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新発見光太郎短歌、書簡。

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一昨日は、東京都内に出かけ、3件の用事を済ませて参りました。

最初の目的地は、九段下。創業文政年間(1818~1831)という老舗の書道用品店、玉川堂(ぎょくせんどう)さんでした。

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5月に千葉県流山市で開催された、書家・後閑寅雄(号・恵楓)氏の作品展で、参考出品として、光太郎を含む古今の名筆が並んでいました。その中で、光太郎の短歌が書かれた短冊があったのですが、驚いたことに、書かれていた短歌が、『高村光太郎全集』等に未収録のものでした。そこで、後閑氏に、短冊の所有者が玉川堂さんであることをご教示いただき、連絡を取って、拝見しに行って参りました。玉川堂さんでは、売り物としてではなく、名筆のコレクションの一つとして所蔵されているとのことでした。

お店に着き、二階の事務所に通され、早速、拝見しました。お忙しい中、社長さんが直々に対応して下さいました。

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金ぶちの鼻眼鏡をばさはやかに/かけていろいろ凉かぜの吹く」と読めます。画像ではわかりにくいのですが、最後に光太郎がよく使った「光」一時を丸で囲む署名も入っています。

黒地に文字は白、というより銀ですが、これは字の周りを墨で囲んで塗りつぶす「籠書き」という手法です。光太郎はこの手法を得意としており、書籍の装幀、題字などでも同じことをやっています。また、短冊でも籠書きのものが遺っています。

右の画像は明治44年(1911)頃に書かれたもので、やはり短歌が書かれています。こちらの短歌は滞米中の作品で、「天そそる家をつくるとをみなより/うまれし子等はけふも石きる」と読みます。

てっぺんには墨絵で石造りの建築が描かれています。玉川堂さんの短冊も、同じ位置に墨絵の風景画が入っており、ほとんど同じ時期のものと推定できます。

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光太郎の籠書きについては、実弟の豊周が書き残しています。

 兄がともかく兄らしい個性のある字を書きはじめたのはヨーロッパから帰ってからで、その頃から以後しばらくの兄の短冊には、よく籠書きというのが、字のへりをとって外側の部分を墨で塗りつぶし、中を、銀短冊なら銀に塗り残す変った書き方が現れて来る。(『光太郎回想』 昭和37年=1962)

また、作家・江口渙の回想にも。

 高村光太郎も……片手に短冊をもちながら、まるで彫刻の刀でも使うようなしかたで、はなはだ丹念に書いている。よく見ると書いているのは普通の字ではない。ちょうちん屋などがよくやるかき方の俗にかご字といわれるものである。まわりを線でほそくかいて中を白ぬきにするあの書体である。……かご字で一とおり歌を書き上げると、こんどは字の外がわを、一そう丹念に墨でぬりはじめた。……やがて出来上がったのを見ると、銀短冊はすっかり黒短冊にかわっていた。そして、はじめにかご字で書かれた歌だけが浮き上がるように銀色に光っていた。(「わが文学半生記」 昭和28年=1953)

まさにこれらの短冊そのままの描写です。ただ、江口の回想は大正中期、新詩社新年歌会での一コマですので、若干、時期がずれています。


それから、さらに驚いたことに、玉川堂さんではもう1点、光太郎作品をお持ちでした。そちらは短冊ではなく、長い書簡です。

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大正元年(1912)10月14日、智恵子の妹・長沼セキに宛てたものです。封筒もきちんと遺っていました。セキに宛てた光太郎からの書簡は7通が既に知られており、『高村光太郎全集』に収められていますが、こちらは未収録でした。玉川堂さんには『高村光太郎全集』は持って行きませんでしたが、セキ宛の書簡はだいたい頭に入っており、見た瞬間にこれは新発見だ、とわかりました。念のため自宅兼事務所に帰ってから調べてみると、その通りでした。

大正元年(1912)というと、智恵子とはまだ結婚前で、愛を確かめ合った犬吠埼の写生旅行から帰ったのが9月4日、この手紙が書かれた翌10月15日から、斎藤与里、岸田劉生等と興したヒユウザン会(のちフユウザン会)の第一回展が京橋の読売新聞社で開幕します。この手紙にも明日から同展が始まるため、準備に追われていることが記されています。

当会顧問の北川太一先生にもお骨折りいただいて解読中ですが、高村光太郎研究会から来春刊行予定の雑誌『高村光太郎研究』中の当方の連載「光太郎遺珠」にて詳細を発表します。


それにしても、短冊といい、書簡といい、関東大震災に太平洋戦争の空襲をくぐり抜け、よくぞ残ってくれたと、感慨深いものがありました。まだまだほうぼうにこうした貴重な資料が眠っていると思われます。それらを見つけ出し、光太郎の全貌を明らかにしていくのが使命と考えております。ご協力いただければ幸いです。

ご協力、といえば、玉川堂さん。貴重な資料を拝見させくださり、公表もOK、さらに展覧会等に貸し出すのもかまわないとおっしゃって下さっています。頭が下がります。

それにひきかえ当方は、手土産に当方の住まう千葉佐原銘菓の最中を持参したのですが、新発見の資料を前に頭に血が上り、お渡しするのを忘れて、いったん玉川堂さんを出てしまいました。九段下の駅まで行って、「しまったあああああ!」と気付き、玉川堂さんまで飛んで帰りました。お店に入ると社長さんが「あれっ」というお顔で「忘れ物ですか?」とおっしゃいます。そこで当方、「そうです、忘れ物です。こいつをお渡しするのを忘れてました」。店員さんにも笑われてしまいました(汗)。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月24日

昭和24年(1949)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、截金師の西出大三に葉書を書きました。

おてがみ忝くいただきました。貴下も文字を彫つて居られし由、潺湲楼は九月一ぱいかかるでせう。これはむしろ鑿で文字を書くといつたやうな彫り方です。原字には拘泥せずにやります。 今夏は夏まけの気味にて四度高熱を出しましたが、その都度二三日の休養で恢復しました。 旧盆過ぎて稲の穂も垂れはじめ、山にやうやく秋が近づいてきました、

「潺湲楼」は昭和20年(1945)、終戦後に光太郎が一時厄介になっていた花巻町の佐藤隆房医師宅の離れです。「潺湲」は水のせせらぎを表し、眼下に豊沢川の清流を望むことから、光太郎が命名しました。佐藤医師は「潺湲楼」の文字を彫った扁額を光太郎に依頼、この葉書はそれに関わります。

しかし、結局この扁額は完成せず、文字を下書きにした紙が貼られたまま、現在は花巻高村光太郎記念館に所蔵されています。やっつけ仕事をせず、納得いくように出来なければやらない、という光太郎の性格が表れています。

「生誕130年記念 中村屋サロンの画家 斎藤与里のまなざし」。

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先週土曜日、九段下の玉川堂さんで光太郎短歌の短冊、智恵子の実妹・セキ宛の書簡を拝見した後、九段下から都営新宿線に乗り、次なる目的地、新宿に向かいました。

中村屋サロン美術館さんで開催中の「生誕130年記念 中村屋サロンの画家 斎藤与里のまなざし」を拝観するのが次の目的でした。

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昨秋、開館の際の記念特別展「中村屋サロン―ここで生まれた、ここから生まれた―」、今春の「テーマ展示 柳敬助」に続き、3度目の来訪です。

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斎藤と光太郎の主な接点は以下の通り。明治43年(1910)、光太郎が神田淡路町に開いた日本初の画廊「琅玕洞」で個展開催、さらに、大正元年(1912)には、光太郎、斎藤、岸田劉生等が中心となって、アンデパンダンの美術団体「ヒユウザン会」(のちに「フユウザン会」)を結成、といったところです。

それ以前に、斎藤も光太郎もパリ留学経験がありますが、明治41年(1908)、光太郎がロンドンからパリに移るのと同時期に斎藤は帰国。パリでは2人のつながりはなかったようです。その後、光太郎も帰国した明治42年(1909)には、ヒユウザン会展の元になるような会の結成を図る仲間として知り合っています。共通の友人だった碌山荻原守衛が橋渡しをしたと考えられます。斎藤はこの頃、中村屋サロンに出入りしており、もしかするとそこで初めて光太郎と出会ったのかも知れません。

さて、出品目録によれば、40点の斎藤作品が展示されています。

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初期のフォービズムの影響を受けたものから、のちの童画風のものまで、なかなかバリエーション豊富。しかし、一本の筋が通っていると感じました。

大正元年の第一回ヒユウザン会展出品作の「木陰」も展示されており、つい1時間前に玉川堂さんで拝見した書簡がヒユウザン会展がらみのものだったので、不思議な縁を感じました。また、やはり1時間前に拝見した短冊が、斎藤の個展が開催された琅玕洞で販売されていたらしいというところにも。

「生誕130年記念 中村屋サロンの画家 斎藤与里のまなざし」、来月27日までの開催です。ぜひ足をお運びください。

同展拝観後、同じ中村屋ビルの8階にあるレストラン「Granna」さんで早めの昼食。春に「テーマ展示 柳敬助」を見に行った際には満席&順番待ち行列で断念しましたので、リベンジです。今回は早めに行ったので大丈夫でした。中村屋純印度式カリーのコース3,000円+税のちょっと豪華なランチに舌鼓。その後、次なる目的地、文京区千駄木へ。以下、明日。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月25日 

昭和25年(1950)の今日、雑誌『スバル』にアンケート回答「与謝野寛・晶子作中の愛誦歌」を発表しました。

「与謝野寛・与謝野晶子作の短歌中、特に愛誦さるるもの、若しくは御記憶に残れるもの。」という質問に対し、以下のように回答しています。

  大空のちりとはいかがおもふべきあつき涙のながるるものを

先生のこのうたが今頭に出て来ました。
晶子女史のにはむろんたくさんあるのですが今うたの言葉を思ひ出しません。

文京区立森鷗外記念館コレクション展「鷗外を継ぐ―木下杢太郎」 講演会「鴎外を継ぐ者―木下杢太郎のパリ」。

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先週土曜日、九段下の玉川堂さん、新宿の中村屋サロン美術館さんと制覇し、最終目的地、文京区千駄木の区立森鷗外記念館さんに向かいました。

先月からコレクション展「鷗外を継ぐ―木下杢太郎」が始まっており、さらにこの日は、関連行事として東京大学大学院教授の今橋映子氏による講演「鷗外を継ぐ―木下杢太郎」があったためです。

ただ、最寄りの千駄木駅には早めに着いてしまいました。そこで、団子坂を上り、いったん鷗外記念館前を通り過ぎて、近くのコンビニに。ここは店頭に灰皿が置いてあり、煙草吸いには有り難い配慮です。ちなみに当方、都内のよく歩く範囲では、どこに喫煙所があるか、かなり頭に入っています。シルクロードを旅するキャラバンがオアシスの位置を頭に入れているのと同じです(笑)。

さらに少し行くと、道の右側に瀟洒なマンションが建っています。少し前まではNTTさんのビルだったところですが、こんな案内板が設置されています。

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「「青鞜社」発祥の地」。明治44年(1911)、平塚らいてうを中心に創刊された我が国初の女性だけによる雑誌『青鞜』創刊号―その表紙絵は智恵子の作品―が、ここで編集されました。元々は国文学者・物集高見の屋敷があったところで、物集の娘・和子が青鞜社員だったため、自宅の一室を編集室にしたというわけです。

案内板には光太郎智恵子の名も記され、それを読みつつ、思いを馳せました。

ちなみに光太郎智恵子が暮らしたアトリエ跡や、現在も高村家の方がが住む光雲の旧宅もほど近いのですが、そこまで足をのばす時間もなく、鷗外記念館に戻りました。こちらは元の鷗外邸「観潮楼」のあった場所に建てられています。

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講演会の前に、地下の展示室に。常設の鷗外の展示と、コレクション展「鷗外を継ぐ―木下杢太郎」をじっくり拝見しました。

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鷗外はもちろん、杢太郎も光太郎と縁の深い人物でした。光太郎の方が杢太郎より2歳年長です。

杢太郎は本名・太田正雄。静岡・伊藤の出身です。医学を志し、旧制一高から東京帝国大学に進みましたが、その間、文学に対する熱情も強く、明治40年(1907)頃から鷗外が観潮楼で開いた歌会に参加、明治42年(1909)からは雑誌『スバル』の編集にあたります。この年、欧米留学から帰国した光太郎も『スバル』の主要執筆者の一人となり、二人の交流が始まります。さらに、芸術運動「パンの会」。鎧橋のメイゾン鴻乃巣などで、文学、美術、演劇などに携わる若き芸術家達が酒を飲みながら怪気炎を上げたものですが、光太郎、杢太郎、ともに発起人に名を連ねています。

展示は『スバル』や杢太郎の著書、自筆資料などなど。下に出品目録を載せますが、途中で展示替えがあり、今週から一部変わっているはずです。

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その後、2階の講座室へ。こちらが講演会場です。

講師の今橋映子氏は、比較文化学がご専門。特に明治大正期の日仏両国の文化的なつながりを研究されています。『異都憧憬 日本人のパリ』(柏書房・平成5年=1993)というご著書があり、「第2部 憧憬のゆくえ―近代日本人作家のパリ体験」という項の第1章が「乖離の様相―高村光太郎」。また、昨秋には明星研究会さん主催のシンポジウム「巴里との邂逅、そののち~晶子・寛・荷風・光太郎」のパネリストもなさっていました。

現在、美術史家の岩村透についてのご研究を進められているそうで、数年後には新たなご著書として世に問われるそうです。岩村は、光太郎が在学中、東京美術学校で教鞭を執っており、光太郎に西洋留学を強く勧めた人物です。前任者が鷗外、さらに杢太郎ともつながりがあり、講演では鷗外と杢太郎の関連以外にも、岩村や光太郎にも触れられていて、興味深く拝聴しました。

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クリック2回で拡大します。

それにしても、昨日書いた斎藤与里にしてもそうですが、杢太郎も、一般には忘れ去られかけつつある芸術家です。もっともっと光が当てられていいのでは、と思います。

同時に光太郎が「忘れ去られつつある芸術家」とならないよう、もっともっと頑張らねば、と感じました。

以上、3回にわたる都内レポートを終わります。今日は当方の住む千葉県内の、その南端に近い勝浦に行って参ります。勝浦市芸術文化交流センター・キュステさんで開催中の「第39回千葉県移動美術館「高村光太郎と房総の海」を観て参ります。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月26日

昭和23年(1948)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、どら焼きを食べました。

当日の日記の一節です。

曇、少々むしあつし。 朝、抹茶、濱田先生に昨日もら(っ)たドラ焼を甘味とす。

別に、どら焼きを食べるのは不思議でも何でもないのですが、問題はその量です。前日の日記の一節にはこうあります。

学校にて郵便物授受。 濱田先生と談話。同氏は哲学専攻の由。長坂町に滞在との事。(略)濱田氏よりドラ焼20数個もらふ。

まさか20数個全部を光太郎一人で食べたとも考えにくいのですが、「おすそ分けをした」的な記述が日記には見あたりません(笑)。

第39回千葉県移動美術館「高村光太郎と房総の海」。

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昨日、千葉県勝浦市にて「第39回千葉県移動美術館「高村光太郎と房総の海」」を拝見して参りました。

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会場は勝浦市役所近くの勝浦市芸術文化交流センター・キュステさん。音楽ホールなどを備えた施設です。

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千葉市にある千葉県立美術館さんの収蔵品の出張展示ということで、今回は「高村光太郎と房総の海」というテーマに絞っての実施です。

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順路に従って歩くと、まずは「房総の海」。様々な作家が描いた房総の海岸風景、風俗作品が展示されています。驚いたのは、中西利雄の水彩画。中西といえば、その歿後に光太郎が、東京中野に今も残る中西のアトリエを借りて、十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)を制作しました。

また、光太郎と同じ明治16年(1883)生まれの川瀬巴水の新版画、晩年を千葉県で過ごした東山魁夷の日本画など、逸品ぞろいでした。

そして光太郎の彫刻。以前にこのブログでご紹介したとおり、全てブロンズで「猪」(明治38年=1905)、「薄命児男児頭部」(同)、「裸婦坐像」(大正6年=1917)、「手」(同7年=1918頃)、「十和田湖畔の裸婦群像のための手習作」(昭和27年=1952)、「十和田湖畔の裸婦群像のための中型試作」(同28年=1953)の6点が展示されていました。

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いずれも新しい鋳造ですが、いいものです。入場無料ですし、お近くの方は、ぜひご覧下さい。


行きは当方の住まう香取市から東関東自動車道の宮野木JCTで京葉道に乗り換え、市原から国道297号で南下というルート、いわば内房廻りでしたが、帰りは勝浦から海岸沿いに北上する外房廻りで帰りました。途中、昭和9年(1934)に智恵子が療養していた九十九里町に立ち寄るためです。

台風から変わった低気圧の余波で、大雨洪水警報が発令されており、実際、滝のような雨も降る中、愛車を駆りました。右手にちらちら見える九十九里浜の海も、だいぶ時化ていました。その白く荒々しい波濤を見ながら、さまざまな画家達が画題に選んだのもうなずけると思いました。

九十九里町に着いた頃には、雨も小降りとなっていました。国民宿舎サンライズ九十九里さんのかたわらに立つ、「千鳥と遊ぶ智恵子」碑を見て参りました。年に1、2回はここを訪れますが、何度来てもいいものです。

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昼食はそこからほど近い浜茶屋向島さんで摂りました。注文したのは、自分で食材を焼いて食べる本蛤セット+焼きおにぎり。この店も3度目の来訪ですが、いつもこれです。前回はほぼ1年前、NHK大阪放送局の「歴史秘話ヒストリア」ディレクター氏とのロケハンでした。

焼く前がこちら。蛤が3個、イワシが2尾、ホタテと栄螺が一つずつ。写っていませんが、焼きおにぎりは2個で1人前です。

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そして焼いている最中。香ばしい匂いが食慾をそそります。

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これで2,500円ほどです。「安い!」というわけではありませんが、このボリュームにしてはお手頃でしょう。ちなみに前回はNHKさんの取材費で食べさせていただきました(笑)。


さらに北上して、片貝漁港近くに今年4月にオープンした「海の駅 九十九里」に寄りました。「海の駅」というのは「道の駅」のパクリか? と思っていましたが、意外や意外、すでに全国の海岸140箇所ぐらいに設置されています。

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こちらには「いわし資料館」が併設されています。

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かつてここには「いわし博物館」(入場無料)がありました。そちらの学芸員だった永田征子さんという方は、平成16年(2004)に、博物館で起きた天然ガスの爆発事故で亡くなりました。永田さんという方は、智恵子史跡の保存にも力を入れられていたそうで、そういうことに思いを馳せつつ拝観しました。

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海の駅の2階から見た九十九里浜。雨はほぼやんでいましたが、やはり時化ていました。


さて、明日も九十九里ネタで書かせていただきます。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月27日イメージ 1

昭和13年(1938)の今日、詩「或る日の記」を書きました。

   或る日の記

水墨の横ものを描きをへて
その乾くのを待ちながら立つてみて居る
上高地から見た前穂高の岩の幔幕
墨のにじんだ明神岳岳のピラミツド
作品は時空を滅する
私の顔に天上から霧がふきつけ
私の精神に些かの條件反射のあともない
乾いた唐紙はたちまち風にふかれて
このお化屋敷の板の間に波をうつ
私はそれを巻いて小包につくらうとする
一切の苦難は心にめざめ
一切の悲歎は身うちにかへる
智恵子狂ひて既に六年
生活の試練鬢髪為に白い
私は手を休めて荷造りの新聞に見入る
そこにあるのは写真であつた
そそり立つ廬山に向つて無言に並ぶ野砲の列

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詩の下の画像が「水墨の横もの」、詩の右側の画像は大正2年(1913)、智恵子と婚前旅行に出かけた上高地で描いた油絵です。

詩は智恵子が歿する直前、昭和13年(1938)の10月に発表された一篇です。この前年には廬溝橋事件が起こり、日中戦争に突入しています。終末の三行はその辺りを指しています。

智恵子が愛した砂浜 句に込めた平和への思い。

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先週の『東京新聞』さんの千葉中央版に以下の記事が載りました。

昨日もご紹介した、昭和9年(1934)に智恵子が療養した千葉県九十九里。こんなところにも悲惨な戦争の余波がしばらく残っていたという話です。 

<九十九里の赤とんぼ 千葉の戦後70年>智恵子が愛した砂浜 句に込めた平和への思い

 人っ子ひとり居ない九十九里の砂浜の砂にすわって智恵子は遊ぶ。

 詩人で彫刻家の高村光太郎の詩集「智恵子抄」の一節に、九十九里が登場する。一九三四年、妻智恵子は療養のために豊海町(現九十九里町)の真亀納屋に八カ月ほど滞在し、光太郎は毎週のように東京から見舞ったという。智恵子が小鳥と戯れ心を癒やしたその砂浜こそ、十四年後に米軍のキャンプ片貝に姿を変えた場所だった。
 内山いつ(78)=九十九里町=は、父親を太平洋戦争で亡くし、母子家庭で育った。「明日食べるものをどうにかしなくちゃいけない毎日だった」。五歳年下の妹・長谷川ぬい(73)=大網白里市=と、イワシの地引き網を手伝ったり、ヨシを刈って売ったり。少しでも家計の足しになるならと、夜なべで内職もした。
 自宅から三百メートル先にキャンプ片貝ができ、町の様子が不穏になる中で過ごした思春期だった。子どもたちがたばこを吸い、化粧した姿を見かけるようになった。夜道を歩いていると米兵に声を掛けられ、「アイ・アム・スクールガール」と答えると逃げていった。母子家庭に突然米兵が押しかけて来ることもあり、不安だった母親は、ガードマン代わりに内縁の夫を持った。
 そんな中、内山は豊海町の青年会が中心となった俳句会「白濤(はくとう)会」に参加する。中学生から二十代前半の若者が三十人ほど集まり、思いを句に込めた。「怖い体験をすることが増えた。誘惑も多く、このままでは町がだめになってしまうんじゃないかと、みんな思っていた」
 五二年四月、サンフランシスコ講和条約の発効で日本は主権を回復し、米軍による占領は終わった。しかし、同時に発効した日米安全保障条約(旧安保条約)により、米軍は希望する基地は今まで通り使うことができ、キャンプ片貝でも変わらず演習が続いた。
 五三年七月、朝鮮戦争の休戦協定が調印されると、キャンプ片貝で年二百日を超えて行われていた高射砲演習は徐々に減っていく。五七年三月には、政府が米軍に接収された九十ヘクタールのうち二十ヘクタールに縮小して提供することを決め、調達庁(現防衛省)が県に通知した。
 ところが米軍は同年五月、突然「永久に射撃演習を中止する」と県に通告。しばらくして敷地を返還し、十年間住民を苦しめたキャンプ片貝が姿を消した。
 突然の基地撤退について郷土史家の古山豊(67)=大網白里市=は「核兵器の開発が進む中、高射砲という戦術が時代遅れになり、キャンプ片貝の必要性そのものが低くなった」と指摘。五四年に自衛隊が発足して日本に一定の防衛力が備わったことも一因とみる。千葉大の三宅明正教授(日本近現代史)は、五〇年代後半、本州各地で米軍基地の撤退が相次いだことに着目。「政府が積極的に基地返還を求めることは無かったが、米国側が基地闘争の高まりを危険と判断し、返還を進めたのだろう。撤退は住民の反対運動が決定的だった」と分析する。
 キャンプ片貝の売店で働いていた宇津木勇(83)=東金市=は五六年ごろ、将校に「沖縄で働けないか」と尋ねると、「沖縄は米国の永久接収だから異動はできない」ときっぱり断られたことを覚えている。米軍基地は、米政府統治下の沖縄に集中。今も在日米軍専用施設の74%を占める。
 無人機「赤とんぼ」の墜落や高射砲演習「ドカン」の騒音、振動被害、米軍車両による事故…。九十九里の住民がかつて経験した同じ苦しみを今、沖縄をはじめ基地のある全国の町の人々が味わっている。
 平和の世永久(とわ)につづけよせみしぐれ
 内山は、ドカンの鳴り響くあの時代を生きたからこそ、暑い夏のせみしぐれに平和を感じ、平和を祈る。智恵子が愛した九十九里に思いをはせながら。  =文中敬称略、おわり  (柚木まり)

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昭和32年(1957)に返還されるまで、智恵子が歩いた浜の一帯が、米軍の実弾演習場として使われていたことは、千葉県民でもあまり知りません。当方も、光太郎智恵子がらみで知っていたというところです。昭和25年(1950)には、「九十九里浜闘争」という反対闘争も起こっています。この夏、自民党が安保法案の根拠として無理矢理引き合いに出していた「砂川闘争」など、各地でこうした住民運動が起こっていました。

返還後の昭和36年(1961)、記事にもある地元の俳句サークル「白濤会」の皆さんのお骨折りで、「千鳥と遊ぶ智恵子」碑が建てられました。

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実は、この碑も米軍基地に関係があります。

以下、草野心平の回想(昭和39年=1964 『新潮』掲載「高村光太郎・智恵子」)から。

 昭和三十六年(光太郎歿後六年)に私は二回、九十九里浜にいった。新しい町村合併後で片貝も真亀納屋も九十九里町に編入されていた。その町の青年有志が中心になり、あとでは町長なども応援にたっての詩碑建設の話が前年の暮頃から進んでいた。高村家でもそのことを了承したので、三十六年の何月だったかは忘れたが、石材と建碑の場所の選定をまかされて出掛けていった。
(略)
 町の有志の人たちのあいだではそれも大体目星がついているらしく私を先ずそこに案内した。米軍の演習基地はもうすっかり取払われていて、以前は何が建っていたのだろうか、正方形の大きなコンクリの台座が露出しているところがあった。既成のその台座を利用してその上に建てたいという意見であった。
(略)
 資金の点もあるらしいし、
「あの台座の上でもいいでしょう。」
 と私は言った。風景もいいし、あの辺を智恵子さんは散歩したに違いないとも思ったから。

というわけで、当初は、米軍演習場の遺構を使って碑の台座にするという計画でした。しかし、それは白紙に戻ります。先の心平の回想の続きです。

 その晩成東の宿で、みんなが引きあげたあとに私の考えは然し変わった。翌る朝東京へ帰る予定を変えて私はまた町役場に出掛けていった。米軍が使っていた台座の上に建てるのはどうしてもすっきりしない。あの上には絶対に建てたくない。そんな気持ちに私は豹変していた。そしてきのうと同じことを私たちは繰返した。米軍台座よりも沖合に近く、そこよりも更にいくらか高みのある砂丘、私たちはそこに決めた。津波などのことも考え、二米のコンクリの台座を新しくつくり実際に出来上がったときはあたりは平凡な砂の丘だけで台座は寸分も見えないように、そんな希望も受入れられた。

こうして「千鳥と遊ぶ智恵子」碑が建ったのです。当初は心平の回想の通り、波打ち際を望む砂丘に建てられました。下の画像は碑の除幕の翌年、昭和37年(1962)に刊行された『光太郎のうた』(社会思想社現代教養文庫 伊藤信吉編)の表紙です。

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しかし、その後、昭和47年(1972)に碑と海岸線の間に九十九里有料道路が通され、残念ながら現在は碑から海が見えません。何だかなあ……という感じです。


さて、もう1件、やはり先週の新聞記事を紹介します。「戦争」「光太郎」そして「俳句」ならぬ「短歌」ということで、多少なりとも関わるかと思いますので。『高知新聞』さんの記事です。 

「戦争は二度と再びするまいぞ」 短歌九条の会こうち発足 31文字に平和込め 県内から50人参加

 〈戦争は 二度と再び するまいぞ よろよろ生きて 九条守る〉―。政府による解釈改憲で憲法の平和主義が大きく変容しかけている中、高知県内の歌人らが「短歌九条の会こうち」を立ち上げた。31文字の短歌に平和への思いを込め、憲法9条を守るとの意思を広げていく狙いだ。
 会は7月15日に発足した。ちょうど、集団的自衛権の行使を可能とする安全保障関連法案の採決が強行され、衆院を通過した日に当たる。
 その様子を会員は詠んだ。
 〈国民の 理解不十分と 認めつつ いきなり衆院 採決強行〉
 会には、安保法案への危機感や憲法順守の思いを表現しようと、高知市や四万十市、安芸市などから50人余りが集まっている。世話人の梶田順子(みちこ)さん(75)=高知市福井町=によると、「戦前の反省がある」と言う。
 満州事変後の「15年戦争」で、斎藤茂吉や高村光太郎ら当時の著名な歌人は、積極的に「愛国歌」を詠んで戦争に協力した。
 梶田さんは「日常が壊されると、歌も自由に詠めなくなる。今はまだ、間違うちゅうことは間違うちゅうと言える。黙っていては認めたことになってしまう」と話す。
    ■  ■
 会員の作品には、自身の戦争体験を取り上げたものも多い。
 〈父おくる 母の涙を 見てしより 言へず語れず 戦を憎みき〉
 〈新婚の 僅(わず)かひと月 嫁残し 戦死せる子の 墓撫(な)づる母〉
 梶田さんは1945(昭和20)年7月4日の高知大空襲で自宅を失った経験を持つ。親類はニューギニアで戦死している。
 「他国の人を殺さず、殺されずにやってこれたのは憲法9条があったから。安保法案はその9条を壊してしまう。短歌を一つ一つ味わってもらい、今の社会情勢を考えるきっかけになれば」
 梶田さん自身はこう詠んだ。
 〈子の戦死(し)をば 誉れと言ひし 彼(か)の日日の 還(かえ)り来(きた)るを 止めねばならぬ〉
 会では、短歌を掲載した会報の発行や学習会を随時開催するという。投稿や入会希望、賛同者は梶田さん(090・8692・8221)へ。

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戦後70年。草野心平が「絶対に米軍が使っていた台座の上に詩碑を建てたくない」とがんばったような努力は、形を変えてこのように受け継がれています。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月28日

昭和22年(1947)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、姪の高村美津枝に葉書を書きました。

 八月廿六日のおてがみ 今日来ました。お庭の作物のこと おもしろくよみました。それではこちらの畑につくつてゐるものを書きならべてみませう。大豆、人参、アヅキ、ジヤガイモ(紅丸とスノーフレイク)、ネギ、玉ネギ、南瓜(四種類)、西瓜(ヤマト)、ナス(三種類)、キヤベツ、メキヤベツ、トマト(赤と黄)、キウリ(節成、長) 唐ガラシ、ピーマン、小松菜、キサラギ菜、セリフオン、パーセリ、ニラ、ニンニク、トウモロコシ、白菜、チサ、砂糖大根、ゴマ、エン豆、インギン、蕪、十六ササギ、ハウレン草、大根(ネリマ、ミノワセ、シヨウゴヰン、ハウレウ、青首、)など。

本当かな?という気がしないでもありませんが、まあ、これら全てを同時に作っていたということではないのでしょう。

ノエビア銀座ギャラリー「山本容子のアーティスト図鑑」。

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ノエビア銀座ギャラリーさんから開催案内の葉書を戴きました。今週から始まっている展覧会です。 
会    期 : 2015 年8 月24 日(月)~10 月30 日(金) 入場無料
開催時間 : 午前10 時~午後6 時 (土・日・祝日は午後5 時まで)
会    場 : ノエビア銀座ギャラリー(ノエビア銀座本社ビル1F 中央区銀座7-6-15)
主    催 : 株式会社ノエビア
お問合せ : 0120-401-001(月~金/9:00~18:00 土・日・祝日除く)

独自の作品世界を持つ銅版画家、山本容子。
1995 年より、 「本の話」(文藝春秋)の表紙画として、毎月、アーティストの肖像画を描きました。本展では、17 年にわたり描かれた191 名の銅版画のポートレイトから、日本人アーティストを選んで展示いたします。作品にある“EX-LIBRIS”とは蔵書票を意味し、ひとりひとりが蔵書票のスタイルで描かれています。持ち主の印として蔵書に貼られる蔵書票には、古くは紋章や肖像画をあしらった図案が用いられました。山本が大切に考えたという「作家の人物としての空気感」を感じていただけます。

山本容子 (やまもと ようこ)・銅版画家 1952 年-埼玉県生まれ京都市立芸術大学西洋画専攻科修了。都会的で軽快洒脱な色彩で、独自の銅版画の世界を確立。絵画に音楽や詩を融合させるジャンルを超えたコラボレーションを展開。数多くの書籍の装幀、挿画なども手がける。近年では、医療現場における壁画制作、ホスピタルアート壁画を制作し、幅広い分野で精力的に創作活動を展開している。近著に『山本容子のアーティスト図鑑100 と19 のポートレイト』(文藝春秋)、『Art in Hospital スウェーデンを旅して』(講談社)がある。


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銅版画家の山本容子さん。古今の著名人の肖像を多く手がけられており、雑誌『婦人公論』の表紙絵を集めた『女・女』(平成16年=2004 中央公論社 絶版)、そして一昨年には雑誌『本の話』の表紙絵集『山本容子のアーティスト図鑑 100と19のポートレイト』(文藝春秋社)などには、智恵子の肖像も採用されています。

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今回は『山本容子のアーティスト図鑑 100と19のポートレイト』の原画のうち、智恵子を含む日本人アーティストを描いたものが展示されているそうですが、点数はよくわかりません。近々観に行って、レポートします。

皆様もぜひ足をお運び下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月29日

昭和29年(1954)の今日、終焉の地、中野アトリエ近くに落雷があり、しばらく停電しました。

当方の子供の頃、停電などはしょっちゅうでした。最近はめったなことでは起こらなくなりましたね。

富山県水墨美術館「北陸新幹線開業記念 お召列車と鉄道名画 〜東日本鉄道文化財団所蔵作品を中心に〜」。

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昨日に引き続き、開催中の展覧会情報です。光雲作品が出品されているとのことですが、気付くのが遅れました。  

北陸新幹線開業記念 お召列車と鉄道名画 〜東日本鉄道文化財団所蔵作品を中心に〜

会  期 : 2015年8月21日(金曜)~9月27日(日曜)
会  場 : 富山県水墨美術館 富山市五福777番地
休 館 日 : 月曜日(ただし9月21日は開館)
開館時間 : 午前 9時30分から午後5時まで(入室は午後4時30分まで)
観 覧 料 : [前売り]一般のみ800円 [当日]一般1,000円 大学生700円
主  催 : 「お召列車と鉄道名画」実行委員会(富山県水墨美術館、富山テレビ放送)
共  催 : 北日本新聞社
後  援 : 滑川市、滑川市教育委員会

関連行事
鉄道模型運行  場所 エントランスホール 運転日 会期中の日曜・祝日(8/23、30、9/6、13、20〜23、27)
 運転時間 午後1時〜4時  見学無料

学芸員による作品解説
日時 8/22、9/5、19 いずれも土曜日 午後2時〜
※要展覧会観覧券


 この展覧会は、北陸新幹線の開業を記念し、美術と鉄道の関わりという視点から、JR東日本、東京ステーションギャラリーと鉄道博物館の運営母体である東日本鉄道文化財団の協力を得て開催します。
  「お召列車」は、天皇・皇后両陛下、皇太子殿下が乗車されるために運行される列車で、「御料車」は御乗用される車両の総称です。また、「御座所」は車両内でお座りになる場所を指し、その席を「玉座」と呼びます。
  本展は、この「御料車」に実際に用いられていた、工芸技術の粋が惜しみなく注ぎ込まれた装飾と玉座を紹介するとともに、蒸気機関車や機関庫など、鉄道の情景が描かれた作品や、鉄道をモチーフにイメージを膨らませて描かれた作品、昨年開業百年を迎えた東京駅が描かれた作品などの絵画を展示します。
  これら貴重な作品の数々が富山に一堂に会するのは、北陸新幹線の開業という二度とない機会だからこそと言えます。さらに、展覧会としてだけではなく、鉄道事業への理解を深める機会とします。

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同展について報じた『中日新聞』さんの記事です。

これがお召列車「玉座」 県内初 県水墨美術館で展示 新幹線開業記念 JR東から借り受け

 北陸新幹線開業を記念し、美術品を通して鉄道が楽しめる企画展が、富山市五福の県水墨美術館で開かれている。九月二十七日まで。
 「お召(めし)列車と鉄道の名画」と題し、JR東日本(東京都渋谷区)や東日本鉄道文化財団(同)の所蔵品五十二点を借り受けた。今回、天皇、皇后両陛下がお座りになる「玉座」を県内で初公開している。
 玉座は、一九三三年に一脚、五九年にもう一脚が製作された。色調は控えめで、絹製のクッションに、金糸の装飾が施され、テーブルとともに展示している。
 ほかに、彫刻家高村光雲(一八五二~一九三四年)が制作、監督を務めた「お召列車」の食堂車の窓枠や、勢いのある筆遣いの洋画家長谷川利行(一八九一~一九四〇年)の油彩画「赤い汽罐(きかん)車庫」(一九二八年)などが並んでいる。
 学芸員の鈴木博喬(ひろたか)さん(48)は「特に、玉座はなかなか見られない。大人から子どもまで楽しめます」と来館を呼び掛けている。
 休館は月曜日。開館時間は、午前九時半~午後五時(入館は午後四時半)。一般千円、大学生七百円、高校生以下は無料。


というわけで、光雲作の窓枠が展示されているとのことです。

当方、鉄道マニアではないのでよくわからず、調べてみました。すると、「御召列車博物館」というサイトがあり、その歴史が年表になっていました。

そちらによると、光雲存命中に15回ほどお召列車の車両が作られています。光雲は明治20年(1887)に、皇居造営に伴う彫刻の仕事を命ぜられ、それがきっかけで飛躍していくのですが、その流れでお召列車の内装も手がけたのでしょう。

ただ、現在、最も詳細な光雲の年譜は、平成11年(1999)に中教出版から刊行された『木彫高村光雲』巻末のものですが、こちらにも記録がありません。まだまだ光雲の事績の全体像も不明のところが多いのが現状です。そこで、お召列車の仕事にも携わっていたと知り、「ほう」と思いました。

お近くの方、ぜひどうぞ。

他にも別件で光雲関連、ぽつぽつ報道が為されています。明日はそのあたりを。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月30日

平成15年(2003)の今日、新人物往来社から沼口勝之著『裸像 小説・若き日の高村光太郎』が刊行されました。

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サブタイトルの通り、明治39年(1906)の欧米留学から、大正元年(1912)、智恵子と愛を確かめ合った銚子犬吠埼までの光太郎を描いた小説です。なかなかの力作、「ここはおかしい」という突っ込みどころも皆無だった記憶があります。

残念ながら版元の新人物往来社は吸収合併され、絶版ですが、古書市場では入手可能です。

「善光寺資料館展示 三宝荒神ひな型 初の「補修の旅」 」/「<活人剣の碑>来月完成 李鴻章と軍医、交友の証し 袋井」。

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光雲関連の報道を2件。

まずは長野の地方紙『信濃毎日新聞』さんから。 

善光寺資料館展示 三宝荒神ひな型 初の「補修の旅」

 近代日本を代表する彫刻家高村光雲(1852~1934年)と米原雲海(1869~1925年)の合作で、長野市の善光寺仁王門にある三宝荒神(さんぽうこうじん)像、三面大黒天像の試作品に当たる「ひな型」が27日、修理のため、展示してある善光寺の資料館(日本忠霊殿)から東京芸術大に搬出された。ひな型が修理で寺の外に出るのは、1919(大正8)年の制作以来、初めて。

 ひな型は、三宝荒神が高さ123センチ、三面大黒天が106センチ。仁王像の背面にある高さ2・5メートルほどの本像の制作前に、高村、米原が作った。文化財に指定されてはいないが、木造彩色でともに三つの顔と6本の腕があり、群青色の体や衣、金色の装飾が鮮やかだ。しみや欠損、カビが生えるなど傷みが目立つようになり、来年5月までの予定で修理することになった。

 27日は東京芸大大学院の保存修復彫刻研究室の3人が、付属品を外した像を緩衝材やさらしで幾重にも包み、慎重に運び出した。同大学院非常勤講師で近代彫刻が専門の藤曲隆哉さん(33)によると、伝統的な仏像彫刻の形式と近代の技法を融合させ、大正時代を代表する作品の一つという。善光寺事務局は「近代彫刻の観点での調査成果にも期待したい」としている。
(2015.8.28)


善光寺さんの仁王門には、光雲と高弟の米原雲海合作の仁王像が奉納されています。下記画像は大正時代の絵葉書です(以下同じ)。

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大正8年(1919)の開眼です。昨秋には、最大震度6弱を観測した長野県北部地震が発生、仁王像も破損しましたが、大事には至らなかったようです。

その仁王像の裏側には、三面大黒天像と、三宝荒神像が納められています。こちらも光雲・雲海の手になるものです。

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その試作(ひな形)が善光寺さんの資料館である日本忠霊殿に収蔵されていますが、そちらが東京芸術大学で補修されることになったという記事です。文化財修復の技術には定評がある同大、光雲も雲海も前身の東京美術学校で教鞭を執っていたゆかりの深い学校です。この際、きっちりと補修をしていただきたいものです。

下記は三面大黒天像のひな形。三宝荒神像のそれが写った絵葉書は未入手です。

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「高サ七尺五寸」というキャプションは、仁王門に納められている本体で、ひな形は約100㌢です。

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もう1件、『毎日新聞』さんの静岡版の記事です。昨秋ご紹介した袋井市の寺院・可睡斎さんに、明治31年(1898)頃に建てられた「活人剣」の碑に関してです。 

<活人剣の碑>来月完成 李鴻章と軍医、交友の証し 袋井

 袋井市久能の禅寺・可睡斎(かすいさい)の境内に復活建立される「活人剣の碑」の工事が最終段階を迎えている。27日には制作者で金属工芸家の宮田亮平・東京芸大学長が訪れ、台座に載せる金属製の剣碑(高さ約5メートル)が据え付けられた。
 剣はサーベルの形をしておりステンレス製。表面をブロンズで覆ってある。富山県内のアトリエで制作した。この日作業員が重機などを使って台座の上に剣先が天に向かう形で慎重につり下ろした。高村光雲作とされる初代の碑は境内奥にあったが、復活碑は山門の横に建立される。
 宮田学長は「(初代の)復元ではなく現代に合わせた作品」と説明。剣の刃先の向きなど設置状態を調べ「このままでいいですね」と満足そうだった。
 初代「活人剣の碑」は、日清戦争(1894〜95年)の講和交渉のため来日した清国全権大使の李鴻章と、主治医を務めた旧陸軍軍医総監、佐藤進の交友の証しとして建立された。佐藤がいつも軍刀を身に着けている理由を尋ねた李に、「私の剣は活人剣」と答えたことが碑名の由来という。
 しかし第二次大戦中、金属供出でなくなり、台座だけが残った。地元有志らが再建委員会を設置。昨年から建設費(約3000万円)の募金活動を始めた。
 9月26日に完成を祝う「立剣式」を行い一般公開する。【舟津進】
(2015.8.29)


こちらも古絵葉書です。おそらく光雲が中心となって、上部の剣の部分を木彫で制作、それをブロンズで鋳造したものと思われます。

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色即是空とは申しますが、滅びるに任せず、修復したり再建したりができるのであれば、光雲ら先人の事績共々後世に伝えていって欲しいものです。その意味ではどちらも意義のある取り組みですね。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月31日イメージ 7


昭和61年(1986)の今日、徳間書店から内田康夫著『「首の女(ひと)」殺人事件』が刊行されました。

昭和57年(1982)、『後鳥羽伝説殺人事件』で始まり、現在も続く、浅見光彦シリーズの第10作です。光太郎の作った木彫の贋作を巡る事件を、名探偵浅見光彦が鮮やかに解決するというものです。

平成18年(2006)にはフジテレビさんが中村俊介さん主演で、平成21年(2009)にはTBSさんが沢村一樹さん主演で、それぞれドラマ化しています。どちらもBS放送などで、年1~2回、再放送されています。

浅見光彦シリーズはコミック化されている作品も多いのですが、この『「首の女(ひと)」殺人事件』は、それがなされていません。光太郎の「蟬」の木彫などを描かなければ成り立たないので、大変なのかも知れませんが、漫画家の皆さん、ぜひお願いします。



第8回山形大学高校生朗読コンクール/群読劇「ビルマの竪琴」。

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山形からイベント情報です。 
 第8回山形大学高校生朗読コンクール/群読劇「ビルマの竪琴」に一般市民を無料招待します。
  ※ただし、事前にお申込みをお願いいたします。(当日のご入場も受付けます。)

  山形大学特別プロジェクト「いま、言葉を東北の灯(ともしび)に」の事業として、9月13日(日)に、山形市中央公民館多目的ホール(アズ七日町6階)において、第8回山形大学高校生朗読コンクール/群読劇「ビルマの竪琴」を開催します。
 
 朗読コンクールには、予選を通過した東北6県の高校生10名前後(選考結果によって変動します)が出場し、福島県にゆかりのある詩人で彫刻家でもある高村光太郎の作品を朗読します。

  群読劇「ビルマの竪琴」では、酒田市出身の演出家佐藤正文氏が演出を担当、出演者として磯部勉さん、大西多摩恵さんをお招きし、山形の子どもたち、一般市民のみなさん、山形大学学生とともに舞台を作り上げます。

日 時:平成27年9月13日(日) 13:00開場 13:30開演(終演予定17:00)
 第一部:高校生朗読コンクール 高村光太郎「智恵子抄」より
 第二部:群読劇「ビルマの竪琴」
 第三部:表彰式

会 場:山形市中央公民館多目的ホール (山形市七日町一丁目2番39号 アズ七日町6階)

お申込み方法
  チラシ裏面の入場申込書に、代表者氏名、代表者住所、電話番号、同行者氏名、合計人数(5名まで)をご記入の上、郵送・FAX・メール・電話のいずれかからお申込みください。
※電話によるお申込み・お問合わせは、平日9:00~17:00にお願いします。
申込み締切り:平成27年9月9日(水)まで
お申込み・お問合わせ先:山形大学エンロールメント・マネジメント部社会連携課
〒990-8560 山形市小白川町1-4-12
TEL: 023-628-4016 FAX: 023-628-4491 E-mail:
embml@jm.kj.yamagata-u.ac.jp

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6月にこのブログで出場者募集の案内をご紹介した山形大学さん主催の朗読コンクール、本選が行われます。同時に群読劇「ビルマの竪琴」の上演も。

「いま、言葉を東北の灯に」をサブタイトルに、宮澤賢治や井上ひさし、藤沢周平など東北出身の作家の作品を取り上げてきたイベントです。平成23年(2011)からは、東日本大震災を受け、参加資格を東北6県の高校生に広げ、復興支援の意味も付与してて実施しています。

こういう活動を通し、若い世代に光太郎智恵子の世界を深く知ってほしいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 9月1日

昭和44年(1969)の今日、光太郎がよく利用した花巻電鉄の花巻 - 西花巻 - 西鉛温泉間が廃線となりました。

昭和20年(1945)から光太郎が7年間住んだ太田村の山小屋からは、徒歩1時間ほどの二ツ堰駅で乗車、花巻町に出る時や、逆方向の大沢温泉、鉛温泉などに行く際に利用していました。

下の画像は少し前に入手した古絵葉書です。

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先週、オンエアされたテレビ東京系BSジャパンさんの、「空から日本を見てみよう+ 岩手県花巻温泉~遠野」では、花巻駅近くに静態保存されているデハ3型が取り上げられました。

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内部にもカメラが入りました。座っている乗客にもつり革が必要だったというのですから笑えます。

2系統あった花巻電鉄、昭和47年(1972)には花巻 - 花巻温泉間が廃線となり、その歴史に幕を閉じました。

佐野東石美術館「木彫の美-高村光雲と近現代の彫刻-」。

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栃木県佐野市にある佐野東石美術館さんでの企画展です。 
会  期 : 2015年9月18日(金)~ 12月20日(日) 木曜休館
会  場 : 佐野東石美術館 栃木県佐野市本町2892
時  間 : 午前10時~午後5時
料  金 : 大人700円 小・中・高生300円

 日本近代木彫の父・高村光雲(1852~1934)を中心に、光雲門下の山崎朝雲,大内青圃,阿井瑞岑らの作品を展示いたします。また、光雲の高弟に学んだ平櫛田中,師事した澤田政廣,佐藤玄々(朝雲)など珠玉の作品を一堂に展示いたします。木彫の生命の輝きをどうぞご鑑賞ください。


最初にこの情報を見つけた時、「佐野東石」は人名かと思いました。ところがさにあらず、「佐野」は所在地の地名、「東石」は「東京石灰工業株式会社」の略で、コンクリートの原料や線路の敷石などに使われる砕石を扱う会社だそうです。美術館はかつての同社社長・故菊池登氏が、文化教養の高揚に寄与する目的で設立されたとのこと。

その意気や良し、というわけで、こうした小規模な私営美術館や文学館にはエールを送りたくなります。再来週あたり、あちら方面に行く都合がありますので、行ってこようと思っています。皆様もぜひどうぞ。


同館のサイトには、所蔵作品として光雲の木彫「牧童」が紹介されています。他にも光雲作品の所蔵があるかどうか、解りかねますが。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 9月2日

昭和30年(1955)の今日、『朝日新聞』に連載された「私のきいた番組」の第一回を執筆しました。

「私のきいた番組」は、9月4日、18日、10月9日、23日の4回にわたって連載された、ラジオに関する随筆です。

第一回は、ニュースをよく聴く、としたうえで、この年起こった森永ヒ素ミルク事件にも言及しています。

シンワアートオークション近代美術/木梨憲武/横浜日枝神社火伏神輿御巡行。

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昨日に引き続き、光雲関連の情報です。  
開催日 : 2015年 9月19日(土)
時  間 : 18:00
会  場 : シンワアートミュージアム 東京都中央区銀座7-4-12 銀座メディカルビル
下見会 : 2015年 9月16日(水)~ 9月 18日(金) 10:00~18:00  9月19日(土) 10:00~12:00 
出品点数 : 近代美術129点 木梨憲武8点
落札予想価格下限合計 : 近代美術:2億4,175万円  木梨憲武: 195万円


日本のアートオークション運営会社の中でも大手のシンワアートオークションさん。たびたび光雲作品が出品され、このブログでもご紹介していますが、今月開催のオークションで光雲の「木彫魚藍観世音」が出品されます。

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光太郎の箱書きがあるとのことで、真筆であれば非常に珍しい例です。それもあるので、落札予想額が8桁です。


もう1件。

毎年このブログでご紹介しています横浜南区山王町のお三の宮日枝神社さんのお祭りです。たくさんの神輿が出る中で、光雲の手になる彫刻が施された「火伏神輿」も出ます。関東大震災と、横浜大空襲の2回の火難をくぐり抜けたということで、「火伏」の名が冠されています。

当方、昨年は観に行って参りました。

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今年は9月18日~20日の3日間が例大祭だそうです。ところが公式サイトに「火伏神輿」の件が記されておらず、今年は出ないのかな、と思い、電話で問い合わせてみたところ、9月18日(金)13:30~、イセザキ・モールを巡回するとのことでした。

あとでイセザキ・モールのサイトを調べてみたら、チラシが掲載されていました。

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それから、やはり光雲作の獅子頭の木彫も、沿道にある書店の有隣堂さん前に展示されます。下の画像は昨年観に行った際に撮ったものです。火伏神輿も担がれていない時は同じ場所に置かれるようです。

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ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 9月3日

平成14年(2002)の今日、徳島県立近代美術館で「高村光雲とその時代展」が開幕しました。

この年4月から、三重県立美術館、茨城県立近代美術館、千葉市立美術館と巡回し、最後の開催地でした。光雲作品が約90点、光太郎木彫も5点並びましたが、意外といえば意外なことに、初の大規模な光雲展でした。

上記の記事でも解るように、光雲作品は散逸とまではいきませんが、その生涯に膨大な数が作られ、各地に存在するためです。また、弟子がほぼ全体を作り、仕上げのみ光雲が行って、光雲の銘が入れられたいわば工房作品も多く、そのあたりもネックです。

下記は当方が観に行った茨城展のチラシです。

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福島本宮市「第3回カナリヤ映画祭 映画『こころの山脈』製作50周年記念」。

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智恵子の故郷・二本松に隣接する福島県本宮市からイベント情報です。 

最初に、背景と概要をわかりやすくするために、先月、地方紙『福島民報』さんに出た記事を引用します。 

”銀幕のマチ本宮”継承 NPOが定期的に映画上映

 旧本宮町(現本宮市)を舞台にした映画「こころの山脈(やまなみ)」の完成から今年で50年―。地域が映画製作に協力するフィルムコミッションの先駆けとなった本宮市で、若者に映画の魅力を伝え、地域おこしにつなげる活動が動きだす。市民有志でつくる団体がNPO法人化し、古里にちなんだ作品などを集めた上映会を定期的に開く。昭和期の市内のにぎわいを収録したフィルムのデジタル化にも取り組み、「銀幕のマチ」の歴史を伝える。
 団体は、市民ら約40人でつくる「本宮の映画文化を継承する会」。17日にNPO法人の登記が完了した。映画「こころの山脈」が50年の節目を迎えたのを機に、県、市などの行政機関と連携して映画文化の伝承活動に乗り出す。
 活動の第一弾として、9月19、20の両日、市内のサンライズもとみやで、「こころの山脈」のせりふから名付けた「カナリヤ映画祭」を開く。「こころの山脈」のほか、桑折町で撮影された「物置のピアノ」などを上映する。
 上映会は公共施設や病院など人の集まる場所で年数回開く予定だ。市の協力を得て小中学校での映画教室の開催も検討中で、青少年の健全育成につながる作品の上映を想定している。
 昭和期に市内で撮影された映像のデジタル化では、継承する会が保管している旧本宮町中心部などを撮影した「こころの山脈」メーキングフィルムや、市保管の記録映画などを半永久的に保存し、上映会を通して往時の古里のにぎわいを若者や子どもたちに知ってもらう。
 映画黄金期の昭和30年代、旧本宮町には本宮映画劇場と本宮中央館の2つの映画館があり、住民は銀幕のスターに熱狂した。時を同じくし、本宮小PTAの母親らが「子どもたちに国内外の良質な映画に触れてもらおう」と小学校で映画教室を開く取り組みを始めた。
 母親らの活動は映画製作にまで発展し、昭和40(1965)年には町を舞台とした「こころの山脈」を完成させた。
 しかし、小学校のカリキュラムの多様化や映画の衰退などで映画教室の活動は徐々に縮小し、昭和50年代に幕を閉じた。
 継承する会の会員のほとんどは小学生時代に映画教室を体験した世代だ。継承する会代表の本田裕之さん(59)は、映画製作に携わった母文子さん(92)らとともに、映画祭の準備に当たっている。新たな映画製作やロケの誘致なども思い描く。裕之さんは「若い人に、かつての本宮の活気を少しでも感じてほしい。気軽に映画や劇が観賞できる文化の発信地にしたい」と張り切っている。

■来月19、20日にカナリヤ映画祭
 9月19日午後3時にJR本宮駅前に集合し、約100年前に建てられ、今も当時の姿を残している本宮映画劇場を見学する。同5時からサンライズもとみやで「こころの山脈」を観賞する。
 20日は午前9時20分開演で、サンライズもとみやで「こころの山脈」、「物置のピアノ」のほか、旧本宮町が昭和53年に自主製作した「わが町78」などを上映する。入場無料。問い合わせは事務局 電話0243(34)2175へ。

※こころの山脈(やまなみ) 小学校に赴任した補助教員と子どもたちとの心の交流を描いた映画で、「本宮方式映画製作の会」が製作した。昭和40(1965)年に完成し、翌41年に公開された。本宮小や阿武隈川堤防など旧本宮町を舞台に、大勢の町民がエキストラや児童役で出演した。同年のブルーリボン特別賞を受賞した。資金集めやエキストラで地域が撮影に協力する「フィルムコミッション」の先駆けといわれ、「本宮方式」として全国に知れ渡った。
( 2015/08/18)

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本宮の映画文化を継承する会がNPO法人 実行委で報告 「こころの山脈」制作50周年記念活動も展開

 本宮の映画文化を継承する会(本田裕之代表)は8月3日、2015年第3回カナリヤ映画祭実行委委員会を本宮市中央公民館で開き、特定非営利活動(NPO)法人登録申請したことを報告した。
 今月11日にも登録を終える見通しで、NPO法人化により映画文化を継承する活動をより進め、広めていきたいとしている。
 今年は、本宮町(現本宮市)で1965(昭和40)年に自主制作された映画「こころの山脈」が制作50周年を迎えることから、記念活動も検討している。先ごろ、「こころの山脈」のDVDを老人ホームなどへ貸出したところ好評だったため、こうした活動を進めるいくことも申し合わせた。9月19〜20日に開く「カナリヤ映画祭」への来場も促す。
 「こころの山脈」は、優れた映画を育てようと始まったお母さんたちの運動「本宮方式映画教室」の象徴となった作品。町に赴任してきた教師と子どもたち心温まる交流を描いた映画で、山岡久乃さん、宇野重吉さん、吉行和子さんらの俳優陣とともに本宮小の児童も多数出演した。
 この映画のポスターは本宮市立歴史民俗資料館に保管されているが、このほど本宮小でもポスターが見つかっていることが報告された。現在、校長室に展示しているという。
 また、先月は有志による映画を語り合う夕べも開いた。貴重な記録映像「花の本宮」などを鑑賞し、DVDなどによる保存運動を進めることも話し合った。


映画「こころの山脈」。単に智恵子の故郷・二本松に隣接する福島県本宮市で撮影されたというだけでなく、劇中で「智恵子抄」が扱われます。

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その「こころの山脈」を中心に、福島と縁のある作品を上映する催しが「カナリヤ映画祭」。今年で3回目だそうです。
期 日 : 2015年9月19日(土)・20日(日)
会 場 : サンライズもとみや 福島県本宮市矢来39-1
日 程 :
 9月19日(土) 本宮映画文化をめぐる散歩と映画『こころの山脈』鑑賞
  15:00 本宮駅前出発 (本宮映画文化をめぐる散歩)
  15:10 本宮映画劇場 (大正時代建設、昭和の薫りが漂う本宮の映画名所)見学、上映有り
  16:10 サンライズもとみや見学 (本宮映画文化の歴史と『こころの山脈』資料など)
  17:00 映画『こころの山脈』鑑賞 (本宮映画文化をめぐる散歩参加者以外の方もご覧になれます)
 9月20日(日) 『こころの山脈』50周年を祝う
  9:00  開場
  9:20  開演
  9:40  『陸軍』 昭和19年作品 木下恵介監督 上映時間87分
  11:22 『わが町'78』 昭和53年作品 本宮記録映画 上映時間40分
  《昼休憩30分》
  12:35 『一般公募作品』 シネリテラシー、子供たち製作の映画
  13:35 『物置のピアノ』 平成26年作品 邦画 上映時間115分
  15:50 『こころの山脈メーキングフィルム』 昭和40年作品 上映時間10分
  16:00 『こころの山脈』関係者舞台挨拶
  16:30 『こころの山脈』 昭和40年作品 吉村公三郎監督 上映時間104分
主催 : カナリヤ映画祭実行委員会 NPO法人本宮の映画文化を継承する会
  
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当方、初日の19日にお邪魔するつもりでおります。「智恵子抄」に関連する作品、ということで、ポスターやチラシ、当時の『キネマ旬報』、シナリオの載った書籍『日本シナリオ大系第5巻』(昭和49年=1974 映人社)などは持っているのですが、肝心の作品自体を観たことがありません。楽しみです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 9月4日

昭和25年(1950)の今日、花巻郊外太田村で、ハーモニカ奏者の新井克輔から葉書を受け取りました。

この時期の日記は失われているのですが、郵便物の授受等を記録したノートは残っており、そちらに以下の記述があります。

新井克輔氏よりハカキ(仙台にハーモニカ教室を設けし事)

翌日には早速、返信の葉書を出しました。

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新井氏はかつての連翹忌ご常連で、ハーモニカ演奏で会に花を添えて下さっていました。

毒山凡太朗+キュンチョメ展覧会「今日も きこえる」 。

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福島から現代アートの展覧会情報です。 
会   期 : 2015年9月18日(金)~9月22日(火)
会   場 : ワタナベ時計店 3F 「ナオ ナカムラ」 福島県いわき市平字二丁目33-1
開場時間 : 10:00~19:00(会期中無休)
入 場 料 : 無料

 この度、9月18日から22日までの5日間、福島県いわき市のワタナベ時計店3Fにあります「ナオナカムラ」では、毒山凡太朗、 キュンチョメによる展覧会「今日も きこえる」を開催いたします。
これまで東京都をメインに活動してきた常磐出身の両作家が”この地の空と狂気とウソ”をテーマに、毒山の故郷である福島 県で初めて開催する展覧会です。
また、2012年よりスタートしたナオナカムラにとっても福島県で今展を開催することは初めての試みとなります。
毒山凡太朗、キュンチョメによる展覧会「今日も きこえる」をこの機会にどうぞご覧ください。
福島県出身の毒山凡太朗と茨城県出身のキュンチョメ、常磐出身の両作家 がリサーチを重ねて作り上げた本展は”この地の空と狂気とウソ”がテーマとな っています。
 あの日から約5年の月日が流れました。未だ多くの街がバリケードで塞がれ、 海はコンクリートで埋めたてられ、この地、いわきでは水平線すらまともに見るこ とができなくなりました。そんな中作家たちは、何にも束縛されることのない福 島の空と、この空を愛した女性、高村智恵子に注目していきます。智恵子は福 島県に生まれ育った画家ですが、晩年は精神が薄弱して狂人とみなされてい きます。それでもなお彼女が最も愛したものは、故郷の福島の空でした。夫で ある高村光太郎が綴った詩に“智恵子はα次元”と記されているように、彼女は 全く別次元の存在へと自分自身を落とし込み、周りが騒ぎ立てる音を一切遮 断して福島の空のみを愛し続けます。
 今日、わたしたちはどんなに遮断しても様々な雑音を受動的に耳にしてしまい ます。けれども、きこえてしまうがゆえに出来てしまうものがあります。それは智 恵子が語った本当の空のような絵空事にみえるかもしれません。「だけど、未 来を語るにはウソにこそ意味がある。ウソだけが二度目の明日を作ることがで きる」と作家たちは言います。
 有象無象の言葉があふれる福島の空の下、作家たちの思いに耳を澄ませて いただければ幸いです。
毒山凡太朗、キュンチョメよる展覧会「今日も きこえる」をこの機会にどうぞご 覧ください。
ディレクター 中村奈央

 常に磐石なる地と書いて常磐。福島から茨城に渡るこの常磐という呼称は永久不滅という意味が込められている。今となっては悪い冗談みたいな名称だけれど、5年前までは自分たちはとても安全な場所に住んでいると皆が本気で信じていたのだ。今や常磐道を北上し故郷に帰り着くたびに吐き気を覚える。土建ゴロが闊歩し、海はコンクリートで埋めたてられ、避難してきた県民とは生活ゴミの捨て方で揉めて、人々は酒のつまみに悪いうわさ話で盛り上がる。我が家の父は錯乱し家の窓も雨戸も一切開けず、外出するときは未だにマスクを手放さない。元気なのは犬と性風俗産業と放射能だけだ。なにが故郷だ。二度と戻らねえよ。かくして俺は故郷を捨てた。東京の街では福島出身だと言うだけで「大丈夫?」と声をかけられるけど、大丈夫なわけねーじゃねぇか、だから東京にいるんだよと、声を荒げたくなることもある。どこもかしこも、うっせーよ。そんなどうしようもない故郷に帰る事にしたのは、一人の気の狂れた女に導かれたからだった。故郷の有名人、高村智恵子。福島の空だけが本当の空だと言い続けて精神が薄弱して死んでいったあわれな女。そんな智恵子の言葉が福島県安達太良山のてっぺんにかかげられている。「この上の空が本当の空です」
確かに、この空だけは5年前とも変わらないし、千年後だって変わらないだろう。地上のクソみたいな出来事とは関係なく、ここにはほんとうに本当の空があるのかもしれない。
一番信じられない場所で、二度目の明日を見つけよう。このどうしようもない故郷へ、愛を込めて。
毒山凡太朗+キュンチョメ


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毒山凡太朗さん、キュンチョメさん(こちらはユニットだそうですが)、ともに現代アートの作家さんです。東日本大震災、そして智恵子からのインスパイアなのでしょう。上記プレスリリース等を読んでもちょっとイメージが湧きにくいのですが。

来週末、昨日ご紹介したカナリア映画祭に行ってまいります。いわき市は当方自宅兼事務所からの経由地になりますので、こちらにも足を運んでみるつもりです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 9月5日

昭和32年(1957)の今日、筑摩書房から『智恵子紙絵』が刊行されました。

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心を病んだ智恵子が、南品川ゼームス坂病院で制作した紙絵を集めた画集で、この手のものの嚆矢です。

その後、昭和40年(1965)には社会思想社から『智恵子の紙絵』、同54年(1979)には再び筑摩書房で『智恵子紙絵』、同63年には西武アート・フォーラムさんの『智恵子紙絵展』図録、平成に入ると8年(1996)、芳賀書店より『智恵子紙絵の美術館』、翌年には二玄社『智恵子その愛と美』などの画集が刊行されました。見比べてみると、日本の印刷技術発展史が表れているように感じます。


平塚市美術館「画家の詩、詩人の絵-絵は詩のごとく、詩は絵のごとく」。

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神奈川県平塚市から企画展情報です。 
会  期 : 2015 年9月19 日(土) ~11月8 日(日)
時  間 : 9:30 ~ 17:00(入場は16:30 まで)
休 館 日 :  月曜日( ただし9/21、10/12は開館)、10/13
料  金 : 一般800(640) 円、高大生500(400) 円、小中学生無料
主  催 : 平塚市美術館、読売新聞社、美術館連絡協議会

 古来、西洋では「絵は黙せる詩、詩は語る絵」といわれてきました。日本でも画賛(がさん)、詞書(ことばがき)が絵画の重要な役割を果たし、「詩書画」の一致を成してきました。一方、日本の近代洋画は、文学からの自立を目指した西洋近代美術の影響のもとで始まっています。特に印象派以後、新しい造形表現を積極的に取り入れた結果、実に多様な作品がうまれました。しかし、現実の生きた情感から浮き上がった作品が多く生まれたことも事実です。こうした中で、村山槐多、長谷川利行、古賀春江、三岸好太郎、山口薫などは、西洋近代美術に学びながらも、文学性、詩情を拠りどころとして優れた作品を残しています。さらにまた、詩の世界では宮沢賢治、立原道造、草野心平らが独自性のある絵を描いています。ある意味では、モダニズムが斥けてきた詩情、文学性を活かすことで、日本独自の絵画が成立したといえます。
  近年では、一部の画家たちが積極的に詩の世界に接近し、新しい表現を生み出そうとしています。本展は、明治から現代までの画家と詩人の絵画と詩を一堂にあつめ、絵画と詩の密接なつながりを検証するものです。
 
画家
 小杉未醒、青木繁、竹久夢二、萬鐡五郎、藤森静雄、恩地孝四郎、田中恭吉、中川一政、長谷川利行、古賀春江、川上澄生、村山槐多、谷中安規、三岸好太郎、棟方志功、長谷川リン二郎、難波田龍起、山口薫、香月泰男、南桂子、松本竣介、浅野弥衛、飯田善國、草間彌生、田島征三、芥川麟太郎、藤山ハン、難波田史男、イケムラレイコ、瓜南直子、O JUN、小林孝亘、鴻池朋子、村瀬恭子、伊庭靖子
 
詩人
 正岡子規、高村光太郎、北原白秋、木下杢太郎、萩原朔太郎、佐藤春夫、西脇順三郎、宮沢賢治、佐藤一英、尾形亀之助、稲垣足穂、岡崎清一郎、富永太郎、小熊秀雄、北園克衛、瀧口修造、草野心平、中原中也、長谷川四郎、まど・みちお、立原道造、三好豊一郎、新国誠一、木島始、春日井建、吉増剛造、田畑あきら子、山本陽子

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関連行事

■ O JUN × 小林孝亘 対談「読む形・見える言葉」
日時 2015年10月4日(日) 14:00-15:30  場所 ミュージアムホール  ※申込不要、先着150名

■ 講演会 窪島誠一郎「絵を語る、詩を語る」
日時 2015年10月12日(月、祝) 14:00‐15:30  場所 ミュージアムホール  ※申込不要、先着150名

■ 学芸員によるギャラリートーク
日時 2015年10月17日(土)、10月31日(土) 各回14:00-14:40  場所 展示室Ⅱ  ※申込不要、要観覧券


というわけで、光太郎の絵画も展示されます。

光太郎の画業は、詩人でありながら絵画も手がけていた、というニュアンスではありません。特に明治42年(1909)、欧米留学から帰ってからしばらくは、むしろ画家として活動していたといっていい時期です。

欧米でロダンをはじめとする西洋近代彫刻の何たるかを学んだ光太郎は、帰国後、父・光雲を頂点とする旧態依然の日本彫刻界に絶望し、極力関係を絶とうとしました。文展などの展覧会等に出品すれば、「洋行帰り」「光雲の息子」という肩書きが優先され、彫刻としての価値を理解されないまま入賞することは目に見えていました。同じく洋行帰りの荻原守衛の作品もそうでした。光太郎曰く、

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この珍奇のちん入者を文展の方では持てあましたらしかつたが、ともかくも技術があるので無下に排斥もならず、時には三等賞ぐらゐつけて、度量のあるところを見せたものである。彫刻の質に於いて、彼等と彼とは全くちがつてゐるのだといふことにはまるで気がつかない時代であつた。
(「荻原守衛」 昭和29年=1954)

という状況でした。

ちなみにパリで守衛が作り、光太郎がぜひ石膏に取って持ち帰るようにと勧めた「坑夫」は、ロダン風の荒々しいタッチが「未完成」と判断され、明治42年(1909)の第2回文展では落選の憂き目に遭っています。審査には光雲も当たっていました。

そこで光太郎は、この時期、彫刻より絵画制作に力を注ぐようになります。大正元年(1912)には、岸田劉生、斎藤与里らとヒユウザン会(のちフユウザン会)を結成、その分裂後も岸田が立ち上げた「生活社」に合流し、智恵子と過ごした上高地での油絵などを出品しています。

また、光太郎はその前後もかなり多くの絵画を描いています。東京美術学校在学中は日本画の臨書の授業があり、ここで絵画の基礎をしっかり学んでいます。フユウザン会や生活社の後も、自身の油絵の頒布会を行ったり、旅先でスケッチをしたり、書籍の挿画などでも筆を振るったりしました。戦後の花巻郊外太田村での暮らしの中でも、時折絵筆を握っています。

さて、今回の企画展に出る光太郎絵画はいずれも油絵で、3点。

大正3年(1914)に描かれた「日光晩秋」。平成12年(2000)、永らく行方不明だったこの絵が発見され、大きく報道されました。

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それから同年に描かれた洋酒の瓶と果実を描いた「静物」、そして新潟・佐渡島の歌人・渡邊湖畔の息女を描いた「渡辺湖畔の娘道子像」(大正7年=1918)です。


この「画家の詩、詩人の絵-絵は詩のごとく、詩は絵のごとく」展、平塚市美術館さんを皮切りに、以下の日程で全国巡回が予定されています。

2015年11月17日(火)~12月20日(日)  愛知県碧南市藤井達吉現代美術館
2016年2月13日(土)~3月27日(日)    姫路市立美術館
2016年4月9日(土)~6月12日(日)    栃木足利市立美術館
2016年6月18日(土)~8月7日(日)    北海道立函館美術館

ただ、平塚市美術館さんがそうですが、展示替えがあるそうで、常に上記3点の光太郎絵画が見られるかどうかは不明です。それぞれ近くなりましたらまたご紹介します。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 9月6日

昭和20年(1945)の今日、花巻町で9月分の配給を受け取りました。

当日の日記の一節です。

午前米配給所にゆきて九月分(一ヶ月)をもらふ。米5キロ大豆3キロ也。かついでかへる。

数え63歳の高齢者にとって、この量がどうなのか、何とも言えません。


二本松市合併10周年記念 第7回にほんまつファミリーサイクリング大会。

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智恵子の故郷、福島二本松からイベント情報です。 参加申し込みの締め切りが過ぎてしまっていますが、こういうイベントがあるよ、というお知らせとして読んで下さい。また、定員に達していなければ、まだ申し込み可能かもしれません。

二本松市合併10周年記念 第7回にほんまつファミリーサイクリング大会

主 催 : にほんまつサイクリング協会
共 催 : 二本松商工会議所
後 援 :
 市教育委員会 二本松観光協会 市体育協会 福島民報社 福島民友新聞社 福島県サイクリング協会

1.趣 旨
 「ほんとうの空、あの光るのが阿武隈川」と智恵子抄に詠われた雄大な安達太良山を背に、阿武隈川堤防を周遊。初秋の田園地帯のサイクリングを通して、スポーツを楽しみ、仲間を広げ健康な身体を維持向上することを目的とする。

2.期  日 平成27年9月20日(日) 雨天中止 (主催者の判断で決行もあり)
3.集合場所 安達ヶ原ふるさと村駐車場(出発・到着)
4.コ ー ス ふるさと村をスタートし、阿武隈川・杉田川の堤防並びに一般道を走行。
4時間以内に完走。
  アスリートコース (一般) 約43km(途中休憩5ヶ所)
     (アスリートコースは定員に達しました。沢山のお申込みありがとうございました。)
  ファミリーコース (小学生と保護者) 約20km(途中休憩3ヶ所)
5.参加資格 小学生以上で健康、自転車の経験があり完走できる能力のある人(小学生は保護者同伴)
6.定  員 100名 ファミリーコースは警備等の都合上、先着10組まで
7.参 加 費 1人 2,000円 (消費税及びスポーツ傷害保険等を含んでいます) 昼食有
  ※今大会は、合併10周年を記念して小学生の参加費を無料とします。
8.日  程
  受  付 午前7:30~8:00
  開 会 式 午前8:15
  スタート 午前8:30
  ゴ ー ル 午後12:30
  閉 会 式 午後12:45
9.申込方法 所定の申込用紙に必要事項を記入し、二本松商工会議所窓口に参加料を添えて申込ください。       (なお、当日不参加並びに雨天中止の場合、参加費は返却いたしません)
  アスリートコースは定員に達しました。沢山のお申込みありがとうございました。
10.申 込 先  「二本松商工会議所」窓口
  〒964-8577 二本松市本町一丁目60番地1 TEL 0243-23-3211  FAX 0243-23-6677
11.申込用紙 参加申込書(PDF)、誓約書(PDF) 二本松商工会議所でも配布します。
12.申込締切 平成27年8月31日(月)
13.参加賞他 参加賞ほか抽選で協賛品を贈ります。
14.貸自転車 ありません。
15.注意事項
  (1) 各自、前日までに自転車の点検整備をしてください。
  (2) ヘルメット、手袋を必ず着用し走行してください。
  (3) 特殊自転車の参加は認めません。ただし、電動自転車は可。
  (4) 大会開催中は、大会役員の指示に従ってください。
  (5) ゼッケンを付けてない方の参加は認めません。(ゼッケンは当日配布します)
  (6) スタート時間後4時間以内にゴールしてください。(先導車を絶対追い抜かないでください)
  (7) 当日の参加の受付はしません。
  (8) 万一事故があった場合、応急手当は致しますが、その後の責任は負いませんのでご了承願います。
  (9) 車・バイク等の伴走は禁止します。
  (10) 一般車両が通行しますので、道路の左側一列走行をお願いします。
  (11) コース及び運営細目にかかる若干の変更にご協力ください。


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秋晴れの空の下、サイクリングというのもいいもイメージ 2のだと思います。単に「サイクリング大会」ではなく、「趣旨」にあるとおり「「ほんとうの空、あの光るのが阿武隈川」と智恵子抄に詠われた雄大な安達太良山を背に」としているところもいいですね。心の風景である安達太良山への誇りが感じられます。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 9月7日

平成7年(1995)の今日、歴史春秋社から伊藤昭著『愛に生きて―智恵子と光太郎―』が刊行されました。

著者の故・伊藤氏は旧油井村の智恵子生家近くに育ち、今も活動の続く「智恵子の里レモン会」会長をなさっていました。昭和23年(1948)には、花巻郊外太田村の山小屋の光太郎に会いに行かれました。

この書籍は平成3年(1991)から翌年にかけ、『毎日新聞』福島版に連載されたものを、近代文藝社から自費出版、さらに地元福島の出版社・歴史春秋社から再刊したものです。

入門編の智恵子評伝として、好著です。



SPAC秋のシーズン開幕直前☆『舞台は夢』の前夜祭。

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静岡から朗読系のイベントです。 
日   時 : 2015年9月21日(月祝) start 19:00 (open 18:30)
会   場 : スノドカフェ七間町 (静岡市葵区七間町7-8)
参 加 費 : 1,000円(ワンドリンク付き)
申し込み  : 
 SPACチケットセンター(TEL.054-202-3399 受付時間:10:00~18:00)
 スノドカフェ七間町 (TEL.054-260-6173 受付時間:11:00 - 21:00/水曜定休)
 
◆ 『智恵子抄』リーディング
前夜祭に来ていただいたお客様に感謝を込めた、エキストラおもてなし企画! 「この『舞台は夢』が5年ぶりのセリフ劇なんです(笑)」と話す寺内が牧山とともにお贈りする、高村光太郎『智恵子抄』の朗読パフォーマンス!・・・これは必聴です。

プロフィール
◆牧山祐大
『わが町』、『マハーバーラタ』、『ハムレット』など多くのSPAC作品で幅広い役をこなす、遊撃手タイプのSPAC俳優。
☆ひとこと☆
「朝のコーヒーは譲れない!豆から挽いて、ドリップします。おすすめのコーヒー豆があったら教えてください!」
◆寺内亜矢子
フランスから参加のパリジェンヌ。SPACでは『マハーバーラタ』『天守物語』の演奏チーフ、『盲点たち』の無言ムーブメントなど、喋らないことを得意とする特殊女優。
☆ひとこと☆
「葉野菜主食の草食動物ですが、静岡の美味しいおそばも大好物!美味しい地酒があれば言うことなし。ただいまお店を開拓中!」


SPAC」というのは、静岡県舞台芸術センター(Shizuoka Performイメージ 1ing Arts Center)の略だそうです。舞台芸術を創造・上演するための専門家集団を擁し、静岡芸術劇場などを拠点にした演劇等の公演の他、海外を含め、各地に出張公演も行っているとのこと。

そのSPACさんの次回公演が、フランスの俳優・演出家、フレデリック・フィスバック演出による「舞台は夢」。その前夜祭、というのが上記イベントです。

「舞台は夢」に関わるトーク、レクチャーの他に、出演俳優さんによる「智恵子抄」の朗読があるというわけです。「舞台は夢」と「智恵子抄」には直接の関係はなさそうなのですが……。

こういう機会を通し、若い皆さんが光太郎智恵子の世界に興味を持つきっかけとなってくれればいいと思います。



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【今日は何の日・光太郎 拾遺】 9月8日

昭和17年(1942)の今日、冨山房から佐藤隆房著『宮澤賢治』が刊行されました。

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背の文字は光太郎の揮毫です。

佐藤隆房は宮澤賢治の主治医。賢治の詩「S博士に」(昭和7年=1932)のモデルだそうです。

賢治つながりで、昭和20年(1945)に空襲で東京のアトリエを失った光太郎を花巻に招くのに一役買いました。
 
花巻到着後にすぐ高熱を発して倒れた光太郎を看護したり、終戦直後の短期間、光太郎を自宅に住まわせたりもしています。その後も足かけ8年岩手で暮らした光太郎と深い交流を続けました。光太郎歿後も花巻に財団法人高村記念会を立ち上げ、初代理事長を務めています。

同書はロングセラーとしていまだ版を重ねています。ただ、光太郎の揮毫が依然として使われているかどうかは存じません。

コール・オービーレン第8回演奏会/コール・マルシュナー第4回福島演奏会。

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合唱の演奏会情報を2件。それぞれ光太郎作詞の合唱曲がプログラムに入っています。 
期  日 : 2015年9月22日(火・祝)
時  間 : 開場13:30 開演14:00
料  金 : 無料 (全席自由)
場  所 : 川口総合文化センターリリア 音楽ホール  埼玉県川口市川口3-1-1
問い合せ : 
chor_obierren@yahoo.co.jp
曲  目 :
 混声合唱組曲「 猛獣篇」 (高村光太郎 作詞/佐藤 敏直 作曲)
 宗教曲 「ハレルヤコーラス」 他
 映画音楽 「慕情」「シャレード」 他
<指揮> 山口 大五郎 <ピアノ> 中谷 路子


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コール・オービーレンさんというのは、東京大学混声合唱団コール・ユリゼンのOB・OGの集まりから出来た混声合唱団だそうです。

プログラムの最初が、佐藤敏直氏作曲の「猛獣篇」。光太郎の同名の連作詩中の詩4篇に曲をつけたものです。元々は昭和63年(1988)、専修大学グリークラブさんの依嘱で男性合唱曲として作曲され、平成2年(1990)にはカワイ出版さんから楽譜も刊行されました。「森のゴリラ」「傷をなめる獅子」「ぼろぼろな駝鳥」「マント狒狒」の4曲でした。

そして、同じく平成2年(1990)から5年(1993)にかけ、南生田コーラスさんの依嘱で混声版が新たに作られています。ただし、総題は同じ「猛獣篇」ですが、曲目は「龍」「象」「傷をなめる獅子」「苛察」。「傷をなめる獅子」は男声版から混声へのアレンジですが、他は新作です。平成22年(2010)にやはりカワイ出版さんから楽譜が出ています。

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CDなどの音源としては、まとまった形ではリリースされていないようです。当方、会津高等学校男声合唱団さんの演奏会のライブ録音CDで、男声版の入ったCDを持っていますが、自主制作盤のようです。また、これも自主制作盤的なものだと思いますが、全日本合唱コンクールの東北支部大会ライブ録音のCD。やはり男声版の「傷をなめる獅子」が、同じく会津高校さんの演奏で入っています。

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もう1件。
期   日 : 2015年9月27日(日)
時   間 : 開場13:30 開演14:00
場   所 : 福島市音楽堂 大ホール  福島県福島市入江町1-1
料   金 : 1,000円 (全席自由)
主   催 : 福島高校在京OB合唱団“コール・マルシュナー”
問い合せ : 042-345-6010 (弥勒 誠之)
曲   目 :
 1.男声合唱組曲「中 勘助の詩から」
 2.ロバート・ショウ合唱曲集 ファニータ、おじいさんの時計 他
 3.清水脩 作品集  海、智恵子抄巻末のうた六首 他
 4.愛唱曲集   早春賦、小さな喫茶店、箱根八里 他
 【特別出演】福島高等学校合唱団
  1.夜もすがら(「万丈記」より) 2.Os Justi



コール・マルシュナーさんというのは、福島県立福島高校在京OBによる男声合唱団だそうです。福島県は「合唱王国」と言われ、県全体のレベルの高さには定評があります。こういう合唱団が存在し、地元福島での演奏会が継続して行われている、というところにもそれが表れているように思います。

曲目の中で、故・清水脩氏作曲の「智恵子抄巻末のうた六首」が光太郎作詞、というより清水氏がそれに曲をつけたものです。昭和39年(1964)、東海メールクワイヤーさんの依嘱作品。当初は男声合唱曲として作られ、のち、昭和57年(1982)には混声合唱にアレンジされた楽譜も刊行されています。

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また、本家の東海メールクワイヤーさんをはじめ、東京リーダーフェルさん、さらに合唱団京都エコーさんと松原混声合唱団さんの合同演奏によるCDがリリースされています。

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当方も混声、男声合唱を個人的にやっており、「智恵子抄巻末のうた六首」の男声版は、一度、生演奏で聴きました。当方の属する合唱団も参加した平成24年(2012)の千葉県合唱祭で、船橋HGメンネルコールさんの演奏でした。


こうした光太郎詩にきちんとした曲がつけられ、きちんとした演奏が為される機会がどんどん増えてほしいものです。それによって、光太郎智恵子の世界が広まることを期待します。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 9月9日

昭和7年(1932)の今日、光太郎の父・光雲が海軍の東郷平八郎元帥と小笠原長生中将に、自作の千手観音像を贈りました。

光雲と小笠原は、光雲に依頼してたくさんの仏像を作ってもらった寺院・駒込の曹洞宗金龍山大圓寺を通じて知り合い、さらに小笠原を介して東郷と光雲の会見が実現しました。その会見が昭和7年(1932)の今日。光雲は東郷と小笠原それぞれに武運長久を祈念して自作の像を贈ったというわけです。

のちに東郷からは「妙神入」の書が返礼として光雲に送られました。光雲の刀技を神業の域と讃えたものと思われます。

以前もご紹介しましたが、下記が昭和7年(1932)の今日、撮影された写真です。

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左から大圓寺の服部太元、光雲、東郷平八郎、小笠原長生です。

新聞コラムより。

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報道ではありませんが、新聞には欠かせないコラム。最近、光太郎が取り上げられたコラムをご紹介します。 

まずは『神戸新聞』さん。 

正平調 2015/08/30

大事にする言葉を毛筆でしたためる。揮毫(きごう)は、筆遣いはもちろん、どんな言葉を選ぶかに人となりがうかがえ興味が尽きない◆とりわけ勝負に生きるプロ棋士の揮毫は味わい深い。将棋の内藤國雄さんは「伸び伸び しみじみ」だ。自在を旨とする内藤さんらしい。「遊藝」は囲碁の羽根直樹さん。勝敗にとらわれぬよう心をもみほぐす意味と察する◆将棋界の第一人者羽生善治さんは「玲瓏(れいろう)」を好む。いつだったか色紙に書いてもらったら、物静かな印象とまったく違う。激しい筆運びで、戦う人の素顔に触れた思いがした◆先日、本紙主催の王位戦で5連覇を遂げた。記事に「玲瓏」にまつわる話がある。透き通る美しさ。それを表す2文字に「まっさらな気持ちで」との思いを託しているのだという◆これでタイトルの通算獲得数が93期になった。歴代1位の自身の記録を自身で塗り替えていく。高村光太郎の詩「道程」は「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」で始まる。この「僕」を「羽生」と書き換えたくもなる。力は衰えない◆タイトルを総なめにした若い頃は「泰然自若」と書いた。平常心で、との戒めだ。まだ44歳。勝ち星を重ねるこの先、どんな言葉を胸に81マスと向き合うのだろう。揮毫の移り変わりだけで、棋士の人生が読み解けそうにも思う。


以前にもご紹介しましたが、『神戸新聞』さんの「正平調」では、たびたび光太郎を取り上げて下さっています。ありがたいかぎりです。


続いて『毎日新聞』さん。古今の俳句を一句ずつ紹介するコラム「季語刻々」が、社会面に掲載されていますが、先週から今週にかけ、4日連続で光太郎に触れて下さいました。著者は俳人の坪内稔典氏。ただ、紹介した俳句は光太郎以外の作品です。 

季語刻々

焼茄子(やきなす)の皮のくろこげほどでなし 岡本高明(こうめい)  
何が「焼茄子の皮のくろこげほどでな」いのだろう。愛情か人生? 句集「ちちはは」から引いた。高村光太郎は敗戦後の数年を岩手・花巻の西郊で過ごした。小屋で独居生活をしたのだが、1946年9月4日の日記には、「茄子皆大きな実をつける」とある。夕食でさっそく焼き茄子にし、酢みそで食べた。その感想はただ一語、「美味」。(2015/09/04)

採る茄子(なす)の手籠にきゆァとなきにけり 飯田蛇笏
「きゆァ」と鳴くって、いいなあ。こんな茄子だと生でかじれそう。昨日、高村光太郎の日記を引いたが、1946年9月5日の朝食は冷や飯とみそ汁。みそ汁の具は「ジャガ、わかめ、茄子」など。彼は茄子を自家栽培していた。翌6日の記事には「畑の茄子五六個とる。相当になり居れり」とある。茄子を楽しむ日が続いている。(2015/09/05)

やわらかく包丁はじくトマトかな 乳原孝
とりたて? ぷりぷりのトマトが、「切らないでかぶりついてよ」と言っている感じ。作者は私の俳句仲間だ。1946年9月6日、岩手・花巻の郊外にいた高村光太郎は、野菜の栽培を楽しんでいた。この日は起きるとすぐにトマトの支柱を補強した。「トマト赤きもの二個とる。此頃(このごろ)はトマト殆と毎日とる」と日記に書いている。(2015/09/06)

二階より駆け来(こ)よ赤きトマトあり 角川源義
「晴、ひる間暑気つよく、朝夕涼し。明方は冷える。五時にてはまだうすぐらし。日の出六時半頃」。これは1946年9月7日の高村光太郎の日記。彼は岩手・花巻の郊外にいたが、この時期、夏と秋が入り交じっていることが日記からよく分かる。源義はKADOKAWAの創業者、俳人でもあった。この句、トマトが実にうまそう。(2015/09/07)

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すべて筑摩書房『高村光太郎全集』第12巻に収められている昭和21年(1946)の日記にからめています。花巻郊外太田村での山居生活は、昭和20年(1945)から7年間続き、穀類は配給に頼らざるを得なかったものの、野菜や芋類はほぼ自給できていました。

この頃の光太郎自身の俳句を一句。

新米のかをり鉋のよく研げて

昭和20年(1945)、太田村の山に入って間もなくの作です。鉋(かんな)は大工道具の鉋。山小屋生活を始めるに当たって、小屋の流しや棚、机などの調度品類を、光太郎は自作しており、それにかかわるのでしょう。新米は村人が持ってきてくれたとのこと。

下の写真、大工仕事をする光太郎(昭和20年=1945)と、トマトを作る光太郎(昭和25年頃=1950頃)です。

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農と俳句、ともに四季の移ろいとの対話、格闘から生まれるものです。そして、古来から自然の営為と不即不離の関係を続けてきた日本人の魂の原点に関わると思います。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 9月10日

大正2年(1913)の今日、『国民新聞』に「女絵師(五) 新しい女智恵子」掲載されました。

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いわゆるゴシップ記事で、智恵子を誹謗中傷するものでした。

その書き出しはこうです。

女の誇(プライド)に生き度いとか何んとか云つて威張つてる女、 節操の開放とか何とか云つて論じ立てる女、 之れが当世社会の耳目を集めて居る彼(か)の新らしい女である 長沼智恵子は矢張りさうした偉い考へをもつた青鞜社同人の一人である 女子大学を出てから太平洋画会の研究所に入つたのが四十二年で昨年辺迄同所に通つて居た、見た所沈着(おちつ)いた静かな物言ひをする女であるがイザとなれば大に論じて男だからとて容捨はしない、研究所の男子の群に交つて画を描いて居ても人見しりするやうな事は断じてなく話しかけられても気に喰はぬ男なら返辞は愚か見返りもしない 

ある意味、真実かも知れませんが……。

さらに結びの部分では、

近頃に至つては高村光太郎氏と大いに意気投合して二人は結婚するのではないかと迄流言(いは)れたが 智恵子は却々(なかなか)もつて結婚なぞする模様はない 矢つ張友人関係の気分を心ゆく許り味ははうとして居る 而(そ)して青鞜社講演会なぞにも鴛鴦の如(や)うに連れ立つて行けば旅行にも一緒に出蒐(でかけ)て居る 玆(ここ)暫くは公私内外一致の行動を取るのださうな

となっています。旅行云々は、ちょうどこの頃二人で訪れていた上高地への婚前旅行を指します。この5日前には、『東京日日新聞』に、「美くしい山上の恋」というゴシップ記事も載りました。

『多田不二来簡集』。

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台風から変わった低気圧の影響による豪雨のため、主に関東から東北にかけ、甚大な被害が出ています。鬼怒川堤防の決壊による濁流からは、あの東日本大震災による津波を想起された方も多いのではないでしょうか。被害が少しでも少なく済むことを願います。

当方の自宅兼事務所のある千葉県香取市は、大きな被害のあった地域とそう遠くないので、ありがたいことに心配して電話等下さった方もいらっしゃいましたが、特に被害はありませんでした。

さて、堤防が決壊した鬼怒川沿いで、決壊現場の常総市より上流に位置し、やはり避難指示等が出された茨城県結城市からの光太郎がらみのニュースです。ソースは地元紙『茨城新聞』さんです。 

結城市出身の詩人・多田不二 著名人と交流の書簡集

 結城市出身で詩人・文芸評論家の多田不二(1893-1968年)に宛イメージ 2て、詩人の室生犀星や萩原朔太郎など各界の著名人たちが送った書簡を収録した「多田不二来簡集」(紅書房社)が刊行された。収録書簡の多くが未発表。大正から昭和にかけての著名人たちの感情や熱意、不二との交流が記されており、関係者は「不二の研究が進む貴重な資料。著名人たちの新たな事実発見につながる可能性もある」と話している。
 不二は、朔太郎や犀星らとともに詩集「感情」の同人として詩や訳詩を発表。新神秘主義を提唱した詩誌「帆船」を主宰し、独自の詩の世界を構築した。NHKに入局後、玉音放送の録音に関わるなどして、生涯にわたり多くの文化人と交流を深めた。
 書簡は、不二のきょうだいの孫にあたる多田和代さん夫婦らが保管していた。
 来簡集では、このうち194人の593点を(1)学生(2)NHK勤務(3)社会文化活動-の三つの時代に分けて収録した。
 (1)の書簡からは、朔太郎や犀星、山村暮鳥、高村光太郎ら大正時代の詩壇を飾る詩人たちの息吹と人間性、生の交流の様子がうかがえる。(2)の書簡からはさまざまな分野の著名人の放送を依頼する心情などが、(3)からは戦後の文化人の熱気などがそれぞれ伝わってくる。
 各時代を通じて送られた犀星からの書簡は、収録49点のうち20点が初公開された。朔太郎の死を告げる1942年5月11日の犀星の電報「ハギ ワラケサシス」は、不二が後日、随筆で回顧した内容を裏付けるもの。今回の編集作業で現存が確認され、貴重な資料という。
 犀星からの17年1月9日消印のはがきには「山村(暮鳥)君が泊つてゐる。こまつた-」と書かれている。不二研究家で元城西国際大教授、星野晃一氏(79)は「暮鳥が編集したドストエフスキー書簡集を東京の出版社に売り込むための宿泊に、犀星が困惑していることがうかがえる」と指摘する。
 来簡集は不二の次女、曄代(てるよ)さんが「父への最後の親孝行がしたい」と星野氏に要請したことがきっかけで、編集作業がスタート。結城市の市民団体「結城古文書好楽会」のメンバーなどが協力して、約2年半をかけてまとめた。
 和代さんの夫で割烹(かっぽう)旅館社長、多田和夫(まさお)さん(84)は「結城にとってかつてない資料」と強調。「文化のまちの結城市民にとって、地元の歴史を知るきっかけになれば」と大きな期待を寄せた。
 多田不二来簡集はA5版、584ページ。4500円(税別)。(溝口正則)


結城市出身の詩人・文芸評論家、多田不二宛の書簡をまとめた書籍が刊行されたというわけです。

以下、版元の紅書房社さんのサイトから。 

多田不二来簡集

編者名/星野晃一、多田曄代イメージ 3
出版年/2015年8月
定価/4,860円(税込)
版型/A5
頁数/584
ISBN/978-4-89381-302-2

編者略歴
星野晃一(ほしの・こういち)
1936年、東京生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。城西国際大学教授を経て、現在、武蔵野大学客員教授。
 著書に『室生犀星-幽遠・哀惜の世界』『室生犀星-創作メモに見るその晩年』『犀星 句中游泳』 『室生犀星 何を盗み何をあがなはむ』、編著に『新生の詩』『室生犀星文学年譜』『室生犀星書目集成』『多田不二著作集』全二巻『室生犀星句集』など。
多田曄代(ただ・てるよ)
1932年、多田不二の次女として生まれる。長らくNHK松山放送局に勤務、現在松山市在住。

特徴と内容
長らく多田家に保管されていた書簡を一挙初公開!
大正期の詩界に異色の光芒を放つ詩人・多田不二のもとに寄せられた各界著名人194名からの書簡593通を一挙に公開。封書・はがき・郵便書簡・電報など、一部を除きほとんどが未公開。長らく多田家に保管されていたものが、このたび明らかに。


光太郎から多田宛の書簡も含まれているということですが、おそらくそれらは「一部を除きほとんどが未公開」と謳われているうちの一部の方、すなわち公開されているものと思われます。筑摩書房の高村光太郎全集第21巻に、多田宛の書簡が5通(すべて大正6年)掲載されており、それでしょう。

というのも、当方、『茨城新聞』さんの記事にも出て来る縁者で書簡を保管なさっていた多田和夫氏に、書簡を見せていただいたことがあるからです。十数年前になるかと思いますが、場所は記事にもある多田氏が経営されている「割烹のやど結城ガーデン」。こちらには「小さな文学館」というコーナーがあり、書簡以外にも多田の著書や関わった雑誌などが展示されています。下記はサイトから画像をお借りしました。光太郎からの書簡です。

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そちらを拝見し、さらに多田氏に光太郎からの来簡について伺ったところ、上記の画像のものを含む筑摩の全集のために提供したものですべてというお話でした。ただ、それが十数年前でしたので、もしかすると、その後、紛れ込んでいた未発表のものが見つかったかもしれません。

余談になりますが、免疫学者・文筆家で、養老孟司氏とも親しかったという東京大学名誉教授だった故・多田富雄氏(その頃はご存命)も縁者だと、その際にご教示いただいたことを覚えています。

何はともあれ、記事にあるとおり、室生犀星からの未発表書簡が大量に含まれているということで、そういった部分で詩史全体の研究に大きく貢献するものと思われます。

それにしても、結城ガーデンさんも今回氾濫した鬼怒川に近く、支流の田川という川がすぐ裏を流れている場所です。大きな被害を受けていないことを祈ります。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 9月11日

平成23年(2011)の今日、二本松市民交流センターで開催されていた「詩集『智恵子抄』発刊70周年記念~光太郎との相聞歌~智恵子紙絵展」が閉幕しました。

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智恵子紙絵の実物も19点、展示されました。

平成23年(2011)といえば、あの東日本大震災のあった年で、福島は原発事故による風評被害がひどかった時期でした。あれから4年。だいぶ復興も進みました。今回の豪雨被害の被災地も、1日も早く復興することを祈ります。

『吉本隆明全集10[1965‐1971]』/『異貌の日本近代思想1』/『平岡敏夫詩集』。

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新刊情報です。 
晶文社 2015年9月下旬発売予定 定価6300円+税イメージ 1

人と社会の核心にある問題へ向けて、深く垂鉛をおろして考えつづけた思想家の全貌と軌跡。
第10巻には、『言語にとって美とはなにか』から分岐派生した二つの原理的な考察『心的現象論序説』『共同幻想論』と、春秋社版『高村光太郎選集』の解題として書き継がれた光太郎論を収録する。第7回配本。
月報は、芹沢俊介氏・ハルノ宵子氏が執筆!

【目次】

心的現象論序説
  はしがき
  Ⅰ心的世界の叙述  Ⅱ心的世界をどうとらえるか
  Ⅲ心的世界の動態化  Ⅳ心的現象としての感情  Ⅴ 心的現象としての発語および失語  Ⅵ心的現象としての夢  Ⅶ心像論
  あとがき  全著作集のためのあとがき  角川文庫版のためのあとがき  索引
共同幻想論
  角川文庫版のための序  全著作集のための序  序
  禁制論 憑人論 巫覡論 巫女論 他界論 祭儀論 母制論 対幻想論 罪責論 規範論 起源論 後記
春秋社版『高村光太郎選集』解題
  一 端緒の問題  二 〈自然〉の位置  三 成熟について  四 崩壊の様式について  五 二代の回顧について
  六 高村光太郎と水野葉舟――その相互代位の関係   七 彫刻のわからなさ
解題〈間宮幹彦〉

昨年から刊行が始まった思潮社版『吉本隆明全集』の第7回配本です。既刊の第5巻第7巻、第4巻でも光太郎に触れられていましたが、今回は昭和56年(1981)から翌年にかけて春秋社さんから刊行された『高村光太郎選集』の月報に載った文章が掲載されています。

 
書肆心水 2015年8月刊 定価2,700円+税イメージ 2

近代主義/反近代主義の二者択一的思考停止をこえる創造的近代
右翼/左翼、保守/進歩の図式ではつかめない日本近代化問題の核心。模倣的近代でも反動的保守でもない創造的近代の思想が現在の闇を照らす。
西田幾多郎/三木清/岸田劉生/高村光太郎/野上豊一郎/山田孝雄/九鬼周造/田辺元
●書肆心水創業十年記念出版

西田幾多郎……新しいロジックを求めて/ヒューマニズムの行き詰まりから新しい人間へ/歴史的生命の世界
三木清……東亜協同体と近代的世界主義/東洋文化と西洋文化
岸田劉生……近代の誘惑を卒業した誇りと孤独/今日の悪趣味的時代に処する道/東洋の「卑近美」
高村光太郎……美と生命/日本美の源泉
野上豊一郎……能の物狂い/能の写実主義と様式化
山田孝雄……「は」と係助詞/西洋化日本における文法学の困難/日本の文字の歴史学/日本の敬語と文法
九鬼周造……偶然と運命/偶然と運命
田辺元……常識・科学・哲学――東洋思想と西洋思想との実践的媒介


こちらは光太郎自身の文筆作品を含むものです。

光太郎には「美と生命」という題名の作品は無いはずなのですが、同じ書肆心水さんが、平成22年(2010)に光太郎の評論を2冊にまとめ、『高村光太郎秀作批評文集 美と生命』として刊行していますので、そちらからさらにピックアップしての掲載ではないかと思われます。

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「日本美の源泉」は、昭和17年(1942)、『婦人公論』に6回にわたって連載されたもの。当時の同誌編集者・栗本和夫が和綴じに仕立てて保管していたその草稿が、昭和47年(1972)、中央公論社からそのまま覆刻、刊行されています。

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光太郎の前後に配されている岸田劉生、野上豊一郎は、ともに光太郎と交流の深かった人物。併せて読むのもいいでしょう。 

思潮社 2015年8月 定価1,300円+税イメージ 3

私と史のはるかなる旅路

蒼空の一点を
凝っとみつめていると
蒼空は黒みを帯びてくる。
(「蒼空」)


「わたしはかつて北村透谷や近代文学のすぐれた研究者だ、と思っていた平岡さんの魅力の源泉が、ふるさと瀬戸内海の〈塩飽島〉から湧き出る、天然の詩にあることを発見したときの興奮を忘れない」(北川透)。文学史家でもある詩人の、歴史の無惨と交差する生の歩み。代表作『浜辺のうた』『蒼空』全篇、高村光太郎論など円熟の評論も収録。戦後70年、長き沈潜をへて湧き出た詩の水鏡。解説=佐藤泰正、山本哲也、井川博年、陶原葵

「光太郎論」とあって、具体的なところが不明なのですが、かつて至文堂さんから刊行されていた雑誌『国文学解釈と鑑賞』の第41巻第6号(昭和51年=1976)「―特集 高村光太郎その精神と核―」には「国家と天皇と父と」、第63巻第8号(平成10年=1998)「特集 高村光太郎の世界」には「作品の世界『智恵子抄』」という平岡氏の論考が掲載されており、その辺りなのではないかと考えられます。ちがっていたらすみません。

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少しずつであっても、光太郎に触れる刊行物がどんどん出るのは好ましいことです。明日もこの続きで行きます。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 9月12日

昭和28年(1953)の今日、テレビ出演を断りました。

当日の日記の一節です。

ひる青江舜二郎氏くる、門口で、テレビに出てくれとのこと、断り、(略)後刻上山裕次といふテレビの人くる、十五日に松尾邦之助氏と対談してくれとの事、断る、

日本で地上波のテレビ放送が開始されたのが、この年2月です。早速の出演依頼が同じ日に2件あったようですが(もしかすると同一の依頼が人を換えて行われたのかも知れませんが)、いずれも断っています。もし断らずに出演し、さらにその映像が残っていたら、それはそれで貴重な資料となったと思うと、少し残念です。ちなみに光太郎、ラジオには録音で何度か出演していますし、その録音もある程度現存しています。

青江舜二郎は劇作家。松尾邦之助はフランス文学者で、光太郎詩の仏訳なども手がけています。上山裕次という人物については特定できませんでした。
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