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第十三回 二期会日本歌曲研究会演奏会。

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コンサート情報です。 
日 時 : 2015年6月19日(金) 18:30開演(18:00開場)
会 場 : 渋谷区文化総合センター大和田伝承ホール
主 催 : 二期会日本歌曲研究会
後 援 : 公益財団法人東京二期会

料 金 : 全席自由 ¥3,500
   
構成・制作:宮本哲朗
制作補佐:山本富美
 
出演:
(ソプラノ)  安陪恵美子、飯塚千尋、内田もと海、木内弘子、 久保太麻子、黒川京子、小池芳子、福成紀美子、 前澤悦子、前中榮子、山本富美、和澤康代 
(メゾソプラノ) 清水邦子
(バリトン) 馬場眞二
(ピアノ) 東井美佳、朴 令鈴、森 裕子 

演奏曲目:
 山田耕筰  からたちの花
 中田喜直  桐の花/たんぽぽ/悲しくなったときは/「四季の歌」より 春の歌/秋の歌/冬の歌 
 清水 脩  「智恵子抄」より あなたはだんだんきれいになる/あどけない話
 高田三郎  くちなし
 別宮貞雄  「二つのロンデル」 雨と風/さくら横ちょう
 武満 徹   翼/死んだ男の残したものは
 早川史郎  れんげ畑/ウイスキーボンボン/おやすみなさい
 木下牧子  ほんとにきれい/月の角笛/竹とんぼ/「愛する歌」より 誰かがちいさなベルをおす/さびしいカシの木 
 前田佳世子 夜はやさしい/遠いひと
 朝岡真木子 さくらよ/花のなみだ/「おとうさんの子もり歌」より うちのねこ
[委嘱作品]
 組曲「あなたへ」 星乃ミミナ 詩・朝岡真木子 曲 1.あこがれ 2.あなたへ 3.夢 とおく 4.優しさの 力 

ご予約・お問合せ:二期会チケットセンター 受付電話 03-3796-1831 FAX 03-3796-4710
受付時間:平日10:00~18:00/土曜10:00~15:00/日・祝休業
チケット取扱:東京文化会館チケットサービス 03-5685-0650

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4月にあった二期会歌曲研究会さんのコンサートでも、清水脩作曲の「歌曲集「智恵子抄」」から同じ曲の演奏がありました。出演者もかぶっているようで、同じ方の演奏なのかも知れません。

音楽を通して光太郎智恵子の世界を表現、そして広めて下さるのもありがたいことです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月5日

昭和2年(1927)の今日、新潮社から『昭和詩選』が刊行されました。

川路柳虹の外遊を援助する意味で、佐藤惣之助、福田正夫、白鳥省吾、室生犀星、千家元麿、百田宗治、萩原朔太郎の七名が発起、広く詩壇に呼び掛けて作品を募りました。

光太郎もこれに応え、「偉大なるもの」「ミシエル・オオクレエルを読む」を提供しました。

吉川久子フルートコンサート「心に残る美しい日本のうた 東北、その豊穣の大地に遊ぶ」。

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昨年の第58回連翹忌で演奏をしていただき、会に花を添えて下さったフルート奏者の吉川久子さん。連翹忌で演奏をお願いしたのは、一昨年、「心に残る美しい日本のうた 智恵子抄の世界に遊ぶ」というコンサートをなさったのがご縁でした。

さて、直接、光太郎智恵子にからむわけではないようですが、近々、吉川さんが下記のコンサートをなさいます。 

心に残る美しい日本のうた 東北、その豊穣の大地に遊ぶ

開  催  日 : 2015年6月25日(木)
時   間 : 開場13時  開演13時30分
会   場 : 横浜みなとみらいホール・小ホール 横浜市西区みなとみらい2-3-6
料   金 : 全席自由 2,500円
主   催 : 心に残る美しい日本の曲を残す会
出   演 : 吉川久子(フルート)  海老原真二(キーボード)  三浦肇(パーカッション)

東北大震災から丸4年が経過しました。被災地はいまだに復興途上にあり、多くの人々が仮設住宅で暮らしています。原発事故のあった福島では、いまだに故郷に戻る見通しさえ叶わない人々がいます。復興が順調に進み、故郷に人々の笑顔と賑わいが戻る日が一日も早く来ることを、願わずにはいられません。
震災以降、コンサートでは宮沢賢治、智恵子抄、野口雨情と、被災地に馴染み深い人物像を通して、東北の豊かさを童謡や抒情歌に託して紹介してきました。
第10回を数える今年の記念コンサートは、「東北、その豊穣の大地に遊ぶ」と題して、岩手、宮城、福島に残る童謡、民謡、民話などにスポットをあて、東北の大地のぬくもりと、心やさしい人々の魅力を伝えていきます。
本年も横浜在住のフルート奏者・吉川久子が、ご来場の皆さんと岩手、宮城、福島に届けとばかりに、復興への想いを一つにします。
ご来場を心からお待ちしています。

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直接、光太郎智恵子に関わるコンサートではないようですが、東北への想い、ということで、東北に縁の深い光太郎智恵子を偲びつつ聴きたいと思います。


実は先月23日、やはり直接光太郎智恵子にからまない吉川さんのコンサートを聴いて参りました。場所は当方生活圏近くの千葉県印旛郡栄町にある千葉県立房総のむら

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千葉県立房総のむらは、「参加体験型博物館」と位置づけられているユニークな施設です。竜角寺古墳群という大規模な古墳群の中に建ち、自然公園的な面もあります。また、江戸時代の街並みが復元され(モデルは当方の住む香取市の旧市街)、それぞれの建物で、そば打ちや伝統工芸品などの制作といった、さまざまな体験学習ができるようになっています。ここではよくテレビ番組などのロケも行われています。

また、復元だけでなく、実際の文化財の建造物も移築保存されています。愛知の明治村のような感じです。

そのうちの一つが、旧学習院初等科正堂。明治32年(1899)の建築で、国の重要文化財です。元は東京尾張町にあったものが移築されています。ここがコンサート会場でした。

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学習院ということは、光太郎もその同人だった白樺派の主要メンバー、志賀直哉、有島兄弟、武者小路実篤らが学んだ場所です。そう思って観ると、感慨深いものがありました。

室内も実にいい感じです。

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面積を考える時、我々柔道経験者は「試合場が何面取れる」と考えます(笑)。試合場一面は、昔は50畳でした。現在はルールが改正され、40.5畳ないしは32畳です。ここは優に2面、間を開けなければ3面取れます。

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この机兼椅子は、当時の物ではないのでしょうが、雰囲気にはぴったりです。

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ステージです。柱も見事な造作です。

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窓や扉も大きく、重厚感に溢れていました。

建物だけでなく、もちろん吉川さんの演奏も素晴らしいものでした。

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さすがに、最近もセルビア大使館や秋篠宮ご夫妻を前に演奏なさったり、JR鎌倉駅の発着メロディー(電子音でないのは非常に珍しいそうです)も手がけられたりなさってている実力派です。


25日の「東北、その豊穣の大地に遊ぶ」も期待しております。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月6日

昭和23年(1948)の今日、花巻郊外太田村の山口分教場校庭で、花巻賢治子供の会の演劇公演を観ました。

賢治の教え子だった照井謹二郎の作った児童劇団で、前年に続き2度目の太田村公演。光太郎の慰問が大きな目的でした。

この日の演目は「カイロ団長」「小兎(英語劇)」「どんぐりと山猫」でした。

上野に行って参りました。

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昨日は急遽、東京上野に行って参りました。東京都美術館さんで開催中の、「第103回 日本水彩展」観覧のためです。

光雲の令孫、光太郎の令甥にあたる藤岡光彦氏からご案内をいただきました。氏は光太郎の実弟にして藤岡家に養子に行った故・藤岡孟彦氏の子息。ほぼ毎年、連翹忌にご参加下さっています。

氏は趣味として水彩画に取り組まれていて、このたび、「第103回日本水彩展」入選を果たされ、東京都美術館さんにて展示ということで、招待券を戴いてしまいました。調べてみると、同展は日本水彩画会の主催。この会は大正2年(1913)、光太郎と親交のあった石井柏亭や南薫造らの創設した団体でした。「これは行かなきゃなるまい」と思い、行ってきた次第です。今月9日までの会期です。

東京はまだ梅雨入り前、さわやかな天気でした。それに誘われてか、上野の山は多くの人出でした。

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会場は地下でした。案内の矢印を頼りに進むと「日本水彩展」のポスターが。「おお、あそこか」と思って近づくと、隣のポスターは「大調和展」。驚きました。同展は光太郎と親交の深かった武者小路実篤の肝いりで始まったもので、昭和2年(1927)の第一回展、翌年の第二回展に光太郎が彫刻を出品しています。実は現代まで続いているというのを存じませんでした。汗顔の至りです。

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さて、「日本水彩展」。入り口近くに出品者名簿(一人一人の展示場所が書かれています)が貼ってあり、有り難い配慮でした。申し訳ありませんが、この手の公募展は出品点数が多く、全部をじっくり見る余裕がありません。

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藤岡氏のお名前を見つけ、一目散に第16室に向かいます。

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こちらが第16室。氏の作品は、事前に薔薇の絵だと聞いておりましたので、すぐに解りました。

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素晴らしい!

こういう言い方は失礼かも知れませんが、氏は御年90に近いはずなのですが、それを感じさせない若々しい感性に脱帽です。やはり芸術一家高村家のDNAがなせる業でしょうか。

ちなみに氏のお父様、故・藤岡孟彦氏はこちら。

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比較的面長の風貌は、実兄・光太郎とよく似ています。

旧制一高から東大農学部に学び、植物学を修められました。そのころ、明治の文豪・大町桂月の子息で、昆虫学者となった大町文衛とも机を並べています。大町桂月と言えば、光太郎作の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」は、本来、桂月ら、十和田湖を広く世に紹介したりした三人の顕彰モニュメント。不思議な縁を感じます。

三重高等農林学校講師、兵庫県農業試験場などを経て、戦後には茨城県の鯉渕学園に赴任。こちらは現在も公益財団法人農民教育協会鯉淵学園農業栄養専門学校として続いています。鯉渕学園では、十和田湖畔の裸婦群像制作のため帰京した光太郎が、昭和27年(1952)に講演を行っています。この時の筆録は翌年の『農業茨城』という雑誌に掲載されました。

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孟彦は帰京直前の光太郎を花巻郊外太田村に訪ねています。その際に、東京に戻るなら、自分の学校で講演をしてくれるよう依頼したようです。

さて、子息光彦氏の作品を拝観後、東京都美術館さんをあとにしました。企画展「大英博物館展―100のモノが語る世界の歴史」が開催中ですが、混んでいそうなのでやめました。「大調和展」も、パーテーションの隙間からちらっと拝見したのみでした。

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そして、近くの東京国立博物館さんへ。

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先週放映された「日曜美術館「一刀に命を込める 彫刻家・高村光雲」」を観て、また藤岡氏のお爺さま、光雲の「老猿」を観たくなったので、上野に来たついでもあり、観て参りました。

約一年ぶりに拝見しましたが、何度観てもいいものです。

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やはり「日曜美術館」の影響でしょうか。「老猿」の周りには黒山の人だかりでした。同じ展示室内の光太郎作の「老人の首」はあまり足を止める人もなく……(涙)。

ところで、「日曜美術館「一刀に命を込める 彫刻家・高村光雲」」。今夜8時から、NHKEテレさんで再放送です。ご覧になっていない方、いや、先週ご覧になった方も、もう一度ぜひどうぞ。

こちらでは特別展「鳥獣戯画─京都 高山寺の至宝─」が開催中ですが、何と3時間待ちだそうで、やはり断念。その代わりと言っては何ですが、「上野に来たついでだ」と思い、やはり光雲の手になる「西郷隆盛像」も観て参りました。

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考えてみると、西郷さんをちゃんと観るのも久しぶりでした。

というわけで、有意義な上野散策でした。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月7日

昭和28年(1953)の今日、中野のアトリエで花巻郊外太田村山口の駿河重次郎に葉書を書きました。

椎茸たくさん送つて下さつてありがたく存じます、東京は毎日雨がふつて居ます、 山の小屋も雨がさかんにもつて居るだらうと思つて居ます、 彫刻の仕事も今型どりを終りかけてゐます、とりあへず御礼まで、

駿河は光太郎が暮らした山小屋周辺の土地を提供してくれた人物で、農作業についても光太郎に懇切丁寧に教えてくれました。光太郎と年も近く、山口地区では最も光太郎が親しく交わった一人でした。めったに他人を呼び捨てにしない光太郎が、親しみを込めて「重次郎」と呼び捨てにしていたそうです。

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こちらは翌年秋、十和田湖畔の裸婦群像完成後、一時的に太田村に帰った時の駿河家でのショットです。

ところで、先日、上記葉書が書かれた光太郎の終焉の地・中野のアトリエを訪問して参りました。明日はそちらをレポートします。

光太郎終焉の地、中野アトリエ。

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イメージ 1先月30日、東京は中野区にある、中西利一郎氏のお宅にお邪魔して参りました。

氏のお父様は、水彩画家の故・中西利雄氏。小磯良平、猪熊弦一郎らと新制作協会を結成しました。同会は昭和11年(1936)、文部省による美術団体統合に異を唱える若き画家達によって結成された団体。後に佐藤忠良、舟越保武らの彫刻家も同人として加わりました。光太郎自身は加わりませんでしたが、近い位置にいた美術家の団体といえます。

右は2年ほど前に見つけたのですが、同会の機関誌的な雑誌『新制作派』の第5号。昭和15年(1940)の発行です。この中に『高村光太郎全集』未収録の「彫刻について」という短い文章が掲載されています。

そして表紙は中西利雄氏の絵です。

その中西利雄氏は、昭和23年(1948)、数え49歳で早世。その直前に竣工していたアトリエは、使われずじまいだったそうです。

その後、せっかくのアトリエを使わないでおくのももったいないということで、貸しアトリエとして使用。昭和26年(1951)頃には、彫刻家のイサム・ノグチが借りています。ノグチはその頃、昨年亡くなった李香蘭こと山口淑子さんと結婚していました。ただし、ノグチ夫妻はここに居住はしていなかったそうです。

その後、昭和27年(1952)の秋から、昭和31年(1956)4月2日まで(途中、一時的に岩手に帰ったり、赤坂山王病院に入院したりした時期もありますが)、花巻郊外太田村から出てきた光太郎がここに居住。「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が制作されました。

裸婦像完成後は再び太田村に帰るつもりでいた光太郎ですが、健康状態がそれを許しませんでした。昭和28年(1953)に一時的に太田村に帰ったものの、また上京、以後、太田村には戻れませんでした。

さらに、光太郎歿後約1年、ここで最初の『高村光太郎全集』の編集が行われました。中心になったのは、当会顧問・北川太一先生、そして草野心平。そして当会の運営する連翹忌の第1回(昭和32年=1957)も、ここで行われています。

さて、中西家アトリエ訪問。当方、外から拝見したことは以前にもあったのですが、中に入れていただいたのは初めてでした。当主の利一郎氏が時折連翹忌にご参加下さっていて、「見にいらっしゃい」的なことをおっしゃってくださっていたのですが、中々機会がありませんでした。

利一郎氏、ひさしぶりに今年の連翹忌にご参加下さり、さらに連翹忌ご常連で、智恵子の学んだ太平洋画会会員の坂本富江さんを交え、今回の訪問が実現しました。

坂本さんとJR中野駅で待ち合わせ、記憶を頼りに歩くこと約10分で到着。

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上記3枚は裏からの眺めです。

表に回るとこうです。住宅密集地なので、超広角レンズでも使わないと全体像はうまく撮影できません。

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訪いを告げ、敷地に入れていただきました。

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瀟洒な建物ですが、もう築70年ほどになりますから、やはり傷みが見られます。

そしていよいよ内部へ。

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故・高村規氏撮影の光太郎の遺影が出迎えてくれました。

こちらは『高村光太郎全集』に掲載されているアトリエ内部の図面です。

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基本的にはこの通りのままでした。ただし、光太郎が使っていた彫刻の道具類、家具類、身の回りの物などは残っていません。また、やはり超広角レンズでもなければ全体像は撮れません。

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このあたりに制作中の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が立っていました。

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窓は北向き。造形作家のアトリエでは基本です。

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ここに光太郎が起居し、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を造り、そして最期の時を迎えたかと思うと、「感慨深い」どころではありませんでした。やはりその場所の空気に触れることで、見えてくるものがあります。何が見えたかというと、うまく言葉で表せませんが。

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その後、当時の写真、光太郎が遺した中西利雄夫人宛の書簡、夫人に託した買い物メモなどを拝見しました。いずれも活字になったものやコピー、画像等は拝見したことがありますが、実物は初めてでした。また、光太郎が当時中学生の利一郎氏にくれたお年玉ののし袋――原稿用紙を折りたたんで作り「のし」と書いたもの――には、思わず笑いました。

というわけで、有意義な訪問でした。

しかし、中西家としては、いろいろ課題もあります。やはり築70年ほどで傷みの目立つこの建物を、今後どうするかという問題。あくまで中西利雄のアトリエであって、光太郎のアトリエというわけではないということもありますし。

花巻郊外旧太田村の山小屋は、中尊寺金色堂のように套屋で覆って保存されています。また、福島二本松の智恵子の生家は、大規模補修復元工事を入れました。そうなると、個人の力では不可能ですね。「色即是空」「諸行無常」とは申しますが……。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月8日

昭和20年(1945)の今日、疎開していた花巻の宮澤家で、水彩画「牡丹」を描きました。

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後に花巻病院長・佐藤隆房に送られたこの絵は、現存が確認されている中で、日本画を除いて最大の水彩画です。他にも同様の作品がこの時期に描かれましたが、他は8月10日の花巻空襲の際に焼けてしまいました。

現在、この絵は花巻高村光太郎記念館で開催中の企画展「山居七年」で展示中です。

武蔵野美術大学美術館「近代日本彫刻展」図録。

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現在、武蔵野美術大学美術館さんで開催中の「近代日本彫刻展」の図録が届きました。

先月末、観に行ってきたのですが、その際は図録がまだできていないということで、郵送していただくよう手続きをしておいたものです。表紙は光太郎の木彫「白文鳥」。

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英国のヘンリー・ムーア・インスティテュートとの共同開催で、今年1月から4月までは英国リーズでの開催でした。そこで、半分は英文です。しかし、邦訳も付いているので助かりました。

英国の研究者3名による対談が、非常に興味深く感じられました。3名は、ヘンリー・ムーア・インスティテュート館長のリサ・ルファーブル氏、同館学芸員のソフィー・ライケス氏、そしてロンドン大学教授のエドワード・アーリントン氏。

目から鱗だったのが、西洋諸国には今回出品されているような、動物をモチーフにした小品の彫刻が存在しない、というくだりでした。あちらでは「彫刻」というと偉人などの肖像や人体が基本。動物彫刻もあるにはあっても、ライオンなどの比較的大きな物ばかりだというのです。

ちなみに今回の出品作は、以下の通り。

・「手」 高村光太郎 大正7年(1918) 頃 ブロンズ、木彫(台座部分)
・「白文鳥」 高村光太郎 昭和6年(1931)頃 木彫
・「冬眠」 佐藤朝山  昭和3年(1928) 木彫
・「石に就て」 橋本平八 昭和3年(1928) 木彫/「石に就て」 の原型となった石
・「干物(めざし)」「静物(干物)」「静物(カタクチイワシ)」「静物(豆)」「静物(骸)」 横田七郎 昭和3年(1928)~同4年(1929) 木彫
・「蘭者待 模刻」 森川杜園 明治7年(1873) 木彫

さらに英国展では、以下が出品されていました。

・「海老」 水谷鉄也 大正15年(1926) 木彫
・「海幸」 宮本理三郎 制作年不明 木彫

このうち、題名でわかりにくい佐藤朝山の「冬眠」がガマガエル、横田七郎の「静物(骸)」は小鳥の死骸、森川杜園の「蘭奢待 模刻」は正倉院収蔵の香木、宮本理三郎の「海幸」は魚の干物です。

西洋では、こうしたものが彫刻のモチーフになることがない、日本人は「自然」全体からモチーフを採っている、というわけです。


また、唯一、人体をモチーフにした光太郎のブロンズの「手」も、台座の木彫部分とのコラボレーションに、非常に特異なものを感じているようです。

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曰く、

この台は作品の奥深くまで伸びており、作品を直立させています。しかし、手を取り去って台座自身を見てみると、思いがけず素晴らしいものを目にします。(略)台座はそれ自体彫刻なのです。(略)この台は生長する、生きているもののように思われ、木の枝や根あるいは幹に似ています。そして、この有機的な木の土台からブロンズの手が生えているように思えるのです。(ヘンリー・ムーア・インスティテュート学芸員ソフィー・ライケス氏)

図録には、ブロンズ部分を取り去った台座のみの写真も掲載されています。

当方、この状態の実物はまだ見たことがありませんが、いずれそういう機会もあるかと期待はしています。


それから、日本人研究者による論考3本も、なかなかに読みごたえがありました。小平市立平櫛田中彫刻美術館学芸員・藤井明氏の「展示作品の作家について:歴史背景と経歴」、武蔵野美術大学彫刻科教授の黒川弘毅氏による「媒体と素材:リアリズムについての考えの差異」、大分大学教育福祉学部教授の田中修二氏で「日本彫刻への視点:1910年代~1930年代における彫刻家の社会的背景」。


さらに、英国人研究者の論考2本からも彼我の彫刻に対する認識の違いが見て取れます。一例を挙げれば、西洋では「共箱」という概念もないということ。今回、武蔵野美術大学美術館さんでの展示では、光太郎の「白文鳥」の共箱が並んでいましたが、意味もなく並べてあったのではなかったわけです。


その他、近代日本の彫刻史についても随所で触れられ、光雲や荻原守衛などについても記述があります。展示作品以外の図版も豊富。お買い得です。



武蔵野美術大学美術館さんでの展示は8月16日まで。ただし、「手」が2つ並ぶのは今月20日までです。ぜひ足をお運びいただき、図録もご購入ください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月9日

昭和47年(1972)の今日、この月2日に亡くなった、光太郎の実弟にして鋳金の人間国宝・豊周に、追善のため従四位銀杯一個が贈られました。

『大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣』。

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新刊です。 

大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣

2015/5/25 奥田万里著 幻戯書房 定価2,000円+税

帯文から

荷風『断腸亭日乗』に記され、杢太郎の詩に詠まれ、晶子がその死を悼んだ男とは?

志賀直哉 吉井勇 北原白秋 小山内薫 高村光太郎 尾竹紅吉 平塚雷鳥 大杉栄 堺利彦 長谷川潔 関根正二 太田黒元雄 ポール・クローデルら文士ばかりでなく、芸術家や社会主義者も集った西洋料理店&カフェ「鴻乃巣」の店主・駒蔵のディレッタントとしての生涯を追った書下ろしノンフィクション。

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「メイゾン鴻乃巣」とは、明治43年(1910)、日本橋小網町に開店した西洋料理店です。のちに日本橋通一丁目、さらに京橋に移転、大正末まで「文化の発信基地」的な役割を担いました。光太郎、北原白秋、木下杢太郎らの芸術運動「パンの会」の会場として使われています。ただし、「パンの会」は案内状まで発送して大々的に行う「大会」と、通常の会の二通りがあり、「メイゾン鴻乃巣」では「大会」は開催されなかったようです(実はこのあたり、同書には勘違いがあって、少し残念です)。

本書はその店主・奥田駒蔵の生涯を追ったノンフィクションです。著者の奥田万里氏は、駒蔵の孫・恵二氏夫人。万里氏から見れば、駒蔵は義祖父ということになります。駒蔵は大正14年(1925)、満43歳で早逝しており、奥田家でも孫の代になるとその業績等、全くといっていいほど不明だったようです。本書は、その駒蔵の生涯を、ご親戚への聞き取りや当時の文献調査などにより、明らかにした労作です。

元は平成20年(2008)、かまくら春秋社からエッセイ集として刊行された『祖父駒蔵と「メイゾン鴻之巣」』。そちらをベースに加筆修正されています。

先月はじめごろ、当会顧問の北川太一先生から、その元版を入手してくれという指示があり、調べてみたところ、月末には新版が刊行されるという情報を得、さっそく北川先生の分と当方の分、2冊予約し、2週間ほど前に届きました。

帯文に光太郎の名がありますが、光太郎もメイゾン鴻之巣によく足を運んでおり、その作品中に登場します。

 飯田町の長田秀雄氏の家の近くの西洋料理店を思ひ出す。ヴエニス風な外梯子のかかつてゐた、船のやうにぐらぐら動く二階で北原白秋、木下杢太郎、長田秀雄、吉井勇等の諸氏に初めて会つたのだと思ふ。何だか普通の人と違つてゐるので面白かつた。此人達の才気横溢にはびつくりした。負けない気になつて、自分も馬鹿にえらがつたり、大言壮語したり、牛飲馬食したり、通がつたり、青春の精神薄弱さを遺憾なくさらけ出したものだ。真剣と驕飾とが矛盾しつつ合体してゐた。自己解放の一つの形式だつたのだと思ふ。掘留の三州屋の二階。永代橋の橋際の二階。鳥料理都川の女将。浅草のヨカロー。小舟町の鴻乃巣。詩集「思ひ出」。雑誌「方寸」。十二階。
(「パンの会の頃」 昭和2年=1927)

パンの会の会場で最も頻繁に使用されたのは、当時、小伝馬町の裏にあつた三州屋と言う西洋料理屋で、その他、永代橋の「都川」、鎧橋傍の「鴻の巣」、雷門の「よか楼」などにもよく集つたものである。
(「ヒウザン会とパンの会」 昭和11年=1936)

奥田さんといふ奇人の創めた小網町河岸のカフエ「鴻の巣」は梁山泊の観があつたし、下町の明治初年情調ある小さな西洋料理店(例へば掘留の三州屋)などを探し出して喜んだりした。
(「あの頃――白秋の印象と思ひ出――」 昭和18年=1943)

相変らず金に困り、困るからなほ飲んだ。鴻乃巣だの、三州屋だの、「空にまつかな雲のいろ」だのといつても、私のは文学的なデカダンではなくて、ほんとに生活そのものが一歩一歩ぐれてゆくやうで、足もとが危険であり、精神が血を吐く思ひであつた。
(「父との関係」 昭和29年=1954)


すぐに思い出したのは以上ですが、精査すればもっとあるかもしれません。


また、『大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣』を読んで初めて知ったのですが、同店の名物の一つが、ロシアから輸入したというサモワールだったそうです。

その記述を読んで、当方のアンテナが発動しました。「『道程』時代の詩にサモワールが出てきたはず」と。調べてみると、明治44年(1911)に書かれた「或日の午後」という詩でした。

     或日の午後

 珈琲(カフエ)は苦く、
 其の味はひ人を笑ふに似たり。

 シヨコラアは甘(あま)く、イメージ 3
 其のかをり世を投げたるが如し。

 ふと眼にうかぶ、
 馬場孤蝶の凄惨なる皮肉の眼(まな)ざし。

 サモワアルの湯気は悲しく、さびしく、完(まつた)くして、
 小さんの白き歯の色を思はしむ。

 此の日つくづく、
 流浪猶太人(ル・ジユイフ・エラン)の痛苦をしのべば――

 心しみじみ、
 春はいまだ都の屋根に光らず――

 珈琲(カフエ)は苦く、
 シヨコラアは甘し、
 
 倦怠は神経を愛撫す、
 或る日の午後。


雑誌『スバル』に発表された詩です。残念ながら詩集『道程』には採られませんでした。画像は『大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣』から採らせていただきました。絵画もたしなんだ奥田駒蔵自筆のメイゾン鴻乃巣店内です。サモワールも描かれています。

明治末にサモワールがどの程度普及していたのかよくわかりませんが、「メイゾン鴻乃巣」名物と云われるということは、かなり珍しかったのではないのでしょうか。そうすると、この詩の舞台も「メイゾン鴻乃巣」のように思われます。

これも『大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣』を読んで初めて知りましたが、鴻乃巣のサモワールにはこんなエピソードもあります。

やはり明治44年(1911)の雑誌『白樺』の編集後記に、こんな記述があるそうです。

同人の久里四郎は丁度仏蘭西に絵の研究に行つた。お名残の展覧会が琅玕洞で十日斗り開かれてゐた。十七日の日曜日には久里が御ひいきのメーゾン鴻の巣が久里の為めに「雷のやうにピカピカ光るサモワール」を持ち出して御客様に御茶をすゝめた。当日は主人自ら出張してめざましく働いてゐた。

「琅玕洞」は前年に光太郎が神田淡路町に開いた我が国初の画廊です。ただし、この時点では琅玕洞の経営は光太郎の手を離れています。ただ、譲渡後も琅玕洞で自分の個展を開こうとしたり(結局実現せず)しているため、時折足は運んでいたようです。


サモワールがらみでもう一件、『大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣』を読んで興味深く思ったことがありました。

佐渡島に住んでいた歌人の渡辺湖畔との関わりです。湖畔は共通の知人であった与謝野夫妻を通じ、大正9年(1920)、駒蔵にサモワール購入の斡旋を頼んだというのです。

「ここで湖畔が出てくるか!」と思いました。湖畔はのち、大正15年(1926)に、光太郎の木彫「蟬」を購入している人物です。その縁で、令甥に当たる和一郎氏ご夫妻は、時折連翹忌にご参加くださっています。


他にもいろいろと、光太郎と奥田駒蔵の関わりがあります。

光太郎が絵を描き、伊上凡骨が彫刻刀をふるった、「メイゾン鴻乃巣」のメニューの存在が、大正2年(1913)9月21日の『東京日日新聞』に紹介されています。これはぜひ見てみたいのですが、現存が確認できていません。当時の雑誌などに口絵の形で載ったものでも……と思って探し続けていますが、いまだに見つかりません。

また、これも、『大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣』を読んで初めて知ったのですが、大正10年(1921)の新詩社房州旅行に、光太郎智恵子ともども、駒蔵も参加していたそうです。この旅行に関しては、この頃から智恵子の言動が少し異様だったという深尾須磨子の回想が残っています。また、伊上凡骨も此の旅行に参加しています。


とりあえず、光太郎に関わる部分のみを紹介しましたが、全体に非常に面白い内容でした。奥田駒蔵という人物のある意味自由奔放な、しかし世のため人のためといった部分を忘れない生き方、その周辺に集まった人々の人間模様などなど。

さらに、著者の奥田万里氏の調査の過程。当方も光太郎智恵子について、聞き取りやら文献調査やらで同じような経験をしているので、「あるある」と、共感しながら読ませていただきました。ただし、光太郎智恵子については当会顧問の北川太一先生はじめ、先哲の方々の偉大な業績があって、当方はその落ち穂拾い程度ですが、奥田氏の場合、ほぼゼロからのスタート。頭が下がりました。

そして、全編に義祖父・駒蔵へのリスペクトの念が満ち溢れていることにも感心しました。


やはり人を論ずる場合、その人に対するリスペクトが感じられなければ、読んでいて鼻持ちなりません。逆に言えば、「リスペクトの念がないのなら、論じるな」と言いたくなります。

余談になりますが、ある大手老舗出版社が出しているPR誌の今月号に、「智恵子抄」に関するエッセイが載っています。筆者は辛口の批評で知られる文芸評論家のセンセイです。そこには全くといっていいほど、光太郎ら、そこで取り上げている人物に対するリスペクトの念が読み取れません。さらに云うなら、リスペクトの念がないから詳しく調べるということもしないのでしょう、出版事情等に関し、事実誤認だらけです。「○○は、××と△△しか出版されていない」、いやいや「□□と◇◇もちゃんと出版されているよ、マイナーな出版社のラインナップだけど」と云う感じです。

「解釈」の部分は主観なので、その人の勝手かも知れませんが、客観的な事実の部分までテキトーに書いて、そしてこの方のお家芸(少し前には、光太郎智恵子を取り上げたあるテレビ番組についても、見当外れの罵詈雑言を某新聞の地方版に発表しているようです)ですが、とにかく揚げ足取りや「批判」をしなければ気が済まない、みたいな。その辛口ぶりがかえって新鮮でもてはやされているようですけれど、「それではあなたの仕事が数十年後まで残りますか?」と問いたくなりますね。

むろん、論じる対象に対し、妄信的、狂信的にすべて賞賛すべきとはいいませんが、「リスペクトの念がないのなら、論じるな」です。反面教師とするために論じるというのであれば別かもしれませんが、この人の書き方は揶揄や軽侮が先に立っていて、批判するために批判しているようにしか読めません。

当方、その筆者のセンセイにリスペクトを感じませんので、これ以上は論じません。


閑話休題、リスペクトの念に溢れた『大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣』、ぜひお買い求めを。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月10日

昭和22年(1947)の今日、日本読書組合から、『宮澤賢治文庫 第三冊』が刊行されました。

第二回配本で、「春と修羅 第二集」。宮澤清六と光太郎の共編、光太郎は装幀、題字と「おぼえ書き」の執筆もしています。

当方手持ちの全6巻は、現在、花巻の高村光太郎記念館にて展示中です。

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入梅。

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当方の住む関東地方も、今週初めに梅雨入りいたしました。当方自宅兼事務所の紫陽花です。

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もともと梅の実が熟する頃、というわけで「梅雨」の時が当てられたものです。「梅」といえば「智恵子抄」に収められた「梅酒」。「智恵子抄」の中で、この詩が一番好き、という方も多いようです。

  梅酒
 
死んだ智恵子が造つておいた瓶の梅酒は
十年の重みにどんより澱んで光を葆み、
いま琥珀の杯に凝つて玉のやうだ。
ひとりで早春の夜ふけの寒いとき、イメージ 3
これをあがつてくださいと、
おのれの死後に遺していつた人を思ふ。
おのれのあたまの壊れる不安に脅かされ、
もうぢき駄目になると思ふ悲に
智恵子は身のまはりの始末をした。
七年の狂気は死んで終つた。
厨に見つけたこの梅酒の芳りある甘さを
わたしはしづかにしづかに味はふ。
狂瀾怒濤の世界の叫も
この一瞬を犯しがたい。
あはれな一個の生命を正視する時、
世界はただこれを遠巻にする。
夜風も絶えた。

画像は以前にいただいた、イラストレーター・河合美穂さんの作品です。


「梅酒」を今日の『山陽新聞』さんの一面コラムで取り上げて下さいました。 

滴一滴

店頭に青梅が出回っている。梅酒づくりの季節である。梅干しは難しくて…という人でも手軽にできることからファンは多い。工夫次第でわが家だけの味が楽しめるのも魅力だ▼氷砂糖の代わりに蜂蜜や黒糖を使ってもいい。無色透明の焼酎ではなく、香りのいいブランデーやウイスキーを入れるという人もいる。青梅の時季は短いが、黄色く熟した梅を使っても独特の風味に仕上がるという▼高村光太郎の詩「梅酒」を思い出す。<死んだ智恵子が造っておいた瓶の梅酒は十年の重みにどんより澱(よど)んで光を葆(つつ)み、いま琥(こ)珀(はく)の杯に凝って玉のようだ>(「智恵子抄」から)▼精神を病む前の最愛の妻が、この世に遺(のこ)していった。早春の夜更けの寒い時に召し上がってくださいと。その梅酒を光太郎は台所の片隅に見つけ、ひとり、しずかにしずかに飲む。その味わいは<狂瀾(きょうらん)怒(ど)濤(とう)の世界の叫もこの一瞬を犯しがたい>▼生涯のほぼ半分を結核と闘った俳人・石田波郷には、こんな作品がある。<わが死後へわが飲む梅酒遺したし>。呼吸をするのも苦しかった没年の作という▼きょうは「入梅」。立春から数えて135日目に当たり、青梅の収穫もピークを迎える。梅酒は法律に基づいて自宅でつくり、自ら楽しむことができる身近なお酒だ。甘酸っぱいその味は、時に人生の深い一滴も含んでいる。


「梅酒」が書かれたのは昭和15年(1940)。前年にはドイツのポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発。日中戦争は既に泥沼化し、日独伊三国同盟が締結され、翌年には太平洋戦争が始まる、そんな時期です。

そういう世相が「狂瀾怒涛の世界の叫」と表されています。しかし、それも智恵子の遺した梅酒を静かに味わう感懐には無縁、と謳っています。

かなり前の作品ですが、昭和7年(1932)の詩「もう一つの自転するもの」でも、同じような内容を謳っています。

  もう一つの自転するものイメージ 4

春の雨に半分ぬれた朝の新聞が
すこし重たく手にのつて
この世の字劃をずたずたにしてゐる

世界の鉄と火薬とそのうしろの巨大なものとが
もう一度やみ難い方向に向いてゆくのを
すこし油のにじんだ活字が教へる
とどめ得ない大地の運行
べつたり新聞について来た桜の花びらを私ははじく
もう一つの大地が私の内側に自転する


画像は岩手県奥州市の人首文庫さんからいただいた、掲載誌『文学表現』に送られた草稿のコピーです。

しかし、「もう一つの大地が私の内側に自転する」「狂瀾怒濤の世界の叫も/ この一瞬を犯しがたい。」という状態は長く続きませんでした。

その結果、どうなって行くのか、以下、明日。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月11日

昭和36年(1961)の今日、山形県酒田市の本間美術館で開催されていた「高村光太郎の芸術」展が閉幕しました。

竹喬美術館平成27年度展覧会「画学生 小野春男と父 竹喬」。

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昨日のこのブログで、岡山の地方紙『山陽新聞』さんの一面コラムをご紹介しましたが、同じ『山陽新聞』さんの一昨日の紙面には、こんな記事が載りました。岡山出身の日本画家・小野竹喬(ちっきょう)の子息に関してです。 

小野竹喬長男の戦時中日記を発見

 笠岡市出身の日本画家小野竹喬(1889~1979年)が後継者として期待した長男・春男は43年、太平洋戦争で戦死した。26歳だった。この春男が召集までの1年半、つづった日記が、9日までに京都市の実家で見つかり研究者らを驚かせている。芸術論から婚約者への恋心まで記され、これまで知られていなかった青年画家の実像が読み取れるからだ。
 調査した笠岡市立竹喬美術館(同市六番町)によると、春男直筆の文字資料が確認されるのは初めてという。
 戦後70年を機に春男作品の展示準備を進める同美術館に、遺族から日記発見の一報が入ったのは今年5月のこと。
 日記からは芸術論について、特に強い思いがあったことが分かる。
 「セザンヌをおし進めるとしても、そこに融合せしめなければならぬものがある。それは我々が東洋画に…鉄斎、大雅、法隆寺に感得するものを」。42年5月28日付には、フランスの画家セザンヌや文人画家富岡鉄斎らの名を挙げ、東西芸術の融合に並々ならぬ意欲を示した。
 春男は京都市出身。40年に同市立絵画専門学校(現同市立芸術大)を卒業後、41年5月の第6回京都市美術展で入選。美術雑誌にも名前が挙がる新鋭日本画家だったが、43年12月に戦死する。人物像はこれまで、わずかな作品のほか、近くに住んでいた作家水上勉や絵専の同級生の思い出などから想像するほかなかった。
 日記は1冊で、41年1月から42年7月の陸軍入隊直前まで約120ページ。41年1月3日に「我が形式を見出さねばならない」と、偉大な父を超えようと独自の芸術を目指す決意を記す一方、「今日で三日目。描かれた葉一枚がまだ満足なものではないのだ」(41年9月13日)、「この絵にかゝってから三ケ月目。再び自然を見た時。何んと俺の絵は概念的なのだらう。自然はもっともっと微妙に美くしい」(同年11月16日)など、日々の制作の苦悩を書き残している。
 最後の日付は42年7月3日。婚約者の名を記し「お前との交渉の半年が、君に対する俺の恋情を確固たるものにした。…たしかに愛するといふことは豊かにしてくれる」。まるで予感していたかのように、わずか6日後、召集令状が届き、帰らぬ人となった。
 同時に見つかった「書技帳 昭和十四年」と書かれたノートには、ニーチェ、ルソーら思想家やルノワール、セザンヌ、高村光太郎ら芸術家の言葉、またベートーベン、ワーグナーらの曲名も挙げられ、読書や音楽鑑賞など教養の広さもうかがえる。
 調査にあたった徳山亜希子学芸員は「理想と現実のギャップに悩みながら新しい日本画を求めて模索する青年の素顔が浮かび上がってきた。令状1枚で本人はもちろん家族の希望も断ち切る戦争のむごさも伝わる」と話している。
■春男の死、竹喬芸術にも影響 笠岡市立竹喬美術館の上薗四郎館長の話
 春男の死は父である竹喬にも大きな影響を与えた。戦死の報を受けた竹喬は、『これから二人分の仕事をする』と誓っている。戦後、よく描いた夕焼けや空に春男の魂を感じているような文章があり、息子の死が竹喬芸術をより深めたともいえる。
 ◇
 日記、ノートは作品とともに7月18日から9月6日まで、竹喬美術館の特別陳列「画学生小野春男と父竹喬」で公開される。初日と8月8日はギャラリーコンサートもある。問い合わせは同美術館(0865-63-3967)。


心いたむ記事です。当方の父親の実家近くに、戦没画学生の作品を集めた「無言館」さんという美術館があります。そちらを想起しました。小野春男はもはや学生ではなかったようですが、前途有為な若者であったという点では同じですね。

今年は戦後70年にあたります。『毎日新聞』さんの連載「数字は証言する データで見る太平洋戦争」によれば、あの戦争での日本人戦死者は約230万人(異論もあり)とのこと。

一人一人の死の裏側に、こうしたドラマがあったわけですが、「永遠のナントカ」などと、それを美談に仕立て、何らの反省も行わないようでは、亡くなっていった人々も浮かばれないのでは、と思います。

小野春男がノートに書き記していた光太郎の言葉というのがどんなものなのか、記事では不明です。芸術論的なものからの抜粋で、小野が画家としてそれを心の支えにしていたというのなら、まだ救われますが、戦時中に大量に書き殴った空虚な戦争詩や散文だったとしたら、やりきれません。

昨日のブログで書いた、「もう一つの大地が私の内側に自転する」「狂瀾怒濤の世界の叫も/ この一瞬を犯しがたい。」という状態が長く続かなかった、というのは、ここにつながります。昭和16年(1941)に『智恵子抄』を上梓した後、詩の世界で智恵子が謳われることはもはやなくなり(戦後まで)、光太郎は全身全霊を空虚な戦争賛美の作品に傾けていきます。

小野がそれをどんな想いで書き記していたのかにいたっては、もはや確かめるすべはありません。そう考えると、このノート、見てみたいような、見るのが恐ろしいような、そんな気分です。

笠岡市竹喬美術館の企画展は以下の通りです。 

平成27年度展覧会 画学生 小野春男と父 竹喬

期 日 : 平成27年7月18日(土曜日)~9月6日(日曜日)
会 場 : 笠岡市竹喬美術館 県笠岡市6番町1-17
時 間 : 9時30分~17時
休館日 : 毎週月曜日(ただし祝日にあたる7月20日は開館し、翌21日は休館します)
入館料 : 一般500円 高校生300円 市外小中学生150円

関連行事:
ギャラリーコンサート
いずれの回も、入場整理券(一般500円、竹喬美術館友の会会員は無料)を竹喬美術館にて6月より配布しますので、事前にお買い求めの上ご来場下さい。入場整理券で当日18時からに限り展覧会もご覧いただけます。
 ◇ソプラノ村上彩子「平和祈念 父・竹喬 息子・春男の目指した道」 平成27年7月18日(土曜日)18時30分開演
 ◇ソプラノ村上彩子「小野春男・葛原守 戦没学生蘇る70年の時」 平成27年8月8日(土曜日)18時30分開演
ギャラリートーク
 7月25日(土曜日)・8月23日(日曜日) 13時30分~14時30分 聴講無料(入館料が必要)、予約不要


こういう若者がまた現れるであろう方向に、この国は再び向かいつつあります。それでいいのでしょうか?


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月12日
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平成23年(2011)の今日、大阪府池田市の逸翁美術館で開催されていた企画展「与謝野晶子と小林一三」が閉幕しました。

小林一三は実業家。阪急電鉄や宝塚劇場などの創業者です。

与謝野鉄幹・晶子夫妻の援助者としても知られ、小林の元には夫妻の書などが大量に遺されました。

その中に、光太郎が絵を描き、晶子が短歌をしたためた屏風絵が2点あって、この企画展に出品されました。光太郎の絵画としては新発見の物で、非常に驚きました。

晶子の書簡の中に「小林市三氏の画まことによく出来申候(高村氏の筆)」という一節があり、これを指していると考えられます。

ただし、2点とも屏風には仕立てられて居らず、マクリの状態で保存されています。明治44年(1911)の作品です。

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漱石と守衛 熊本と長野のつながり。

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今月7日の『毎日新聞』さんに、光太郎の名が。光太郎がメインではなく、親友の荻原守衛に関する内容で、東京大学名誉教授、姜尚中氏のコラムです。 

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熊本出身の姜氏、かつてNHKEテレさんの「日曜美術館」に出演されていた頃、番組収録で信州安曇野の碌山美術館を訪れ、熊本と信州のつながりを実感されたそうです。

曰く、

つたのからまる教会風の碌山美術館には、高村光太郎と並び称される彫刻家・荻原守衛の作品が展示されているが、その守衛が夏目漱石の熱烈な愛読者であり、その号、碌山は、阿蘇を舞台にした漱石の『二百十日』の主人公のひとり、「碌さん」にちなんだらしいということが分かったのだ。

守衛の号は「碌山」。その由来は知られているようで意外と知られていない気がしますが、夏目漱石の短編小説「二百十日」(明治39年=1906)から採られています。守衛が漱石のファンだったためです。「二百十日」の登場人物の一人が「碌さん」。「碌さん」→「碌山」というわけです。

漱石は、明治29年(1896)、それまでの任地だった「坊ちゃん」の舞台、伊予松山から姜氏の故郷・熊本の旧制五高に赴任、同33年(1900)の英国留学に出るまでを過ごします。この地で中根鏡子と結婚しています。

「二百十日」は、熊本時代に同僚と阿蘇登山を試み、嵐にあって断念した経験を元に書かれました。主要登場人物は二人。「文明の怪獣を打ち殺して、金も力もない、平民に幾分でも安慰を与える」べきだと豪語する「圭さん」。「坊ちゃん」を彷彿させられます。その威勢のいい言葉にうなずきながらも、逡巡し、それでも一生懸命生きようとする「碌さん」。

姜氏は、守衛が「圭さん」でなく「碌さん」に共感を覚えていることに注目し、次のように語っています。

「圭山」ではなく、「碌山」なのも、迷い、悩みながらも、「朋友を一人谷底から救い出す位の事は出来る」とつぶやく碌さんに、守衛が自分自身の姿を重ね合わせていたからではないか。迷いと思慕の情にあふれる「デスペア」や「女」、さらに毅然(きぜん)とした風格の「文覚」や「坑夫」などの代表作には、そうした守衛の弱さと強さが表れているように思えてならない。

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そしてご自分の中にも「碌さん」的な部分を見いだし、次のように結んでいます。

漱石や碌山とは比べようもないほど卑小だが、私の中にも碌さんに近いものがあるように思えることがある。そう思えば思うほど、熊本と長野はしっかりとした一本の糸で結ばれているようにみえる。

さながら「坊ちゃん」のように、某大学の学長職を投げ打って飛び出した氏は、「圭さん」に近いような気もするのですが……。


さて、光太郎。以前に書きましたが、文展(文部省美術展覧会)の評を巡って、漱石に噛みつきました。同様に、恩師・森鷗外にも喧嘩を売ったり(ただし、「文句があるならちょっと来い」と呼びつけられると、しおしおっとなってしまいましたが)と、「権威」というものにはとにかく逆らっていた光太郎。「圭さん」に近いような気がします。

歴史に「たら・れば」は禁物とよく言いますが、守衛と光太郎、名コンビとしての二人三脚が続いていたら、と思います。かえすがえすも守衛の早逝(明治43年=1910)が惜しまれます。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月13日イメージ 1

平成10年(1998)の今日、短歌新聞社から大悟法利雄著『文壇詩壇歌壇の巨星たち』が刊行されました。

大悟法利雄は明治31年(1898)、大分の生まれ。若山牧水の高弟、助手として知られた歌人。沼津市若山牧水記念館の初代館長も務めた他、編集者としても活躍しました。

同書には、「高村光太郎 父光雲をいたわる神々しい姿」という章があります。おそらく昭和3年(1928)の光雲の喜寿祝賀会での光太郎一家、戦前の駒込林町のアトリエの様子、戦後、中野のアトリエに「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を造り終えた光太郎を訪ねた際の回想などが記されています。

当方刊行の『光太郎資料』第37集に引用させていただきました。ご入用の方は、こちらまで。

『河北新報』に高村光雲。

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仙台に本社を置く東北の地方紙、『河北新報』さん。一昨日の一面コラムで光雲を取り上げて下さいました。 

河北春秋

 組織「イスラム国」によるイラクやシリアの古代遺跡の破壊が続く。約3千年前のアッシリア帝国のニムルド遺跡、約2千年前に栄えたハトラ遺跡。世界遺産のあるパルミラも制圧したと伝えられる。なんとも残念▼と思ったら、日本でも明治維新のころ、文化遺産が災難に遭っていた。理由の一つは、新政府による「神仏分離令」だ。廃仏毀釈(きしゃく)運動が進み、結果として寺院や仏像、仏具などの売却、廃棄につながった。仏師の高村光雲が焼却寸前の観音像を買い取った、という逸話もある▼そして、明治6(1873)年の「廃城令」。お城は封建時代の遺物と見なされた。多くが破壊され、維持コストがかかると売り払われた。太平洋戦争を経て、天守が創建当時のまま残ったのは、12城だけだ▼その一つ、弘前城のある弘前市が言い出しっぺとなり、「現存十二天守同盟」なるものを結成する。兵庫・姫路や松山など11市と協力し、情報発信や外国人観光客誘致などを進めるそうだ。松江城(松江市)の国宝内定や城巡りブームもあって、大いに盛り上がるだろう▼存続の危機があった事実や背景も、伝えられるといいと思う。先達の価値観は、時の為政者によってすっかりひっくり返されることもある。いまだからこそ、考えてみては。(2015.6.12)


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イスラミック・ステートによる文化財破壊のニュースから、明治初頭の廃仏毀釈へと話が進み、光雲のエピソードが紹介されています。先日放映されたNHKEテレさんの「日曜美術館 命を込める 彫刻家・高村光雲」の中でも少し扱われていたエピソードで、元ネタは昭和4年(1929)に刊行された『光雲懐古談』です。

神仏分離の政策は、王政復古となった慶応年間からすでに太政官布告の形で進められました。仏教の排斥を企図したものではなかったにも関わらず、各地で拡大解釈がなされ、エスカレート。廃藩置県前、中部地方のある藩では、藩主の菩提寺を含め、領内全ての寺院が破壊され、何と現在でも仏式の葬儀を行う家庭がほとんど無いということです。

『光雲懐古談』に記されたエピソードは、光雲がまだ徒弟修行中の明治9年(1876)頃のこと。本所にあった(現在は目黒に移転)羅漢寺という寺院境内の栄螺堂が取り壊され、堂内に安置されていた観音像百体が焼却されることになりました。請け負ったのは「下金屋」という金属のリサイクル業者。像に施されている箔の金を、焼却した後で取り出すというわけです。

今にも火をかけられる、という話が町の人から師匠・東雲の処にもたらされましたが、あいにく師匠は留守。そこで、以前からそれらの観音像を手本とするため足繁く通っていた光雲が、現場に飛びます。業者と交渉の結果、特に出来がいいと目星をつけていた五体、それもすでに解体されていたものの部材を集めて、譲って貰いました。業者は足もとを見てふっかけてきたそうですが、後から駆け付けた師匠が支払いました。

そのうちの一体を、光雲は自分の守り本尊として師匠から買い取り、終生、手元に置いていたとのこと。江戸時代の仏師・松雲元慶の作で、右の画像の観音像です。現在も高村家に遺っているはずです。確かに光雲の作に通じる柔和なお姿ですね。

『光雲懐古談』のこのくだり、「青空文庫」さんで公開中ですので、ご覧下さい。四つの章に分かれていますが、ひとつながりです。



たかだか150年ほど前、我が国でもこうした乱暴な文化財破壊が行われていたわけで、イスラミック・ステートの暴挙も笑えません。

もっとも、『河北新報』さんの「河北春秋」(少し前には保守系の泡沫政党の議員が、別の日の「河北春秋」にお門違いの非難を開陳していて、笑えました)の最後に有るとおり、さらに近い過去である70年前の苦い経験も無視し、先人の守ってきた金科玉条を破壊しようとする為政者の支配する国ですから……。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月14日

昭和23年(1948)の今日、散文「一刻を争ふ」を書き始めました。

稿了は翌日。翌月の雑誌『婦人之友』に掲載され、のち「季節のきびしさ」と解題の上、詩文集『智恵子抄その後』に収められました。

すでに2年余りを過ごした花巻郊外太田村の山小屋で、自然の営みの力に驚嘆させられることを綴っています。

日蓮像の完成を祈願し鋳造火入れ式。

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昨日に続き、光雲ネタで。

一昨日、富山の地方紙『北日本新聞』さんに載った記事です。
 

日蓮像の完成を祈願し鋳造火入れ式 高岡・古城製作所が受注

 高岡市野村の古城製作所(大野政治社長)は、石川県七尾市の日蓮宗実相寺に建立される開祖・日蓮の銅像を受注した。13日、高岡市福岡町土屋の工場で、鋳造火入れ式が行われ、建立を計画した千葉県市川市の日蓮宗大本山、法華経寺の新井日湛貫首や大野社長らが無事な完成を祈った。9月に建立、開眼予定で、来年4月に奉納される。
 法華経寺は1260(文応元)年創建の日蓮が最初に開いた寺として知られる。実相寺は、145代の新井貫首が生まれ育った寺。今回は、2021年に日蓮の生誕800年を控え、来年は実相寺31代で新井貫首の祖父の50回忌となることから、12年に法華経寺に建立した日蓮像と同型の製作を古城製作所に依頼した。
 建立するのは、近代彫刻界の大家、高村光雲による日蓮像の原型を使った高さ約4メートルの銅像。台座を含めると約8メートルにもなる。火入れ式では僧侶2人が木剣を打ち、祈禱する中、職人が溶かした銅を鋳型の湯口に注いだ。
 大野社長は「立派な銅像に仕上げ、高岡銅器をアピールしたい」と話した。


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石川県の実相寺さんという寺院に、光雲が原型を作った日蓮像が建立されるという内容です。

この像は、鎌倉の長勝寺さんにあるものと同型で、他にも各地に建立されています。

静岡県富士市の妙祥寺さんにあることは、以前から存じておりましたが、千葉県市川市の中山法華経寺さんにも奉納されていたと、今回の記事で初めて知りました。そちらは今回と同じ高岡の古城製作所さんの鋳造だそうで、ホームページを見て驚いたのですが、同社の取扱商品のラインナップに今回の像が入っています。他の寺院、あるいは個人でも注文されたのかも知れません。

古城さんでは45㌢のミニチュア版も作っているとのことで、これには少し笑いました。泉下の光雲も苦笑しているのではないでしょうか。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月15日

昭和44年(1969)の今日、求龍堂から高村光太郎記念会編、『高村光太郎賞記念作品集 天極をさす』が刊行されました。

「高村光太郎賞」は、昭和32年(1957)、筑摩書房から最初の『高村光太郎全集』の刊行が始まった直後、実弟の豊周から、その印税を光太郎の業績を記念する適当な事業にあてたいという意向が出され、始まったものです。

その規定を抜粋します。

一、故高村光太郎を記念し、造型及び詩の二部門に高村光太郎賞を設定する。
一、授賞対象となる作品は、主として、造型部門に於いては発表作品、詩部門に於いては詩集とする。
一、本賞設定当初の選考委員は、
 造型=今泉篤男、木内克、菊池一雄、高田博厚、谷口吉郎、土方定一、本郷新
 詩=伊藤信吉、尾崎喜八、亀井勝一郎、金子光晴、草野心平
 とする。

賞金は十万円。同一部門で複数の授賞が出た場合には折半、そして、永続的に行うのではなく、10回で終わる、とも定められました。

副賞として、光太郎が短句「いくら廻されても針は天極をさす」と刻んだ木の盆を、豊周がブロンズに鋳造した賞牌が贈られました。

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『天極をさす』の書名はここから採りました。

ところで、数年前にこの賞牌がネットオークションに出品され、ある意味、少し残念でした。出所もわかっています。

第一回の授賞式は昭和33年(1958)、最終第10回は同42年(1967)。10年間で造型部門17名、詩部門15名が授賞
しました。内訳は以下の通り。

造型部門は、柳原義達、豊福知徳、佐藤忠良、向井良吉、白井晟一、舟越保武、堀内正和、西大由、吾妻兼治郎、水井康夫、細川宗英、大谷文男、黒川紀章、一色邦彦、篠田守男、建畠覚造、加守田章二。

詩部門が、会田綱雄、草野天平、山之口貘、岡崎清一郎、山本太郎、手塚富雄、田中冬二、高橋元吉、田村隆一、金井直、山崎栄治、中桐雅夫、生野幸吉、中村稔、富士川英郎。

これらの人々の略歴を調べると、多くは「高村光太郎賞授賞」と記されています。また、造型部門の受賞者及び選考委員により、「連翹会展」が6回開かれました。

『天極をさす』は、高村光太郎賞の完了を記念して、上記受賞者及び選考委員、そして高村豊周の作品(造型系は写真)を掲載した大判の書籍です。

その後、箱根彫刻の森美術館さんで、具象彫刻を対象とした「高村光太郎大賞」が始まりましたが、どうも趣旨が違う、ということで、3回で終了しました。

富山県水墨美術館「超絶技巧! 明治工芸の粋」。

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一昨日からの流れがありますので、光雲ネタをもう一日続けます。

富山からの企画展情報です。 
会   期 : 2015年6月26日(金曜)~8月16日(日曜)
会   場 : 富山県水墨美術館 富山市五福777番地
主   催 : 明治工芸の粋実行委員会(富山県水墨美術館・チューリップテレビ)
休 館 日 : 月曜日(ただし、7月20日は開館)、7月21日(火曜)
開館時間  : 午前 9時30分から午後5時まで(入室は午後4時30分まで)
観 覧 料 : [前売り]一般のみ800円   [当日]一般1,000円 大学生700円  高校生以下無料
関連行事 : 日本美術応援団(山下裕二団長・本展監修者)のメンバーによるトークショー
         会場 富山県水墨美術館映像ホール 定員 120名 日時未定

 鋭い観察眼から生まれた本物と見まがうほどのリアリティ、文様をミリ単位で刻み、彩色し、装飾を施す繊細な手仕事。明治時代、表現力・技術ともに最高レベルに達した日本の工芸品は、万国博覧会にも出品され海外の人々を驚嘆させました。しかし、その多くは外国の収集家や美術館に買い上げられたため、日本で目にする機会にはほとんど恵まれませんでした。
 その知られざる存在となりつつあった明治の工芸の魅力を伝えるべく、長年をかけて今や質・量ともに世界随一と評されるコレクションを築き上げたのが村田理如(むらたまさゆき)氏です。本展では、村田氏の収集による清水三年坂美術館(京都)の所蔵品から選りすぐりの逸品を一堂に紹介します。並河靖之(なみかわやすゆき)らの七宝、正阿弥勝義(しょうあみかつよし)らの金工、柴田是真(しばたぜしん)・白山松哉(しらやましょうさい)らの漆工、旭玉山(あさひぎょくざん)・安藤緑山(あんどうろくざん)の木彫・牙彫をはじめ、京薩摩の焼きものや印籠、刺繍絵画など、多彩なジャンルにわたる約160点の優品をとおして、明治の匠たちが魂をこめた、精密で華麗な「超絶技巧」の世界をお楽しみください。

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昨年の東京三井記念美術館さんから始まり、これまで静岡佐野美術館さん、山口県立美術館さん、郡山市立美術館さんを巡回した展覧会です。

これまでと同じく、光雲の木彫「西王母」「法師狸」が並ぶとのこと。

他にも七宝、金工、自在置物、薩摩焼、象牙彫刻、漆工、刀装具などの逸品が目白押しです。


ちなみに会場の富山県水墨美術館さんは、平成15年(2003)には「高村光太郎と智恵子の世界」展を開催して下さいましたし、光太郎のブロンズ「薄命児男子頭部」(明治38年=1905)、「裸婦坐像」(大正6年=1917頃)を所蔵しています。


お近くの方、ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月16日

昭和28年(1953)の今日、東京中野の料亭ほととぎすで、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」原型完成の報告会に出席しました。

像の制作のため、「十和田国立公園功労者顕彰会」という組織が結成され、光太郎のバックアップがなされました。そのメンバーに対しての報告会で、青森からは副知事の横山武夫が上京し、他に佐藤春夫夫妻、土方定一、藤島宇内、草野心平、小坂圭二、谷口吉郎が参加しました。

この時、光太郎が行った報告のためのメモ書きが現存しています。

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わたなべじゅんこ『歩けば俳人』。

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新刊です。 
2015/4/30 邑書林発行 定価2,000円+税
わたなべじゅんこ著

版元サイトより
 「出会うために歩くのか 歩くから出会うのか」  竹久夢二から寺山修司まで、みんなみんな俳人だった!
主に、俳句以外で名を成した方々の俳人としての姿を追いかける事で、 俳句って何なんだろう? という根本の問に迫ります。

 登場の人々は 竹久夢二  中村吉右衛門  永田青嵐  富田木歩  寺田寅彦  久米正雄  内田百 野田別天楼  室生犀星  高村光太郎 津田青楓  矢野勘治  三木露風  瀧井孝作  寺山修司

 特に青嵐、木歩、寅彦あたりでは、関東大震災と俳句について語られていて、胸に迫るものがあります。 多くの方の手に届けたい一冊、宜しくお願いします。 装は、石原ユキオさんの描き下ろしです。

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著者のわたなべさんは俳人。関西の大学で非常勤講師をされるかたわら、『神戸新聞』さんの読者文芸欄で俳句の選者を務められているそうです。

余談になりますが、『神戸新聞』さんは一面コラム「正平調」でよく光太郎に言及して下さっています。

閑話休題。

本書で取り上げられている人々は、版元サイトにあるとおり、専門の俳人ではありません。しかし、それぞれに独自の境地を開いた人々。まずはそういった面々の俳句を論じて一冊にまとめていることに敬意を表します。

この手の伝統文化系は、それ専門の人物でないとなかなか取り上げない傾向を感じています。いい例が光太郎の短歌や俳句で、それなりに数も遺され、いい作品も多いと思うのですが、短歌雑誌、俳句雑誌での光太郎特集というのは見たことがありません。せいぜい短い論評がなされる程度です。以前にも書きましたが、いったいに短歌雑誌、俳句雑誌の類は派閥の匂いがぷんぷん漂っており、いけません。

そうした意味で、俳句専門の方が専業俳人以外の人々をまとめて論じていらっしゃる姿勢に好感を覚えました。

さて、光太郎の章。主に『高村光太郎全集』第19巻(補遺1)に掲載されている句を中心に、23ページにわたって展開されています。寺田寅彦とならび、もっとも多いページ数を費やして下さっていて、ありがたいかぎりです。他の人物で、9ページしかない章もあります。長さが第一ではありませんが。

長さだけでなく、その内容も秀逸。やはり専門の俳人の方が読むと違った視点になるのだな、と思いました。具体的には、光太郎の句の時期による変遷。

そもそも光太郎の文筆作品の中で、手製の回覧雑誌や、東京美術学校の校友会誌を除き、初めて公のメディアに掲載されたのが、俳句です。明治33年(1900)の『読売新聞』、角田竹冷選「俳句はがき便」に、以下の二句が載りました。

武者一騎大童なり野路の梅
自転車を下りて尿すや朧月

同じ年には『ホトトギス』にも句が掲載されています。ただ、その後、光太郎は与謝野夫妻の新詩社に身を投じ、俳句より短歌に傾倒するようになります。しかし、公にされない句作も続けていました。

わたなべさん、この時期の句は生硬なものとして、あまり評価していません。わたなべさんが転機とするのは、明治39年(1906)からの欧米留学。その終盤の同42年(1909)、旅行先のイタリアから画家の津田青楓にあてて書かれた書簡に、多数の俳句がしたためられています。

例えば、

寺に入れば石の寒さや春の雨
春雨やダンテが曾て住みし家
ドナテロの騎馬像青し春の風

こうした一連の句を、わたなべさんは高く評価しています。

曰く、

……どうしたことか。日本での初期作品よりずっとずっと俳句らしいではないか。頭の中でこねくり回していたのがウソのように、すっきりとした句風である。

それにしても、この句風の変化はいったいどうなのだろう。外国にいるから、一人旅であるから、だから自分の思いに素直になるのか。奇を衒うのをやめるのか。いや、初めて見るものが多くて、あっさりとした作風で仕上がってしまうのか。日本で作られたものと比べてこのイタリアでの句群はわかりやすい。情景も描ける。これは何だと考える必要を感じない。もともと美術家である光太郎の眼は見る力には恵まれていただろう。だから見たものを言語化するときに、どういうバイアスを掛けるのか、そこが言語作家としての腕ということになる。日本的なものに囲まれていたとき(つまり日本にいた頃)には悶々としていた言葉が、こうもオープンに、明るく、そして優しく(易しく)出てきたのは、日本文化という重しがとれたせいなのか。

慧眼ですね。やはり俳句専門の方が読むと、的確に表して下さいます。

ただ、一つ残念なのが、どうも勘違いをされたようで、『高村光太郎全集』第11巻を参照されていないこと。わたなべさんが参照された第19巻は補遺巻です。それでも現在確認できている光太郎の俳句の約半数は掲載されていますが、残り半数は第11巻におさめられています。

そこで、老婆心ながら、出版社気付で第11巻の当該部分、さらに第19巻刊行(平成8年=1996)以降に見つかった句が載ったものなどをコピーして送付しました。改めて光太郎の句について論じてくださる場合があるとしたら、参照していただきたいものです。

ともあれ、良い本です。ぜひお買い求めを。


竹久夢二へのオマージュとなっている装幀もなかなか素晴らしいと思います。手がけられた石橋ユキオ商店さんのブログがこちら


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月17日

昭和12年(1937)の今日、九十九里浜に暮らす智恵子の母・センに宛てて現金書留を送りました。

同封書簡の一節です。

昨今はうつとうしいお天気ですがお変りありませんか、小生はまだ何となく疲れがあつてとうとう今月は病院へ行かずにお会計を為替で送りました。チヱ子も時候のため興奮状態の様子で心配してゐます

翌年に歿する統合失調症の智恵子は南品川のゼームス坂病院に入院中。この年はじめには姪の春子が付き添い看護にあたるようになり、だいぶ落ち着いたそうです。ところが夏になると狂躁状態になるのが常で、この年のこの時期は前年から始めていた紙絵制作も途絶えていたそうです。

光太郎やセンが見舞いに行くと、さらに興奮状態が昂進、光太郎の足が遠のきました。世のジェンダー論者はこうした点から光太郎鬼畜説を唱えていますが、余人にはうかがい知れぬ深い苦悩があったのは間違いないと思います……。

「豚の頭を食う会」。

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先月、花巻高村祭の後で現地調査に訪れた奥州市の人首文庫さんから、お願いしていた数々の資料コピーが届きました。ありがたや。

その中に、光太郎が写っている写真があったということで、こちらのコピーも含まれていました。クリックで拡大します。

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光太郎は中央やや右の方にいます。イメージ 2

これがいつどこで撮られたものかというと、昭和25年(1950)1月18日、盛岡にあった菊屋旅館です。

では、何の集まりかというと、その名も「豚の頭を食う会」。記録が残っています。長くなりますが引用します。

まずは昭和51年(1976)、読売新聞社盛岡支局刊行の『啄木・賢治・光太郎 ―201人の証言―』という書籍の一節です。したがって文中「現在」とあるのは昭和51年の時点です。

 昭和二十五年一月十八日の夕方、菊屋旅館で「豚の頭を食う会」が開かれた。メーン・ゲストはもちろん高村光太郎。これに、“南部の殿さま”南部利英夫妻や盛岡市長、盛岡警察署長、美校(注・岩手県立美術工芸学校)の教授・助教授陣ら約三十人が加わり、豪華な中国料理に舌つづみをうった。
 発起人は深沢省三と堀江赳、それに現在「オームラ洋裁学校」を経営している大村次信の三人だった。この三人が桜山のおでん屋で酒を飲みながら話をまとめ、大村が後日、直接山口に出向いて光太郎を誘った。費用は会費とカンパでまかない、コック長は大村の遠縁で、戦前彼と同じく満州国の「協和会」で一等通訳をしていた浜田敏夫がつとめた。菊屋旅館の台所は数日前から、前述の君子(注・菊屋旅館女将)以下、お手伝いさんたちが仕込みで大騒ぎしていた。
 光太郎は五日前の十三日、盛岡に出て来、教員を対象にした美校の美術講座や「盛岡宮沢賢治の会」の講演会、少年刑務所での講演など多忙なスケジュールをこなしていた。「深沢牧場」を訪問したのはこの翌日になる。
 例えば新聞社でも、夜食にカツドンを食う記者がいれば、同僚から「ほう」という声がもれた時代だ。大村の命名になるこの「豚の頭を食う会」は、翌日の朝刊を写真入りの記事で飾った。その十九日付の地元紙――
<この会は翁(注・光太郎)の日ごろの持論である「日本人の食生活はあやまっている、肉を大いに食うべし、しかも従来日本人の多くはうまい所ばかり食べて臓物や尾など栄養価の高いものを食べていない、豚の頭や牛のシッポを食べなければならない」というのを早速実践に移そうということで計画された>
 この日の献立を挙げておこう。大村ら発起人が出席者に配ったものだが「高度成長」を遂げた二十五年後の今日でも、ちょっとわれわれ庶民の口には入りそうもない。それほど豪華だ。
 <前菜(蒸し肉ほか三種)炒菜(イリ豚肉ほか三種)炸菜(豚の上ロースの天ぷらほか三種) フカのヒレの煮物 コイの丸揚げ 山イモのアメ煮 リンゴの甘煮 豚の白肉の寄せなべ 肉の団子のアンかけ 鶏肉の白玉子とじ アヒルの蒸し焼き カニ玉子 玉子とじ汁 もち米の甘い八目飯 ほかに天津包子>
 どうですか? 実際は「豚の頭」などどこにもない。単にユーモラスな名称以上のものではなかったわけだが、大村も「当日高村さんは席につくなり、ほう、大変なごちそうだねと感心し、次いで、どこに豚の頭が入っているのと聞いた」と笑う。それにしても、光太郎に栄養補給してあげようという大村ら発起人の気持ちはともかく、これだけのものを食べていながら、光太郎が<日本人の食生活はあやまっている>などと記者に語ったのが事実だとすれば、実にいい気なものだといわざるをえない。まだ朝鮮戦争による特需景気もなく、日本人は食べたくても食べられなかった時代だ。


続いて昭和37年(1962)、筑摩書房刊行の『高村光太郎山居七年』(先頃、花巻の高村光太郎記念会より復刊されました)。

 盛岡美校の深沢さんに堀江さん、その友人の大村さん高橋さんの四人が、桜山前のおでんや「多美子」に休んだとき、かわったうまいものの話などが出ました。
 「高村先生を招いて豚の頭を食う会を開こうではないか。」との話がで、皆大賛成です。先生は、頭だの尻尾だの内臓だのに一番栄養があると常々話をしているから、先生に上げみんなも試食しようというわけで、会を開くことにしました。幹事に大村次信さんが当り、日時は美校での講演会の夜、会場は絵が好きで深沢さんと親しくしている菊池正美さんの旅館菊屋にしました。
 次信さんは、今度の会は豚の頭の料理なのだからその通(つう)の人でないとうまい料理が作れそうもないので適材を物色しましたところ、盛中出身の一等通訳で、中国に長くいた浜田年雄さんがその通だというのでそれに頼み、然るべき方々に案内状を出し、又電話をかけました。
 講演会のあとで案内を受けた人々が会場菊屋に集まりました。
 先生は豚の料理を前にして
「日本人は体が小さい。食生活をかえなくては大人(だいじん)になれない。体も心もです。トルストイも一つは大地が育んでいるが一つは食べ物がうんでいる。栄養をうんと摂ることが必要だ。」
 豚の頭の料理を皆で一緒に食べましたが、いろいろの味があり、食べつけない一同は何とも批評ができませんでしたが、先生は蛇の話熊の話動物の叡智など面白く語り、かなり酒もまわって来ました。大いに飲み大気焔になるのもあります。益々まわって来た先生は南の方に向かい両手を畳について
「高山彦久郎ここにあり、はるかに皇居を拝す。」
 と大声をあげ、巨体を前に伏しました。団十郎の声色を真似たのでしょう。酔余の余興ではありましたが、座は粛然と成りました。(大村次信氏談)


同じ大村氏を情報ソースとしながら、微妙に異なるところがありますが、まあ大筋は一致しています。要するに光太郎を囲んでの食事会です。

ちなみに次の日に訪れたという「深沢牧場」は雫石の深沢省三・紅子夫妻の住まい。今年3月に、女優の渡辺えりさんとともに、子息・竜一氏にお話を伺って参りました


当時、盛岡在住だった詩人の佐伯郁郎も「豚の頭を食う会」に出席。そこで、人首文庫さんに上記の写真が残っていたというわけです。人首文庫さんによれば佐伯は最後列の右端です。同じく人首文庫さん情報では、光太郎の左前にいるのは作家の鈴木彦次郎だそうです。

写真には40名弱が写っていますが、当方、顔でわかるのは深沢省三(最後列左端)、深沢紅子(光太郎の右後)、菊池君子(前列左から五人目)ぐらいです。

他に、大村次信、舟越保武、堀江赳、森口多里、佐々木一郎、南部利英、菊池政美といった面々がいるはずなのですが、どれだかわかりません。また、それ以外には名前すら不明です。

写真を見て、これは「うちのじいちゃんだ」というような方がいらっしゃいましたら、ご連絡下さい。ブログ右上のプロフィール欄に連絡先をアップしました。


ところで、昨年、盛岡てがみ館さんで開催された企画展「高村光太郎と岩手の人」で、「豚の頭を食う会」の献立が展示されました。『啄木・賢治・光太郎 ―201人の証言―』に記述があるもので、ガリ版刷りです。これを見た時には、よくぞこういうものを遺しておいてくれた、と、涙が出そうになりました。

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ちなみに発起人の一人、大村次信が経営していたという「オームラ洋裁学校」は「オームラ洋裁教室」と名を変え、存続しているようです。ところが会場の「菊屋旅館」が、ネットではヒットしません。こちらも改名されて、このホテルじゃないか、と推理できるところはあるのですが、はっきりしません。そのあたりご存じの方もご連絡いただければ幸いです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月18日

昭和17年(1942)の今日、日比谷公会堂で日本文学報国会の発会式が開催されました。

「報告会」ではありません。「報国会」です。「七生報国」の「報国」です。定款第三条によれば、

本会ハ全日本文学者ノ総力ヲ結集シテ、皇国ノ伝統ト理想ヲ顕現スル日本文学ヲ確立シ、皇道文化ノ宣揚ニ翼賛スルヲ以テ目的トス

という団体です。

当時の『日本学芸新聞』の報道。

  一堂に会す全日本の文学者 皇道文化創造へ邁進 日本文学報国会力強き第一声

 全日本の文学者を打つて一丸となし、愛国尽忠の至誠烈々として、その総力を集結する「社団法人日本文学報国会」の発会式は六月十八日午後一時から日比谷公会堂に於いて挙行された。
 この日、全国から馳せ参じた三千有余の文学者はもとより、友好団体たる少国民文協、音協出版、文協、都下大学文化学生等参加。甲賀三郎氏(総務部長)司会の下に下村宏氏座長となり、久米正雄常務理事が会務を報告し、会長に徳富猪一郎を推挙、つづいて八部会の各代表の華々しい宣誓に移り――菊池寛(小説部会代表)、太田水穂(短歌部会代表)、河上徹太郎(評論随筆部会代表)、深川正一郎(俳句部会代表)、茅野蕭々(外国文学部会代表)、橋本進吉(国文学部会代表)、尾崎喜八(詩部会代表)、武者小路実篤(劇文学部会代表)――東條翼賛会総裁、谷情報局総裁、文部大臣橋田邦彦氏の祝辞があり、最後に吉川英治氏の提唱で「文学者報道班員に対する感謝決議」を行つたが、この誠に文壇未曾有の盛事に、際会して、全日本文学者の意気凛々として満堂を圧する観があつた。


光太郎は詩部会長でしたが、代表として宣誓を行ったのは尾崎喜八でした。尾崎は光太郎の詩「地理の書」を朗読しています。

山形大学特別プロジェクト 「いま、言葉を東北の灯(ともしび)に」 第8回山形大学高校生朗読コンクール 出場者募集。

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山形からの情報です。 
今年度で8回目の開催となる山形大学恒例の高校生朗読コンクールの 出場者を募集します。今年は、詩人で彫刻家であった高村光太郎の作品を取り上げます。 予選課題文は、福島二本松出身の妻智恵子との思い出を詩と散文で綴った『智恵子抄』から選びました。例年通り、今年も多くの東北地方の高校生の皆様の応募をお待ちしております。

【高校生朗読コンクール概要】
◆予選応募要項
・応募資格:東北6県(青森・秋田・岩手・宮城・山形・福島)在住の高校生、または各県内の高校に在学中の高校生
 ※高等専門学校生は1年生から3年生までとします。 同一高校からの応募人数制限は設けません。
・予選課題:高村光太郎『智恵子抄』所収「智恵子の半生」の部分
       (新潮文庫版(平成15年改版)『智恵子抄』133~135頁)
・応募締切:平成27年6月30日(火)(当日必着)
詳細はこちら

◆本選概要
・日  時:平成27年9月13日(日)13:00~17:00(時刻は予定)
・会  場:山形市中央公民館多目的ホール
      (〒990-0042 山形市七日町一丁目2番39号 アズ七日町6階)
・課  題:高村光太郎氏の著書から、予選通過者それぞれに異なる部分を審査委員会が指定します。
※群読劇「ビルマの竪琴」と同時開催

(お問合せ)
山形大学エンロールメント・マネジメント部社会連携課  (TEL)023-628-4016

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今年で8回目を迎える「山形大学高校生朗読コンクール」。平成23年(2011)からは、東日本大震災を受け、参加資格を東北6県の高校生に広げて実施しています。

今年、初めて光太郎の作品が課題に選ばれましたが、過去7回の課題は以下の通り。

第1回 (平成20年=2008)~第3回(同22年=2010) 藤沢周平
第4回 (同23年=2011)                 井上ひさし
第5回 (同24年=2012)~第7回(同26年=2014)   宮澤賢治

山形出身の藤沢周平、井上ひさしと来て、やはり東日本大震災との関連もあってのことでしょう、ここ3年間は宮澤賢治が取り上げられていました。そして光太郎。光太郎も3年くらい取り上げ続けていただきたいと思います(笑)。


こういう活動を通し、若い世代に光太郎智恵子の世界を深く知ってほしいものです。

9月の本選は一般公開されます。また近くなりましたらご紹介します。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月19日

昭和27年(1952)の今日、青森八甲田山麓の酸ヶ湯温泉に一泊しました。

15日に花巻郊外太田村を発ち、十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)制作のための下見に十和田湖を訪れた流れです。

当日の日記から。

六月十九日 木
晴、 休屋より車にて青森道を走り、酸か湯につく、 入浴、植物園見物、(中略) 酸か湯の大湯めづらし、

酸ヶ湯温泉は大浴場「ヒバ千人風呂」で有名。「大湯めづらし」はそれを指しているのでしょう。「植物園」は今も続く東北大学植物園八甲田山分園です。

次の日は青森市に下り、県庁で津島文治青森県知事(太宰治の実兄)と対面、さらに浅虫温泉に宿泊しました。

当方、酸ヶ湯に宿泊したことはありませんが、昨年、3回十和田に行ったうちの2回、立ち寄りました。

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東京精神科病院協会「心のアート展 創る・観る・感じる パッション――受苦・情念との稀有な出逢い」。

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会場は池袋駅西口の東京芸術劇場。昨秋開催された、書家の金子大蔵氏の個展「近代詩文書の可能性をを探る(高村光太郎の詩を書く)」と同じ場所でした。

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展示のメインは東京精神科病院協会加盟の病院で治療を受けられている方々を中心とする公募作品です。

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今日は午後1時からギャラリートークということで、全員ではありませんが、出品者の方が自作の解説などをしたりなさっていました。

漫画家の吾妻ひでお氏も作品(漫画の生原稿、オブジェ)を出品、トークにもご参加。氏はアルコール中毒での治療経験があるそうです。

会場の一角に、「特集展示 高村智恵子」。

紙絵の複製20数点、智恵子の自筆書簡2通、智恵子と光太郎の文筆作品の掲載誌、詩碑の拓本や光太郎肉筆揮毫などが並んでいました。

紙絵の複製は写真家だった故・高村規撮影の写真をもとに作られたもので、複製でありながらかなり立体感が感じられるものです。

光太郎の散文「智恵子の切抜絵」(昭和14年=1939)や、ほとんど唯一、智恵子紙絵の制作現場を見た姪で看護師の長沼(のち宮崎)春子の回想などが抜粋されてパネルになっており、来場の皆さん、興味深そうにご覧になっていました。

パネルといえば、この展覧会のために書き下ろされた当会顧問北川太一先生の玉稿「智恵子の場合」も。図録にも収録されています。


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こちらが智恵子書簡。

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上は大正2年(1913)、光太郎との上高地婚前旅行のため、二本松の実家に滞在費用を無心する書簡です。封筒が実家の長沼酒店の文字入りというのを初めて知りました。

下は翌大正4年(1915)、前年暮れの上野精養軒での結婚披露の後、二人をとりもった柳敬助夫人八重に送った披露宴参加の礼状です。

だいぶ前に北川先生のお宅で拝見したことがありますが、やはり感慨深いものがあります。流麗な筆跡、保存状態も良く、100年以上経過しているとは思えません。

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こちらは光太郎智恵子の文筆作品などの掲載誌。

さらに図録(1500円)です。

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現代の皆さんの作品と併せ、人間の「表現」に対する欲求のありかた、みたいなことを考えさせられる展覧会でした。

外界に向かって、何かを表現せずには居られないのが人間だと思います。それが造形芸術の形を取ったり、文筆作品の形を取ったり、はたまた音楽でそれが表現されたり、または身体を使ってのパフォーマンス、そう考えるとスポーツもそういう面があるかも知れません。

そうした行為を通し、自己表現、さらには自分の中でバランスを取ることにもつながるのではないか、などと思いながらこの展覧会を拝見しました。


会期は短くて残念ですが、明日(6/21・日曜日)まで。明日も13:00~ギャラリートークが催されます。入場は無料。ぜひ足をお運び下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月20日イメージ 14

昭和57年(1982)の今日、桜楓社から潟沼誠二著 『高村光太郎におけるアメリカ』 が刊行されました。

明治39年(1906)から3年余り、光太郎はアメリカ、イギリス、フランスに留学しました。さらにその最後の頃にはスイス経由でイタリア旅行も。

その中で、一番長く滞在していたのはアメリカ・ニューヨークです。

光太郎の留学というと、パリでの体験が大きく取り上げられますが、やはり一番長く滞在していたアメリカでの体験も見過ごせない、ということで書かれたのが本書です。

表紙はアメリカの観光案内でよく使われるマウント・ラッシュモアの巨大彫刻。ワシントン、リンカーン、ジェファーソン、ルーズベルトという4人の大統領の肖像です。この作者のガットソン・ボーグラムに光太郎は師事しました。

ひと月限りの<ぽえむ・ぱろうる>。

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昨日、池袋の東京芸術劇場に「東京精神科病院協会 心のアート展 創る・観る・感じる パッション――受苦・情念との稀有な出逢い」を観に行った足で、同じ池袋の大型書店「リブロ池袋本店」さんに行きました。

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同店は7月20日(月)をもって閉店だそうで、前身の西武ブックセンターが昭和50年(1975)に開店して以来の40年の歴史に幕が閉じられます。以前は西武百貨店池袋店の中にあり、その一角に「ぽえむ・ぱろうる」という詩の本のコーナーがあって、学生時代には時折足を運んでいました。「ああ、そういうコーナー、あったなあ」とご記憶の方も多いのではないでしょうか。

当方、光太郎関連では、思潮社さんから昭和55年(1980)に刊行された『現代詩文庫 1018 高村光太郎』をここで購入した記憶があります。他に当時興味を持っていた故・吉野弘氏、故・川崎洋氏、谷川俊太郎氏の詩集なども。

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「ぽえむ・ぱろうる」は、西武ブックセンターからリブロさんへの移行に伴い、平成18年(2006)にいったんなくなりました。それがこのたび、リブロさんの閉店を受け、ひと月限りの復活となっています。

少し前に自宅兼事務所に届いた練馬の古書店『石神井書林』さんの目録にその旨の記述があって知りました。同店は詩関係の古書が専門です。

調べてみると、今月9日の『朝日新聞』さんの読書面にも記事が載ったらしいのですが、見落としていました。

 閉店が決まった東京・池袋のリブロ本店2階に、詩の本の専門店「ぽえむ・ぱろうる」が9年ぶりに復活しました。7月20日までの期間限定。サイン入り詩集やリトルプレスが平台に置かれ、壁棚には1968年以降の『現代詩手帖(てちょう)』(思潮社)のバックナンバーがずらり。大岡信さんや谷川俊太郎さんらの直筆原稿も展示されています。
 静かな熱気に包まれるなか、谷川さんが43歳の頃に刊行された『定義』(同)が目に留まりました。帯には「詩の曖昧(あいまい)さを突破(つきやぶ)った実験詩集」の一節。詩とは何かを問い続けた詩人は40年後、初の書き下ろし詩集を発表しました。次の面で書評を掲載しています。

商品のラインナップは昔のまま、とは行きませんが、記事にあるとおり、思潮社さんの『現代詩手帖』のバックナンバーがずらりと並んでいたり、懐かしさで胸がいっぱいになりました。

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また、石神井書林さんの商品(古書)も並んでいました。光太郎と仲の良かった木下木太郎の詩集など、食指が動いたのですが、財布の中身が心許なく、断念。

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さらに帰ってから調べてみると、来週には谷川俊太郎氏のサイン会もあるとのこと。谷川氏、先週はNHKさんの「あさイチ」にもご出演されるなど、御年83歳にしてまだまだお元気ですね。

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詩を愛するみなさん、ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月21日

平成7年(1995)の今日、J-POPバンド・ヤプーズのCDアルバム「HYS」がリリースされました。

ヴォーカルは女優としても活躍されていた戸川純さん。

光太郎の詩「山麓の二人」からのインスパイアで「あたしもうぢき駄目になる」という曲が収められています。智恵子視点の歌詞です。


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巣鴨妙行寺・うなぎ供養塔。

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一昨日、東京池袋で「東京精神科病院協会 心のアート展 創る・観る・感じる パッション――受苦・情念との稀有な出逢い」、さらにリブロ池袋本店内のぽえむ・ぱろうるに行った後、JRから地下鉄に乗り換える都合もありまして、巣鴨にも立ち寄りました。

上京した際には複数の用件を済ませるのを基本としており、さらにこのブログのためのネタ拾いという意味合いもあります。

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こちらがかの有名なとげ抜き地蔵・高岩寺さん。巣鴨といえば、「おばあちゃんの原宿」ですが、目的地はこちらではなく、高岩寺さんを横目に中山道(国道17号)を北上、右手の路地を入っていった西巣鴨4丁目にある妙行寺さんというお寺です。こちらの境内に、光雲作の観音像が露座で鎮座なさっているという事だけは知っておりまして、行ってみようと思った次第です。

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めざす妙行寺さんのすぐ近くを、都電荒川線が走っていました。あとで地図を見たところ、巣鴨駅で下りて歩くより、地下鉄三田線の西巣鴨駅、または大塚駅から都電に乗り換え、新庚申塚という駅で下りればすぐでした。巣鴨という地名だけを頼りに、巣鴨駅の近くだろうと、あまり調べもせず行ったので失敗しました。巣鴨駅からはけっこうありました。

さて、妙行寺さん。100㍍ほどのところを国道17号が走っているにもかかわらず、境内は静かな雰囲気でした。本堂やら仏塔やら、いい風情でした。

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目的の光雲作の観音像もすぐに見つかりました。

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光雲作の特徴をよく顕し、優美なお姿です。今年3月に拝観して参りました、紅葉の季節にはライトアップもされる京都・知恩院さんの観音像と相通じる雰囲気です。

しかし、台座の石柱に「うなぎ供養塔」の文字。「なんじゃ、そりゃ?」です。

観音像を含むこの塔が、東京うなぎ蒲焼商組合などの発願で建立されたものでした。細かな場所もそうでしたが、どういう像があるのかもろくに調べずに行ったので、存じませんでした。

台座の側面には、加盟店の名がずらり。

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イメージ 13背面には「原型者 高村光雲先生  鋳造者 渡辺長男先生  昭和三十五年五月二十日建立」の文字。光雲が歿したのは昭和9年(1934)ですから、歿後かなり経ってから鋳造されたものということになります。そういうケースも少なくないので、この点はあまり意外ではありません。

鋳造者は渡辺長男(おさお)となっています。「あれっ」と思いました。渡辺は日本橋の麒麟などの彫刻を造った彫刻家です。彫刻制作だけでなく、鋳造も手がけていたのか、と思いました。

帰ってから調べてみると、渡辺の義父は岡崎雪声。岡崎は鋳金家で、やはり光雲がらみの楠公銅像や、やはり日本橋の麒麟などの鋳造に携わっています。娘婿の渡辺もそうした関係で鋳造の技術を身につけていたのかも知れません。

しかし、渡辺の没年は昭和27年(1952)。妙行寺さんの「うなぎ供養塔」の建立は昭和35年(1960)。像の鋳造だけは
先に行われていたということでしょうか。

目指す観音像を拝観し終え、境内をぶらつきました。すると、こんなものが。




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「四谷怪談お岩様の寺」という碑です。

これも存じませんでしたが、妙行寺さんにはお岩さんの墓があるとのことで、驚きました。歌舞伎などで「四谷怪談」を上演する際には、関係者が必ずお岩さんの墓参りをするという話は聞いたことがありましたが、それがまさかここだとは……。てっきりお岩さんの墓も四谷近辺にあるとばかり思っていました。

やはり帰ってから調べたところ、妙行寺さん、元は四谷の隣の信濃町にあって、明治になってから巣鴨に移転したとのこと。それなら納得です。

光雲作の観音像、うなぎだけでなく、お岩さんの魂も供養していただきたいものです。


この手の光雲が原型を手がけた仏像のたぐいは、都内のあちこちの寺院で見ることが出来ます。浅草寺の沙竭羅龍王像などもその一つ。また折を見て他の寺院の像を拝観し、レポートしたいと思っております。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月22日

明治43年(1910)の今日、智恵子が旧制米沢中学の生徒・鈴木謙二郎に宛てて葉書を書きました。

実はねからだがあまり思はしくなかつたのであれから今迄房州に行て居りましたのです 昨夕帰て御はがきを拝見しました さうでしたか けふは廿二日 もう退院なすつたかとも存じますが如何です 其後の御経過はお宜しいですか 其中都合して病院ならば御伺したいと思ますが女は不自由で困ります、まァ折角御摂養して御全快の程祈上ます

鈴木は智恵子の七歳年下。明治40年(1907)、智恵子が父と弟と共に、福島県北部の原釜海岸にあった金波館という旅館での潮湯治(海水浴をそう呼んでいました)逗留中に知り合い、以後、姉弟のように文通をするようになりました。この書簡の「実はね」という書き出しも姉のような雰囲気ですね。

智恵子から鈴木宛の書簡は17通確認されています。智恵子の書簡は70通ほどしか見つかっていません(まだまだどこかに眠っていそうですが)ので、そのうちの17通というのは、かなりのパーセントです。

鈴木はこの時、東京帝大病院の耳鼻科病棟に入院していたとのこと。

沖縄慰霊の日/「琉球決戦」。

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今日、6月23日は、「沖縄慰霊の日」です。

太平洋戦争末期であった昭和20年(1945)、3月から始まった住民を巻き込んでの沖縄戦で、組織的な戦闘が終結したのが6月23日。それが由来です。

この戦闘による犠牲者は日米英あわせて約20万人。他の局地戦と異なり、戦闘に巻き込まれたり、集団自決をしたりで、多数の民間人が犠牲になっています。

さて、昨日の沖縄の地方紙『沖縄タイムス』に掲載された一面コラムです。 

大弦小弦

2015年6月22日

名護市の私設博物館「民俗資料博物館」が1945年の新聞、365日分を展示している。沖縄戦の記録として、館長の眞嘉比朝政さん(78)が8年かけて集めた
▼新聞は全て本土から。壕で発行された沖縄新報は5月25日で途絶え、戦火でほぼ失われたからだ。眞嘉比さんは「沖縄以外の新聞社の記事で沖縄戦が分かるのは皮肉」と言う
▼色あせた新聞を手に取ると、本土の視点が分かる。沖縄本島に米軍が上陸した直後の4月3日。朝日新聞は高村光太郎の詩「琉球決戦」を掲載した。「琉球やまことに日本の頸(けい)動脈」「琉球を守れ、琉球に於(おい)て勝て」と、抗戦を訴える
▼軍部は負け戦を重々承知だった。敗北が迫った6月15日、毎日新聞は鈴木貫太郎首相の会見を報じる。「私は沖縄を天王山としていない」「あまり沖縄のみを強調して国民の意志を弱めることは好まぬ」と手のひらを返した
▼組織的戦闘が終わった26日。北海道新聞の社説は「沖縄の戦いによって稼いだ『時』はわが本土の防衛態勢を強化せしめ」と、捨て石作戦の性格を露骨に書いた。結局、「本土決戦」はなかった
▼沖縄は昭和天皇の「メッセージ」で米国に差し出され、日本復帰後も基地を背負い続ける。原点である慰霊の日が巡ってくる。70年。かくも長く終わらない不正義を、誰が想像できただろうか。(阿部岳)


引用されている「琉球決戦」、手許の資料によれば『朝日新聞』への発表は4月2日。『沖縄タイムス』さんでは3日となっていますが、東京版でない版で、1日遅れの掲載という可能性が考えられます。

全文はこうです。

   琉球決戦

 神聖オモロ草子の国琉球、
 つひに大東亜最大の決戦場となる。
 敵は獅子の一撃を期して総力を集め、
 この珠玉の島うるはしの山原谷茶(さんばるたんちや)、
 万座毛(まんざまう)の緑野(りよくや)、梯伍(でいご)の花の紅(くれなゐ)に、
 あらゆる暴力を傾け注がんずる。
 琉球やまことに日本の頸動脈、
 万事ここにかかり万端ここに経絡す。
 琉球を守れ、琉球に於て勝て。
 全日本の全日本人よ、
 琉球のために全力をあげよ。
 敵すでに犠牲を惜しまず、
 これ吾が神機の到来なり。
 全日本の全日本人よ、
 起つて琉球に血液を送れ。
 ああ恩納(おんな)ナビの末裔熱血の同胞等よ、
 蒲葵(くば)の葉かげに身を伏して
 弾雨を凌ぎ兵火を抑へ、
 猛然出でて賊敵を誅戮し尽せよ。


戦後の今だから言えるのかも知れませんが、何をか言わんや、の感がぬぐえません。「全日本の全日本人よ、琉球のために全力をあげよ。」「全日本の全日本人よ、起つて琉球に血液を送れ。」。そんな余裕がどこにあったというのでしょうか。

戦艦「大和」による沖縄特攻が行われたのはこの詩が発表された5日後の4月7日。なるほど、「起つて琉球に血液を送れ」の実行かも知れません。しかし、米軍に制空権を奪われ、航空機部隊の援護もない中での鈍重な艦艇の出撃など、失敗に終わるのは目に見えています。それでも実行したのは「玉砕」の二文字の持つ魔力、とでもいいましょうか、「生きて虜囚の辱を受けず」の精神でしょうか。上層部はそれでいいのかも知れませんが、巻き添えにされる下々の兵卒はたまったものではありません。

そして沖縄でも多数の民間人犠牲者。どこが「吾が神機の到来なり」だったのでしょうか。


こうした愚にもつかない空虚な戦争協力詩を乱発し、多くの前途有為な若者に「命を捧げよ」と鼓舞し続けたことを恥じ、かつ反省し、戦後の光太郎は岩手の不自由な山中に「自己流謫(じこるたく)」の毎日を送る決断をしました。「流謫」は「流刑」に同じ。公的に戦犯として処されることのなかった光太郎は、自分で自分を罰することにしたわけです。

しかし、沖縄戦の実態などは、GHQによる報道管制などの影響もあり、戦後になっても一般国民には余り知らされませんでした。昭和25年(1950)には有名な石野径一郎の小説『ひめゆりの塔』が刊行されましたが、光太郎、これを読んだ形跡がありません。もし読んでいたら、自作の「琉球決戦」と併せ、どのような感想を持ったか、興味深いところです。
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ところで、今日行われる沖縄全戦没者追悼式に、集団的自衛権とやらの濫用を目論み、普天間基地移設問題では知事を門前払いにしたあの人も出席するのですね。「弾雨を凌ぎ兵火を抑へ、/猛然出でて賊敵を誅戮し尽せよ。」という国にするのが目標としか思えないのですが。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月23日

昭和48年(1973)の今日、岩波書店から三田博雄著 『山の思想史』 が刊行されました。

山岳雑誌『岳人』に連載されたものに加筆修正し、「岩波新書」の一冊として刊行。北村透谷、志賀重昂、木暮理太郎ら、山を愛した近代知識人を取り上げています。

光太郎の項では、青年期に訪れた赤城山と上高地、智恵子の故郷・福島の安達太良山、そして戦後の花巻郊外の太田村での山居について紹介しています。

「沼津に足跡残す高村智恵子」。

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智恵子と同じ太平洋画会(現・太平洋美術会)、さらに高村光太郎研究会に所属され、3年前に『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡』という書籍を出版された坂本富江さんから、情報の提供をいただきました。

近々、『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡』の増補改訂版を刊行されるそうで、そのために訪れた静岡は沼津でのお話です。

概要をわかりやすくするために、坂本さんから戴いた地方紙『沼津朝日』さんの記事を引用します。今月9日の記事です。記事中の明らかな誤り(年号など)は訂正しました。 

沼津に足跡残す高村智恵子 ゆかりの大熊家の所在知りませんか 智恵子が描いた一枚の絵 エッセイストがモデルの木を探す

 高村光太郎の詩集『智恵子抄』でも知られる光太郎の妻、高村智恵子と沼津とのゆかりを調べている人がいる。エッセイストの坂本富江さん(東京都板橋区)で、智恵子が寄留した白銀町の大熊家についての情報提供を呼び掛けている。

 高村智恵子(一八八六~一九三八)は、福島県安達郡油井村(現二本松市)の長沼家に生まれた。福島高等女学校を経て日本女子大学校に入学し、洋画家の道に進む。一九一一年に光太郎に出会い、一四年に結婚。その後、精神的な不調を経験し、三八年に病没した。四一年、『智恵子抄』刊行。
 画家としても活躍した智恵子は多くの作品を手掛けたが、現存している油絵は三点しかないという。そのうちの一つで清春白樺美術館(山梨県北杜市)が所蔵している「樟(くす)」は、沼津市内で描かれた。
 高等女学校時代の智恵子には大熊ヤスという親友がいた。ヤスの家は父の転勤により転居を繰り返していたが、現在の沼津市内の白銀町に家を構えていたことがあった。智恵子が沼津を訪れたのは、この縁によるもので、一九〇六年には智恵子とヤスの二人で富士登山をしている。
 その後、ヤスは沼津中学校(現沼津東高)の教員をしていた上野直記と結婚。ヤスは夫の転勤により一九一三年に朝鮮半島に渡ったが、ヤスの母と特別な信頼関係があった智恵子は、ヤスの転居後も白銀町の大熊家をたびたび訪れていて、「樟」は、この間に描かれた。
 山梨県韮崎市出身の坂本さんは、小学生の頃から詩に興味があり、『智恵子抄』や『道程』といった高村光太郎の作品群に親しんでいた。
 そこから智恵子に強い関心を抱くようになり、地元近くの清春白樺美術館で「樟」を見たのがきっかけとなり、智恵子ゆかりの地を訪ねてスケッチや文章などの創作を続けた。それらをまとめてエッセイ集『スケッチで訪ねる「智恵子抄」の旅』を出版したところ、好評のため商業出版された。
 今回、同書の増補改訂版の出版が予定されていて、坂本さんは準備を進めている。その中でも特に力を入れているのが、「樟」のモデルとなった木の特定だ。
 モデルについては、二説がある。一つは、大熊家の近くにあった沼津尋常小学校(現一小)の校庭の木で、校庭の北端にある道喜塚周辺の木であるというもの。もう一つの説は、大熊家の庭にあった木。
 大熊家は戦後しばらく白銀町にあったものの、転居してしまったため、その正確な場所は不明。坂本さんは、この大熊家の位置に関する情報と、ヤスが嫁いだ上野家の消息に関する情報を集めている。
 心当たりのある方は市歴史民俗資料館(電話九三二 - 六二六六)まで。
 
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問題の絵はこちらです。

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記事にあるとおり、山梨県の清春白樺美術館さんで展示されています。

沼津のこの木は、当方も以前から気になっていて、現地調査に行こうと思いながらなかなか機会がなかったのですが、坂本さんは都合6回も沼津に行かれたそうです。その結果、沼津第一小学校さんや沼津市歴史民俗資料館さんなどのご協力で、問題の木は沼津第一小さんの敷地内に健在の木、ということがほぼ確定したとお便りを戴きました。

詳細は、近々刊行されるという、『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡』の増補改訂版にて紹介されるはずですので、期待したいと思います。

その他、沼津の大熊家、上野家などについての情報をお持ちの方は、記事にあるとおり、歴史民俗資料館さん、または当方までご教示いただければ幸いです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月24日

平成4年(1992)の今日、東芝EMIから朗読CD「音楽のある星に生きて」シリーズの「空」と「大地」がリリースされました。

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それぞれ、ヒーリング系のBGMにのせて、古今の名詩が朗読されています。

「空」は、詩人の工藤直子さんの選、壇ふみさんの朗読で、光太郎詩「青空」(昭和3年=1928)が収められています。

「大地」の選は作家の立松和平さん、朗読は森本レオさん。収められている光太郎詩は「案内」(昭和24年=1949)です。

ついでに同じラインナップで「森」が前月に出ています。選・工藤直子さん、朗読、真行寺君枝さん、光太郎詩は「新緑の頃」(昭和15年=1940)です。


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