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「にほんごであそぼ」智恵子は東京に空が無いといふ「あどけない話」高村光太郎。

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テレビ放映情報です。 

にほんごであそぼ

NHK Eテレ 2019年7月30日(火) 6時35分~6時45分  再放送 17時00分~17:10

日本語の豊かな表現に慣れ親しみ、楽しく遊びながら『日本語感覚』を身につける番組。言葉を覚え始めるお子さんから大人まで、あらゆる世代の方を対象に制作しています。今回は、玉屋鍵屋、文楽/智恵子は東京に空が無いといふ「あどけない話」高村光太郎、ヨシタケ×山陽のおよおよ/「蟹工船」小林多喜二、歌/浜辺の歌、五十三次ロケンロー。

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公式サイトに拠れば、「今週は、リクエストを頂いた回の再放送です!」だそうで、調べてみましたところ、平成29年(2017)6月29日に初回放映のあった回のようです。

文楽の三代桐竹勘十郎さんによる人形浄瑠璃仕立てで、光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)の冒頭2行「智恵子は東京に空が無いといふ、/ほんとの空が見たいといふ。」が、50秒間で演じられます。

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この番組、時折、光太郎詩を取り上げて下さるので、ありがたい限りです。再放送や過去の映像の使い回しも多いのですが、それでもありがたく存じます。

ちなみにここ数年ですと、「人に」(大正元年=1912)、「道程」(大正3年=1914)、「」(大正2年=1913)、「冬が来た」(大正2年=1913)など。それらの回も再放送を望みますし、新作もどんどん作っていただきたく存じます。そして、主な視聴対象である小さいお子さん達に、光太郎の名と作品を刻みつけていただきたいものです。


ちなみに明晩はNHK BSプレミアムさんで、やはり「あどけない話」に関わる「偉人たちの健康診断東京に空が無い “智恵子抄”心と体のSOS」が放映されます。併せてご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

ロダンに対する敬愛の情が此の訳をさせたのは素よりの事である。面白づくと一緒に考へられては堪らない。

雑纂「「ランスの本寺」の正誤と訂正、其他」より 大正4年(1915) 光太郎33歳

翌年、単行書として刊行される光太郎訳の『ロダンの言葉』に関して。「面白づく」は「おもしろいというだけで、無責任にすること。興味本位」。そんなものではないのだよ、という宣言です。

岩手日報「風土計」。

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光太郎第二の故郷ともいうべき・岩手の地方紙『岩手日報』さん。生前の光太郎もたびたび寄稿しました。

その一面コラム「風土計」。たびたび光太郎の名を出して下さいますが、一昨日も。 

風土計 

ビールを愛した詩人は多いけれど、代表は高村光太郎だろうか。〈何もかもうつくしい/このビイルの泡の奮激も/又其(それ)を飮(の)むおれのこころの悲しさも〉
▼好きが高じて、飲み方にもこだわりがある。「ビールをのむ時つまみ物は本當(ほんとう)はいらない」。つまみは口寂しいから用意するだけで、なるべく味のない物がいい。のしイカなどよりも、「生胡瓜(きゅうり)ぐらゐがいい」と
▼詩人が好むビールやキュウリが今、ニュースで報じられている。記録的な日照不足で、ビール類の売れ行きが振るわない。キュウリをはじめとする夏野菜は病害や生育の遅れで、価格が5割も上がっているという
▼きょうの「大暑」も、はっきりしない天気になりそうだ。盛岡はそうでもないが、沿岸や関東地方は梅雨寒が続く。選挙の熱量がいまひとつだったのは、そのせいか
▼コーラやウーロン茶を日本で初めて詩にしたのは、光太郎と言われる。〈ウウロン茶、風、細い夕月〉。〈柳の枝さへ夜霧の中で/白つぽげな腕を組んで/しんみに己(おれ)に意見をする気だ/コカコオラもう一杯〉。飲み物に心の内を投影させる人だった
▼そのコーラなどの飲料も、今夏は販売の落ち込みが伝えられる。週間予報は曇りがちだが、土日には日照が戻りそうだ。冷えたビイルやコオラを文字に味わうだけで、ぎらつく夏の太陽が恋しくなる。



ビールをのむ時つまみ物は」云々は、随筆「ビールの味」(昭和11年=1936)。雑誌『ホーム・ライフ』に掲載された比較的長いもので、『高村光太郎全集』第20巻に収録されています。

下戸の当方、あまり実感がわきませんが「ビール党あるある」がけっこうちりばめられているようです。

曰く、

小さなコツプへちびちびついで時間をとつて飲んでゐるのは見てゐてもまづさうだ。(略)ビールは飲み干すところに味があるのだから飲みかけにすぐ後からまたつがれてしまつては形無しである。(略)ビールの新鮮なものになるとまつたくうまい。麦の芳香がひどく洗練された微妙な仕方で匂つて来る。どこか野生でありながらまたひどくイキだ。さらさらしてゐてその癖人なつこい。一杯ぐつとのむとそれが食道を通るころ、丁度ヨツトの白い帆を見た時のやうな、いつでも初めて気のついたやうな、ちよつと驚きに似た快味をおぼえる。麦の芳香がその時嗅覚の後ろからぱあつと来てすぐ消える。すぐ消えるところが不可言の妙味だ。(略)二杯目からはビールの軽やかな肌の触感、アクロバチツクな挨拶のやうなもの、人のいい小さなつむじ風のやうなおきやんなものを感じる。十二杯目ぐらゐになるとまたずつと大味になつてコントラバスのスタツカートがはひつて来る。からだがきれいに洗はれる。

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写真は昭和27年(1952)、戦前から行きつけだった三河島のトンカツ屋・東方亭で。たしかに目の前にピール瓶が並んでいますね(笑)。


「風土計」、コーラやウーロン茶にも言及されています。コーラは大正元年12月の雑誌『白樺』に載った詩「狂者の詩」、ウーロン茶は同じ年の雑誌『朱欒』に載った詩「或る宵」に登場します。

ところで、「風土計」冒頭の「何もかもうつくしい/このビイルの泡の奮激も/又其(それ)を飮(の)むおれのこころの悲しさも」という一節、出典が分かりません。ご存じの方はご教示いただければ幸いです。


【折々のことば・光太郎】

何しろ非常に頭のいい人ですから、うつかりした質問でもしようものなら、その質問の下らなさ加減で、お前はもう駄目だ、試験なんか受けなくてもいいと言はれさうな気がして、質問したい事があつても却々(なかなか)切り出せなかつたものです。

談話筆記「頭の良い厳格な人――鷗外追悼――」より
 大正11年(1922) 光太郎40歳

光太郎、東京美術学校時代に鷗外が担当していた美学の講義を受けています。その頃から尊敬はするけれども、親しくつきあいたい人ではないと思っていたようで……。のちにはうっかり「誰にでも軍服を着させてサーベルを挿させて息張らせれば鷗外だ」などという発言をし、鷗外に自宅に呼びつけられて説教されたこともありました(笑)。

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写真は明治44年(1911)、鉄幹与謝野寛の渡欧送別会での集合写真。後列左から5人目が光太郎、前列左から4人目が鷗外です。二人、前後に並んでいます(笑)。

偉人たちの健康診断「東京に空が無い “智恵子抄”心と体のSOS」。

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昨日、NHK BSプレミアムさんで放映された「偉人たちの健康診断 東京に空が無い “智恵子抄”心と体のSOS」を拝見しました。

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全体的にはなかなかのクオリティでした。

健康系の番組ですので、心を病んだ智恵子がメイン。そこから様々な知恵を学び取ろうというコンセプトです。

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再現ビデオの部分は、予想通り平成27年(2015)にNHKさんの地上波総合テレビで放映された、「歴史秘話ヒストリア 第207回 ふたりの時よ 永遠に 愛の詩集「智恵子抄」」からの使い回しでした。しかし、久しぶりに見て、やはり感動してしまいました(笑)。そういえば、MCの渡邉あゆみさん、当時「ヒストリア」でも司会でした。

龍星閣版『智恵子抄』初版の映像も「ヒストリア」からの転用。したがって、「ヒストリア」の際にお貸しした当方手持ちの『智恵子抄』です(笑)。

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コメンテーターとしてご出演なさった、『詩人の妻 高村智恵子ノート』(昭和58年=1983 未来社)の著者・郷原宏氏をはじめ、医学系の専門家の方々による分析や説明など、「なるほど」という点が多く、その点がすばらしいと思いました。

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智恵子の故郷・福島二本松、戦後に光太郎が逼塞した花巻郊外旧太田村、そして光太郎最後の大作にして智恵子の顔を持つ「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の立つ十和田湖などの映像もふんだんに使われていました。

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また、光太郎彫刻や智恵子の紙絵、古写真、ブリヂストン美術館さん制作の美術映画「高村光太郎」から光太郎の動画なども使われ、手間がかかっている丁寧な作りだと感心しました。

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当会顧問・北川太一先生ご所蔵の、智恵子から母・センに宛てた書簡(昭和6年=1931)も。

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同じく北川先生ご所蔵の、結婚前の光太郎から智恵子へのラブレター(大正2年=1913)は紹介されませんでした。

しかし、一点、苦言を呈させていただくと、「智恵子が色覚異常であった」と、ほぼ断言していた点。

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確かにそういう説はあります。その根拠は、智恵子が福島高等女学校時代の親友だった上野ヤスにそう語ったことがある、という証言です。あとは状況証拠的に、結局、油絵で大成できなかったことや、画学生時代に人と違う色遣いを好んでいたという証言、それから光太郎の残した「彼女は色彩について実に苦しみ悩んだ。」(「智恵子の半生」昭和15年=1940)、「その油絵にはまだ色彩に不十分なもののある事は争はれなかつた。その素描にはすばらしい力と優雅とを持つてゐたが、油絵具を十分に克服する事がどうしてもまだ出来なかつた。」(同)という回想がある程度です。

智恵子が色覚について医師の診断を受けたという記録は見あたりません。また、番組でも解説されていましたが、女性の場合は発症率が非常に低い(番組では500人に1人としていました)のです。色覚異常はほぼ100%遺伝によるもので、女性の場合、両親双方から遺伝因子を受け継がないと発症しません。となると、智恵子の父母弟妹などにもその症状が現れているはずなのですが、そうした記録も見あたりません(もっとも、智恵子以外は自覚することができなかったのかもしれませんが)。

そう考えると、智恵子が色覚異常だったと断定するのは早計だと思われます。

ただ、その後の専門家の方の解説が非常に興味深いものでした。人類に一定の割合で色覚異常が発現するのは、狩りをしていた太古の時代の名残だろうというのです。

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保護色で目くらましをはかる獲物や、人類の天敵たる肉食獣を発見しやすいそうで。これは存じませんでした。

後半は、やはりパラアート的な部分、アートセラピーなどの関連で智恵子の紙絵が紹介されました。

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智恵子同様、切り絵に取り組んでいる患者さんもご出演。興味深く拝見しました。

ラストは「乙女の像」。

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8月1日(木)、午前8:00から9:00、同じNHK BSプレミアムさんで再放送があります。ご覧になっていない方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

私はふざけた事は大厭ひなんですけれど、上品なユーモアは好きです。変なあくどい漫画は、手許にあれば裂き捨てる位なんですが、気品高きものは、飽かず眺めます。
談話筆記「悪趣味を排す」より 大正14年(1925) 光太郎43歳

漫画とは同列に扱えないとは思いますが、後の智恵子の紙絵も、「上品なユーモア」「気品高きもの」として、「飽かず眺め」たことでしょう。

芦田愛菜『まなの本棚』。

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 新刊です。 

まなの本棚

2019年7月23日 芦田愛菜著 小学館 定価1,400円+税

運命の1冊に出逢うためのヒントに! 「本の出逢いは人との出逢いと同じ」 年間100冊以上も読み、本について語り出したら止まらない芦田愛菜が本当は教えたくない“秘密の約100冊"をご紹介。世代を超えて全ての人が手に取ってみたくなる考える力をつけたい親御さんと子供たちにも必読の書です。

 Q 本の魅力にとりつかれた初めての1冊は?
 Q 一体、いつ読んでいるの?
 Q どんなジャンルの本を読むの?
 Q 本を好きになるにはどうしたらいい?
 Q 好きな登場人物は?

スペシャル対談 ・山中伸弥さん(京都大学iPS細胞研究所所長 教授) ・辻村深月さん(作家)も収録!

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目次
 プロローグ 宝探しみたいに本の世界へ入っていきます
 第1章 語り出したら止まらない! 芦田愛菜の読書愛
  いちばん最初の読書の記憶
  村上春樹さんに私、ハマってしまったみたい!
  読書はお風呂や歯磨きと同じ生活の一部
  3~4冊を同時並行で読むことも
  背表紙がキラリと光って見えるんです
  本の感想に“正解”はなくていいのかも
  紙の本の手触りが好き
  4コマまんが ちょっとの間にも読んでいます・読むのをがまんしてる時は
 第2章 本好きへの扉を開いた6冊
  『おしいれのぼうけん』
  『不思議の国のアリス』
  『都会のトム&ソーヤ』
  『ツナグ』
  『言えないコトバ』
  『高瀬舟』
 第3章
  まなの本棚から84冊リスト
  ここからスタート!の絵本 『もこ もこもこ』 『ぐりとぐら』
  小学生で夢中になった児童書 『天と地の方程式』 『若おかみは小学生!』 『魔女の宅急便』 『怪盗クイー
   ン』 『怪人二十面相』
  次々と読破したシリーズもの 『落語絵本』シリーズ 『ストーリーで楽しむ日本の古典』シリーズ 『小学館版 
   学習まんが人物館』シリーズ
  世界を広げた海外児童文学 『赤毛のアン』 『あしながおじさん』 『ハリー・ポッター』シリーズ
  興味がつきない体の不思議 『学習まんが ドラえもん からだシリーズ』
  気になったらすぐに開く図鑑 『花火の図鑑』 小学館の図鑑NEO『星と星座』『宇宙』『岩石・鉱物・化石』
  ゾワッとするSF小説 『ボッコちゃん』 『声の網』
   対談 山中伸弥先生×芦田愛菜 科学はどこまで進歩していいのでしょうか
   歴史がもっと知りたくなる 『平安女子の楽しい!生活』 『空色勾玉』 『白狐魔記』
  熱い友情や“スポ根”大好き 『夜のピクニック』 『バッテリー』 『よろこびの歌』 『風が強く吹いている』 『リズ
   ム』
  限界へ!自分との闘い 『DIVE!!』
  嫉妬やコンプレックス 『反撃』 『ふたり』
  きょうだいや家族への思い 『一人っ子同盟』 『西の魔女が死んだ』 『本を読む女』
  日本語って奥深い! 『舟を編む』 『ふしぎ日本語ゼミナール』
  言葉や伝えるということ 『きよしこ』 『ぼくのメジャースプーン』
  辻村ワールドにハマるきっかけに 『かがみの孤独』
   対談 辻村美月さん×芦田愛菜 「小説は一人では成り立たない」ってそういうことなんですね!
  止まらなくなる!海外ミステリー 『シャーロック・ホームス』シリーズ 『モルグ街の殺人』 『Xの悲劇』 『そし
   て誰もいなくなった』
  日本文学〈~平安時代〉神話や貴族の生活 『古事記』 『日本書紀』 『風土記』 『源氏物語』
  日本文学〈江戸時代〉エンタメ充実!  『曽根崎心中』 『雨月物語』 『南総里見八犬伝』 『東海道中膝栗毛』
  日本文学〈明治時代~〉人生や恋に悩んだり  『福翁自伝』 『舞姫』 『吾輩は猫である』 『坊っちゃん』 『ここ
   ろ』 『小僧の神様』 『たけくらべ』 『友情』 『伊豆の踊子』 『雪国』 『細雪』 『智恵子抄』『一握の砂』 『雨ニ
   モマケズ』 『高野聖』 『破戒』 『夜明け前』
  太宰治より私は芥川龍之介派! 『蜘蛛の糸』
  戦争について考えるきっかけに 『ガラスのうさぎ』 『永遠の0』
  海外文学 答えは一つじゃないはず 『賢者の贈り物』 『変身』 『レ・ミゼラブル』 そしてこれからも 『海辺
   のカフカ』
 コラム 好きな登場人物
  男性編 湯川学『探偵ガリレオ』 内藤内人『都会のトム&ソーヤ』 片山義太郎『三毛猫ホームズの推理』 
   玄之介『あかんべえ』 堂上篤『図書館戦争』 松本朔太郎『世界の中心で、愛をさけぶ』
  女性編 有科香屋子『ハケンアニメ!』 スカーレット・オハラ『風と共に去りぬ』 ジョー・マーチ『若草物語』 
   赤羽環『スロウハイツの神様』 林香具矢『舟を編む』
 エピローグ 本がつないでくれるコミュニケーションや出逢い




現在、中学3年生、15歳の芦田愛菜さん。読書好きというのは以前から公イメージ 2言なさっていたようで、今回の出版につながったようです。これまでに読んだ本の中から約100冊を紹介するというコンセプトで、この年で約100冊が紹介できるというのも驚きです。しかもラインナップを見ると、古今東西、かなり幅広く網羅されており、感心します。

光太郎の『智恵子抄』を取り上げて下さいました。ただ、紹介はほんのちょっとですが(笑)。それから、シリーズとして、『小学館版学習まんが人物館』シリーズ。村野守美さんという方の作画、当会顧問・北川太一先生の監修で、「高村光太郎・智恵子 変わらぬ愛をつらぬいた二つの魂」がラインナップに入っています。

芦田さん、光太郎が尋常小学校の課程を卒業した、荒川区立第一日暮里小学校さんのご出身です。

同校では、「先輩光太郎に学ぶ」ということで、様々な取り組みをして下さっています。特に6年生は、総合的な学習の時間等で、光太郎に関する調べ学習などを1年間にわたり行っています。当方、芦田さんの次の学年の児童さん達が6年生だった年度に、授業を拝見したり、ゲストティーチャーに招かれたりしました。

そこで芦田さん、6年生の時に(或いはもっと以前に?)これらを読まれたのでしょう。

また、同校では図書館教育にも力を入れ、それが評価されて、平成27年(2015)には、当時のケネディ駐日大使が学校訪問に来られたことも。学校としての図書館教育の充実も、芦田さんの本好き、そして、本書に書かれた芦田さんの「読書観」(なかなか核心を突いた鋭いものの見方です)にも関わっているのかも知れません。

さて、夏休みとなり、定番の読書感想文の宿題に悩まれている小中高生の皆さん、親御さんも多いかと存じます。『まなの本棚』、そういう方々向けのブックガイドとしても好著です。

ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

翻訳は共同の性質を持つ。気のついた人が訂正するやうな慣はしにしたい。

雑纂「誤訳です」より 昭和4年(1929) 光太郎47歳

大正5年(1916)に刊行した訳書『ロダンの言葉』につき、中野重治が訳文に疑念を呈し、それを読んだ光太郎が調べ直してみるとその通りだったとのこと。すぐさまその誤りを雑誌『新潮』に発表したわけです。

後の翼賛詩→連作詩「暗愚小伝」の問題についてもそうですが、光太郎の偉いところの一つは、自らの誤りを謙虚に認め、訂正できることだと思います。

若松英輔『詩と出会う 詩と生きる』。

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昨日に引き続き、新刊情報です。 

詩と出会う 詩と生きる

2019年7月25日 若松英輔著 NHK出版 定価1,700円+税

言葉とこころを結びなおす
言葉と人は、どのような関係にあるのか。詩に込められた想いを知ることで、何を得ることができるのか。困ったとき、苦しいとき、悲しいとき──私たちを守ってくれる言葉を携えておくために。文学・哲学・宗教・芸術──あらゆる分野の言葉を「詩」と捉え、身近に感じ、それと共に生きる意味を探す。

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目次
 はじめに 言葉は心の糧
 第1章 「詩」とは何か 岡倉天心と内なる詩人
 第2章 かなしみの詩 中原中也が詠う「おもい」
 第3章 和歌という「詩」 亡き人へ送る手紙イメージ 2
 第4章 俳句という「詩」 正岡子規が求めた言葉
 第5章 つながりの詩 吉野秀雄を支えた存在
 第6章 さびしみの詩 宮澤賢治が信じた世界
 第7章 心を見つめる詩 八木重吉が刻んだ無音の響き
 第8章 いのちの詩 岩崎航がつかんだ人生の光
 第9章 生きがいの詩 神谷美恵子が問うた生きる意味
 第10章 語りえない詩 須賀敦子が描いた言葉の厚み
 第11章 今を生きる詩 高村光太郎が捉えた「気」
 第12章 言葉を贈る詩 リルケが見た「見えない世界」
 第13章 自分だけの詩 大手拓次が開いた詩の扉
 第14章 「詩」という民藝 柳宗悦がふれたコトバの深み
 第15章 全力でつむぐ詩 永瀬清子が伝える言葉への態度
 おわりに 「異邦人」たちの詩歌
 詩と出会うためのブックガイド


昨年、NHKラジオ第2放送さんで放送のあった「NHKカルチャーラジオ 文学の世界 詩と出会う 詩と生きる」のために書き下ろされたテキスト(右上画像)を大幅に加筆、さらに新章を加えての出版です。

テキストでは柳宗悦と光太郎で一つの章でしたが、光太郎と柳、それぞれで独立した章に分割、分量はそれぞれ2倍ほどに膨らんでいます。内容構成の骨組み的にはほぼ同じようですが。

新章としては、光太郎と深かった永瀬清子などが新たに加わりました。その他、テキストの頃から取り上げられていた、岡倉天心中原中也吉野秀雄宮沢賢治八木重吉などが光太郎と関わった人物です。

ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

最近村の人達が木を切つて電柱をつくり、会社にたのんで、小生の小屋に電燈をひいてくれました。谷川を越えてはるばる電線をひいて来ました。反つてゐる電柱が立つてゐます。おかげで夜が明るくなり、仕事に甚だ好都合です。

雑纂「消息」より 昭和24年(1949) 光太郎67歳

昭和20年(1945)の秋に、花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)に入った光太郎でしたが、昭和24年(1949)まで3年以上、電気のないランプ生活を送っていたわけです。

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昨年の花巻高村祭で、電線を引く工事を手伝ったという、藤原秀盛さんのお話を聞くことができました。

女川つながる図書館特別展「詩人・彫刻家高村光太郎と女川 ~えにしをつなごう~」。

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毎年、女川光太郎祭を開催して下さっている宮城県女川町で、新たな取り組みです。 

詩人・彫刻家高村光太郎と女川

期    日 : 2019年8月7日(水)~13日(火)
時    間 : 平日 10:00~20:00  土日祝 10:00~17:00
会    場 : 女川つながる図書館 女川町生涯学習センター内 
          宮城県牡鹿郡女川町女川浜字女川178番地 KK-8街区1画地
料    金 : 無料

女川つながる図書館(女川町生涯学習センター内)にて特別展「詩人・彫刻家高村光太郎と女川」が開催されます。 図書館の館内を使った小さな展示会です。 昭和6年に高村光太郎が女川を訪れ、書いた作品や訪問当時の女川の様子の写真などを中心に、関連書籍の紹介や、しおりなどの手作り体験、朗読等を予定。 入館無料 お気軽にお立ち寄りください。

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8月9日(金)に女川光太郎祭が開催されるということで、それに合わせてのミニ展示的なもののようです。

女川光太郎祭では、当方、毎年、講演をおおせつかっておりまして、今年もやらせていただきます(詳細は明日のこのブログで)。そちらの会場は、女川駅前のショッピングモール・シーパルピア内のまちなか交流館さんですが、今回の展示は生涯学習センター内のつながる図書館さんだそうで、住所で調べましたところ、町役場の敷地内のようです。まちなか交流館さんとつながる図書館さん、徒歩数分といったところでしょう。

のちほどレポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

今年の冬は旧臘以来肋間神経痛といふものに悩まされてゐて、一切が停頓状態です。中々厄介な病気で、痛みばかりでなく、呼吸にも影響します。ホルモン不足から来る老年病と考へられて、何んだかをかしいやうですが、今年の山の厳寒にも関係があるでせう。春暖の候になれば、自然治癒することと思つてゐます。

雑纂「生成言」より 昭和26年(1951) 光太郎69歳

花巻郊外旧太田村の山小屋での生活も5年が過ぎ、光太郎の病状、「ホルモン不足から来る老人病」といったそんな軽いものでなく、結核性の重いもので、結局、それが原因で亡くなります。重篤なものであるという自覚はあったはずですが、このように対外的にはかたくなに肋間神経痛で押し通しました。離れて暮らす弟妹の家族、東京方面の旧友たちに心配をかけたくないという気持ちと、彼等により無理矢理にでも山小屋生活を中止させられてしまうのではないか、という危惧もあったかと思われます。

第28回女川光太郎祭。

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昨日に引き続き、宮城県女川町からイベント情報です。 

第28回女川光太郎祭 

期     日 : 2019年8月9日(金)
時     間 : 午後2:00~
場     所 : 女川町まちなか交流館 宮城県牡鹿郡女川町女川浜字大原1-36
料     金 : 無料
問い合わせ  : 女川光太郎の会事務局 佐々木英子
           〒986-2243 宮城県牡鹿郡女川町鷲神浜字内山3-1 NI・1街区2 桜ヶ丘東住宅404
           090-6686-7811 
内     容 : 
 献花
 光太郎紀行文、詩などの朗読
 アトラクション演奏 オペラ歌手 本宮寛子  ギター奏者 宮川菊佳 
 講演 「高村光太郎、その生の軌跡 ―連作詩「暗愚小伝」をめぐって⑦―」
     高村光太郎連翹忌運営委員会代表 小山弘明
 終了後 懇親会

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昭和6年(1931)、光太郎が三陸一体を旅した一環で立ち寄った宮城県牡鹿郡女川町。それを記念して、平成3年(1991)、当時の女川港に面した海浜公園に巨大な光太郎文学碑が建立され、さらに翌年から始まった女川光太郎祭。その後、東日本大震災による津波で甚大な被害を受けた平成23年(2011)も含め、毎年開催されています。今年は文治堂書店さんが自社のPR誌『トンボ』第8号に案内を掲載して下さいました(上記画像)。

昨年までの様子はこちら。


ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

生活も不便とはいへ、まづ正常の状態で進んでゐて、決して極端なまねはして居りません。蛇や蛙やバツタを食べて生きてゐるのではありません。

雑纂「太田村の便り」より 昭和26年(1951) 光太郎69歳

一方で、翌年行われた座談会では、蛙を食べたことや、蛇も食べようと思ったものの歯が悪いのでやめたという発言をしています。バッタについては他では言及されていません(長野県民ではありませんし(笑))。

蛙に関しては、明治末のパリ留学時代にフランス料理として食べていたので、あまり抵抗はなかったのでしょう。しかし、だからといって、それを常食にしていたわけではないということですね。

「ほんとの空」関連。

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光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)に使われ、福島復興の合い言葉として使われる「ほんとの空」の語。

それにまつわるイベントを二つご紹介します。 

交流センター開館10周年記念「ふくしま星・月の風景in二本松」

期     日 : 2019年7月30日(火)~8月25日(日)
時     間 : 午前10時~午後4時
場     所 : 二本松市市民交流センター3階 市民ギャラリー  福島県二本松市本町2丁目3-1
料     金 : 無料

福島県内にて撮影された星・月の風景を眺め、星空に想いを馳せてみませんか?
「ほんとの空」がある二本松市では、初の写真展です。

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智恵子の故郷・二本松に隣接する郡山市のふれあい科学館さん主催で行われた「第5回 ふくしま 星・月の風景 フォトコンテスト」――キャッチコピーが「〝ほんとの空〞のあるふくしまの星・月の風景をあなたの感性で捉えてください」――の入賞作品展を、二本松で行うそうで。

当方、第4回の作品展を平成28年(2016)に拝見して参りました。どれもこれもハイレベルで驚きましたし、福島の「ほんとの空」の魅力を再確認いたしました。

期     日 : 2019年8月4日(日)
時     間 : 午前6時~午後8時
場     所 : 二本松市市民交流センター1階 多目的室  福島県二本松市本町2丁目3-1
料     金 : 無料
講     師 : 安藤享平氏(郡山市ふれあい科学館 天文担当 学芸員)
内     容 : 夏空の主役・七夕伝説を紹介しつつ、星空撮影の方法などを詳しくお話しいたします。


もう1件、まったく別件ですが、やはり「ほんとの空」ということで。 

子どもじんけん教室 なつやすみミニ映画会「ほんとの空」

期     日 : 2019年8月14日(水)
時     間 : 1回目 午前10時30分~  2回目 午後2時30分~
           名古屋市中区栄一丁目23番13号伏見ライフプラザ12階
料     金 : 無料

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平成24年(2012)、兵庫県人権啓発協会イメージ 4さん制作のビデオドラマ「ほんとの空」(白石美帆さん主演)が上映されます。

制作当初から数年間は、「新作」扱いで全国の自治体さんなどの主催行事で上映されたり、ローカルテレビ局さんで放映があったりしましたが、7年経ってそういう機会も減ったようです。しかし、内容的には東日本大震災による福島第一原発事故からの避難者が、避難先でいわれのない差別を受けるというもので、7年前と現在とで、社会の現状は残念ながらあまり変わっていないのではないかと思われます。

そういった意味では、今後も各地での上映や放映を望みます。特に放映の方は、ローカルテレビ局さんでは時々あったのですが、全国放映は為されていないように思われます。

それぞれお近くの方、ぜひどうぞ。イメージ 3


【折々のことば・光太郎】

きれいだなあといふと景色がなほきれいになる

短句揮毫より 昭和18年(1943) 光太郎61歳

この項、しばらくの間、色紙や献呈した書籍等に揮毫された短句をご紹介します。

第1弾は、昭和18年(1943)刊行の年少者向け詩集『をぢさんの詩』に書かれたもの。光太郎と交流の深かった美術史家・奥平英雄が、子息のためにと買い求め、光太郎に何か書いてくれるよう頼んで書かれた短句です。

実際、独り言でも声に出してみることで、その内容がより実感されるということはよくある話ですね。

『をぢさんの詩』は、翼賛詩もたくさん含む実に残念な詩集ですが(「これこそ光太郎詩の真骨頂」とありがたがる愚か者も居て困ります)、時局とまったく関係のない短句を揮毫してあげたところに、救いを感じます。


上毛新聞 「三山春秋」。

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群馬県の地方紙『上毛新聞』さんが、一面コラム「三山春秋」で光太郎に触れて下さいました。 

2019/07/28【三山春秋】

 ▼歌人の若山牧水が草津温泉を初めて訪れたのは1920(大正9)年5月。このとき見た草津独自の入浴法「時間湯」によほど強い衝撃を受けたのだろう
 ▼紀行文では、板で浴槽内をかき回す人々の姿、湯もみ唄や隊長(湯長)の号令などを臨場感あふれる表現で丁寧に紹介している。2年後にも訪れ、『みなかみ紀行』でこの入浴法を詳しくつづり、3首の歌を残した 
 ▼草津町出身の文芸評論家、市川為雄さん(故人)は「草津温泉と近代文学・芸術」(『草津温泉誌』第2巻所収)で、牧水は時間湯を通して〈浴客や温泉への愛着〉を抱いたととらえる
 ▼幕末、湯治客によって試みられたのが始まりとされる時間湯は、高温で強酸性の温泉に安全に効果的に入るため、これまで多くの改良、変遷を経て続けられてきた
 ▼牧水のほか平井晩村、高村光太郎らも注目し、作品にしている。文人たちが心引かれたのは、そこに、長い歴史のなかで受け継がれ、形成されたかけがえのない伝統文化を見いだしたためだろう 
 ▼同町は時間湯の指導を行う「湯長」制度を今月末で廃止する。医師法に触れる恐れがあることなどが理由という。安心安全のためにやむを得ないとの声の一方で異論もある。受け継ぐべき伝統とは何なのか、改めて考える良い機会かもしれない。そのためにも、もう少し議論が必要ではないか。


光太郎が草津を訪れたのは、記録に残る限り3回。まず昭和2年(1927)の7月に、白根温泉から廻ってきています。その時の見聞を元に、詩「草津」を書きました。箱根の「大涌谷」と2篇で「名所」の総題がつけられて発表されています。

イメージ 1    草津

 時間湯のラツパが午前六時を吹くよ。
 
 朝霧ははれても湯けむりははれない。
 
 湯ばたけの硫気がさつとなびけば

 草津の町はただ一心に脱衣する。


光太郎が遺した手控えの詩稿が現存し、激しい推敲の後が伺えます。たった四行の短詩でも、いいかげんに作らなかったということがよく示されています。

平成2年(1990)には、この手控え詩稿からコピーを取り、光太郎の実弟で人間国宝だった鋳金家・村豊周の弟子筋に当たる故・西大由氏によってパネルが制作され、囲山公園に詩碑が建立されました。

下記は15年ほど前に撮影した、雪の季節の画像。

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さらに20年ほど前に撮影した、こちらは夏の画像。右は碑陰記です。曰く「彫刻家・詩人高村光太郎は昭和二年七月、草津の地を訪れ、湯畑源泉の荘厳に打たれてこの詩を残した。  平成二年四月 建立 草津町  制作 東京芸術大学教授 西大由」。

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さらに平成12年(2000)には、湯畑の周囲を囲む石柵に「草津に歩みし百人」ということで、記録に残る来訪者100人の名と来訪年等が刻まれ、光太郎も入れて下さいました。

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光太郎のプレートは、初来草の昭和2年(1927)で登録されていますが、その後も昭和4年(1929)にはおそらく交流の深かった詩人の尾崎喜八と共に、それから昭和8年(1933)にも心を病んだ智恵子の保養のために訪れています。残念ながら尾崎や智恵子の名は「百人」に入っていませんが。

もう15年ほども行っておりませんで、機会が在ればまた拝見したいと思っております。皆様も草津にお越しの際はぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】イメージ 8

美しきもの満つ 

 短句揮毫 昭和10年代後半

頼まれて色紙等に揮毫した言葉としては、最多のものではないかと思われます。すべてひらがなだったり、変体仮名的に「み」のみ「ミ」とカタカナにしてみたり(それを「三つ」と誤読されることがあって閉口していますが)、「美」や「満」が漢字だったりと、さまざまなバージョンが存在します。ここでは『高村光太郎全集』収録の形で、漢字仮名交じりの形を取りました。

この世には「美」があまねく存在しているのだ、という、光太郎の持っていた根本原理的なものが端的に示されていると言えましょう。

『広報おながわ』/筑西市立明野図書館報『花さき山』。

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毎年、8月9日に女川光太郎祭を開催して下さっている宮城県女川町の広報誌『広報おながわ』さん。

今年は町立のつながる図書館さんで特別展「詩人・彫刻家高村光太郎と女川 ~えにしをつなごう~」も開催されるということで、女川光太郎祭と併せてご紹介下さいました。

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ありがとうございます。


もう1件。

茨城県筑西市の明野図書館さんの館報『花さき山』から。

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「音読会」というイベントで、光太郎を取り上げて下さるとのことで。 

楽しみながら音読しよう☆ 音読会 イメージ 3

期     日 : 2019年8月6日(金)/9月3日(火)
時     間 : 11:00~12:00
場     所 : 筑西市立明野図書館 茨城県筑西市海老ヶ島2120-7
料     金 : 無料

☆図書館スタッフと一緒に、気軽に発声練習や音読を楽しみませんか?
  8月は、「高村光太郎」がテーマです。
 声に出して読むことで、脳と心に刺激を与えましょう!
※申し込みは不要です。当日直接明野図書館 視聴覚室にお越しください。


筑西市といえば、東京美術学校彫刻科で、光太郎の父・光雲に木彫を学び、後に陶芸に転じて大成した板谷波山の故郷です。今回のイベントとの関連はないのでしょうが。


それぞれお近くの方(遠くの方も(笑))、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

美にして義ならざるなし     短句揮毫 時期不明

手持ちの書籍類から、この揮毫の画像をざっと探したのですが、見つかりませんでした。

ところが、花巻高村光太郎記念館さんの所蔵品の中に、「美」と「義」が逆になった「義にして美ならざるなし」という書があるのに気がつきました。

短句の類は『高村光太郎全集』第11巻、第20巻にまとめられており、こちらは第11巻に載っています。第11巻は初版が昭和33年(1958)。その時点で編集に当たられた当会顧問・北川太一先生、「美」と「義」を取り違えたかな、という気もします。「義にして美ならざるなし」とした方が、意味的にはすっきりします。

「いや、間違いなく「美にして美ならざるなし」という揮毫もあるぞ」という情報をお持ちの方がいらっしゃいましたらご教示いただけると幸いです。


森鷗外記念館コレクション展「文学とビール―鷗外と味わう麦酒(ビール)の話」。

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光太郎が絡んでいるとは気づかず、紹介が遅れました。 
期    日 : 2019年7月5日(金)~10月6日(日)
時    間 : 午前10時~午後6時
場    所 : 文京区立森鷗外記念館 東京都文京区千駄木1-23-4
料    金 : 一般 300円  20名以上の団体は240円  中学生以下無料
休 館 日 : 7月23日(火)、8月27日(火)、9月24日(火)

「とりあえずビール」と、現在では手軽に飲むことができるビール。江戸時代末に日本にもたらされたビールは、明治に入って本格的に醸造され始め、広く飲まれるようになったのは40年代以降のことでした。
鷗外は、日本ではまだビールが貴重だった明治17年から21年まで、陸軍軍医としてドイツに留学し、本場のビールを楽しみました。留学中の日記『独逸日記』では、鷗外が醸造所やオクトーバーフェスト(ビール祭り)を訪れたり、自ら被験者となって「ビールの利尿作用」について研究していたことが分かります。
こうした鷗外のビール体験は『うたかたの記』(明治23年)などの作品に生かされました。また、同時代の文学者たちもビールを作中に描きました。夏目漱石『吾輩は猫である』(明治38~39年)、太宰治『酒の追憶』(昭和23年)に見られるおもてなしや晩酌としてのビール、高村光太郎『カフエ、ライオンにて』(大正2年)に見られる酒場の様子など、文学作品には明治・大正から現代に通じる様々なビールのある風景が登場します。
本展では、鷗外のビール体験に触れると共に、文学作品に登場するビールのある風景を、所蔵資料から紹介します。この夏、ビールを切り口に文学作品を味わってみませんか。

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光太郎に関しては、小曲詩「カフエライオンにて」6篇の載った雑誌『趣味』第7年第2号(大正2年=1913)が展示されます。復刻版だそうですが。「カフエライオンにて」は、6篇中の4篇が「カフエにて」と改題され、第一詩集『道程』に収められました。

カフェ・ライオンは、明治44年(1911)、銀座に創業したカフェで、光太郎も足繁く通ったようです。美人女給が和服にエプロンという揃いの衣裳で給仕するのが売りでした。また、ビールが一定量売れると、店内のライオン像が吠える仕組みになっていたそうです。経営は変わりましたが現在もビアホール銀座ライオンとして健在です。

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左は雑誌『趣味』第7年第2号に送られたものと見られる詩稿(天理大学さん所蔵)、右は同誌に掲載された、光太郎によるカット。カフェライオンの絵です。

ところで「カフエライオンにて」といえば、過日ご紹介した『岩手日報』さんの一面コラム「風土計」でも引用して下さいました。その際には、当方、引用部分が「カフエライオンにて」の一節と気づきませんでしたが、あとで気づきました。全文は以下の通り。天理大学さん所蔵の詩稿にも入っています。

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 何もかもうつくしい
 このビイルの泡の奮激も
 又其を飲むおれのこころの悲しさも
 かうやつて
 じつと力をひそめてゐると
 何処からかうれしい声が湧いて来る
 酔つぱらひの喧嘩さへ
 リズムをうつてひびくんだ


また、やはり『岩手日報』さんの「風土計」で引用された随筆「ビールの味」(昭和11年=1936)の載った雑誌『ホーム・ライフ』第2巻第8号も「参考図版」扱いで展示品目録に載っています。パネル展示でしょうか。

それから、展示品目録に光太郎の作品が載った雑誌がまだありました。『ARS』第1巻第3号(大正4年=1915)、それから『スバル』9号(明治42年=1909)。『ARS』には光太郎による翻訳「ドユ モーパスサンの描いたロダン」、『スバル』にはやはり翻訳で「HENRI MATISSEの画論(一)」、それから裏表紙に戯画「屋根の草」が収められています。ただ、ビールとは無関係なので、他の誰かの作品でビールがらみの何かが載っているのでしょう。

ぜひ足をお運び下さい。イメージ 7


【折々のことば・光太郎】

美ならざるなし   短句揮毫  戦前?


右の画像は戦後のものですが、おそらく戦前からこの句を好んだ光太郎、頼まれて色紙などに書く揮毫にしばしばこの句を選びました。

現在も複数の揮毫が遺されています。

『月刊ノジュール』2019年8月号。

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雑誌の新刊です。 

月刊ノジュール 2019年8月号

2019年7月31日 JTBパブリッシング発行 定価 815円+税

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目次

 大特集 今年も“楽して”愉しみたい ゆとり登山で百名山
  グラビア 富士十五景
  絶景に会える 富士十五景の 撮影スポット
  “楽ちん百名山”モデルプラン 雲の上の爽快2時間さんぽ
  西穂高岳[岐阜県・長野県] 雲上の北アルプスを満喫
  安達太良山[福島県] 『智恵子抄』の“ほんとの空”へ
  大台ヶ原[三重県・奈良県] 霧に包まれる幻想的な風景が魅力
  もっと楽しみたい百名山5 白馬・八方池/上高地/石鎚山/茶臼岳/筑波山
  山の恵みをこころゆくまで 天上温泉の隠れ宿 裏磐梯高原ホテル/和風旅館華もみじ/十勝岳温泉 湯
   元凌雲閣/穂高荘 山のホテル/上高地ルミエスタホテル/蔦温泉旅館/九重星生ホテル
  百名山・月山と羽黒山五重塔へ 出羽三山の信仰と開山伝説 鈴木正崇
 特集 祝「百舌鳥・古市古墳群」登録! 世界遺産の古墳を歩く
  グラビア 小型機に乗って上空から! 美しい古墳10景 仁徳天皇陵古墳/古市古墳群/箸墓古墳/
   五色塚古墳/造山古墳/柳本古墳群/鶯塚古墳/西都原古墳群/今城塚古墳/石舞台古墳
  世界遺産「百舌鳥・古市古墳群」へ
   百舌鳥編 日本最大・仁徳天皇陵と百舌鳥古墳群を歩く
    コラム ホントはどっち? 仁徳天皇陵古墳か大仙古墳か
   古市編 駅前から続く“古墳銀座”と古市古墳群を巡る
  対談 スソアキコ(ひとり古墳部) 誉田亜紀子(土偶女子) 女性が古墳にハマるワケ We Love古墳
  知れば知るほど深みにハマる 古墳のヒ・ミ・ツ
 他


というわけで、智恵子の故郷・二本松の安達太良山が、「智恵子抄」にからめて紹介されています(8ページ)。

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他にも、光太郎智恵子にはふれられていないものの、上高地、裏磐梯、蔦温泉など、二人のゆかりの地二関する記事も。

昨日の『朝日新聞』さんに、大きく広告が出ています。

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しかし、この雑誌、正規ルートで入手しようとすると定期購読せねばならず(年8,460円だそうで)、公式サイトで調べたところ、バックナンバー購入も定期購読者に限るとのこと。そこで、闇ルートで入手しました(笑)。といっても怪しげなブローカーなどではなく、ネットオークション。便利な世の中になったものです。

今朝の時点でもまだ出品がありますし、公共図書館等で所蔵があるかも知れません。
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【折々のことば・光太郎】

美は力なり   短句揮毫  時期不明

今月1日にご紹介した「美しきもの満つ」、昨日ご紹介した「美ならざるなし」同様、これも光太郎が好んでよく揮毫した言葉の一つです。

Départ chant piano et piano。

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都内から演奏会情報です。 
期    日 : 2019年8月18日(日)
時    間 : 開演17:30  開場17:00
会    場 : オーキッドミュージックサロン 東京都世田谷区玉川2-2-1 二子玉川ライズバーズモールB-1
料    金 : \3500(全自由席)

プログラム : 
 三善晃    《抒情小曲集》より ほおずき/少女よ/小曲
 林光     《四つの夕暮の歌》より 誰があかりを消すのだろう
 別宮貞雄  《淡彩抄》全曲 泡/蛍/入黒子/凉雨/別後/燈/天の川/青蜜柑/鷺/春近き日に
         《智恵子抄》より 人に/僕等/あどけない話/千鳥と遊ぶ智恵子/レモン哀歌
 プーランク 《歌の調べ》全曲 ロマンティックな歌/田園の歌/荘厳な歌/快活な歌
         《ヴィルモランの3つの詩》より 白衣の天使達に
         《冷気と火》全曲 (眼から太陽が/朝、枝々は/全て消え去った/庭の闇の中に/冷気と火を
          /優しい微笑みの男/流れゆく大河は
         《矢車菊》
         《月並み》全曲 オルクニーズの歌/ホテル/ワロニーの沼地/パリへの旅/すすり泣き
 グノー    歌劇《ロメオとジュリエット》より 「神様!なんという戦慄が」(毒薬のアリア)

出   演 : 齋藤青麗(ソプラノ)  大野 真由子(ピアノ)  吉田 幸央(ピアノ)

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歌われる斎藤青麗さんのブログがこちら

先月20日、旧東京音楽学校奏楽堂で開催された「令和元年度奏楽堂日本歌曲コンクール入賞記念コンサート」でも演奏された、別宮貞雄氏作曲の「歌曲集 智恵子抄」(昭和57年=1982)から抜粋で5曲、プログラムに入っています。ぽつりぽつり、取り上げて下さる方がいらっしゃるのでありがたいかぎりです。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

最後にのこるもの美なり     短句揮毫 昭和21年(1946) 光太郎64歳

「美」の創出に生涯を捧げた光太郎ならではの言ですね。

秋田県横手出身の画商・旭谷正治郎にこの句を書いた揮毫を送ったことが、光太郎日記に記録されています。また、同じ横手の麹商・近野廣の元にも同じ句を書いた軸が残っていたそうですが、まだ現物を見たことがありません。

あきらめない、夏" 2019 大阪女優の会 VOL.17朗読劇「あの日のこと」~『朝、目覚めると、戦争が始まっていました』『空が、赤く、焼けて』より~。

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演劇公演の情報ですが、状況をわかりやすくするため、『朝日新聞』さん大阪版の記事から。 

大阪)大阪女優の会が活動区切りとなる朗読劇、9日から

 反戦と非核を訴えてきた「大阪女優の会」が9~11日、活動の区切りとなる朗読劇を大阪市で開く。2003年に結成を呼びかけた関西芸術座の河東(かとう)けいさん(93)が66年の女優生活をかけて「最後」の舞台に挑む。
 きっかけは、2003年3月の米国によるイラク侵攻だ。これに怒った河東さんら関西の演劇人が劇団の枠を超えて集まり、同年8月に大阪市の劇場で第1回公演を開いた。それから毎夏、非暴力を訴える舞台を重ねてきた。
17回目の今夏は、30~90代の女優15人が朗読劇「あの日のこと」を上演する。
 劇は、太平洋戦争が始まった1941(昭和16)年12月8日のラジオ放送を軸に進む。「アメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」という大本営発表から「輝かしい大戦果」まで刻々と発表されるニュースに人々は何を思ったのか。
 「天地が開けたほどの開放感」(吉本隆明)、「新しい神話の創造が始つた」(火野葦平)、「一死報国の時が来た」(青野季吉)、「世界は一新せられた」(高村光太郎)……。
 当時の著名人の日記などを収めた「朝、目覚めると、戦争が始まっていました」(方丈社)から抜き出してきたセリフからは、高揚感と陶酔感とが少数の怒りや胸騒ぎを圧していく風景が立ちあがってくる。
 興奮の行く末は「空が、赤く、焼けて 原爆で死にゆく子たちとの8日間」(小学館)からの引用としてあらわれる。45年8月6日の原爆投下後の広島をさまよった女性は、圧死した母のかたわらで「お母ちゃんとネンネする」と泣いて死んでいく幼子の姿に絶望的な怒りを書き記す。
 演出と構成を手がけた棚瀬美幸さん(43)=東大阪市=は「開戦の日の爽快感が広島の日につながっていった」と話す。
 河東さんは、開戦の興奮と原爆の絶望との間に無数にあったであろう平凡な日常を生きる主婦を演じる。
 手術を終えたばかりで認知症も進みつつある河東さんは今年6月末、ライフワークだった小林多喜二の母を演じる公演を閉じた。一方、今回の出演には「会が17年目ということは、ちっとも日本が平和にならへんということやね。ますますやらなあかんね」と続行に意欲たっぷりだ。
 会の副代表として河東さんに伴走してきた金子順子さん(67)=大阪市=は「河東の体調を考えて今回で一区切りとするが、演劇人としての河東にはやるべきことがいっぱいある。河東を生かし、受け継ぐ形を考えたい」と話している。
 9日(14時と19時)、10日(13時と17時)、11日(11時と15時)、大阪市中央区のドーンセンター。一般2千円、大学・専門学生1千円、高校生以下500円。大阪女優の会(06・6392・7581)へ。(下地毅)

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というわけで、調べてみました。 
日    時 : 2019年8月9日(金)14時/19時 10日(土)13時/17時 11日(日)11時/15時
会    場 : 大阪府立男女共同参画・青少年センター(ドーンセンター)1階  パフォーマンススペース
          大阪市中央区大手前1丁目3番49号
料    金 : 一般 2,000円  大学・専門学生 1,000円 高校生以下 500円

2003年アメリカによるイラク攻撃が始まり、多くの演劇人が反対の声を上げました。これを機に「大阪女優の会」を立ち上げ、過去の戦争を風化させないためにも「演劇は非戦の力」として、毎年“あきらめない夏”の公演を続けています。
17年目となる今回は、太平洋戦争が始まる日に立ち会った著名人の言葉を集めた『朝、目覚めると、戦争が始まっていました』、広島原爆の翌日から8日間を記した『空が、赤く、焼けて―原爆で死にゆく子たちとの8日間』から、「言葉」をキーワードに描く朗読劇です。戦争へ向かう空気、そしてその終末に、人はどのように感じていたのか、そこからつながる現代・未来へ向けた私たちの取り組みです。

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元ネタが、方丈社さん編刊の『朝、目覚めると、戦争が始まっていました』と、奥田貞子さん著、小学館さん刊行の『空が、赤く、焼けて 原爆で死にゆく子たちとの8日間』。前者には、光太郎の翼賛詩が収められており、今回の公演でも取り上げられるようです。

今日、8月6日は広島原爆の日、9日は長崎、そして15日は終戦記念日。この時期にあの悲惨な過ちを繰り返さないためのメッセージとして、こうした取り組みが行われることは非常に意味深いものと存じます。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

不可避の道をゆくのみ     短句揮毫  戦後

光太郎が戦時中に大量に書いた空虚な翼賛詩文を読み、多くの前途有為な若者が死地へと旅立っていきました。その反省から、花巻郊外旧太田村のあばら屋(高村山荘)で、戦後の7年間、蟄居生活を送った光太郎。それが「不可避の道」ということです。

しかし、戦時中は戦時中で、大量の翼賛詩文を書き殴るのが「不可避の道」だと捉えていたはずですし、さらに遡れば、妻・智恵子を心の病に追いやった俗世間と没交渉の芸術精進の日々、父・光雲との対立を余儀なくされた留学からの帰朝直後のデカダンの日々なども、それぞれその時点では「不可避の道」だったと思われます。

『週刊朝日』2019.8.16-23合併号「文豪たちが聞いた「玉音放送」」。

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現在発売中の『週刊朝日』さん。

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2ページの短いものですが「文豪たちが聞いた「玉音放送」」という記事が載っています。

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写真は載っていませんが、小見出し的に「五体をうたれるショックを受けた高村光太郎」。

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8月17日、『朝日新聞』や『岩手日報』に掲載された、詩「一億の号泣」に関し、光太郎の動向。その後の7年間の蟄居生活にも触れられています。

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「市内の鳥谷崎神社」とありますが、昭和20年(1945)当時はまだ花巻に市制が施行されていませんので、正しくは「町内」ですが。鳥谷崎(とやがさき)神社、「一億の号泣」についてはこちら

光太郎以外に取り上げられているのは、永井荷風、谷崎潤一郎、江戸川乱歩、高見順、武者小路実篤、井伏鱒二、三島由紀夫、川端康成、太宰治、佐藤春夫、吉村昭。
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いかにもその人らしい、と思われるエピソードもあれば、意外な感のするそれもあり、興味深く拝読しました。

ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

詩とは不可避なり  短句揮毫  戦後

画像は昭和23年(1948)、詩人の真壁仁に贈った書。

昭和3年(1928)、当会の祖にして光太郎と最も交流の深かった詩人・草野心平の第一詩集『第百階級』の序文に、「詩人とは特権ではない。不可避である。」と書いた光太郎。「不可避」の語は他にも好んで使用していました。会話の中では口ぐせ的に「やみがたい」という語をよく使っていたそうですが、「不可避」と通じる部分が在るように思われます。

「不可避」一語の揮毫も存在しますが、『高村光太郎全集』の「短句」の項では、基本的に一語のみのものは登録されていません。

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「没後100年 村山槐多展 新発見作含む創作の軌跡 「火だるま」が表現したかったものとは」。

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紙面にも載ったのかどうか存じませんが、『産経新聞』さんのサイトに、長野県上田市で開催中の「没後100年 村山槐多展」に関する記事が出ました。光太郎に触れて下さっています。 

没後100年 村山槐多展 新発見作含む創作の軌跡 「火だるま」が表現したかったものとは

 100年前、22歳の若さで世を去った詩人画家、村山槐多(かイメージ 1いた)(1896~1919年)。夭折(ようせつ)ゆえに現存作品は多くなく、画業の全貌は謎に包まれていたが、このほど油彩11点を含む140点以上が新たに確認された。長野県の上田市立美術館で開催中の「没後100年 村山槐多展」で公開されており、知られざる創作の軌跡が見えてくる。(黒沢綾子)
 槐多の未公開作品を多数確認したと、おかざき世界こども美術博物館(愛知県岡崎市)が発表したのは今年4月。槐多研究で知られる同館副館長代行の村松和明(やすはる)さんが、長年調査する中で存在が判明したものという。
 村松さんによれば、これまで槐多の現存する油彩は30点弱とさイメージ 2れてきたが、新たに11点が加わった。パステル画に水彩画、そしてデッサンなど小品や習作も含めると、未公開作品は140点を優に超える。
 その大半は少年期に描かれたもので、槐多の母校、旧制京都府立一中の同級生らの家で所蔵されてきたという。岡崎と上田で没後100年の記念展を開くにあたり、ようやく公開に至り、代表作の「尿(いばり)する裸僧」「バラと少女」などとともに並べられている。
                   ◇
 詩人の高村光太郎(1883~1956年)が「火だるま槐多」と表したように、烈火のごとく絵を描き詩をよみ、短い命を燃やし尽くした激しいイメージが槐多にはつきまとう。血のようなガランス(あかね色)の絵の具を塗り込めた「尿する裸僧」の、野性味あふれる僧の姿に、ありし日の画家を重ねる人も多いだろう。しかし初公開の作品群を見ると、それは画家の一側面に過ぎないのでは、と思えてくる。
 槐多は岡崎生まれ。教師だった父の転勤で高知や京都に移り住イメージ 3み、やがて画家を志し18歳で上京した。
 槐多の画才にいち早く気付き、14歳の彼に油絵具一式を与えたのは、いとこの洋画家、山本鼎(かなえ)(1882~1946年)だ。その頃描いた「雲湧(わ)く山」(明治44年、初公開)は、大胆な構図といい、魅力的な絵肌といい、油彩に取り組み始めた少年の絵とは思えない早熟ぶりを示している。
 地元・京都の神社仏閣や近郊の山、水辺を写実的に描いたパステル画も数多く展示。龍安寺の石庭をいろんな角度から、細部を含めて描写したスケッチも見応えがある。「槐多は授業中も絶えず手を動かし、絵の虫だったと級友らは生前語っていたそうです」と村松さん。繊細さと天真爛漫(らんまん)さを感じさせる初公開の作品群は、槐多が本格的に画家として突っ走る前の“助走”の部分を伝える。
 上京後、画業の挫折や失恋などを経て二十歳前後になった槐多は「アニマリズム」を標榜(ひょうぼう)。フォービスム(野獣派)など欧州の美術動向を意識しつつ、荒々しい筆致で内なる野生を表現し、充実期を迎えた。が、運命は過酷だ。結核性肺炎を宣告され、絶望のため酒浸りに。しかし最期まで、表現することをやめなかった。最後の詩「いのり」に痛切な願いを綴(つづ)っている。
 〈生きて居れば空が見られ木がみられ/画が描ける/あすもあの写生をつづけられる〉
 「彼が生涯を通じて描きたかったのは、自然への畏敬と、そこに生きる生命の賛歌でした」と村松さんは力説する。絶頂期に描かれた油彩の風景画「房州風景」(大正6年、初公開)は、画家の精神的な到達点を見せてくれる。
                   ◇
 9月1日まで。第1期(~8月12日)と第2期(8月14日~9月1日)で作品を一部入れ替える。火曜休。一般500円。問い合わせは0268・27・2300。


当方、盆休み中に行ってこようと思っております。夜中に移動すればそれほど道路も混んでいないと思いますのでそうします。


【折々のことば・光太郎】

悠々たる無一物に、荒涼の美を満喫せん    短句揮毫 戦後

昭和22年(1947)に発表された、自己の生涯をふりかえっての連作詩「暗愚小伝」中の「終戦」に、「いま悠々たる無一物に/私は荒涼の美を満喫する。」という一節があり、そのアレンジです。後にご紹介しますが、別のバージョンで、漢文風に漢字のみとした揮毫も存在します。

智恵子も、アトリエ兼住居も、過去の彫刻作品も、彫刻の出来る環境も、そして名声も、その全てを失い、文字通り裸一貫での蟄居生活。しかし、そこにも「荒涼の美」も見いだし、さらにそれを満喫しようというわけです。

女川町に来ております。

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今日、8月9日は、昭和6年(1931 )、新聞『時事新報』の依頼で紀行文「三陸廻り」を書くため、光太郎が東京を発った日です。それを記念して、毎年8月9日には「女川光太郎祭」が開催されています。

毎年、記念講演を仰せつかっているもので、昨夜から女川に来ております。

宿泊は例年通り、女川駅裏のトレーラーハウス・エルファロさん。

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女川光太郎祭が午後2時からなので、午前中、町役場敷地内の女川つながる図書館さんでのミニ展示を拝見。

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その後、光太郎祭会場のまちなか交流館さんに入りまして、この記事を書いております。

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詳しくは明日、帰りましてからレポートいたします。

ハヤカワ演劇文庫 『渡辺えりⅢ──月にぬれた手/天使猫』。

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先ほど、2泊しました宮城県から帰着しましたが、メインの第28回女川光太郎祭をはじめ、3~4回はそのレポート等に費やさねばなりませんので、それを始める前に別件をご紹介してしまっておきます。

新刊書籍情報です。宮城から帰って来ましたら、自宅兼事務所に届いていました。 

渡辺えりⅢ──月にぬれた手/天使猫

2019年8月15日 渡辺えり著 早川書房(ハヤカワ演劇文庫) 定価1,620円(税込)

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東日本大震災後に発表された渡辺えりの代表作二篇
高村光太郎と宮澤賢治をモチーフにした、渡辺えりの円熟の夢幻劇二篇

のんさん推薦!
「えりさんの作品から受ける感動は、トラウマとなって記憶に刻まれるような衝撃があります。色んな思考が渦巻いて、見る人を惑わせて不安にさせて、心をかき乱してくる。その中に見えてくる希望が心地いい。ファンタジーな世界が入り乱れる天使猫と、悪夢のように語られる月にぬれた手。私は、えりさんの作品に触れることが出来て良かったなあ…そんな風に感じて胸が熱くなりました。」

〈内容紹介〉
終戦後、花巻郊外の粗末な小屋。高村光太郎は大戦中の自身を厳しく省みる日々を送っている。ある日、亡き妻・智恵子の幻影が現れ――女性と地方の立場から、光太郎が象徴する都会の男性中心社会を問い直す『月にぬれた手』。
東北地方の瓦礫の中でケンジは、妻の遺体を探す「猫」と出会う……東日本大震災と向き合い続ける著者が、宮澤賢治の人生と作品を織り交ぜて描いた、鎮魂と祈りの音楽劇『天使猫』。
解説/山口宏子


渡辺えりさん率いる劇団・おふぃす3○○(さんじゅうまる)さんによる、光太郎を主人公とした平成23年(2011)初演の「月にぬれた手」と、翌年に初演された宮沢賢治が主人公の「天使猫」のシナリオです。もちろんご執筆は渡辺さん。

渡辺さん、同じハヤカワ演劇文庫で、平成19年(2007)には『渡辺えイメージ 2り子Ⅰ――光る時間(とき)/月夜の道化師』も出されていますが(改名前なので「渡辺えり子」となっています)、こちらは光太郎と交流のあったお父様をモチーフにした「光る時間(とき)」が収められています。

今回の出版に際しては、少しだけ、お手伝いさせていただきました。先月でしたか、渡辺さんから電話があり、「月にぬれた手」中で、平岩紙さん演じた智恵子のセリフに、大正11年(1922)に智恵子が回答したアンケート「哀憐な美しさを見ます」からの引用があるのですが、その出典がわからなくなってしまった(事務所移転のどさくさで資料類が何処にいったかわからなくなったそうで)とのことで、お教えしました。

上記紹介文にある通り、帯にのんさんの推薦文が印刷されています。のんさん、現在公演中のおふぃす3○○さんの新作「私の恋人」で、渡辺さんと共演なさっています。本格的な舞台は初出演だそうで。ご招待いただいておりますので、月末の東京公演を拝見に行く予定です。


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詳細はこちら

さて、ハヤカワ演劇文庫 『渡辺えりⅢ──月にぬれた手/天使猫』、ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

低きに居む      短句揮毫 戦後

「む」はこの場合、意思を表す助動詞。したがって、「低い立ち位置に居よう」といったところでしょうか。

ある意味、上から目線で多くの空虚な翼賛詩文を書きまくり、あまたの前途有為な若者を死地に追いやった反省が、この句にもにじみ出ています。

宮城レポート その1 第28回女川光太郎祭。

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昭和6年(1931)8月9日、新聞『時事新報』の依頼で紀行文を執筆するため、光太郎は東京本郷区の自宅兼アトリエを出、約1ヶ月の三陸旅行に発ちました。10月に発表された紀行文には石巻、金華山、女川、気仙沼、釜石、宮古といったあたりの様子が描かれています。

それを記念して、毎年8月9日には、女川光太郎祭が開催されており、今年で28回目となりました。このところ、毎年、記念講演の講師を仰せつかっており、今年も行って参りました。

会場は、JR石巻線女川駅前の商業施設シーパルピア内のまちなか交流館さん。

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県内外から多くの方々がお集まり下さいました。

最初に当方の講演。光太郎という人物の生涯を細かにたどるため、昭和22年(1947)に自らの生涯を振り返って書かれた連作詩「暗愚小伝」をもとに、連続講演の形で行わせていただいており、とりあえず今年がその最後、戦後の花巻郊外旧太田村での蟄居生活を中心に語らせていただきました。来年は「「暗愚小伝」その後」というわけで、最晩年、そして光太郎の死のあたりを扱う予定です。

その後、メインの行事。女川光太郎の会・須田勘太郎会長のご挨拶に続き、光太郎遺影、かつて海岸公園に立っていた光太郎文学碑の写真(今年・新しいパネルに代えられました)に献花。

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その後、県内外の皆さんによる、光太郎紀行文や詩の朗読。

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女川町長・須田善明氏の祝辞。須田町長、久々においで下さいました。

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まだ確定でない、と前置きされつつ、来年の今頃には、かつての海岸公園一帯をメモリアルゾーンとして整備する事業が終わる予定で、倒壊したままの光太郎文学碑も再建される見通し、とおっしゃっていました。

ちなみに現状、こんな感じです。

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すぐ近くの旧女川交番の方は、基礎部分の工事にかかっているようでした。

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その後、ギタリスト・宮川菊佳氏の演奏。宮川氏、詩の朗読の際にBGM演奏も為されていました。

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オペラ歌手・本宮寛子さんの歌。本宮さんは、光太郎文学碑が建てられた平成3年(1991)に女川で開催されたオペラ智恵子抄(仙道作三氏作曲)の公演で、智恵子役をなさった方です。

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最後に、東日本大震災の津波で亡くなった女川光太郎の会事務局長・貝(佐々木)廣氏の奥様、英子さんのご挨拶。

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終了後は、まちなか交流館さんにほど近い金華楼さんで懇親会。

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一年ぶりにお会いする方々と久闊を叙し、また、盛岡のご出身で、旧太田村の蟄居時代に光太郎がたびたび足を運んだ温泉などにもよく行かれたという方、当会顧問の北川太一先生をご存じの方など、初参加という皆さんともいろいろお話をさせていただきました。こうやって人の輪が広がっていくのだな、と実感させれられました。

毎年書いておりますが、永続的に続いて欲しいものです。

明日は女川町内各所のレポートを。


【折々のことば・光太郎】イメージ 26

うつくし かぐはし ほほゑまし  

  短句揮毫 昭和25年(1950) 光太郎68歳

花巻郊外旧太田村で隠棲していた光太郎、時折、県都盛岡に出ることがあり、その際には「天よし」という飲み屋に立ち寄ることが多く、そこのマダム・たみ子さんに贈った書です。「天よし」の店名も光太郎の命名だったそうです。

マダムたみ子が長唄の免状を手にした祝いということで、「し」の字は三味線の糸を表し、長く書いたとのこと。粋な計らいですね。

女川光太郎祭で、小学生の詩の朗読もありまして「ほほゑまし」く拝聴しました。

宮城レポート その2 女川町内各所。

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8月9日(金)に行われた、第28回女川光太郎祭の前に、会場のまちなか交流館さん付近あちこちを廻りました。女川町の現状ということで、ご紹介します。

朝6時、起床。宿泊先のトレーラーハウス・エルファロさんでの朝食前に、まず元の海岸公園にある光太郎文学碑を見に行きました。

1年ぶりでしたが、1年前と同じ状況。しかし、その後、昨日も書きましたが、女川光太郎祭の中で、須田善明町長が来年の今頃には再建されているかもしれないとおっしゃって下さいました。

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宿に戻って朝食。続いて宿に隣接するJR石巻線女川駅の駅舎に併設された入浴施設、女川温泉ゆぽっぽさんへ。エルファロさんの部屋にもユニットバスがあるのですが、やはりゆったり足をのばしたいもので。

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ここの2階がゆぽっぽさんです。

展望テラスから見た駅前の街並み。

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昨年は入る機会を逸していましたので、2年ぶりでした。

帰りがけ、1階の売店で、書籍を購入。仙台の株式会社プレスアートさんが今年3月に発行なさった『女川 復幸の教科書』(定価1,000円+税)。A4サイズより一回り大きい、100ページほどのムックです。

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東日本大震災から8年間の、女川町「復幸」(「復興」ではないそうで)の歩みをメインとしていまして、興味深く拝読しました。巻頭近くの「女川ヒストリー」という項では、光太郎の女川訪問に触れて下さっていました。また、光太郎文学碑の精神を受け継いで、100円募金で資金を集め、建立され続けている「いのちの石碑」についての記事、女川光太郎祭を主催されている女川光太郎の会の佐々木英子さんのお店、佐々木釣具店の紹介なども。あの津波で亡くなった、元女川光太郎の会事務局長・貝(佐々木)廣さんの名も。

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女川駅構内には、新たな碑も建っていました。今年三月の建立だそうで。

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碑陰記に拠れば、周辺の造成工事の完了を記念してのもののようです。

つづいて、新築の町役場へ。

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上の画像でいうと右上、テラス的な一角には、昨年の9月、東日本大震災で亡くなった方々への慰霊碑が建立されています。

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当時の町民の約1割にも達した犠牲者全員の名が刻まれています。貝(佐々木)廣さんの名も。右下は女川光太郎祭会場に飾られた遺影です。

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役場の建物の中に、女川つながる図書館さんがあり、そちらへ。

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こちらでは、ミニ展示「詩人・彫刻家高村光太郎と女川」が開催中です。光太郎の著書や、当会顧問・北川太一先生のご著書などが並んでいました。

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こちら自体に所蔵のないものは、県立図書館さんから借りてこられたようでした。

光太郎がこの地を訪れた昭和6年(1931)頃の古写真もあり、興味深く拝見しました。

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この魚市場の光景を見て、文学碑にも刻まれた詩「よしきり鮫」(昭和12年=1937)が執筆されたわけです。

    よしきり鮫

 眼をあけて死んでゐる君もうろくづ。
 女川(をながは)の水揚場に真珠いろの腹はぬらりと光る。
 どうしても君の口は女のももをくはへるやうに出来てゐる。
 難破船をかぎつけると君はひらりとからだをひるがへし、
 倒さになつてそれは愛撫に似たすれちがひに
 やはらかな女のももをぐいともぎる。イメージ 27
 君の鋸歯は骨を切る。
 君は脂肪でぎらぎらする。
 君の鰭は広東港へ高價で売られ、
 君の駄肉はかまぼことなる。
 くひちぎる事の快さを知るものは、
 君の不思議な魅力ある隠れた口に
 総毛だつやうな慾情を感じて見つめる、
 このコンクリートの水揚場の朝河岸に
 からころとやつて来る浴衣がけのあの餌(えさ)どもを。


「うろくづ」は魚を表す古語です。故・貝(佐々木)廣さん、高校時代にこの詩に出会い、「うろくづ」の意味が分からず、先生に訊いたそうです。すると訊かれた先生もご存じなかったようで「うろつく、の間違いじゃないのか」とのたまったとのこと。貝(佐々木)さん、「そんなわきゃないだろう」とご自分で調べ、それが光太郎にのめり込む一つのきっかけだったと、生前におっしゃっていました。

画像は昭和6年(1931)、新聞『時事新報』に連載された光太郎の紀行文「三陸廻り」に添えられた光太郎自筆のカット。「女川のしミ」と題されています。「しミ」は「しび」で、「鮪」。マグロ類のやはり古称です。

地方紙『石巻かほく』さんに、「詩人・彫刻家高村光太郎と女川」展の記事が出ています。 

女川と光太郎の関わり紹介 13日まで特別展

 女川町とゆかりが深い高村光太郎(1883~1956)イメージ 28にちなんだ特別展「詩人・彫刻家高村光太郎と女川~えにしをつなごう」が7日、町生涯学習センター内にある「女川つながる図書館」で始まった。
 光太郎が1931年に女川を訪れてから今年で88年目を迎える。「光太郎と女川との関わりを多くの人に知ってもらおう」と、今回初めて企画した。
 国語の教科書に掲載されるなど有名な「道程」の復刻版や「智恵子抄」をはじめ、1920年発刊の光太郎訳「續 ロダンの言葉」、光太郎と女川の関わりを分かりやすく知ることができる「光太郎 智恵子 うつくしきもの」(光太郎・北川太一著)など関連著作約40点を展示した。
 来場者には1931年前後の女川の様子を頭に浮かべてもらうため、当時の女川港やカツオ船の水揚げ風景といった白黒写真も飾り、来場者の関心を集めている。希望者がいれば、折り紙でのしおり作りや、「道程」「レモン哀歌」の朗読なども行う。
 図書館で同級生2人と簿記の勉強をしていた石巻商高1年の男子生徒(16)は「高村光太郎という名は正直知らなかった。これから勉強したい」と話し、著作物などを見ていた。
 町教委生涯学習課の社会教育指導員加納純一郎さんは「大人でも光太郎と女川との関わりを知っている人は意外と少ない」と説明。町民のほか、光太郎、文学ファンの来場を呼び掛けている。
 特別展は13日まで。時間は月~金が午前10時から午後8時まで。土日祝日は午後5時まで。入場無料。


その後、まちなか交流館さんへ移動、第28回女川光太郎祭に参加させていただきまして、昨日のレポートの内容につながります。

明日は、翌日、女川を後に訪れた同じ宮城県の気仙沼レポートをお届けいたします。


【折々のことば・光太郎】

死を超えて人大なり      短句揮毫 戦後

津波に呑み込まれて亡くなり、しかしそのご遺徳を慕って今も女川に人々を集め続ける貝(佐々木)廣さんを思わずにいられない一言です。
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