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『日本古書通信』「幻の詩誌『南方詩人』目次細目」。

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雑誌としては当方が唯一定期購読しているものに、月刊の『日本古書通信』があります。

今年の5月号から、廣畑研二氏による連載記事「幻の詩誌『南方詩人』目次細目」が始まりました。そして昨日、連載の3回目が載った7月号が手元に届きました。

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『南方詩人』は昭和2年(1927)、鹿児島で創刊された雑誌で、同5年(1930)9月まで、全10輯が発行されていますが、今までその全貌が不明でした。国立国会図書館さんには収蔵されておらず、日本近代文学館さんでは昭和5年(1930)1月号のみ所蔵しています(それも欠ページがあるそうです)。この手の地方誌はおおむねそういうものです。

また、時折こういう例もあるのですが、地方誌でありながら、全国区のメジャーどころに寄稿を仰いでいます。廣畑氏の稿によれば、佐藤惣之助、萩原恭次郎、尾形亀之助、草野心平、尾崎喜八、竹内てるよ、木山捷平、黄瀛、小野十三郎、赤松月船、白鳥省吾らの名が執筆者として連なっています。その中に光太郎も。

以前から『南方詩人』に光太郎が寄稿していたことは判明していました。『高村光太郎全集』には、以下の作品が同誌を初出として掲載されています。

昭和4年10月1日号 散文「てるよさんの詩を読んで-詩集『叛く』について-」
昭和5年1月1日号 詩「孤独で何が珍しい」 散文「猪狩満直詩集「移住民」に就て」  散文「平正夫詩集『白壁』に就いて」  書簡二〇三
昭和5年9月10日号 散文「黃秀才の首」

ところが、いかんせん全貌が不明だった地方誌のため、他にも掲載されていたものが漏れていました。

廣畑氏は、沖縄県立図書館さん、いわき市立草野心平記念文学館さん、吉備路文学館さんの3ヶ所に『南方詩人』が収蔵されていることをつきとめ、それぞれの欠損を補って、全10輯の全貌を明らかにされたそうです。

昨日届いた『日本古書通信』7月号掲載の「幻の詩誌『南方詩人』目次細目」第3回に記述がありますが、昭和4年(1929)3月10日発行の第6輯に、ロマン・ロランの戯曲「モンテスパン夫人」の序文が、光太郎の訳で掲載されています。この光太郎訳は今までに全く知られていなかったものでした。原典は大正12年(1923)にアメリカで出版された同書の米国版です。

廣畑氏から当会顧問の北川太一先生に、この件についてご連絡があり、さらに当方にもそれが廻ってきたのが4月。ただ、添えられていたコピーが不鮮明で読めない、何とかならないか、とのことでした。そこで、連翹忌でお世話になっているいわき市立草野心平記念文学館さんにお願いし、当該箇所のデータを画像ファイルで送っていただきました。北川先生は、翻訳原典である米国版を神保町の田村書店さんを通じて入手なさいました。

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比較的長文の翻訳で、こうしたものが今まで埋もれていたというのが、ある意味、意外でした。全文は来春刊行予定の『高村光太郎研究』に当方が持っている連載「光太郎遺珠」にて紹介します。

他にも廣畑氏の稿によって、『南方詩人』に光太郎作品の掲載状況がいろいろと明らかになっています。例えば大正11年(1922)の第二期『明星』に掲載されたヴェルハーレンの詩「未来」が転載されていたり、生前に活字になった記録が無かった木山捷平あての書簡2487が「詩集「野」読後感」として掲載されていたり、といったところです。

さらに草野心平の作品でも、心平の全集に未掲載のものが大量に含まれているとのこと。地方誌恐るべし、です。

廣畑氏の「幻の詩誌『南方詩人』目次細目」。『日本古書通信』での連載はまだ続きます。もしかしたら書簡、雑纂等で『高村光太郎全集』未掲載のものがまだあるかも知れません。

光太郎の書き残したものの全貌を明らかにする道のりは、まだまだその途上です。ライフワークとして取り組み続けていきたいと思っております。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月15日

昭和31年(1956)の今日、新潮文庫版『智恵子抄』が刊行されました。

光太郎が亡くなる直前に、草野心平に編集を託したものでイメージ 1す。今日、『智恵子抄』というと、この新潮文庫版を思い浮かべる方がほとんどでしょう。現在も版を重ねています。

オリジナルの龍星閣版『智恵子抄』は昭和16年(1941)の刊行で、時間の流れとしては智恵子の死後間もない頃の作品「梅酒」あたりまでが掲載されています。戦後の昭和25年(1950)には同じ龍星閣から詩文集『智恵子抄その後』が刊行され、新潮文庫版にはそのあたりの作品も収められました。

昭和42年(1967)に改訂版が出るまでの新潮文庫版には、オリジナルに収録されていた詩「或る日の記」が心平の意図で省かれていました。心平曰く、

従来の『智恵子抄』に載っていた「或る日の記」はそれは智恵子さんとの関連が詩の中心をなしていないので故意にはぶいた。

とのことでした。

この点は原著者の意向の無視ということで、のちにかなり批判されています。しかし、こういういわば「力業」が、ある意味「規格外」の詩人だった心平の本領であるとも言えます。他にも光太郎生前から、くり返しその作品集の編集に携わっていた心平ですが、誤植等をあまり気にしていません。光太郎はそういう心平を苦笑しながら見守っていた節があります。

篠田桃紅さん『百歳の力』『一〇三歳になってわかったこと 人生は一人でも面白い』。

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昨日の『朝日新聞』さんに、大きな広告が出ました。

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最近じわじわと話題になっている篠田桃紅さんの著書です。

篠田さんは大正2年(1913)のお生まれで、おん年102歳。墨を使った抽象芸術家として、いまだ現役という方です。アメリカを拠点に活動されていた時期もあったそうです。

こちらは新刊ではなく、昨年6月の刊行ですが、やはりじわじわと部数を伸ばし、広告にあるとおり13万部を突破したとのこと。

この中で、光太郎にちらりと触れていらっしゃいますが、それを知ったのは刊行後しばらく経ってからでしたし、あくまで「ちらり」ですので、購入せずにいました。

しかし、他の近著でも光太郎にちらりと触れて下さっていることもわかり、さらに朝日さんに大きな広告も出たので、近著共々購入して参りました。
 
篠田桃紅著 集英社(集英社新書) 2014年6月17日初版 新書版192ページ 定価700円+税

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一〇三歳になってわかったこと 人生は一人でも面白い

篠田桃紅著 幻冬舎 2015年4月9日初版 B6変形版169ページ 定価1,000円+税

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『百歳の力』は新書の売り場に平積み、『一〇三歳になってわかったこと』は「話題の本」的な特設コーナーに置いてありました。ちなみに「一〇三歳」というのは数え年です。

それぞれ帯には「緊急大増刷!」(『百歳の力』)、「40万部突破 !!」(『一〇三歳になってわかったこと』)の文字が躍っており、ともに注目されているというのがわかります。実際、おのおのの奥付を見ると『百歳の力』は「二〇一四年六月二二日第一刷発行 二〇一五年六月二一日第六刷発行」、『一〇三歳になってわかったこと』は「2015年4月10日 第1刷発行  2015年6月26日 第11刷発行」となっています。あやかりたいものです(笑)。

さて、自宅兼事務所に帰って、双方を斜め読みしました。やはりどちらも光太郎にちらりと触れて下さっていました。

『百歳の力』は「はじめに」の中で。

 若いときには、いまのような仕事をしているとは一切予想はついていなかったし、予定もしなかった。予想も予定もない、いきあたりばったり。出たとこ勝負でずっとやってきました。高村光太郎の詩「道程」と同じです。

 僕の前に道はない
 僕の後ろに道は出来る

 ほんとにそう、いつも高村光太郎の詩を心に思い浮かべて生きてきた。私の前に道はない。誰かが歩いた道を私は歩いているんじゃない。先人のやってきたことをなぞっていない。でもいきるってそういうことです。
 前半は私にあてはまりますよ。でも、後半は私にあてはまるとは思わない。私の後ろに道などないですよ。なくてかまわないと思っているんです。道というほどのものができてなくても、作品というものが残っている。それはある程度残っている。どこかに、ある。
 人が敷いてくれた道をゆっくり歩いていけばいいというような一生は、私の性格には合わないんだからしようがない。私の前に道がないのは自分の性格ゆえの報い。そう思って受け入れてきました。

最後の段落は帯文にも印刷されていました。

この部分を読んで、智恵子が画家の津田青楓に語ったという次の言葉を思い起こしました。

世の中の習慣なんて、どうせ人間のこさへたものでせう。それにしばられて一生涯自分の心を偽つて暮すのはつまらないことですわ。わたしの一生はわたしがきめればいいんですもの、たつた一度きりしかない生涯ですもの。(津田青楓『漱石と十弟子』 昭和24年=1949)


『一〇三歳になってわかったこと』でも「道程」が引用されています。

 百歳を過ぎて、どのように歳をとったらいいのか、私にも初めてで、経験がありませんから戸惑います。
 九十代までは、あのかたはこういうことをされていたなどと、参考にすることができる先人がいました。しかし、百歳を過ぎると、前例は少なく、お手本もありません。全部、自分で創造して生きていかなければなりません。
(略)
 これまでも、時折、高村光太郎の詩「道程」を思い浮かべて生きてきましたが、まさしくその心境です。

 僕の前に道はない
 僕の後ろに道は出来る

 私の後ろに道ができるとは微塵も思っていませんが、老境に入って、道なき道を手探りで進んでいるという感じです。
 これまでも勝手気ままに自分一人の考えでやってきましたので、その道を延長しています。日々、やれることをやっているという具合です。

 日々、違う。
 生きていることに、
 同じことの繰り返しはない。

  老いてなお、
  道なき道を手探りで進む。

この部分からは、戦後、光太郎が花巻郊外太田村の山小屋で暮らしていた頃、地元の太田中学校に贈った次の言葉を想起しました。


無理矢理ですかね(笑)。


ところで、2冊を斜め読みした中で、篠田さんが女学校時代、短歌を中原綾子に師事していたという記述を見つけ、これは存じませんでしたので、驚きました。中原は光太郎と交流の深かった歌人です。

その他、光太郎と交流のあった面々の名前もあちこちに現れます。篠田さんご自身とも交流があったところでは、三好達治や草野心平など。その他、直接のお知り合いではないようですが、森鷗外や夏目漱石、与謝野晶子に太宰治、フランク・ロイド・ライトとか正岡子規などにも言及されています。

驚いたのは、女学校時代の先生が北村透谷未亡人だったとか、芥川龍之介をみかけたことがあるとか……もはや歴史の生き証人でもありますね。

これからゆっくり熟読いたしますが、斜め読みだけでも、素晴らしい年令の重ね方をされてきた方の珠玉の言葉が目にとまります。

皆様もぜひお読み下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月16日

昭和19年(1944)の今日、『週刊朝日』に散文「全国民の気合-神性と全能力を発揮せよ-」が掲載されました。

とても読むに堪えない文章ですが、最終段落のみ引用します。

 今度の世界大戦は科学の戦ひだといはれる。科学進展のもとはやはり科学者の着実な自信にある。日本には日本独特の科学の考へ方が生まれるであらうし国民の神性はこの点にも必ず現れる。日本的構想による着眼から必ず彼らの夢にも思はぬ進歩発展が遂げられるに違ひない。科学、芸文、技術、其他々々。それらがすべて一緒一体となつて全国民の気力をますます充たしめ、全国民の純一な気合が期せずして最高の一点に集中する時、御稜威のもと、皇軍は必ず彼等に最後の止めをさすであらう。

今日、戦後の安全保障政策の一大転換となる安全保障関連法案が衆議院を通過するものと思われます。またこうした文章が各メディアを賑わす日が近いのかも知れません。

深田久弥『日本百名山』。

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一昨日のことです。

昨日ご紹介した篠田桃紅さんの書籍を買いに、新刊書店に行きました。すると、毎年この時期に行われている、夏の文庫本フェア的な特設コーナーが目に付きました。「新潮文庫の100冊」、集英社文庫「ナツイチ」、「発見!角川文庫」など。

「そういえば、新潮文庫版の『智恵子抄』は、最初の頃は「新潮文庫の100冊」に入ってたんだよな……。」と思い浮かびました。この手のキャンペーンの嚆矢である「新潮文庫の100冊」は昭和51年(1976)に始まり、永らく『智恵子抄』がラインナップに入っていました。しかし、いつの間にか選から外れてしまっており、非常に残念です。復活を期待します。

また、集英社文庫さんには林静一氏の装幀による『レモン哀歌 高村光太郎詩集』、角川文庫さんには『校本 智恵子抄』があり、この辺も入れてほしいものです。

そんなことを考えながら、並んだ文庫本を見ていて、ふと、目にとまったのがこちら。

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深田久弥の名著『日本百名山』です。「あ、これも「新潮文庫の100冊」に入ったんだ。」と思いながら手に取りました。

調べてみると、一昨年くらいからラインナップに組み込まれていました(ついでに調べてみると、『智恵子抄』が入っていたのは平成21年(2009)まででした)。中高年の登山ブームを意識しての選定でしょうか。

初刊は昭和39年(1964)。以来、「なぜこの山が選ばれていないんだ」とかいった批判や、他の個人や団体の選定した「百名山」なども乱立する中、深田久弥選定の「百名山」が、確固たる地位を得ているように思われます。

やはり中高年の登山ブームを背景にしていると思われますが、「百名山」を冠したテレビ番組もいろいろと制作されており、このブログでもご紹介してきました。

TV放映情報。 絶景百名山 「秋から冬へ 上高地・徳本峠」。 にっぽん百名山「安達太良山」。 にっぽん百名山「安達太良山」/歴史秘話ヒストリア。


光太郎智恵子が大正2年(1913)に婚前旅行に行った上高地に近い穂高岳、智恵子の故郷・二本松にそびえる安達太良山が「百名山」に選定されている関係です。


さて、新潮文庫の『日本百名山』。安達太良山の項で、光太郎智恵子に触れています。一部分を抜粋します。

二本松から眺めた安達太良山、それを歌った高村光太郎の詩が、この山の名を不朽にした。この詩人と絶対愛に結ばれた妻の智恵子は、二本松の作り酒屋に生れた。彼女は東京にいると病気になり、故郷の実家に帰ると健康を回復するのが常であった。その妻のあどけない言葉を、詩人はうたった。

  智恵子は東京に空が無いといふ、
  ほんとの空が見たいといふ。

(略)

 そしてこの詩人夫妻が二本松の裏山の崖に腰をおろして、パノラマのような見晴らしを眺めた時の絶唱「樹下の二人」の一部に、

  あれが阿多多羅山、
  あの光るのが阿武隈(あぶくま)川。

 この詩と同様「ただ遠い世の松風ばかりが薄みどりに吹き渡」っている秋の末、私もその丘へ上ってみた。

その後、実際に深田は安達太良山に登っていきます。

この他にも、『日本百名山』には、光太郎が詩に詠んだり、実際に登ったりした山がいくつか含まれています。岩手山、早池峰、磐梯山、赤城山、富士山、そして北アルプスの山々。そういうことを考えて手にとっていたら、結局、この本もレジに持って行ってしまいました(笑)。

ところで、『高村光太郎全集』には、深田の名が1回だけですが、出てきます。昭和21年(1946)3月、養徳社という出版社で編集にあたっていた喜田聿衛に宛てた書簡の一節です。

おてがミ及小包忝く拝受、深田さんの「津軽の野づら」にはリーチなど出て来るらしいのでよむのがたのしみに思へます。

『津軽の野づら』は昭和4年(1929)に深田の名で発表された小説です。初刊は同10年(1935)で、のちに養徳社から再刊されています。喜田はこの他にも亀井勝一郎の『大和古寺巡礼』などの自社刊行物を光太郎に贈呈しています。

さて、「津軽の野づら」、実際にはのちに深田と結婚する北畠八穂の作。八穂は青森出身。標準語で文章を書くことに難があったそうで、いわば深田との合作です。他にもそうした作品があり、深田と八穂が離婚したことにより、問題がややこしくなって、深田はいったん文壇から消えざるを得なくなります。その深田が復権したのは、『日本百名山』の執筆においてでした。

そのあたり、平成19年(2007)に朝日新聞社から刊行された『愛の旅人Ⅱ』という書籍に記述があります。

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この書籍には当会顧問・北川太一先生もご登場の「『智恵子抄』 高村光太郎と智恵子」も載っており、非常にいい本ですが、残念ながら絶版です。ただしamazonさんなどでは入手可能です。また、元は『朝日新聞』さんの土曜版の連載なので、記事としてはネット上に残っています。深田に関してはこちら。光太郎智恵子はこちら

というわけで、『日本百名山』、『愛の旅人Ⅱ』、ぜひお買い求め下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月17日

平成13年(2001)の今日、東京オペラシティリサイタルホールで国際芸術連盟主催のコンサート「語りと音楽の世界」が開催されました。

岡野富士夫作曲、竹内知子語り、磯野鉄雄のギターで「組詩 智恵子抄 ~ギターと朗読のための~」がプログラムに入っていました。

ライヴ録音のCDがリリースされています。

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高校生が未来を創る町 女川町 七つ目のいのちの石碑。

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このブログでたびたびご紹介してきた宮城県女川町の「いのちの石碑」に関する情報です。
 
 
同じ女川町にかつて建てられた高村光太郎文学碑の精神を受け継ぐプロジェクトです。

「1000年後のいのちを守る」を合い言葉に、震災のあった2011年の4月に中学生になったかつての女川一中生のみなさんが、町内21ヶ所の浜の津波到達地点より高い場所に石碑を建てる事業を進めています。その7基目の除幕式が、避難訓練を兼ねて明日行われるとのこと。コミュニティ放送局・女川さいがいエフエムさんのサイトから情報を得ました。

絆を深めるための津波避難訓練in野々浜

日   時 : 平成27年7月19日(日)
場   所 : 女川町野々浜 野々浜港(牡蠣処理場前)
主   催 : いのちの石碑を作る女川の子どもたちを支える会/女川1000年後のいのちを守る会
日   程 :  受  付 9時30分~9時50分 避難訓練 10時~10時50分 除 幕 式 11時~11時50分


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TBCラジオ東北放送さんのサイトにも記述がありました。

~「いのちの石碑」を作る女川の子どもたちを支える会 阿部一彦さん~

 震災時女川一中で教頭をつとめていた阿部さんは、震災後女川中学校の1年生が提案した「1000年後のいのちを守るための石碑」を作る女川の子どもたちを支えています。石碑は7基目になりこどもたちは高校2年生になりました。「もう二度と一人の命も失いたくない」、ひとりの命を守るためにはどうするかを考え続けている子供達は今月19日(日)に「絆を深めるための津波避難訓練in野々浜」を開催することにしました。
7基目の石碑の披露式とともに1000年後の命を守る、よりよい町づくりについて女川の子どもたちと考える機会です。みなさんもいっしょに考えませんか?


まだ細かな連絡が来ていませんが、予定通りであれば来月9日には、恒例の女川光太郎祭も行われるはずです。3月にはJR石巻線の女川駅が復活した女川、震災から5度目の夏。記憶を風化させないよう、そして何より復興に向け、着実に歩んでいって欲しいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月18日

大正9年(1920)の今日、文献社から『詩集 地上の光』が刊行されました。

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50名余の詩作品を掲載したアンソロジーで、光太郎詩「師走十日」「海はまろく」も収められています。この手のアンソロジーはかなり数が多いのですが、これは光太郎の作品が載ったものとしては古い時期のものの一つです。

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「イロハ順」というところに時代を感じます。「光太郎」が「幸太郎」となっているのはご愛敬(笑)。

「酒井紀美の夢想の歴史学 漱石の夢十夜 近代日本の迷いを映す」。

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昨日の『朝日新聞』さんの土曜版に光太郎の名が出ました。

歴史学者・酒井紀美氏の連載「酒井紀美の夢想の歴史学」で、昨日の回のサブタイトルは「漱石の夢十夜 近代日本の迷いを映す」。

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「夢十夜」は明治41年(1908)の作。漱石が、自分の見た十種類の夢の内容を綴るという形で進むオムニバス形式の小説です。特に有名なのが「第六夜」。鎌倉時代の仏師・運慶が、現代(明治)の東京で、仁王像を彫っている場面を見たという夢です。

当方、『朝日新聞』さんは購読しておりますが、紙面を見る前にネットのデジタル版で「高村光太郎」のキーワード検索を掛け、この記事に光太郎の名が出て来ることを知りました。

読み進めると、夢の中の運慶が仁王像を彫る場面が引用されていました。

運慶はまったく何もちゅうちょすることなく悠々と鑿(のみ)と槌(つち)をふるって、仁王の顔のあたりを彫り抜いていく。「能(よ)くああ無造作に鑿を使って、思うような眉や鼻が出来るものだな」と感心して独りごとを言うと、隣にいた若い男が「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋(うま)っているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ」と評した。

ここまで読み、光太郎の木彫に話をつなげるのかな、と思いました。光太郎も昭和2年(1927)、雑誌『大調和』に発表した「偶作十五篇」という連作の中で、次のように謳っています。

木を彫ると心があたたかくなる。
自分が何かの形になるのを、
木は喜んでゐるやうだ。

ところが、さにあらずでした。酒井氏の稿は、阿部昭による岩波文庫版『夢十夜』の解説に言及され、そこに光太郎が出て来ます。

岩波文庫『夢十夜』の「解説」で阿部昭は、「旧時代の重荷を背負いつつも、新しい教養の先頭にいた知識人の一人として、西洋という異質の文化の吸収に追われざるを得なかった」漱石を、「内と外とから追われる人間」「ロンドンの街角で、ふと鏡に映った一寸法師、醜い黄色人種」ととらえた。そして、高村光太郎の詩の「魂をぬかれた様にぽかんとして 自分を知らない、こせこせした 命のやすい 見栄坊な 小さく固まつて、納まり返つた 猿の様な、狐(きつね)の様な、ももんがあの様な、だぼはぜの様な、麦魚(めだか)の様な、鬼瓦の様な、茶碗のかけらの様な」という、たたみかけるような表現を引用しながら、明治という時代の不安定な日本人の姿を浮かび上がらせた。

引用されているのは、明治44年(1911)に雑誌『スバル』に発表された「根付の国」です。

   根付の国

頬骨が出て、唇が厚くて、眼が三角で、名人三五郎の彫つた根付(ねつけ)の様な顔をして
魂をぬかれた様にぽかんとして
自分を知らない、こせこせした
命のやすい
見栄坊な
小さく固まつて、納まり返つた
猿の様な、狐の様な、ももんがあの様な、だぼはぜの様な、麦魚(めだか)の様な、鬼瓦の様な、茶碗のかけらの様な日本人

制作は明治43年12月です。前年には米英仏への3年余の留学から帰朝した光太郎。彼地では日本との文化的落差に打ちのめされ、帰ったら帰ったで、我が国の旧態依然の有様に絶望し、さらに手を携えて共に新しい彫刻を日本に根付かせようと考えていた、盟友・荻原守衛を失った時期でした。

漱石にしろ、光太郎にしろ、欧米留学を経験し、帰国後の日本に危機感を覚え、いわば目覚めてしまった者の悲劇を体現したといえるのではないでしょうか。その点は森鷗外にも通じるような気がします。

この点、光太郎と同時期か、やや遅れての留学生の、光太郎からパリのアトリエを引き継ぎ、ルノアールに師事し、ピカソやマチスと親交を深めた梅原龍三郎、「レオナール・フジタ」と称され、活動の場自体を西洋に置いてしまった藤田嗣治(美術学校西洋画科での光太郎の同級生)などとの相違は興味深いところです。ただし、梅原にしても藤田にしても、後にまた違った形での日本回帰がみられるのですが。

酒井氏の稿は、以下のように結ばれます。

夢は自分の外から神仏のメッセージとして届けられるのだとする古い見方や考え方を捨て去って、自分の心の奥深いところで過去の記憶が複雑にからまりあいながら夢が生まれてくるのだと確信できるようになるまで、近代日本の人々は、夜ごとに訪れる夢に対して、不安と混迷をかかえこみながら歩まねばならなかった。

現代のこの国に生きる我々も、近代の人々とは違った不安と混迷を抱えて生きています。また大きな曲がり角にさしかかった気配の昨今、未来に「夢」を持てる国であってほしいものですが……。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月19日

昭和26年(1951)の今日、花巻郊外太田村の昌歓寺に「放光塔」の文字を書く約束をしました。

当日の日記です。

夕方神武男氏他一名来訪、白い酒一升もらひ、その場でのむ。浅沼宮蔵とかいふ人の葬式だつた由。昌歓寺に立つ放光塔といふ字をかく約束す、

昌歓寺は時折光太郎も足を運んでいた寺院で、前年には、毎年、花巻町の松庵寺で行っていた光雲・智恵子の法要を、その年だけ昌歓寺に頼んでいます。昨年、光太郎に関する文書が出て来て驚きました。神武男は当時の住職です。

この「放光塔」の文字がこの後どうなったか不明です。次に花巻に行く際には、そのあたりも調べてみようと思っております。


「時代知る復刻雑誌展 「青鞜」や「明星」など貴重な資料」/「智恵子の生家を特別公開 平成27年8月23日まで」。

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福島の地方紙2紙から。

まずはちょっと古い記事ですが、『福島民友』さん。 

時代知る復刻雑誌展 「青鞜」や「明星」など貴重な資料

 福島市森合の県立図書館で3日、「復刻雑誌展」が始まり、展示スペースに紹介された同館所蔵の貴重な雑誌を通して明治、大正など当時の時代背景を知ることができる。8月5日まで。
 同展は、同館が雑誌に関する理解と認識を深め、図書館資料としての雑誌の利活用促進を図ることを目的に、初めて開いた。
 同館によると、展示されている雑誌は「青鞜(せいとう)」や「明星」など教科書でも知られた雑誌を中心に15タイトル約90点。このうちグラフ誌「風俗画報」では、1896(明治29)年に起きた三陸大津波の悲惨な災害の様子などが石版画で紹介されており、当時の様子を伝える貴重な資料の数々に利用者が足を止め見入っている。
(2015年7月4日 福島民友おでかけニュース)

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明治44年(1911)の創刊号をはじめ、智恵子が描いた表紙絵が繰り返し使われた『青鞜』、光太郎の文学活動の本格的な出発点となった『明星』。記事ではわかりにくいのですが、「復刻」と冠しているので、オリジナルではないのでしょうが、雰囲気をつかむのには良いかと思います。

福島県立図書館さんのサイトにある紹介はこちら


続いて『福島民報』さん。 

智恵子の生家を特別公開 平成27年8月23日まで

 二本松市教委は夏休み初日の18日、市内の智恵子の生家で高村智恵子の居室などの特別公開を始めた。
 市合併10周年を記念した。特別公開したのは2階の智恵子の居室や夫・光太郎が過ごした部屋、家人や杜氏(とうじ)の寝室、1階の茶の間や奥座敷など。
 かつて智恵子が通った油井小の2年生の熊谷璃麻(りお)さんは「智恵子さんの部屋を初めて見ました。今のおうちと違うと思いました。楽しかったです」と目を輝かせていた。
 生家は木造2階建て。明治16年に造り酒屋として建てられたとされ、当時の建築様式を今に伝えている。
 夏休み期間の特別公開は平成27年8月23日までの土、日曜、祝日の午前11時からと午後1時30分からの1日2回。秋と冬にも特別公開する。問い合わせは二本松市智恵子記念館 電話0243(22)6151へ。
( 2015/07/19)

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大型観光企画「ふくしまデスティネーションキャンペーン(DC)」の関係で、先月から公開が始まっていましたが、DCが先月末で終了し、いったん中断していたものが再開しました。

それぞれ、ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月20日

昭和50年(1975)の今日、集英社から山本鈴美香著 『エースをねらえ!』 第9巻「全世界招待試合開始の巻」が刊行されました。

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光太郎詩「人に」と「道程」が引用されています。

「人に」は、「N――女史に」の題で大正元年(1912)の雑誌『劇と詩』に発表され、のち、改稿を経て『智恵子抄』(昭和16年=1941)の巻頭を飾りました。

『エースをねらえ!』では、主人公の高校生テニスプレーヤー・岡ひろみが、先輩であり彼氏でもある藤堂貴之の通う大学の大学祭で見た、電子工学部・心理学部・芸術学部協作の映像アトラクション「イメージの箱」に使われていました。

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「道程」は、世界の強豪高校生との試合が行われることを知らされ、決意を新たにするひろみが思い浮かべています。

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当時の少女達の中には、これで光太郎の詩に興味を持った、という人が少なからずいたようです。

森まゆみ 『「谷根千」地図で時間旅行』。

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新刊です。 
2015/07/30発行  森まゆみ著 晶文社発行 定価1,800円+税 

版元サイトより

地図を使って読み解く「谷根千」
本郷台地の加賀、水戸屋敷は東大へ。坂を下れば、根津の遊廓に。広大な上野・寛永寺は、明治になると上野公園へ。今も辿れる諏方明神の道、岩槻街道、中山道。かつて不忍通りには都電が走り、谷中銀座、安八百屋通りは人で賑わった。
 約25年間地域雑誌「谷根千」をつくってきた著者が、江戸イメージ 7から現代まで、谷根千が描かれた地図を追いながら、この地域の変遷を辿る。
また、上野の博覧会の思い出を語る人、関東大震災、戦災を語る人、たくさんの人が町に暮らしていた。その古老たちが描いた地図、聞き取り地図も多数収録。

【目次】
1 地図でみる谷根千
   正保年間江戸絵図
    寛文五枚図
    江戸方角安見図鑑
    享保元年分道江戸大絵図  …etc.
2 谷根千手づくり地図
    森鴎外「雁」を歩く
    一葉の住んだ町完全踏査
    芸人と芸術家のまち
    駒込千駄木林町の地図   …etc.
3 家族の地図、なりわいの地図
    商店街の町並み
    大正時代の学校界隈
    母の出会った浅草の空襲   …etc.

地域雑誌『谷中根津千駄木』(以下、『谷根千』)を刊行されていた森まゆみさんの新著です。森さんのご著書は、以前、智恵子がらみで『『青鞜』の冒険 女が集まって雑誌をつくること』を紹介させていただきました。

今回のものは、『谷根千』編集の際に利用されたさまざまな地図――古地図や絵図、地元の方に描いてもらったものなど――を読み解くことで、この地の成り立ちや、ここで生きた人々の息遣いをたどるというコンセプトです。

最近、テレビでも「散歩」系の番組などが静かなブームです。その手の番組の元祖ともいえるテレビ東京さんの「出没!アド街ック天国」は根強い人気を誇っていますし、NHKさんの「ブラタモリ」は地誌学的に見ても優れた番組です。

そうした動きを背景にしての刊行でしょうが、これまた労作です。谷根千地域と縁の深い森鷗外、樋口一葉にはそれぞれ一章を割いていますし、千駄木林町にアトリエを構えた光太郎智恵子についても、「芸人と芸術家のまち」「駒込千駄木林町の地図」の章で言及されています。もちろん地図入りで。

そのあたりを読むと、意外な人物がすぐ近くに住んでいたことがわかったり、光太郎の作品に出て来る場所の位置がわかったり、近くに住んでいたことは知っていたものの正確な位置がわからなかった人物の家がわかったりと、実に有益でした。次に千駄木方面に行く際には、この書を片手に歩こうと思いました。


ところでこの書籍、特殊な造本になっています。

普通はカバーを外すと、背表紙がありますが、この書籍にはそれがないのです。

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そのため、広げた時に全体がフラットになります。

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通常の書籍だと、開いた際に「のど」の部分がくぼんでしまいます。その状態でコピー機やスキャナにかけると、中央は影ができたりピンぼけになったりします。

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しかし、この書籍はどのページを開いてもそうならないような造本になっているのです。これはすばらしい! と思いました。

公共図書館の場合、以前はカバー類を全て取り払って納架するところが多くありました。今でも地方の図書館では時々見かけます。その方法を採ると、この書籍は背表紙がないので困ります。老婆心ながら、そういうところはどうするのだろうと思いました。また、最近は、透明フィルムでカバーごと固定するケースも多くあります。これまた老婆心ながら、下手な固定の仕方をして、せっかくの造本法を台無しにしてほしくないものです。


さて、内容的にも、造本法も素晴らしい書籍です。ぜひ、お買い求めを。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月21日

昭和21年(1946)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、北向きの壁を抜いて窓を作りました。

当日の日記です。

午前小屋の北側の壁を幅二尺、たては横桟と横桟の間だけ切り抜き、小まいは残す。風のぬき窓なり。余程空気ぬけよくなり風もはいるやうになる。冬には外より丈夫に戸をたてるつもり。此窓なくては小屋の空気こもりて夏は不衛生と思ふ。
(略)
程なく床をとりてねる。十時頃。 北側の窓の為かすずしき風来るやうに感ぜらる。

こちらは『高村光太郎全集』第12巻掲載の、山小屋の図面です。これでいうと、「25」の窓がそれにあたります。

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追記 いったんこの記事を書いてアップロードした後、いろいろネットで検索していたところ、今夜のNHK総合さんの「歌謡コンサート」で光太郎智恵子に触れるという情報を得ましたので紹介します。

NHK歌謡コンサート「手紙で綴(つづ)る愛の名曲集」

NHK総合 2015/07/21 20時00分~20時43分

テーマ「手紙で綴(つづ)る愛の名曲集」出演:五輪真弓、大竹しのぶ、クリス・ハート、柴田淳、新沼謙治、氷川きよし、増位山太志郎、森進一、八代亜紀.

番組内容
今回は、女優・大竹しのぶの手紙の朗読とともに名曲の数々を紹介。取り上げる手紙は川端康成、寺山修司、マリリン・モンローといった著名人から、戦争で亡くなった夫にあてたラブレターを毎日つづっている94歳の女性まで多岐にわたる。八代亜紀「愛の終着駅」、五輪真弓「恋人よ」、新沼謙治「嫁に来ないか」、氷川きよし「別れのブルース」、柴田淳「あなた」、クリス・ハート「やさしさに包まれたなら」ほか。

出演者 五輪真弓,大竹しのぶ,クリス・ハート,柴田淳,新沼謙治,氷川きよし,増位山太志郎,森進一,八代亜紀,
司会 高山哲哉,
演奏 三原綱木とザ・ニューブリード,東京放送管弦楽団


スタッフさんのブログに以下の記述がありました。

7月21日 手紙で綴る 愛の名曲集
いつもNHK歌謡コンサートをご覧頂き誠にありがとうございます。制作統括の茂山です。7月は文月、23日は ふみの日なので7月23日は「文月ふみの日」という記念日です。今週の歌謡コンサートはそれにちなんで、2月に放送し好評を得た「手紙で綴る愛の名曲集」の第2弾をお届けします。古今東西の有名・無名の恋文をご紹介しながら、愛の歌をお聴きいただきます。朗読は前回と同様、女優の大竹しのぶさんが担当、情感たっぷりに手紙を朗読してくれます。今回ご紹介する恋文は
川端康成から婚約者への手紙
寺山修司から恋人への手紙
マリリン・モンローからジョン・F・ケネディへの手紙
NHKのニュース番組でも取り上げられたことのある亡き夫に送った「70年目の手紙」
南極観測隊員の妻より夫へ送った電文
高村光太郎・智恵子夫妻の作品「恋文」より一部をご紹介
愛を込めた手紙から、愛の歌につながるのか、ご期待下さい。

テレビ放映情報。

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テレビ放映情報です。

まずは今夜。智恵子の故郷、二本松市でのロケが行われた番組です。 

きらり!えん旅 ~伍代夏子 福島・川俣町 二本松市へ~

NHKBSプレミアム 2015年7月22日(水)  19時30分~20時00分 
再放送 2015年7月28日(火) 18時30分~19時00分  2015年7月29日(水) 11時05分~11時35分

番組内容
歌手の伍代夏子さんがまず訪ねたのは福島県川俣町。名物の川俣シャモを飼育する農家や、避難指示解除準備区域でトルコギキョウを育てる農家に会い、これまでの苦労話を聞いた。続いて訪れた隣の二本松市には、近くの浪江町から原発事故で避難してきた人たち2千人以上が暮らしている。浪江の人たちと二本松の人たちをつないだのが、野菜がいっぱい入った郷土料理「ざくざく」。伍代さんも早速ごちそうになった。

出演者 伍代夏子  語り 冨永みーな

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こちらは2012年に始まって、息の長い番組となってきました。初期の頃に由紀さおりさんによる二本松訪問の様子も放映され、光太郎智恵子がらみの内容となっていました。今回もそうした話が出ることを期待します。


続いて26日の日曜日、通称「乙女の像」の立つ十和田湖が紹介されます。また、大正2年(1913)に光太郎智恵子が婚前旅行で訪れた信州・上高地も。 

夏の絶景 いい旅スペシャル

テレビ東京 2015年7月26日(日)  18時30分~20時54分

北海道・知床の滝と雲海、青森の緑溢れる奥入瀬渓流と秘湯、長野の人気の避暑地・上高地と安曇野の夏の絶景をお届け!涼やかな風景を圧倒的な映像美で魅せる旅番組。
出演者

≪旅人≫
北海道 知床   ダイヤモンド☆ユカイ、杉村太蔵、北川弘美
青森県 奥入瀬渓流~八甲田山   林家三平、国分佐智子
長野県 白馬~安曇野~上高地   野口五郎、新田恵利、秋元才加 
ナレーター 広中雅志

旅番組での夫婦共演は初めて!林家三平・国分佐智子夫妻が訪れるのは、青森県奥入瀬渓流~八甲田山。まず向かったのは夏の青森の絶景名所「奥入瀬渓流」。雲井の滝や銚子大滝ほか、300種類以上も自生しているコケの美しい世界も楽しむ。穴場のイタリアンでは青森の味覚を堪能し、さらなる絶景を求めて十和田湖へ。遊覧船からの夏ならではの絶景を堪能し、蔦温泉へ。「1000年の秘湯」と呼ばれる宿で、名曲も生まれた部屋で過ごす。
そして早朝、鏡のように八甲田の山々を映す蔦沼で、日の出の絶景を拝む。さらに足をのばし、八甲田山へ。ロープウェーで山頂に上がり、夏の絶景を望む。さらに散策路を進んで、田茂萢岳(たもやちだけ)湿原へ。八甲田の山々とそれらを映す湿原の水面の絶景に酔いしれる。下山して、萱野高原へ。新緑の絨毯を敷き詰めたような高原から、八甲田の山々を一望する絶景ポイントを巡る。

新御三家の野口五郎と、おニャン子クラブの新田恵利、元AKBの秋元才加の元アイドル3人で巡るのは、人気の避暑地・信州! 白馬では熱気球に乗って、地上30メートルから北アルプスの山々の絶景を楽しむ。 さらに長野オリンピックで日本ジャンプチームが金メダルに輝いた、白馬ジャンプ競技場へ。リフトでスタート地点へ登り雄大な景色を堪能する。
安曇野では、穂高の天然水を使ったそばに舌鼓を打ち、広大な敷地に1日12万トンもの湧水をたたえるわさび農場も訪れる。 そして、緑に囲まれた純白の白骨温泉へ。手つかずの自然の静寂の中で、名湯の源泉かけ流しの贅沢に浸る。 さらに翌日は上高地へ。穂高連峰や焼岳など雄大な自然を望む。

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こちらも、少しでも光太郎智恵子にふれてほしいものです。

ちなみに27日の月曜日にも、BSジャパンさんで「にっぽん!いい旅「夏の青森!完全制覇」」の放映がありますが、こちらは昨年放映されたものの再放送で、「乙女の像」にはふれていなかったと思います。


テレビ放映の場合、事前に細かな内容が告知されないと、実際に視聴するまで光太郎智恵子にふれるかどうかわかりません。そのため、このブログで事前の紹介が漏れるケースが多く、残念に思っております。

7月19日の日曜日には、BSジャパンさんで「美しき日本百景~Beautiful Japan」という番組が「北の春  新緑と清流 ~青森 十和田湖・・奥入瀬~」でした。「乙女の像」にふれるかどうか微妙だな、と思って、このブログでご紹介しませんでしたが、いざ放映されてみると、都合1分間ほどでしたが、像の紹介がありました。

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昨夜はNHK総合さんで「歌謡コンサート」。サブタイトルが「手紙で綴(つづ)る愛の名曲集」。こちらは直前にスタッフさんのブログで光太郎智恵子にふれることが紹介されましたが、ネット上の番組紹介のページではそれはありませんでした。

演奏の合間に、大竹しのぶさんが、さまざまな「手紙」の朗読をなさいました。寺山修司から九條今日子への手紙、南極観測隊員の妻から隊員である夫への手紙、福岡在住の一般女性が最近書いた70年前に戦争で亡くなった夫への手紙などなど。そして「手紙」ではありませんが、『智恵子抄』にも収められた光太郎詩「あなたはだんだんきれいになる」の一節も朗読されました。

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大竹さんといえば、平成14年(2002)に、野田秀樹作の一人芝居「売り言葉」で智恵子を演じられています。昨夜はその大竹さんも歌を披露。中島みゆきさん作詞作曲、研ナオコさんの歌唱でヒットした「かもめはかもめ」のカバーでした。


日々、洪水のように制作され続けるテレビ番組、いちいち事前に細かな内容を告知するのは不可能でしょうが、各局番宣担当の皆さん、できる限りをお願いしたいものです当方もなるべく細かい情報収集に心がけます。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月22日

昭和29年(1954)の今日、所得税、地方税を銀行振り込みで納めました。

昭和27年(1952)、十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)制作のため、岩手太田村から上京した光太郎でしたが、住民票はしばらくそのまま太田村に残し、したがって、税金も太田村に納めていました。それもこの年までで、翌年には東京に住民票を戻します。合併による太田村消滅もその理由ですし、もはや自らの命が永くないことを悟っていたようです。

練馬区立美術館「舟越保武彫刻展 まなざしの向こうに」/碌山美術館「制作の背景-文覚・デスペア・女- Love is Art Struggle is Beauty」。

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光太郎と縁の深かった彫刻家2人を中心とした企画展をご紹介します。

まずは舟越保武。戦後には岩手県立美術工芸学校(現・岩手大学)で教鞭を執り、たびたび同校に招かれた光太郎と交流を持ちました。それ以前の、戦前には長女(このブログでたびたびご紹介している末盛千枝子さん)の名付け親になってもらったり、光太郎歿後の昭和37年(1962)には「長崎26殉教者記念像」で高村光太郎賞を受賞されたりしています。 
期   日 : 2015/07/12(日)~2015/9/6(日)  (すでに始まっています)
場   所 : 練馬区立美術館 練馬区貫井1丁目36番16号
休 館 日 : 月曜日(ただし、7月20日(月曜・祝日)は開館、翌21日(火曜)休館)
時   間 : 午前10時~午後6時 ※入館は午後5時30分まで
観 覧 料 : 一般800円、高校・大学生および65~74歳600円、中学生以下および75歳以上無料、

舟越保武は1912年(大正元)に岩手県に生まれ、盛岡中学時代にロダンに憧れて彫刻家を志しました。大理石や砂岩などの石による清楚な女性像で知られる舟越がはじめて石彫に取り組んだのは練馬に在住していた1940年(昭和15)のことであり、舟越は練馬ゆかりの作家でもあります。
1950年(昭和25)以降は自らのカトリック信仰に裏付けられた宗教的主題の作品で独自のスタイルを確立しました。それらは崇高な美しさをたたえており、他の具象彫刻作品とは一線を画するものです。とりわけ、長崎市に設置された《長崎26殉教者記念像》や《原の城》、《ダミアン神父》は、彼の代表作というだけでなく、戦後日本の彫刻を代表する重要な作品の一つといえるでしょう。 1987年(昭和62)に病気のために右半身不随となりましたが、その後10余年にわたり左手で制作を続け、それまでとは異なる迫力を持つ作品を生み出しました。
本展では、代表的な彫刻作品約60点に加え、初公開を含む多数のドローイングを展示し、舟越保武の生涯にわたる彫刻の仕事を回顧いたします。


関連行事 ※要事前申込 いずれも往復ハガキまたはEメールでお申し込み。

 記念講演会「舟越保武の彫刻:造形性をめぐって」 
   日時 7月25日(土曜) 午後3時~
   講師 橋幸次(日本大学芸術学部教授)
  
 記念講演会「手で見るという事―私の舟越保武体験―」   
   日時 8月8日(土曜) 午後3時~
   講師 萩原朔美(多摩美術大学造形表現学部教授)
  
 声優、銀河万丈による読み語り  【貫井図書館共同主催】
   日時 8月29日(土曜) 午後3時~
  
 <美術講座>石彫「身体の一部を彫ってみよう」
   日時 8月8日(土曜)、9日(日曜)【2日制】
      両日とも、午前10時30分~午後5時
   講師 石井琢郎(彫刻家)

 映画上映会「日本二十六聖人 われ世に勝てり」
  (1931年、90分、製作:平山政十、弁士:小崎登明修道士)
   日時 8月30日(日曜) 午後3時~


申し込み不要の関連行事

学芸員によるギャラリートーク
   日時 8月1日(土曜)、15日(土曜) 両日とも、午後3時~
 記念コンサート
   日時 8月22日(土曜) 午後3時~
   演者 小池ちとせ(ピアノ・武蔵野音楽大学准教授)
      河野めぐみ(メゾソプラノ・藤原歌劇団団員/武蔵野音楽大学講師)

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続いて、光太郎の盟友だった碌山荻原守衛。 
期   日 : 2015/08/1(土)~2015/11/8(日)  イメージ 2
場   所 : 碌山美術館 長野県安曇野市穂高5095-1
休 館 日 : 会期中無休
時   間 : AM9:00~PM4:10 (入館は30分前まで)
観 覧 料 : 大人 700円 高校生 300円 小中学生 150円

荻原守衛(号:碌山 1879-1910年)の残した傑作《女》(1910年)は、相馬黒光への思いが制作の動機となっています。この作品をより深く理解する上で不可欠なのが《文覚》(1908年) 《デスペア》(1909年)の二つの作品です。鎌倉の成就院に自刻像として伝わる木像に、文覚上人の苦悩を見て取り制作した《文覚》、女性の悲しみに打ちひしがれる姿に文字通り絶望(despair)を表わした《デスペア》には、当時の荻原の胸中が重ねられています。最後の作品 《女》には、それらを昇華した高い精神性が感じられます。それはまた人間の尊厳の表象にも
つながるものなのです。
個人的な思いを元にして作られた作品が普遍的な価値あるものとなっていることは、百年前の作品が現代の我々の心に響いていることからも容易にうなずくことができます。作品に普遍的価値をもたらした荻原の精神的な深さと芸術の高さ、またそれらの当時における新しさとを、多くの方々に感じ取っていただこうと本企画展を開催いたします。


「文覚」、「デスペア」、「女」。それぞれ、光太郎が激賞した守衛の作品の題名です。

以下、光太郎の詩「荻原守衛」(昭和11年=1936)です。

  荻原守衛

単純な子供荻原守衛の世界観がそこにあつた、
坑夫、文覚、トルソ、胸像。
人なつこい子供荻原守衛の「かあさん」がそこに居た、
新宿中村屋の店の奥に。

巌本善治の鞭と五一会の飴とロダンの息吹とで荻原守衛は出来た。
彫刻家はかなしく日本で不用とされた。
荻原守衛はにこにこしながら卑俗を無視した。
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単純な彼の彫刻が日本の底でひとり逞しく生きてゐた。

――原始、
――還元、
――岩石への郷愁、
――燃える火の素朴性。

角筈の原つぱのまんなかの寒いバラツク。
ひとりぼつちの彫刻家は或る三月の夜明に見た、
六人の侏儒が枕もとに輪をかいて踊つてゐるのを。
荻原守衛はうとうとしながら汗をかいた。イメージ 4

粘土の「絶望」はいつまでも出来ない。
「頭がわるいので碌なものは出来んよ。」
荻原守衛はもう一度いふ、
「寸分も身動き出来んよ、追いつめられたよ。」

四月の夜ふけに肺がやぶけた。
新宿中村屋の奥の壁をまつ赤にして
荻原守衛は血の塊りを一升はいた。
彫刻家はさうして死んだ――日本の底で。


この詩を刻んだ詩碑が同館の庭に建っています。ここ最近、毎年4月22日の碌山忌の集いで朗読されてもいます。「絶望」が「デスペア」。上記のチラシに印刷されている彫刻です。

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それぞれぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月23日

昭和56年(1981)の今日、集英社から円地文子監修『近代日本の女性史 第十巻 名作を彩るモデルたち』が刊行されました。


この中で作家の金井美恵子さんが智恵子の章を約40ページ担当されています。

函に描かれているのは、日本画家、故・大山忠作氏の「智恵子に扮する有馬稲子像」です。

他の「モデル」は、有島武郎『或る女』の佐々城信子、徳富蘆花『不如帰』の大山信子、永井荷風「風ごこち」「矢はずぐさ」の藤蔭静枝、谷崎潤一郎『痴人の愛』の小林せい子、そして竹久夢二の絵のモデルとなった山田順子です。

東京都美術館「伝説の洋画家たち 二科100年展」。

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東京都美術館さんで開催中の展覧会。主に絵画の分野で光太郎と縁の深かった諸作家の作品が多数展示されています。 題して「二科100年展」。大正3年(1914)に創立され、今年、100回展を迎える在野の美術団体・二科会の回顧展です。

二科会には第6回展から彫刻部が置かれ、光太郎は好意的に紹介していました。

二科の彫刻は数量的に小さい割にしつかりしてゐる。藤川勇造氏、ザツキン氏、渡邊義知氏等は十分研究に値する。二科の絵画部には新感覚の最先端から超現実派の新鋭まで存在するが、彫刻の方ではザツキン氏を除いては、概してハイカラではあるが素朴質実な道を歩いて居る。(「上野の彫刻鑑賞」 昭和4年=1929)

二科の彫刻部は一見渾沌としてゐるやうであるが、そのハイカラ性は現社会の所謂インテリゲンチヤ層の嗅覚に属する基調を持つてゐる。何処かブツキツシユであり、何処か中間的であり、何処か示唆的であり、何処か国際貿易的であり、何処か知的感傷性を持つて居り、また何処かに現社会の謂ふ所のエログロ的感電の萌芽が見える。まだ概して此の部の人達は消極的にしか、或は内部的にしか仕事してゐないからすべて之等の特性も表面に露骨には出てゐない。けれども嗅ぎわければさういふ匂がするのである。此の部がもつと隆盛になり、もつと多種の要素が加はつてその特色の発揮せられるのも遠くないだらうと思はれる処に興味がある。(「上野の彫刻諸相」 昭和5年=1930)


さて、展覧会概要です。

伝説の洋画家たち 二科100年展 Legendary artists of Japanese Western Painting The Centennial of the NIKA Exhibition

期   日 : 2015年7月18日(土) ~ 9月6日(日)  (すでに始まっています)
場   所 : 東京都美術館 企画棟 企画展示室 東京都台東区上野公園8-36
休 館 日 : 月曜日
時   間 : 9:30~17:30 (入室は閉室の30分前まで)  金曜日は9:30~21:00
観 覧 料 : 前売券  一般 1,300円 / 学生 1,000円 / 高校生 600円 / 65歳以上 800円
         当日券  一般 1,500円 / 学生 1,200円 / 高校生 800円 / 65歳以上 1,000円

当館創設の機をもたらした美術団体展の中でも在野の雄であった二科会。岸田劉生、佐伯祐三、小出楢重、関根正二、古賀春江、藤田嗣治、松本竣介、岡本太郎、東郷青児など、実に様々な作家たちが発表し、海外からはマティスらも参加した二科会の100年の歴史から、20世紀の日本美術史を展観します。

関連行事 : イブニングレクチャー 19:00~19:30  聴講無料 ただし本展観覧券(半券可)が必要
 7月24日(金)   「100回展、そして…」 生方純一(公益社団法人二科会 常務理事)
 7月31日(金)    「二科草創期の個性派たち」 川内悟(公益社団法人二科会 常務理事)
 8月7日(金)    「戦後からの二科会」 松室重親(公益社団法人二科会 常務理事)
 8月14日(金)   「伝説の洋画家たち 二科100年展」の見どころ 平方正昭(東京都美術館 学芸員)
 8月21日(金)   「伝説の洋画家たち 二科100年展」の見どころ 平方正昭(東京都美術館 学芸員)
 8月28日(金)   「伝説の洋画家たち 二科100年展」の見どころ 平方正昭(東京都美術館 学芸員)


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「光太郎と縁の深かった諸作家」と書きましたが、出品リストで見ると、以下の名前が挙げられます。

有島生馬、石井柏亭、岸田劉生、熊谷守一、坂本繁次郎、津田青楓、中川一政、藤川勇造、藤田嗣治、松本竣介、村山槐多、安井曾太郎、山下新太郎、萬鉄五郎、アンリ・マティス、などなど。


9月~11月には大阪市立美術館、11、12月で福岡の石橋美術館への巡回もあります。ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月24日

昭和2年(1927)の今日、長野県小諸の懐古園に島崎藤村の「千曲川旅情の歌」詩碑が除幕されました。

碑面は藤村の自筆原稿から作ったブロンズのパネル。鋳造は光太郎の実弟にして、のちに鋳金分野で人間国宝となる高村豊周です。今でこそブロンズパネルの文学碑は珍しくなくなりましたが、この藤村碑をもってこの技法が確立されました。

当方の30年以上前のアルバムに、懐古園の入場券が貼り付けてありました(笑)。下の写真が藤村碑です。

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東京都美術館「伝説の洋画家たち 二科100年展」報道。

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昨日ご紹介した、東京都美術館さんでの「「伝説の洋画家たち 二科100年展」について、いろいろと報道されていますので、ご紹介します。

まず『日本経済新聞』さん。22日の水曜日、文化面にてカラーで紹介されています。光太郎の名も。

 明治末に高村光太郎が評論「緑色の太陽」で芸術家の表現の自由を高らかに宣言してから4年。二科会では留学帰りの画家らが中心となり、海外で吸収した新しい美術を世に問うた。

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光太郎自身は二科会には所属しませんでしたが、昨日ご紹介したとおり、縁の深い画家・彫刻家が名を連ねています。彼等が光太郎の「緑色の太陽」に触発されたであろうことは想像がつきます。その二科展に対して、光太郎は好意的な展覧会評も書きました。

ちなみに「緑色の太陽」は、明治43年(1910)、『スバル』に発表された日本初の印象派宣言ともいわれるもので、以下のような部分があります。
 
 僕は芸術界の絶対の自由(フライハイト)を求めてゐる。従つて、芸術家のPERSOENLICHKEITに無限の権威を認めようとするのである。あらゆる意味に於いて、芸術家を一箇の人間として考へたいのである。
 
 人が「緑色の太陽」を画いても僕は此を非なりとは言はないつもりである。僕にもさう見える事があるかも知れないからである。「緑色の太陽」がある許りで其の絵画の全価値を見ないで過す事はできない。絵画としての優劣は太陽の緑色と紅蓮との差別に関係はないのである。この場合にも、前に言った通り、緑色の太陽として其作の格調を味ひたい。


続いて『産経新聞』さん。21日(火)の記事です。

小倉智昭さん、「二科100年展」を絶賛

 人気キャスター、小倉智昭さん(68)が21日、東京都台東区の東京都美術館で開催中の展覧会「伝説の洋画家たち 二科100年展」を訪れた。東郷青児や岡本太郎ら多くの芸術家が発表の舞台としてきた二科展の作品約120点を鑑賞し、「100年通してみられる機会はそうない。面白い」と絶賛した。
 小倉さんは鑑賞後、岡本太郎の作品「裂けた顔」(昭和35年、川崎市岡本太郎美術館蔵)を前に、「大阪万博の『太陽の塔』は有名だが、その10年前に二科展に出されていたとは。岡本作品はあまり外に出てこないので貴重」と感慨深げだった。
 日本三大公募展の1つ「二科展」は今年9月で100回を迎える。

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産経さんは同展の主催団体に名を連ねており、紙面での紹介にも力を入れているようです。先週には開催告知の大きな記事が出ましたし、一昨日には同展出品作の紹介「【伝説の洋画家たち 二科100年展】(上)岸田劉生 徹底した写実が生む神秘性」という記事も載りました。「(上)」ですので、さらに続きが出るのでしょう。


さて、「伝説の洋画家たち 二科100年展」ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月25日

明治45年(1912)の今日、詩「N――女史に」を執筆しました。

この年(ただし7月30日に大正改元)9月1日発行の雑誌『劇と詩』に発表されました。

   N――女史に

いやなんです
あなたの往つてしまふのが――
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あなたがお嫁にゆくなんて
花よりさきに実(み)のなるやうな

種(たね)よりさきに芽の出るやうな
夏から春のすぐ来るやうな
そんな、そんな理屈に合はない不自然を
どうかしないで居てください
 
私の芸術を見て下すつた方
芸術の悩みを味つた方
それ故、芸術の価値を知りぬいて居る方
それ故、人間の奥底の見える方
そのあなたが、そのあなたが
――ああ、土用にも雪が降りますね――
お嫁にもうぢき行く相な
 
型のやうな旦那さまと
まるい字を書くそのあなたと
かう考へてさへ
なぜか私は泣かれます
小鳥のやうに臆病で
大風のやうにわがままな
あなたがお嫁にゆくなんて
 
いやなんです
あなたの往つてしまふのが――
 
なぜさう容易(たやす)く
さあ何と言ひませう――まあ言はば
その身を売る気になれるんでせう
さうです、さうです
あなたは其の身を売るんです
一人の世界から
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万人の世界へ
そして、男に負けて子を孕んで
あの醜(みにく)い猿の児を生んで
乳をのませて
おしめを干して
ああ、何という醜悪事でせう
あなたがお嫁にゆくなんて
まるで さう
チシアンの画いた画が
鶴巻町へ買喰ひに出るのです
いや、いや、いや
いやなんです
あなたの往つてしまふのが――
 
私は淋しい、かなしい
何といふ気はないけれど
恰度あなたの下すつた
あのグロキシニアの
大きな花の腐つてゆくのを見るやうな
私を棄てて腐つて行くのを見るやうな
空を旅してゆく鳥の
ゆくゑをじつと見てゐる様な
浪の砕けるあの悲しい自棄のこころ
はかない、淋しい、焼けつく様な
それでも恋とはちがひます
――そんな怖(こは)いものぢやない――
サンタマリア!
あの恐ろしい悪魔から私をお護り下さい
ちがひます、ちがひます
何がどうとは素より知らねど
いや、いや、いや
いやなんです
あなたの往つてしまふのが――
おまけに
お嫁にゆくなんて
人の男の心のままになるなんて
 
外にはしんしんと雨がふる
男には女の肌を欲しがらせ
女には男こひしくならせるやうな
あの雨が――あをく、くらく、
私を困らせる雨が――

のち、この詩は大正3年(1914)刊行の詩集『道程』に収められた際に「――に」と改題、細部もいろいろと手が入ります。さらに昭和16年(1941)には詩集『智恵子抄』の巻頭を飾ることとなります。その際の題名は「人に」と帰られました。


   人に

いやなんです
あなたのいつてしまふのが――

花よりさきに実のなるやうな
種子(たね)よりさきに芽の出るやうな
夏から春のすぐ来るやうな
そんな理窟に合はない不自然を
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どうかしないでゐて下さい
型のやうな旦那さまと
まるい字をかくそのあなたと
かう考へてさへなぜか私は泣かれます
小鳥のやうに臆病で
大風のやうにわがままな
あなたがお嫁にゆくなんて

いやなんです
あなたのいつてしまふのが――

なぜさうたやすく
さあ何といひませう――まあ言はば
その身を売る気になれるんでせう
あなたはその身を売るんです
一人の世界から
万人の世界へ
そして男に負けて
無意味に負けて
ああ何といふ醜悪事でせう
まるでさう
チシアンの画いた絵が
鶴巻町へ買物に出るのです
私は淋しい かなしい
何といふ気はないけれど
ちやうどあなたの下すつた
あのグロキシニヤの
大きな花の腐つてゆくのを見る様な
私を棄てて腐つてゆくのを見る様な
空を旅してゆく鳥の
ゆくへをぢつとみてゐる様な
浪の砕けるあの悲しい自棄のこころ
はかない 淋しい 焼けつく様な
――それでも恋とはちがひます
サンタマリア
ちがひます ちがひます
何がどうとはもとより知らねど
いやなんです
あなたのいつてしまふのが――
おまけにお嫁にゆくなんて
よその男のこころのままになるなんて


詩としての完成度はこちらの方が高いといえます。しかし、原型の「N――女史に」の方が、ある意味、直裁に感情をぶつけている生々しさが感じられます。

改稿の際に削除された「あの醜(みにく)い猿の児を生んで/乳をのませて/おしめを干して」といった部分や、改稿後は単に「サンタマリア」という聖母マリアへの呼びかけだけになっている部分が、「サンタマリア!/あの恐ろしい悪魔から私をお護り下さい」と、恋の妄念、我執に囚われる自らの救済を乞い願う内容だったりと。「あの恐ろしい悪魔」は、智恵子ではありません。念のため(笑)。

半藤一利『老骨の悠々閑々』。

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新刊です。 

老骨の悠々閑々

2015/07/13 半藤一利著 ポプラ社 定価1,600円+税

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著者の半藤氏は、保守派の論客として知られていますが、靖国神社へのA級戦犯合祀には極めて批判的であったり、昭和天皇の戦争責任についても否定しなかったりなど、幼稚な右翼とは一線を画しています。今年は戦後70年ということで、書店の店頭に関連の特設コーナーなどが設けられていることが多いのですが、『日本のいちばん長い夏』など、氏の著書や編著なども平積みで並んでいます。

さらに氏の奥様は夏目漱石の孫にあたり、『漱石先生ぞな、もし』などの漱石関連の著書も多数あります。本書も七話に分かれているうちの「第三話 漱石『草枕』ことば散歩」がまるまる漱石がらみですし、他の章でも折に触れ、漱石の話が出てきます。

先週の『産経新聞』さんに書評が載りました。
 

【編集者のおすすめ】85歳の啖呵にしびれる 『老骨の悠々閑々』半藤一利著

 85歳にして、いまなお旺盛な執筆活動を続ける半藤一利氏。その創作の傍らには版画がありました。資料を読んだり原稿を書くことに疲れたりすると、版木に向かい、気持ちをリセットしていたそうです。打ち合わせでご自宅にお伺いしたときに、アトリエから持ってきてくださった秘蔵の版画の数々が実に素晴らしく、多くの方に見ていただきたいと思ったのでした。
 本書は「昭和」を描く作家として知られる氏が、博識と教養を駆使して近代文学、文化についてユーモラスに論じた書き下ろし原稿と単行本未収録の随筆、それに数々の版画が彩りを添えた永久保存版の一冊となりました。
 なんと言っても秀逸なのが、言葉遊び。夏目漱石や芥川龍之介、樋口一葉のあざやかな啖呵(たんか)をひきあいに出し、「語彙を豊かに、バシバシ重ねてやらないと」と喝采を浴びせ、昨今の紋切り型表現の多用や言葉狩りの風潮を風刺します。
 一方で、高村光太郎の詩「根付(ねつけ)の国」をひきつつ、今の日本人を“茶碗のかけら”のようだと評します。「何となく思考を停止し、単純で力強い答えにすがりつくという風潮が今の日本にある。歴史としての戦争は遠くなったが、亡国に導いた戦争の悲惨さと非人間的残酷さ、もう二度としてはならないという思いと願いとは、決して消し去ってはいけない」といいます。戦後70年、何かときな臭い情勢に、自らを老骨とうそぶく著者の軽やかな言葉が、時に重く響きます。(ポプラ社・1600円+税)
 ポプラ社一般書編集局 木村やえ


というわけで、先週も別件でご紹介した光太郎詩「根付の国」が取り上げられています。

  根付の国

頬骨が出て、唇が厚くて、眼が三角で、名人三五郎の彫つた根付(ねつけ)の様な顔をして
魂をぬかれた様にぽかんとして
自分を知らない、こせこせした
命のやすい
見栄坊な
小さく固まつて、納まり返つた
猿の様な、狐の様な、ももんがあの様な、だぼはぜの様な、麦魚(めだか)の様な、鬼瓦の様な、茶碗のかけらの様な日本人


これとよく似ているのが、漱石や一葉、芥川が作品中に書いた啖呵や罵詈雑言だというのです。現代の社会通念上、不適切な表現も含みますが、原文を尊重し、そのままとします。

「ハイカラ野郎の、ペテン師の、イカサマ師の、猫被(ねこつかぶ)りの、香具師(やし)の、モモンガーの、岡つ引きの、わんわん鳴けば犬も同然な奴とでも云ふがいい」(『坊っちゃん』)

「仕かへしには何時でも来い、薄馬鹿野郎め、弱虫め、腰抜けの活地(いくじ)なしめ、」(『たけくらべ』)

「意地わるの、根性まがりの、ひねツこびれの、吃(どんも)りの、歯つかけの、嫌な奴め」(同)

「この悪党めが! 貴様も莫迦な、嫉妬深い、猥雑な、図々しい、うぬ惚れきつた、残酷な、虫の善い動物なんだろう。」(『河童』)

たしかに似ています。そして、こうした罵倒の仕方は、古典落語から学んだのではないかとのこと。

「揉みくちゃばばあ、ちり紙ばばあ、反故紙(ほごがみ)ばばあ、浅草紙ばばあ、落とし紙ばばあ、小半紙ばばあの端切らずばばあ、ってえんだ」(「山崎屋」)

光太郎も落語はよく聞いていたと推測できますし、『坊っちゃん』や『たけくらべ』も読んでいたと思われます。特に『坊っちゃん』の一節は、「ももんがあ」がかぶっています。ただ、明治期には「ももんがあ」を悪口に使う例はかなり一般的だったようではあります。

さて、半藤氏の筆は、「根付の国」から次のように展開します。

 この辛辣な批評、そのまま今の日本人に当てはまる。
 今年は戦後七十年、高村光太郎の詩に乗っかって、というわけではないが、猿の様な、狐の様な、自分の国の歴史を知らない日本人がまことに多くなった。大事なことは「過去」というものはそれで終わったものではなく、その過去は実は私たちが向き合っている現在、そして明日の問題であるということなのである。それなのに、何となく思考を停止し、単純で力強い答えにすがりつくという風潮が今の日本人にある。歴史としての戦争は遠くなったが、亡国に導いた戦争の悲惨さと非人間的残酷さ、もう二度としてはならないという思いと願いとは、決して消し去ってはいけないのである。

その通りですね。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月26日

昭和24年(1949)の今日、詩人・文芸評論家の野田宇太郎から野田の著書『パンの会』を贈られました。

郵便物の授受等を記録した「通信事項」というノートの記述です。

〔受〕市川二巳氏よりハカキ 菊池暁輝氏よりテカミ(写真同封朗読会) 麻野和子さんといふ人よりハカキ及遺稿集「柊」 野田宇太郎氏より「パンの会」小包

『パンの会』はこの年7月10日、六興出版社から刊行され、光太郎も参加した明治末年の芸術運動、「パンの会」についての詳細を記しています。光太郎はこの労作を高く評価し、対談などでこれに触れています。

2年後に増補版として『日本耽美派の誕生』と改題、刊行されています。

8月5日には野田への礼状を書きました。

発掘!歴史に秘めた恋物語「〜高村光太郎と智恵子〜決して女神でない」。

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テレビ放映情報です。 

発掘!歴史に秘めた恋物語「〜高村光太郎と智恵子〜決して女神でない」

BSフジ・181 2015年8月3日(月)  22時00分~22時55分

高村光太郎が『智恵子抄』に描いた童女のような智恵子と美しい愛の物語。しかしその陰には智恵子の限りない苦悩が!そして光太郎と智恵子に訪れた奇跡とは?.
今から70年以上前の戦時中に売り出されベストセラーとなった一冊の詩集・智恵子抄。 作中では夫に献身的な愛を注ぎやがて精神を病んで死んでいく妻の姿が描かれた。 作者は詩人で彫刻家の高村光太郎。妻の名は智恵子。光太郎が美しく描いた智恵子は本当の智恵子の姿ではなかった。本当の智恵子はどんな女性だったのか。女優・石田えり、詩人・郷原宏とともに紐解いて行く。

出演者 勝村政信 石田えり 郷原宏(文芸評論家)


BSフジさんで、昨年始まった番組です。これまでに竹久夢二や谷崎潤一郎、岡本一平・かの子などを取り上げてきています。始まった段階で、タイトルを見て「いずれ光太郎智恵子を取り上げてほしいものだ」と思っていましたところ、5月くらいでしたか、当会顧問の北川太一先生から、8月3日オンエアで、番組制作会社のテレコムスタッフさんが取材に来る、というお話を聞きました。先生のお手元にある智恵子書簡などの資料を使うとのこと。当方も連絡をとってみましたが、結局こちらには協力要請は来ませんでした。

余談になりますが、秋に放映予定のNHKさんの番組でやはり光太郎智恵子が取り上げられます。そちらの協力要請は少し前にありました。また近くなりましたら詳細をお伝えします。

さて、「歴史に秘めた恋物語」。MCの勝村政信さん以外に、ゲスト二人のスタジオトークが入るというのは制作会社さんに伺い、どなたがご出演されるのかと気になっていましたが(妙な人に依頼が行って、番組をぶちこわされると困りますので……)、石田えりさんに郷原宏氏と知って、安心いたしました。

石田さんは、平成16年(2004)に、柄本明さんとの二人芝居「れもん」で智恵子役を演じられました。

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郷原氏は、昭和58年(1983)に、未来社から『詩人の妻 高村智恵子ノート』という書籍を刊行されています。もとは同社の雑誌『未来』に昭和55年(1980)から17回にわたり連載されたものです。

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また、平成10年(1998)、日本テレビ系列で放映された「知ってるつもり?! 高村智恵子」にもコメンテーターとしてご出演されました。

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当方、今回は制作に関わっていませんので、どういう話になっているかわかりませんが、楽しみです。

ぜひご覧下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月27日

昭和22年(1947)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、ネズミがわなにかかりました。

当日の日記の一部です。

夜鼠ワナにかかる。一匹。

太田村の山小屋での7年間は、ネズミなどの動物や虫との戦いの日々でした。同じ月の日記にもたびたびネズミについての記述があります。「アンツウ」は殺鼠剤です。

鼠気息えんえんの状態にてあるきまはり居り、一匹。捕らえんとすればにげる。アンツウの為ならん。(7/9)

鼠大なるもの昼間出る、アンツウ入ソバ団子を五個つくりて所々に置く。中に唐辛子も入れる、(7/22)

後刻水汲みの時、鼠一匹井戸の中にて溺れてゐるのを発見、引き上げて南瓜の肥料に埋める。多分薬をくつた鼠ならん。井戸の蓋を必ずすることにする。(7/23)


この年の冬には、こんな短歌も詠んでいます。

毒物を置きて鼠にあたえむとしつつきびしき寒夜を感ず

わが前にとんぼがへりをして遊ぶ鼠の来ずて夜を吹雪くなり

十和田湖に行って参ります。

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今日から1泊2日で、青森は十和田湖に行って参ります。

光太郎が昭和20年(1945)から7年間を過ごした、岩手県稗貫郡太田村(現・花巻市)の太田地区振興会の皆さん、約40名が、明日、研修旅行的に十和田湖を訪れ、光太郎最後の大作彫刻である「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を見、十和田湖国立公園協会さんや、十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会さんなど地元関係者との交流を図るそうで、それに便乗します。

乙女の像観覧の他、遊覧船でのクルーズ、昨秋開館した「十和田湖観光交流センターぷらっと」の見学などを行うそうで、「ぷらっと」で地元の方々との交流会が行われ、その席上、当方の講演もプログラムに組み込まています。

まぁ、どうしても当方が参加しなければならないというわけでもないのですが、当方、片雲の風に誘われて漂白の思いやまぬ百代の過客を自認しておりまして、自宅兼事務所にくすぶっていると、そぞろ神が心を狂わせ、道祖神の招きにあって取るものも手につかない状態になることがしばしばあり、表八句は残しませんが、行って参ります。

冗談はさておき、こういうご縁は大切にせねば、という思いがありますので。

ついでに青森市民図書館さんで調べ物、さらに現地ではレンタカーを借りますので、浅虫温泉やら十和田湖畔の宇樽部やら、光太郎の足跡の残る場所をたどろうと考えています(奥入瀬渓流や蔦温泉、八甲田山麓の酸ヶ湯温泉などには昨年、足を運びました)。

ところで、十和田といえば、先頃、十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会さんの方から、地方紙『デーリー東北』さんのコピーを戴きました。先月の記事ですが、ご紹介します。
 

高村光太郎の図書貸し出し 蝦名さん、十和田湖畔の喫茶店に

 十和田市のNPO法人十和田奥入瀬郷づくり大学でガイドを務める蝦名隆さん(60)=三沢市=が、十和田湖を訪れる観光客に乙女の像の作者高村光太郎に親しんでもらおうと、関連図書約80冊を湖畔休屋の喫茶店「茶房憩」に貸し出した。年末まで同店に置く予定。
 蝦名さんが本を収集するきっかけは6年前、同法人のガイド養成研修を受講し、光太郎の像がなぜここにあるか説明できなければと思ったことから。
 最初は県内の古本屋を回って購入。最近はネット上での収集にも力を入れている。気軽に本を手に取ってもらえるようにと、喫茶店に設置を依頼。和紙が使われた1941年製本の「智恵子抄」の初版本をはじめ、全集や画集も含まれている。
 蝦名さんは「自分の本棚に飾っておくのももったいない。高村光太郎像が近くにあるので、寄ったついでに書に触れてほしい。光太郎のことを知って、好きになってくれればいいな」と十和田湖の活性化に期待を寄せた。

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蝦名氏とは、一昨年の智恵子の命日の集い・「レモン忌」でご一緒させていただきましたが、こういうことをなさったとは存じませんでした。素晴らしいと思います。また、こういう記事を載せて下さる『デーリー東北』さんも素晴らしいと思います。

ちなみに茶房憩さんは「ぷらっと」の向かい、遊覧船の桟橋広場の一角にある喫茶店で、当方も一度、花巻高村記念会の事務局の方とお邪魔したことがあります。今日か明日、余裕があればまた寄ってみたいと思っています。

というわけで、行って参ります!


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月28日

昭和23年(1948)の今日、茨城県取手町(現・取手市)の長禅寺に、光太郎が題字を揮毫した「開闡」(かいせん)郷土」碑が除幕されました。

取手には、戦前から光太郎と交流のあった詩人の宮崎稔が住んでおり、その父親で、地元の有力者にして文化人であった仁十郎も光太郎に親炙しました。その関係で、取手随一の古刹である長禅寺に建てらた碑に、光太郎の筆跡が使われました。

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他にも長禅寺には、やはり光太郎が題字を揮毫した「小川芋銭先生景慕之碑」(建立・昭和14年=1939)も現存します。

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当方が訪れた際、どちらも光太郎筆跡が使われていることが大々的に説明されておらず、ひっそりと建っていました。現在はどうなのでしょうか。



十和田湖に行って参りました。

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先ほど、青森方面1泊2日の行程を終えて、千葉の自宅兼事務所に帰り着きました。

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すみません。さすがに疲れました。詳細は明日以降、レポートいたします。

上記画像をご覧の上、内容をご想像下さい(笑)。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月29日

昭和26年(1951)の今日、花巻郊外太田村の山小屋を、盛岡の大村服飾学校の生徒、10名ほどが訪れました。

山林孤棲の生活を送る光太郎の生きざまに感銘を受けた岩手の教育者達が、たびたび生徒を連れて光太郎の山小屋や、近くの山口小学校を訪問し、光太郎の話を聴かせました。同校以外にも、やはり盛岡の生活学校、美術工芸学校、花巻町近辺の小中高校など。光太郎も若い世代との交流は喜んでいたようです。

大村服飾学校については、先月書いた「豚の頭を食う会」の記事をご覧下さい。

青森レポート(その1)。

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一昨日から昨日にかけ、1泊2日で青森に行って参りました。今日明日明後日でレポートいたします。

一昨日、東京駅発10時20分のはやぶさ13号(この列車を利用することが多々あります)に乗り込み、目指すは新青森駅です。そもそもの第一目的は、昨日行われた岩手県花巻市太田地区振興会の皆さんと、十和田湖国立公園協会さんや、十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会さんなど地元関係者との交流会に参加することでしたが、ついでに現地調査を、と考えておりました。

13時30分には、新青森駅に到着。予約していたレンタカーを借り、まずは青森市民図書館さんに向かいました。こちらには、地元紙『東奥日報』のマイクロフィルムが揃っており、十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)の関係で光太郎が青森を訪れた際の記事などを調べるのが目的でした。1年前には青森県立図書館さんに行き、昭和28年(1953)乙女の像除幕前後の記事などはコピーしてきたのですが、その時は時間がなく、昭和27年(1952)に、十和田湖の下見に行った際の記事などを調べることができませんでしたので、今回はそのリベンジでした。

乙女の像の建立は、当時の青森県知事にして太宰治の実兄、津島文治の肝煎りだったためか、下見の際にも記事が何度も出ていました。同行した草野心平の寄稿なども載っていました。

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さらに像の制作にかかっている最中の、昭和28年(1953)元日の紙面には、東京支局の記者による中野のアトリエ訪問記。こちらには光太郎の長い談話も収録されています。

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また、見出しには「乙女」の語。「乙女の像」という通称がいつ頃から使われるようになったのか、実は不明です。除幕された昭和28年(1953)10月の段階で、光太郎自身が青森市の野脇中学校で行った講演の中に、「乙女の像」の語が既に使われていますが、その源流がここに見えるように思いました。今回の談話の中には、以下の記述があります。

大体自然を性で区別すれば湖というのは女性になるが、十和田湖の場合は乙女ともいうべきもので本当に『聖』そのものだ。

湖の景観の中に、光太郎は「乙女」の姿を見ていたのです。

ただし、「乙女の像」という語は、固有名詞ではなく、一種の普通名詞―「騎馬像」「仁王像」のように、像のジャンルを表す語―として、光太郎以外の彫刻家による若い女性の像全般に使われていた形跡もあり、はっきりしたことは何とも言えません。この前後、各地に「××の乙女の像」といった彫刻がいくつか見られるのです。ただ、現代ではそれらの大半は忘れ去られており、光太郎の「乙女の像」のみが生き残っているという感じです。

さて、青森市民図書館さんでの調査を終え、次に向かったのは同じ青森市の浅虫温泉。市中心部から東に15㌔㍍ほどのところにある温泉地です。

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ここにあった「東奥館」という旅館に、光太郎が宿泊しました。十和田湖下見の際の昭和27年(1953)に1泊、乙女の像除幕の際の昭和28年(1953)には3泊しています。東奥館自体は既に無くなっていることは事前にネットで調べて分かっていましたが、とりあえず光太郎の滞在した場所ですので、その息吹が感じられるかと思い、行ってみました。

浅虫温泉は、陸奥湾沿いに開けた温泉地です。大正5年(1916)、竹久夢二が文通していた青森の少女と逢うためここを訪れたとのことで、夢二の歌碑が建っていました。

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さて、めざす「東奥館」という旅館が何処にあったのか、わかりません。そこで聞き込みを開始。まずは現代風のホテルの前で、宿泊客の車の誘導に当たっていた男性に尋ねましたが、解りませんでした。「こういうことなら古くからここに住んでいそうな人に訊くのがよかろう」と思い、目についた和菓子屋に入りました。これがビンゴ。「あのあたりにありました」と教えられたのが、何のことはない、当方が車を駐めた広い駐車場のあたりでした。たまたまその店内には、浅虫温泉街の古い写真も飾ってあり、許可を得て撮影させていただきました。

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こんな風に聞き込みなどをしていると、何だか、内田康夫氏原作のシリーズに登場する探偵・浅見光彦になったような気分でした。そういえば、浅見も時折、旅先でレンタカーを使っています。しかし、浅見は行く先々で美人の地元新聞記者や、眉目麗しい地元観光協会の女性職員などと懇意になりますが、当方はそういう機会にめぐまれません(笑)。逆に、浅見と違って海岸を歩いていても屍体を発見することもないので助かっていますが(笑)。

さて、「東奥館」があったというのはこの辺り。そう思って見ると、やはり感慨深いものがありました。

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近くには元の東北本線だった「青い森鉄道」の浅虫温泉駅。足湯もありました。

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その後、一路、この日の宿の十和田湖へ。この日は東北北部はまだ梅雨明けが宣言されておらず、雨中の運転でした。宿は3度目の宿泊となる十和田湖山荘さん。

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1泊2食付きで7,660円。それでいて十和田湖名物のヒメマスや、B1グランプリ獲得の「十和田バラ焼き」も出て、かなりお得です。

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温泉にゆっくり浸かり、旅先ではいつもそうですが、さっさと床につきました。

続きは明日。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月30日

大正2年(1913)の今日、光雲と共に東京美術学校に奉職し、同時に帝室技芸員を拝命した彫刻家、石川光明が歿しました。

石川は象牙彫刻で名を成しましたが、元々は神社仏閣の外装を手がける宮彫師の家系。のちに木彫に転じています。昨年から全国を巡回中の「超絶技巧! 明治工芸の粋」展でも、光雲作品と共に石川の作品も展示されています。

当方の住む千葉県香取市佐原地区の大祭は夏と秋、年に2回行われていますが、引き回される山車の彫刻の中に、石川の家系が関わったものが複数あります。

青森レポート(その2)。

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青森レポートの2回目です。

7月29日、定宿にしている十和田湖山荘さんで、朝、5時前に目覚めました。それでも前夜8時過ぎには眠ってしまったので、睡眠時間は十分です。旅先ではいつもこんな感じです。早速、温泉で朝風呂。その後、朝食は7時半ということなので、その前にいったん宿を出て、あちこち動きました。今回はレンタカーを借りていたので、少し足が伸ばせます。

まず、何はなくとも湖畔の乙女の像。前日は宿に伝えてあったチェックイン予定時刻を過ぎての十和田湖到着で、もう日も暮れていましたので、行っていませんでした。親子連れなど、他にもすでに散策している人がいましたが、いつもの昼間のように混雑はなく、ゆっくり見られました。

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波打ち際には鴨がのんびりと餌を探していました。

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さて、像と対面。昨秋以来、9ヶ月ぶりです。

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その顔は、やはり智恵子を彷彿とさせられます。

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そして若き日に作ったブロンズの「手」にも通じる像の手。

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光太郎は、二人の像の間にできるこの空間に注目してほしい、と語っていました。

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少し引いて、平成6年(1994)に建立された「十和田湖畔の裸像に与ふ」詩碑を通しての眺め。

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こちらが詩碑の碑面。

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その後、近くの十和田神社に参拝、道中安全と、この地の平安を祈願しました。

まだ朝食までには時間があるので、やはり湖畔の宇樽部地区に車を向けました。ここには「東湖館」という宿がかつてあり、昨日レポートした浅虫温泉の「東奥館」同様、光太郎が昭和27年(1952)の下見の際に1泊、乙女の像の除幕式があった翌28年(1953)にも1泊しています。除幕の際は日記には「宇樽部泊」としか書いていないのですが、おそらくここでしょう。

浅虫の「東奥館」はもはや建物自体なくなっていますが、宇樽部の「東奥館」は、昭和50年代ぐらいで営業はやめたものの、当時の建物が残っています。そうと気づかずに何度かその前を通っていたのですが、今回、事前に調べてそれを知り、見に行くことにしていました。

乙女の像のある休屋地区から5㌔㍍あまり、ものの数分で着きました。平成18年(2006)にトンネルが開通したためです。

こちらが東湖館です。

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看板も残っていました。「A級旅館」とあります。当時の格付けでしょうが、それに恥じない立派な造作です。大正13年(1924)の建築で、皇族方や大町桂月なども宿泊したとのこと。また、昭和42年(1967)公開、加山雄三さんや司葉子さんが出演された映画「乱れ雲」のロケに使われたそうです。監督は成瀬巳喜男。前年には「智恵子抄」をモチーフに使い、安達太良山の麓の福島県本宮を舞台にした「こころの山脈」(山岡久乃主演)の監督も務めています。不思議な縁を感じました。

周囲を歩いていろいろな方向から撮影しました。非常にいいレトロな感じです。せっかくの由緒ある建物ですが、現在は廃墟。何とか有効活用する方法はないものでしょうか。

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↓おそらくこの棟に光太郎も宿泊したのではないかと思いました。

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イメージ 19昭和27年(1952)の下見は6月17日。前夜は蔦温泉に1泊し、この日は船で十和田湖を一周しました。翌日も湖を船で渡り、秋田県側の和井内でヒメマス養殖場を見学、休屋の観光ホテルで1泊しています。

昭和28年(1953)の乙女の像除幕に際し、光太郎の近くにいて、下見にも同行したり、像の製作中も何くれとなく世話を焼いたりした草野心平が作った詩「高村光太郎」の一節です。

たしかにおれは十和田の宿屋での晩。智恵子の裸かをつくろうと決めた。
  (略)
湖の。あの一種の絶景を見て。
あの絶景のなかへなら女の裸をつくりたいと。
それはほんとうにそう思つた。
そしてその晩。
自分の部屋へもどつてきて。電気を消して。
独り寝つかれずにじつとしていたとき。智恵子はおれにささやいた。
この湖のほとりなら。あたくしをつくつて下さい。
そんなささやきをきいた思いをおれがして。いや。おれがきつぱり決めたので智恵子がそんな気持ちになつたのかもしれなかつた。
  (略)
あの十八のモデルのからだを媒体にしておれは智恵子の精神をつくる。
精神は肉体であるその実在を。
かたちにする。


この「十和田の宿屋」というのが、東湖館か、翌日に泊まった休屋の観光ホテルのどちらかです。

東湖館の前はすぐ湖畔です。

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さて、東湖館を後に、十和田湖山荘に戻りました。帰りはトンネルのできたバイパスでなく、光太郎も車で通ったであろう御倉半島を通る旧道を使いました。途中にあったキャンプ場から撮った宇樽部の集落がこちら。

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さて、宿に戻って朝食、チェックアウト。メインの目的である岩手県花巻市太田地区振興会の皆さんと、十和田湖国立公園協会さんや、十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会さんなど地元関係者との交流会に向け、ふたたび休屋地区に車を走らせました。

会場となっている十和田市の施設「十和田湖観光交流センターぷらっと」に車を駐め、まだ時間があるので周囲を散策しました。

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「ぷらっと」の向かいにある「喫茶憩い」。先日のこのブログでご紹介しましたが、NPO法人十和田奥入瀬郷づくり大学でガイドを務める蝦名隆さんが貸し出した光太郎関連の蔵書が並んでいます。残念ながらまだ開店前でしたので、外から撮らせていただきました。

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秋田県寄りに建つ「十和田ビジターセンター」。初めて足を踏み入れました。

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動植物など、自然科学系の展示がメインなのですが、一角に古い写真が展示してありました。

乙女の像、建立当初の数年間、厳冬期には雪囲いをしていたという話は知っていましたが、このようにしていたと初めて知りました。当方のイメージとは違いました。

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女優の原節子さんが写っている写真もありました。原さんといえば、昭和32年(1957)の東宝映画「智恵子抄」(熊谷久虎監督)での智恵子役です。十和田湖にもいらしていたのか、と驚きました。


花巻の皆さんが到着する時刻が近づきましたので、いざ、「ぷらっと」へ。以下、また明日。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月31日

昭和30年(1955)の今日、茨城に住む実弟の藤岡孟彦から鉄道便で桃が届きました。


孟彦は光雲の四男ですが、藤岡家に養子に行きました。植物学を修め、戦後には茨城県の鯉渕学園に赴任。こちらは現在も公益財団法人農民教育協会鯉淵学園農業栄養専門学校として続いています。

旧制一高時代には明治の文豪・大町桂月の子息で、昆虫学者となった大町文衛とも机を並べています。大町桂月と言えば、乙女の像は、本来、桂月ら、十和田湖を広く世に紹介したりした三人の顕彰モニュメント。不思議な縁を感じます。

青森レポート(その3)。

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1泊2日の青森レポートの最終回です。イメージ 1

7月29日(水)、午前10時過ぎに、岩手花巻から太田地区振興会の皆さん40数名が、大型バス1台でご到着。皆さん、そろいのTシャツに身を包まれていました。背中には光太郎の言葉、「心はいつでもあたらしく」。筆跡も光太郎のそれです。

一行を率いる会長の佐藤定氏は、生前の光太郎をご存じで、秋に福島二本松で行われる智恵子命日の集い「レモン忌」にもご参加下さっています。さらに連翹忌にもご参加下さっているやはり生前の光太郎をご存じの浅沼隆氏、いつもお世話になっている㈶花巻高村光太郎記念会事務局の方々、他にも見知った顔が見えました。

迎えるは十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会さん、十和田湖国立公園協会さん、十和田湖観光婦人部さんの方々です。

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早速、観光交流センター「ぷらっと」内で、交流会が始まりました。

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主催者として、観光ボランティアの会の小笠原会長のご挨拶。小笠原会長は、蔦温泉売店のご主人もなさっています。さらに歓迎の挨拶、訪問の挨拶など、和気藹々とした雰囲気で進行しました。

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当方の講話の時間も取っていただきましたが、短時間でしたので、「ぷらっと」内部の見学の時間を十分に取っていただこうと思い、とりあえずレジュメは作っておいて、「詳しくは後で読んでおいて下さい」的な感じでさっさと切り上げました。

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「ぷらっと」内では、昭和28年(1953)の乙女の像除幕式を撮影したフィルムをデジタル化した映像が見られます。また、観光ボランティアの会の方が、今春刊行された書籍、『十和田湖乙女の像のものがたり』に使った古写真等をパネルにしたものをお持ち下さったので、そちらも並べて見ていただきました。皆さん、興味深そうにご覧になっていました。

その後、遊覧船に乗船。船内で昼食。朝方はまだ雨がぱらついていましたが、この頃になるとすっかり晴れました(東北北部もこの日には梅雨明けが宣言されています)。湖上を渡る風が爽快でした。

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こちらは船上からの乙女の像です。

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下船後、観光ボランティアの会の皆さんに案内していただき、乙女の像へ。大半の方は、初めてではないということでしたが、久しぶり、という方が多かったようです。浅沼さんなどは、50年ぶりとおっしゃっていました。

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その後は十和田神社に参拝、さらに土産物購入を兼ねて、十和田湖観光婦人部会長の森田玲子さんのお店などへ。さらに花巻の皆さんは再びバスに乗って、奥入瀬渓流に向かわれました。

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当方は十和田湖で花巻の皆さんを見送った後、十和田の一行とも別れ、レンタカーを駆って、新幹線に乗車すべく八戸へ向かいました。

青森の道路も、昔、やはりレンタカーで走った北海道の道路に似ていると思いました。距離感の部分が、です。交差点を曲がり、カーナビが「この先、しばらく道なりです」と言うので、「『しばらく』ってどのくらいだ?」と突っ込みを入れながら画面を見ると、「41.5㎞」だったり、その40㌔以上の間にすれ違った対向車が10台たらずだったり、コンビニが1軒もなかったり……。おかげで予定よりだいぶ早く八戸に着き、先払いだったレンタカーの料金が返ってきました。ラッキーでした。

そうそう、こちらは花巻の方に戴いたお土産です。

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花巻にある「パティスリー アンジュ」という洋菓子店の商品です。このお菓子が発売されたことや、お店の大体の場所は存じていましたが、まだ行ったことも買ったこともなかったので、ありがたく思いました。素朴な味のクッキーです。

というわけで、有意義な青森旅行でした。次の遠出は来週末。またまた東北で、宮城は女川に行って参ります。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月1日

昭和15年(1940)の今日、光雲が主任となって皇居前広場に建てられた「楠木正成銅像」を額面部分にあしらった官製葉書が発行されました。

当初は額面1銭5厘。その後、デザインや額面金額の改定を経ながら、昭和21年(1946)まで発行されました。

当方、光太郎の自筆葉書を30通ほど持っていますが、そのうちの10通がこの葉書です。下記は昭和17年(1942)、詩人の神保光太郎に宛てたものです。

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「「乙女の像」でつながる花巻市太田地区のみなさんと十和田湖関係者との交流会」報道。

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昨日までレポートしておりました青森十和田での、花巻市太田地区の皆さんと、十和田湖関係者の方々の交流会の様子が、地元紙2紙で報道されています。十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会の方に、画像ファイルを送っていただきました。

まずは『デーリー東北』さん。先月30日に載りました。

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生前の光太郎をご存じという方はやはり貴重な存在で、浅沼隆氏の談話が光っています。当方の談話も載せて下さいました。


続いて『東奥日報』さん。こちらは昨日、掲載されたとのこと。

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こちらにも浅沼さんの談話が。六十数年前の思い出です。

浅沼さんといえば、一昨年にNHKEテレさんで放映された「日曜美術館智恵子に捧げた彫刻 ~詩人・高村光太郎の実像~」にも出演していただきました。

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これからも光太郎の語り部として、ご活躍なさっていただきたいものです。


それにしても、偉人の顕彰には、こうした草の根の市民運動が欠かせません。今回の交流会の企画運営に当たられた皆さんの御努力には頭が下がります。そして、こうした輪が、もっともっと広がっていってほしいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月2日

昭和55年(1980)の今日、箱根彫刻の森美術館で「第1回高村光太郎大賞展」が始まりました。

同館他の主催で、現代具象彫刻の振興を企図して始められ、抽象彫刻を対象とした「ヘンリー・ムア大賞」と隔年で、昭和59年(1984)の第3回展まで開催されました。

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第24回女川光太郎祭/発掘!歴史に秘めた恋物語「〜高村光太郎と智恵子〜決して女神でない」。

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宮城県牡鹿郡女川町からのイベント情報です。

昭和6年(1931)、新聞『時事新報』に連載された紀行文「三陸廻り」執筆のため、光太郎は同年8月9日に東京を発って、約1ヶ月、石巻、金華山、女川、気仙沼、釜石、宮古と、主に船で旅をしました。それを記念して、毎年8月9日に行われている、光太郎顕彰のイベントです。

元々、中心になって運営なさっていた「女川光太郎の会」事務局長だった貝(佐々木)廣氏は、東日本大震災の津波で還らぬ人となってしまいました。その遺志を継ぎ、奥様の佐々木英子さんを中心に、細々とですが、続けられています。


そして今年。ネット上などに情報が出ず、電話で確認したのと、昨年の要項を参考にまとめてみました。こんな感じだと思います。

第24回女川光太郎祭

期 日 : 2015年8月9日(日)
時 間 : 午後2:00~
場 所 : きぼうのかね商店街 宮城県牡鹿郡女川町浦宿浜字十二神
内 容 : 
 献花
 光太郎紀行文、詩などの朗読
 講演 「高村光太郎、その生の軌跡 ―連作詩「暗愚小伝」をめぐって③―」
     高村光太郎連翹忌運営委員会代表 小山弘明 
 ギター・オペラ演奏 宮川菊佳(ギタリスト) 本宮寛子(オペラ歌手)
 太鼓演奏 女川潮騒太鼓 轟会


今年は日曜日にあたっていますので、多くの皆さんのご参加を期待しております。

女川は今年3月にJR石巻線の女川駅がリニューアルオープンし、だいぶ様変わりしているようです。かつて港に建っていた光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」プロジェクトも継続中。震災から5年目の夏、女川の様子をぜひご覧下さい。


さて、今夜、BSフジさんで、「発掘!歴史に秘めた恋物語「〜高村光太郎と智恵子〜決して女神でない」が放映されます。

先週、このブログでご紹介した段階では、番組公式サイトに詳細情報が出ていませんでしたが、その後、アップされました

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また、先週のオンエアを見ていましたら、合間にCM的に次週予告が入りました。

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ぜひご覧下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月3日

平成14年(2002)の今日、詩人の伊藤信吉が歿しました。

伊藤信吉(明39=1906~平14=2002)は、前橋市の出身。室生犀星や萩原朔太郎と縁の深かった詩人ですが、一時、群馬に住んでいた草野心平や光太郎とも交流があり、特に戦後は何度か光太郎詩集の編集に携わったり、光太郎没後は『高村光太郎全集』の編集にも関わったりしています。
 
晩年は群馬県立土屋文明記念文学館の初代館長に就任。そんなわけで同館には氏の旧蔵になる光太郎がらみの資料も数多く収蔵されています。
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