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都内レポート その4 第13回与謝野寛・晶子を偲ぶ会 「明星」文学者、四季の食卓― 杢太郎・勇・晶子・光太郎。

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3月23日(土)、前日に引き続き、都内に出まして、吉祥寺の武蔵野商工会議所さんにて開催の「第13回与謝野寛・晶子を偲ぶ会 「明星」文学者、四季の食卓― 杢太郎・勇・晶子・光太郎」で、公開講座の講師を務めさせていただきました。

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講座は前後半にわかれ、前半が「杢太郎と勇 美食家(グールメ)と健啖家(グールマン)―美食への憧れ」。木下杢太郎に関し、「グルメといわれるが―杢太郎は何を食べたか」と題し、歌人で伊東市立木下杢太郎記念館の丸井重孝氏、吉井勇について静岡県立大学の細川光洋氏が「極道に生れて河豚のうまさかな―健啖家(グールマン)・吉井勇」と題されたご発表および対談。

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後半は「晶子と光太郎 日仏の出会う食卓風景」ということで、当方が「苦しい中でも工夫して/高村光太郎の食」、歌人の松平盟子氏が 「家族と囲む食の喜び ~駿河屋の娘のそののち」という題で、与謝野晶子についてご発表。当方、ついついしゃべりすぎて、持ち時間をオーバーしてしまい、ご迷惑をおかけしました。反省しきりです。

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杢太郎や吉井が「食」へのこだわりを強く持っていたというのはほとんど存じませんでしたし、晶子は子だくさんの大変な状況でも、栄養価を考えたり、フランス仕込みの知識などを活用したりで、それなりに豊かな食生活を送ろうと努めていたことがわかりました。

光太郎も、少年時代には廃仏毀釈の影響で父・光雲の仏師としての苦闘期を送り、留学からの帰国後も決して裕福ではなかった智恵子との生活を経、戦中戦後の混乱期と、さまざまに工夫しながらの食生活でした。昭和27年(1952)に行われた座談会「簡素生活と健康」では「食べ物はバカにしてはいけません。うんと大切だということです」と発言し、さまざまな工夫を披瀝したりもしています。

今回、目からウロコだったのは、同じ「簡素生活と健康」の中での次の発言。花巻郊外太田村での山居生活に関してです。「川島」は川島四郎。元軍人(最終階級は陸軍主計少将)、栄養学者、農学博士でした。

高村 主食はもともと少かつたんですが、食糧には困らなかつた。みんな持つて来てくれるんです。お米でも
    稗でも、漬物や南瓜なども……。蛋白質だけはなかつたな。
川島 田舎ではね……。
高村 それで蛙をとつて食べたんです。赤蛙をね。まだ動いているのを  皮をはいで……。近所にはいゝやつ
    がどつさりいたんです。

本当にカエルを食べていたのか? と、以前から疑問でした。座談会ということで、リップサービス的に話を盛っているのでは、と。ところが、松平氏曰く、カエルはフランスではごく普通の食材なので、十分あり得る、とのこと。
確かに、明治45年(1912)に書かれた「画室にて」という散文では、パリ留学中の思い出を語る中で、次の発言もあります。

就中(なかんずく)珍なのは、オルドーブルと云つて外にはないスープの前に出る一皿。それには、雁の胆、蝸牛なぞがつきます。然かも本当の料理を食べる仏蘭西人は、外の物には手もつけない。そのオルドーブルだけ食べるのです。オルドーブルだけで売出した家(うち)さへある。(略)大体の料理は五フランぐらゐで一寸食へるが、その家は五フランでオルドーブルが食べ度いだけ食べられる。

「オルドーブル」は「オードブル」。カエルもちゃんと入っていますね。日本での感覚で考えるとゲテモノですが、そうではなかったわけです。


終了後、近くの居酒屋で懇親会。

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晶子研究の泰斗で、旧知の逸見久美先生のお隣に座らせていただきました。逆サイドのお隣には、光雲の師・高村東雲の末裔に当たられる高村晴雲氏の講座で仏像彫刻を学ばれたというお坊様。驚いたことに、岡本かの子の血縁の方だそうでした。かの子は智恵子同様『青鞜』メンバーでしたし、かの子の夫・一平は東京美術学校西洋画科で光太郎と同級生でした。いわずもがなですが、一平・かの子の子息はかの岡本太郎です。不思議な縁を感じました。


というわけで、4回にわたっての都内レポート、終わります。


【折々のことば・光太郎】

春が来ると何よりも新鮮な食べものの多くなるのがうれしい。私は野のもの山のものが好きなので、摘草にわざわざ行くといふ程の閑暇はないが、そこらに生えてゐる草の芽の食べられるものは何でも食べる。

散文「春さきの好物」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

同じ文章で光太郎が食べるとしている野草、山菜類 は以下のとおり。ハコベ、ヨメナ、ノビル、スベリヒユ、タンポポ、ツクシ、カンゾウ、カタバミ、イタドリ、ユキノシタ、フキノトウ、センブリ、オニフスベ、ワラビ、ゼンマイ、コゴミ、タラの芽、杉の芽、マタタビ。

親友で、やはり『明星』に拠っていた水野葉舟が『食べられる草木』という書物を著しており、参考にしたかもしれません。

「智恵子抄」系。

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2件ほどご紹介します。

まず、おそらく朗読系の公演だと思われます。詳細がよくわからないのですが……。 

話楽庵  弥生の会

期   日  : 2019年3月31日(日)
会   場 : 話楽庵 栃木県小山市萱橋730-9

時   間 : 14:00〜
料   金 : 1,000円
出   演 : わたなべ紀子
演   目 : 下野古麻呂物語 高村光太郎 智恵子抄より 「あなたはだんだんきれいになる」 「レモン哀歌」 
                   他

弥生の月は、私の誕生月です。20日に還暦を迎えます。還暦は、生まれ変わって新しい人生を歩み始めるという意味もあるとか…新たな話楽の世界を作り上げていきたいと、思います。

話楽…話は、楽しい。音楽と話の融合。そして…音霊と言霊の世界。流体話法・流体演技・共鳴体の世界。


続いて、テレビ放映情報。 

おかしな刑事~居眠り刑事とエリート警視の父娘捜査(8) 東京タワーは見ていた! 消えた少女の秘密・血痕が描く謎のルート!

BS朝日 2019年4月1日(月)  21時00分~22時54分

伊東四朗が叩き上げの刑事、羽田美智子がエリート警視という凸凹父娘コンビを演じる大人気シリーズの第8弾 ‼ 篤志家の社長が刺された! その背後には、30年前、東京タワーの下で起きた誘拐事件の影が…!?

出演  伊東四朗 羽田美智子 石井正則 小倉久寛 辺見えみり 山口美也子 木場勝己 小澤象 丸山厚人
           菅原大吉 (他)

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地上波テレビ朝日さんで、平成23年(2011)年に初回放映があったものです。その後、テレ朝さんや系列のBS朝日さんで何度か再放送されています。

上記の番組説明では書かれていませんが、初回放映時のサブタイトルが「地上333メートルの殺意!! ホームレスが隠した事件の謎!? 安達太良山で待ち受ける真実!! 『智恵子抄』に秘められた想いとは…」。その後、そのサブタイトルが使われなくなり、「智恵子抄」がらみの内容だとわからなくなってしまいました。

昨年の暮れにも再放送があり、この手のサスペンスものがとにかく大好きな愚妻が拝見、「こんなドラマやってたよ」と教えてくれ、ようやくその存在に気づいた次第です。

調べてみましたところ、智恵子の故郷・二本松でもロケが行われ、櫟平ホテルさん、二本松市さん、岳温泉観光協会さんなどが協力に名を連ねています。岳温泉さん、智恵子生家、その裏山の光太郎詩碑がある鞍石山などでもロケがありました。

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羽田美智子さんといえば、平成27年(2015)にNHK Eテレさんで放映された「趣味どきっ!女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門 第5回「智恵子、愛と死 自省の「道程」 高村光太郎×智恵子」」にもご出演。最近では今年封切りの北原白秋を主人公とし、光太郎も出演した映画「この道」では与謝野晶子役をなさっていました。

ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

私はその頃の数年間家事の雑務と看病とに追はれて彫刻も作らず、詩もまとまらず、全くの空白時代を過ごした。私自身がよく狂気しなかつたと思ふ。其時世人は私が彫刻や詩作に怠けてゐると評した。

散文「自作肖像漫談」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

「その頃」は、智恵子の心の病が顕在化した昭和6年(1931)から、南品川ゼームス坂病院に入院させた同10年(1935)の頃です。同9年(1934)には光太郎の父・光雲が胃ガンで没してもいます。

そうした事情に通じていない無責任な世間は、光太郎が怠けていると評したとのこと。残酷といえば残酷ですね。

花巻連翹忌。

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4月2日、光太郎命日、連翹忌が近づいて参りました。東京日比谷公園松本楼さんでは、当会主催の連翹忌の集いを行いますが、光太郎第二の故郷ともいうべき岩手花巻でも、花巻としての連翹忌を開催して下さっています。

今年も花巻市さんの広報紙『広報はなまき』3月15日号に案内が出ました。

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お近くの方はぜひそちらにご参加下さい。


【折々のことば・光太郎】

余事ながら、腰掛けの仕事卓に使ふ回転椅子は昔パリの百貨店ボンマルシエで買つて来た仕入物であるが、実に丈夫でまだ何ともなつていない。別に高価な品ではないのだが、金物などの作り方が丁寧親切に出来てゐるには感心する。螺旋で上下し、回転軸は別にあり、ばねで後ろへ傾くやうになつてゐる。

散文「三十年来の常用卓」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

欅の板で自作した仕事机に関する散文の末尾の部分です。自作の仕事机は天板が台形で、体の正面に当たる部分が斜めに切ってあって、左の方が手前に張り出し、肘を載せられるようになっている作りで、これが甚だ使いやすいとのこと。たまたまそういう形の板があったのでそのようにしてみたそうです。

それとセットの椅子は、明治末の留学時にパリで購入した物を持ち帰ったそうで、記述を読むと現代ではごくあたりまえの事務椅子のようですが、当時としては珍しいものだったようです。他の文章等でもこの椅子についての記述があり、やはり高級品でなくともしっかりした作りであることに感心したと述べています。

信州善光寺仁王門写真コンテスト。

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光太郎の父・高村光雲と、その高弟・米原雲海による仁王像などが納められている信州善光寺さんでの写真コンテストが開催されます。

地元紙『信濃毎日新聞』さんから。 

善光寺・仁王門、初の写真コンテスト 4月1日から作品募集

 長野市の善光寺は、仁王門の写真コンテストを初めて企イメージ 1画し、4月1日に作品募集を始める。仁王門が昨年、火災後の再建から100年を迎えたことを記念し、参拝客により親しんでもらおうと企画。併せて明治、大正時代や昭和の前半ごろまでに撮影された仁王門の写真提供も呼び掛けている。
  コンテストの題材は、仁王門や門の中に納められている仁王像、三面大黒天像、三宝荒神像など。1912(明治45)年の御開帳の際に一時的に置かれ、現在は飯山市の広場にある「先代」仁王像も含む。
  現在の仁王像の制作に携わった彫刻家高村光雲(1852~1934年)のひ孫で写真家の高村達(とおる)さん(51)=東京=や同寺の小林順彦(じゅんげん)・寺務総長(53)らが審査。特賞3点、入選5点を選び、7月25日?9月15日に境内の善光寺史料館に展示し、仁王門再建100年を記念して9月に予定する特別法要で表彰する。
  同寺事務局文教課は「善光寺の身近さが感じられるよう表現してほしい」としている。
  コンテストへの応募は、カラーA4サイズで題名、住所、氏名、年齢、連絡先を明記し、6月14日までに善光寺事務局文教課(〒380―0851長野市長野元善町491―イ)に送る。問い合わせは同事務局(電話026・234・3591)へ。
  仁王門の昔の写真は資料として保存し、後世に残す考えだ。これまでに門前の大石堂写真館から、仁王像が納まる前の仁王門の写真を入手。正月行事を担う堂童子とみられる僧侶が写っており、18年12月?19年1月の撮影と推測される。他に、現在の仁王門の前に建てられていた「仮の門」の写真なども提供された。寄せられた写真は、展示パネルや刊行物などに掲載する場合がある、としている。


善光寺さんのサイトから。 

【仁王門の写真コンテストを開催致します。】

『仁王門再建百年・仁王像開眼百年記念イヤーイベント』の一環としまして、現在の仁王門を題材にした写真コンテストを実施致します。応募方法等は、下記の通りです。応募開始は、4月1日(月)からとなりますのでふるってご応募願います。


【応募方法】
・カラープリントA4サイズにて応募してください。※応募件数に制限はありません。(写真プリント又はインクジェットで、プリントしたものに限ります。)
・題名・住所・氏名・年齢・連絡先を明記のうえ、善光寺まで送ってください。
★作品の返却は、致しません。(大切な作品は、複製を取って応募ください。)

【賞】
・特賞3点  ・入選5点  

【題材】
・(現在の)善光寺仁王門及び仁王像、三宝荒神像、三面大黒天像
・飯山市“寺町シンボル広場”内 仁王門(旧仁王像)

【締切】
・2019年6月14日(金)必着

【審査員】
・高村達氏(写真家・高村光雲の子孫)    ・毛利英俊氏(元信濃毎日新聞社・写真部長)
・長瀬哲氏(飯山市教育委員会・教育長)  ・小林順彦師(善光寺寺務総長)

【その他】
・応募封筒の表に『仁王門写真コンテスト応募』と明記してください
・他人の著作権・肖像権を侵害するような行為が行われた場合、それに関するトラベルの責任は一切負いかねます。
・被写体が人物の場合、必ずご本人(被写体)の承諾をいただいてください。
・入特選作品は、ご通知後に弊局まで原版(画像データ)を提出いただき、善光寺史料館に展示及び善光寺HPに掲載いたします。
◎入特選の方へ、仁王門再建百年記念法要(仮称)時に表彰いたします。
《応募先》
〒380-0851 長野市大字長野元善町491-イ 善光寺事務局 文教課 電話026-234-3591


仁王像の開眼から100周年ということで、善光寺さんでは昨年からさまざまな取り組みをなさっています。例年開催されている寺域全体でのライトアップに加え、仁王門北側に納められた、やはり光雲らによる「三宝荒神像」と「三面大黒天像」のライトアップ仁王像に関する市民講座、そして文化財指定に向けた仁王像の本格調査など。この秋には100周年特別法要も予定されています。

そうした流れの中での写真コンテスト。腕に自信のある方、ぜひご応募下さい。


【折々のことば・光太郎】

私は生来の雷ぎらひである。どういふわけといふ理由も何もないが、あの比例外れな、途方もない、不合理極まる大音響が第一困る。これはまるで前世紀の遺物ではないか。イグアノドン、マストドンの夢ではないか。

散文「雷ぎらひ」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

誰にでも恐怖を伴う苦手なものがあるようで、虫が苦手、犬が苦手、蛇が苦手、高いところが苦手、お化けが苦手、注射が苦手などなど、よく聞きますね。光太郎の場合は、雷だったそうで。

そうでない人から見れば、甚だ滑稽に見えることもあり、光太郎の雷嫌いにもつい笑ってしまいますが、当人はいたって真面目。それがまた笑いを誘ったりもします。ちなみにその様子は以下の通り。

・ 夜間に落雷があることを昼間のうちに予知。
・ 落雷が近づくと、電気のブレーカーを切る。
・ 一切の金属を体から遠ざける。足袋のこはぜも不可。
・ 脚に滑り止めのゴムをはめた籐椅子の上であぐらをかく。
・ 恐怖を紛らわすために『古事記伝』のような木版本を読み、そちらに意識を向ける。

まぁ、落雷も確かに危険ですが……。

ちなみに信濃善光寺さん、平安時代末の治承3年(1179)には落雷による火災に見舞われています。

文京区立森鷗外記念館 特別展「一葉、晶子、らいてう―鷗外と女性文学者たち」。

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企画展情報です。 

特別展「一葉、晶子、らいてう―鷗外と女性文学者たち」

期    日  : 2019年4月6日(土) ~6月30日(日)
会    場 : 文京区立森鷗外記念館 東京都文京区千駄木1-23-4
時    間 : 10:00〜18:00
料    金 : 一般 500円  20名以上の団体は400円  中学生以下無料
休 館 日 : 5月28日(火)、6月25日(火)

小説家・樋口一葉(18721896)、歌人・与謝野晶子(18781942)、評論家・平塚らいてう(18861971)―明治・大正期を代表する女性文学者三人を、森鴎外(18621922)は「女流のすぐれた人」(『与謝野晶子さんに就いて』)と高く評価しています。現在は文学者の性別が意識されることも少なくなりましたが、明治・大正期の女性文学者は「閨秀(けいしゅう)作家」「女流作家」などと呼ばれ、男性中心の文学者たちの中で区別されてきました。一葉、晶子、らいてうもそうした環境で自身の表現を模索し、小説や詩歌、評論を以て時代と向き合いました。
三人が世に出た事情や時期は異なり、表現の手段もさまざまです。鷗外は女性文学者たちが表現することを好意的にとらえ、常に変わらず見守ってきました。鷗外が彼女たちに向けた眼差しは、鷗外の評論や日記、書簡、そして彼女たちの証言からも知ることができます。
本展では、一葉、晶子、らいてうと鷗外の交流や接点を交えながら、活躍の場となった雑誌、受けた教育、人物交流などの視点をとおして、三人の文業や周辺の女性文学者を展覧します。明治・大正期に花開いた女性文学者たちと、彼女たちを見つめた鷗外が織りなす近代文学史を紹介します。

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関連行事

 講師:三枝之氏(歌人・山梨県立文学館館長)    日時:62日(日)14時~1530
 会場:文京区立森鴎外記念館 2階講座室        定員:50名(事前申込制)
 料金:無料(参加票と本展鑑賞券(半券可)が必要) 申込締切:517日(金)必着

講演会2「森鷗外と新しい女たち」
 講師:尾形明子氏(文芸評論家)          日時:68日(土)14001530
 会場:文京区立森鴎外記念館 2階講座室        定員:50名(事前申込制)
 料金:無料(参加票と本展鑑賞券(半券可)が必要) 申込締切:5月24日(金)必着

ギャラリートーク 展示室にて当館学芸員が展示解説を行います。
 4月17日、5月15日、6月12日 いずれも(水)14時~(30分程度)
 申込不要、展示観覧券が必要です。
 
中学生・高校生向けギャラリートーク
 教科書にも登場する、一葉、晶子、らいてう、そして鷗外についてお話します。
 6月23日(日)14時~(30分程度) 申込不要、高校生以上の方は展示観覧券が必要です。


与謝野晶子は、新詩社における光太郎の師。平塚らいてうは日本女子大学校での智恵子の先輩にしてテニス仲間。『青鞜』の表紙絵を智恵子に依頼しました(智恵子の手になる表紙があしらわれた創刊号(明治44年=1911)も展示されるようです)。そして森鷗外は、東京美術学校で教壇に立っていたこともあり、光太郎は美学の授業を受けました。その後も観潮楼歌会に何度か参加しています。

早逝した樋口一葉は光太郎智恵子と直接の関わりはなかったようですが、光太郎は同じく早逝した実姉・さく(咲子)の風貌が一葉に似ていたと回想しています。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

人間の記憶や表現の半分以上は間違であるかも知れない。間違いと否との百分率が取れたら随分意外の思をすることだらうと考へられる。間違ふことを神経質に嫌つてゐたら何を考へることも表現することも出来なくなるであらうし、さうかといつてそれを構はずに居たら何の進捗発展もないことにならう。
散文「間違のこと」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

言葉の部分では、一度こうと思いこむと、それが誤りと知らずに使い続けてしまう例はよくありますね。熟語の読み方、意味、漢字の送り仮名、字形、書き順、それから歌の歌詞などなど。光太郎も同じ文章で、長い間「獺祭(だっさい)」を「らいさい」だと思いこんでいて、恥をかいたという経験を披瀝しています。某国営放送のアナウンサー嬢は、本番中にニュース原稿の「喫緊」が読めず、「きんきつ」などと読み、同時に出演していた男性アナウンサーに「きっきん! きっきん!」と何度も横から小声で指摘され、それでも「え? え???」とパニックになっていたことがありました。

言葉の部分では、当人が困るだけという面がありますが、事実関係の誤認などを、ある程度権威のある人が影響力の強いメディアなどで平気で書いたりしゃべったりされると、それを真に受けた人がさらに流布することにもなり、やがて誤った内容が定説としなってしまうこともなきにしもあらず。当方も(権威はありませんが(笑))気をつけようと思います。

『すごい言い訳!―二股疑惑をかけられた龍之介、税を誤魔化そうとした漱石―』。

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新刊書籍です。 

すごい言い訳! 二股疑惑をかけられた龍之介、税を誤魔化そうとした漱石

2019年3月15日 中川越著 新潮社 定価1,600円+税

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浮気を疑われている、生活費が底をついた、原稿が書けない、酒で失敗をやらかした……。窮地を脱するため、追い詰められた文豪たちがしたためた弁明の書簡集。芥川龍之介から太宰治、林芙美子、中原中也、夏目漱石まで、時に苦しく、時に図々しい言い訳の奥義を学ぶ。

目次

 はじめに
 第一章 男と女の恋の言い訳
  フィアンセに二股疑惑をかけられ命がけで否定した 芥川龍之介
  禁じられた恋人にメルヘンチックに連絡した 北原白秋
  下心アリアリのデートの誘いをスマートに断った言い訳の巨匠 樋口一葉
  悲惨な環境にあえぐ恋人を励ますしかなかった無力な 小林多喜二
  自虐的な結婚通知で祝福を勝ち取った 織田作之助
  本妻への送金が滞り愛人との絶縁を誓った罰当たり 直木三十五
  恋人を親友に奪われ精一杯やせ我慢した 寺山修司
  歌の指導にかこつけて若い女性の再訪を願った 萩原朔太郎
  奇妙な謝罪プレーに勤しんだマニア 谷崎潤一郎
  へんな理由を根拠に恋人の写真を欲しがった 八木重吉
  二心を隠して夫に潔白を証明しようとした恋のモンスター 林芙美子

 第二章 お金にまつわる苦しい言い訳
  借金を申し込むときもわがままだった 武者小路実篤
  ギャラの交渉に苦心惨憺した生真面目な 佐藤春夫
  脅迫しながら学費の援助を求めたしたたかな 若山牧水
  ビッグマウスで留学の援助を申し出た愉快な 菊池寛
  作り話で親友に借金を申し込んだ嘘つき 石川啄木
  相手の不安を小さくするキーワードを使って前借りを頼んだ 太宰治
  父親に遊学の費用をおねだりした甘えん坊 宮沢賢治

 第三章 手紙の無作法を詫びる言い訳
  それほど失礼ではない手紙をていねいに詫びた律儀な 吉川英治
  親友に返信できなかった訳をツールのせいにした 中原中也
  手紙の失礼を体調のせいにしてお茶を濁した 太宰治
  譲れないこだわりを反省の言葉にこめた 室生犀星
  先輩作家への擦り寄り疑惑を執拗に否定した 横光利一
  親バカな招待状を親バカを自覚して書いた 福沢諭吉
  手紙の無作法を先回りして詫びた用心深い 芥川龍之介

 第四章 依頼を断るときの上手い言い訳
  裁判所からの出頭要請を痛快に断った無頼派 坂口安吾
  序文を頼まれその必要性を否定した 高村光太郎
  弟からの結婚相談に困り果てた気の毒な兄 谷崎潤一郎
  もてはやされることを遠慮した慎重居士 藤沢周平
  独自の偲び方を盾に追悼文の依頼を断った 島崎藤村
  意外に書が弱点で揮毫を断った文武の傑物 森鴎外

 第五章 やらかした失礼・失態を乗り切る言い訳
  共犯者をかばうつもりが逆効果になった粗忽者 山田風太郎
  息子の粗相を半分近所の子供のせいにした親バカ 阿川弘之
  先輩の逆鱗に触れ反省に反論を潜ませた 新美南吉
  深酒で失言して言い訳の横綱を利用した 北原白秋
  友人の絵を無断で美術展に応募して巧みに詫びた 有島武郎
  酒で親友に迷惑をかけてトリッキーに詫びた 中原中也
  無沙汰の理由を開き直って説明した憎めない怠け者 若山牧水
  物心の支援者への無沙汰を斬新に詫びた 石川啄木
  礼状が催促のサインと思われないか心配した 尾崎紅葉
  怒れる友人に自分の非を認め詫びた素直な 太宰治
  批判はブーメランと気づいて釈明を準備した 寺田寅彦

 第六章 「文豪あるある」の言い訳
  原稿を催促され詩的に恐縮し怠惰を詫びた 川端康成
  原稿を催促され美文で説き伏せた 泉鏡花
  カンペキな理由で原稿が書けないと言い逃れた大御所 志賀直哉
  川端康成に序文をもらいお礼する際に失礼を犯した 三島由紀夫
  遠慮深く挑発し論争を仕掛けた万年書生 江戸川乱歩
  深刻な状況なのに滑稽な前置きで同情を買うことに成功した 正岡子規
  信と疑の間で悩み原稿の送付をためらった 太宰治
  不十分な原稿と認めながらも一ミリも悪びれない 徳冨蘆花
  友人に原稿の持ち込みを頼まれ注意深く引き受けた 北杜夫
  紹介した知人の人品を見誤っていたと猛省した 志賀直哉
  先輩に面会を願うために自殺まで仄めかした物騒な 小林秀雄
  謝りたいけど謝る理由を忘れたと書いたシュールな 中勘助

 第七章 エクスキューズの達人・夏目漱石の言い訳
  納税を誤魔化そうと企んで叱られシュンとした 夏目漱石
  返済計画と完済期限を勝手に決めた偉そうな債務者 夏目漱石
  妻に文句を言うときいつになく優しかった病床の 夏目漱石
  未知の人の面会依頼をへっぴり腰で受け入れた 夏目漱石
  失礼な詫び方で信愛を表現したテクニシャン 夏目漱石
  宛名の誤記の失礼を別の失礼でうまく隠したズルい 夏目漱石
  預かった手紙を盗まれ反省の範囲を面白く限定した 夏目漱石
  句会から投稿を催促され神様を持ち出したズルい 夏目漱石
  不当な苦情に対して巧みに猛烈な反駁を盛り込んだ 夏目漱石

 参考・引用文献一覧
 おわりに


さまざまな文豪たちの書簡にしたためられた「言い訳」の数々が紹介され、どういったシチュエーションでそれが用いられたのかの解説、そして分析。各段4ページ前後ですので、全体的には250ページほど。読了するにそれほどかかりません。

まず、紹介されている文豪たちの信条というか、人間性というか、そういったものがその背後に見え、興味深く感じました。「いかにも誰々らしい」と感じる部分と、「誰々はこういう一面もあったのか」という部分もありました。

非常に面白いと共に、実用的でもあります。「こういう場合にはこんな言い訳をすればよいのか」、「なるほど、これも一つの手だな」といった感じで。また、「言い訳」というより、相手をかわす方法や、時には逆襲するパターンも語られています。そして、これが大事だと思ったのは、肝心の一文に到るまでのプロセス。いきなり謝罪や言い訳、駄目出しや拒絶に行かず、ひとまず相手を持ち上げて置いたり、自分でへりくだったりして見せ、それから本題に入ったり、あるいは「猫だまし」的に意表を突く内容から始めたり……。ところが、それが全てうまく行っているかというと、そうでもないというあたりが、ユーモラスだったりもしました。

光太郎に関しては、かわす方法。菊池正という詩人が書いた詩集の序文執筆を頼まれ、それに対しての断りです。まずは詩集自体を褒め、しかし、ある意味論点をずらし、そもそも一般論として自著に他者の序文が必要なのか、と問いかけます。『道程』をはじめ、自分は他者に序文を書いてもらったことはない、と、光太郎自身を引き合いに出し、相手にぐうの音も言わせない高度なテクニックです。

とは言え、著者の中川氏も指摘されていますが、光太郎はこれ以前に菊池の別の詩集には序文を書いてやっていますし、他の詩人の詩集にも少なからず序跋文を寄せています。数えてみましたところ、散文集、翻訳書などを含めれば、確認できている限りその数は60篇ほどにもなります。ただ、あまり交流の深くなかった人物の著書に対しては一度限りという感じで、どうも二匹目のドジョウを狙う依頼に対しては、上記のような手を使ってかわすこともあったのでしょう。単に面倒くさかっただけかもしれません。

他の文豪たちの「言い訳」も、さすがに言葉のプロフェッショナルたちだけあって、海千山千(死語ですね(笑))、酸いも甘いもかみ分けた(これも死語ですね(笑))、その手練手管(この際、もはや死語にこだわります(笑))には感心させられました。

しかし、最も感心させられるのは、やはり誠意を持ってわびるパターン。意外や意外、そういった方向性とは最も無縁なような太宰治がそうやっています。曰く「私も、思いちがいをしていたところあったように思われます」。太宰を少し見直しましたし、我が身を振り返り、かくあるべきだなと反省しました。「誤解を与えたとすれば、撤回します」というパターンを流行らせている永田町界隈の魑魅魍魎どもにも見習ってほしいものです(笑)。


【折々のことば・光太郎】

素人は仕事の恐ろしさを知らず、従つて全身的の責任を感じない。思ひつきと頓智とは素人に豊富だが、それを全体との正しい関係に於いて生かすといふ遠近の展望を持たない。素人の仕事は多く一個人的であつて普遍の道理を内蔵しない。それゆゑ伝統の力と修行の重要性とを軽んずる傾があり、ただむやみに己の好むところに凝る、時として外見上甚だ熱があるやうに見える事もあるが、それは多く透徹した叡智を欠いた偏執であるに過ぎない。

散文「素人玄人」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

彫刻と詩で二股をかけ、それぞれに多作とは言えなかった(詩の方はこの後、翼賛詩を乱発するようになりますが)光太郎に対し、「素人彫刻家」、「素人詩人」という評が出され、それに対する反駁として書かれた文章の一節です。主に彫刻の分野を念頭に置いての話だと思いますが、自分はこういう「素人」ではないと宣言しています。確かに光太郎、父・光雲に叩き込まれた江戸以来の仏師の技をバックボーンに持ち、「伝統の力と修行の重要性」を身を以て理解していました。

「研究報告「高村光太郎記念館」所蔵のホームスパンに関わる調査」。

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先月、盛岡市で岩手県立大学さんの短期大学部・菊池イメージ 2直子教授による公開講座「高村光太郎のホームスパン」拝聴して参りましたが、その発表の元となった内容が、同大の『研究論集第21号』に掲載され、菊池氏がその抜き刷りを送って下さいました。

先月のご発表にても紹介されたとおり、光太郎とホームスパン(羊毛による手織りの織物)との関わり、主に2点についての調査結果がまとめられています。

まず1点。花巻高村光太郎記念館さんに収蔵されている、光太郎の遺品である大判の毛布が、世界的に有名な染織家であるエセル・メレ(あるいはその工房)の作だとほぼ断定できるということ。光太郎の日記に「メーレー夫人の毛布」という記述が複数回あり、また、実際にそれを見せられた岩手のホームスパン作家・福田ハレの回想にもその旨の記述があります。福田は及川全三という名人の弟子でした。

先月の発表ではその画像がなかったように記憶しておりますが、日本国内に残る他のメレ作品との比較が為されており、なるほど、よく似ています。左が光太郎遺品、右がアサヒビール大山崎山荘美術館さんに収められているものです。

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単にデザイン的な部分だけでなく、折り方の特徴などからも、メレ(あるいはその工房)の作とみて間違いないそうです。

過日も書きましたが、大正末から昭和初めに日本で開催されたメレの作品展の際、智恵子にせがまれて光太郎が購入したと語っていたと、福田の回想にあります。昭和20年(1945)の空襲の際には、事前に防空壕に入れておいて無事だったようです。

ちなみに光太郎がこの毛布(と思われるもの)を掛けている写真を見つけました。

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おそらく昭和28年(1953)、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京し、借りていた中野のアトリエで撮られた1枚。昭和31年(1956)に筑摩書房さんから刊行された『日本文学アルバム 高村光太郎』に掲載されています。モノクロなので色がわかりませんが、柄からみて間違いないでしょう。


もう1点。昭和25年(1950)にオーダーメイドされた、光太郎愛用の猟服(光太郎の記述では「猟人服」)について。こちらは花巻高村光太郎記念館さんで常設展示されています。やはりホ-ムスパン地で、織りは福田、仕立ては光太郎と交流の深かった画家の深沢紅子の父・四戸慈文。四戸は盛岡で仕立屋を営んでいました。

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光太郎がこれを着て写っている写真はけっこうあります。

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左は宮沢賢治の親友だった藤原嘉藤治(中央)も写っています。右は昭和27年(1952)に再上京した上野駅で。当方、国民服的なものだと思いこんでいましたが。

この服についても詳細な考察が為されています。以前にも書きましたが、背中一面に巨大なポケットが付いていて、スケッチブックも入れられるという優れものです。

それから、現存が確認できていないのですが、光太郎は外套も注文しています。下の画像は昭和26年(1951)、当会の祖・草野心平と撮った写真。時期的に見て、これがそうなのかな、という気がします。

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岩手では現在も、及川や福田の系譜に連なる方々がホームスパン制作に取り組んでいます。いずれ花巻高村光太郎記念館さんあたりで、光太郎とホームスパンに関わる企画展示など、開催してほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

美に関する製作は公式の理念や、壮大な民族意識といふやうなものだけでは決して生れない。さういふものは或は製作の主題となり、或はその動機となる事はあつても、その製作が心の底から生れ出て、生きた血を持つに至るには、必ずそこに大きな愛のやりとりがいる。それは神の愛である事もあらう。大君の愛である事もあらう。又実に一人の女性の底ぬけの純愛である事があるのである。

散文「智恵子の半生」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

この年の『婦人公論』に発表(原題「彼女の半生――亡き妻の思ひ出――」)され、翌年の詩集『智恵子抄』にも収められました。そもそも詩集『智恵子抄』の成立は、この文章を読んで心を打たれた出版社龍星閣主・沢田伊四郎が、智恵子に関する詩文を集めて一冊の本にしたい、と提案したことに始まります。

まだ太平洋戦争開戦前ですが、それにしても、「大君の愛」と「一人の女性の底ぬけの純愛」を同列に扱うとは、大胆です。不敬罪でしょっぴかれたり、発禁になったりしても不思議ではありません。そうならなかった裏には、光太郎と交流があり、敬愛していた詩人の佐伯郁郎が内務省警保局の検閲官だったことがあるような気がしています。


明日、4月2日は、光太郎63回目の命日・連翹忌です。光太郎第二の故郷・花巻では午前中に光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)敷地内で詩碑前祭、午後から市街の松庵寺さんで連翹忌法要。そして東京日比谷公園松本朗様では、午後5:30から当会主催の連翹忌の集いが開催されます。光太郎智恵子、そして二人に関わった全ての人々に思いをはせる日としたいものです。

北川太一先生『光太郎ルーツそして吉本隆明ほか』。

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今日、4月2日は光太郎忌日・連翹忌です。午後5時30分からは、光太郎ゆかりの日比谷松本楼さんで、第63回連翹忌の集いを開催いたします。

63年前の今日、昭和31年(1956)4月2日、午前3時45分。中野桃園町の貸しアトリエで、巨星・高村光太郎は息を引き取りました。生涯、「冬」を愛した光太郎の最期を飾るかのように、前日から東京は季節外れの大雪だったそうです。その際に、アトリエの庭に咲いていた連翹、生前の光太郎がアトリエの持ち主の中西夫人に「何という花ですか」と尋ねたとのこと。そして「あれは「連翹」という花ですよ」との答えに「かわいらしい花ですね」。

4月4日、青山斎場で武者小路実篤を葬儀委員長として開かれた葬儀では、光太郎の棺の上に、その連翹の一枝が、愛用のコップに生けられて、置かれました。

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当会の祖・草野心平をはじめ、遺された人々の胸にはその連翹の印象が強く残り、光太郎忌日は「連翹忌」と名付けられました。直接の発案は若い頃から光太郎に親炙していた佐藤春夫だったようです。

心平を助け、途中から連翹忌の運営を引き継いだのが、現・当会顧問の北川太一先生です。北川先生は晩年の光太郎に薫陶を受け、その歿後は『高村光太郎全集』をはじめ、光太郎の業績を後世に伝えるためのさまざまな書籍等を編著なさいました。今日の第63回連翹忌にもご参会下さる予定です。

その北川先生の最新刊、昨日、届きました。 

光太郎ルーツそして吉本隆明ほか

2019年3月28日 北川太一著 文治堂書店 定価1,300円

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目次イメージ 3

 光雲抄 ――木彫孤塁
 光太郎詩の源泉
 鷗外と光太郎 ―巨匠と生の狩人―
 八一と光太郎 ―ひびきあう詩の心―
 心平・規と光太郎
 吉本隆明の『高村光太郎』 ―光太郎凝視―
 究極の願望 吉本隆明 (『高村光太郎選集』内容見本より)
 造形世界への探針 北川太一 ( 〃 )
 春秋社版・光太郎選集全六巻別巻一・概要
 対談 高村光太郎と現代 『選集』全六巻の刊行にあたって
                            吉本隆明 北川太一
 隆明さんへの感謝
 死なない吉本
 しかも科学はいまだに暗く ――賢治・隆明・光太郎――
 三つの「あとがき」抄
 あとがきのごときもの
 初出誌メモ


帯には北川先生と旧知の中村稔氏の推薦文。

高村光太郎の資料、情報の探索、蒐集、考証に心血を注いできた北川太一さんの文章はつねに含蓄と矜持に富んでいる。思想的立場は違っても、旧く親しい友人吉本隆明を語った文章も感興ふかい。推奨に値する書と言うべきであろう。


各種雑誌や、展覧会図録などに載った文章の再編ですが、初出誌が今では入手困難なものが多く、一冊にまとまっていることにありがたさが感じられます。当方、一部はパソコンで打ち込みをし、また、校閲をやらせていただいたので、今年初めには読みました。「そして吉本隆明」とあるとおり、戦前・戦時中の東京府立化学工業学校、戦後の新制東京工業大学で同窓だった故・吉本隆明氏について書かれた文章も含まれますが、吉本は吉本で日本で初めて光太郎論を一冊の本として上梓した人物。おのずとその筆は光太郎に無関係ではいられません。

いずれamazonさん等にアップされると存じます。また、今日の連翹忌会場で販売しますので、参会の方(おかげさまで75名のみなさんのお申し込みを賜りました)は、ぜひサインを書いていただき、家宝にしてほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

私はこの世で智恵子にめぐりあつたため、彼女の純愛によつて清浄にされ、以前の廃頽生活から救い出される事が出来た経歴を持つて居り、私の精神は一にかかつて彼女の存在そのものの上にあつたので、智恵子の死による精神的打撃は実に烈しく、一時は自己の芸術的製作さへ其の目標を失つたやうな空虚感にとりつかれた幾箇月かを過した。

散文「智恵子の半生」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

昨日も同じ「智恵子の半生」から引用しましたが、数ある光太郎エッセイの中でも、圧巻の一つゆえ、あしからずご了承ください。

男女の相違はあれど、光太郎を敬愛していた人々――上記にも名前を出した草野心平、佐藤春夫、そして北川先生などなど、みなさん、63年前の今日には、光太郎に対して同じような感懐を抱いたのではないかと存じます。

第63回連翹忌レポート。

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昨日は、平成最後の光太郎忌日・第63回連翹忌でした。光太郎ゆかりの日比谷松本楼様で、午後5時30分よりその集いを開催いたし、盛会のうちに終えることができました。関係各位に改めて御礼申し上げます。

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順を追ってレポートいたします。

千葉の自宅兼事務所から、愛車に光太郎遺影、配布物、展示資料(この1年間に発行された光太郎智恵子光雲関連の書籍・雑誌等々)、連翹の花(光太郎終焉の地・中野アトリエに咲いていたも木から株分けしたしたもの)などを積み込み、都内へ。

まずは品川区大井町に向かいました。今回の連翹忌で音楽演奏をお願いした、ミュージシャンにしてジオラマ作家の石井彰英氏のご自宅兼スタジオ兼ジオラマ工房、サロン・ルーフトップで、楽器や譜面台等を積み込むためです。

予想より早く高速を抜けられたので、途中、同じ大井町のゼームス坂に立ち寄りました。智恵子の終焉の地・ゼームス坂病院跡地に立つ光太郎詩「レモン哀歌」の碑を久しぶりに見ておこうと思いまして。

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建立されたのは昭和63年(1988)。当方、実は最後に訪れたのが20年前くらいで、その意味では懐かしさでいっぱいでした。地元の皆さんでしょうか、レモンが供えられ、清掃も行き届いており、ありがたく感じました。

その後、石井氏の元で機材を積み込み、連翹忌会場の日比谷公園へ。地下駐車場に車を駐め、都営地下鉄三田線で巣鴨へ。この後参会される皆様を代表し、染井霊園にある光太郎ら高村家の人々の眠る奥津城に墓参。
ソメイヨシノ発祥の地だけあって、満開のそれは見事でした。

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巣鴨駅前で遅めの昼食をかき込み、再び日比谷へ。地下から車を松本楼さんの玄関脇へ。

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すでに配布物の袋詰め等をお手伝い下さる皆さんがいらしていて、ありがたく存じました。その方々は受付もやって下さり、本当に助かっております。

そのうちに続々参加の方がお見えになり、最終的には当方を含め、77名。70名を超えれば、「よし、今年はけっこう集まった」と思えるラインです。毎年そうなのですが、ぎりぎりになってのお申し込みが多く、1週間前くらいの時点では「今年は人が集まるんだろうか」と気をもまされていましたが、杞憂に終わりました。

さて、5時30分、開会。まずは光太郎本人、そして花巻の高橋愛子さんなど、残念ながらこの1年に亡くなった関係の方々への黙祷。

続いて、当会顧問・北川太一先生のご挨拶。光太郎実弟にして鋳金分野の人間国宝だった故・村豊周令孫の村達氏(写真家)の音頭で、献杯。

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しばしビュッフェ形式で料理を味わっていただき、アトラクションへ。先述の石井彰英氏と、お仲間の堀晃枝さん、松元邦子さんによる演奏。ゼームス坂近くにお住まいの石井氏の作詞作曲による「トパーズ 高村智恵子に捧ぐ」他、全3曲を演奏して下さいました。

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その後、恒例のスピーチ。まずは、2年ぶりにご参会の、渡辺えりさん。このブログで何度もご紹介していますが、お父様が光太郎と交流がおありで、その影響で光太郎を主人公とした脚本なども書かれています。今回、意外とそのお話をご存じない方が多く、お父様と光太郎のご縁など、語ってくださいました。また、「あまちゃん」で共演されたのんさん(能年玲奈さん)もご出演される8月からの新作舞台「私の恋人」の宣伝もしていただきました。

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次に、書家の菊地雪渓氏。昨年、「第38回日本教育書道藝術院同人書作展」で、最優秀にあたる「会長賞」を受賞なさった「智恵子抄」などの光太郎詩6篇を書かれた作品をお持ちいただき、紹介されました。

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菊地氏、この他にもやはり昨年、「第40回東京書作展」でも光太郎詩「東北の秋」(昭和25年=1950)で臨まれ、「特選」を受賞されました。

詩人の佐相憲一氏。出版社・コールサック社さん関係の方で、昨年、同社から刊行の、光太郎と交流のあった野澤一の詩集『木葉童子詩經』復刻版を編集されました。

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同じく、光太郎と交流のあった詩人・尾崎喜八の令孫・石黒敦彦氏。喜八の妻・實子は光太郎の親友・水野葉舟の娘ですので、石黒氏、葉舟の曾孫にもあたられます。

さらに当会の祖・草野心平を祀るいわき市立草野心平記念文学館・小野浩氏。光太郎が認めた彫刻家・高田博厚の顕彰を進める埼玉県東松山市の教育長・中村幸一氏、光太郎詩に自作の曲をつけて歌われているシャンソン歌手のモンデンモモさん。

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イメージ 18イメージ 19






























最後に、明星研究会の松平盟子氏(歌人)にもお願いしました。光太郎と与謝野晶子のつながり、明星研究会の活動のご様子、光太郎にも触れて下さった昨年刊行の『真珠時間 短歌とエッセイのマリアージュ』などについてなど。

本当はもう少し多くの方々に語っていただきたかったのですが、皆さん、なかなか弁の立つ方々で(渡辺えりさんは20分くらいしゃべってました(笑))、時間の都合もあり、締めに移行。

昨年、智恵子の故郷・二本松で開催された「高村智恵子没後80年記念事業 全国『智恵子抄』朗読大会」で大賞に輝いた宮尾壽里子さんと、お仲間の上田あゆみさん、吉浦康さんに、朗読をお願いしました。

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単なる朗読ではなく、何度か宮尾さんが公演された形式からの再編で、光太郎詩「レモン哀歌」の朗読に始まり、その後は光太郎評論「緑色の太陽」、確認されている智恵子唯一の詩「無題録」などの朗読を織り交ぜつつ、光太郎智恵子の生の軌跡を語る物語となっていました。BGMにはテルミン奏者・大西ようこさんのCDを使わせていただきました。


そして、名残を惜しみつつ、来年、令和2年となる第64回連翹忌での再会を期して、閉会。

来年も広く参加者を募ります。参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ということのみです。ご参加下さっているのは、光太郎血縁の方、生前の光太郎をご存じの方、生前の光太郎と交流のあった方のゆかりの方、美術館・文学館関係の方、出版・教育関係の方、光太郎智恵子をモチーフに美術・文学などの実作者の方、同じく音楽・芸能関連で光太郎智恵子を扱って下さっている方、各地で光太郎智恵子の顕彰活動に取り組まれている方、そして当方もそうですが、単なる光太郎ファン。どなたにも門戸を開放しております。

繰り返しますが、参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ことのみです。

よろしくお願いいたします。


【折々のことば・光太郎】

私は此の愛の書簡に値しないやうにも思ふが、しかし又斯かる稀有の愛を感じ得る心のまだ滅びないのを自ら知つて仕合せだと思ふ。私は結局一箇の私として終はるだらうが、この木つ葉童子の天来の息吹に触れたことはきつと何かみのり多いものとなつて私の心の滋味を培ふだらう。

散文「某月某日」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

「木つ葉童子」とは、上記でもご紹介しましたが、光太郎を敬愛していた詩人・野澤一です。「愛の書簡」はラブレターという意味ではなく、野澤が光太郎に送った300通余りの書簡。光太郎より21歳年下にもかかわらず、野澤は時に光太郎を叱咤激励するような内容もしたためました。最愛の智恵子を失って落ち込んでいた光太郎にとって、それはありがたい部分もあったようです。

昨日の第63回連翹忌、光太郎と交流のあった人々ゆかりの皆さんが多数参加され、改めてその人脈の広さ、そしてその人々に支えられ、また光太郎自身も支え、そうして広がっていった人の輪というものを感じました。そうした精神が脈々と受け継がれている連翹忌。今更ながら、さらに手前味噌ながら、すばらしいと感じています。その運営を引き受けて8年になりますが、今後もその灯をともし続けていかねばならない、と、責任の重大さを再確認いたしております。

今後とも、ご協力よろしくお願いいたします。

花巻連翹忌報道。

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4月2日(火)、東京日比谷公園松本楼様では、当会主催の第63回連翹忌の集いを催しましたが、光太郎第二の故郷・岩手花巻でも独自に花巻としての連翹忌他が開催されています。ちなみに花巻では「回忌」のカウント法なので、「64回忌」と、こちらよりプラス1になります。

今年は同地でかなり報道されていますので、ご紹介します。

まず、午前中、光太郎が戦後の7年間を過ごした旧太田村の山小屋(高村山荘)敷地内で、詩碑前祭。例年は、その名の通り、昭和20年(1945)の詩「雪白く積めり」を刻んだ光太郎詩碑の前で地元の方々が詩の朗読などをなさり、詩碑に献花などがなされるのですが、何と今年は大雪だったそうで、山荘に隣接する花巻高村光太郎記念館さんでの開催となったそうです。

まず『岩手日報』さん。 

高村光太郎先生に思いはせ 花巻で詩碑前祭

 詩人で彫刻家高村光太郎(1883~1956年)の第六十四回イメージ 1忌詩碑前祭は命日の2日、花巻市太田の高村光太郎記念館で開かれた。1945(昭和20)年から7年間、旧太田村山口で山居生活を送った光太郎の遺徳をしのんだ。
 地元の顕彰団体、高村記念会山口支部(照井康徳支部長)主催で住民ら約60人が参加した。
 地域の小中学生9人が詩「山からの贈り物」「案内」などを朗読。支部会員も「雪白く積めり」「大地麗し」「道程」などを趣深く読み上げ、光太郎と住民との交流の拠点となった旧山口小校歌を参加者全員で歌い、焼香した。

続いてIBC岩手放送さんのローカルニュース。 

ゆかりの地・花巻で64回忌…高村光太郎の遺徳を偲ぶ/岩手・花巻市

4月2日は詩人で彫刻家の高村光太郎が73歳で亡くなった命日です。ゆかりの地・花巻では六十四回忌が開かれ、地域の人たちがその遺徳を偲びました。
「道程」や「智恵子抄」などの詩集で知られ、彫刻家としても活躍した高村光太郎は、1945年5月、戦火を逃れて東京から花巻に移住しました。7年間を過ごした地、花巻市太田では、毎年、命日の4月2日に詩碑前祭が開かれています。六十四回忌のきょうは生憎の雪で、会場を初めて高村光太郎記念館の中に移して行われました。参加者が朗読した詩の中には、光太郎が花巻の雪景色を初めて目にした際の作品もありました。
「雪白くつめり。雪林間の路をうづめて平らかなり。ふめば膝を没して更にふかくその雪うすら日をあびて燐光を発す」
「わたしらも今70歳ですから、あと3つで先生が亡くなった歳に近くなるんですよね、それで今度新しい『令和』を迎えて、感無量なところがございます。詩の朗読会を通じて先生のことを理解していただければなと思います」(高村光太郎記念会・照井康徳さん)
参加者たちは合わせて10の詩に親しみ、当時に思いを馳せて故人を偲んでいました。

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午後からは、花巻市街の松庵寺さんに会場を移し、連翹忌法要。

岩手朝日テレビさんのニュース。 

高村光太郎の命日 花巻の寺で法要

4月2日は詩人や彫刻家として活躍した高村光太郎の命日です。
これに合わせてゆかりのある花巻市の寺では法要が行われました。
詩集「道程」などで知られる高村光太郎は1945年に宮沢賢治の弟・清六の家に疎開し、戦後7年間を花巻市で過ごしました。
法要は光太郎が妻・智恵子の命日に訪れていたという松庵寺で毎年行われていて、今年は地元の関係者やファンなどおよそ20人が出席しました。
厳かな雰囲気の中、参列した人たちは光太郎の遺影を前に焼香して手を合わせました。
最後に小川隆英住職が光太郎が松庵寺で詠んだ詩を紹介し参列者全員で先人をしのびました。


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とおっしゃるのは、生前の光太郎をご存じの、花巻市太田地区振興会長・佐藤定氏。

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同じく松庵寺さんの小川住職


NHKさんでは、詩碑前祭・法要ともに報じて下さいました。法要を先に、詩碑前祭を後にと、時間的な順序は逆でしたが。 

高村光太郎の命日に花巻市で法要

詩人で彫刻家の高村光太郎の命日だった2日、戦時中に疎開していた花巻市で法要が営まれました。
高村光太郎は、昭和20年4月の空襲で東京のアトリエを失ったあと、宮沢賢治の弟の清六を頼って花巻に疎開し7年間を過ごしました。
73歳で生涯を閉じたのは東京ですが、花巻市双葉町の松庵寺では毎年、命日に、光太郎が好きだった花の名前から「連翹忌」と呼ばれる法要を営んでいます。
2日も長年のファンなどおよそ20人が集まり、住職から昭和20年に光太郎が作った「松庵寺」という詩について、「妻の智恵子や母をしのんでこの寺でおつとめし、優しい心がうかがわれる」と説明を受けるとその人柄に思いをはせていました。
毎年、レンギョウの花を手向けている倉金和子さんは、「50回忌から続けています。光太郎先生は山の中で1人で苦労したと思うので生きている限りは続けたい」と話していました。
また、光太郎が疎開暮らしをした山荘近くにある「高村光太郎記念館」には、市民や子どもなどおよそ50人が集まりました。
そして、雪深い花巻での暮らしをつづった詩、「雪白く積めり」などを朗読して光太郎をしのびました。

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盛岡放送局の上原アナ。直接は存じませんが、年に数回花巻や盛岡に泊まるたび、テレビを通じ流れてくるそのシブ~いお声に魅了させられています(笑)。

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詩碑前祭・連翹忌法要、ともに末永く続けて行っていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

此の狩野派流の課程には中々意味の深いところがある。いきなり自由画式に放任しないで、古画の伝統に十分親炙させるといふのは、つまり絵画の持つ絵画性といふものを何時の間にかのみ込ませようとする方法と見るべきである。広く言つて其の造型性、造型性の中の絵画性、何故絵画が絵画であり得るかといふ要因を言説に拠らず、古画への直接の見参によつて了会させようといふのである。

散文「姉のことなど」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

明治25年(1892)、光太郎10歳の時に早世した6つ上の長姉・さく(咲子)の思い出を語る文章の一節です。さくは狩野派に絵を学び、15歳にして「素月」の号を許されていました。

「E.O展 ~多摩美出身作家~ vol.3」。

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4月2日(火)の連翹忌関連、もう少し紹介すべきことがあるのですがいったん休止。

既に開幕している展覧会情報を得ましたので。 

期  日  : 2019年4月3日(水)~8日(月)
場  所  : 
日本橋三越本店 本館6階 美術特選画廊 
         東京都中央区日本橋室町1-4-1
時  間  : 午前10時~午後7時
           (最終日は午後5時まで)
料  金  : 無料

多摩美術大学を卒業し、各分野の第一線で輝きを放つアーティストによるグループ展です。美術界からデザイナーまで作家約25名の作品を一堂に展覧いたします。異なるステージで存在感を放つ作家たちの競演をご高覧ください。

【ギャラリートーク】
日時:4月6日(土)午後2時~ 場所:EO展会場内にて
※予約不要


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昨年、智恵子の故郷・福島二本松にある智恵子生家で、現代アートの祭典「福島ビエンナーレ 重陽の芸術祭 2018」の一環として開催された、切り絵作家の福井利佐さんの作品展に展示された「荒御霊(グロキシニア)」が出品されています。

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昨秋の智恵子生家の画像。

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他の出品作家さんは、以下の通り。

 青木恵美子さん(絵画専攻)   あだちなみさん(デザイン専攻)  池内啓人さん(デザイン専攻)
 石黒賢一郎さん(絵画専攻)   大場再生産(デザイン専攻)      加藤久仁生さん(デザイン専攻)
 木嶋正吾さん(絵画専攻)    北村さゆりさん(絵画専攻)      肥沼守さん(絵画専攻)
 齋藤将さん(絵画専攻)      佐野研二郎さん(デザイン専攻)  清水悦男さん(絵画専攻)
 須田悦弘さん(デザイン専攻)  しりあがり寿さん(デザイン専攻)  武田洲左さん(絵画専攻)
 塚本聰さん(絵画専攻)      中堀慎治さん(絵画専攻)      永井一史さん(デザイン専攻)
 能島千明さん(絵画専攻)    原雅幸さん(絵画専攻)       福井欧夏さん(デザイン専攻)
 福井江太郎さん(絵画専攻)   宮城真理子さん(工芸専攻)     百瀬智宏さん(絵画専攻)

福井さんのブログはこちら

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

妻は足もとの砂を掘つてしきりに松露の玉をあつめてゐる。日が傾くにつれて海鳴りが強くなる。千鳥がつひそこを駆けるやうに歩いてゐる。

散文「九十九里浜の初夏」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

雑誌『新若人』に「初夏の海」の総題で、有島生馬、茅野雅子の文章と共に掲載されました。7年前の昭和9年(1934)、心を病んだ智恵子を九十九里浜に住む妹の家で療養させていた時の思い出です。

回想でありながら、「ゐた」ではなく「ゐる」。7年経っても、目を閉じれば、既にこの世に居ない智恵子の姿がありありとそこに「ゐる」ように感じられていたのではないでしょうか。

Yプロジェクトプロデュース公演 ブーケdeコンセール 詩劇と音楽 「長編詩劇・高村光太郎の生涯 愛炎の荒野。雪が舞う、」。

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演劇公演の情報です。  

Yプロジェクトプロデュース公演 ブーケdeコンセール 詩劇と音楽 「長編詩劇・高村光太郎の生涯 愛炎の荒野。雪が舞う、」

期   日  : 2019年4月10日(水)~12日(金)
会   場 : 渋谷伝承ホール 東京都渋谷区桜丘町23-21 渋谷区文化総合センター大和田6・7F

時   間 : 14:00〜16:10  19:00~21:10 (6公演)
料   金 : 一般前売4,500円 当日4,800円 ペア特別券 8,000円  学生優待(中・高・大) 3,500円
主   催 : Yプロジェクト
演   目 : 第1部 ラフマニノフの抒情(ロマン) ピアノソナタ2番の〈物語〉を聴く  ピアノ/八谷晃生
         第2部 長編詩劇・高村光太郎の生涯 愛炎の荒野。雪が舞う、

パリで知った芸術と人間。古き日本とのあまりの落差にデカダンスに走るが、智恵子と出会う。理想の男と女であろうとした生活。敬意と対等と信頼。だが、智恵子は精神を病み、死す。その慟哭が、詩「智恵子抄」となる。そして豹変するように、戦争に突入すると愛国詩を書きはじめる。本来は彫刻家であると自認するが詩人であり、翻訳をし、装丁のデザインをし、書を揮す。この類い希な芸術家=知性の人は時代の分岐点にいつも立ち会っていた。だが、その光太郎はどこへ行こうとしていたのか。

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内容的にはオーソドックスに光太郎智恵子の生涯を追うパターンのようです(ネット上であまり宣伝されていないので、よくわからないのですが……)。あとはそれがどう料理されているかですね。

年に数回、光太郎智恵子をモチーフとした演劇が上演されています。今後もこの傾向が続いてほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

「道程」をはじめから読んでみると、さすがに自分の過去がいろいろに思ひ出されていつ知らず感慨に満たされた。初篇から「泥七宝」の終まではまだ死んだ智恵子に会はぬ頃のもので、外国から帰つて来てはじめて日本の情炎に触れ、当時新しい文芸家の間に巻き起つた所謂疾風怒濤時代に身をもまれ、あらゆるものに対する現状憎悪から来るデカダン性と、その又デカダン性に対する懐疑と、斯かる泥沼から脱却しようとする焦燥とでめちやくちやになつてゐた私自身を此処に見る。
散文「某月某日」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

この年、山雅房から刊行された『道程改訂版』に関する文章の一節です。

初版『道程』は大正3年(1914)、自費出版で刊行されましたが、時代の最先端を突き抜けたこの詩集、売れ行きはさんざんでした。その後、ようやく時代が光太郎に追いつき、復刊を希望する声が高まって、改訂版が出版されたわけです。

ただし、この改訂版、初版とはかなり収録詩篇に差異があります。太平洋戦争開戦前夜ということもあったのでしょう、日本人批判の「根付の国」や、英国人陶芸家バーナード・リーチに贈った「廃頽者より」「よろこびを告ぐ」などはカットされるという「忖度」が行われています。

「やすらぎの刻~道 テレビ朝日開局60周年記念」。

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明日から始まるテレビドラマです。  
テレビ朝日 2019年4月8日(月)~ 毎週月~金  12時30分~12時50分 
BS朝日    2019年4月9日(火)~ 毎週月~金  7時40分~8時00分  地上波の一日遅れ再放送

巨匠・倉本聰氏が1年間をかけて描くのは、山梨を舞台に昭和~平成を生き抜いた無名の夫婦の生涯。そして『やすらぎの郷』のその後。2つの世界が織り成す壮大な物語!

“姫"こと九条摂子(八千草薫)が世を去ってから、2年余り。相変わらず『やすらぎの郷 La Strada』に暮らす脚本家・菊村栄(石坂浩二)は、古い資料の中に1冊のシナリオを発見する。その脚本は10年ほど前、大型ドラマスペシャルとして撮影寸前まで進みながら制作中止になったもので、白川冴子(浅丘ルリ子)と水谷マヤ(加賀まりこ)も出演予定だった。しかし、突然プロデューサーの財前(柳葉敏郎)と連絡がつかなくなり…!?

出演者 石坂浩二 ミッキー・カーチス 加賀まりこ 橋爪功 山本圭 浅丘ルリ子 柳葉敏郎 他
作    倉本聰
音楽   島健
主題歌 中島みゆき『慕情』『進化樹』『離郷の歌』(株式会社ヤマハミュージックコミュニケーションズ)

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一昨年、同局で放映され、大きな話題を呼んだ「やすらぎの郷」の続編です。

単なる続編ではなく、石坂浩二さん演じる主人公・シナリオライターの「菊村栄」による、戦前戦中のを山梨を舞台にしたスペシャルドラマ「道」が、劇中劇ならぬ菊村の「脳内劇」として、展開します。

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昨年、製作会社の角川大映スタジオさんからメールをいただきました。何でこちらに連絡が? というと、ドラマの中で光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)を使う、というのです。

該当箇所の台本もPDFで添付して下さいました。

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「しの」というのが、「道」の主人公、浅井(根来)しの。思春期、青年期(昭和編)を清野菜名さんが、晩年(平成編)では風吹ジュンさんが演じられます。山梨県の山間の集落に生きる少女で、14歳の時、わけあって根来家に引き取られてきた、明るくお転婆な性格。特技は薙刀だということです。

「公平」は、同じく風間俊介さん→橋爪功さん。しのが引き取られた養蚕農家・根来家の四男で、しのに恋心を抱くという設定。

さらに公平の兄、「公次」。Kis-My-Ft2の宮田俊哉さんが扮します。口下手だが、働き者で家族思い。後に海軍に志願するそうです。

「三平」は、根来家三男(風間晋之介さん)、「ニキビ」は公平の親友(関口アナンさん)です。

「小野ヶ沢」は、物語の舞台となる山梨県の架空の地名と思われます。


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「あどけない話」が使われるのが、いつごろの放映回なのかまではご教示いただけませんでしたが、台本のページ数が「48-○○」となっていますので、第48回あたりなのかな、と思っています。情報が入りましたらまたご紹介します。


ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

ちやうど明治さかんな頃のこととて世の中はどんどん進んでくる。僕たち青年の眼には庭の色までもまるで毎日変化し、生き生きとして見えるやうであつた。さういふ時代には何でも実に面白かつたし、僅かな間ではあるが朝から晩まで実際大へんな勉強をしたものだつた。

談話筆記「美術学校時代」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

光太郎が東京美術学校に在籍していたのは、数え15歳の明治30年(1897)から同じく24歳の同39年(1906)まで。彫刻科の予科から本科を卒業した後も、徴兵猶予の意図もあって研究科に残り、さらに同38年(1905)には西洋美術を学び直したいと、黒田清輝らが教鞭を執っていた西洋画科に再入学しました。この時の同級生に藤田嗣治や岡本一平(太郎の父)らがいました。ただ、同科は中退の扱いで、欧米留学に出ています。

明日の月曜あたり、さまざまな学校さんで入学式・始業式が多く行われるのではないでしょうか。青年諸君、しっかり「勉強」してください。ただし、「勉強」といっても、教科書を使っての座学だけではありません。

ちなみにこの談話筆記、ながらく初出掲載誌不明で、筑摩書房さんの『高村光太郎全集』でもそうなっていますが、昭和17年(1942)の雑誌『知性』第5巻第9号に掲載を確認しました。同号、増刊号の扱いなので、検索の網から漏れていたようです。

連翹忌関連追補。

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先週、日比谷公園松本楼様で、光太郎を偲ぶ第63回連翹忌を開催いたしました。その際に参会者の皆さんにお配りした資料等をご紹介します。

まず、手前味噌ですが、当会発行の『光太郎資料51』。B5イメージ 1判ホチキス留め、手作りの小冊子ですが、内容は濃いと自負しております。元々、当会顧問の北川太一先生が昭和35年(1960)から平成5年(1993)にかけ、筑摩書房『高村光太郎全集』等の補遺を旨として不定期に発行されていたもので、その名跡を譲り受けました。4月の連翹忌にかぶせて1回、10月の智恵子忌日・レモンの日に合わせて1回と、年2回刊行しております。当方編集になって15冊目です。

今号は、以下の内容です。

・ 「光太郎遺珠」から 第十五回 智恵子(二)
筑摩書房の『高村光太郎全集』完結(平成11年=1999)後、新たに見つかり続けている光太郎文筆作品類を、テーマ、時期別にまとめている中で、智恵子歿後の智恵子に関する光太郎作品をまとめました。

・ 光太郎回想・訪問記  「高村光太郎の思い出」 富士正晴/「高村光太郎 温かく大きな手」    遠山 孝
これまであまり知られていない(と思われる)、戦前、戦中の光太郎回想文。短めのものを2篇載せました。

・ 光雲談話筆記集成  『大江戸座談会』より 江戸の見世物(その二)
原本は江戸時代文化研究会発行の雑誌『江戸文化』第二巻第十号(昭和3年=1928)。光太郎の父・光雲を含む各界の著名人による座談会筆録から。

・ 昔の絵葉書で巡る光太郎紀行  第十五回  法師温泉
見つけるとついつい購入してしまう、光太郎智恵子ゆかりの地の古絵葉書を用い、それぞれの地と光太郎智恵子との関わりを追っています。今回は、大正末から昭和初めにかけて、光太郎が4回ほど足を運んだ群馬県の法師温泉。明治28年(1895)に建築された、フランス風の飾り窓を持つ建築です。昭和56年(1981)には、当時の国鉄が発売した「フルムーンパス」のポスターやCMで、上原謙さんと高峰三枝子さんが熟年夫婦を演じられ、話題となりました。

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・ 音楽・レコードに見る光太郎 「真珠港特別攻撃隊」(その一)
昭和17年(1942)、箏曲家の今井慶松の依頼で書かれ、翌年、今井の作曲で演奏された「真珠港特別攻撃隊」についてです。

・ 高村光太郎初出索引(十五)
『高村光太郎全集』等収録の、生前に公表されなかったと思われる光太郎詩文をリストアップしました。


ご入用の方にはお頒けいたします(37集以降のバックナンバイメージ 4ーも)。一金10,000円也をお支払いいただければ、年2回、永続的にお送りいたします。通信欄に「光太郎資料購読料」と明記の上、郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願いいたします。ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネーム、ご住所、電話番号等がわかるよう、ご手配下さい。

ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明


続いて、『尾崎喜八資料 特別号(第17号)』。イメージ 5

光太郎と交流の深かった詩人・尾崎喜八(上記法師温泉にも同道しています)の令孫・石黒敦彦氏主宰の尾崎喜八研究会さん刊行の冊子です。連翹忌会場でもスピーチでご紹介いただきましたが、いったん休刊されたものを今回、特別に再刊。

当会顧問の北川太一先生の未発表だった玉稿2篇が掲載されています。「「愛と創作」その詩と真実」、「ロランと光太郎をめぐる人々」の2篇です。休刊前に寄稿されていながらお蔵入りだったものとのこと。喜八やその周辺人物と光太郎との交流につき、当方も存じ上げなかった事柄がこれでもかとてんこ盛りです。

過日ご紹介した北川先生の新刊『光太郎ルーツそして吉本隆明ほか』にしてもそうですが、先生の幅広い視点からの御考察には脱帽です。

残部は当会名簿にある連翹忌ご欠席の方々等に発送いたしましたが、ご入用の方は仲介いたします。当ブログプロフィール欄のメールアドレスまでご連絡下さい。


配付されたわけではありませんで、ギャラ代わりの執筆者割りイメージ 6当てでいただいたものですが、『高村光太郎研究50』。高村光太郎研究会からの刊行です。

こちらにも北川先生の玉稿が巻頭に。平成20年(2008)、宮城県女川町で開催された第17回女川光太郎祭での講演筆録「再びもう一度考えてみたいこと――平成二十年八月九日、女川高村祭談話――」。

それから昨秋、都内で開催された高村光太郎研究会でのご発表を元にされた佛教大学総合研究所特別研究員の田所弘基氏の、「高村光太郎「夏の夜の食慾」の解釈」。昨年『高村光太郎小考集』を刊行された西浦基氏の「虎落笛―長沼智恵子の母親おセンの生涯―高橋秀紀著を読む」。

さらに、またまた手前味噌ですが、当方編の「光太郎遺珠⑭」と「高村光太郎没後年譜 平成29年12月~30年12月」。

「光太郎遺珠⑭」は、この1年間で新たに見つけた、『高村光太郎全集』未収録の光太郎作品集です。

短めの散文が3篇。昭和17年(1942)の『美術文化新聞』第59号に載った「工場の美化運動」、同18年『読売新聞』掲載の「預言者的詩人 野口米次郎氏」、そして『新岩手日報』に同22年(1947)掲載の「人間的な詩人」(「きよう”賢治 十五回忌” 盛岡・花巻で盛んな記念集会」と題する記事に付された談話)。

それから、しばらく前から少しずつ掲載させていただいている「高村光太郎先生説話」。浅沼政規著『高村光太郎先生を偲ぶ』(平成7年=1995、ひまわり社)よりの転載で、戦後、花巻郊外太田村で蟄居中の光太郎が、山小屋近くの山口小学校などで語った談話の筆録です。今回は昭和26年(1951)のもの。

さらに翻訳で「ロダンといふ人」。原著者はロダンの秘書だったジュディト・クラデル。明治43年(1910)、雑誌『秀才文壇』に3回にわたって連載され、3回目のみが『高村光太郎全集』に収められていましたが、1、2回目が中々見つからずにいたものを、昨秋、智恵子がかつて絵を学んだ太平洋画会の後身・太平洋美術会研究所さんからご提供を受けました。

そして、書簡。平成29年(2017)、『智恵子抄』版元の龍星閣現社主・澤田大太郎氏から、創業者で父の故・伊四郎の遺した厖大な資料のうち、光太郎、棟方志功他の関連が、伊四郎の故郷・秋田県小坂町に寄贈されました。そのうち、澤田に宛てた光太郎書簡で『高村光太郎全集』未収録の32通を載せさせていただきました。

「高村光太郎没後年譜 平成29年12月~30年12月」は、このブログの昨年暮れの記事を元にしています。

こちらもご入用の方は仲介いたします。当ブログプロフィール欄のメールアドレスまでご連絡下さい。


最後に、第63回連翹忌にて「トパーズ 高村智恵子に捧ぐ」他の音楽演奏をなさってくださった、ジオラマ作家兼ミュージシャンの石井彰英氏から、当日の演奏をyoutubeにアップしたというご連絡がありましたので、URLを載せておきます。最後に演奏された「ずっとこのまま」のみですが。


【折々のことば・光太郎】

私はこれからもなほ若い人々を激励し、若い人々の進歩するのと一緒になつて真剣に日本の彫刻を育て、今まで世界に存在しなかつた新鮮な日本の美を作り出してゆきたいと願つてゐる。自分はすでに老境に近づき年齢からいへば過去に属する人間であるかもしれない。しかし自分にあたへられた本当の仕事はこれからであると信じてゐる。
談話筆記「子供の頃」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

光太郎にとって「本当の仕事」は、彫刻をはじめとする芸術の発展。当方にとっては「光太郎の生の軌跡を語り継ぐこと」。やはり「これから」です。

二本松・智恵子・さくら その1 高村智恵子生誕祭。

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智恵子の故郷・福島二本松。市内各所に桜の名所が点在しています。

同市の『広報にほんまつ』今月号から。

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「ほんとの空に さくら舞う」。このコピーをテーマに冠した「2019全国さくらシンポジウムin二本松」が、4月11日(木)に開催されますが、そちらの情報は明日ご紹介します。

今日は智恵子の生家・智恵子記念館さんでの「高村智恵子生誕祭」。智恵子の誕生日は5月20日ですが、4月、5月と2ヶ月かけて、さまざまな企画が予定され、一部既に始まっています。
 
智恵子の生家 2階特別公開イメージ 2
 期    日 : 2019年4月6日(土)~5月6日(月)の土日・祝日
 場    所 : 二本松市智恵子の生家
           福島県二本松市油井字漆原町36
 時    間 : 午前の部 9時00分から12時00分
            午後の部 13時00分から16時00分
 料    金 : 大人(高校生以上) 個人:410円 団体:360円  
           子供(小・中学生) 個人:200円 団体:150円
           ※団体料金は20名以上の利用
             智恵子記念館観覧料も含みます

智恵子の「紙絵」の実物展示
 期    日 : 2019年4月27日(土)~5月28日(火)
 場    所 : 二本松市智恵子記念館
           福島県二本松市油井字漆原町36
 時    間 : 午前9時~午後4時30分
 料    金 : 大人(高校生以上) 個人:410円 団体:360円   子供(小・中学生) 個人:200円 団体:150円
           ※団体料金は20名以上の利用  智恵子生家0観覧料も含みます
 休 館 日  : 水曜日
 奇跡といわれる実物の紙絵をぜひご覧ください。


上川崎和紙で作ろう切り絵体験
 期    日 : 2019年5月11日(土) 12日(日) 18日(土) 19日(日) 25日(土) 26日(日)
 場    所 : 二本松市智恵子の生家「奥座敷」  福島県二本松市油井字漆原町36
 時    間 : 9:00~16:00 ※所要時間は10~20分程度 お一人様1回限り、材料がなくなり次第終了
 料    金 : 無料 (入館料に込み)
 内    容 : 智恵子の紙絵をモチーフとした切り絵、上川崎和紙を使用したハガキ・しおりの制作
 問い合わせ : 智恵子記念館 ☎0243(22)6151  文化課文化振興係0243(55)5154
 

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公共交通機関を利用される場合、臨時バスが出ています。

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ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

わたくしの体細胞の無限の先祖は、おそらく少くとも海抜一万尺以上の高原地帯の乾いた空気の中の生活に順応するやうに長い間馴らされてゐたものと見える。

散文「七月の言葉」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

夏の高温と湿度を極端に苦手としていた光太郎。中央アジアの乾燥帯あたりを夢見ていたのでしょうか。


二本松・智恵子・さくら その2 「2019全国さくらシンポジウムin二本松~ ほんとの空に さくら舞う ~」 。

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昨日に引き続き、智恵子の故郷・福島二本松から。参加申し込み受付は既に終わっているのですが、こういうイベントもあるんだ、ということで。 
期   日  : 2019年4月11日(木) ・12日(金)
会   場 : 二本松市民会館 福島県二本松市榎戸1丁目92番地 他

時   間 : 4/11(シンポジウム)13:30~17:00  4/12(現地見学会)8:30~12:30
料   金 : 無料
主   催 : 日本花の会

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プログラム

4月11日(木) シンポジウム
 会場 : 二本松市民会館(福島県二本松市榎戸1-92)
  ◆オープニングアトラクション 13:30~14:00   樋口 達哉 (オペラ歌手・二本松市観光大使)
  ◆開会セレモニー 14:00~14:30
  ◆記念講演 14:30~15:30
     演題 : 桜 ~「無常」と「あはれ」の花  講師:玄侑 宗久 (作家)
  ◆パネルディスカッション 15:40~16:40
     テーマ : 「ほんとの空に さくら舞う」桜の郷二本松を目指して
     コーディネーター : 公益財団法人日本花の会 主幹研究員 和田 博幸
     パネリスト : にほんまつ観光協会、合戦桜のしだれ桜 保存会、福島県樹木医会
  ◆次回開催地紹介・代表者あいさつ 16:40~17:00   岐阜県恵那市
  ◆閉会

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4月12日(金) 現地見学会
 さくら色に染まる街へ。2つのコースをご用意しました。
 ●コース①  霞ヶ城公園→智恵子の生家→万燈桜→道の駅「安達」
 ●コース②  安達ヶ原ふるさと村→中島の地蔵桜→合戦場のしだれ桜→道の駅「さくらの郷」
 ※参加費無料。
 ※各コースとも募集定員40名様(最少催行人員20名様)。
 ※両コースとも8:30に霞ヶ城公園集合。
 ※解散時間は、コース①は12:00、コース②は12:30の予定です。
 ※天候や道路状況により行程に変更が生じる場合があります。予めご了承ください。


おそらく全国から参加される方がお集まりになると思われます。智恵子の故郷、「ほんとの空」のある街の魅力をぜひ堪能し、それぞれの地元でその情報を広めていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

日本でも人は猛暑のさなかにモオニングを着たり背広を着たり、つめ襟を着たりする。又それに順応するやうに人は錬成せられる。わたくしのやうな者はその錬成に於ける落伍者である。

散文「一夏安居の弁」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

「一夏安居」は仏教用語で「いちげあんご」と読みます。「夏安居」で、「僧が、夏(げ)の期間、外出せずに一所にこもって修行をすること」という意味で、「一」がつくと「90日間」というスパンが付加されます。

まあ、光太郎は敬虔な仏教徒だったわけではありませんので、それになぞらえ、不要不急の外出を避け、夏の暑さに弱い身を養う習慣だというわけです。

クールビズという習慣が広まる前は、まさに「猛暑のさなかにモオニングを着たり背広を着たり、つめ襟を着たり」という不合理があたりまえでしたね。ところが、クールビズはクールビズで、運用が難しいようです。4月からクールビズ期間という事業所もあるのですが、今日あたりは寒いのでネクタイを締めていた方が合理的です。しかし、「ネクタイを締めている職員とそうでない職員が混在していてはおかしい」のだそうで、ネクタイ禁止とのこと。結局、横並びでなければ気が済まない民族なのでしょうか。

大河ドラマ「いだてん ~東京オリムピック噺(ばなし)~」第二章。

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NHKさんの大河ドラマ「いだてん ~東京オリムピック噺(ばなし)~」。視聴率的には厳しい状況だそうですし、レギュラー出演者の逮捕などのケチもつきましたが、当方は毎週楽しく拝見しております。

先週は統一地方選挙速報の関連で放映が休止でしたが、今週の第14回から新章に突入します。 

いだてん ~東京オリムピック噺(ばなし)~ (14)「新世界」 

NHK総合 2019年4月14日(日) 20時00分~20時45分  再放送 2019年4月20日(土) 13寺05分~13寺50分
NHK BSプレミアム  2019年4月14日(日) 18時00分~18時45分

ストックホルムから帰国する四三(中村勘九郎)。報告会で大勢の高師の仲間が健闘を称える中、敗因を厳しく問いただす女性が出現。永井道明(杉本哲太)の弟子・二階堂トクヨ(寺島しのぶ)である。同じ頃、孝蔵(森山未來)は四三とは逆に東京から旅立とうとしていた。円喬(松尾スズキ)とは別の師匠について地方を回るのだ。自分は円喬に見限られたと落ち込む孝蔵。しかし、出発のとき、新橋駅に円喬が駆けつけて−

出演
中村勘九郎,綾瀬はるか,生田斗真,永山絢斗,満島真之介,山本美月,近藤公園,武井壮,森山未來,神木隆之介,
橋本愛,荒川良々,峯田和伸,松尾スズキ,柄本時生,杉本哲太,中村獅童ほか

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明治45年(1912)のストックホルムオリンピック編が終わり、時代は大正へと移ります。そして新キャストが続々登場。

その一人が永島敏行さん演じる武田千代三郎。

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以前にもご紹介しましたが、元青森県知事で、十和田湖の景観イメージ 4に打たれ、道路の開墾等に尽力しました。そのため、雑誌『太陽』で初めて十和田湖の美しさを世に広めた大町桂月、武田に協力して十和田湖周辺の整備に力を尽くした法奥沢村長・小笠原耕一と共に、「十和田の三恩人」と讃えられました。

昭和28年(1953)に除幕された、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」は、元々周辺の国立公園指定15周年を記念し、「十和田の三恩人」を顕彰するためのモニュメントとして作られたものです。

右は「乙女の像」除幕式の際に、関係者に配られた光太郎による記念メダルの石膏原型。肖像は大町桂月ですが、武田の名も刻まれています。

青森県知事退任後、武田は大日本体育協会副会長に就任。箱根駅伝の開催に取り組み、「駅伝」の名付け親ともなります。

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もう一人、「この人も出るか!」と驚いたのが、二階堂トクヨ。演じられるのは寺島しのぶさんです。

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二階堂は宮城県三本木町(現・大崎市)の出身です。地元の小学校で准訓導として教壇に立ちながら宮城県の師範学校入学を目指していましたが、明治28年(1895)、同県では女教員は休みが多い、能率が上がらないなどの理由で女教員廃止決議が採択されてしまいました。そこで、隣接する福島県師範学校に入学しようとしましたが、こちらは福島県に籍が無ければ不可。そこで、初代福島民報社長にして国会議員でもあった小笠原貞信の養女となり、小笠原姓となりました(のちに「二階堂」に復姓)。

そしてめでたく福島師範を卒業し、赴任したのが智恵子の母校・安達郡油井村(現・二本松市)の油井小学校でした。明治32年(1899)、智恵子は高等科に在学中で、トクヨは智恵子の6歳下の妹・ミツ(尋常科2年)の担任となりました。さらにそれだけでなく、トクヨは智恵子をかわいがり、智恵子は友人と共にトクヨの下宿を訪ねたり、安達ヶ原を散歩したりしたとのこと。

向学心溢れるトクヨは、さらに同33年(1900)には東京高等師範に進学しました。この際には智恵子の実家・長沼家が資金援助を行ったらしいとのこと。智恵子との直接の関わりは1年間だけでしたが、智恵子は強烈な印象をトクヨから受けました。同じように油井小学校で教壇に立った後に日本女子大学校に進学した服部マスもおり、智恵子が日本女子大学校に進む希望を固めたのは、この2人の影響が大きいようです。

智恵子が日本女子大学校に進んだのは明治36年(1903)、この年、トクヨは東京高等師範の最終学年でした。記録は確認できていませんが、おそらく、上京した智恵子はトクヨと再会し、久闊を叙しただろうと推定されます。

翌年、東京高等師範を卒業したトクヨは、金沢の高等女学校に赴任。ここで体操の授業を持たされたことがきっかけで、体育のスペシャリストになっていきます(本来の専門は国語だったそうですが)。明治44年(1911)には、東京高等師範の助教授となり、大正元年(1912)には、英国留学。その際、横浜港には智恵子、さらに光太郎も見送りに現れたそうです。同4年(1915)に帰国、東京高師教授就任、同11年(1922)、二階堂体操塾(現・東京女子体育大学)設立……すごい女性ですね。

ちなみにここまで、佐々木孝嘉氏著『ふるさとの智恵子』(昭和53年=1978 桜楓社)を参考にさせていただきました。

「いだてん」。このトクヨの活躍も楽しみにしつつ、拝見したいと思います。皆様もぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

自然は人をつくる。この霊峰の此の偉容に毎日毎朝接してゐる上高下の部落は幸である。
散文「日本の母」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

「霊峰」は富士山。「上高下」は、光太郎が詩部会長に就任した日本文学報国会と読売新聞社が提携して行われた「日本の母」顕彰事業のため訪れた、山梨県南巨摩郡穂積村。現在の富士川町上高下(かみたかおり)地区です。

ここは冬至の前後、日の出が富士山頂付近からのぼる「ダイヤモンド富士」の名所としても有名です。

都内レポートその1 文京区立森鷗外記念館 特別展「一葉、晶子、らいてう―鷗外と女性文学者たち」。

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昨日は都内3ヶ所を廻っておりました。

まず、千駄木の文京区立森鷗外記念館さん。こちらで特別展「一葉、晶子、らいてう―鷗外と女性文学者たち」を拝見。

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左は団子坂からではなく区立第八中学校さんの方から上がっていった正面玄関。敷石部分は戦災で消失する前からあった鷗外旧宅「観潮楼」時代のもの。右は館入り口の扉です。

与謝野晶子は、新詩社における光太郎の師ともいえる姉貴分。『青鞜』の表紙絵を智恵子に依頼した平塚らいてうは日本女子大学校での智恵子の一学年先輩にしてテニス仲間。早逝した樋口一葉は光太郎智恵子と直接の関わりはなかったようですが、光太郎は同じく早逝した実姉・さく(咲子)の風貌が一葉に似ていたと回想しています。

そして森鷗外は、東京美術学校で教壇に立っていたこともあり、光太郎は美学の授業を受けました。その後も観潮楼歌会に参加していますが、どうも近所に住んでいながら敬して遠ざけるという面があったようです。しかし鷗外の方では、「しょうがない奴だ」と思いつつも光太郎の才を認め、かわいがっていた部分があります。

その鷗外は、一葉、晶子、らいてうそれぞれも高く評価していました。

樋口一葉さんが亡くなつてから、女流のすぐれた人を推すとなると、どうしても此人であらう。晶子さんは何事にも人真似をしない。(略)晶子さんと並べ称することが出来るかと思ふのは、平塚明子さんだ。
(「与謝野晶子さんに就いて」 『中央公論』第27年第6号 明治45年=1912)

「明子」はらいてうの本名「明(はる)」から。

そこで今回の展示は、彼女たちの代表的な業績を象徴する品々や、鷗外やその周辺人物と三女性とのかかわりに関する資料などが並んでいました。

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光太郎智恵子に関わる展示物も複数。イメージ 6興味深く拝見しました。

図録が作成されており、購入。税込み860円とお買い得です。尾形明子氏(文芸評論家)、出口智之氏(東京大学准教授)、三枝昂之氏(歌人・山梨県立文学館館長)など、執筆陣も豪華です。三枝氏と尾形氏は、この後、同展の関連行事として講演をなさいます。

 講師:三枝之氏(歌人・山梨県立文学館館長)   
 日時:62日(日)14時~1530

講演会2「森鷗外と新しい女たち」
 講師:尾形明子氏(文芸評論家)  
 日時:68日(土)14001530

また、関連行事の扱いにはなっていないようですが、以下も予定されています。

 講師:倉本幸弘氏(森鴎外記念会常任理事)  
 日時:5月30日(木)10時30分~14時

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それぞれ申し込みは同館まで。ぜひどうぞ。

この後、田端方面へ。以下、明日。


【折々のことば・光太郎】

思ひつきばかりの自己流は案外脆いし、叡智の欠けた継承は生命を捉へ得ない。
散文「某月某日」より 昭和18年(1943) 光太郎61歳

この年、東京府美術館で開催された「皇太子殿下御誕辰記念日本近代美術館建設明治美術名作大展示会」を見ての感想です。

というわけで造形美術に関する発言ですが、文学、音楽等、あらゆる芸術に当てはまるような気もします。

都内レポートその2 田端文士村記念館「恋からはじまる物語~作家たちの恋愛事情~」。

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一昨日、文京区立森鷗外記念館さんで特別展「一葉、晶子、らいてう―鷗外と女性文学者たち」を拝見した後、歩いて北東方向へ。

少しだけ回り道をして、明治44年(1911)、平塚らいてうが雑誌『青鞜』を世に送り出した「「青鞜社」発祥の地」(現在はマンション)へ。『青鞜』発起人の一人、物集和子の旧宅があった場所で、智恵子が表紙絵を描いたその創刊号の頃は、ここが発行所の住所となっていました。区の建てた案内板には光太郎智恵子の名も。

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それから裏通りに入って、光太郎実家跡(現在建て替え工事中)、保健所通り(銀行通り)に出て、光太郎アトリエ跡(現在は個人宅)前を過ぎ、道坂上まで出て、右折。田端方面へと歩を進めました。

めざすは田端駅近くの、田端文士村記念館さん。

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こちらでは、今年の2月から「恋からはじまる物語~作家たちの恋愛事情~」展が開催されています。

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同館は、(公財)北区文化振興財団さんの運営になるもので、田端で活躍した文士・芸術家の功績を通じて「田端文士芸術家村」という歴史を、後世に継承して行くことを目的として平成5年(1993)に設立。メインは芥川龍之介ですが、光太郎智恵子、そして光太郎の父・光雲、光太郎実弟・豊周らと関わりのあった人々も多く含みます。

日本女子大学校での智恵子の一級上の先輩で、テニス仲間だった平塚らいてうもその一人。大正7年(1918)から同12年(1923)まで、同館近くに一家で住んでいました。既に「若いツバメ」奥村博史と結婚(入籍は昭和16年=1941までせず)、長女・曙生(あけみ)、長男・敦史(あつふみ)を授かり、苦しいながらも充実した生活を送っていた時期です。『青鞜』はすでに休刊、この頃は市川房枝らと「新婦人協会」の活動に当たっていました。

さて、「恋からはじまる物語~作家たちの恋愛事情~」。やはりメインは芥川とその妻・文でしたが、らいてうと博もかなり大きく取り上げられていました。

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とても気丈な女性だったというイメージのらいてうが、こと博史との恋愛に関しては、純情乙女的になってしまっていた感があり、ほほえましく思われました。この夫婦は博史が亡くなる昭和39年(1964)まで仲睦まじかったというイメージなので、そう思えるのかも知れませんが。

ちなみに改めてらいてうの年譜を調べていたら、昭和35年(1960)、博史と二人で安達太良山麓の岳温泉を訪れ、さらに既に人手に渡っていた智恵子の生家も訪れていたことがわかり、驚きました。その際、二人でどういう話をしたのかなど、興味深いところです。ちなみにこの時らいてう満74歳、博史は68歳でした。

その他、東京美術学校で光太郎の父・光雲に木彫を学んでから陶芸に転身した板谷波山とその妻・まる。この夫妻もなかなかドラマチックです。平成16年(2004)には、映画「HAZAN」(榎木孝明さん、南果歩さん主演)にもなりました。ちなみに「HAZAN」、当方自宅兼事務所のある千葉県香取市でもロケが行われたはずです。

さらに佐多稲子、窪川鶴次郎、竹久夢二など、回り回って光太郎智恵子と関わる人物も取り上げられていました。

同展は5月6日(月)まで。ありがたいことに入館無料です。ぜひ足をお運び下さい。

この後、田端駅から山手線で渋谷へ。渋谷区文化総合センター大和田内の渋谷伝承ホールさんで、「長編詩劇・高村光太郎の生涯 愛炎の荒野。雪が舞う、」。を拝見して参りました。明日はそちらをレポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

自著の書籍を送つて返事の無いのをひどく気にするのは他人の都合を無視して自己の人情にのみ執する事である。丁度その時急病人のあることもあらうし、仕事に夢中になつてゐることもあらう。ともかく自分の書籍を人に贈ることは人の生活の中へ割りこむことである。

散文「某月某日」より 昭和18年(1943) 光太郎61歳

と言いつつ、光太郎はかなりまめに送られてきた書物への礼状をしたためています。しかし、自分が書物を贈った場合には、その礼状等を期待しないというのです。読んでいただくのだから、というわけで、同じ文章には「丁寧な礼状などをもらふと、其はあべこべですと述べたくなる」と書いています。

都内レポートその3 Yプロジェクトプロデュース公演 ブーケdeコンセール 詩劇と音楽 「長編詩劇・高村光太郎の生涯 愛炎の荒野。雪が舞う、」。

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4月11日(木)、文京区立森鷗外記念館さんの特別展「一葉、晶子、らいてう―鷗外と女性文学者たち」、田端文士村記念館さんの「恋からはじまる物語~作家たちの恋愛事情~」展とハシゴした後、渋谷に向かいました。

目指すは渋谷区文化総合センター大和田さん内の渋谷伝承ホール。

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こちらで劇団Yプロジェクトさんのプロデュース公演「ブーケdeコンセール 詩劇と音楽」を拝見。

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2部構成で、第1部が「ラフマニノフの抒情(ロマン)」。八谷晃生さんという方によるピアノで、ロシアのセルゲイ・ラフマニノフの「プレリュードニ長調Op.23-4」と「ピアノソナタ2番Op36変ロ長調」の2曲が演奏されました。曲目の通り第2部へのプレリュード(前奏曲)的な感じでした。

そして第2部が「長編詩劇・高村光太郎の生涯 愛炎の荒野。雪が舞う、」。事前の告知で、内容的には光太郎の生涯を追う、というのは何となくわかりましたが、それをどう料理するのかまではわかっていませんでした。開演前にいただいたパンフレットを見ましたところ、出演される役者さんたちの一言ずつやプロフィールなどが。1チーム8人ずつ、2チームが交互に3日間で6公演、当方が見たのはBアクトさん(下記画像右半分の皆さん)による公演です。

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Aアクトさんを含め、「高村光太郎という芸術家の生涯を少しでも伝えられたら」、「様々な表現で高村光太郎の生涯をキャスト一丸になりお伝えします」、「光太郎という人間を全身で感じていただけると感激です」といった記述。キャスト名は書かれていません。代わりに、「劇中で語られる人物紹介」ということで、光太郎の父・光雲にはじまり、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」一帯の公園設計を担った谷口吉郎まで、50名超の名が(ただ、宮沢賢治など、この欄に抜けている人物も実際には居ました)。

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「語られる人物」であってキャストというわけではないのだろう、と思って読んでいましたところ、第2部開演。

舞台は基本、暗がりです。椅子が8脚並べられ、黒づくめの役者さんたちが座っています。第1部でピアノ演奏をなさった八谷さんがBGM的に舞台下手(しもて)隅でピアノ演奏(これがうるさすぎず、適度な音量で豊かに情感を添え、絶妙でした)。役者さんたちは、一人ずつ前に出て来て、光太郎詩文の朗読やナレーションによる状況説明。そこだけスポットが当たるようにしてありました。お一人の担当部分が終わる頃、次の役者さんが出て来てバトンタッチ。基本、その繰り返しでした。つまり、全員が光太郎というわけで、だから上記「一言」でああしたご発言だったのかと納得いたしました。

役者さんたち、それぞれに熱のこもった語りで、8人がめまぐるしく交替することで変化も生じ、当然ながら取り上げる詩文によって語り口を変え、ぐいぐい引き込まれました。単なる語りだけでなく、最小限ではありましたが動きも入り、視覚的効果も考えられていました。

前半は「智恵子抄」収録の詩篇を軸に、光太郎智恵子の純愛のドラマ的な。「なるほど、無難にまとめているな」という感でした。しかし、後半、智恵子歿後になって、ある意味、意外な展開となります。特に太平洋戦争開戦後に光太郎が大量に書き殴った翼賛詩が、かなりの数、取り上げられました。通常、演劇等で光太郎が扱われる場合、この時期はさらりと流されるのが普通です。光太郎の人生最大の汚点であるわけで(この時期こそが憂国烈士・光太郎の真骨頂、とする愚か者も多くて困っているのですが)、扱いが難しいというのが理由でしょう。

しかし、今回の公演では陰惨な、空虚な、安直な、浅薄な、愚劣な、こけおどし的な、がらんどうな、悪魔的な、紋切り型の、子供だましの 、狂気さえ感じる、罪深い翼賛詩の数々が語られました。順不同ですが、「十二月八日」、「さくら」、「シンガポール陥落」、「必死の時」、「琉球決戦」、「軍艦旗」など。光太郎に余り詳しくない観客の方々は、かなり意外の感を持たれたのではないでしょうか。

このあたりにじっくり焦点を当てる演劇は少なく、類例を挙げれば、当会会友・渡辺えりさんの脚本になる「月にぬれた手」(平成23年=2011)くらいでしょうか。木野花さん演じる老婆が光太郎に投げつけた「戦争中にこいづが書いた詩のせいでよ、その詩ば真に受げて、私の息子二人とも戦死だ。」「おめえがよ、そんなにえらい芸術家の先生なんだらよ。なしてあんだな戦争ば止めながった? なしてあおるだげあおってよ。自分は生ぎでで、私の息子だけ死ねばなんねんだ。」という台詞がありました。

といって、今回の公演も、単に光太郎をディスるだけでなく、光太郎同様に、或いはそれ以上に軽々しく大政翼賛に走った文学者たちも語られ、さらに戦後にはそういった面々が無節操な豹変ぶりをやらかしたこともやり玉に挙げていました。そして一人光太郎のみ、花巻郊外旧太田村での不自由な蟄居生活――「自己流謫(るたく)」――「流謫」は「流罪」に同じ――で、自らの罪に向き合ったことも語られました。この時代こそが、ヒューマニスト光太郎を語る上で最も重要な時期なわけで、ここをしっかり描いて下さったのもありがたいところでした。

終末は再び「智恵子抄」。「樹下の二人」(大正12年=1923)で、幕。

あらためてパンフレットを読み返してみると、最初のページに「光太郎の言葉に触れることは、時代の分節点にある今日、何かを教えてくれるのではないでしょうか」とありました。なるほど、と思いました。

終演後のホワイエ。

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急いで帰る都合があり、役者さんのお一人とだけ少しお話しさせていただき、名刺をお渡しして帰りました。

すると、昨日、脚本・演出を担当された小野寺聰氏から、自宅兼事務所にご丁寧にお電話がありまして、上記のような感想をお伝えし、その他いろいろお話しさせていただきました。そういうケースも珍しいので、恐縮いたしました。役者さんたちは、いろいろな劇団などから集まった特別編成だそうで、今のところ再演の予定はないというお話でした。ただ、光太郎の生き様的な部分に感銘を受けた役者さんもいらして、さらにちゃんとやりたいみたいなお話もあったそうです。期待したいところです。


以上、都内レポート終わります。


【折々のことば・光太郎】

今更罹災の体験などと改まつてきかれると変なもので、私などは独身者の事とて万事が簡単至極である。罹災者達の中には病人や老幼者をかかへて敢闘した人達も多い事と思ふが、さういふ人達に対して深甚の同情を禁じ得ない。

散文「罹災の記」より 昭和20年(1945) 光太郎63歳

この年4月13日(昨日ですね)の空襲で、亡き智恵子と過ごした駒込林町25番地のアトリエ兼住居は灰燼に帰しました。自らも既に老年に入っていた光太郎、自分はともかく「病人や老幼者をかかへて敢闘した人達」への気遣いを優先させています。しかし、同じ文章の終末では「敵の腰砕け、敵の気力折れ尽きるまで、戦に冷徹して、神明からうけた大和民族の真意義を完たからしめねばならない」とも発言しています。

その愚昧さに気づくまで、あと数ヶ月を要します。
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