8月9日(金)に行われた、第28回女川光太郎祭の前に、会場のまちなか交流館さん付近あちこちを廻りました。女川町の現状ということで、ご紹介します。
朝6時、起床。宿泊先のトレーラーハウス・エルファロさんでの朝食前に、まず元の海岸公園にある光太郎文学碑を見に行きました。
1年ぶりでしたが、1年前と同じ状況。しかし、その後、昨日も書きましたが、女川光太郎祭の中で、須田善明町長が来年の今頃には再建されているかもしれないとおっしゃって下さいました。
宿に戻って朝食。続いて宿に隣接するJR石巻線女川駅の駅舎に併設された入浴施設、女川温泉ゆぽっぽさんへ。エルファロさんの部屋にもユニットバスがあるのですが、やはりゆったり足をのばしたいもので。
ここの2階がゆぽっぽさんです。
展望テラスから見た駅前の街並み。
昨年は入る機会を逸していましたので、2年ぶりでした。
帰りがけ、1階の売店で、書籍を購入。仙台の株式会社プレスアートさんが今年3月に発行なさった『女川 復幸の教科書』(定価1,000円+税)。A4サイズより一回り大きい、100ページほどのムックです。
東日本大震災から8年間の、女川町「復幸」(「復興」ではないそうで)の歩みをメインとしていまして、興味深く拝読しました。巻頭近くの「女川ヒストリー」という項では、光太郎の女川訪問に触れて下さっていました。また、光太郎文学碑の精神を受け継いで、100円募金で資金を集め、建立され続けている「いのちの石碑」についての記事、女川光太郎祭を主催されている女川光太郎の会の佐々木英子さんのお店、佐々木釣具店の紹介なども。あの津波で亡くなった、元女川光太郎の会事務局長・貝(佐々木)廣さんの名も。
女川駅構内には、新たな碑も建っていました。今年三月の建立だそうで。
碑陰記に拠れば、周辺の造成工事の完了を記念してのもののようです。
つづいて、新築の町役場へ。
上の画像でいうと右上、テラス的な一角には、昨年の9月、東日本大震災で亡くなった方々への慰霊碑が建立されています。
当時の町民の約1割にも達した犠牲者全員の名が刻まれています。貝(佐々木)廣さんの名も。右下は女川光太郎祭会場に飾られた遺影です。
役場の建物の中に、女川つながる図書館さんがあり、そちらへ。
こちらでは、ミニ展示「詩人・彫刻家高村光太郎と女川」が開催中です。光太郎の著書や、当会顧問・北川太一先生のご著書などが並んでいました。
こちら自体に所蔵のないものは、県立図書館さんから借りてこられたようでした。
光太郎がこの地を訪れた昭和6年(1931)頃の古写真もあり、興味深く拝見しました。
この魚市場の光景を見て、文学碑にも刻まれた詩「よしきり鮫」(昭和12年=1937)が執筆されたわけです。
よしきり鮫
眼をあけて死んでゐる君もうろくづ。
女川(をながは)の水揚場に真珠いろの腹はぬらりと光る。
どうしても君の口は女のももをくはへるやうに出来てゐる。
難破船をかぎつけると君はひらりとからだをひるがへし、
倒さになつてそれは愛撫に似たすれちがひに
やはらかな女のももをぐいともぎる。![イメージ 27]()
君の鋸歯は骨を切る。
君は脂肪でぎらぎらする。
君の鰭は広東港へ高價で売られ、
君の駄肉はかまぼことなる。
くひちぎる事の快さを知るものは、
君の不思議な魅力ある隠れた口に
総毛だつやうな慾情を感じて見つめる、
このコンクリートの水揚場の朝河岸に
からころとやつて来る浴衣がけのあの餌(えさ)どもを。
「うろくづ」は魚を表す古語です。故・貝(佐々木)廣さん、高校時代にこの詩に出会い、「うろくづ」の意味が分からず、先生に訊いたそうです。すると訊かれた先生もご存じなかったようで「うろつく、の間違いじゃないのか」とのたまったとのこと。貝(佐々木)さん、「そんなわきゃないだろう」とご自分で調べ、それが光太郎にのめり込む一つのきっかけだったと、生前におっしゃっていました。
画像は昭和6年(1931)、新聞『時事新報』に連載された光太郎の紀行文「三陸廻り」に添えられた光太郎自筆のカット。「女川のしミ」と題されています。「しミ」は「しび」で、「鮪」。マグロ類のやはり古称です。
地方紙『石巻かほく』さんに、「詩人・彫刻家高村光太郎と女川」展の記事が出ています。
女川と光太郎の関わり紹介 13日まで特別展
女川町とゆかりが深い高村光太郎(1883~1956)
にちなんだ特別展「詩人・彫刻家高村光太郎と女川~えにしをつなごう」が7日、町生涯学習センター内にある「女川つながる図書館」で始まった。
光太郎が1931年に女川を訪れてから今年で88年目を迎える。「光太郎と女川との関わりを多くの人に知ってもらおう」と、今回初めて企画した。
国語の教科書に掲載されるなど有名な「道程」の復刻版や「智恵子抄」をはじめ、1920年発刊の光太郎訳「續 ロダンの言葉」、光太郎と女川の関わりを分かりやすく知ることができる「光太郎 智恵子 うつくしきもの」(光太郎・北川太一著)など関連著作約40点を展示した。
来場者には1931年前後の女川の様子を頭に浮かべてもらうため、当時の女川港やカツオ船の水揚げ風景といった白黒写真も飾り、来場者の関心を集めている。希望者がいれば、折り紙でのしおり作りや、「道程」「レモン哀歌」の朗読なども行う。
図書館で同級生2人と簿記の勉強をしていた石巻商高1年の男子生徒(16)は「高村光太郎という名は正直知らなかった。これから勉強したい」と話し、著作物などを見ていた。
町教委生涯学習課の社会教育指導員加納純一郎さんは「大人でも光太郎と女川との関わりを知っている人は意外と少ない」と説明。町民のほか、光太郎、文学ファンの来場を呼び掛けている。
特別展は13日まで。時間は月~金が午前10時から午後8時まで。土日祝日は午後5時まで。入場無料。
その後、まちなか交流館さんへ移動、第28回女川光太郎祭に参加させていただきまして、昨日のレポートの内容につながります。
明日は、翌日、女川を後に訪れた同じ宮城県の気仙沼レポートをお届けいたします。
【折々のことば・光太郎】
死を超えて人大なり 短句揮毫 戦後
津波に呑み込まれて亡くなり、しかしそのご遺徳を慕って今も女川に人々を集め続ける貝(佐々木)廣さんを思わずにいられない一言です。