その1 花巻高村光太郎記念館「夏休み親子体験講座 新しくなった智恵子展望台で星を見よう」。

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7/29(土)夕刻、花巻高村光太郎記念館さんに到着。この日は記念館さんの市民講座「夏休み親子体験講座 新しくなった智恵子展望台で星を見よう」の講師を仰せつかっておりました。

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市の広報誌などでも宣伝していただき、十数組、30名ほどの親子と、地元の方が若干名、ご参加下さいました。せっかくそれだけの申し込みがあったにもかかわらず、あいにくの曇り空でした。

ところが、開始時刻が近づくと、雲が切れ始めました。

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これなら、少しは星も見えるかな、という感じでした。

午後七時、記念館の展示室1、光太郎彫刻が並んでいるスペースで、開会。

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はじめに当方の話でした。ただ、メインは星空の観察ですので、短く切り上げました。彫刻や詩歌で「美」を追い求めた光太郎、山川草木鳥獣虫魚などの大自然にも美を見いだし、その一環として、天体にも関心を持っていたらしいこと、特に、記念館のある旧太田村山口に隠遁してから、市街地では気づきにくい天体の美しさに憑かれたこと、約70年前に光太郎が見上げたのと同じ星空と思って見てほしいことなどをお話しさせていただきました。

レジュメでは、天体についての記述がある光太郎文筆作品を紹介しました。はじめにこの企画の話が出た際、当方が講師を仰せつかるつもりもなく、適当に「こんなものまとめましたので、よかったら使って下さい」と、お送りしたもので、それも急いで作ったので、文筆作品といっても、『高村光太郎全集』の、詩歌、随筆、日記の巻を斜め読みし、ピックアップしたに過ぎません。それでも、数多くの箇所が見つかりました。

特に昭和24年(1949)に書かれた随筆「みちのく便り 一」には、山小屋から見える天体の魅力をかなりくわしく書いています。

 みちのくといえば奥州白河の関から北の方を指すのでしょうが、そうすると、岩手県稗貫郡という此のあたりは丁度みちのくのまんなか位にあります。北緯三十九度十分から二十分にかけての線に沿っている地方です。有名な緯度観測所のある水沢町はここから南方八里ほどのところにあり、天体も東京でみるのとは大分ちがいます。星座の高さが目だち、北斗七星などが頭に被いかぶさるような感じに見えます。山の空気の清澄な為でしょうが、夜の星空の盛観はまったく目ざましいもので、一等星の巨大さはむしろ恐ろしいほどです。星座にしても、冬のオライアン、夏のスコーピオンなど、それはまったく宇宙の空間にぶら下って、えんえんと燃えさかる物体を間近に見るようです。木星のような遊星にしても、それが地平線に近くあらわれてくる時、ほんとに何か、東京でみていたものとは別物のような、見るたびにびっくりするようなもので、月の小さいものといいたい位にみえます。その星影が小屋の前の水田の水にうつると、あたりが明るいように思われます。星の光は妙に胸を射るように来るものです。昔の人が暁の金星を虚空蔵さまと称した、そういう畏敬の念がおのずから起るようです。夜半過ぎて用足しに起きた時など、この頃の寒さをも忘れて私はしばらく星空を眺めずにはいられません。このような超人的な美を見ることの出来るだけでも私はこの山の小屋から去りかねます。こういう比較を絶した美しさを満喫できるありがたさにただ感謝するほかありません。たかだかあと十年か二十年の余命であってもその命のある間、この天然の法楽をうけていたいと思います。宮澤賢治がしきりと星の詩を書き、星に関する空想を逞しくし、銀河鉄道などという破天荒な構想をかまえたのも決して観念的なものではなくて、まったく実感からきた当然の表現であったと考えられます。

このとき光太郎、数え67歳でしたが、まるで少年のように、天体の美しさのとりこになっている様子がよくわかりますね。

その他、特に記述が多いのは、月に関してでした。細かく書いていた山小屋生活前半の日記には、天体についての記述がたくさんあります(後半になると、一日に書く長さが短くなり、あまり天体については書かれなくなってしまいます)。特に月は毎日のように記述があり、イラスト入りでその形を記述している日もありました。

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それからこんなものも。

 もう十五年前のことになります。
 初めて紐育へ行った五月初旬、街路樹にぱらぱら新芽の出る頃でした。このさき、どうして金をとって勉強していいか、初めて世の中へ抛り出されて途方に暮れながら、第五街の下宿の窓から、街路の突き当たりに、まんまろく出た満月を見て、故郷の父母弟妹のことを思い、止度なく涙の出たのを忘れません。
アンケート「私が一番深く印象された月夜の思出」(大正11年=1922)

俳句でも。

自転車を下りて尿すや朧月  (明治33年=1906)    ドナテロの石と対座す朧月  (明治42年=1909)

そして詩でも、「荒涼たる帰宅」(昭和16年=1941)、「月にぬれた手」(同24年=1949)などで月をモチーフにしています。


惑星では、ずばり「火星が出てゐる」(昭和2年=1927)という詩がありますし、他の詩でも、木星やら金星やらが出てくる箇所がけっこうあります。

うすれゆく黄道光に水星は傾き、/巨大な明星と木星ばかり肩をならべて、/いまごうごうと無限時空を邁進している。    「落日」 昭和15年(1940)

ああ、もう暁の明星があがって来た。  「漁村曙」昭和15年(1940)

詩をすてて詩を書こう。記録を書こう。同胞の荒廃を出来れば防ごう。私はその夜木星の大きく光る駒込台で/ただしんけんにそう思いつめた。     「真珠湾の日」昭和22年(1947)

日記でも同様です。

昭和20年(1945) 12月25日 夜晴、火星大也 
昭和21年(1946)1月1日   夜天に星きらめく。オリオン星座顕著なり。オリオンのあとより大きく火星がひか
                   る。 
昭和21年(1946) 4月16日  木星が丁度中天に来た頃いつもねる。 月と木星と同位置にあり。夜おそくまで
                   村の子供の叫声がきこえる。月明るし。  
昭和22年(1947) 2月25日  夜星うつくし。木星、金星未明の頃大きく輝く。 
昭和22年(1947) 4月17日  夜も星月夜、明方残月と金星と木星美し。    
昭和22年(1947) 4月25日  夜読書、十時、木星サソリ座にあり。 
昭和22年(1947) 4月29日  夜星出る。木星大なり。       
昭和22年(1947) 5月4日  月おぼろ、木星月に近づく、


そして、星座を形作る恒星に関しても。

風の無いしんしんと身籠ったような空には/ただ大きな星ばかりが匂やかにかすんでみえる/天の蝶々オリオンがもう高くあがり/地平のあたりにはアルデバランが冬の赤い信号を忘れずに出している
「クリスマスの夜」 大正11年(1922) アルデバラン……おうし座の一等星

腹をきめて時代の曝しものになったのっぽの奴は黙っている。/往来に立って夜更けの大熊星を見ている。
「のっぽの奴は黙っている」昭和5年(1930)    大熊星……北斗七星を含む大熊座

イソゲ イソゲ 」ニンゲ ンカイニカマウナ ヘラクレスキョクニテ
                 「五月のウナ電」昭和7年(1932) ヘラクレス……ヘラクレス座

或夜まっかなアルデバランが異様に鋭く、/ぱったり野山が息凝らして寝静まると、/夜明にはもうまっしろな霜の御馳走だ。
「冬が来る」昭和12年(1937) 

まだ暗い防風林の頭の上では/松のてっぺんにぶら下って/大きな獅子座の一等星が真紅に光る。/隣の枝のは乙女座だろう。/北斗七星は注連飾のようだし、/砂丘の向うの海の方には/ああ、もう暁の明星があがって来た。
 「漁村曙」昭和15年(1940) 

オリオンが八つかの木々にかかるとき雪の原野は遠近を絶つ 昭和22年(1947)

日記では……

昭和4年(1929) 6月10日  夜天東方よりアークチュラスの星、夏の気息を余の横顔に吹きかく。
               アークチュラス…… アークトゥルス。 うしかい座の0等星
昭和21年(1946)1月1日   夜天に星きらめく。オリオン星座顕著なり。オリオンのあとより大きく火星がひか
                   る。                 
昭和21年(1946) 1月28日  風おだやかにて晴れ、星月夜なり。オリヨン君臨す。
昭和21年(1946) 3月7日   夜中空はれ間あり。サソリ座大きく出ている。暁近き頃とおぼゆ。
昭和21年(1946) 3月30日  夜星みえる。夜更けてサソリ座大きく立ってみえる。
昭和21年(1946) 4月7日  夜星出ている。サソリ座夜半大きく出る。
昭和21年(1946) 5月3日  星出る。星明り。サソリ座高し。     
昭和22年(1947) 1月15日  空晴れ、オリオン美し。
昭和22年(1947) 1月18日   夜でも寒暖計五度をさしている。軒滴の音がする。オリオン美し。
昭和22年(1947) 4月25日  夜読書、十時、木星サソリ座にあり。
昭和22年(1947) 8月14日  晴、昨夜星らん干。サソリ座大きく見え、暁天に廿七日の月出でたり。
昭和22年(1947) 9月16日  夜、銀河明るし。            
昭和22年(1947) 5月4日  星が出ると、オリオン、大犬等の壮観、

それから、智恵子と結婚した大正前半頃、東京駒込林町のアトリエで飼っていた黒猫の名前は、星座のくじら座から取って「セチ」。その猫を謳った詩や、猫の名前にふれた智恵子の書簡も残っています。

とまあ、こんなことをレジュメに書きましたが、とてもすべて説明している時間はなく、バトンタッチ。ともに花巻ご在住で、天文サークル「星の喫茶室」の伊藤修さん、根子(ねこ)義照さん(猫さんではありません(笑))。

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簡単に天体観測について説明のあと、記念館から徒歩5分ほどの、智恵子展望台へ。当初の予定では、こうでした。

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しかし、この時はまた雲が低くたれ込めており、結局、星は一つも見えませんでした。残念。

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ふたたび記念館へ移動。帰り道、山小屋付近で蛍が光りながら飛んでいました。

記念館では、お二人により、DVDの上映や、天体望遠鏡、写真パネルなどの説明。そうこうしているうちに、雲が切れ始め、講座終了後、参加者の皆さんが帰られる頃には、ぽつぽつ星が見えました。展望台に居る時に見えればベストだったのですが、こればっかりは自然相手ですので致し方在りません。それでも、少しでも星が見えて良かったと思いました。

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講座の前後、伊藤さん、根子さんとお話しさせていただいた中で、お二人とも光太郎がずいぶん天体について記述を残しているのに驚かれていました。また、天文愛好家ならではの着眼で、日記の日付と見ている星座の関係から、時にはかなり早起きして夜明け前に星を見ていたはず、というご指摘。ほう、と思いました。それから、光太郎が姻戚の宮崎稔に村上忠敬著『全天星図』の入手を依頼したのも、流石だ、というお話でした。逆に、彗星や流星について、特に、明治44年(1911)のハレー彗星について書き残していないことを残念だとおっしゃってもいました。そのあたりは、今後、新たな文章などの発見があれば、と思っております。

最初に書いたとおり、大自然を愛した光太郎。その一環として天体の美にも反応したのでしょうが、宮沢賢治の影響もあるような気もしています。今後、賢治と光太郎の関わりについてしゃべる機会があれば、そういう話もしようと思っております。

午後9時頃、片付けも終わり、撤収。レンタカーをその日の宿・台温泉に向けました。

以下、また明日。


【折々のことば・光太郎】イメージ 1

山を見る先生の眼に山の叡智がうつる。 山は先生をかこんで立ち、 真に見るものの見る目をよろこぶ。
詩「先生山を見る」より 昭和14年(1939)
 光太郎57歳

「先生」は、光太郎より10歳年長、登山家の木暮理太郎です。2年後に光太郎の『智恵子抄』を上梓する龍星閣から刊行された、木暮の『山の憶ひ出』下巻に載った木暮の写真にインスパイアされて書かれた詩です。やはり大自然の美を愛するものとしてのアフィニティー、ということなのでしょう。

光太郎、翌年には木暮の山姿の彫刻を作り始めますが、結局、完成しませんでした。

岩手レポート その3 花巻台温泉。

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7/29(土)、花巻郊外の台温泉に宿を取りました。

これまで花巻に宿泊する場合は、ともに光太郎が泊まったことがある花巻南温泉峡の大沢温泉さんか鉛温泉さん、あるいは駅前の商人宿が多く、台温泉は初めてでした。

台温泉は、花巻温泉の奥に位置し、室町時代に発見された古い温泉です。豊富な湯量を誇り、かつては川に流していた余剰の湯を、花巻温泉に回しています。こちらにも光太郎が宿泊しています。

光太郎日記によれば、昭和26年(1951)に2回、1泊ずつ泊まっています。2回目は、草野心平も一緒でした。宿泊は、今も残る松田屋旅館さんでした。

以下、日記から。

10月19日 金
晴、くもり、 花巻行、 十二時十三分のでゆく。花巻局より中央公論社へ選集三回分の原稿を速達書留小包で送る、ニツポンタイムスへ一年分の金を送る、 夜六時半公民館の賢治子供の会の劇を見る、 九時、タキシで台温泉松田屋旅館にゆき泊る、(略)

10月20日 土
台温泉の湯よろしけれど、遊客多く、さわがし。 雨となる、 九時半のバスにてかへる、(略)

12月7日 金
(略) そのうち草野心平氏来訪、 (略) ヰロリで暫時談話、 後洋服をあらためて一緒に出かけ、花巻伊藤屋にてにて四人でビール等、 草野氏と共にタキシで台温泉松田家(原)にゆき一泊、ビール等 <(あんま)>

12月8日 土
朝雨後晴、 昨夜妓のうたをきき二時にねる、 花巻温泉まで歩き、花巻より盛岡までタキシ(2000円)、よきドライブ。

というわけで、日記に依れば、この2回の宿泊が確認できます。ただ、昭和24・25年(1949・1950)の日記の大部分が失われているため、その間にも宿泊しているかもしれません。傍証は談話筆記「ここで浮かれ台で泊まる/花巻」(昭和31年=1956)。台温泉に関し、「湯がいいので私もたまに行く」という記述があります。2回では「たまに行く」とは言わないような気がします。

さて、松田屋旅館さん。

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宿の方にお訊きしたところ、戦後すぐくらいの建築だそうで、となると、光太郎が泊まったのもこの建物のようです。それを存じ上げなかったので、いっそう感慨深いものがありました。ただし、かなり改修、改装は入っているようですが。

いったいに台温泉自体が、レトロな街並みのひなびた温泉街、という感じで、非常に気に入りました。

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松田屋さんから少し上には、これもかなり古い中嶋旅館さんという旅館がありました。こちらも実にいい風情です。温泉街に付きものの温泉神社も鎮座ましましていました。

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下は松田屋さんの露天風呂。源泉掛け流しで、湯が出てくるところではほとんど熱湯です。熱めの温泉大好きの当方には嬉しいかぎりでした。

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ロビーには昔の絵図。これもお約束ですね。

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光太郎は先述の談話筆記「ここで浮かれ台で泊まる/花巻」で、このように書いています。心平も登場しますので、おそらく、昭和26年(1951)12月7日から8日未明にかけてのことでしょう。

 台温泉は花巻線の終点から一里ばかり奥になる。電車の発着ごとにバスが出ている。
 狭い所なのだが温泉宿が十軒以上も建並び、芸妓屋もうんとある。湯がいいので私もたまに行くが、夜っぴいて三味線を、ジャンジャンとやられるのには閉口する。その代り、えらく念入りのサービスだから、東京の人でもまず満足するだろう。熱海でこんなことが流行っているというと、逸早く真似をするという所である。山の懐ろだが、そういう点ではバカに先走っている。
 以前に草野心平と一緒に台を訪れたことがあるが、隣でさわぐ、階下じゃ唄う、向うで踊るという次第で、一晩中寝られない。そこでこっちも二人で飲み出した。二人の強いのを知って、帖場からお客なんか呑み倒しちまう、という屈強な女中が送り込まれたのに張合った。たちまち何十本と立ちならんだ。まったくいい気になって呑もうものなら、大変なことになるところだ。
  しかし、よくしたもので、それだけに宴会などをやらせれば、それは面白くやれる。一口に云えば、花巻で浮かれて、お泊まりは台さ、としけこむところである。

まさに「心の洗濯」をしていた姿が、ありありと浮かびます。

当方は、一泊して温泉を堪能、7/30(日)朝、こちらを後にしました。

麓の花巻温泉、昨年も行きましたが、通り道ということもあり、レンタカーを駐めて少し歩きました。

昭和25年(1950)に建立され、光太郎はその碑文である詩「金田一国士頌」を作り(揮毫は書家の太田孝太郎)、その除幕式にも参加している、花巻温泉株式会社の創業者、金田一国士を頌える碑。

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やはり光太郎が何度か泊まった、旧松雲閣別館。現在は使用されていません。

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松田屋さんも含め、こうした遺産、末永く保存していってもらいたいものです。


その後は一路、盛岡へと北上。続きは明日。


【折々のことば・光太郎】

この男の貧はへんな貧だ。 有る時は第一等の料理をくらひ、 無い時は菜つ葉に芋粥。 取れる腕はありながらさつぱり取れず、 勉強すればするほど仕事はのび、 人はあきれて構ひつけない。 物を欲しいとも思はないが 物の方でも来るのをいやがる。
詩「へんな貧」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

それを「清貧」と人は呼ぶのですが、光太郎にはそういう自覚はなかったようです。むしろ、こうした生活が前年になくなった智恵子を追い詰めた、という悔恨の方が先に立っているような気がします。



岩手レポート その4 岩手県立美術館「巨匠が愛した美の世界 川端康成・東山魁夷コレクション展」。

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岩手レポートの4回目となります。

7/30(日)、盛岡市の岩手県立美術館さんで開催中の、「巨匠が愛した美の世界 川端康成・東山魁夷コレクション展」を拝観いたしました。

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同名の企画展は、かなり以前から全国各地を巡回していますが、今年初め、『伊豆新聞』さんで報じられ、のち全国的にニュースとなった、新発見の川端康成旧蔵の書画などが、今回初めて展示されています。


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光太郎の書も1点。詩「樹下の二人」(大正12年=1923)中のリフレイン「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川」を扇面に揮毫したものです。現物を見てもいつ頃の揮毫なのか、何とも言えないところですが、筆跡的には間違いのない物でした。ネット上で小さな画像は事前に見ていましたが、現物を見ると、それまで意識しなかった余白の使い方などの絶妙さに改めて気づかされました。

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公式図録は過去の全国巡回の際のものと同一のイメージ 8ようで、新発見のものは掲載されていませんでした。残念に思っていたところ、目玉となるようなものについては、ブロマイド的に写真用紙にプリントした物が販売されており、そちらを購入いたしました。A4判で、800円だったと思います。

その他、光太郎と関わりのあった人物の作品などが数多く展示されており、興味深く拝見いたしました。彫刻のロダンや高田博厚、絵画では梅原龍三郎、岸田劉生、木村荘八、安井曾太郎。書で夏目漱石、与謝野晶子、室生犀星、北原白秋など。右はロダンのブロンズ「女の手」。ポストカードが売られていたので購入しました。

光太郎に関わらないものも逸品ぞろいで(国宝も含まれていました)、川端・東山の審美眼に感心させられました。また、下世話な話ですが、その財力にも(笑)。

下記は出品目録です。クリック2回で拡大します。ここにはブラウザの「戻る」ボタンで戻って下さい。

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こちらは8月20日までの開催です。ぜひ足をお運びください。


それから、常設展示も拝見。岩手県立ということで、岩手出身の美術家の作が中心でした。特に興味を引かれたのが、それぞれ多数の作品が展示されている萬鉄五郎、松本竣介、そして舟越保武。やはりそれぞれ光太郎と関わりがありました。萬は大正元年(1912)から翌年にかけてのヒユウザン会(のちフユウザン会)で光太郎と一緒でしたし、松本は昭和10年代に主宰していた雑誌『雑記帳』に光太郎の寄稿を仰いでいます。そして舟越はこのブログでも何度かご紹介しましたが、光太郎がさまざまな援助を行った岩手県立美術工芸学校で教鞭を執り、それ以前には、お嬢様の千枝子さんの名付け親になってもらっています。

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こちらは舟越の代表作にして、第5回高村光太郎賞受賞作の「長崎26殉教者記念像」のうちの4体。

舟越の彫刻は、館の入り口に野外展示されてもいました。


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というわけで、なかなか充実の展示でした。

当初予定ではここだけ観て帰るつもりでしたが、せっかく盛岡まで来たし、しばらく盛岡に来る予定もないので、市街に車を向けました(県立美術館さんは若干郊外です)。少しだけ光太郎に関わる常設展示が為されているところもついでに観ておこうと思った次第です。

明日は岩手レポートの最終回で、そのあたりをお伝えします。


【折々のことば・光太郎】

私は青年が好きだ。 私の好きな青年は真正面から人を見て まともにこの世の真理をまもる。 私の好きな青年はみづみづしい愛情で ひとりでに人生をたのしくさせる。
詩「私は青年が好きだ」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

しかし、数年後にはその大好きな青年たちを死地に追い込む詩文を乱発します。それだけに、戦後になっての悔恨は深いものがあったのでしょう。7年間に及ぶ、花巻郊外太田村での蟄居生活に結びつくのです。

岩手レポート その5 もりおか啄木・賢治青春館/盛岡てがみ館。

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7/29(土)・30日(日)、1泊2日の岩手花巻・盛岡紀行、最終回です。

盛岡市郊外の岩手県立美術館さんで、企画展、「巨匠が愛した美の世界 川端康成・東山魁夷コレクション展」を拝観した後、返却場所が盛岡駅前ということもあり、盛岡の市街にレンタカーを向けました。

まだ時間もあったので、返却前に少しだけ光太郎に関わる常設展示が為されているところもついでに観ておこうと思い、まずはもりおか啄木・賢治青春館さんに。

こちらは明治43年(1910)竣工の旧第九十銀行本店本館の建物を使っています。

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こちらではその名の通り、旧制盛岡中学に通っていた青春時代をこの町で過ごした石川啄木と宮沢賢治に関する展示が為されています。当方、前を通ったことは何度もありましたが、いずれも開館時間外の早朝や夜だったため、中に入るのは初めてでした。入館は無料。ありがたや。

啄木、賢治の生涯が、パネルやガラスケースでわかりやすく構成されていました。

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レトロな建物の内装とマッチし、いい感じでした。

光太郎に関わるパネルも。

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賢治が亡くなった直後、昭和8年(1933)10月6日の『岩手日報』。賢治の追悼特集です。

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光太郎が賢治実弟の清六に寄せた弔意を表す書簡が抜粋されています。

 拝啓 先日訃報をいただいた時は実に驚きました、生前宮沢賢治さんとゆつくりお話をし合ふ機会もなく過ぎてしまいゐましたが此の天才といふに値する人を今失ふ事は小生等にとつて云ひやうもなく残念な事でした、折あしく当方にて手放せない病人などありまして手紙さへ差し上げられませんでしたが草野君が参上する事となつて幾分安心いたしました(略)
 昨夜は草野君が帰京直ちに来宅せられていろいろそちらのお話や賢治さんの事やら遺稿の事やらうかがふ事が出来て少々慰められました(略)
 遺稿の事などいづれ又こちらの友人達からも申出ることがあるかと存じます(略)
  八年九月二十九日                                              高村光太郎
 宮沢清六様

手放せない病人」は心の病が昂進していた智恵子、「草野君が参上」は、光太郎の命で草野心平が宮沢家に弔問に訪れ、さらに賢治遺稿の散逸を防ぐ対策を講じるよう動いたことを表します。

翌年には、清六が賢治遺稿の入ったトランクを持って上京、やはり光太郎や心平、永瀬清子らのいた中で、有名な「雨ニモマケズ」の書かれた手帳の発見へとつながりました。

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左は光太郎に私淑した彫刻家、高田博厚作の賢治像、右は舟越保武作の啄木像です。

啄木も、明治末年、与謝野夫妻の新詩社や、雑誌『スバル』の関係で、光太郎と交流がありましたが、こちらではそのあたりはあまりふれられていなかったようでした。


続いて、すぐ近くの盛岡てがみ館さんへ。

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こちらでは、企画展「舟越保武の手紙~手紙から見る制作の裏側~」が開催中でした。

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遺された舟越から諸家への書簡のうち、特に彫刻制作に関わるものをピックアップし、その背景を浮き彫りにしようというコンセプトでした。

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光太郎にも通じる、彫刻家としてのさまざまな苦労や、逆に喜びなどが綴られ、興味深く拝見しました。

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こちらは田沢湖の辰子像制作中の写真です。

常設展示では、光太郎の詩稿「岩手山の肩」(昭和22年=1947)が展示されています。


   岩手山の肩

 雪をかぶつた岩手山の肩が見える。イメージ 16
 少し斜めに分厚くかしいで
 これはまるで南部人種の胴體(トルソオ)だ。
 君らの魂君らの肉体君らの性根が、
 男でもあり女でもあり、
 雪をかぶつてあそこに居る。
 あれこそ君らの實体だ。
 あの天空をまともにうけた肩のうねりに
 まつたくきれいな朝日があたる。
 下界はまだ暗くてみじめでうす汚いが、
 おれははつきりこの眼でみる。
 岩手県といふものの大きな図態が
 のろいやうだが変に確かに
 下の方から立ち直つて来てゐるのを。
 岩手山があるかぎり、
 南部人種は腐れない。
 新年はチヤンスだ。
 あの山のやうに君らはも一度天地に立て。


さらには啄木や賢治の書簡も常設展示されています。

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いったいに、盛岡ではこうした遺産をしっかり継承し、先人の顕彰をきちんと行っていこうという気概が見え、好ましく思っております。

ところで賢治といえば、前日、新花巻駅近くの銀河プラザ山猫軒さんで、こちらを購入しました。

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帯にあるとおり、WOWOWさんで放映された「WOWOWプライム 連続ドラマW 宮沢賢治の食卓」原作のコミックです。

ドラマでもそうでしたが、賢治以外にも、清六や、父の政次郎、賢治妹のクニやシゲ、藤原嘉藤治など、光太郎と関わった人々が多数登場。そして、やはりドラマ同様、光太郎と賢治が出会う大正15年(1926)の前で、終わっています。光太郎と出会う続編を期待しております。

かくて1泊2日でしたが、ぎゅぎゅっと濃密な岩手紀行でした。行く先々でお世話になった皆さん、ありがとうございました。


【折々のことば・光太郎】

冬日さす南の窓に坐して蝉を彫る。 乾いて枯れて手に軽いみんみん蝉は およそ生きの身のいやしさを絶ち、 物をくふ口すらその所在を知らない。

詩「蝉を彫る」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

詩では翼賛的なものを大量に書き殴った光太郎ですが、造形美術の方面では、戦争協力はほとんどしませんでした。特に彫刻では、軍部や大政翼賛会の命で、戦意高揚に資する作品の制作が広く行われましたが、光太郎はその手の作品は作りませんでした。非常時でも一匹の蝉を彫る勇気を持つというのが光太郎の矜恃だったのです。この点はもう少し評価されてもいいような気がします。大量に書き殴られた翼賛詩はまったくといっていいほど見るべきものがありませんが……。

新聞各紙から。

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岩手レポートを書いている間に、新聞各紙で光太郎智恵子についていろいろ触れて下さいました。

まず、一昨日の『朝日新聞』さんの夕刊。 

(言葉の服)日本人のおしゃれ:下 智恵子の素(しろ) 堀畑裕之

 昭和のおしゃれで見てみたかったのは、『智恵子抄』で知られる智恵子の普段着だ。写真はきものだが、撮影された昭和2年(1927年)、40歳ごろの智恵子について高村光太郎はこう書いている。
 「彼女は独身時代のぴらぴらした着物をだんだん着なくなり、ついに無装飾になり、家の内ではスエタアとズボンで通すようになった。しかも其(そ)が甚だ美しい調和を持っていた。『あなたはだんだんきれいになる』という詩の中で、
 《をんなが附属品をだんだん棄(す)てると/どうしてこんなにきれいになるのか。/年で洗はれたあなたのからだは/無辺際を飛ぶ天の金属》
と私が書いたのも其の頃である」
 今では女性のセーターとズボンなんて当たり前だが、当時はまだ圧倒的にきもので、そんな男みたいな格好は考えられなかった。だが洗練された智恵子の飾らないスタイルは、逆に女性としての素地を美しく際立たせたはずだ。
 そしてこれは期せずして時代の最先端でもあった。1920年代中ごろ~30年にかけて、華の都パリでは「ギャルソンヌ」ルックが流行していた。女性が髪を短く切り、コルセットを脱ぎ捨てて「男の子」のようなスタイルになることである。そのファッションリーダーがココ・シャネルで、実は智恵子とは3歳違いだった。第一次世界大戦後、社会進出した「新しい女」たちが求めたのは、性に縛られない自由で活動的なおしゃれだったのだ。
 互いを尊重し合い、ともに芸術家として苦闘した智恵子と光太郎も、この時代精神を自ら生きていたに違いない。
 連載は最後になります。長い間ご愛読ありがとうございました。(matohuデザイナー)

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しかし、その裏側にはやはりいろいろと軋みがあったと思うのですが……。


続いて『福島民友』さん。7/31(月)の一面コラム。 

編集日記 福島好き

 「飛行機好き」を自認する作家の浅田次郎さんは、たとえ長いフライトでも機内では眠らないそうだ。旅先に思いを巡らせたり機内食を食べたり、いろんな楽しみがあると著書に書いている
 ▼そんな浅田さんが乗り合わせたら、どんな感想を語ってくれるだろうか。日本航空が8月、国内・国際線の機内などで、本県にスポットを当て、文化や歴史など、さまざまな魅力を発信してくれることになった。4月から行っている地域プロモーション活動の一環という
 ▼機内誌では白河から会津へと観光地をたどり、その英語版では裏磐梯の自然を特集、機内ビデオでは「ほんとの空」の安達太良山を紹介する。ファーストクラスでは県内の郷土料理や地酒を夕食に用意するなど念が入っている
 ▼本県への観光客は、東日本大震災と原発事故の影響で大幅に減ったが回復しつつある。県は今年の観光客数の目標を震災前(2010年)の1・07倍に当たる6120万人に設定して誘客を進める
 ▼機内誌や機内食で、本県の「絶景」や「温泉」「食と日本酒」をたっぷり楽しんでもらった後は、実際に足を運んで、機上では味わえない本県を堪能してほしい。誰もがきっと「福島好き」になるはずだ。


ついでにJALさんのキャンペーンに関しても。 

JAL、福島の魅力発信 8月・機内誌特集やアレンジ郷土料理

 日本航空(JAL)は8月の1カ月間、国内・国際線の機内などで本県の魅力を集中的にアピールする。国内線・国際線の機内誌「SKYWARD」では「扉開ける、東北路」と題し、白河から下郷町の塔のへつり、大内宿、会津若松とたどりながら沿線の歴史と文化を紹介する。
 今年4月からスタートした地域プロモーション活動「地域紹介シリーズ」の一環。英語版では外国人観光客に人気が高い裏磐梯の自然の美しさを特集する。また、お笑いコンビ「パックンマックン」が二本松市と安達太良山などを紹介する機内ビデオを上映する。
 国内線ファーストクラスでは「星野リゾート磐梯山温泉ホテル」がアレンジした本県の郷土料理を夕食に提供する。コメは会津産コシヒカリ、茶菓は福島市の「いもくり佐太郎」、日本酒は会津坂下町の「飛露喜」で、料理を通じて福島の風土と歴史を堪能してもらう。
 このほか、JALマイレージバンクのサービス「とっておきの逸品」では、会津そばなどの県産品を保有マイルと交換できる。JALパックでも会津地区を中心に県内各地のホテルを利用した宿泊プランを設定している。
 ジャルセールスの二宮秀生社長は28日、PRのため福島民報社を訪れた。二宮社長は「さまざまな企画を用意した。福島のためにできる限り力になりたい」と語った。
 日本航空東北支店の筈見昭夫支店長、池俊彦マネージャーが一緒に訪れた。

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がんばろう! 福島!


『読売新聞』さんでは、十和田湖の話題。 

国立公園 廃屋撤去しイメージ改善

 環境省や自治体は、全国の国立公園内で廃業したホテルや食堂などの施設が放置されて景観の妨げになっていることから、廃屋の撤去に本格的に乗り出した。
 国立公園を重点的に整備する「国立公園満喫プロジェクト」の一環。電柱の地中化や新たな観光施設の整備も進めることで訪問者数を増やし、自然保護の意識向上につなげたい考えだ。
景観悪化
 青森、岩手、秋田県にまたがり、景勝地として名高い十和田八幡平国立公園内にある十和田湖畔。南岸に位置する「休屋(やすみや)地区」を歩くと、玄関や窓に板を打ち付けた食堂や廃ホテルが目立つ。雄大な自然や、詩人で彫刻家の高村光太郎が作ったブロンズ像「乙女の像」を楽しむことができ、かつては修学旅行生をはじめとする観光客でにぎわっていた。だが、東日本大震災後に廃業が相次ぎ、廃屋が十数軒に上るようになった。
 「暗いイメージがつく」など、地元関係者らの声を受け、同省は同地区の国有地内にある廃屋の撤去を進めることを決めた。2020年度までに撤去し、跡地には開放的な芝生広場などを整備することで、廃屋で遮られていた湖畔の景色を見やすくする。
 休屋地区で飲食店を経営する男性(47)は「景観改善は待ち望んでいた。寂れたイメージを変えるきっかけになるかもしれない」と歓迎する一方、「一つ二つ解体しただけでは人気は回復しないだろう。整備の継続と、人を呼び寄せるソフト面の対策も必要になる」と課題も指摘した。

人気に格差イメージ 3
 国立公園は現在、全国に34か所あるが、交通の便や知名度によって人気に差がある。ピークの1991年には、国立公園全体を延べ4億1596万人が訪れた。同年の訪問者は、富士山のある富士箱根伊豆国立公園は同1億1434万人、十和田八幡平は同1067万人、阿寒国立公園(北海道)は同697万人だった。
 その後の景気の冷え込みや東日本大震災の影響などで、14年には全体数が同3億5218万人に減少。だが、富士箱根伊豆の人気は衰えず、逆に1億2390万人に増えた。一方で、十和田八幡平は474万人、阿寒は360万人に減って差は広がった。
 十和田八幡平だけでなく、訪問者数が伸び悩む地方の国立公園などで、廃業後の施設が放置されるケースは多く、訪問者から「寂れた地域」「がっかりポイント」などと酷評されることもある。現状を重く見た環境省は、各公園内の国有地内に残されたままの廃屋を撤去または改修し、広場や観光施設などに活用してもらうこととした。各自治体の土地や私有地内の廃屋については、自治体に交付金を活用してもらうなどして再整備を促すことにした。

訪問客増を期待
 大山隠岐国立公園(鳥取、島根、岡山県)では、鳥取県大山町が、公園内にある寺院の参道周辺で景観改善に取り組んでいる。2年前に廃業した飲食・宿泊施設を国の交付金を活用して改修し、今年7月、観光案内所やカフェを備えた施設として生まれ変わった。また、廃業した山荘の解体作業中で、跡地に来年度、商業施設をオープンさせる予定だ。さらに同県は、大山の眺望を遮る電線・電柱を地中化することを検討している。
 日光国立公園(福島、栃木、群馬県)では、温泉地にあるバスの停留所前で、廃業後に放置されたガソリンスタンドを撤去する予定だ。同省関東地方環境事務所の担当者は、「バスを降り立った観光客を、すぐに落胆させたくはない」と話す。阿寒では温泉街の廃屋の撤去方法を検討中。阿蘇くじゅう国立公園(熊本、大分県)では、見通しを遮る立ち木の伐採などを行う予定だ。
 環境省の担当者は「国立公園の目的は、貴重な自然を保護すること。ただ、影響のない範囲で多くの人に美しい風景に親しんでもらい、自然保護への理解につなげてほしい」として、訪問客増に期待している。(野崎達也)

十和田湖休屋地区、確かにゴーストタウン的なところもありまして、気になっています。良い方向へと進んでほしいものです。

他にも光太郎の名が出た記事がありましたが、またの機会にご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

この大地の生活物理の裏がはに 人は迅速にして静寂なる天を持つ。

詩「落日」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

上記のようにさまざまな人の営みがあり、しかし、その上にはそれを見守る空があるのですね。

「詩と思想」2017年8月号。

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詩集や詩歌評論などの出版に力を入れられている土曜美術出版刊行の月刊誌『詩と思想』。その今月号に拙稿が載っております。

以前に「智恵子抄」を取り上げて下さった雑誌で、存じていましたのでお受けしました(生意気なようですが、思想的に光太郎の精神と相容れなかったり、社としての矜恃が感じられなかったりするところからの依頼はお断りすることにしています)。

連翹忌の歴史や現状などについて書いてくれという依頼でしたので、そのような内容を。ところが文治堂書店さんのPR誌『トンボ』の方でも同一内容の指定があり、同じような内容になってしまいました。ただ、『誌と思想』さんの方が字数を多く指定されましたので、詳しく書いています。

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画像もほしいというので、今年をはじめ、最近の連翹忌の様子、それから昭和31年(1956)の光太郎葬儀の写真を提供しました。

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今年の連翹忌で朗読と演奏のコラボをお願いした、ヴォイスパフォーマー・荒井真澄さんと、テルミン奏者大西ようこさん、それからお父様が光太郎と交流がおありで、連翹忌ご常連の渡辺えりさんなどなど。

連翹忌のよい宣伝になったかなと思います。

ところが、1箇所、とんでもない誤りをそのままにしてしまいました。昭和13年(1938)の智恵子の没年を14年としてしまったのです。認めたくないのですが、歳のせいか、最近、パソコンのミスタッチが多くなっています。たいがいはすぐ画面上でおかしなことになっていると気づいて訂正するのですが、ここはそのまま流してしまったようです。ゲラが送られてきて、校正もしたにもかかわらず気づきませんでした。

「3」と「4」もそうですが(テンキーではなくキーボード左上)、多いのはやはり隣のキーに触れてしまうこと。たまに「こうたろう」と叩いたつもりが「O」と「P」を間違えて「kぷたろう」などとなります(笑)。それから変換ミスですね。多分このブログでもやらかしていると思います。もっと気をつけねば、と思いました。

大きな書店さんでは雑誌コーナーに並んでいると思われますし、同社サイトから、またはAmazonさんなどでも注文可能です。ぜひお買い求め下さい。定価1,300円+税です。


【折々のことば・光太郎】

狂瀾怒涛の世界の叫も この一瞬を犯しがたい。 あはれな一個の生命を正視する時、 世界はただこれを遠巻にする。
詩「梅酒」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

前年に亡くなった智恵子が生前に作っておいた梅酒を台所で見つけ、智恵子を偲びながらそれを味わう、という詩です。

日中戦争は膠着状態、泥沼化。欧州では既に大戦の火蓋が切られています。それが「狂瀾怒涛の世界の叫」。しかし、それも亡き妻を偲ぶ「この一瞬」を「遠巻にする」というのです。

すでに翼賛詩をたくさん書き始めている光太郎ですが、智恵子に思いを馳せる時のみ、強引な言い方ですが人間性を回復できていたように思われます。それも翌年までのことですが……。

『月刊清流』2017年9月号。

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「女性の生き方、心のあり方 を考える中高年の主婦向け」「時流に流されない、心豊かな生き方や、魅力的な人との出会いを提案していく」「主婦たちに贈るこころマガジン」という『月刊清流』。

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最新号の9月号。「詩歌(うた)の小径」という連載で、「あどけない話――高村光太郎」が2ページにわたり掲載されています。

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智恵子の故郷・福島二本松にそびえる安達太良山の写真、光太郎との出会いと別れ、詩集『智恵子抄』、そして詩「道程」と「あどけない話」が紹介されています。

他にも光太郎と交流の深かった人物――与謝野晶子から鉄幹への恋文を紹介する記事があったり、オノマトペ(擬音語・擬態語)に関する記事では、宮沢賢治に触れたりするなど、そのあたりも興味比較拝読しました。また、光太郎との関わりはほとんどありませんでしたが、正岡子規に関する特集もありました。

旬の女性たちもたくさん取り上げられています。TBS系のテレビ番組「プレバト!!」中の「俳句の才能査定ランキング」査定人の俳人・夏井いつきさん。それから、当方、柔道経験者なもので、以前から存じていました天野安喜子さん。358年続く花火の宗家「鍵屋」の15代目にして、国際柔道連盟審判員です。

一般書店さんには置いて居らず、オンライン通販か電話での申し込みのみだそうです。当方は雑誌販売サイトのFujisan.co.jpから購入しました。

皆様もぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

五月はしやべる、五月はうたふ。 頬白、せきれい、駒鳥、つばくろ。 まるで少女の遊び時間。
詩「五月のうた」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

もう8月ですが、当方自宅兼事務所周辺、早朝はホトトギスなどの野鳥の声に満ちています。それから2階の戸袋の上に雀が巣を作ってしまいまして、その声も。日が昇る頃にはヒグラシに始まり、やがてミンミンゼミ、アブラゼミたちの大合唱。自然が豊かなのはいいことです。


女川光太郎祭に行って参ります。

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明日、8月9日は第26回女川光太郎祭です。これから女川イメージ 2町に向けて出発いたします。迷走台風5号、いったんは日本海側に抜けたようですが、また福島あたりで列島を横断しそうな勢いで、どうも台風を追いかけてゆく行程になりそうです。

帰還は10日の予定で、2泊します。宿泊先は、よく泊めていただいているエル・ファロさん。

去る1日(火)、NHK総合さんで放映された「あの日 わたしは~証言記録 東日本大震災」で、エル・ファロさんの女将・佐々木里子さんが紹介されました。

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震災前、もともとご両親が経営されていた旅館を手伝われていた佐々木さん。しかし、ご両親と旅館は津波で流されてしまいました。

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失意の中、ご家族の支えもあり、旅館再開を決意した佐々木さん。

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そして、震災後、いちはやく女川に出来た宿泊施設、エル・ファロさん。

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可動式のトレーラーハウスです。

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震災で壊滅状態となった女川町中心部、茶色とねずみ色の街となりましたが、それなら明るい色にしよう、との佐々木さんの考えで、カラフルなパステルカラー。

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光太郎もこだわっていた、環境と美の関連性の重要さですね。

その後、工事関係者やボランティアの皆さんなどの宿として愛されてきたエル・ファロさん。今年、再開発が一段落した女川駅付近に移転しました。

6月の『日本経済新聞』さんから。 

トレーラーハウス大移動 女川・元旅館女将たちの挑戦

 東日本大震災の津波で老舗旅館を流された女将たちが、トレーラーハウスを使った宿泊村を再建させたのが2012年の年末。それから4年半たった今年6月、宿泊村は、新しくできたJR女川駅近くに移設されることになった。日本で初めての規模というトレーラーハウスの「大移動」には、女将たちの第三の創業の願いがこもる。

■津波で旅館と両親を失う
 「ドスン」。長さ13メートル、重さ5トンもあるトレーラーハウスから「馬」が外され、タイヤが接地する。6月6日、トレーラーハウスは牽引(けんいん)車にひかれ、ゆっくりと女川の海岸に向かって動き始めた。行き先は、2015年3月に再建された新しいJR女川駅の近くだ。40台すべてのトレーラーハウスの移動は、9日に終わる予定だ。

 2011年3月11日の大津波で、女川は町の8割が流され、1万人の人口の1割の命が失われた。町の中心部で、両親とともに「奈々美や」という旅館を営んでいた佐々木里子さん(48)も、津波で旅館と両親を一度に失った。
 悲しみにうちひしがれている間にも、町の復興は進んでいく。佐々木さんの目の前では、県内外から作業員が引きも切らずに出入りしている。町内に宿泊施設がないため、仙台市から車で約2時間ほどかけて来ている。
 「もう一度旅館業を復活させなければ」。佐々木さんと同様に旅館を流された計4人の旅館主が集まり、町の商工会や旅館組合にも知恵を借りて、旅館の再建計画が動きだした。ただ、実現には2つのハードルがあった。1つは、建築規制だ。地盤沈下の修正と、土地のかさ上げのため津波跡地に新たな建物は建てられなかったのだ。「建築制限で建物が建てられないのであれば、建物でなければいい」。こうして出てきたのがトレーラーハウス宿泊村の建設計画だった。
 しかしこの妙案にも障害があった。復興補助金の支給の対象は不動産で、トレーラーハウスのように移動できるものは除外されていた。せっかく建てても県外に持ち出されては困るという意見が根強くあったのだ。
 「女川の復興のためなのに、そんなことするわけがないでしょう」。佐々木さんらは熱心に国や県を説得し、ついに2012年5月、補助金の支給がきまり、その年の12月、トレーラーハウス宿泊村「ホテル・エルファロ」がオープンした。

■若いホテルマンが救世主に
 オープン当初、エルファロは宿泊施設不足の解決に役立ち、工事関係者や里帰り客に親しまれた。だが、13年の暮れごろから売り上げの減少が目立ってきた。もともと、こぢんまりとした旅館の主たちだ。トレーラーハウス40棟、宿泊63室もの運営には慣れていない。
 さらに、エルファロは津波で壊滅した町域から離れた高台に造られたため、町の中心部である女川駅からは1.5キロほども離れている。「駅から遠い」「繁華街から歩いて帰れない」――。佐々木さんのもとにはこうした苦情も寄せられるようになった。
 「エルファロを助けてやってほしい」。石巻グランドホテルや琵琶湖のリゾートホテルでホテルマンの経験を積んだ田中雄一朗さん(当時28)に声がかかったのは15年の6月。石巻出身で、自身も被災した田中さんはフロントマンとしてエルファロに合流、これまでのホテル経験をいかして接客や集客のノウハウをつぎ込み、支配人としてエルファロを切り盛りするまでになった。
 その結果、16年には黒字化を達成。佐々木さんらは所有するトレーラーハウスの運営業務を田中さんに委託し、田中さんは新たに会社を設立して株式会社エルファロの代表に就任。今回、総費用1億4000万円のうち約5000万円の借り入れを自ら背負って、新女川駅前への移転を決めた。
 「震災後、この町の人たちが本気で町をつくっている姿を常に見てきた。私も覚悟を決めようと思った。もう後戻りはできない」。田中さんはこう決意を見せる。佐々木さんにとっても、流された旅館「奈々美や」から数えて第三の創業となる。「町を明るく照らす存在でありたい」
 エルファロは、スペイン語で「灯台」を意味する言葉だという。「ホテル・エルファロ」はトレーラーハウス40台、全63室。1人1泊素泊りで6018円(税込)から。朝食付きだと7020円(税込)から利用できる。

サイトには動画もアップされていました。

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先週の『石巻日日新聞』さん。 

女川町駅前の「エルファロ」 5日から営業再開 地域を照らすホテルに

 東日本大震災後、女川町清水地区に誕生したトレーラーハウスの宿泊施設「ホテル エルファロ」の移設工事が完了し、3日に落成式がJR女川駅西側の現地で開かれた。本設の観光型ホテルとして5日からリニューアルオープン。初年度は1万7千人の利用を目標にしており、関係者らは神事やテープカットで町の滞在人口増加を祈願した。
 エルファロは、災害復旧工事に携わる関係者らの宿泊施設を確保しようと、町内の被災4宿泊事業者による「町宿泊村協同組合」(佐々木里子理事長)が、清水地区の町営住宅跡地に整備した。トレーラーハウスを活用した施設で、平成24年12月から今年5月初旬まで同地で営業を続けてきた。
 清水地区の土地契約が満了を迎えることから、利便性の良い駅前付近の町有地に移転本設することを決定。本格的な観光型ホテルに転換するため、ホテル エルファロ共同事業体(田中雄一朗代表)を立ち上げるなど組織体制も変えた。移転費用は約1億4千万円で、8千万円は県から補助金交付を受けた。
 新施設の客室数は63室。ソファベッドなどを新たに設けたことで収容人数は149人から195人に増えた。ロフト付きタイプもある。食堂機能のトレーラーハウスが集まるバルケをはじめ、敷地内にはたき火やBBQ広場も設けている。
 落成式では、田中代表が「場所の変更だけでなく、施設配置の工夫や観光型ホテルとして経営、運営の見直しも図って来た。エルファロはスペイン語で“灯台”の意味。駅前商業街区と密に連携し、町全体を回遊してもらうプランなどで波及効果を生み出し、町を照らすホテルとしたい」と語った。
 須田善明町長は「トレーラーハウスの宿泊施設は全国で初めての事例。災害発生時に短期間で対応する必要がある場合における選択肢の一つになる。オープン後は、経験を生かして町を盛り上げてほしい」と期待した。
 その後、関係者らがテープカットを行い、5日からの営業再開に向けて心を一つにした。

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こうした皆さんの思いを噛みしめつつ、泊めていただこうと思います。

ところで、女川といえば、もう1件、テレビ放映情報です。 

孤独のグルメスペシャル!松重豊主演~真夏の東北・宮城出張編~

BSジャパン 2017年8月9日(水)  17時58分~19時00分  

雑貨輸入商の井之頭五郎が東北出張。仙台名物牛たん、女川町では海鮮料理に出合い、石巻ではシメの○○まで!?孤独のグルメスペシャル!

井之頭五郎(松重豊)は、古くからの友人・岸本(渡辺いっけい)に頼まれた仕事で、宮城に来た。前日入りした仙台で、まずは名物を堪能する。翌日、石巻で借りた軽トラで仕事の舞台の女川に移動、担当者の牧原(向井理)と打ち合わせするが…。一段落すると腹が減った。山道を通って五郎が辿り着いたのは、ひっそりと佇む海鮮の店だった。その店を後にした五郎がさらに辿り着いたお店は…!?

出演者 井之頭五郎…松重豊 牧原達也…向井理  岸本…渡辺いっけい  親方…でんでん  女将…余貴美子

昨年オンエアされたものの再放送です。

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女川編では、駅前の商業施設・シーパルピアに移転する前の「活魚 ニューこのり」さん仮設店舗が舞台でした。

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豊富なメニューの中から、腹具合と相談しながら海鮮丼を選び、堪能する松重さんのコミカルな演技が秀逸です。また、シーパルピアでホヤ入りの焼きそばを食べるシーンも必見です。


さて、そろそろ女川に向けて出発いたします。


【折々のことば・光太郎】

青葉若葉に野山のかげろふ時、 ああ植物は清いと思ふ。

詩「新緑の頃」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

女川光太郎祭、終わりました。

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昭和6年(1931)、光太郎が三陸一体を旅したなかで立ち寄った宮城県牡鹿郡女川町。それを記念して毎年開催されている女川光太郎祭、今年もつつがなく終わりました。

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台風の余波で時折降りしきる雨の中、遠方からも含め、多くの皆様がお集まりくださいました。

詳しくは帰りましてからレポート致します。

女川より帰って参りました。

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2泊3日の行程を終え、先ほど、宮城女川から帰って参りました。

昨日の第26回、女川光太郎祭をレポートいたします。

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会場は、JR女川駅前に新たに建設された商店街・シーパルピア女川のはずれに建つ、女川町まちなか交流館さん。台風余波の驟雨が時折強く降りしきる中での開催となりました。

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多目的ホールが備わっており、ゆったり広々した会場で開催できました。特に今年は、智恵子の故郷・福島二本松から、智恵子命日の集い・レモン忌を主催されているレモン会の皆さん20余名が、マイクロバス一台で駆けつけて下さり、多数の参会となりましたので、広い会場で幸いでした。

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はじめに黙祷。かつてこの会を取り仕切っていた、貝(佐々木)廣氏を偲んで、頭を垂れさせていただきました。

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その後で、当方の講演。昭和22年(1947)に発表された、光太郎のそれまでの65年間を振り返る連作詩「暗愚小伝」に基づき、光太郎の生の軌跡をご紹介する連続講演で、今年は5回目。主に智恵子との結婚生活、その始まりから終焉までを語らせていただきました。合間に光太郎の肉声の録音なども聞いていただき、おおむね好評でした。

主催の女川光太郎の会・須田会長のご挨拶。

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須田会長は女川沖に浮かぶ出島(いずしま)ご在住の漁師さんで、年に数回、当方の元に銀鮭やらホヤやらサンマやらを送って下さっています。

光太郎遺影、それからかつて会場すぐそばに建っていた光太郎文学碑の写真に献花。レモン会の方にもお願いしました。

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今年の会場からは、横倒しになった文学碑が見えました。ちょっとわかりにくいのですが、下の画像、真ん中の電柱の真下の黒いのがそうです。

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碑の関係については、いずれ日を改めてこのブログでご紹介します。

その後は、ギタリスト・宮川菊佳さんの演奏に乗せて、光太郎の詩文の朗読。

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小学生からご高齢の方、さらに地元の方から遠方の方まで、それぞれに個性あふれる朗読でした。

アトラクションとして、音楽演奏も行われ、花を添えて下さいました。

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故・貝(佐々木)廣氏夫人の英子さん。今回欠席された、当会顧問北川太一先生のメッセージを代読なさいました。

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高村家から、光太郎の実弟にして鋳金の人間国宝だった豊周令孫・達氏のご挨拶。

こうしてつつがなく終了し、すぐ近くの中華料理店さんを借り切って、レセプション。

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レモン会の皆さんは、二本松からの列車の都合がおありの方がいらっしゃるとのことで帰られましたが、北川先生の教え子の皆さんである北斗会の方々、詩人の曽我貢誠氏ご夫妻、音楽演奏をなさって下さった方々、女川の風土に魅せられて、毎年この日に遠方からいらっしゃる方々、そして地元の皆さんなどで、おおいに盛り上がりました。泉下の光太郎、さらに貝(佐々木)廣氏も喜んだことでしょう。

その途中、喫煙のため外に出たところ、見えた夕焼け。

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一年後の再会を約し、散会しました。


今朝、地元紙『石巻かほく』さんで、早速報じて下さいました。 

女川で「光太郎祭」、講演と朗読 紀行文や詩に思いはせる

 女川町を訪れた詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1イメージ 21956年)をしのぶ、第26回「光太郎祭」(女川・光太郎の会主催)が9日、町まちなか交流館で開かれた。光太郎は31年の8月9日に三陸地方を巡る旅に出発した。

 町民ら約60人が参加。高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営員会代表の小山弘明さんが「高村光太郎、その生の軌跡~連作詩『暗愚小伝』をめぐって」と題して講演。光太郎と妻智恵子が共に歩んだ人生を、光太郎の詩を紹介しながら解説した。

 小山さんは、光太郎が智恵子と結婚披露宴を開いた1914年の作品「道程」について「光太郎が文学や彫刻で新しい道をつくっていく決意を表している」と説明。「道程」の一文にある「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来(でき)る」に触れ、「現代のわれわれにも通じる素晴らしい作品だと思う」と述べた。

 参加者はじっくりと聞き入り、光太郎と智恵子の生涯に理解を深めた。

 光太郎の紀行文や詩の朗読もあり、女川を題材にした「よしきり鮫(ざめ)」などが紹介された。

 91年に女川を題材にした紀行文や詩の文学碑が女川港近くに建立され、92年から光太郎祭が開かれている。



来年以降も、続けられる限り、永続的に行われて欲しいものです。


【折々のことば・光太郎】

見えもかけ値もない裸のこころで らくらくと、のびのびと、 あの空を仰いでわれらは生きよう。 泣くも笑ふもみんなと一緒に 最低にして最高の道をゆかう。

詩「最低にして最高の道」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

あの東日本大震災の大津波を経験され、愛する者を失い、故郷の街の壊滅、そして再生を見てこられた女川の皆さん。まさに「泣くも笑ふもみんなと一緒に」だったわけです。

ただし、光太郎は「泣くも笑ふもみんなと一緒に」、泥沼の戦争協力へと進んでしまったのが、本人にとっても大きく悔やまれることでした。

朗読系イベント二つ。

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詩人でもあり、朗読もなさっている宮尾壽里子さんからご案内を頂きました。宮尾さん、これまでもお仲間の皆さんと、 「2016年 フルムーン朗読サロン IN 汐留」、「第5回 春うららの朗読会」等で、光太郎詩を取り上げて下さっています。

響きあう詩と朗読

期  日 : 2017年8月30日(水)
時  間 : 開場18:30  開演19:00
場  所 : 江東区公会堂ティアラこうとう 小ホール 東京都江東区住吉2-28-36
料  金 : 3,000円(全席自由・税込)

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演 目 :
宮尾壽里子 ピアノ:YOSHI
  <ポエジー母>より 三好達治「乳母車」  高村光太郎「母をおもふ」  西條八十「帽子」 
  草野心平「青ィ花」  宮尾壽里子「母になる日」  吉田一穂「母」

勝田のぞみ J.D.ベリズフォード(訳:西崎 憲)『喉切り農場』

岩井奈美 F.G.ロルカ(訳:小海永二)  『ガリーシアの六つの詩篇』 ヴァイオリン:松田 彩 ピアノ:室井悠李
 Ⅰ サンティアゴの町への恋歌  Ⅱ 小舟に乗った聖母マリアのロマンセ Ⅲ 少年店員の歌
  Ⅳ 死んだ若者の夜想曲  Ⅴ 死んだロサリア・カストロのための子守唄  Ⅵ サンティアゴの月の踊り
 芥川龍之介『地獄変』

ひらやす かつこ J.R.ヒメネス(訳:長南 実) 『プラテーロとわたし』より「プラテーロ」「春」「秋」

清水けいこ 篠笛:長谷川美鈴
  高村光太郎『智恵子抄』より「郊外の人に」「晩餐」「あどけない話」 「あなたはだんだんきれいになる」
 「樹下の二人」「風にのる智恵子」 「荒涼たる帰宅」「梅酒」「レモン哀歌」


恐縮ながら招待券を頂きました。楽しみにしております。


それから、情報を得るのが遅れて、もう明日になってしまっていますが、もう1件。朗読と云うより詩吟系のイベントのようです。 

京の文化絵巻2017 ~文学吟詠舞劇と邦楽の飛翔~

期  日 : 2017年8月12日(土)
時  間 : 開場14:30  開演15:00
場  所 : 京都芸術センター 講堂 京都市中京区室町通蛸薬師下る山伏山町546-2
料  金 : 1,000円

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演 目 :

 文学吟詠舞劇 「智恵子抄 断章―千鳥と遊ぶ智恵子―」
  原詩 高村光太郎   構成詩・付曲 廣 青隴   舞振付 藤蔭静樹
  文学吟詠:廣 青隴 古川瀞女 増田松洲 栗田瀞惠  村田青雪 黒田桜風 松浦哲山 増田興洲
  舞:藤蔭静樹 藤蔭静亜樹
 
 -古典芸能十八番中の十八番 道成寺もの-より 「古道成寺」
  作曲 岸野治郎三、八重崎検校  出演 箏 早瀬久恵 歌・三絃 大木冨志 粟田彰輝 梶田和栄


文学吟詠舞劇というジャンル、どんなものかと非常に興味があるのですが、いかんせん参上できません。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

生れてまだ二十年にもならないだらう青年は まるで天からもらつた水晶玉のやうにきれいだ。 その純潔をまもつてくれ、青年よ。

詩「純潔」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

その青年たちを戦場へと追いやるための詩を、この後、光太郎は大量に書き殴ることとなってゆきます。戦後はその贖罪のため、花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)での、自虐とも云える蟄居生活に入るわけです。

光太郎胸像。

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青森の地方紙『デーリー東北』さんから。 

内なる魂を感じて 高村光太郎のブロンズ胸像寄贈/青森・十和田

 青森市在住の元教員田村進さん(84)が、詩人で彫刻家の高村光太郎の偉大さを伝えようと、ブロンズ製の胸像「光太郎山居(さんきょ)」を完成させた。田村さんは8日、青森県十和田市役所に小山田久市長を訪ね、市に寄贈することを報告。胸像は来年4月から、十和田湖畔休屋の光太郎が制作した「乙女の像」の周辺にある十和田湖観光交流センター「ぷらっと」で展示される予定だ。

 田村さんは10代から光太郎の詩や書、彫刻などの作品に親しんだ。乙女の像が完成した1953年には、除幕式の翌日に本人と直接会う機会に恵まれ、以後も光太郎の芸術世界を思い続けてきたという。

 県内の中・高校で美術教員を務め、退職後の80歳の時に、今回の胸像の原型となる石こう像を4カ月半かけて制作。昨年7月、十和田八幡平国立公園の十和田・八甲田地域指定80周年の記念式典会場に展示された。これを契機に市への寄贈の話が進み、石こう像から型を取ったブロンズ像を完成させた。

 像は高さ74センチ、幅78・5センチ。重さが85キロあり、台座を市が今後準備した後、ぷらっとに展示する。

 この日は田村さんが胸像の写真パネルを小山田市長に贈り、制作の経緯などを説明。小山田市長は「観光などで訪れる多くの人に見ていただき、高村や乙女の像について関心を持ってもらえればと思う」と謝辞を述べた。田村さんは取材に「胸像から高村の内なる魂、すごさ、優しさを感じてもらいたい」と話していた。

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田村進氏、記事にあるとおり、青森市在住の彫刻家で、昭和28年(1953)には光太郎本人とも会われたという方です。連翹忌にも3回、ご参加下さっています。

平成24年(2012)頃から、光太郎像の制作にかかられ、レリーフ習作を経て、平成26年(2014)には胸像本体の原型が完成したそうです。で、このたび、ブロンズに鋳造したものが十和田市に寄付されたとのこと。

展示は来春からになるそうですが、十和田湖畔の「十和田湖観光交流センターぷらっと」にてなされるそうで、元々ある光太郎がらみの展示と合わせ、多くの方々に見ていただきたいものです。


十和田市さんのブログサイト「駒の里から」でも報じられているほか、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会の方から、さらに詳しくこの件を扱った地元紙『十和田新報』さんの記事を、メールで頂きました。

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画像クリックで拡大します。


来春以降、十和田湖にお立ち寄りの際は、ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】イメージ 4

南へ 北へ (あるけ あるけ)  東へ 西へ (あるけ あるけ)  路ある道も (あるけ あるけ)  路なき道も (あるけ あるけ)  

歌詞「歩くうた」 より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

日本放送協会選定の国民歌謡として作られた、飯田信夫作曲による歌曲です。戦意高揚という部分を抜きに考えれば、詩としては悪くないと思います。

徳山(たまき)らの歌唱などでSPレコード化され、それなりにヒットしたそうです。

花巻より。

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花巻での刊行物2点、ご紹介します。

まず、隔月刊の『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』第3号。創刊号第2号同様、裏表紙に花巻高村光太郎記念館さんの協力により「光太郎のレシピ」が連載されています。

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今回はカレーを中心に、付け合わせの漬物系。昭和21年(1946)の光太郎に日記には、カボチャの花や間引きした白菜(茎でしょうか)などを酢であえてみた的な記述があり、それを再現したようです。なかなか面白いアイディアですね。

オンラインで年間購読の手続きができます。隔月刊、年6回配本。送料込みで3,840円です。ぜひどうぞ。


続いて、盛岡ご在住、光太郎の従妹・加藤照さんの子息・加藤千春氏による冊子『光太郎と女神たち』。

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加藤氏、昨年5月の花巻高村祭でご講演をされ、その後、当方、ご自宅にお伺いし、照さんにもお目にかかりました。その際に、加藤家に伝わる光太郎書簡や古写真、光太郎の姉・さくが描いたという扇子(表紙に使われています)などを拝見しました。

それらの資料の紹介と共に、加藤家と光雲、光太郎らのつながりについてまとめられたものです。

こちらは非売品の扱いですが、お問い合わせは花巻高村光太郎記念館さんまで。


【折々のことば・光太郎】

少女立つて天を仰ぐは まことに聖なるものの凜たる像だ。

詩「少女立像」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

雑誌『少女の友』に掲載されました。もともと光太郎には婦人誌や少女誌からの原稿依頼が多く、他にも老境に入り、次代を担う若者達へのメッセージが目立つようになります。

女川レポート補遺。

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8/9(水)、既にご紹介いたしましたが、第26回女川光太郎祭が行われました。それ以外の部分で女川、光太郎がらみのレポートを。

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前日に女川入りしまして、2泊いたしました。宿泊先は、これも既にご紹介したトレーラーハウス、エル・ファロさん。

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JR石巻線女川駅のすぐ裏手に移転され、ぐっと利便性が良くなりました。

それぞれの宿泊棟にユニットバスがついていますが、2晩とも女川駅の駅舎2階にある温泉入浴施設、ゆぽっぽさんを利用いたしました。やはり足をのびのびと投げ出して浴槽に浸かれるというのは大きな魅力です。

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こちらは女川駅の夜景。

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女川駅といえば、昨年、女川町に天皇皇后両陛下が足を運ばれ、その際に皇后陛下が詠まれた短歌を刻んだ碑が、今年3月、駅前に建てられました。

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曰く「春風も沿ひて走らむこの朝(あした)女川駅を始発車いでぬ」。


碑といえば、そもそも女川光太郎祭の機縁となった、平成3年に故・貝(佐々木)廣氏が中心となって建てられた光太郎文学碑。

周辺が、貝(佐々木)廣氏も呑み込んだ、震災・津波のメモリアルゾーンとして整備されている真っ最中でした。

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一日も早く、再び立つことを祈念しております。


そこからほど近い女川町まちなか交流館さんで、第26回女川光太郎祭が開催されましたが、そのロビーには、震災がらみの展示が充実していました。

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女川町の歴史、ということで、光太郎がここを訪れた昭和初期の様子なども。

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このブログで何度もご紹介しています、光太郎文学碑の精神を受け継いだ「いのちの石碑」についても。

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着々と復興は進んでいますが、まだまだ道半ば。ぜひとも多くの皆さんに訪れていただき、復興の歩みと、ここに暮らす人々の心意気を見ていただきたいものです。

ついでですので、明日は「いのちの石碑」がらみで。


【折々のことば・光太郎】

夜明けの前の波は静まり、 ただ天上の炎がもえる。 さういふ天の時をつんざいて 漁村に人間の息吹は生れる。
詩「漁村曙」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

「天上の炎」は、星。「漁村曙」は、翌春の宮中歌会始の題でもあり、光太郎詩以外にも、横山大観の日本画、宮城道雄の箏曲など、さまざまな作品の題となりました。

「漁村に人間の息吹」。女川を思い起こさせます。そこで、第26回女川光太郎祭では、当会顧問北川太一先生が高等学校に勤務されていた頃の教え子の皆さん、北斗会さんの方が、この詩を朗読されました。

中学生が被災地で震災の教訓学ぶ/女川の子どもたちのそばに居続けた阿部一彦先生。

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宮城県女川町で8/9に開催されました、第26回女川光太郎祭関連で、女川ネタを続けます。

若干古い話ですが、先月末、花巻、盛岡を訪れた際、借りていたレンタカーのラジオで聞いたNHK FM東北さんのローカルニュースです。 

中学生が被災地で震災の教訓学ぶ

東日本大震災の被害や教訓を学ぼうと、七ヶ浜町の中学生が、震災で大きな被害を受けた女川町を訪れ、発生した当時の状況などを聞きました。
女川町を訪れたのは、震災について学ぶ活動を続けている七ヶ浜町の向洋中学校の1年生から3年生までの生徒あわせて26人です。
生徒たちは、震災が発生した際、多くの住民が避難した女川中学校の校舎を訪れ、当時、教員として勤務していた佐藤敏郎さんから話を聞きました。
この中で、佐藤さんは、発生直後、割れた窓ガラスの破片が避難路に散乱し、生徒たちが思ったように避難できなかったことを説明し、日頃からさまざまな被害を想定しておくことが重要だと強調していました。
また、佐藤さんは、女川中学校の生徒や卒業生が、震災後、教訓を伝える石碑を町内各地に建てる活動を行っていることも紹介し、生徒たちは、時おりメモをとりながら真剣な表情で聞いていました。
自身も七ヶ浜町で被災し、家族を亡くしたという3年生の阿部杏珠さんは「自分は震災のことをあまり話したくなかったのに、女川の人たちはちゃんと伝えようとしていてすごいと思いました。自分もまずは身近な人から伝えていきたいと思います」と話していました。

同じ内容をテレビのニュースでも報じたようで、しばらくNHK東北さんのサイトで動画も見られました(現在は削除)。

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「教訓を伝える石碑」が「いのちの石碑」です。この上の画像2枚に写っています。

東日本大震災後、当時の女川第一中学校の生徒さんたちが発案、町内21ヶ所の浜の津波到達地点より高い場所に碑を建て、大地震の際にはそこより上に避難するためのランドマークとするというもので、既に半数以上が設置されています。合い言葉は「1000年後の命を守る」。平成3年(1991)、かつての海岸公園に建てられた光太郎文学碑に倣い、「100円募金」で設置費用をまかなうとして始められました。それぞれの碑には、当時の中学生たちが国語の授業で詠んだ句も刻まれています。

このブログでもたびたびその動向をご紹介しています。



8/10(木)の『朝日新聞』さん宮城版でも取り上げられています。 

宮城)女川の子どもたちのそばに居続けた阿部一彦先生

■震災6年5カ月(11日に想う)
 私は社会科の教員です。でも今は、子どもたちが私の先生です。
 矢本二中の阿部一彦教頭(51)は震災の時、女川一中(現・女川中)の3年生を受け持っていた。
 午後2時15分、次の日に卒業式を控えていた92人の3年生を帰しました。帰さなきゃよかった。教え子を2人殺してしまいました。おばあさんの車いすを押していたのが、けんちゃんの最後の姿。今も見つかっていません。
 学校は避難所になり、コピー用紙も古い教科書も燃やしてたき火をしました。女の子が友だちと話していました。「逃げるとき何か踏んづけた。見たら近所のおばあさんだった。(頭を)ハンカチで包んでご家族に届けた……」
 なんにも言えなかった。怖くて。避難所に来た子にどうだったと聞いて、「お父さんがいなくなった」と言われたら何もできない。おなかすいたと言われても何もできない。ずっと子どものそばにいよう。横で同じ空気を吸おう。それしかできなかった。
     ◇
 被災した地域のどこよりも早く、4月8日に始業式をすることになりました。教育長が「子どもが手足を伸ばせる場をつくらないとだめだ」と。鉛筆も教科書も楽器もなかったけど、同僚だった佐藤敏郎先生と「子どもと先生がいれば、学校はできる」と確信していました。
 新1年生の学年主任になり、ふるさとや震災について考える授業に取り組んだ。子どもたちは「千年後の命を守る」を合言葉に、浜に「ここまで逃げて」と呼びかける石碑を建て、防災を学ぶ「いのちの教科書」を作り始めた。
 町の縄文遺跡を生徒と回ると、全部残っていました。悔いました。それまでの23年間、何を教えていたんだろうと。縄文時代の授業の時、「縄文遺跡まで逃げるんだよ」とたったひと言伝えていれば、2人は亡くならずにすんだのに。そして、子どもたちが言ったんです。「過去を知ることは未来を創造することだ」
 津波対策案を考えた時のことです。ななみさんが涙ながらに言いました。「逃げようと言っても逃げない人がいる。どうするの」。ななみさんのおじいさんはなかなか逃げない近所の人に避難を呼びかけていて津波にのまれたのです。私は答えられませんでした。
 こうせい君から出てきた答えは「絆」です。「はやりの言葉か」と思ったら、避難所で食べ物をくれた人がいるから助かったと。さらに、逃げなかった人も家族や親友が逃げろといえば逃げたし、そうすればおじいさんも助かったと言うんです。私はただただ、「すごいなあ」と言いました。
 教科書づくりのアイデアを出したのは、社会科が大っきらいな男の子です。授業中に突然手をあげて、「小学1年生から順番に学べるものを作ろう」。子どもたちはみんな、やりたいことを持っている。
 高校生になっても、15人ほどが活動を続けました。集まったのは3年間で108回。いつまでやるのと聞いたら、「死ぬまで」。
     ◇
 子どもたちはこの春、高校を卒業した。看護師、物書き、サッカー選手……。中2の時に「立志の会」で語った自分の夢に、多くの子が近づいている。
 あきと君が最近、「防災を空気にしたい」と話していました。ご飯を食べ、水を飲むように、防災を考えることを当たり前にしたい。そんな言葉、教科書だけで教えても出てきません。子どもの意欲がないと最近言われるけど、それは引き出していないから。女川の子たちも普通の子。場があれば、自律的な学びになっていきます。
 震災で得たものは一つ。すべての答えはそれぞれの子どもの中にあるということです。たくさんのことを教えてくれた先生たちに、11日、久しぶりに再会します。(中林加南子)

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愛知から訪ねてきた中学生に石碑の説明をする阿部一彦先生=5日、女川町竹浦


さらに石碑だけでなく、「いのちの教科書」というプロジェクトも進行中だそうです。今後とも「1000年後の命を守る」ためにがんばっていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

青年は親からはみ出す。 時々親をばかにする。 しかしいよいよといふ時には、 いつでも母をよび父をよぶ。 親は青年のいきほいひに驚く。 それを見て生きるかひがあると思ふ。
詩「青年」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

いつしか「復興のトップランナー」と言われるようになった女川町。行政も積極的に動いていますが、行政任せにせず、住民が自分たちで知恵を出し合い、動いています。特に若い世代が進んで先頭に立ち、高齢者世代は口を出さないという暗黙の了解が出来ている部分があるそうです。女川の復興を描いたドキュメンタリー映画「サンマとカタール 女川つながる人々」に、そういう話が紹介されていました。

「いのちの石碑」「いのちの教科書」などのプロジェクトにもそういう部分があるのでしょう。

なかなか勇気のいることだと思いますが、変なしがらみに縛られないためにはそれも大切なことでしょう。もちろん「いよいよといふ時には」世代を超えて協力することが必要だと思いますが。

『岩手日報』一面コラム「風土計」。

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昨日は終戦記念日でした。光太郎第二の故郷ともいうべき岩手の地方紙『岩手日報』さんの一面コラム「風土計」で、それにからめて光太郎を紹介して下さいました。 

風土計 2017.8.15

 岩手にとって1934(昭和9)年は歴史に刻まれる年だろう。その夏は異常に寒かった。大凶作となって人々は食うに困り、娘は身売りに出された。前年の大津波に続いて、農漁村はみるみる疲弊していく
▼釈迢空(ちょうくう)こと折口信夫が詩「水牢(みずろう)」を世に問うたのは、この年だった。<水牢さ這入つて 観念の目を閉ぢた><娘を売つて-から 水牢だ>。以前に東北の旅を通じて、農民の窮状を目の当たりにしていた
▼飢えは人々の怒りを呼び起こす。青年将校の暴走を生み、政治は軍部を抑えられない。そして戦いへと、ひた走っていく。水責めの牢獄・水牢に社会全体が入り込み、抜け出せなくなる。そんな時代だった
▼戦火の中で折口の養子・春洋(はるみ)も戦死した。<戦ひにはてし我が子のかなしみに、国亡ぶるを おほよそに見つ>。悲憤の歌がいくつも残る。今年で生誕130年の民俗学者はこの時、心の水牢に入り込んだのだろう
▼もう一人、あえて水牢を望んだ人がいる。高村光太郎は終戦後間もなく、花巻の粗末な小屋に入った。戦争賛美の詩を書き続けた自らを罰するために。そして語った。「ぼくは自分から水牢に入るつもりだった」と
▼72年前のきょう8月15日。終戦により人々は水牢から放たれたが、引きずり込まれる者もいた。戦争というものの、それが宿命なのかもしれない。


花巻郊外旧太田村。譲り受けた鉱山の飯場小屋を移築してもらっての「水牢」生活は7年に及びました。それでも許されたとは思っていなかったようですが、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作の依頼に応えるために再上京。仕事が終わればまた「水牢」に戻るつもりでした。しかし、健康状態がそれを許しませんでした。10日余り太田村に帰ったものの、結局は東京で療養せざるを得なかったのです。というより、これこそがある意味、天の配剤だったのかも知れません。「もう十分だ」という……。

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村人達との心温まる交流、若い頃から憧れていた自然に包まれての生活など、プラスの面もありましたが、それをさっ引いてもマイナスの要因の多い暮らしでした。小屋は村の一番はずれで、夏は周りを熊がうろつき(現在もです)、冬は零下二十度、寝ている布団にさえ隙間から入り込んだ雪がうっすらと積もったといいます。最初の数年間は電気さえ引いていませんでした。その自虐ともいえる過酷な生活は、戦時中に大量の翼賛詩文を書き殴り、それを読んだ前途有為な多くの若者を死に追いやった反省からくるものでした。公的には戦犯として訴追されなかった光太郎ですが、己を罰するために、あえて不自由な生活、さらに天職と考えていた彫刻の封印を、自らに科したのです。

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まったくもって、こうした世の中が再び訪れないよう、一人一人が考えていかなければならないと、痛切に思いました。


【折々のことば・光太郎】

夜が明けたり日がくれたりして そこら中がにぎやかになり、 家の中は花にうづまり、 何処かの葬式のやうになり、 いつの間にか智恵子が居なくなる。 私は誰も居ない暗いアトリエにただ立つてゐる。 外は名月といふ月夜らしい。

詩「荒涼たる帰宅」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

この年8月に刊行された詩集『智恵子抄』のために書き下ろされたと推定されている詩の末尾です。3年前の智恵子葬儀の日をモチーフにしました。

亡き智恵子を偲ぶ時、「狂瀾怒涛の世界の叫も この一瞬を犯しがたい。 あはれな一個の生命を正視する時、 世界はただこれを遠巻にする。」(「梅酒」 昭和15年=1940)と謳っていた光太郎でしたが、この詩をもって、公表された詩で智恵子を謳うことは、戦後まで途絶えます。

智恵子に思いを馳せる時のみ、強引な言い方ですが人間性を回復できていた光太郎、愛する者の死を謳うことで、愛する者に別れを告げ、同時に詩人としての「魂」も自ら死に追いやったといえます。ここから約4年、上記のような翼賛詩の書き殴りの時期が続きます。
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