新刊、というか旧刊の復刻です。
2016年8月10日 講談社(講談社文芸文庫) 室生犀星著 定価1,400円+税
「各詩人の人がらから潜って往って、詩を解くより外に私に方針はなかった。私はそのようにして書き、これに間違いないことを知った」。藤村、光太郎、暮鳥、白秋、朔太郎から釈迢空、千家元麿、百田宗治、堀辰雄、津村信夫、立原道造まで。親交のあった十一名の詩人の生身の姿と、その言葉に託した詩魂を優しく照射し、いまなお深く胸を打つ、毎日出版文化賞受賞の名作。
元々は、光太郎と交流のあった室生犀星が、昭和33年(1958)、雑誌『婦人公論』に連載したものを、同誌版元の中央公論社で単行本化しました。その後、文庫本として復刻されましたが、そちらも版を絶っていたので、今回の復刻は非常に意義のあるものです。
光太郎の回は、光太郎を尊敬しつつも、シニカルな見方をし、しかしやっぱり敬愛せざるをえない、といった複雑な心境が見て取れ、興味深い内容です。
ところで、18日の日曜日、『毎日新聞』さんに、詩人の荒川洋治さんによる書評が載りました。
今週の本棚 荒川洋治・評『我が愛する詩人の伝記』=室生犀星・著
遠近の人々をめぐる心の回想
野趣にあふれ、鋭い省察が随所にみられる。時代が変わっても読む人の胸に強くひびく名著だ。
「ふるさとは遠きにありて思ふもの」の詩句で知られる室生犀星(一八八九−一九六二)は日本の近代詩を切りひらいた。小説でも幾多の名作を書いた。犀星には、六九歳のときの回想『我が愛する詩人の伝記』(中央公論社・一九五八)がある。新装普及版(同・一九六〇)、新潮文庫(一九六六)、中公文庫(一九七四)につづき、このほど講談社文芸文庫に。解説は、鹿島茂。
対象は、親交のあった明治・大正・昭和期の詩人。生年順では島崎藤村、高村光太郎、山村暮鳥、北原白秋、萩原朔太郎、釈〓空(折口信夫)、千家元麿(以上、犀星より年上)、百田宗治、堀辰雄、津村信夫、立原道造(以上、年下)の一一人の故人。人名が、そのまま表題となる。
「北原白秋」。若き犀星は、白秋の詩誌を注文し田舎の郵便局から為替で送金。「たったこれだけのことでも、月給八円もらっている男にとっては大したふんぱつであり、そのために詩というものに莫大(ばくだい)なつながりが感じられた」。白秋の雑誌に投稿。「ふるさとは遠きにありて」の詩稿も含まれていた。それらは「一章の削減もなく全稿が掲載され、私はめまいと躍動」を感じた。後年白秋は語った。犀星の字は拙い。なぜ載せたか。「字は字になっていないが詩は詩になっていた」と。犀星は書く。「彼は妙な愛情で私の字の拙いことを心から罵(ののし)ってくれた」。
「高村光太郎」。さほど年長でもないのに、いちはやく登場した光太郎の存在に、犀星はざわつく。「誰でも文学をまなぶほどの人間は、何時も先(さ)きに出た奴(やつ)の印刷に脅かされる。いちど詩とか小説で名前が印刷されるということは傍若無人な暴力となって、まだ印刷されたことのない不倖(ふこう)な人間を怯(おび)えさせ、おこりを病むようにがたがた震えを起させるものである」。当時、詩が活字になって印刷されるのは、無名詩人には夢のようなこと。印刷ということばは、まばゆさの象徴である。
高村光太郎の妻、智恵子の印象はよくなかった。訪ねると、光太郎は留守だった。智恵子はのぞき窓のカーテン越しに、冷たくあしらう。愛する夫には忠実な智恵子。でも「私それ自身は彼女に一疋(いっぴき)の昆虫にも値しなかった。吹けば飛ぶような青書生の訪問者なぞもんだいではないのだ」。このあと、こう書く。「それでいいのだ、女の人が生き抜くときには選ばれた一人の男が名の神であって、あとは塵(ちり)あくたの類であっていいのである」。
先に世に出たものの「印刷」におびえると書く。「塵あくたの類」であって当然と書く。よく見ると、いずれも凡庸な見解だが、正直にまっすぐに書くので、強く迫る。心の回想はつづく。
次は「堀辰雄」と「立原道造」。
堀辰雄のお母さんは、「堀がいまに本を書く人になることを考えて、或(あ)る製本屋に近づきがあったので態々(わざわざ)菓子折を提げ、うちの子の本が出るようになったら、どうかよい本に製(つく)ってやって下さいと、挨拶(あいさつ)にゆかれたそうである」。その母親は、堀辰雄が世に出る前に亡くなる。息子の本を一冊も見ることなく亡くなる。印刷、製本。それが文学なのだ。印刷、製本の夢をみる。それは犀星の夢でもあった。夢がかなえられても、まだ夢であった。それが詩人の生涯なのだろう。
立原道造は、軽井沢の犀星の家にやってくると、木の椅子に腰を下ろして、いつも眠っている。「僕の詩でも、ラジオで放送してくれることがあるでしょうかしら、してくれると嬉(うれ)しいんだがナ」という青年だ。「誰でも持つ初期の心配をたくさんに持っていた」。犀星は、二四歳で亡くなった立原道造の詩が、そのあと多くの人に愛され、何度も全集が出た点を記す。印刷、製本の次は、ラジオ。読んでいくと、文学そのものの自伝を開く心地になる。
最後の章は「島崎藤村」。気むずかしい大家藤村に、犀星は近づけない。会っても話ができない、遠い人だ。それで人から聞いた話にする。
藤村が軽井沢の旅館に泊まったとき、世話をしてきた婦人から、色紙をたのまれる。「藤村は機嫌好(よ)く一字ずつ、念を入れて書いていた」と犀星は記す。「信州の片田舎の旅館の朝の間にも、対手に島崎藤村という者をしたたか認めさせたかったのだ」「わが島崎藤村は生きた一人の女性から充分にみとめられ、あがめられて余韻なきものであった」。この場面。詩人というものを伝える視点としては通俗的かもしれない。だが誰にも見えないものをとらえて書き切る。みごとなものだ。
はっきりとはわからないけれど、何もかもが凄(すご)い、ということがわかった。ガラス一枚向こうには俗臭が漂う。だがそんなところでも詩人たちはすなおに懸命に過ごした。生きるしるしを残したのだと思う。本書に現れるのは詩を書く人たちだけではない。苦しむことを知りながら、すなおに生きようとする人たちの姿である。
ぜひお買い求め下さい。
【折々の歌と句・光太郎】
花巻の松庵寺にて母にあふはははリンゴを食べたまひけり
昭和22年(1947) 光太郎65歳
「松庵寺」は花巻市街にある古刹です。昭和20年(1945)から足かけ8年の花巻町、及び郊外太田村在住時代、光太郎はこの寺で、毎年のように父・光雲、妻・智恵子の法要を行ってもらっていました。昭和22年(1947)には、母・わかの二十三回忌法要も兼ねました。その際の作です。
昭和48年(1973)には、この歌の光太郎自筆揮毫を刻んだ碑が、松庵寺に建てられています。
今日、9/21は花巻の産んだ天才詩人・宮沢賢治の命日「賢治忌」です。午後4時半から、花巻市桜町の、光太郎が揮毫した賢治詩碑前広場にて、「賢治祭パート2 《追悼と感謝をこめて》」が開催されます。プログラム中に当方の講話も盛り込まれており、これから花巻に向かいます。