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Channel: 高村光太郎連翹忌運営委員会のブログ
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平成27年 第50回記念 七夕古書大入札会。

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このブログにて毎年ご紹介しています明治古典会さん主催の七夕古書大入札会。古代から現代までの希少価値の高い古書籍(肉筆ものも含みます)ばかり数千点が出品され、一般人は明治古典会に所属する古書店に入札を委託するというシステムです。毎年、いろいろな分野のものすごいものが出品され、話題を呼んでいます。

その目録が届きました。

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出品目録は少し前に、ネット上にアップされましたが、全体をざっと見るには紙媒体の方がはるかに便利です。


直接、光太郎に関連する出品物は3点。

目玉は大正3年(1914)の詩集『道程』。何と、カバー付きです。

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詩集『道程』、元々大正3年(1914)の時点では、自費出版で200部しか作られず、しかも文語自由詩全盛の時代を突き抜けた口語自由詩が大半だったこともあり、売れ行きはさっぱりでした。真偽の程は不確かですが、光太郎が友人知己に贈ったものを除き、実際に売れたのは7冊だけだったという話もあります。残本はくり返し奥付を換えて販売されましたが、その売れ行きも芳しくなかったようです。

カバーが無くなってしまったものは、時折市場に出ます。当方も持っています。しかし、今回のものはカバーがちゃんと付いています。カバー付きが市場に出るのはおそらく戦後数回目。非常に珍しいものです。

まあ、珍しさということで言えば、昨年、秀明大学飛翔祭「宮沢賢治展 新発見自筆資料と「春と修羅」ブロンズ本」展に出品された、同大学長・川島幸希氏所蔵の特装本にはかないませんが、コンディションも良く、署名も入っており、逸品と言って差し支えありません。入札最低価格が60万円。おそらくここから跳ね上がるでしょう。

他に、光太郎自筆の小色紙。昭和2年(1927)作の短歌「やせこけしかの母の手をとりもちてこの世の底は見るべかりけり」が書かれています。大正14年(1925)に亡くなった母・わかを偲ぶものです。入札最低価格は40万円。

さらにエミール・ヴェルハーレン(光太郎の表記では「ヹルハアラン」)の詩集『天上の炎』。光太郎の訳で、大正14年(1925)に刊行されたものです。見返しに「私は未来の熱望をもつ」というヴェルハーレンの言葉を光太郎が記しています。同じく20万円。

この2点は以前から東京の古書店が在庫として持っていたものです。

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それから、光太郎が題字を揮毫した中原中也詩集『山羊の歌』が3冊も出品されます。それぞれ函付きで20~30万円の入札最低価格が設定されています。


「一般下見展観」といって、出品物を実際に手に取れる機会があります。7月3日(金)午前10時〜午後6時、7月4日(土)午前10時〜午後4時の2日間。場所は東京神田の東京古書会館さんです。

美術館や文学館などの展覧会と違い、出品物を実際に手にとって観ることが出来るという、ある意味とんでもないことをやっています(撮影は不可)。全体の目玉として、宮沢賢治の「グスコーブドリの伝記」草稿・賢治写真・名刺・書簡・『春と修羅』がセットで入札最低価格350万円、芥川龍之介の自筆ノートが同じく700万円、竹久夢二のスケッチ帖・自作スクラップブック他がやはりセットで500万円。こういったものも手に取れてしまうわけです。ある意味恐ろしいですね。

古書市をご存じない方にはカルチャーショックだと思います。話の種にも、ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月25日

平成16年(2004)の今日、山梨県立文学館で開催されていた企画展 「画文交響 ―明治末期から大正中期へ―」が閉幕しました。

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「パンの会」から「ヒュウザン会」「生活社」「草土社」、雑誌に即して言えば『明星』『早稲田文学』『方寸』『三田文学』『青鞜』『白樺』。文学と美術の接点を追った企画展でした。

となると光太郎は外せません。光太郎関連の資料も多数展示されました。

吉川久子さんフルートコンサート「心に残る美しい日本のうた 東北、その豊穣の大地に遊ぶ」。

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昨日は横浜みなとみらいホールに行って、フルート奏者・吉川久子さんのコンサート「心に残る美しい日本のうた 東北、その豊穣の大地に遊ぶ」を聴いて参りました。

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「心に残る美しい日本のうた」と冠してのコンサートは今回で10回目だそうです。10回を経るうちに東日本大震災が起こり、東北を中心に茨城、千葉など被災地への復興支援の目的が加わって、宮沢賢治、野口雨情などからのインスパイアが取り入れられるようになりました。一昨年は、「智恵子抄の世界に遊ぶ」というサブタイトルで、当方、今年と同じみなとみらいホールで拝聴して参りました。

それがご縁となり、昨年4月2日の第58回連翹忌で演奏をお願いし、花を添えていただきました。

今回は「東北、その豊穣の大地に遊ぶ」というサブタイトル。てっきり、東北全般への讃歌というコンセプトで、直接、光太郎智恵子と関わるわけではなさそうだと思いこんでいましたが、あにはからんや、プログラムの最初は、吉川さんご自身のMCによれば、智恵子へのオマージュとしての選曲だそうでした。

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その後、野口雨情(被災地・北茨城出身)の曲、休憩を挟んで後半は賢治の世界を中心に、伴奏のキーボード・海老原真二さん、パーカッション・三浦肇さんともども、素晴らしい演奏が披露されました。

こちらは終演後の吉川さん。

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さて、少し前に、名古屋在住の作曲家・野村朗氏からご連絡がありました。野村氏は「連作歌曲 智恵子抄」など、光太郎智恵子の世界を独唱歌曲で表現されています。

で、その内容は、吉川さんとのコラボで、10月に名古屋で演奏会を開きたいので、そのための協力要請でした。氏を中心に「智恵子抄実行委員会」という組織を立ち上げ、できれば1回限りでなく、光太郎智恵子ゆかりの地での開催なども視野に入れていらっしゃるとのこと。素晴らしい取り組みと存じ、快諾いたしました。

実は野村氏と吉川さんのコラボは、一昨年、「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展が全国を巡回した際、愛知展会場の碧南市藤井達吉現代美術館さんでの関連行事として行う方向で動いたのですが、残念ながら双方のスケジュールが合わずに断念した経緯があります。それが2年越しで実現です。

また近くなりましたら詳しくご紹介しますが、早速、昨日のコンサートにはチラシが間に合って、配布されました。

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他にも「智恵子抄」の世界を音楽や朗読などで表現されている皆さんで、他の方とのコラボに抵抗のない方、ご賛同下さって、その後の開催に力を貸していただければと存じます。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月26日

昭和4年(1929)の今日、新宿中村屋において智恵子も出席した『青鞜』同人の「思ひ出の会」が開催されました。

平塚らいてうが中心となって、我が国初の女性だけによる雑誌『青鞜』が創刊されたのは、明治44年(1911)。創刊号の表紙は智恵子が手がけました。終刊は大正5年(1916)。その旧同人などが集まっての同窓会でした。

翌日の『朝日新聞』にはその模様が報じられ、写真も載りました。

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智恵子も写っているのですが、野上弥生子の陰になっており、顔の右側の輪郭だけで、目鼻立ちが不明です。非常に残念。2年後には心の病が顕在化、悲劇的な末路へと進む運命を暗示しているように見える、というと考えすぎでしょうか。

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高橋愛子さん。

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地方紙『岩手日日』さんに、以下の記事が載りました。 

大瀬川歴史探訪講座 高橋愛子さん、光太郎を語る(6/24)

「気さくなおじいさん」
 花巻市石鳥谷町の大瀬川活性化会議が主催する第35回大瀬川歴史探訪講座は23日、「高村光太郎と大瀬川の芸術」をテーマに大瀬川振興センターで開かれた。花巻で疎開生活を送った詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)と交流した高橋愛子さん(83)=同市太田出身、同市石鳥谷町大瀬川在住=から思い出話を聴き、地区住民ら約30人が偉人の暮らしぶりや人柄に思いをはせた。
 高橋さんの実家は、東京から疎開してきた光太郎が同市太田山口(旧太田村山口)を訪れた最初の晩に泊まった場所。当時16歳だったという高橋さんは「背が高く、ひげもじゃで、よれよれのリュックサックを背負って、この人は本当に偉い人なのかなと思うような格好をして来た。脱いだ靴を見たら34センチぐらいあって、びっくりした」と驚きの連続だった光太郎との出会いを振り返った。
 村人の建てた簡素な山荘で7年間暮らした光太郎は、何でも知っている先生として慕われ、講話や学校への寄付を行い、運動会やクリスマスといった行事に参加するなど、地域にすっかり溶け込んでいたと回顧。「光太郎が学校に来ると、生徒たちはみんな駆け寄って手をつないだ。子供にとっては先生でなく、ただのそこらへんのおじいさんという感じ。本当に気さくだった」と偲んだ。
 参加者は興味深げに聴き入り、「妻の智恵子について話を聞いたことはなかったか」「美食家だったといわれているが」「何で7年も山口にいたのか」などと質問。高橋さんは「夏に光太郎が風邪を引いて山荘で休んでいた時に『寂しくないですか』などと聴いたら『ちっとも寂しくない。智恵さんがいる』と言っていた。亡くなっていた智恵子さんをすごく愛していたんだと思う」「外国でおいしい物を食べていた人だった。畑ではオクラやセロリなど山口では珍しかった西洋野菜を植えていた」「母は、光太郎は戦争に賛成した詩を書いた責任を感じて山口に来たんだべ、と言っていた」などと答えた。
 リニューアルした高村光太郎記念館に行って感動し、当時について聞いてみたいと思って参加した菅原房子さん(61)=大瀬川=は「記念館の内容と愛子さんの話が結び付き、なるほどと思った」と目を輝かせていた。

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高橋愛子さん。花巻郊外太田村に住んでいた頃の光太郎をよくご存じの方です。今年2月にオンエアされたNHKさんの「歴史秘話ヒストリア 第207回 ふたふたりの時よ 永遠に 愛の詩集「智恵子抄」」にもご出演なさっていました。

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お父さんの雅郎さんは、光太郎がいた頃の太田村村長さん。ただし、戦時に外地に行っていて、帰国した時にはすでに光太郎が太田村に住んでいました。その後、村長に就任したというわけです。

お母さんのアサヨさんも、何くれとなく光太郎の世話をやいてくれました。そして愛子さんご自身も、光太郎の元にいろいろと届け物をしたりで、光太郎の日記にお名前が頻出します。そしてお二人は、昭和41年(1966)、かつての太田村に建った高村記念館の受付を永らくなさっていました。

今年4月にリニューアルオープンとなった花巻高村光太郎記念館の受付で、下記のリーフレットを無料配布しています。題して「おもいで 愛子おばあちゃんの玉手箱」。

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A3判の用紙両面印刷で、4つ折りになっています。地元スタッフの方々が愛子さんへの聞き書きをまとめたもの。「サンタの衣装づくり」「西洋野菜」「日時計」などなど、中にはこれまで活字になったことがなかったのではないかと思われる、実に貴重な証言が満載です。

花巻高村光太郎記念会の事務局長氏と電話でお話をした際、愛子さんのお話にもなりました。記事にある地域の講座も、このリーフレットができたことで、これを見ながらお話をすれば楽だ、ということで、実現したとのことでした。

他にも、今秋をめどに、旧太田村の皆さんによる光太郎証言をまとめる計画が進んでいます。またお手伝いさせていただくことになりまして、いいものができるよう、頑張りたいと思っております。

来月には、旧太田村の皆さんで作る「太田地区振興会」の方々約40名が、十和田湖にいらっしゃるそうで、当方も現地で合流することにいたしました。やはり生前の光太郎をご存じの振興会の佐藤会長は、二本松で開催されている智恵子命日の集い「レモン忌」にもいらしています。逆に今年は「レモン忌」主催の「智恵子の里レモン会」の皆さんが、5月の「高村祭」に大挙していらして下さいました。

今度は十和田の観光ボランティアの会の皆さんとの交流ということです。こうした地域同市の草の根の交流、ネットワーク作りというのも、非常に重要なことだと思います。さらにいろいろな分野で輪を広げ、強固なものにし、光太郎智恵子の業績を後世に伝えていきたいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月27日

昭和19年(1944)の今日、『朝日新聞』に詩「婦女子凜烈たり」が掲載されました。


    婦女子凜烈たり

戦略軍機は揣摩を絶し、
統帥の府厳として大局を握る。
サイパン島一円の戦、
敵これに万の犠牲を傾け来たる。
上陸の敵を邀(むか)へて婦女少年も力を協(あは)せ、
海陸未曾有の真相を呈するに至る。
しかもアメリカ海軍の運命がいま
大挙してここに集る。
連合艦隊の一部百錬の力を出動し、
撃滅の気すでに海に溢(あふ)る。
国民の胸黙すれどもをどり、
国民の血平かなれども白熱し、
補給はひきうけたと
二十四時間が唸りを立てる。
いまつくる此の部品があすは戦ふ。
あそこで撃つ。
いま、いま、いま、
いまを措いて行動の実質はない。
あの要衝で婦女子もまた決然たる
その凜烈の様相が眼に見える。

昭和19年(1944)、勤労動員などで、婦女子までもが駆り出された戦時の世相がよく表されています。近くて遠いどこかの独裁国家では、今も同じようにミサイルの製造などを行っているのでしょうか。我が国がもう一度、いや、永遠に、こういう状況に戻らないことを祈ります。

あそこで撃つ。/いま、いま、いま、」は、現代の婦女子代表・なでしこジャパンのシュートだけにしてほしいものです。

余談になりますが、なでしこジャパン主将の宮間あや選手は、昭和9年(1934)に智恵子が療養していた豊海村(現・九十九里町)に隣接する大網白里町(現・大網白里市)の出身です。

明日は女子ワールドカップ準々決勝。「あの要衝(カナダ)で、婦女子もまた決然たる/その凜烈の様相が眼に見える。」という状況になってほしいものです。

「戦争協力、自ら罰した光太郎」。

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昨日、このブログで花巻の高橋愛子さんについて書きましたので、続けて花巻ネタで参ります。

今月16日の『朝日新聞』さんの東北の版に、今年4月にリニューアルオープンとなった花巻高村光太郎記念館、そして隣接する光太郎が7年間住んだ山小屋(高村山荘)に関する記事が載りました。

当方、『朝日新聞』さんのデジタル版「朝デジ」の無料会員登録をしてありまして、全国版に載った記事はほぼネット上で読める環境です。しかし、地方版の記事は読めるものと読めないものがあり、この記事は読めませんでした。ただ、見出しとさわりの部分だけは、無料会員向けのコンテンツでも検索で引っかかり、こういう記事が載ったんだ、ということはわかるようになっています。

今回の記事に関しても、16日の当日に、東北での版に載ったことがわかったので、午前中に仙台に住んでいる息子に「東北限定の記事が載ってて読みたいから、今日の『朝日新聞』、コンビニで買っておいてくれ」とメールしたところ、「うぃ」と返信が来ました。

ところが、父親に似て抜け作の息子でして、夜、不安になって再度「買ってくれたか?」とメールすると、案の定「ごめん、忘れてた」……。時計を見ると午後10時を廻っています。経験上、だいたいその時間になると、コンビニさんもその日の新聞は撤去してしまうので、「しょうがねえなあ、じゃあ、いいよ」と返信。まあ、その週末に大学の部活動の大きな試合を控えていて、それどころじゃないのだろう、と、いうことで諦めました。

すると、先週、『朝日新聞』北上支局長さんから、その日の紙面が届きました。支局長さんには、先月の花巻高村祭の折に当方が講演をしたので取材を受け、知遇を得ていました。

読んでびっくり、当方も紹介されていました。高村祭での講演や取材の際に語ったことが載った形です。

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記事を書かれたのが支局長さんでした。感謝、感謝。

この記事を読んで、高村山荘、高村光太郎記念館に行ってみようかな、と思う方がいらっしゃれば、嬉しい限りです。本当に、一人でも多くの方にお出かけいただきたいと思っておりますので。

他にも高村祭での取材の際に、「何か岩手がらみのネタはありませんか」と問われたので、最近見つけた『花巻新報』(戦後発行されていた花巻の地方紙)に関するネタを提供しておきました。そのうちに記事になるかも知れません。期待しております。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月28日イメージ 1

明治45年(1912)の今日、駒込林町に新築なったアトリエ建築費用の決算がなされました。

光太郎の母・わか(通称・とよ)の書き残した『朔画室建築費扣』という半紙を綴じて作った冊子が遺っており、細かな出納が記録されています。例えば、「一金六十円 水道工事壱式 西山商会内払」「一金壱円八拾五銭 下駄箱壱個」など。

その最後に以下の記述があります。

六月二十八日迄合計
惣〆金弐千弐百九十七円七十八銭五リ也

「五リ」は「五リン(五厘)」の誤記でしょう。総額2,297円78銭5厘。ちなみに当会顧問・北川太一先生が電卓で計算されたところ、数字が微妙に合わないとのことですが、そのままとします。

諸説ありますが、安く見積もれば明治末の1円は現在の4,000円くらいにあたるとも言われます。そう考えると919万1,140円。また、諸説あるうち、高く見積もると明治末の1円=現在の10,000円という説もあり、そう考えれば2,297万7,850円となります。ちなみに大正3年(1914)刊行の詩集『道程』は定価1円でした。

この時期の光太郎はコータローならぬプータローですから(せっかく開いた我が国初の画廊「琅玕洞」は、赤字続きで譲渡)、この莫大な金額、全額、光雲が出しています。とんでもないスネかじりですね。

それを言い出せば、詩集『道程』の出版費用も光雲から出ています。

そういう光太郎にある意味反感を抱いた室生犀星の回想が残っており、笑えます。

引き合いに出していただいてありがとうございます。

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一昨日、昨日と、新聞報道について書きましたので、今日もその流れで。

光雲、光太郎の名がちらっと出た記事をご紹介します。

まず、『産経新聞』さん。

22日の文化面、「【自作再訪】 澄川喜一さん「そりのあるかたち」 錦帯橋の美しさに惚れ込んで」という記事。

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元東京芸術大学学長で東京スカイツリーのデザイン監修者として知られる彫刻家、澄川喜一さん(84)。47歳のときに誕生した代表作「そりのあるかたち」は、ライフワークとして取り組んできたシリーズだ。反った曲線が特徴の抽象彫刻は、どこか懐かしく親しみがある。代表作誕生の背景には、日本の伝統文化が深く関わっている。

と始まり、昭和53年(1978)、平櫛田中賞を受賞した抽象彫刻「そりのあるかたち」についての話、さらに岩国の錦帯橋、法隆寺の五重塔、東京スカイツリーなどの古今の造型に触れています。

その中で、光雲が主任となって原型が作られた、上野の西郷隆盛像にも言及されました。

公共の場には、周囲の環境に合った作品を創らなければなりません。多くの人が目にするのですから、ひとりよがりの彫刻では駄目なんです。高村光雲は、東京の上野公園の西郷隆盛像を創りました。戦後、軍国主義を一掃するために軍人の銅像がことごとく撤去される中で、西郷さんは残りました。造形もさることながら着流しで犬を連れた庶民的な姿にしたアイデアも良かった。後世に残るものもあれば消えてしまうものもあります。彫刻家の社会に対する責任は重大です。

最後の一文、まさしくその通りですね。


『産経新聞』さん、翌日の教育面には、光太郎の名が。

インテリアデザイナーの小坂竜氏と、お父さんの彫刻家、故・小坂圭二氏を紹介する「父の教え 創作への情熱教わった師匠」という記事です。

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故・小坂圭二氏は、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の制作に際し、光太郎の助手を務めた彫刻家です。

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その圭二氏の紹介文で、光太郎が引き合いに出されています。

【プロフィル】小坂圭二
 こさか・けいじ 大正7年、青森県生まれ。中国と南太平洋のラバウルで兵役に服す。昭和25年に東京芸術大彫刻科卒業。青山学院中等部の美術教師をしながら彫刻家として活躍。阿部合成や柳原義達らに師事し、高村光太郎の助手を務めた。74歳で死去。


同じくプロフィールの紹介で、光太郎を引き合いにしたのが、『京都新聞』さんの先週の記事。陶芸家バーナード・リーチに関連する記事でした。 

東西陶工の縁、百年越え 京都・宇治の一族、リーチ工房に

 20世紀を代表する陶芸家の1人、バーナード・リーチ(1887〜1979年)の母国・英国の工房で登り窯を造った京都・宇治の陶工の一族がこの春、リーチの工房で新たな作陶に挑んだ。近代陶芸の礎を築いた巨匠の工房で、約100年の時を経て再び生み出された東西の美の結晶が27日から京都市内で展示される。
 英国で陶芸に取り組んだのは、宇治で代々続く窯元「朝日焼」の次期当主、松林佑典さん(34)。リーチの工房を支えた陶工松林(つる)之助(1894〜1932年)は、13代当主だった曽祖父の弟にあたる。
 之助は京都市立陶磁器試験場付属伝習所(現・京都市産業技術研究所)で、後の人間国宝、濱田庄司らに師事。1922年、28歳で英国留学した。リーチと濱田は英南西部セントアイブスで工房を開いたが窯が壊れ、之助に窯の築造を依頼した。之助は半年がかりで日本式登り窯を造り、京都の陶芸の知識をリーチの弟子たちに教えた。窯は半世紀にわたり使われ、世界で評価される多数の作品が生まれた。
 之助は25年に帰国後、38歳の若さで亡くなり、ほぼ無名の陶工だった。京都女子大の前?信也准教授(日本工芸史)が大英博物館で之助の茶碗を発見したことから、近年に研究が進んだ。前?准教授は「之助がいなければ、今日、私たちの知るリーチはなかった」と高く評価する。
 今年3〜4月の約1カ月間、リーチの工房に滞在した佑典さんは、今も工房の道具が日本由来だったり、釉薬(ゆうやく)の名前が日本語だったりして驚いたという。100年前の姿が残る石造りの工房で、宇治と英国の土を混ぜ、地層や年輪のような味わいのある茶碗など30点を制作した。「異質なものが混ざり合って多様なハーモニーが生まれる。東洋と西洋が交わる普遍的な美を目指した」と話す。
 展示は京都市中京区衣棚通三条上ルの「ちおん舎」で、29日まで。入場無料。28日午後4時半から、前?准教授の講演会もある。朝日焼TEL0774(23)2511。

 ■バーナード・リーチ 英国の陶芸家。幼少期を日本で過ごし、英国に留学中の詩人高村光太郎と出会い、20代で版画家として再来日した。日用品に美を見いだす民芸運動を提唱した柳宗悦と親交が深く、在日中に陶芸にのめり込んだ。東西の美や哲学を融合した作品を発表した。


小坂圭二にせよ、バーナード・リーチにせよ、その紹介に縁の深かった光太郎が引き合いに出され、ありがたいかぎりです。「高村光太郎? 誰、それ?」という状況になってしまうと、こうはいきません。そうならないように、光太郎の名を後世に残す活動に取り組み続けたいと思っています。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月29日

昭和22年(1947)の今日、花巻郊外太田村の山小屋を訪れた歌人の伊藤岩太郎の持参した画帖に「悠々たる無一物に荒涼の美を満喫せん」と揮毫しました。

伊藤は当時、岩手郡大更村(現・八幡平市)に住んでいました。その後、盛岡に居を構え、自宅の庭に先達の偉業を偲ぶとともに、自分の50年に及ぶ歌道精神の総決算の意味で石川啄木、若山牧水、長塚節、斎藤茂吉、木下利玄、北原白秋の歌碑を建立しました。

伊藤と光太郎のかかわりは、この日の日記にしか確認できませんが、もう少しいろいろあったように思われます。画帖の現物も確認できていません。今後の宿題とします。

「悠々たる……」はこの年に書かれた連作詩「暗愚小伝」中の「終戦」にある「悠々たる無一物に私は荒涼の美を満喫する」の変形。漢文調に語順を変え、送りがなを廃したバージョンの揮毫も複数存在します。

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昭和23年(1948)、光太郎と交流のあった彫刻家・笹村草家人を介し、神田小川町の汁粉屋主人・有賀剛に贈ったと推定されるもの。

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同じ頃、隣村に疎開していたチベット仏教学者・多田等観に贈ったもの。

二本松景観 ダブル受賞。

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今朝の『読売新聞』さんの福島版に載った記事です。 

二本松景観 ダブル受賞

◆住民グループの取り組み
住民らによる長年の取り組みが評価され、二本松城跡に近い二本松市竹田根崎地区の景観が日本都市計画学会(東京)の計画設計賞を受賞した。都市づくりパブリックデザインセンターなどの実行委員会が主催する都市景観大賞の都市空間部門の優秀賞にも選ばれたといい、住民らは30日、同市にダブル受賞を報告する。
 いずれも都市計画の進歩に貢献し、良好な都市景観を作り出した人らを表彰する制度。対象となったのは、城跡の東側に延びる旧奥州街道の県道「竹根通り」の景観で、拡幅計画をきっかけに、住民らは2002年、地域の歴史や風土に調和した景観をつくるための協定を結んだ。
具体的には、城跡の石垣や、高村光太郎の「智恵子抄」に収められた「あどけない話」で有名な安達太良山の上の空と調和した街並みを目標にし、広々とした眺めを守るため、原則として建物は3階建てまでとすることを申し合わせた。板塀を設け、屋根は瓦ぶきとするなど、一体感のある外観を目指したという。電柱の地中化も決まり、昨年9月、道路の拡幅や地中化などが終了。十数年に及んだ取り組みが結実し、受賞につながった。参加した住民の1人の高橋淳記(あつのり)さん(60)は、二つの賞をほぼ同時期に受けたことについて喜び、「他の地域でも景観に配慮したまちづくりに取り組む機運が高まればうれしい」と笑顔で語った。


二本松市竹田根崎地区。県道129号線で、二本松霞ヶ城の東に、それぞれ「竹田」「根崎」という交差点があり、そのあたりでしょう。

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西の「竹田」方面から来て、「根崎」の交差点を鍵の手に曲がり、さらに行くと「智恵子の森」地区、そして智恵子の生家・智恵子記念館に至ります。

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このあたりが都市計画・景観の賞を二つ受賞したというニュースです。

調べてみると、先月の地方紙『福島民友』さんにも類似の記事が出ていました。 

二本松・竹根通りが優秀賞 都市景観大賞「都市空間部門」

 東北地方整備局は26日、良好な都市景観を生み出す優れた事例などを表彰する「都市景観大賞」の東北の本年度受賞団体を発表、本県関係は都市空間部門で優秀賞に「二本松市竹田根崎竹根通り沿道地区」が選ばれた。
 本県関係の受賞は、同部門で優秀賞を受賞した昨年度の「小峰城跡・白河駅周辺地区」(白河市)に続き2年連続。同部門に加え、景観教育・普及啓発、景観づくり活動の計3部門に全国から35件の応募があった。各部門で大賞と優秀賞を選考した。
 竹田根崎竹根通り沿道地区は、景観協定に基づく統一感のある街並みや、電線地中化による美しい景観、東日本大震災被災後の地域の復興と再生への希望の象徴となっていることなどが評価された。表彰式は6月、都内で行われる予定。
(2015年5月27日 福島民友ニュース)

ただ、こちらには光太郎智恵子の名などが出ていなかったので、当方の検索の網にはかかっていませんでした。


『読売新聞』さんに紹介された二つの賞のうち、日本都市計画学会さんの計画設計賞に関しては、こちらのサイトをご覧下さい。

計画設計賞
受賞者  竹田根崎まちづくり振興会議
作品名  福島県二本松市竹田根崎竹根通り沿道地区の景観まちづくり
授賞理由
本作品は、福島県道「竹根通り」の拡幅整備計画を契機として発足した「竹田根崎まちづくり振興会議」が中心となる、20 年近くにわたるボトムアップ型景観まちづくりの取組が結実したものである。
当地区では、景観シミュレーションによるワークショップなどを開催し、「ほんとの空とお城山が美しく見える景観づくり協定」を締結し、その後振興会議内に設置された「まち並み委員会」が、協定に基づくデザイン協議を110 回以上繰り返すことで、城下町に相応しい落ち着いた意匠など、ゆるやかなルールのもと、住民個々の意向や個性を尊重した調和のある町並みを生み出している。この成果は「NPO 法人たけねっと」、「NPO 法人桑原さん家」などの住民まちづくり活動との連携や、早稲田大学と芝浦工業大学の研究者と学生、二本松市と福島県関係者の長年の支援に負うところも大きい。
東日本大震災と原発事故による被害とその影響が続く福島県内、二本松市内にあって、「竹根通り景観づくり」は、美しい景観づくりの先に、まちの復興と暮らしの再生の希望を示していることに深い意義がある。よって本作品は、日本都市計画学会計画設計賞に値すると判断した。


もう一つの、都市づくりパブリックデザインセンターさんによる都市景観大賞についてはこちらのサイトに詳しく載っています。

「優秀賞」(公益財団法人 都市づくりパブリックデザインセンター理事長賞)
■地区名:二本松市竹田根崎竹根通り沿道地区
■面積:約9.0 ha
■所在地:福島県二本松市
■応募者:竹田根崎まちづくり振興会議、福島県、二本松市、早稲田大学都市計画研究室芝浦工業大学地域デザイン研究室
■地区の概要:
当地区は、二本松市の中心市街地内であるが、JR二本松駅からは徒歩20分ほどと離れていることもあり、商店街の衰退と人口減少が続いていた。かつての奥州街道である「竹根通り」が幅員18mへ拡幅されることを契機に、魅力的な景観づくりに取り組み始めた。まちづくり活動は住民からなる「竹田根崎まちづくり振興会議」が総括し、行政の支援のもと、住民主導で17年にわたり活動している。大学の支援もあり、模型を使用したワークショップを何度も開催し、まちづくりの計画づくりと街路デザイン、景観づくりを検討してきた。住民は景観協定を締結し、建て替えデザイン協議を110回以上開催してきた。それにより、街路事業と一体となった町並みが完成している。
平成23年3月の東日本大震災と原発事故による低線量放射線被害、風評被害により、当地区も大きな打撃を受けている。そのなかにあって竹根通り景観づくりの完成は、景観の劇的な向上と、それを実現した住民を中心とする関係者の努力で、復興と再生への希望の光と受け取られている。未だ原発事故被害で厳しい状況にあるが、今後は人々が戻り、また新たな産業が生まれることが期待されている。
■審査講評:
とにかく空が広い、道路の両端が山あて、しかも安達太良山と二本松城址、これこそが「ほんとの空とお城山が美しく見える景観づくり協定」という名前の元であることがよくわかる、気持ちの良い道路景観である。全国の多くの道路をみてきたが沿道の建築物の意匠より、何より大事にされてきた空が広いことが、居心地の良さに通じることが印象的であった。また、住民、市、県、そして学識経験者と建築士会、それらの非常に緊密なコラボレーションで、平成9年より長きにわたりまちづくりを作り上げてきた絆を強く感じる。また、110回にわたるデザイン協議にも敬服する。さらには、道路を拡幅したことにより、従来奥にあった蔵が沿道に露出し、展示スペースにしたり、居酒屋にしたり、新たな街のランドマークとして使い、地域の活力を生み出している。道路の拡幅は、ともすれば、街の活気を失いがちであるが、この地区では、見事に、拡幅による洗練された澄み切った空気を感じる街並みが息子世代への牽引に役に立ちそうな気配を感じさせられる、優秀賞に値する景観である。今後の継続にも期待したい。(池邉)

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智恵子の愛した「ほんとの空」まで含めた景観が授賞対象となったかと思うと、喜ばしいことです。東日本大震災からの復興という意味でスポットが当てられるのもよいことでしょう。

しかし、ちょうどこの辺りには、震災から4年経った今も、福島第一原発に近い浪江町の皆さんの住む仮設住宅や、プレハブ校舎の福島県立浪江高等学校津島校なども存在します。この状況が正常な状態であるわけがありません。

『福島民友』さんにあるとおり、二本松の景観が「東日本大震災被災後の地域の復興と再生への希望の象徴」でありながらも、福島が一刻も早く、正常な状態になるようにと願ってやみません。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月30日イメージ 1

昭和57年(1982)の今日、筑摩書房から『定本高村光太郎全詩集』が刊行されました。

光太郎生誕100年の記念出版で、限定700部、全1,037ページ。『広辞苑』とまではいきませんが、それに近い厚さです。

刊行当時に確認されていた光太郎の詩作品736篇(断片を含む)を編年体で収録しています。

これに先立つ昭和41年(1966)には、新潮社から『高村光太郎全詩集』が刊行されていますが、こちらは光太郎生前に刊行された単行詩集を核として、それらに収められなかったものはその前後に配置するという、いわば紀伝体の編み方でした。

いずれも古書市場で出回っています。光太郎が作った詩のみを読みたい、という方にはお勧めです。

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「御堂筋の彫刻の奥ゆかしさ」。

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昨日、智恵子の故郷、福島・二本松の景観について書きました。そこで、景観つながりで、『朝日新聞』さんの大阪版に載った記事を紹介します。 

(葦)御堂筋の彫刻の奥ゆかしさ 神田誠司

 御堂筋で見かける彫刻のことが以前から気になっていた。歩道にひとつ、少し歩くとまたひとつ。立ち止まってよく見ると、「考える人」で知られるオーギュスト・ロダンや、高村光太郎の作品があったりするのだ。
 調べてみると、南北に走る御堂筋の淀屋橋から南約2キロ区間の両側に計29点の彫刻がすえつけられている。大阪のシンボルロードにふさわしい魅力ある空間にしようと、市が沿道企業などに作品の寄贈を呼びかけ、1992年から設置をはじめたものだった。
 光太郎やロダンに限らず、国内外の著名作家の作品ばかりだが、「ひっそりと置いてあるので気づかない人も多い」(市都市景観担当課長)。4年前、一夜のうちに何者かが19点に赤い服のような布を着せかけた「赤い服事件」で存在を知った方も多いかも知れない。
 台座などに寄贈した企業名の表示はない。そこが奥ゆかしくていい。足を止めて見入っていると、街の喧騒(けんそう)が消えていく心地がする。片道ならゆっくり歩いても30分ほど。あなたも気に入る作品に出会えるかも知れない。
(神田誠司編集委員)


何度かこのブログもご紹介してきた、大阪市のメインストリート・御堂筋に立ち並ぶ彫刻群についてです。

光太郎作の通称「乙女の像」の中型試作も「みちのく」の題で設置されています。

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この像、正式な名称としては「十和田国立公園功労者記念碑のための裸婦群像中型試作」というべきですが、これでは長すぎますし、「乙女の像」としてしまうと、十和田湖畔に立つオリジナルとは違うものですので(ほぼ2分の1スケールです)、それもまずい、というわけで「みちのく」です。

現在、十和田では「乙女の像」という愛称が一般的ですが、「みちのく」という別称もかなり古くから使われていました。

例えばこちら。昭和31年(1956)4月15日発行の雑誌『サンデー毎日』。光太郎の追悼記事に載った写真です。

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記事本文にも「十和田湖畔に建てるブロンズの裸婦像「みちのく」を制作」とあります。

他にも、同じ頃出た雑誌『家の光』でも同様に「みちのく」の語を使っています。

今年4月に十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さんで刊行された『十和田湖乙女の像ものがたり』執筆中にこのあたりも調べたのですが、「みちのく」の別称の最も早い使用例と思われるのは、像の完成前、昭和28年(1953)7月1日発行の『毎日グラフ』に載った光太郎のアトリエ訪問記の題名で、「”みちのく”の女神」となっているものです。また、歿後の昭和35年(1960)に国立近代美術館で開かれた「四人の作家」展で、これらの像が「みちのく」の題で出品されたりもしました。

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その由来ははっきりしませんが、「みちのく」十和田に建てられ、「みちのく」福島出身の智恵子の顔を持つと言われ、「みちのく」岩手に7年あまりを過ごした光太郎の作であり、大町桂月ら「みちのく」十和田湖の開発・宣伝に功績のあった人々の功労記念碑であること、この像の建立に関わった「みちのく」の人々の「みちのく」への思いが込められた像としての愛称、といえるでしょう。

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ちなみに十和田湖の像の台座に使われている石も、「みちのく」岩手産の石です。従来、この像を含む周辺一帯の設計をした建築家・谷口吉郎が「福島産の折壁石」とあちこちに書き記してしまったため、福島産と思われてきましたが、折壁石というブランド名は岩手県東磐井郡室根村(現・一関市)の折壁地区で採れたことに由来します。

話がそれましたが、「みちのく」を含む大阪御堂筋の彫刻群、ぜひ一度、ご覧下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月1日

昭和47年(1972)の今日、雑誌『ユリイカ』が、「復刊3周年記念大特集 高村光太郎」を組みました。

「大特集」とうたうだけあって、180ページ超を費やしています。

高田博厚、岡本潤、真壁仁、北杜夫、中村草田男、金子光晴、難波田龍興ら、光太郎と直接関わりのあった、今は亡き人々の論考やエッセイが満載です。

広報とわだ 特集 『十和田湖再発見』/第50回十和田湖湖水まつり。

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昨日のこのブログで、大阪・御堂筋の光太郎彫刻、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・「乙女の像」)」の中型試作について書きました。

その流れで、本家「乙女の像」に関し、ご紹介します。

まず、昨日発行の十和田市広報誌、『広報とわだ』。「特集 『十和田湖再発見』」という記事が掲載されました。「乙女の像」も大きく取り上げられています。

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ネット上でPDFファイルとして公開されていますので、ぜひご覧下さい。「乙女の像」以外についても2ページ費やされています。

下の方には、昨秋オープンした観光交流センター「ぷらっと」について、さらに「第50回十和田湖湖水まつり」の告知も載っています。

湖水まつり、詳細情報を紹介しましょう。
 
 十和田湖に夏の観光シーズン幕開けを告げるお祭です。
 花火大会では遊覧船が運航し、日中はよさこい演舞やフリーマーケット等のイベントが湖畔で行われます。
ご家族、ご友人、カップルで十和田湖湖水まつりをお楽しみ下さい! 

 開催日 / 平成27年7月18日(土)・19日(日)
 会  場 / 十和田湖畔休屋
 住  所 / 〒018-5501 青森県十和田市大字奥瀬字十和田湖畔休屋


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2日間ともに、「乙女の像」のライトアップがなされます。他にも花火、フリーマーケットなど、いろいろな企画が用意されています。

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昨年、「第49回十和田湖湖水まつり」にお邪魔しました。「乙女の像」をバックに夜空に浮かぶ大輪の花火は幻想的でした。下記はご案内下さった十和田市役所の山本氏の作品。

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当方、今年はその10日後に、昭和20年(1945)から光太郎が7年間を暮らした、花巻郊外太田村(現・花巻市太田)の地区振興会の皆さん約40名が十和田湖をご訪問されるのに同行、というか現地で合流しますので、湖水まつりは欠礼します。

皆さんはぜひ足をお運び下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月2日

昭和23年(1948)の今日、花巻郊外太田村の山口小学校で、給食の脱脂粉乳を飲みました。

当日の日記から。

ひる頃学校にて児童給食の粉ミルクをとかした牛乳の御馳走になる。脱脂粉乳の由なるが、味よろし。

現在製造されているものは品質も向上、味や匂い等何ら問題はないそうですが、この時代のそれは、不味いものの代名詞とまで言われていたものだったそうです。しかし、光太郎は「味よろし」とのコメント。

アメリカの支援により、日本の学校給食に供されるようになり、地方によっては1970年代前半まで出されていたそうですが、当方がその頃入学した東京の小学校では既に瓶の牛乳でしたので、飲んだことがありません。

「みなとオアシス十和田湖認定4周年」記念イベント ワンコインで十和田湖 湖上遊覧一周ツアー

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昨日同様、十和田湖でのイベント情報です。 
日   時   平成27年7月20日 (月)祝日 “海の日”  午前9時~11時30分頃(約2時間半)
内   容   遊覧船での十和田湖一周湖上遊覧 ※ 定期航路にないコースも運航(北岸、西岸を含む)
乗 船 料   500円(当日、受付でお支払いください) 
        小学生以下は無料ですがはがきに名前を記入して下さい。ただし保護者同伴でご乗船下さい。
申   込 往復はがきに住所、氏名、年齢、電話番号を記入し、平成27年7月5日(日)午後5時(必着)下記宛て
当選については返信がきにてご連絡いたします。はがき一枚で、二名様までご応募できます。
募集人員  200名 (応募者多数の場合は抽選によって決定いたします)
申 込 先 〒018-5501 青森県十和田市大字奥瀬湖畔休屋 486一般社団法人十和田湖国立公園協会内 湖上遊覧一周ツアー係 電話 0176-75-2425 FAX 0176-70-6002
URL
http://www.towadako.or.jp/


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通常の遊覧船クルーズが、十和田観光電鉄さんの「十和田湖遊覧船」で1,400円、十和田湖遊覧船企業組合さんの「りんごのマークのゆうらん船」で1,100円。500円なら半額以下ですね。湖上から見る「乙女の像」も乙なものですし、通常の遊覧船コースに入っていない区域にも船が入ります。

昨年の様子がこちら。佐藤春夫作詞で、「乙女の像」を謳ったご当地ソング「湖畔の乙女」が地元合唱団の皆さんにより演奏されたそうです。今年もこういう企画があるのかどうか不明ですが。

前日と前々日は昨日ご紹介した「第50回十和田湖湖水まつり」。あわせて足をお運び下さい。青森、八戸、三沢など県内主要都市からのバス等については、十和田湖国立公園協会さんのサイトをご覧ください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月3日

平成13年(2001)の今日、茨城県取手市の埋蔵文化財センターで企画展「取手ゆかりの人びとの書」が開幕しました。

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取手には、戦前から光太郎と交流があり、戦後になって光太郎の仲立ちで、智恵子の最期を看取った智恵子の姪の長沼春子を娶った詩人の宮崎稔が住んでおり、その関係です。

やはり光太郎と交流のあった稔の父・仁十郎は取手の素封家にして文化人。日本画家・小川芋銭との交流もありました。

8月25日には、当会顧問・北川太一先生の講演「高村光太郎と取手」が関連行事として行われました。

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こちらは市の広報誌。当方も写っています(笑)。

文芸同人誌『虹』第6号。

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詩人の豊岡史朗氏から文芸同人誌『虹』が届きました。毎号送って下さっていて、さらに創刊号~第3号第4号第5号と、毎号、氏による光太郎がらみの文章が掲載されており、ありがたく存じます。

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今号では「<高村光太郎論> 晩年」。昭和20年(1945)から7年間の、岩手花巻郊外太田村の山小屋での生活、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のために再上京して以後、歿するまでの中野のアトリエでの生活に関してです。

「晩年の光太郎の精神生活は、自身と一体化した智恵子夫人との対話の日々だった」「いのちと世界を賛美し、清と濁をあわせもつ矛盾にみちた人間存在を、最終的に肯定」等々、首肯させられるものでした。

この手の文芸同人誌、よくいただきます。

毎号のように光太郎がらみの文章などが載っているのは、福島の渡辺元蔵氏からは、『現代詩研究』。詩人の間島康子様からの『群系』。同じく宮尾壽里子様からで『青い花』。

送っていただければ、光太郎にからむものはこのブログにてご紹介しますし、毎年の連翹忌には「1年間でこんなものが刊行されました」ということで展示いたします。当方連絡先はこのブログ左上のプロフィール欄をご覧下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月4日

昭和24年(1949)の今日、詩「山の少女」を執筆しました。

原題は「鎌を持つ少女」。雑誌『少女の友』に発表され、のち、詩文集『智恵子抄その後』にも収められました。

  山の少女イメージ 1

山の少女はりすのやうに
夜明けといつしよにとび出して
籠にいつばい栗をとる。
どこか知らない林の奥で
あけびをもぎつて甘露をすする。
やまなしの実をがりがりかじる。
山の少女は霧にかくれて
金茸銀茸むらさきしめぢ、
どうかすると馬喰茸(ばくらうだけ)まで見つけてくる。
さういふ少女も秋十月は野良に出て
紺のサルペに白手拭、
手に研ぎたての鎌を持つて
母(がが)ちやや兄(あんこ)にどなられながら
稗を刈つたり粟を刈る。
山の少女は山を恋ふ。
きらりと光る鎌を引いて
遠くにあをい早池峯山(はやちねさん)が
ときどきそつと見たくなる。

モデルは先頃このブログでご紹介した高橋愛子さんだという説があります。

地元の少年少女にとって、光太郎は、大人達が「とても偉い人だ」と言っているからそうなんだ、と思うだけで、単なる優しい物知りなお爺さんだったとのことです。

光太郎も地元の少年少女を愛してやみませんでした。

福島川内村「第50回天山祭り」。

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毎年ご紹介していますが、「連翹忌」の名付け親にして、光太郎を敬愛してやまなかった草野心平が愛した福島県双葉郡川内村で、「第50回天山祭り」が開催されます。 

第50回天山祭り

日 時  : 2015年7月11日(土) 午前11時30分~14時
場 所  : 天山文庫前庭 川内村大字上川内字早渡513  (雨天時、川内村体育センター)
主 催  : 天山祭り実行委員会
参加 費 : 1人 500円
問 合せ : 教育課生涯学習係(0240-38-3806)

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(福島県広報誌『ゆめだより』より)


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昨年の様子はこちら


併せて、会場の天山文庫さんの入り口にある阿武隈民芸館さんでは、心平に関する企画展も同日始まります。 
期 間 : 7月11日~8月23日
時 間 : 午前9時~午後4時
場 所 : 阿武隈民芸館
定休 日: 毎週月曜日(祝日は営業、翌日振休)
入館 料: 300円

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(『広報かわうち』より)


東日本大震災被災地の現状を見る、という意味合いもあります。ぜひ足をお運び下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月5日

明治42年(1909)の今日、料亭・上野常盤華壇で光雲門下の彫刻家一同による高門同窓会主催の帰朝歓迎会で欧米留学の報告をしました。

中村屋サロン美術館企画展示「生誕130年記念 中村屋サロンの画家 斎藤与里のまなざし」。

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新宿の中村屋サロン美術館さんから、先週末に始まった企画展の招待状を戴きました。 
会    期 : 2015年7月4日(土)~9月27日(日)
会    場 : 中村屋サロン美術館 展示室1・2
開館時間 : 10:30~19:00(入館は18:40まで)
休  館  日 : 毎週火曜日(火曜が祝祭日の場合は開館、翌日休館)
観  覧  料 : 300円 高校生以下無料 障害者手帳ご呈示のお客様および同伴者1名は無料

関連イベント
 学芸員によるギャラリートーク 8/8(土) 9/12(土) 14:00~ 約50分
 メールまたは電話で申し込み 2名まで 先着15名 
         
 パリ留学でシャヴァンヌ、ゴッホ、ゴーガンなど、当時最先端の美術を目の当たりにした画家 斎藤与里。帰国後は、彼の地で親友となった彫刻家 荻原守衛(碌山)らと「中村屋サロン」を形成するとともに、大正期には、岸田劉生、高村光太郎らと反アカデミズムのフュウザン会を結成し、日本洋画界に衝撃を与えました。
 本展では与里の生誕130年を記念し、故郷の加須市教育委員会の所蔵作品を中心に、初期から晩年までの作品をご紹介いたします。
 パリで培われた美しい色彩と、時代によって変化する詩情豊かな画風をお楽しみください。

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新宿中村屋の創業者・相馬愛藏、黒光夫妻の元に集まった芸術家が形成した「中村屋サロン」。荻原守衛、光太郎、柳敬助らとともにその主要メンバーの一人だった、画家の斎藤与里にスポットを当てた企画展です。

斎藤は、岸田劉生、木村荘八、そして光太郎らとともに、文部省美術展覧会(文展)など、アカデミックな権威に対する反抗を旗印とした新進気鋭の美術家達の集まり、「フユウザン会」を結成した一人です。

しかし、なかなかまとめて作品を見られる機会は多くなく、貴重な機会です。

常設展示では、光太郎の油絵「自画像」も並んでいるはず。併せてご覧下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月6日

平成17年(2005)の今日、キングレコードから朗読CD「心の本棚~美しい日本語 日本の詩歌 高村光太郎」がリリースされました。

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中井貴一さんによる25篇の詩の朗読が収められています。

『新宿ベル・エポック』書評。

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4月に小学館さんから刊行された石川拓治氏著『新宿ベル・エポック』。

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相馬愛藏・黒光夫妻、碌山荻原守衛を軸に、昨日もご紹介した新宿中村屋サロン美術館さんの元となった、「中村屋サロン」を巡る人々の光芒を追った労作です。

先週の『朝日新聞』さんの読書面に、書評が載りましたのでご紹介します。 

新宿ベル・エポック―芸術と食を生んだ中村屋サロン [著]石川拓治

■異文化接合点で濃密な人間模様
 母の勤務地が新宿だったので、子どもの時分、たまに中村屋のカレーを食べに連れて行ってもらった。うちは貧しかったから、それはたいへんなご馳走(ちそう)だった。本書はその中村屋の物語。創業者夫婦の相馬愛蔵・黒光(こっこう)と、夫妻を慕って集まった芸術家たち、なかでも彫刻家の荻原碌山(ろくざん)が織りなす人間模様を記す。
 愛蔵と碌山は同郷で、信州安曇野の人。地域一の名家・相馬家に仙台藩の上士の家から嫁がくる。農家の五男坊だった碌山少年は、彼女を憧れのまなざしで見つめていた。話はそこから始まる。
 三人は互いを大切に思い、認め合った。それは三角関係という言葉でひとくくりにできるものではない。彼らの濃密な連関の向こうには、百年ほど前の、外国に向きあう日本社会の姿が見えてくる。
 中村屋サロンは異文化の接合点であった。インドの志士ボースのカレーも、ロダンに学んだ碌山の彫刻もその好例である。相馬夫妻は新しい文化の揺り籠を用意したのだ。
    ◇
 小学館・1944円

[評者]本郷和人(東京大学教授・日本中世史) 


相馬夫妻、守衛、そして光太郎、それから昨日もご紹介した斎藤与里、中村彝、戸張孤雁、柳敬助、ラス・ビハリ・ボース、エロシェンコなどの織りなす人間模様の格好の手引きです。お買い求め下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月7日

昭和26年(1951)の今日、勝手に講演会の講師として報道に名前を挙げられて憤慨しました。

この日の日記の余白メモです。

承諾無きうちに講演などと発表すること岩手の習慣らし、かかる時余は出席せず。

前日の日記には、

七日に太田校にて演講と新聞に出た由、無茶也

とあります。「講演」とすべきところが「演講」となっているのは、怒りに我を忘れていたためでしょうか。

翌年には同じようなケースでブッキングまで起こっています。

「うらめしや~ 冥途のみやげ展―全生庵・三遊亭圓朝 幽霊画コレクションを中心に―」。

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各地の美術館等での展覧会情報を調べているうちに、気になる企画展を見つけました。

光雲・光太郎親子が愛した明治の噺家・三遊亭圓朝に関わるものです。 

うらめしや~ 冥途のみやげ展―全生庵・三遊亭圓朝 幽霊画コレクションを中心に―

会 期 : 2015年7月22日(水)~9月13日(日) ※会期中展示替えあり
  前期 :2015年7月22日(水)~8月16日(日)
  後期 :2015年8月18日(火)~9月13日(日)
会 場 : 東京藝術大学大学美術館 地下2階展示室
時 間 : 10:00~17:00(8月11日、21日は19:00まで開館、入館は閉館の30分前まで)
休館日  月曜
料 金 : 一般1,100円 高校・大学生700円 中学生以下および障害者手帳をお持ちの方と介助者1名は無料
主 催 : 東京藝術大学、東京新聞、TBS
後 援 : 台東区
協 力 : 全生庵、下谷観光連盟、圓朝まつり実行委員会、TBSラジオ
問い合わせ:ハローダイヤル 03-5777-8600

公式サイトより
東京・谷中の全生庵には怪談を得意とした明治の噺家三遊亭圓朝(天保10<1839>-明治33<1900>年)ゆかりの幽霊画50幅が所蔵されています。本展は、この圓朝コレクションを中心として、日本美術史における「うらみ」の表現をたどります。

幽霊には、妖怪と違って、もともと人間でありながら成仏できずに現世に現れるという特徴があります。この展覧会では幽霊画に見られる「怨念」や「心残り」といった人間の底知れぬ感情に注目し、さらに錦絵や近代日本画、能面などに「うらみ」の表現を探っていきます。

円山応挙、長沢蘆雪、曾我蕭白、浮世絵の歌川国芳、葛飾北斎、近代の河鍋暁斎、月岡芳年、上村松園など、美術史に名をはせた画家たちによる「うらみ」の競演、まさにそれは「冥途の土産」となるでしょう。

なお、本展は、当初平成23(2011)年夏に開催を予定しておりましたが、同年3月に発生した東日本大震災の諸影響を鑑み、開催直前にして延期を決定したものです。今回、4年の歳月を経て、思いを新たにしての開催となります。

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三遊亭圓朝(天保10年=1839 ~ 明治33年=1900)は、明治落語界を代表する名人。あまりの話芸の巧みさに、師匠からも疎まれ、彼が演じようとしていた演目を先回りして演じられるなどの嫌がらせも受けたといいます。その結果、自作の演目を次々演じるようになり、そうした中で、新作の人情噺や怪談噺も数多く生み出されました。怪談の代表作が「怪談牡丹灯籠」や「真景累ケ淵」です。

光太郎の父・光雲は圓朝のファンでした。光太郎が書き残したエッセイ「父との関係」(昭和29年=1954)には以下の部分があります。

 父はよい職人の持つてゐる潔癖性と、律儀さと、物堅さと、仕事への熱情とを持つてゐたが、又一方では職人にあり勝ちな、太つ腹な親分肌もあり、多くの弟子に取りまかれてゐるのが好きであり、おだてに乗つて無理をしたり、いはば派手で陽気で、その思考の深度は世間表面の皮膜より奥には届かなかつた。そして考へるといふやうなことが嫌ひであつた。この世は人生であるよりも娑婆であつた。学問とか芸術とかいふものよりも、芸人の芸や役者の芸の方が身近だつた。梅若の舞台からきこえてくる鼓の音にききほれ、団菊左に傾倒し、圓朝に感服し、後年には中村吉右衛門をひいきにし、加藤清正のひげのモデルになつて喜んだり、奈良の彫刻では興福寺の定慶作といふ仁王をひどく買つてゐて、推古仏は理解しなかつた。

光太郎自身も圓朝の芸を誉めています。美術史家・奥平英雄との対談「芸術と生活」(昭和28年=1953)から。

九代目団十郎とか講談の圓朝とか、みんな若い時はしようのない、脂つこくて見ていられないほどいやらしいやつだつたらしい。圓朝なんかうしろへそのころないような舞台装置をして講談なんかやつたらしい。それでいやなやつだつて言われていたのが、忽然悟つて、ああいう枯れたものになつて、扇一本で人情ばなしをやるつていうふうになつてね。せんのあくのあつたのがみんな役に立つて、それが一変すると無かつた奴にはできない厚味や深さが出てきてね。


さて、その圓朝が残した幽霊画のコレクションを軸にした企画展です。「第一章 圓朝と怪談」「第二章 圓朝コレクション」「第三章 錦絵による「うらみ」の系譜」「第四章 「うらみ」が美に変わるとき」の四部構成になっています。出品作の中には、光雲と交流のあった日本画家・柴田是真の作や、光太郎もその造型性に深く興味を引かれていた能面なども含まれています。

夏のひととき、「納涼」の意味も含めて、ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月8日

昭和15年(1940)の今日、作家・稲垣足穂に葉書を書きました。

拝啓
昨日御著〝山風蠱〞拝受、繙読をたのしみに存じます、
小生例年の通り夏まけでさんたんたる有様ですが山下風ある卦を得て大に涼爽の気にひたりたいものです、「王侯に事へず其事を高尚にす」とは面白い象です、 とりあゑず御礼まで 艸々
七月八日

稲垣足穂は幻想文学的な方面で有名になった作家。『山風蠱(さんぷうこ)』は前月、昭森社から刊行されました。

題名の「山風蠱」は、易占における卦の一つ。山のふもとに風が吹き荒れ、草木が損なわれている状態を表し、葉書にある「山下風ある卦」がこれにあたります。「王侯に事(つか)へず其事を高尚にす」は、『易経』に記された文言で、「王侯に仕官せず、世を避けるように隠居しながらも、 志を高く清く保って節操を曲げない」といった意味です。

当方、この葉書の実物を所蔵しています。75年前の今日、この葉書が書かれ、投函されたと思いつつ手に取ると、感慨深いものがあります。

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文京区立森鷗外記念館コレクション展「鷗外を継ぐ―木下杢太郎」

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今日、7月9日は、光太郎と縁の深かった森鷗外の忌日、「鷗外忌」です。昨年の今日、このブログの【今日は何の日・光太郎 補遺】にてご紹介させていただきました。

その鷗外を顕彰する文京区立森鷗外記念館さんでの展示情報です。  
 期 : 2015年7月17日(金)~9月27日(日)
休館日  : 7月28日(火)、8月25日(火)
 間 : 10時~18時(最終入館は17時30分)
 ※7月~9月の毎週金曜日は20時まで開館(最終入館は19時30分)
観覧料 : 一般300円 中学生以下無料、障がい者手帳ご提示の方と同伴者1名まで無料

公式サイトより

木下杢太郎(1885~1945、本名 太田正雄)は、医学博士として大学で教鞭をとるかたわら、文学、評論、美術など幅広い分野で活躍した文京区ゆかりの文化人です。加えて本年は、生誕130 年・没後70年という記念の年にもあたります。

杢太郎は、明治18年に現・静岡県伊東市に生まれ、13歳で上京、明治39年東京帝国大学医科大学に入学しました。在学中に与謝野寛の新詩社に入社し、詩や小説を次々に発表します。鷗外との最初の出会いは明治40年、英文学者・上田敏の留学壮行会の時でした。鷗外はその後、当時自宅で開催していた観潮楼歌会に杢太郎を招き、二人の交流がはじまりました。文学の道に進みたいと思いながら、家族のすすめにより医学を修めた杢太郎は、大学卒業にあたって、進路に悩みます。その時、助言を求めたのが鷗外でした。杢太郎はその後、満州赴任と、医学研究のための欧州留学で日本を離れ、フランス・リヨンで鷗外の訃報に触れることになりました。

二人が活動の場を同じくした機会は、多いとはいえません。しかし、鷗外をmaȋtre(巨匠)と呼んで慕っていた杢太郎は、没後の鴎外研究の中で、「鴎外は過去でなくて未来への出発点である」という結論にいたります。パート1では、二人の出会いや交流の他、杢太郎が鷗外について記した文章を通して、杢太郎がたどりついた鷗外像に迫ります。パート2では、杢太郎が創作を発表した明治40年代から、晩年までの多彩な活躍をご紹介します。

◆展示関連事業◆
○ギャラリートーク
展示室にて当館学芸員が展示解説を行います。
日時:7月29日、8月12日、26日、9月9日(いずれも水曜日)14時~
申込不要(展示観覧券が必要です)
所要時間は30分程度を予定しています。

講演会「鴎外を継ぐ者―木下杢太郎のパリ」
日 時 8月22日(土)14時~15時半
講 師 今橋映子(東京大学大学院教授)
料 金 無料
申込締切 2015年8月7日(金)必着

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杢太郎は、芸術運動「パンの会」、雑誌「スバル」などを通し、光太郎とも縁の深かった詩人です。「パンの会」の関連で、先頃、奥田万里氏著『大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメメイゾン鴻乃巣』を読みましたが、杢太郎が頻出し、最近また気になっています。

「最近また」、というのは、以前にも杢太郎がらみの調査をしたことがあったためです。

神奈川近代文学館さんには、特別資料として、光太郎の自筆書簡も30通あまり所蔵されていますが、そのうち6通は杢太郎宛。さらに4通は『高村光太郎全集』未収録のものでしたので、雑誌『高村光太郎研究』に当方が持っている連載「光太郎遺珠」にて紹介させていただきました。また、同館には智恵子と田村俊子による「『あねさま』と『うちわ絵』の展覧会」(明治45年=1912)の案内状も所蔵されていますが、こちらも杢太郎あてのものです。これを見つけた時の興奮は今でも忘れられません。

杢太郎の故郷・静岡県伊東市には伊東市立杢太郎記念館さんがあり、一度足を運ぼうと思いながらなかなかはたせずにいます。暇を見つけて行ってみようと思っています。

関連行事としての講演会、講師の今橋映子氏は、昨秋開催された明星研究会さん主催のシンポジウム「巴里との邂逅、そののち~晶子・寛・荷風・光太郎」のパネリストもなさっていました。当方、同日に第59回高村光太郎研究会があったため、参加できませんでしたが、今度はお話を伺ってこようと思っています。

皆様もぜひどうぞ。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月9日

明治39年(1906)の今日、留学先のニューヨークから、転居の通知を送りました。

この年10月の雑誌『日本美術』第91号に掲載されました。おそらく宛先は版元・日本美術社の川崎安。

小生移転致し候。番地は
150 West 65th Street New York City

さらに、

小生唯今は下宿の最上級、すなはち四面壁にして天井に引き窓のある部屋に籠城

の記述もあります。

光太郎がニューヨークの土を踏んだのは、この年2月27日。はじめは素人下宿c/o Miss Casty,2008 5th Av.に入りましたが、彫刻家、ガットソン・ボーグラムの助手の職を得、週給6ドルを手に出来るようになって、引っ越しました。

晩年の回想「父との関係」(昭和29年=1954)には以下の記述があります。

西六十五丁目の家の屋根裏の窓の無い安い部屋に移転して自炊しながら毎日ボーグラム氏のスチユヂオに通ひ、猛烈に勉強した。

朝はトーストに紅茶、昼は十仙(テンセンツ)食堂で何か一皿、夜は近所のデリカテツセン店で豆やハムを少し買つて食べ、たまには近くの支那飯屋で安いチヤプスイやフーヨンタンを食べた。

また、やはり晩年に高見順と行った対談「わが生涯」(昭和30年=1950)では、このような発言もありました。

高村 それからこんどは屋根裏の窓のない部屋を借りてね。とても安いんですよ。その代りに、まわりに窓がないから、牢屋と同じなんだ。天井に穴があいてて、綱をひつぱると開くんですよ。
高見 天窓ですね。
高村 そこからあかりが来る。それでも水道とガスが附いてて、そこにいてボーグラム先生の所へかよつて、夜は学校へ行つたんです。一日一ドルで、どうやらこうやら、やつていられたですね。
高見 それがおいくつくらいの時でしたか。
高村 二十四か五ですね。
高見 偉いもんですね。

神奈川近代文学館「朗読の会」発表会「ありのままに」。

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昨日もちらっと触れた、横浜市の神奈川近代文学館さんでのイベントです。ただし、館の主催ではなく、会場を貸してのもののようです。  

「朗読の会」発表会「ありのままに」

開催日 : 2015年7月17日(金)
 間 : 13:30
 場 : 神奈川近代文学館 横浜市中区山手町110
出演者 :  「朗読の会」A・Bグループ18名
 金 : 無料
 目 : 高村光太郎「智恵子抄」、工藤直子「ねこはしる」
 『智恵子抄』 朗読 Aグループ
  高村光太郎「智恵子抄」より 佐藤春夫「小説智恵子抄」より 草野心平「悲しみは光と化す」より
  宮崎春子  「紙絵のおもいで」より
 『ねこはしる』 朗読 Bグループ
問い合わせ :  「朗読の会」八尾 045-774-6519


調べてみたところ、「朗読の会」さんは、「かたりよみ研究所 創造の会」さんという団体の中のグループで、横浜で定期的に練習や発表などの活動をなさっているようです。講師は児玉朗氏、西本朝子氏ご夫妻で、木下順二作の舞台「夕鶴」で有名な山本安英の弟子筋に当たる方々だそうです。

演目のうち、佐藤春夫の「小説智恵子抄」は、光太郎が歿した昭和31年(1956)から翌年にかけ、光太郎と親交の深かった佐藤春夫が雑誌『新女苑』に連載したジュブナイルです。連載当時のタイトルは「愛の頌歌(ほめうた) 小説智恵子抄」。昭和32年(1957)に実業之日本社で単行本化、のち、角川文庫のラインナップに入りました。文庫版の解説は草野心平です。

その草野心平の「悲しみは光と化す」は、新潮文庫版『智恵子抄』(昭和31年=1956)の解説として書かれたものです。光太郎が昭和28年(1953)に書いた秩父宮雍仁親王追悼文の題名をそのまま転用しています。

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宮崎春子は旧姓長沼春子。智恵子の姪で、看護師の資格を持ち、南品川のゼームス坂病院でその最期を看取りました。ほとんど唯一、紙絵の制作過程を実見し、それを語ったのが「紙絵のおもいで」です。

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紙絵を見る春子(昭和30年=1955)


さて、多くの皆さんが光太郎作品、特に「智恵子抄」系の朗読に取り組んで下さっています。ありがとうございます。そうした動きが下火になることなく、さらにもっともっと広がってほしいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月10日

明治43年(1910)の今日、雑誌『方寸』第4巻第5号に、「死んだ荻原守衛君」が掲載されました。

光太郎の盟友、碌山荻原守衛の死はこの年4月20日でした。

僕は今、死んだ荻原守衛君の芸術のことを考へてゐる。しかし、どうしても一つの纏まつた、形を成した、過ぎ去つた作家として荻原君の事が頭に出て来ない。善い夢を見てゐる途中で眼がさめた、その先きが思はれてならないといふ感じである。

と始まり、終わり近くには、

それがふつと消えたのである。為方がないといふ言葉は実に惨酷な言葉である。

とあります。

この文章は同じ年9月の雑誌『日本美術』第139号、翌年に刊行された守衛の著作集『彫刻真髄』にも転載されました。

「玉音放送」原盤を初公開へ。

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標記の件、今週、各紙一斉に報道されました。代表して時事通信さんのものを引用させていただきます。  

「玉音放送」原盤を初公開へ=来月1日、「聖断」の防空壕も―宮内庁

 宮内庁は9日、戦後70年に当たり、終戦の日の昭和天皇の「玉音放送」を録音したレコードの原盤(玉音盤)と音声を8月1日に初めて公開すると発表した。昭和天皇が終戦の「聖断」を下した「御前会議」が開かれた皇居の防空壕(ごう)についても、内部の写真と映像などを公開する。音声などはホームページに掲載する予定。
 玉音盤は、玉音放送前日の1945年8月14日夜、当時の宮内省庁舎内の一室で録音された。昭和天皇がマイクに向かって「終戦の詔書」を2回読み上げ、計2組の玉音盤が完成。このうち2回目に録音した方のレコードが翌15日正午にラジオで放送された。
 今回公開されるのは実際に放送された方のレコードで、時間は約4分30秒。宮内庁は原盤から音声を新たにデジタル録音したという。
 宮内庁関係者によると、天皇、皇后両陛下と皇太子さま、秋篠宮さまは6月下旬、皇居・御所で音声を聞かれたという。玉音盤は現在、皇室の私有物である「御物」として庁内で管理されている。
 宮内庁は、昭和天皇が終戦後の46年5月23日に録音し、翌日にラジオ放送された食糧問題の重要性に関するお言葉についても、原盤と音声を初めて公表する。玉音盤と一緒に保管されていたのが今回発見されたという。
 風岡典之長官は「歴史的な意義からも国民の関心からも戦後70年の機会に公表するにふさわしいと考え、両陛下のお許しを得て公表することにした。この機会に多くの方々にご覧いただきたい」と話している。


光太郎ファンなら、この記事を読んで、次の詩を思い浮かべるはずです。

  一億の号泣イメージ 4

綸言一たび出でて一億号泣す
昭和二十年八月十五日正午
われ岩手花巻町の鎮守
島谷崎(とやがさき)神社社務所の畳に両手をつきて
天上はるかに流れ来(きた)る
玉音(ぎよくいん)の低きとどろきに五体をうたる
五体わななきてとどめあへず
玉音ひびき終りて又音なし
この時無声の号泣国土に起り
普天の一億ひとしく
宸極に向つてひれ伏せるを知る
微臣恐惶ほとんど失語す
ただ眼(まなこ)を凝らしてこの事実に直接し
荀も寸豪も曖昧模糊をゆるさざらん
鋼鉄の武器を失へる時
精神の武器おのずから強からんとす
真と美と到らざるなき我等が未来の文化こそ
必ずこの号泣を母胎としてその形相を孕まん


放送のあった昭和20年(1945)8月15日、光太郎は岩手花巻に疎開していました。はじめに厄介になっていた宮澤賢治の実家は、5日前の8月10日の花巻空襲で全焼。光太郎は被災を免れた元旧制花巻中学校長・佐藤昌宅に身を寄せていました。

このあたり、加藤昭雄著『花巻が燃えた日』(熊谷印刷出版部 平成11年=1999)、同『絵本 花巻がもえた日』(ツーワンライフ 平成24年=2012)に詳しく記述があります。

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そして15日の玉音放送は、花巻町の中心部にある鳥谷崎神社で聴きました。

こちらが鳥谷崎神社。戦前(おそらく)の絵葉書です。

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翌16日には上記「一億の号泣」を執筆、さらに翌日の17日にはこの詩は『朝日新聞』と『岩手日報』に掲載されました。

ここには「聖戦完遂」のスローガンを信じて疑わなかった光太郎の、その目標を失った虚脱感がよく表されています。しかし、虚脱だけでなく、「鋼鉄の武器を失へる時/ 精神の武器おのずから強からんとす」というある種の変わり身の早さもうかがえ、この時点ではまだまだ平和の到来を喜ぶ心情は読み取れません。ましてや自身が書き殴った大量の空虚な大政翼賛の詩を読んで、膨大な数の前途有為な若者が散華していったことになど、思い及んでいません。

二度にわたり、空襲で焼け出された光太郎にしてみれば、無理もないのかも知れません。一度目(昭和20年=1945の4月13日)には、智恵子と共に過ごした思い出深い東京本郷Ⅸ駒込林町(現・文京区千駄木)のアトリエを失い、二度目はつい5日前でした。

しかし、この年の秋に、花巻町郊外の太田村の山小屋で独居自炊の生活を始め、いやが上にも自らの来し方を
省察せざるをえない日々の中で、光太郎の内部世界に変化が生じました。

同じ玉音放送を題材にしたこちらの詩は、昭和22年(1947)の作。

終戦
 
すつかりきれいにアトリエが焼けて、イメージ 5
私は奥州花巻に来た。
そこであのラヂオをきいた。
私は端坐してふるへてゐた。
日本はつひに赤裸となり、
人心は落ちて底をついた。
占領軍に飢餓を救はれ、
わずかに亡滅を免れてゐる。
その時天皇はみづから進んで、
われ現人神(あらひとがみ)にあらずと説かれた。
日を重ねるに従つて、
私の目からは梁(うつばり)が取れ、
いつのまにか六十年の重荷は消えた。
再びおぢいさんも父も母も
遠い涅槃の座にかへり、
私は大きく息をついた。
不思議なほどの脱卻のあとに
ただ人たるの愛がある。
雨過天青の青磁いろが
廓然とした心ににほひ、
いま悠々たる無一物に
私は荒涼の美を満喫する。


これは連作詩「暗愚小伝」中の一篇として書かれたものです。

光太郎は他の多くの文学者のように、無邪気に民主主義を謳歌するというわけではありませんでした。同じ「暗愚小伝」の終曲、「山林」という詩では、以下のように謳っています。
 
おのれの暗愚をいやほど見たので、
自分の業績のどんな評価をも快く容れ、
自分に鞭する千の避難も素直にきく。
それが社会の約束ならば
よし極刑とても甘受しよう。
 
他の多くの文学者たちは、というと、戦時中に書いた戦意昂揚の作品を「あれは軍の命令で仕方なく書いたものだ」と言い訳したり、その手の作品を書いたことをひた隠しにして「非戦の詩人」の称号を得たりしていました。それどころか、自らも戦争協力詩を書いていたにもかかわらず、やはりそれを隠して、公然と光太郎を非難した詩人もいます。

それに対し、光太郎は自らの過ちを潔く認め、さらに自らを罰することを実践する(花巻郊外太田村での過酷な独居生活、彫刻の封印は7年に及びました)、そういう点こそ、光太郎の素晴らしさだと考えられます。

いったいに光太郎の生涯は、順風満帆なものでは決してなく、いわばつまづきの連続でした。青年期にはロダンに学んだ新しい彫刻理念が受け入れられず、父・光雲を頂点とする旧態依然の日本彫刻界との対立を余儀なくされ、それも盟友・碌山荻原守衛の早逝により、孤軍奮闘。光雲の勧める銅像会社設立や美術学校教師の話も断り、智恵子と二人、社会との交わりを極力絶って「都会のまんなかに蟄居」(詩「美に生きる」昭和22年=1947)する清貧の生活。

そんな生活の中で、智恵子は心を病み、光太郎を残して先立ちます。その反省から、一転して社会と積極的に関わり始めたところが、社会の方が泥沼の戦時に突入。その旗振り役を務めざるを得ませんでした。

そして敗戦。公的に戦犯とされなくとも、先述の通り、過酷な環境に身を置いて、自らを罰する光太郎。

最晩年に、自らに課した彫刻封印の重罰を解き、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」をこの世に残すことが出来たのは、最後に訪れた幸福だったといえるかと思います。それすら残せず、寒村の山小屋で朽ち果てていたとしたら、虚しいだけの一生だったように思えます。

「玉音放送」の報道を知り、こんなことを考えました。乱筆御免。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月11日

昭和19年(1944)の今日、『日本読書新聞』にアンケート回答「読書会に薦める-中込友美著『勤労青年の教育』」が掲載されました。

 さき頃読んだものゝ中で、友人中込友美君の著書「勤労青年の教育」(的生活国民教育会出版部発行 売価一圓四六銭)は適当な書物と考へます。すべて実際的に書いてあります。

『高村光太郎全集』第20巻に掲載されています。どうもどこかで誤植が生じたようで、書名やカギカッコ、カッコの位置がむちゃくちゃです。

誤 「勤労青年の教育」(的生活国民教育会出版部発行
正 「勤労青年の教養的生活」(国民教育会出版部発行

です。

こういうところにも、戦時の混乱が見て取れます。


福島川内村レポート(その1)。

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昨日は、当会の祖・草野心平がこよなく愛した「天山祭」ということで、福島浜通りの川内村に行って参りました。昨秋行われた心平の忌日の集い・「かえる忌」以来、約半年ぶりに訪れました。

圏央道、常磐道と順調に抜け、常磐富岡ICで高速を下りました。やはり昨秋、同じ浜通りの相馬方面に行った際もそうでしたが、富岡以北の国道6号は二輪車通行止めの措置が取られており、状況はあまり変わっていないようです。富岡IC付近も「除染作業中」ののぼりが目立ちました。

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ただし、常磐道は今年の3月に全線開通し、仙台と直結しました。来月の女川光太郎祭には、愛車で参上しようと思っております。

富岡町から山道を抜け、会場の天山文庫へ。昨年もそうでしたが、天気が良くて助かりました。第50回の記念の天山祭ですので、やはり雨天の会場変更では残念です。

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受付が混雑しており、着いてみるとちょうど遠藤村長の挨拶でした。

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心なしか、昨年より人出が多いように感じました。よいことです。

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元復興担当大臣・小渕優子氏の姿も。

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戦前に心平が主宰となって創刊し、たびたび光太郎も寄稿していた雑誌『歴程』同人の皆さんによる心平作品の群読。

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川内小学校6年生による心平作品の朗読。

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郷土芸能も披露されました。

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「被災」を忘れてのなごやかなひとときだったと思います。


天山文庫のある小高い丘の麓には、阿武隈民芸館さんがあります。

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天山祭の50回を記念して、企画展「心平が愛したかわうち」が開催中です。室内撮影禁止ですので画像はご紹介できませんが、村民の皆さんなどが持ち寄った心平の書、書簡などが展示されています。郵便局の看板や、敬老会で配布された心平揮毫の文字を染めた手ぬぐいなど、ほほえましく拝見しました。温かみのある心平独特の文字ならではの魅力に溢れています。

展示の最後には、心平の著書の数々が並んでいますが、その中には「富士山」(昭和18年=1943)、「天」(同26年=1951)など、光太郎が題字を揮毫したものも含まれています。こうした場合にいつも感じるのですが、いろいろ並んでいる中にふっと光太郎の筆跡を見つけると、旧友に遭ったような感覚になります(笑)。

企画展「心平が愛したかわうち」は8月23日(日)まで。また、稿を改めてご紹介しますが、期間中の土日、さらに旧盆前後には、天山文庫のライトアップ「光のフォレストナイト」も開催されます。ぜひ足をお運びください。

明日も川内村レポートを続けます。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月12日

昭和7年(1937)の今日、智恵子が遺書とも取れる書簡を、母・センに宛てて書きました。

ながいあいだの病気が暑さにむかつて急にいけなくなつて来ましたので 毎晩睡眠薬をのんでゐます。あまりこれをつゞけますからきつといけなくなるとおもひます。もしもの事がありましたら、この部屋をかたつけみなさんでよいやうにきもの其他をしまつして下さい 大そう長い間のことですからいろいろたまつてしまひました、押入れや地袋、ぬりたんす、柳こり、ねだいのうへのものなどみなしまつをつけて下さい
  皆さんおからだを丈夫にして出来るだけ働き仲よくやつていつて たのしくこゝろをもつてお暮らし下さい 末ながくこの世の希望をすてずに 難儀ななかにも勇気をもつてお暮らしなさい。
  それではこれで
   母上様
   皆さん
   せきさん 修さん 皆さんへよろしく
    七月十二日


15日朝には、智恵子は目覚めませんでした。部屋には睡眠薬アダリンの空の瓶が残され、壁に真新しいキャンバスが立てかけてありました。現存は確認されていませんが、光太郎への愛と感謝、義父・光雲への謝罪の言葉が書かれた遺書もあったそうです。

一命は取り留めたものの、これを機に、智恵子は夢幻界の人となってしまいます。

福島川内村レポート(その2)。

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昨日に引き続き、先週土曜日に行って参りました福島県川内村関連です。

まず、地方紙『福島民友』さんに、天山祭の記事が出ましたのでご紹介します。  

「心平さん、川内は元気ですよ」 50回目の“天山祭り”

 いわき市出身の詩人草野心平が晩年、毎年のように訪れて滞在し、蔵書も保存されている川内村の「天山文庫」で11日、恒例の天山祭りが開かれた。50回の節目に当たり、村内外から集まった参加者が在りし日の心平をしのんだ。
 「蛙(かえる)の詩人」として知られる心平は、村内の平伏(へぶす)沼で繁殖するモリアオガエルを通じ村との交流が始まった。同文庫は、名誉村民となった心平のため村民が協力して1966(昭和41)年に建設し、3000冊を超える蔵書も保存している。
 祭りには村民のほか、心平らが創刊した詩の同人誌「歴程」のメンバーや県内外のファンらが出席。歴程メンバーによる心平の代表的な詩の朗読が行われたほか、村の伝統芸能「三匹獅子」や川内甚句などが披露された。祭りの冒頭にあいさつした遠藤雄幸村長は「出会いを後世につなぐことが、われわれの務め。復興に向かう姿を発信しながら、出会いを大切にしていきたい」と語った。

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その天山祭、そして会場になった天山文庫のすぐ近くにある阿武隈民芸館さんでの企画展「心平が愛したかわうち」を拝観したあと、夕方から打ち上げ的なことがあるので、それまで時間をつぶす必要がありました。

そこで向かったのが、村役場近くにある温泉入浴施設「かわうちの湯」さん。昨年オープンしたばかりのきれいな施設です。

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玄関前のロータリー的なところに、何やら石碑が。

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二代目コロムビア・ローズさんの歌った「智恵子抄」を作詞した故・丘灯至夫氏の歌碑でした。丘氏は川内村にほど近い小野町の出身で、川内村民歌や川内小学校の校歌なども作詞されているとのこと。

さて、館内に入り、ゆっくり温泉を堪能。露天風呂やサウナもあり、いい感じでした。入浴後は大広間の畳で座布団を枕にがっつり昼寝。疲れを癒させていただきました。

その後、打ち上げ会場の小松屋旅館さんへ。秋に行われる心平忌日「かえる忌」の集いでもお邪魔しているところです。築100年ほどの古民家が移築された離れには「蕎麦酒房天山」の看板が掲げられ、こちらが会場です。

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看板犬の黒柴くん。

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レトロな神棚。心平の肖像画も。

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以前にもご紹介しましたが、心平が揮毫した光太郎詩「晩餐」の一節の書。この文字を元に神戸文化ホールさんに光太郎詩碑が建っています。

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打ち上げにはいつものメンバーに加え、一橋大学さんで「自然資源経済論」というプロジェクトを立ち上げられた名誉教授の寺西俊一氏など、20名ほどが参加、盛り上がりました。

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東日本大震災から5年目に入り、まだまだ復興途上の川内村ですが、少しずつ元気を取り戻しつつあります。訪れるだけでも復興支援。ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月13日

昭和25年(1950)の今日、花巻郊外太田村から墓標の揮毫を発送しました。

郵便物の授受等を記録した「通信事項」というノートが残されており、その中に以下の記述があります。

佐野悌一氏へ墓の文字封入テカミ(「佐野修三墓」二枚)

この年の日記は失われており、名前の出てくる二人の素性、どういった事情なのか、墓の所在地など、一切不明です。

ネットで調べてみると、厚生労働省のホームページの中に、旧ソ連抑留中に亡くなった方々の名簿が載っており、昭和21年(1946)、イルクーツク地方で亡くなった岩手県出身の「佐野修三」という名が記されていますが、この人物なのかどうか何とも言えません。

「佐野悌一」という人物はネット上ではヒットしません。

今もどこかにひっそりと、光太郎が文字を書いた佐野修三氏の墓標が残っているのでしょうか。情報をお持ちの方は、こちらまでご教示いただければ幸いです。

福島川内村 天山祭り・天山文庫50周年記念~光のフォレストナイト~。

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一昨日、昨日に続き、もう一日、福島川内村ネタで行きます。

先週土曜日に行われた「第50回天山祭」の会場となった、天山文庫でのイベント情報です。 
川内村の人々と豊かな自然に心を打たれ、毎年のように村を訪れた詩人、草野心平。
川内村は、そんな草野心平を昭和35年に名誉村民に任命。
褒賞として毎年木炭100俵を贈りました。
そのお礼に、今後は草野心平から川内村に、蔵書3,000冊を寄贈。
これを機に村では、文庫設立の話が持ち上がります。
 一本の木、一束の芽、一人ひとりの労力。
 天山文庫は、村びと達の奉仕によって昭和41年7月16日に建てられました。
ちょうど50年前のことです。
50周年の記念として、天山文庫のライトアップを行います。
ライトアップは土日とお盆の期間ですが、約1ヶ月の間行います。

【ライトアップ】
時 間:日没後~午後9時
期 間:7月-10・11・12・18・19・20・25・26    8月-1・2・8・9・10・11・12・13・14・15・16
場 所:かわうち草野心平記念館 天山文庫
その他:日程によりステージパフォーマンスが行われる予定です。詳しくはお問い合わせください。
 ☆開場内の看板を目印にARカメラ画面をかざしてみよう!3Dモリタロウと一緒に記念撮影ができるよ!
 ☆そばビールやガレットの販売も行います。

問合せ先  川内村役場 産業振興課 商工観光係TEL 0240-368-2112

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点灯式は先週金曜日でした。地方紙『福島民報』さんで報道されています。 

50周年の天山文庫ライトアップ 草野心平ゆかり 川内で11日に祭り

 川内村名誉村民の詩人草野心平ゆかりの村内の天山文庫で10日、ライトアップが始まった。天山文庫と天山祭りの50周年を記念し、「光のフォレストナイト」として企画した。
 点灯式では、遠藤雄幸村長が「心平先生と川内村を愛する人に集まっていただき感謝する。ライトアップを楽しんでほしい」とあいさつ。石井芳信天山祭り実行委員長が「祭りの前夜祭として点灯式が行われ、心平先生も喜んでいると思う」と語った。小渕優子衆院議員、横田安男村議会副議長が祝辞を述べた。
 遠藤村長らがスイッチを押すと、130基の発光ダイオード(LED)が天山文庫などを照らした。口笛奏者の柴田晶子さんのライブや現代詩の同人誌「歴程」の会員による心平の詩の朗読も行われた。
 天山祭りは11日午前11時半から天山文庫で催される。隣接する阿武隈民芸館では企画展「心平が愛したかわうち」が8月23日まで開かれる。
 ライトアップは8月16日までの週末を中心に、日没後から午後9時まで行われる。

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昨年のこのブログでご紹介した、ふくしま再生プロジェクトの会さん主催のイベント「ふくしま、ひとしずくの物語 -再生へ祈りを込めて-」(郡山公演も含めて)にご出演された口笛奏者・柴田晶子さんが演奏を披露なさっています。

その点灯式は終わってしまいましたが、8月16日(日)までの下記期間にライトアップが行われます。ぜひ足をお運びください。

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【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月14日

昭和24年(1949)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、キャビアを贈られた礼状をしたためました。

相手は舞踊家の藤間節子。この前月に東京帝国劇場で「智恵子抄」の舞踊を発表しています。

光太郎からの礼状、長文なので冒頭のみを紹介します。

昨日運送屋さんが町の駅からはるばる御恵送の小荷物を持つて来てくれました。早速開封いたしましたところ、まことに珍らしい貴重な食料がたくさん出てまゐりました驚きました。 今日の時代にこれだけのものを集められるのは大変なことと存ぜられ、ただ恐縮の外ありませんでした。おそらく東京でも珍しいであらうと思はれるカビヤのびん詰まで在中、そぞろに戦前の頃を思ひ出しました。カビヤの珍味は小生好物中の好物にて、戦前智恵子の健康であつた頃稀に入手して一緒に酒の肴として賞味した記憶があり、なつかしい限りでした。
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