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鎌倉 笛ギャラリー「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情 その五 鎌倉における光太郎と喜八」/静岡湖西市南部地区構造改善センター成人講座「詩のこころを読む」。

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詩の関係で2件。

まずは神奈川県鎌倉市から。 

回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情 その五 鎌倉における光太郎と喜八

期  日 : 2016年10月2日(日)~11月1日(火)
場  所 : 笛ギャラリー 神奈川県鎌倉市山ノ内215 0467-22-4484
時   間 : 10:00~16:00
休業日  : 毎週月・水・木 10/15(土) 10/30(日)

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北鎌倉の明月院さん近くにあるカフェ兼ギャラリー、店内でコンサートも行う笛ギャラリーさん。店主の山端夫妻は、光太郎の親族です(先々代の奥様が光太郎の妹)。また、近くに光太郎と縁の深かった詩人の尾崎喜八の自宅があり、そちらとも交流がありました。

そういうわけで、毎年この時期に、山端家、尾崎家などに遺された資料を使っての「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情」という展示をなさっています。一昨年昨年とお邪魔しまして、興味深く拝見して参りました。今年で五回目。うっかりしており、既に始まってしまっていました。

観覧料金としては無料。ただ、カフェですので珈琲の一杯でも、というところです。

明日、上京する予定がありますので、ついでと言っては何ですが、鎌倉まで足を伸ばそうと考えております。レポートは明後日に掲載します。


もう1件、静岡から市民講座の情報です。 
期  日 : 2016年10月25日 11月1日 15日 12月6日 20日 2017年1月17日 31日 2月7日 21日 3月7日
        (すべて火曜日)
場  所 : 湖西市南部地区構造改善センター 静岡県湖西市白須賀5128
時  間 : 13:30~15:30
料  金 : 受講料2,000円 教材費300円
問い合わせ : 社会教育課 053-576-4793 FAX/053-576-1237 E-mail/ skyoiku@city.kosai.shizuoka.jp

講師は地元ご在住の矢田部駿一氏。元教員で、こうした講座等で朗読などのご指導に当たられているそうです。今回、光太郎の詩も取り上げて下さるということで、ありがたいかぎりです。

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さまざまな活動を通し、連綿と光太郎の名が伝えられていくことを願ってやみません。


【折々の歌と句・光太郎】

己が寂しき性をてらせよ後の月             大正9年(1920) 光太郎38歳

「後の月」は十三夜の月。ちょうど今日が旧暦9月13日、十三夜です。ただ、関東は曇り、ことによると雨。残念ながら月は見えそうにありません。





清水合唱団第35回記念演奏会/ボブ・ディラン氏ノーベル文学賞。

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静岡から演奏会情報です。

清水合唱団第35回記念演奏会

期  日 : 2016年10月30日(日)
時  間 : 開場13:00 開演13:30
会  場 : 静岡市清水文化会館マリナート大ホール  静岡市清水区島崎町214 
料  金 : 1,000円
曲  目 : I.ホームソング 日本編   II.ミサ曲 CARLO ROSSINI MISSA”ADESTE FIDELES"
        III.ポピュラーステージ 編曲:山室紘一・鈴木幸一   Ⅳ.混声合唱組曲 猛獣篇 佐藤敏直作曲
指  揮 : 山根悦子
ピ  ア ノ : 三浦ゆきの

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光太郎詩に佐藤敏直氏が曲を付けた「混声合唱組曲 猛獣篇」がプログラムに入っています。

元々は昭和63年(1988)、専修大学グリークラブさんの依嘱で男性合唱曲として作曲され、平成2年(1990)にはカワイ出版さんから楽譜も刊行されました。「森のゴリラ」「傷をなめる獅子」「ぼろぼろな駝鳥」「マント狒狒」の4曲でした。

そして、同じく平成2年(1990)から5年(1993)にかけ、南生田コーラスさんの依嘱で混声版が新たに作られています。ただし、総題は同じ「猛獣篇」ですが、曲目は「龍」「象」「傷をなめる獅子」「苛察」。「傷をなめる獅子」は男声版から混声へのアレンジですが、他は新作です。平成22年(2010)にやはりカワイ出版さんから楽譜が出ています。

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今年7月、清水合唱団の団員の方がこのブログをご覧下さり、当方宛メールが届きました。組曲に入っている詩の解釈についての質問で、とりあえずわかる範囲でお答えいたしました。

先週もメールを頂き、団内広報紙で当方のレクチャーをご紹介下さり、団員の皆様から「詩がすごくいい」「曲の理解が深まった」といった声があったとのことでした。

歌曲の場合、メロディーと歌詞は不可分のものです。演奏者はそのそれぞれについて深く探求して臨むべきものでしょう。そういう意味で、清水合唱団さんの取り組みは素晴らしいと思います。当方もアマチュア合唱団に所属していますが、なかなか団としてそういった取り組みまでには至っていません。

もっとも、光太郎はこの問題に関し、次のように述べています。

随分つまらない詩から立派な音楽も出来るし、随分立派な詩からつまらない音楽も出来る。それは詩人の知つたことではない。
(略)
私はいつでも詩歌の作曲を聴く時、純粋に唯作曲家の魂と感覚とを感じて十分に満足する。決して其を詩歌のテキストに還元して考へるやうな無駄はしない。自分の詩が歌はれるのをきいても自分の詩が些少もその音楽に参加してゐるとは感じない。
(「詩人の知つたことではない」 昭和8年=1933)

演奏者としての観点からみると、前半はともかく、後半には承服しかねます。やはり歌曲の場合、詩と音楽は不可分だと思います。たしかに詩句をどう音楽的に処理するかという部分は「作曲家の魂と感覚」に依るところがほとんどでしょうが、「ここはこういう言葉なんだから、こういうメロディーラインにする」「詩人のこうした心情を表現するために、こういうハーモニーにする」ということは大いにあり得ますし、逆にいえばそれが不十分である作品こそが「つまらない音楽」なのではないでしょうか。そして演奏者は詩人、作曲家それぞれの意図を汲み、演奏に生かすべきだと思います。

光太郎、音楽にも造詣が深かったのは確かですが、やはり自分で本格的に演奏をするということはなかったので、演奏者あるいは作曲者としての視点は持ち得なかったのでしょう。

何はともあれ、清水合唱団さんの演奏会、盛会を祈念いたしております。


ところで歌ということでもう一件。今年のノーベル文学賞、歌手のボブ・ディラン氏が受賞というニュースが入ってきました。意外といえばこの上なく意外ですが、やはり詩と音楽は不可分と考えれば、納得の受賞です。

ノミネートの段階では「これまでの歌詞とは異質の『詩』を歌い、ポピュラー・ミュージックを革新し、詩が歌と同じ『声の文化』であることを再認識させた」という理由だったそうです。

ところで、以前から気になっていましたが、ディランの代表作の一つ「風に吹かれて」の三番はこういう歌詞です。

 How many times must a man look up
 Before he can see the sky?
 Yes, 'n' how many ears must one man have
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 Before he can hear people cry?
 Yes, 'n' how many deaths
    will it take till he knows.
 That too many people have died?
 The answer, my friend, is blowin' in the wind,
 The answer is blowin' in the wind.

これを、壺齋散人氏という方が、このように訳しています。

 どれほど人は見上げねばならぬのか
 ほんとの空をみるために
 どれほど多くの耳を持たねばならぬのか
 他人の叫びを聞けるために
 どれほど多くの人が死なねばならぬのか
 死が無益だと知るために
 その答えは 風に吹かれて
 誰にもつかめない


原文は単に「sky」なので、「ほんとの空」と訳すのは意訳ですが、ここだけ読むと、まさに東日本大震災に伴う福島第一原子力発電所の事故による、智恵子の故郷・福島の現状のようにも感じられます。しかし、この曲のリリースは何と昭和38年(1963)。ディラン氏によるフクシマの予言、というと考えすぎでしょうか……。


【折々の歌と句・光太郎】

爪きれば指にふき入る秋風のいと堪へがたし朝のおばしま
明治43年(1910) 光太郎28歳

「おばしま」は漢字で書くと「欄」。出窓の手すり的な感じでしょうか。そこに坐って爪を切ると、秋風が吹いてきたよ、といったところでしょう。

鎌倉 笛ギャラリー「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情 その五 鎌倉における光太郎と喜八」レポート。

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昨日は鎌倉および都内に行っておりました。

光太郎の妹の令孫に当たる山端夫妻が営むギャラリー兼カフェ「笛ギャラリー」さんでの展示「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情 その五 鎌倉における光太郎と喜八」のためです。

普段こちらにお邪魔する時は、自家用車で北から山を下りてお伺いしていましたが、昨日は公共交通機関を利用、JR北鎌倉駅から歩き、普段とは逆に南から山を登る形でした。

あじさい寺で有名な明月院さんを横目に坂を登っていきます。

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昨日は気持ちよい秋晴れ、しかし紅葉には早く、楓もまだ青々としています。

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明月院さんのすぐ近くに看板が出ています。ここから365歩、だそうで。

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道の傍らに苔むした石仏・石塔。古都情緒がにじみ出ています。こういう風情は歩いてこそのものですね。

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笛さんもその情調の中にぴったり収まるたたずまいです。

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店主の山端氏、今年の連翹忌にはご欠席なさいましたので、ほぼ一年ぶりにお会いしまして、久闊を叙し、早速展示を拝見。

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光太郎智恵子、そして近所に住んでいた光太郎と縁の深かった詩人の尾崎喜八に関するさまざまが並んでいます。古写真、書簡、草稿、著書、関係書籍などなど。

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光太郎書簡。ここに住まれていた妹に宛てたものです。

その妹・しづは、俳句に親炙していたそうで、句稿や句帖も展示されていました。

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尾崎喜八草稿(コピー)。草野心平編、筑摩書房イメージ 12『高村光太郎と智恵子』(昭和34年=1959)に掲載された光太郎智恵子回想です。

喜八の妻・實子は、光太郎の親友・水野葉舟の娘。二人の結婚を祝し、光太郎はミケランジェロの作品を模刻したブロンズの「聖母子像」を贈っています。右は「聖母子像」を手にした實子の写真。かつて雑誌『FOCUS』に掲載されたものです。

そうこうしているうちに、喜八・實子夫妻の令孫で、武蔵野美術大講師の石黒敦彦氏がご来店。特に当方と約束していたわけではないのですが、ご常連ということでよくいらっしゃるそうです。展示されている資料の中には、氏の所蔵されているものも含まれています。

氏とは一昨年もこちらでお会いしました。その際にはご一緒に来店されていたご母堂・榮子様(喜八・實子の息女)が、今年の3月に亡くなられましたので、まずはお悔やみを述べ、一緒に山端氏の淹れて下さった珈琲に舌鼓を打ちつつ(恐縮ながら無料で戴いてしまいました)、カウンターの中の山端氏も交え、いろいろお話をさせていただきました。

石黒氏は、武蔵美さんの芸術文化学科、空間演出デザイン学科で講義をされているとのことで、いわば展示の関連がご専門。また、「湘南福祉アート・デザイン協議会運営委員」という肩書きもお持ちで、メンタルヘルスとアートを関連させるご活動もなさっている由。そういうわけで智恵子にも深く関心を持たれており、ゆくゆくは智恵子に関する企画展示をなさりたいとのことでした。

その後、再会を約し、笛さんを後に、そして石黒氏に連れられて、すぐ近くにある「ギャラリー青騎士」さんへ。この秋オープンしたばかりのギャラリーで、蔵書票を専門に扱うという、いっぷう変わったところです。こちらの代表の金森大輔氏は、現在新築工事のため休館中のブリヂストン美術館さんにお勤めだった方です。ブリヂストン美術館さんといえば、昭和28年(1953)、美術映画「高村光太郎」を制作しました。この年に除幕された「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の制作風景、その除幕後、花巻郊外太田村に一時帰村した光太郎の様子などが記録されています。下はその撮影クルーと光太郎。場所は中野のアトリエです。

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光太郎以外に「梅原龍三郎」、「坂本繁次郎」など20本ほど作成された「美術映画シリーズ」のフィルム、館の美術講座的な催しで上映されていたとのことですが、昭和40年代以降それもなくなり、しばらくフィルムの存在自体忘れ去られていたところ、ブリヂストン本社から「こんなものが見つかった」と金森氏に連絡があって、再び日の目を見ることになりました。

「高村光太郎」は現在、花巻高村光太郎記念館や十和田湖畔の観光交流センターぷらっとに行けば常時上映されています。また、この夏の碌山美術館さんでの「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」など、光太郎がらみの企画展で上映されることもよくあります。

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それも金森氏らのお骨折りでデジタルデータになっているおかけです。当方の手元にもあり、改めて御礼を申し上げておきました。それにしても、はからずもそういう方にお会いするという不思議な偶然に驚きました。

石黒氏、金森氏とはここで別れ、駒場の日本近代文学館さんに寄って、調べ物をして帰りました。

さて、笛ギャラリーさんでの「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情 その五 鎌倉における光太郎と喜八」、来月1日(火)まで。ただし毎週月・水・木と10/30(日)はお休みだそうですので、お気を付け下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

行くにわれ見るにわれなる一人子や大和山城青空つづく
明治34年(1901) 光太郎19歳

古都つながりで奈良、京都に遊んだ際の歌を一首。この年9月末から、東京美術学校の修学旅行で奈良、京都を訪れています。その期間、なんと2週間。物見遊山ではなく、いにしえの仏像などをしっかり研究するための、まさしく修学旅行でした。

そいうえば修学旅行シーズンですので、鎌倉もそれらしい中高生で賑わっていました。

「平成28年度文京区企画展「賢治と光太郎――文の京で交錯する二人」。

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10月も後半に入りましたので、少しずつ現在把握している11月のイベント等を紹介していきます。

まずは光太郎智恵子が長く住んだ文京区から。 

平成28年度文京区企画展「賢治と光太郎――文の京で交錯する二人

期  日 : 2016年11月6日(日)~11月14日(月) 無休
会  場 : 文京シビックセンター1階 アートサロン  文京区春日1‐16‐21
時  間 : 午前10時~午後6時(最終日は午後5時まで)
料  金 : 無料

 詩人、童話作家として著名な宮沢賢治と彫刻家、詩人として名を馳せた高村光太郎。ともに文京区にゆかりのある二人が直接会ったのは、駒込林町(現:千駄木)の光太郎のアトリエ前でのことでした。この立ち話程度の出会い以外に二人が会うことはなく、親しく交流するようなこともありませんでした。しかし、二人をつなぐ結びつきは賢治の晩年から死後に強まり、お互いにとって重要な存在になっていきます。賢治作品を読んだ光太郎は賢治を「真の詩人」と激賞し、自身の詩作にも影響を受けます。一方、ほとんど無名のまま世を去った賢治が広く世に知られるのに大きな役割を果たしたのが光太郎でした。
 本展は、平成28年に賢治の生誕120周年、光太郎の没後60周年を迎えるのを記念し、文京区が誇る二人の生涯や創作活動、文京区との関わりを辿りながら、二人がどのように関わりあい、どんな影響を与え合ったのかを紐解いていきます。


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関連行事 

公開講座 「宮沢賢治と高村光太郎――千駄木での出会いとその後の詩的交流」

 展示作品の制作背景や作者の人柄など、作品を見るだけではわからない情報を、関係者の方に作品の前で語っていただくギャラリートークを開催します。

講師:中里まき子 氏(岩手大学人文社会科学部准教授)
日時:平成28年11月6日(日曜日)午後2時から午後4時(予定)
会場:文京シビックセンター26階 スカイホール
対象:文京区内在住・在勤・在学者
定員:100名
費用:無料


文京区は江戸の昔からのお屋敷町もあったことからゆかりの文人も多く、しかも夏目漱石、森鷗外、樋口一葉ら、いわば光太郎より「格上」の人々が含まれているため、光太郎はある意味、影が薄いイメージです(笑)。したがって、区として光太郎の顕彰を積極的に、というレベルには至っていません。

が、時折、こうした形で取り上げて下さることがあり、有り難いところです。まあ、今年は生誕120年の賢治ブームですので、賢治と交流のあった数少ない文士の光太郎もセットで、というところでしょうか。グルコサミンサプリメントに、今なら何とアミノ酸ナントカもおつけします、的な(笑)。

ただ、開催期間があまり長くないのが残念です。貴重な機会ではありますので、ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

堂のかげふと知る才のわづらひや雨の夕鐘唐招提寺
明治34年(1901) 光太郎19歳

昨日に引き続き、東京美術学校での奈良京都修学旅行での作です。奈良の唐招提寺は、鑑真和上坐像をはじめ、あまたの仏像が国宝に指定されています。それらを観て圧倒される若き光太郎の姿が浮かびます。

知恩院 秋の紅葉ライトアップ2016。

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各地、特に北日本や高地から、ちらほら紅葉の便りが聞こえ始めてきました。

毎年ご紹介していますが、今年も京都の知恩院さんでの紅葉ライトアップが再来週から始まります。 
期   間  : 2015年11月3日(木・祝)~12月4日(日)
拝観時間  : 17時30分~21時30分(21時受付終了)
場   所  : 浄土宗 総本山知恩院(京都市東山区林下町400 ) 友禅苑、三門、宝佛殿、女坂
拝 観 料 : 大人800円(高校生以上) 小人400円(小・中学生) 団体割引 大人30名以上、1割引き

今年で17回目を迎える『知恩院ライトアップ2016』。
京友禅の祖・宮崎友禅斎ゆかりの庭園「友禅苑」や、日本最大級の木造二重門である「三門」、阿弥陀如来立像、四天王をお祀りしている「宝佛殿」をライトアップします。
春のライトアップで好評だった「聞いてみよう!お坊さんの話」は、土日祝日に実施します。また、オープニングイベントには「ニュージーランドから来たお坊さんと話してみよう!」「薩摩琵琶コンサート」も企画。
他にも、阿弥陀堂での法要の予定などもございます。大勢のおまいりをお待ちしております。

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主な見どころ】イメージ 2
友禅苑
友禅染の祖、宮崎友禅斎の生誕300年を記念して造園された、華やかな昭和の名庭です。池泉式庭園と枯山水で構成され、補陀落池に立つ高村光雲作の聖観音菩薩立像が有名です。

三門 3年ぶりのライトアップ特別公開     
元和7(1621)年、徳川秀忠公が建立した高さ24m、幅50mの日本最大級の木造二重門。悟りの境地に到る「空門」「無相門」「無願門」を表すことから三門(三解脱門)といいます。
※回廊のみお立ち入りいただけます。

宝佛殿
平成4年に建立。和様式重層寄棟造りで、堂内には高さ4.8mの阿弥陀如来立像、四天王が祀られています。

関連行事 

オープニングイベント おてつぎフェス Hand to Hand:promotion of the Nembutsu

【期間】 11月 3日(木・祝)、4日(金)、5日(土) ※3~5日は特別に大鐘楼イメージ 3の拝観が可能になります。

ニュージーランドから来たお坊さんと話してみよう!
【時間】 ①19:00~ ②20:00~
【場所】 宝佛殿
【お話】 佐賀教区 西光寺僧侶 作田法道師(ウィズフォード・スティーブン)

薩摩琵琶コンサートイメージ 4
「法然上人の御一代記」を、琵琶法師のごとく、弾き語るコンサートです。
【時間】 ①18:30~ ②19:30~(各回30分)
【場所】 三門下
【演奏】 薩摩琵琶 鶴田流 北原香菜子

おてつぎ運動は、法然上人のみ心を信じ、一人一人が心からお念佛を称え、家庭から職場へ、地域社会へと仲間の輪をつくり、全世界の人々の幸福と平和の実現に向けて、人から人へと法然上人のみ教えを広く現代社会に伝える運動です。


当方、時折京都にも参りますが、なかなかゆっくり観て回れていないのが現状です。今年あたりは時間が取れれば、しみじみと古都の紅葉狩りとしゃれこみたいものです。

皆様も是非どうぞ。


【折々の歌と句・光太郎】

真金(まがね)掘り黄金の窟(むろ)にあひしごと奈良には藝のよろこび満つる
明治36年(1903) 光太郎21歳

京都ではなく奈良での作ですが、この年、与謝野鉄幹らと京都、奈良、高野山、堺などを旅した際の作です。幼い頃から父・光雲に連れられたり、美術学校の2週間にもわたる修学旅行があったりで、何度も訪れている奈良ですが、彫刻家(まだ卵でしたが)として、いにしえの仏像などに出会う喜びは、何度訪れても大きかったのだと思われます。

『美術屋・百兵衛 2016年秋号 vol.39 岩手県特集』

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注文しておいた雑誌が届きました。 
2016年10月15日 麗人社 定価500円(税込)

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『美術屋・百兵衛』。季刊誌で、一号ごとに一つの都道府県を特集し(ただし次号は台湾だそうです)、美術を中心とした文化を紹介するというコンセプトです。これまでに38都道府県が取り上げられ、今号が岩手県です。

主に岩手出身の美術家が取り上げられる中、出身ではないものの、足かけ8年を過ごした光太郎も、10ページにわたって紹介されています。

特集 岩手文化考
百兵衛インタビュー:彫刻家・舟越 桂 舟越 保武/舟越 直木
岩手県立美術館
生誕120年 宮沢 賢治 宮沢賢治記念館/宮沢賢治童話村
近代日本洋画界の先駆者 萬 鉄五郎/萬鉄五郎記念美術館
いわてアートプロジェクト 1800 人の岩手の心、そしてアーティストたちが紡いだ「記憶」
世界文化遺産 平泉 毛越寺/中尊寺
彫刻家・高村 光太郎/高村光太郎記念館・高村山荘 ほか


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前半は光太郎の人となり、後半は花巻郊外の光太郎が戦後の7年間を過ごした山小屋(高村山荘)、隣接する高村光太郎記念館の紹介です。それぞれよくまとまっています。

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光太郎記念館に関しては「芸術家としての息吹だけでなく、人間性までもがわかる空間」という見出しを付けていただいています。館内説明板の執筆を担当した身としては、「そのとおり!」と言いたくなりました。

その他、大きく取り上げられている光太郎ゆかりの人物は、宮沢賢治、舟越保武、萬鉄五郎。

後半には全国の美術館やギャラリー、注目の若手作家の情報なども掲載。264ページほとんどがフルカラーで、観ているだけでアーティスティックな気分にさせられます。これで500円は格安です。

大きな書店では店頭に並んでいるようですし、ネット通販もあります。ぜひお買い求めを。また、これを片手に花巻の光太郎記念館および高村山荘、ぜひ訪れていただきたいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

いささかは鑿にえにしを持てる身の三月(みつき)を奈良にただあこがるる
明治35年(1902) 光太郎20歳

その生涯にわたり、仏像らしい仏像は作らなかった光太郎ですが、いったいにその彫刻は、精神性の部分で、仏像の系譜を汲んでいるような気がします。ブロンズの塑像や、まったく仏とはかけはなれた蝉などにも。光雲から受け継いだ血、さらにはたびたび訪れて観た奈良の仏像からの影響でしょう。

北海道立文学館「常設展アーカイヴ平成28年度第3期 文学館の中の美術―宮崎丈二」。

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ネットでいろいろ検索をしていて、気になる展示情報を見つけました。9月から始まっていました。  
期  日 : 平成28年9月13日(火)~11月7日(月)
会  場 : 北海道立文学館 札幌市中央区中島公園1番4号
時  間 : 9:30~17:00(展示室入場は16:30まで)
料  金 : 一般500円 高大生250円 中学生以下・65歳以上無料

常設展アーカイヴは、当館の所蔵資料を年に数回テーマを変えながらご紹介する小企画スペースです。
 平成28年度第3期は、「文学館の中の美術―宮崎丈二」として、北海道にゆかりの詩人・画家の宮崎丈二関連資料をご紹介します。
これらの資料は、旭川市生まれの詩集の収集家で宮崎丈二に私淑した高橋留治氏より寄贈されたものが中心となっています。
 宮崎の詩について高橋氏は、「日常生活のありふれた用語を自分のものに洗い尽して、平明な詩を書き続け、その詩は中にキラリと光る、幽かな余韻がこころに長く残る。」と書いています。
 平明で明るく、そして心に響く宮崎丈二の詩と絵の世界をお楽しみ下さい。

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宮崎丈二は明治30年(1897)、銚子生まれの詩人です。大正期からさまざまな詩誌の刊行に関わり、それらに光太郎作品を積極的に載せていました。また、やはり光太郎と縁の深い岸田劉生とも交流があり、岸田の興した草土社にも参加するなど、画業でも優れた作品を遺しています。

光太郎晩年は、詩人の西倉保太郎、材木商の浅野直也との3人組で、中野のアトリエを訪れたり、光太郎を飲みに連れ出したりもしました。光太郎歿後には、昭和32年(1957)の第1回連翹忌にも参加しています。

昨年、『高村光太郎全集』に漏れていた、宮崎宛(西倉保太郎とイメージ 2連名宛)の光太郎書簡を見つけました。昭和27年(1952)1月19日付けで、まだ光太郎が再上京する前、花巻郊外太田村から送られたものです。

  新年のおたよりいろいろいただき、たのしい思をいたしました。蘭の莟がもう開く頃かと、うらやましく存じます。清香をおもひやります。
  寄書の酔筆にも、雅興想意、小生も新年には例のもの一盞、又醇醸の焼酎を得て珍しく三十五度の風味を味ひました。
  冬もあたたかく雪少なく、これは物足りません。


上記説明で、展示品の多くが高橋留治氏の寄贈による、とあります。高橋氏は宮崎の研究に功績のあった方で、当方、氏の書かれた『評伝 無冠の詩人 宮崎丈二――その芸術と生涯――』(昭和49年=1974 北書房)を持っています。540ページ余の労作で、光太郎と宮崎の交流にも触れ、非常に示唆に富むものです。

そういう経緯もあり、今回の展示も近くで開催されていれば是非拝見に伺うところですが……。


だいぶ以前にも書きましたが、やはり宮崎が刊行に関わっていた雑誌『太陽花』の第2巻第1号に、アメリカの詩人、ウォルト・ホイットマンの「栗色の顔をした野の若者よ」の光太郎訳が掲載されました。それに関する宮崎宛の光太郎書簡も現存します。

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『太陽花』は静岡で刊行されていた地方詩誌です。たびたび光太郎も寄稿していましたが、現存部数が非常に少ないようで、「栗色の顔をした野の若者よ」光太郎訳がどういう内容なのか、不明です。掲載誌は横浜・港の見える丘公園にある神奈川近代文学館さんに所蔵されています。しかし、「栗色の顔をした野の若者よ」の載ったページだけ破り取られており、読めませんでした。今回の展示がある北海道立文学館さんにも所蔵はないようです。

刊行は昭和2年(1926)1月。しかし、大正15年が前年の12月25日まで、翌12月26日から31日までが昭和元年ということで、先に印刷が終わっていたであろうこの号、奥付は大正16年となっています。

情報をお持ちの方はこちらまでご教示いただければ幸いです。


【折々の歌と句・光太郎】

夕ぐれをひとり離れし神の鹿かすかなる音に人を泣かしむ
明治35年(1902) 光太郎20歳


このところこのコーナーで紹介し続けている、奈良での作の一つです。鹿は奈良公園の鹿でしょう。

万葉の昔から、鹿の鳴き声は秋の風物詩。文字で表すと「ピュウーーーー」といったところでしょうか。高い音程の、一種もの悲しい特徴的な声です。

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画像は当方自宅兼事務所所在地の千葉県香取市に鎮座する香取神宮の神鹿。昨日撮影してきました。ちょうど食事タイムで、大半の鹿くんたち、ニンジンを食べるのに忙しく、鳴いていませんでした(笑)。

草野心平 「第6回天山・心平の会 かえる忌」/「没後29回忌「心平忌」 第23回心平を語る会」。

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当会の祖、草野心平を偲ぶイベントが来月、2件続けて行われます。それぞれぜひ足をお運び下さい。  

第6回天山・心平の会 かえる忌

期  日 : 2016年11月12日(土)
会  場 : 小松屋旅館 福島県双葉郡川内村上川内字町分211  0240-38-2033
時  間 : 午後3時より6時まで
会  費 : 2,500円 (食事代込み) 
主  催 : 天山・心平の会
講  話 : 晒名昇氏 (前かわうち草野心平記念館長) 
        金井真紀氏 (うずまき堂代表、ライター、イラストレーター、放送作家)
備  考 : 第2回第3次かわうち「酒場学校」開校式を兼ねる

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「かえる忌」は、モリアオガエルが縁で心平が愛し、蔵書を寄贈した天山文庫の建つ川内村で開催されます。

4年前3年前一昨年と3回参加させていただきました。下記は2014年、BS朝日さんで放映された「にほん風景物語 福島 川内村・いわき小川郷 ~詩人・草野心平が詠んだ日本の原風景~」から。3年前のかえる忌の様子です。当方も映っています。

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翌日は、心平の故郷、いわき市小川町で下記のイベントがあります。昨年の様子こちら 

没後29回忌「心平忌」 第23回心平を語る会

期  日 : 2016年11月13日(日)
会  場 : 草野心平生家 (いわき市小川町上小川字植ノ内6-1)
時  間 : 午前11時30分より午後1時まで
会  費 : 500円  
主  催 : 夢想無限の会
講  話 : 小山弘明 (高村光太郎連翹忌運営委員会代表) 

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地元小中生の皆さんによる「第8回 草野心平ふるさとの詩けるるんくっく発表会表彰式」も兼ねています。

講話は当方です。「草野心平と高村光太郎――魂の交流」と題し、二人の交流について述べさせていただきます。資料作成を現在行っており、昨日もそのために千葉市の千葉県立図書館さんへ調べ物に行っておりました。明日はそのあたりを書きたいと思っております。


【折々の歌と句・光太郎】

とうとうと水の流れるやうなもの空いつぱいにこころをながれ
大正13年(1924) 光太郎42歳

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いい感じの秋晴れが続いています。画像は近所の畑に咲くコスモスです。

草野心平と高村光太郎――魂の交流。

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昨日お伝えしたとおり、来月、福島県いわき市の草野心平生家で開催される「没後29回忌「心平忌」 第23回心平を語る会」で講話を仰せつかっています。題は「草野心平と高村光太郎――魂の交流」としました。

平成25年(2013)、双葉郡川内村の小松屋旅館さんで開催された「第3回天山・心平の会 かえる忌」で、二人の交流について年譜をまとめ、やはり講話をさせていただいたのをベースにします。その際に作成した交流年譜にはまだ漏れが多く、懸案となっていましたので、いい機会と思い、完全版に近いものの作成を目指しております。

そこで一昨日、千葉市の千葉県立中央図書館さんに行きました。目当ては昭和50年代に筑摩書房さんから刊行された『草野心平全集』全12巻。近隣の市立図書館等には所蔵がなく、少し遠出となりました。

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第12巻に、100ページを超える心平の詳細な年譜が掲載されています。年ごとに、その年に発表された詩、散文等の題名、掲載誌が全て記されているので、非常に貴重な資料です。

光太郎に関わる詩文、さらにはイベントや訪問記録などについて、初めはメモを取っていましたが、メモすべき件があまりに膨大なので途中でやめ、100ページ超をコピーしてきました。申請書を書いて自分でコピー、コピー機も5台ほどあったので、館の方や他の閲覧者の方にも迷惑をかけずに済みました。館によっては職員の方にコピーを取っていただいたり、セルフコピーでもコピー機が1台しかなく、独占するには気が引けたりといったところもあり、そういう館では大量のコピーは不可能に近いのですが、今回はラッキーでした。料金も1枚10円で助かりました。

年譜に関しては、自宅兼事務所に帰ってからマーカーでチェックを入れました。心平が書いた光太郎に関する詩文は100編ほど。予想通り、以前にまとめた年譜には漏れていたものも多く、「こんな雑誌にこんなことも書いているのか」といった驚きがいろいろありました。

『草野心平全集』は、共著を除き、単行書として刊行された心平の著書をまとめたもので、新聞雑誌等に寄稿した散文の本文は掲載されていません。したがって、年譜に載っている題名だけでは光太郎に触れているか否か判断がつかないものもあります。

新聞雑誌等に寄稿した散文等のうち、主要なものは昭和44年(1969)刊行の『わが光太郎』にまとめられていますが、それ以降も光太郎に触れた文章は書かれ続けていますし、それ以前のものでも割愛されているものが多くあります。おそらく分量としてはもう一冊『続・わが光太郎』が出来るくらい有るのではないかと思われます。どこかの出版社さんで実現できないものでしょうか。もっとも、同じ主旨のことを繰り返し書いている、という部分はあるのかもしれませんが。

また、光太郎に関するものだけでなく、他の分野でも心平の散文は多く、『草野心平全集』の増補完全版として、全てがまとめられることも期待します。

年譜の載っている第12巻以外にも目を通し、そちらに掲載されていた必要と思われる事項はメモして参りました。それから、各巻のグラビアや月報で、見たことのない関連写真を目にし、また驚かされました。

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昭和28年(1953)、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式前後の十和田湖でのカット。心平の左後に像のモデルを務めた藤井照子が写っています。

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光太郎が歿した昭和31年(1956)、当会顧問の北川太一先生と。

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没後29回忌「心平忌」 第23回心平を語る会での講話、プロジェクタでスライドショーを投影する予定ですので、このあたりも使おうと思っています。


ついでですのでもう1件。

一昨日訪れた千葉県立中央図書館さんは、千葉県文化会館や千葉市立郷土博物館(千葉城)などとともに、亥鼻公園を形成しています。

その公園内の一角に、こんなものが。

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光太郎の朋友・碌山荻原守衛の絶作にして代表作「女」です。

昭和43年(1968)の建立で、千葉大学教育学部がもともとここにあって移転したそうで、オブジェ全体が「千葉大学教育学部跡記念碑」です。この地に文化の薫りを、ということで「女」が乗せられています。イメージ 11

数年前にたまたま歩いていて見つけ、驚きました。


【折々の歌と句・光太郎】

十和田湖に泛びてわれの言葉なし晶子きたりて百首うた詠め
昭和27年(1952) 光太郎70歳

今日、10月21日は、昭和28年(1953)に、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式が行われた日です。心平も出席しています。

この歌は、前年、やはり心平も同行した十和田湖の下見の際の作。「泛びて」は「うかびて」と読みます。

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突然、既に亡くなっている与謝野晶子の名が引かれています。

与謝野鉄幹・晶子夫妻は、大正14年(1925)に十和田湖を訪れています。この際の旅行記や短歌は第二期『明星』に掲載されており、当然、光太郎も目にしていますし、ことによると夫妻から十和田湖のすばらしさを直接聞いていたのかも知れません。

そしておそらく、実際に初めて十和田湖を目の当たりにし、それを思い出したのではないでしょうか。

<声を便りに>オーディオブック 「智恵子抄(抄) 高村光太郎 ― 十七編抜粋 ―」。

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注文しておいたCDが届きました。  

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【解説】
『智恵子抄』は高村光太郎にとって、『道程』に続く2冊目の詩集にあたる。妻の智恵子と結婚する以前(1911年)から彼女の死後(1941年)までの30年間にわたって書かれた、彼女に関する詩29篇、短歌6首、3篇の散文が収録されている。本CDでは、以下の17篇を収録。

人に(いやなんです) 深夜の雪  人に(遊びぢやない)  人類の泉   僕等  樹下の二人  夜の二人
あなたはだんだんきれいになる   あどけない話  風にのる智恵子   千鳥と遊ぶ智恵子  
値ひがたき智恵子  山麓の二人  レモン哀歌  亡き人に  荒涼たる帰宅  裸形

【収録時間】 計38分

 【朗読】
wis 女性朗読家。 i'Tunes storeのPodcast部門やオーディオブック部門の文学関係で幅広いリスナーの支持を得、すでに50を超える朗読作品を世に送り出している。また、個人ホームページ「  【朗読】声を便りに、声を頼りに――。」では、文学のジャンルを問わず、200を超える短編、長編作品を朗読。朗読に親しみを持ってもらえるようにと、いつでも無料で聴けるよう開放している。現在、「オーディオブックCD(朗読CD)」が響林社より好評発売中。


早速聴いてみました。透明感のある柔らかな、しかし、しっかりと芯のある声で、光太郎智恵子の世界が表現されていました。

光太郎詩は力強い男性的なイメージがありますが、女性でも朗読に取り組まれる方は多く、視点はあくまで光太郎という男性ですが、女性の声でも決して違和感はありません。

wisさんは、紹介文にもあるとおり、ネットで朗読を公開なさっています。このCDに収められている朗読も、既に平成20年(2008)にアップされていました。CD化されたことで、また異なる環境での聴取が可能となりました。

ぜひお買い求め下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

水ばかりのみてこの日は過ぎたりとうまき支那めしをくひつつわが思ふ
大正13年(1924) 光太郎42歳

3日前、草野心平関係の調べ物で行った千葉県立中央図書館さんの前にある中華料理店で昼食を摂りました。

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当方、幼い頃から炒飯が好物でして、一人で外食する際には時々頼みます。さらに餃子も。

食べながら上記短歌を思い起こしました。

田部井淳子さん訃報。

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登山家の田部井淳子さんが、亡くなりました。 

田部井淳子さん死去=77歳―エベレスト女性初登頂

 1975年に女性で初めて世界最高峰エベレスト(8848メイメージ 1ートル)に登頂した登山家の田部井淳子(たべい・じゅんこ)さんが20日午前10時、腹膜がんのため埼玉県川越市の病院で死去した。77歳だった。福島県出身。葬儀は近親者で済ませた。喪主は夫、政伸(まさのぶ)さん。

 昭和女子大を卒業後、社会人の山岳会で本格的に登山を始め、69年に女子登攀(とうはん)クラブを設立。70年にアンナプルナIII峰(7555メートル)に日本女性として初めて登頂。75年、日本女子登山隊の副隊長としてエベレストに挑み、女性で世界初の登頂者となった。

 81年にも女性として初めてシシャパンマ(8027メートル)の登頂に成功。また、85年キリマンジャロ(タンザニア)、87年アコンカグア(アルゼンチン)、88年マッキンリー(米国)、91年ビンソンマシフ(南極)と各大陸の最高峰の頂上を次々と踏み、92年のカルステンツ・ピラミッド(インドネシア)、エルブルース(ロシア)登頂によって女性で世界初の7大陸最高峰登頂者となった。

 エベレストのごみ問題をテーマに研究を進め、2000年に九州大大学院の修士課程を修了。山岳環境保護の活動に取り組み、07年には環境保全功労者として環境大臣賞を受賞した。

(時事通信 2016/10/22)


田部井さんは、智恵子の故郷・二本松に近い三春町のご出身。智恵子が愛した「ほんとの空」のある安達太良山とも縁の深い方でした。

平成27年(2015)2月、NHK BSプレミアムさんで放映された「にっぽん百名山 安達太良山」にご出演。登山家・田部井さんの原点の一つが安達太良山にあったことを語られました。

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三春小学校6年生の時に安達太良山に初めて登り、沼の平などの不思議な景観に心打たれ、「もっといろいろな景色を見てみたい」と思ったそうです。

同番組では、光太郎智恵子についても取り上げて下さいました。

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何度か再放送されましたが、田部井さんの追悼的にまた放映されることを希望します。

さらに、今後放映されるであろう田部井さんの追悼特集的な番組でも、ぜひ安達太良山にからめた内容にしていただきたいものです。

時代や分野は違えど、同じ福島中通り出身の先駆的な女性として、田部井さんと智恵子には共通項が有るように思われます。

また、東日本大震災後、田部井さんは「厳しい状況にいる高校生たちに、一歩一歩進めば、いつかは頂点に着くと実感してもらいたい」と、被災した東北の高校生と一緒に富士山に登る活動に取り組んできたそうです。今年も93名の高校生と共に富士山へ行かれたとのこと。病をおされての行動力、頭が下がります。

その田部井さん、そして智恵子が愛した安達太良山、紅葉のピークのようです。 

安達太良山、まるで『紅葉のじゅうたん』 色鮮やか山並み絶景

 二本松市の安達太良山(1700メートル)のイメージ 9紅葉が見頃を迎え、秋晴れの14日は大勢の登山客や観光客が「紅葉のじゅうたん」を楽しんでいた。
 登山道からは赤や黄など色づいた木々などを間近に見ることができ、青空と鮮やかな彩りの山並みは絶景。同市の奥岳登山口から乗るロープウェイの山頂駅近くで、標高1350メートルの薬師岳展望台は大いににぎわっていた。
 ロープウェイを運行する富士急安達太良観光は23日までの土、日曜日に、運行を通常より1時間早めて午前7時30分から始める。
(『福島民友』 2016/10/15)


謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々の歌と句・光太郎】

山にゆきて何をしてくる山にゆきてみしみしあるき水のんでくる     制作年不詳

昭和4年(1929)、改造社刊行の『現代日本文学全集第三十八編 現代短歌集 現代俳句集』に載った作品ですが、いつの作品か不詳です。

光太郎もまた、山を愛した詩人でした。ただし、本格的な登山ではなく、奥地の低山を闊歩する、今でいうトレッキングを好んでいました。

平幹二朗さん訃報。

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俳優の平幹二朗さんが亡くなりました。昨日、登山家の田部井淳子さんの訃報をお伝えし、2日続けての訃報、非常に心が痛みます。 

平幹二朗さん死去、82歳=シェークスピア劇で活躍

 シェークスピア劇やNHK大河ドラマ「樅ノ木は残ったイメージ 9」「国盗り物語」の主演で知られ、舞台からドラマまで幅広く活躍した俳優の平幹二朗(ひら・みきじろう)さんが23日死去した。

 82歳だった。広島市出身。俳優の平岳大(ひら・たけひろ)さんは長男。

 平さんは、東京都世田谷区の自宅の風呂場で倒れているところを発見され、その後死亡が確認された。

 俳優座を経てテレビドラマ「三匹の侍」で注目を集めた後、浅利慶太さん演出の劇団四季「ハムレット」の主役で舞台俳優としての地歩を確立。「NINAGAWAマクベス」や「王女メディア」など、長年にわたって故蜷川幸雄さんの作品に出演した。悲劇の主人公を格調高く演じ、シェークスピア作品を得意とし、自ら演出も手掛けた。

 ドラマはNHK大河など時代劇に多数出演した他、現代劇でも存在感を見せた。近年もほぼ毎年出演作があり、放送中のフジテレビ系のドラマ「カインとアベル」にも出演していた。

 舞台でも衰えを見せず、昨年の「王女メディア」に続き、今年は9月から10月上旬まで「クレシダ」に出演、年明けの舞台も予定していた。

 「天城越え」「GOEMON」など映画にも多数出演した。1998年紫綬褒章、2005年旭日小綬章。

(時事通信 10月23日(日)23時54分)


平さんは、昭和42年(1967)、松竹映画「智恵子抄」(中村登監督、主演・岩下志麻さん、丹波哲郎さん)にご出演。光太郎の親友、石井柏亭の役でした。

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映画冒頭近く、隅田川沿いの西洋料理屋で開催された「パンの会」の狂騒のシーン、後半の、智恵子の心の病が顕在化した後、光太郎と二人、酒場で語り合うシーンに登場されました。

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平成12年(2000)には、津村節子さんの小説を原作とした舞台「智恵子飛ぶ」で、ズバリ光太郎役を演じられました。

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それにしても、訃報を読んで、82歳というのには驚きました。非常に若々しいイメージでしたので……。

ちなみに、ご子息でやはり俳優の平岳大さんは、フラメンコにも取り組まれており、「智恵子抄」も取り上げて下さっています。あまり大々的に宣伝していないようなので、このブログではご紹介していませんが。

何はともあれ、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々の歌と句・光太郎】

ニホンゴ ハヨサノアキコノネツプ ウニイキテウゴ キテトビ テチリニキ 〔晶子会のため〕                            昭和26年(1951) 光太郎69歳

訃報の紹介が続きましたので、挽歌的な作を一つ。ただし、亡くなってすぐではなく、10周忌の会に際して電報で寄せた作です。

のち、雑誌『スバル』に漢字仮名交じりで掲載されました。

日本語は与謝野晶子の熱風に生きて動きて飛びて散りにき

「極上!お宝サロン 開運!なんでも鑑定団」/「とちぎ発!旅好き! 感動!歴史と伝統の街~福島県二本松市~」。

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テレビ放映情報です。

まずはテレビ東京系で人気の「開運!なんでも鑑定団」の姉妹番組。BS放送です。 
BSジャパン 2016年10月27日(木) 21時00分~21時54分

ただひとつのジャンルに、こだわり続けるコレクターがいます。
彼らは、それがどんなに高価であろうと労苦を厭わず金に糸目をつけず、あくなき探究心でお宝をゲットしていきます。
この番組は稀代のコレクターたちの「お宝の魅惑のトーク」と「秘蔵のコレクション」を披露する番組です。
舞台は、お宝コレクターたちが集うサロン。サロンの主人は、博覧強記にして多彩な趣味を持つ石坂浩二。毎週、自慢のお宝を持ったゲストと鑑定士、コレクターがやってくる。主人のさりげないもてなしから、コレクターたちが熱弁を振るいだす…。

ゲストは作家の松山猛。クォーツ式時計全盛の1970年代から機械式時計を愛好している。雑誌の編集者として機械式時計の素晴らしさを日本人へ伝えてきた。海外の時計師を取材し、友好を深め、ついたアダ名が「時計王」。40年以上の収集歴で投資額は「忘却」。 手元に残した選りすぐりの100点から、機械式時計の機能や魅力を伝えていく。

本日のコレクター≪七福神木彫≫収集歴38年。恵比寿大黒像だけでも458体あり、目標は500体収集だというコレクター。しかし中々気に入った恵比寿大黒には出会えないと言います。眼鏡にかなう木彫とは?「木」にこだわった自慢のお宝や、「変わり種恵比寿大黒」などを紹介。宮大工の流れをくむ職人の腕が光る、木彫りの魅力を語ります。極上の逸品には、高村光雲の師匠が彫ったという自慢のお宝を紹介。

出演者 サロンの主人 石坂浩二   コンシェルジュ 松丸友紀(テレビ東京アナウンサー)
ゲスト  松山猛
鑑定士 川瀬友和(「ケアーズ」代表取締役)、大熊敏之(富山大学大学院芸術文化学研究科教授)


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「高村光雲の師匠」は、高村東雲。イメージ 5文政9年(1826)に生まれた江戸の仏師です。元々「奥村」姓でしたが、幕末に独立する際、師匠の高橋鳳雲から「雲」の字と、さらに「高橋」姓の「高」の字を貰い、「高村」姓を創出しました。歿したのは明治12年(1879)でした。

ちなみに光雲は元々「中島」姓。明治7年(1874)に独立しましたが、同じ年、徴兵忌避のため、子供のいなかった師匠の姉・悦の養子となり、高村姓となりました。明治初年の徴兵制では長男は対象外でしたが、光雲には大工だった異母兄がいたため、そのままでは徴兵にかかるおそれがあったのです。

東雲は明治12年(1879)に歿しましたが、嫡子栄吉が「東雲」を襲名、孫が「晴雲」、さらに「三代東雲」と号しました。そのさらにお孫さんが、三代晴雲として、現在もご活躍中です。

初代東雲の木彫、時折、市場に出てきます。ただ、50代で亡くなり、しかも明治初年の廃仏毀釈のあおりをもろに受け、遺っている作品は決して多くありません。

今回、どんなものが出るか楽しみです。

余談になりますが、姉妹番組のテレビ東京系「開運!なんでも鑑定団」。スタジオ収録以外に「出張!なんでも鑑定団」というコーナーがあり、当方自宅兼事務所の所在地、千葉県香取市で12月3日(土)に収録があります。

自宅兼事務所には光太郎がらみの「お宝」がごろごろしていますが、特に鑑定していただかなくても価値はある程度わかっていますので、鑑定依頼はしませんでした。ただ、せっかくですので、文化会館での収録観覧希望の往復ハガキは投函しました。抽選に当たることを祈っております。

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もう1件。旅番組系です。 

とちぎ発!旅好き!感動!歴史と伝統の街~福島県二本松市~

とちぎテレビ   2016年10月27日(木) 19:30~20:00  10月31日(月) 19:00~19:30
東京MXテレビ  2016年10月30日(日) 17:30~18:00
チバテレビ    2016年10月31日(月) 10:30~11:00

【訪問先】福島県二本松市 【旅人】菊池元男
日本100名城に選定されている二本松城を始め安達太良山や阿武隈川を有し自然の中で、伝統文化を感じることができる二本松市の感動スポットを求めて菊池元男が巡る。

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とちぎテレビさん制作の番組で、同局の本放送は昨日オンエアされていました。ただ、再放送、さらに提携関係にある各地のローカル局での放映があります。上記以外にも、埼玉のテレ玉さん、群馬テレビさん、KBS京都さん、兵庫のサンテレビさんで放映があるようですが、来月以降になるようです。残念ながら福島では放映されないようです。

安達太良山にからめて光太郎詩、智恵子生家などの紹介があるといいのですが……。


【折々の歌と句・光太郎】

裏町は提灯暗き祭かな              大正中期(1910頃) 光太郎40歳頃

上記画像、二本松の提灯祭りですね。そろそろ各地の秋祭りも一段落でしょうか。

芸術の秋。

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「芸術の秋」、というわけで、光太郎、光雲、智恵子、それぞれの名が少しずつ新聞各紙に出ています。 

まず『産経新聞』さんから2件。

1件目は、東京ステーションギャラリーさんで開催中の企画展「動き出す!絵画 ペール北山の夢―モネ、ゴッホ、ピカソらと大正の若き洋画家たち―」の紹介です。 

「動き出す!絵画 ペール北山の夢」 気鋭、洋画家の活動を支援

 「動き出す!絵画 ペール北山の夢」という展覧会が東京ステーションギャラリー(東京都千代田区)で開かれている。タイトルから動きのある映像的な作品を想像してしまうが、展示されているのは100年ほど前の絵画を中心にした作品だ。
 椅子に腰掛ける女性が荒々しい筆致と強烈な色彩で描写された萬鉄五郎の「女の顔」。和装に異国的な毛皮の襟巻きという取り合わせに西洋文化への憧れがみてとれる。絵の具を厚く塗り固め重厚感のある岸田劉生の「黒き帽子の自画像」は、23歳のころの作。すでに文展に入選し、画家として生きる決意の表情が堅牢(けんろう)な画面の中にうかがえる。
 彼らのような気鋭の洋画家の活動を手助けしたのが、ペール北山と呼ばれた北山清太郎(1888?1945年)だ。明治時代末から大正時代にかけて、北山は美術雑誌『現代の洋画』を発行。ルノワールら印象派をはじめとする西洋美術とともに、日本の若手画家の紹介に尽力した。
 また、高村光太郎らが結成し新進画家の発表の場となった「ヒユウザン(後にフュウザン)会」や、劉生が主宰していた「草土社展覧会」を、資金や運営の面から支えていた。北山は彼らのパトロン的な役割を果たしていたことから、パリでゴッホらの支柱となった画材商のペール・タンギーにちなみ、ペール北山といわれ親しまれていた。
 明治末には、文芸雑誌『白樺』が創刊され、セザンヌやルノワールら最新の美術を紹介。大正時代になると西洋留学した芸術家らが本場の美術を伝えた。萬のキュビスム的作品「もたれて立つ人」や劉生の写実を極めた「道路と土手と塀(切通之写生)」など重要絵画が誕生した時代だった。「印象派やポスト印象派から刺激を受け、大正期の絵画は大きく動いた。変革をもたらした画家たちの背後にいた北山の役割は重要」と同ギャラリーの田中晴子学芸室長。展覧会タイトルにはそんな意図が込められている。
 後に北山は、美術界を離れ、アニメーション制作に没頭。日本アニメの創始者の一人といわれる。本展では、これまでほとんど知られなかった北山の活動にスポットを当て、北山と関わりのあった画家を紹介。木村荘八や椿貞雄ら希望に満ちた若き画家たちや、日本の画家に衝撃を与えたゴッホやゴーギャンの作品が同時に展示され、熱い時代の雰囲気を伝えている。約130点の展示。(渋沢和彦)
(2016/10/13)

同展は11/6まで。

続いて、今日から始まる大阪堺市の河口慧海生誕150年記念事業「慧海と堺展」について。 

「河口慧海」生誕150年 チベット潜入、3年にわたる日記の実物を初公開 愛用のチベット語辞書やくりぬき日記帳も

 明治時代、日本人として初めてヒマラヤ山脈を越え鎖国状態のチベットに入った堺出身の僧、河口慧海(えかい)の生誕150年を記念した「慧海と堺展」が26日から12月4日まで堺市堺区の複数の会場で開かれる。潜入から脱出までを現地で記した明治33、34、35年の3年にわたる日記の実物が、初めて一般公開されるほか、愛用のチベット語辞書や、親友に送った中央をくりぬいた日記帳、彫刻家の高村光雲に制作を依頼した仏像など貴重な品々が並べられる。
  慧海はチベットに2回入っているが、33~35年の日記は1回目の潜入から脱出までの体験を記す。35年の日記は今年8月、東京の親族宅で見つかり当初から全17ページの公開が決まっていたが、以前に発見された33年と34年の日記も、生誕150年を記念し公開することになった。
  日記は33年3月10日から35年8月17日までで、計91ページ。33年は4ページ、34年も4ページを見開きで見せ、両年のほかのページは冊子状のまま展示。35年は17ページすべての記述を公開する。
  日記は、墨で横書きされ、漢字とカタカナでびっしりと記入。慧海は37年に体験をもとに「西蔵(チベット)旅行記」を口述筆記で著した。チベット入りは密入国だったため、具体的な行程にふれていなかったが、33年の日記に詳細なルートの記述があり、潜入ルートが判明した。このほか、ネパール人女性に恋心を抱かれたことなど、人間的な姿も垣間見られる。脱出のくだりでは、関所で薬を買う急用があると嘘をついて突破したことや、人事を尽くして天命を待つ心境などが記されている。
  愛用のチベット語辞書は、2回目のチベット入りを終え日本への帰路についた大正4年に、同行した恩師のインド人学者から譲り受けた蔵英辞典。堺市によると、慧海はこの蔵英辞典を使い、蔵日辞典を編纂(へんさん)するために研究を重ねたが、実現できずに他界。辞書には、チベット語や英語、日本語でびっしりと書き込みがある。
  このほか、中央がくりぬかれた日記帳も展示される。慧海が、2回目のチベット入り直前に堺の親友に送ったもので、くりぬき部分には、事前に送っていた遺書などが入った箱を開けるための鍵を入れていたとみられている。堺市文化財課の担当者は「2回目のチベット入りも決死の覚悟で、確実に届けるためだったのではないか」と説明する。
  高村光雲が制作した仏像は「釈迦牟尼(しゃかむに)仏像」(高さ12・4センチ)。慧海が光雲に要請して昭和3年に制作されたことはわかっているが、詳しい経緯は不明。
  日記と仏像、蔵英辞典は堺市博物館(午前9時半~午後5時15分、月曜日休館)で展示。くりぬき日記帳は山口家住宅(午前10時~午後5時、期間中無休)で。清学院(午前10時~午後5時、期間中無休)でも手紙が公開される。
  問い合わせは堺市文化財課(電)072・228・7198。
(2016/10/19)


続いて智恵子、『福島民報』さんから。こちらも開催中の福島ビエンナーレがらみです。 

【福島ビエンナーレ】未来の才能に出合う

 福島現代美術ビエンナーレが二本松市で開かれている。国内外から出品されたさまざまな分野の作品を公共施設や店舗に展示する。若い作家らが個性を競う。芸術の「今」に触れるとともに新たな才能との出合いを楽しみ、育てる機会としたい。
 ビエンナーレは2年に一度の美術展覧会のことで、県内では福島大教育学部が改編された平成16年、美術を学ぶ学生の力を地域のために生かし、新しい文化を発信しようと始まった。福島市、福島空港、喜多方市などを会場に続いてきた。住民とともにつくる地方発の美の祭典は、全国に知られるようになった。
 今回はオノ・ヨーコさんら著名人をはじめ、約80人が制作した絵画や立体、映像など約150点を大山忠作美術館、県立霞ケ城公園の菊人形会場、智恵子の生家、安達ケ原ふるさと村など13カ所に展示している。東日本大震災・東京電力福島第一原発事故に触発された社会性のある作品も並ぶ。福島大の学生らも出展し運営を手伝っている。
 まだ無名の若手芸術家にとって、画材などの購入負担はなかなか大変だ。創作意欲が高いほどお金もかかる。人によっては制作に月10万円ぐらいを費やす。作品公開の場が少なく、売ることも難しい。学生の多くは塾講師や飲食店などのアルバイトで賄う。
 最大の励みは、多くの人が作品を鑑賞し評価してくれることだという。美術ファンはもちろん一般市民や観光客らの目に触れるビエンナーレは最高の舞台といえる。第一線で活躍する作家と同じ場所に並ぶのは大きな刺激になる。
 凄艶[せいえん]な女性の絵で話題を集める日本画家松井冬子さんの作品が大山忠作美術館に展示されている。8年前、初めて福島に出品したことを画集に記録している。有名芸術家の略歴に福島の出展歴が載ることは、美術ファンに対する福島の絶好のアピールになる。
 異世界の生き物を描いて人気の銅版画家小松美羽さんは智恵子の生家で、上川崎の和紙を使い、ふすま絵を公開制作した。生命力あふれる画面が見る人を引き込む。ビエンナーレ実行委員長の渡辺晃一福島大教授はこれを機に、智恵子の生家を若い女性芸術家が作品を発表する拠点にできないか-と考えている。「福島から羽ばたいた作家が増えることは、福島の大きな財産になる」とみるからだ。
 芸術の秋、各地で美術展が開かれている。福島で育つ若い才能に声援を送ろう。未来に輝く原石が見つかる。今の若者が考えている世界を知る機会にもなる。(佐藤克也)
(2016/10/19)

造形作家として大成することを夢見ていた智恵子の精神を受け継ぐためにも、「智恵子の生家を若い女性芸術家が作品を発表する拠点にできないか」という提言には、耳を傾ける余地がありますね。

小松美羽さんの作品についてはこちら


『読売新聞』さんでは、光雲の弟子筋に当たる平櫛田中について。 

平櫛田中の幻の彫刻、孫落札…100年以上不明

 東京都小平市の平櫛田中(でんちゅう)彫刻美術館で、100年イメージ 1以上行方不明となっていた彫刻家・平櫛田中(1872~1979年)の代表作「尋牛じんぎゅう」が公開されている。
 田中の孫の同館長・平櫛弘子さん(76)がオークション会社から鑑定依頼を受けたことで存在が分かり、平櫛さん自ら落札した。
 「もしかしたら、あの『尋牛』かもしれない」。昨年4月、鑑定を依頼された彫刻作品を前に、平櫛さんと同館学芸員の藤井明さん(48)は興奮を抑えきれなかった。残っていた写真と木目や台座の形が一致したのだ。「長年探していたものがやっと見つかった。これは逃せない」。平櫛さんはオークションで226万円で落札し、今年7月、同館で展示するため市に寄贈した。
 岡山県生まれの田中は、大阪の人形師のもとで修業した後、25歳で上京し、高村光雲の門下生となった。一方で美術思想家・岡倉天心の薫陶を受け、天心が創設した日本彫刻会のメンバーでもあった。説明的な表現を省くことで、見る人の想像力をかき立てるという天心の「不完全の美」の思想に、生涯を通じて大きな影響を受けたという。
 「尋牛」は、禅の悟りを開く過程を牛を探して飼いならすまでに例えた「十牛図」の、最初の場面を表現した木彫りの作品。真の彫刻とは何か探し求める、田中自身の姿が投影されている。
 ひげを生やした老人がとぼとぼ歩いているだけで牛は登場せず、一見すると何の場面なのかわからない。だからこそ、様々な情景を思い起こさせるという「不完全の美」がそこにある。1913年(大正2年)、制作途中の石こう原型を見た天心がとりわけ高く評価し、彫刻が完成したら原型を譲ってほしいと望んだとされる。
 しかし、天心は同年9月、完成を待たずに他界。田中は不眠不休で完成させて葬儀に持参し、涙を流して報告したという。今回の鑑定に伴う調査で、田中から寄贈された天心の遺族が保管し、その後、別の人の手に渡っていたこともわかった。
 藤井さんは「田中の『尋牛』は当館を含め約10点が現存しているが、天心との絆を象徴する最初の作品は非常に重要だ」と強調し、平櫛さんは「田中にとって特別な思い入れのある作品。多くの人に見てほしい」と話している。
 11月6日まで。開館は午前10時~午後4時。火曜日休館。観覧料は一般300円、小中学生150円。問い合わせは同館(042・341・0098)。
(2016/10/24)

記事にある同館学芸員の藤井明氏、連翹忌にご参加いただいています。


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最後に、今朝の『朝日新聞』さんに載った集英社さんの広告。他紙にも載っているかもしれません。

原田マハさんの新刊『リーチ先生』が大きく紹介されています。

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注文しておいた現物は、昨夕届きまして、早速読み始めました。しかし、500ページ近くある大冊なので、まだ読破はしていません。

光太郎の朋友の英国人陶芸家、バーナード・リーチを主人公とした小説で、光太郎や光雲、光太郎実弟の豊周なども登場します。これが実に面白く、このブログを書き終えたら、また読み進めるつもりでおります。

しかし、この広告のコピー文に光太郎が出るとは思っていませんでした。帯文には光太郎の名がなかったもので。

詳細は明日以降、ご紹介いたします。


【折々の歌と句・光太郎】

子供らは道に坐りて我家を自由画にかく並びたらずや
大正15年(1926) 光太郎44歳

「芸術の秋」です。昔は小中学校でも、この時期には写生会的な行事が催されることが多かったように思われます。ただ、昨今は週5日制に伴う行事削減のせいでしょうか、あまり聞かなくなりました。

「子供ら」は、駒込林町アトリエの近所にあった千駄木小学校の児童でしょう。当時としては特異な外観だった光太郎設計のアトリエ、子どもたちにとっては恰好の画題だったのではないでしょうか。

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原田マハ『リーチ先生』。

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昨日もちらっとご紹介しましたが、新刊です。 
2016/10/30 原田マハ著 集英社 定価1,800円+税

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版元サイトより
西洋と東洋の芸術を融合し、新しい陶芸の世界を切り拓いたイギリス人陶芸家バーナード・リーチ。日本を愛し日本に愛されたその半生を二代にわたり弟子となった名も無き父子の視点から描く感動長編。      

帯文より
明治42年、22歳で芸術の道を志して来日。柳宗悦、濱田庄司ら若き日本人芸術家との邂逅と友情が彼の人生を大きく突き動かしていく。
明治、大正、昭和にわたり東洋と西洋の架け橋となった生涯を描く感度の“アートフィクション”

広告より
東洋と西洋の架け橋となった生涯を描く感度のアート小説 !!
明治42年、高村光太郎の勧めで日本を訪れた22歳のリーチ。柳宗悦、濱田庄司ら若き芸術家と出会い、陶芸家の才能を開花させていく。その生涯を陶工父子の視点で描く渾身作。


バーナード・リーチは明治20年(1887)生まれの英国人陶芸家。父の仕事の関係で香港に生まれ、幼少期には京都で暮らしました。

一度は銀行員となるものの、少年期に志した芸術制作への思い棄てがたく、明治41年(1908)、退職してロンドン美術学校に入学、エッチングを学びます。同校で留学中の光太郎と知り合い、さらに小泉八雲の著作などから日本への憧れが昂じ、翌年、来日。光太郎は父・光雲への紹介状を書いてやっています。

はじめ、エッチングを教えることで生計を立てていましたが、陶芸に出会い、これこそ自分の進む道と思い定めます。遅れて帰国した光太郎や白樺派の面々、そして陶芸家の富本憲吉、濱田庄司らと交流、1年半の中国滞在期間を除き、大正9年(1920)まで日本に住みました。大正元年(1912)のヒユウザン会展にも参加しています。

滞日中に結婚した妻(リーチの従姉)への配慮もあり、帰国。その際に濱田庄司が同行、イギリス西部のセント・アイヴスに工房を構え、イギリス伝統の陶芸に日本で身に着けた技術を融合させた新しい陶芸を創出しました。

その後、昭和54年(1979)に亡くなるまで、何度も日本を訪れ、長期の滞在を繰り返し、日本全国の窯元を廻ったり、光太郎らと旧交を温めたりもしています。

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画像は大正4年(1915)のもの。前列左から画家・長原孝太郎、有島生馬、リーチ夫人、梅原龍三郎、美術史家・田中喜作、後列左から美術評論家・坂井犀水、石井柏亭、美術史家・森田亀之助、リーチ、光太郎、柳宗悦、画家・山下新太郎、同じく斎藤豊作、作家の三浦直介です。


さて、『リーチ先生』。平成25年(2013)秋から、『信濃毎日新聞』さんで連載がスタート。少し経ってからそれを知り、信毎さんでの連載が終わったら単行本化されるんだろうな、と思っていましたが、その後、遅れて全国の地方紙6紙でも連載され、最後は昨年秋まで連載されていました。その分、単行本化を今か今かと待っていたものです。

その期待に違わないものでした。

物語は、大正9年(1920)までの滞日中、そして帰国後の3年間、リーチの助手を務めたという設定の、架空の陶芸家・沖亀乃介を主人公とし、彼の存在以外はおおむね史実に添った内容となっています。

明治末、横浜で食堂の給仕をしていた亀乃介少年は、留学のため横浜港を発つ直前の光太郎と食堂で知り合い、光太郎の紹介で駒込林町の光雲の家で住み込みの書生となります。外国人客との対応で自然と英会話を身につけ、彼らからもらう外国雑誌の挿絵などから「芸術」への憧れをいだいていた、という設定です。

そこにやはり光太郎の紹介でリーチが来日、亀乃介は英語力を買われて助手となり、ともに陶芸の道に進んで行くことになります。

ネタバレになりますので、これ以上は購入してお読み下さい(笑)。ここまででも十分ネタバレでしたが(笑)。さらにネタバレ覚悟の方はこちらをご覧下さい。作者・原田マハさんのインタビューです。

とにかく「前向き」な小説です。登場人物全ての、さまざまな困難に直面しながらも決してくじけず、美の発見や創出に魂を傾けるさまが、生き生きと描かれています。

特にリーチや亀乃介などの、東洋と西洋の架け橋たらんとする生き様は、感涙無しには読めません。そのあたりには、作家になる前、森美術館さんやニューヨーク近代美術館さんに勤務していたという、作者・原田さんの経験も反映されているように推測しました。

また、もともと新聞連載小説だというところで、こうした「前向き」な部分が前面に押し出されているのかな、とも思いました。ある意味、NHKさんの朝ドラにも通じるような。朝から陰々滅々の物語では参ってしまいます(笑)。

ぜひお買い求めを。


【折々の歌と句・光太郎】

子供らがかきし自由画の我家はいたく曲りて美しきかも
大正15年(1926) 光太郎44歳

昨日に引き続き、近所の千駄木小学校の児童と思イメージ 1われる子どもたちが描いた光太郎アトリエの絵についてです。

子どもの描く絵は、多視点の絵と言われます。一枚の絵の中に、正面から見た構図と、上からの俯瞰、横からの視点などが平気で混在するというのです。それを意識的に行ったのがピカソやブラックなどのキュビズムですね。

子どもも知恵がついてきたり、大人から教えられたりすると、一点透視や二点透視などの固定された視点からの絵を描くようになります。それはそれでリアルに見えるのですが、子ども本来の自由闊達さは失われます。

そうなっていない、ある意味プリミティブな子どもの絵を見た光太郎、その感動を歌にしています。

プリミティブといえば、上記のバーナード・リーチの作陶なども、良い意味でプリミティブな面を残しています。

映画「サンマとカタール~女川つながる人々」DVD/NHK「小さな旅 心に花を~宮城県女川町」。

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光太郎ゆかりの地として、毎年「女川光太郎祭」が開催されている宮城県女川町がらみで2件。

まずは東日本大震災で大きな被害を受けた女川町の復興の軌跡を描いたドキュメンタリー映画「サンマとカタール~女川つながる人々」のDVDが発売されます。 

サンマとカタール~女川つながる人々

【発売日】 2016年11月9日(水)※レンタル同時リリース
【発売元】 TBSサービス
【価  格】 3,000円+税
【販売元・お問合せ先】
TCエンタテインメント(株)商品サポートセンター TEL:03-3513-9090
(受付時間:月〜金 10時〜13時/14時〜17時 ※土日祝日を除く)

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当方、映画館での上映テレビ放映を拝見しましたが、何度観ても熱い思いにさせられます。

直接、光太郎に関わる内容にはなっていませんが、ぜひお買い求め下さい。


もう1件、テレビ放映情報です。 

小さな旅 心に花を~宮城県女川町

NHK総合 2016年10月30日(日)  8時00分~8時25分  再放送 11月6日(土) 5:15~5:40
(地方によって異なります)

宮城県女川町は水産業のさかんな港町。震災後の復興をめざし、若者を中心とした町づくりが進んでいます。実は女川は、600種類以上の山野草が自生する、植物の宝庫。ふるさとの風景や大切なものを失った人々が、身近にある自然に心を癒やされています。震災前と変わらずに山の草花に出会う人、花を育てることで励まされ、生きてきた夫婦など、自然に勇気づけられながら、復興に向かう人たちと出会います。

語り 山田敦子

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こちらも直接光太郎に関わる内容にはならないかとは思いますが、ご覧下さい。


東日本大震災から5年半。いつしか「復興のトップランナー」と言われるようになった女川町。行政も積極的に動いていますが、行政任せにせず、住民が自分たちで知恵を出し合い、動いています。

その後も各地で大雨や大地震による被害が出ています。そういった地域のモデルケースともなるのではないでしょうか。


【折々の歌と句・光太郎】イメージ 7

一心に絵具をぬれば自由画のわが家の屋根に太陽がのる
大正15年(1926) 光太郎44歳

一昨日からご紹介している、近所の千駄木小学校の児童と思われる子どもたちが描いた光太郎アトリエの絵についてです。

小さな子どもの描く風景画には、赤い太陽がつきものですね。しかし、そうした風習が根付いたのはいつ頃のことなのかと、ふと思いました。「太陽は赤い」という概念は世界共通ではありません。

日本画の世界では赤い太陽も早い時期から描かれており、その影響なのでしょうか。


文化功労者に津村節子さん。

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今年度の文化勲章、文化功労者の発表があり、小説家の津村節子さんが文化功労者に選ばれました。ちなみに昨年は、光太郎ファンだという染織家の志村ふくみさんが文化勲章を受章されました。

津村さんは平成9年(1997)に、智恵子を主人公とした小説『智恵子飛ぶ』を刊行、翌年には芸術選奨文部大臣賞を受賞されています。平成12年(2000)には、先頃亡くなった平幹二朗さんが光太郎役で、舞台化もされました。

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そうしたご縁で、津村さんには平成10年(1998)の第42回連翹忌にご参加いただいています。平成17年(2005)には、花巻高村祭でもご講演なさいました。

かなり以前から、津村さんは智恵子に言及されていました。

昭和50年(1975)の雑誌『太陽』(平凡社)の光太郎特集号。津村さんの「無垢の美の世界 智恵子の紙絵」が10ページで組まれています。

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昭和54年(1979)には、講談社文庫から『智恵子から光太郎へ』を上梓。前半50ページほどが智恵子紙絵のカラー写真(光太郎令甥の故・高村規氏撮影)と光太郎詩、後半40ページ強が津村さんによる光太郎智恵子評伝です。

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平成7年(1995)には、故・高村規氏、光太郎と親交の深かった詩人の故・藤島宇内氏、当会顧問・北川太一先生との共著で、『光太郎と智恵子』。新潮社さんの「とんぼの本」のラインナップです。津村さんは「光太郎に捧げられた紙絵」というエッセイを寄せられています。

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平成15年(2003)のエッセイ集『似ない者夫婦』(河出書房新社)では、『智恵子飛ぶ』の制作秘話的な「筆を執るまで」、舞台「智恵子飛ぶ」の初演パンフレットに載った「二人が描いた夢」、公演後に書かれた「二人の智恵子」が掲載されています。

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この頃はご主人でやはり作家の吉村昭氏もご存命で、光太郎智恵子と同じ、夫婦同業という葛藤についても述べられています。

舞台「智恵子飛ぶ」は、平成13年(2001)に京都南座で再演。この際の光太郎役は近藤正臣さんでした。こちらのパンフレットには「いま再び」というエッセイが載っています。

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昨年放映されたNHKさんの「歴史秘話ヒストリア 第207回 ふたりの時よ永遠に 愛の詩集「智恵子抄」」。当方、制作のお手伝いをさせていただきましたが、プロデューサー氏から、光太郎智恵子に詳しい女性のコメンテーターが欲しい、と言われ、迷わず津村さんを推薦しました。

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津村さん、ご出演をご快諾下さり、的確なコメントをなさいました。当時の一般の方々によるSNS等の反応では、津村さんの当を得たコメントを讃える声が目につき、ご紹介して本当によかったと思いました。

ご主人の吉村昭氏を亡くされてからは、加賀乙彦さんとの対談『愛する伴侶を失って』を上梓。逆「智恵子抄」のようでした。また、吉村氏が自作の舞台にされた岩手県田野畑村で、東日本大震災からの復興支援にも取り組まれるなど、エネルギッシュに活躍されています。そのあたりは『三陸の海』というエッセイ集に詳述されています。こちらに両書の紹介を書きました。

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今月に入ってからも、当会刊行の『光太郎資料』第46集をお送りしたところ、ご丁寧なお礼状を賜り、お元気な様子に接し、失礼ながらお歳がお歳だけに案じていたところを安心させられたところでした。

これからもお元気で、ますますのご活躍をお祈りいたします。


ついでのような形になって失礼とは存じますが、同時に文化功労者に選ばれました歌人の岡井隆氏。当方、面識はありませんが、ご著書は一冊、拝読いたしました。

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岩波書店さんから平成11年(1999)に刊行された『詩歌の近代』。題名の通り、近代詩歌の概説で、光太郎、特に戦争詩について取り上げて下さっています。

併せて受賞をお慶び申し上げます。


【折々の歌と句・光太郎】

町ふるきパドアに入れば林檎市             明治42年(1909) 光太郎27歳

秋も深まり、梨の旬はそろそろ終わって、林檎が美味しい季節になりました。

当方、父親が信州の出で、幼い頃から信州の親戚が作った林檎を食べて育ち、現在も一年365日のうち360日くらいは林檎を口にしています。旅先でも可能な限り買い求め、林檎そのものが手に入らないときも、コンビニで林檎入りヨーグルト、それもダメなら100%林檎ジュースを購入します。

今も信州の親戚、さらに時折、東北の知己の方々から林檎が送られてくることがあり、有り難い限りです。別に送れ、と催促しているわけではありませんが(笑)。

「パドア」はイタリア北部の街。現在は「パドヴァ」と表記するのが一般的なようです。この年、留学先のパリからスイス経由でイタリア旅行に行った際の作です。

盛岡てがみ館 第51回企画展「文豪たちの原稿展」/花巻高村光太郎記念館図録『光太郎 1883―1956』。

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うっかり紹介を忘れていました。岩手県盛岡市の盛岡てがみ館さんの企画展です。 

第51回企画展「文豪たちの原稿展」

期  日 : 2016年10月25日(火)~2017年2月13日(月)
会  場 : 盛岡てがみ館 岩手県盛岡市中ノ橋通1-1-10 プラザおでって6階
料  金 : 一般:200円(団体160円) 高校生:100円(団体80円) ※団体は20名以上からとなります。
        11/3は入館料無料、ポストカード進呈

「文豪」たちの名作は,年月を経た今もなお,読者に長く親しまれています。本展では,与謝野鉄幹・晶子夫妻,萩原朔太郎,高村光太郎といった日本の文壇で大きな功績を残した作家のほか,岩手を代表する作家である鈴木彦次郎,森荘己池の原稿を展示します。残された推敲の跡や筆跡など,彼らの直筆原稿から感じ得る「文豪」たちの創作に対する情熱や人柄を紹介します。
〈展示内容〉
○与謝野寛(鉄幹)原稿「啄木君の思出」
○与謝野晶子原稿「啄木の思ひ出」
○高村光太郎原稿「國民まさに餓ゑんとす」 ほか

関連行事

開催日・期間:11月23日(水・祝) 時間:14:00~ 場所:盛岡てがみ館 展示室
講師:佐々木章行(当館学芸員) 料金:入館料が必要です。
当館学芸員が、第51回企画展「文豪たちの原稿展」で展示中の手紙について、解説を加え紹介します。
☆ポストカードプレゼント☆
当日来館したお客様にはポストカードをプレゼントします!

開催日・期間:2017年1月21日(土) 時間:14:00~15:00 場所:盛岡てがみ館 展示室
講師:磯田望(当館館長) 料金:入館料が必要です。
当館館長が、第51回企画展「文豪たちの原稿展」で展示中の資料や人物について解説を加え、関連するエピソードを紹介します。


「国民まさに餓ゑんとす」は、敗戦間もない昭和21年(1946)2月、『新岩手日報』に掲載された詩です。

  国民まさに餓ゑんとす
 
国民まさに餓ゑんとして
凶事国内に満つ。
台閣焦慮に日を送れども
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ただ彌縫の外為すべきなし。
斯の如きは杜撰ならんや。
斯の如くして一国の名実あらんや。
必ずしも食なきにあらず、
食を作るもの台閣を信ぜざるなり。
さきに台閣農人をたばかり
為めに農人かへつて餓ゑたり。
みづから耕すもの五穀を愛す。
騙取せられて怒らざらんや。
農人食を出さずして天下餓う。
暴圧誅求の末ここに至り、
天また国政の非に与せず、
さかんに雨ふらして大地を洗ひ
五穀痩せたり。
無謀の軍をおこして
清水の舞台より飛び下りしは誰ぞ。
国民軍を信じて軍に殺さる。
われらの不明われらに返るを奈何にせん。
国民まさに餓ゑんとして
凶事国内に満つ。
国民起つて自らを救ふは今なり。
国民の心凝つて一人となれる者出でよ。
出でて万機を公論に決せよ。
農人よろこんで食を供し、
国民はじめて生色を得ん。
凶事おのづから滅却せざらんや。
民を苦しめしもの今漸く排せらる。
真実の政を直ちに興して、
一天の下、
われら自ら助くるの民たらんかな。

敗戦後の深刻な食糧事情を題材としています。そしてそのような事態を引き起こした蒙昧な旧軍部の批判。

同館には、『新岩手日報』編集局長だった松本政治に宛て、この詩の原稿を送った際の添え状も所蔵されています。

松本政治様机下
拝啓、先日は此の深い雪の中を遠路御来訪下され且つ御礼の金品までいただいて恐縮に存じました。御依頼の詩篇ともかくも同封いたします。少し長くなりましたが已むを得ません。今日はよほど空気が冷えてゐると見えて萬年筆の工合が悪いやうです。雪はますます深くなります。郵便が遅れるので困ります。御令息にもよろしく。先日は大澤温泉に無事御宿泊ありしや否やとあとで心配いたしました。 とりあえず右まで。
    一月十日夜 高村光太郎

この日の日記には、以下の記述があります。

午后「国民まさに餓ゑんとす」といふ詩を書き終り清書、夜封入テガミを新岩手社の松本政治氏にかく。先日の依頼による。三十五行ばかりになりたり。

それに先立つ一月四日の日記には、

午后テカミ書きの時勝治さんの案内にて新岩手日報社の松本政治氏が長男の朗(アキラ)さんと一緒に来訪。一時間余コタツにて談話。三時過辞去さる。スルメ若干と金百円也とをいつぞやの寄稿のお礼なりとてくれる。詩の寄稿を約束。又細かい吹雪となる。その中を帰つてゆかれる。

 と記されています。

「いつぞやの寄稿」は、前年9月に同紙に掲載された詩「非常の時」を指すと思われます。


また、同館では、常設展示として光太郎詩「岩手山の肩」の原稿も展示していましたが、おそらくそのままだと思います。

同展について、『毎日新聞』さんの岩手版に記事が出ました。 

企画展 文豪たちの原稿資料33点を展示 盛岡てがみ館 /岩手

 岩手にゆかりのある文豪たちの原稿を展示した企画展が、盛イメージ 2岡てがみ館(盛岡市中ノ橋通1)で開かれている。推敲(すいこう)の跡や筆跡から、作家たちの人柄や個性がうかがえそうだ。
 目を引くのが、与謝野鉄幹が石川啄木を回想した原稿用紙23枚。鉄幹主宰の雑誌「明星」に、啄木が投稿した頃から亡くなるまでの出来事がつづられている。
 啄木は歌集「一握の砂」で有名だが、原稿には「君の本領が是れに盡(つ)きたかの如く讀者(どくしゃ)達(たち)に看取(かんしゅ)されることは、私達の遺憾を禁じ得ない」などとあり、鉄幹が啄木の才能を終始高く評価していたことが分かる。
 一方、鉄幹の妻晶子は、子だくさんで家計を担った女性らしく、啄木の服装からその人となりを描写している。学芸員の佐々木章行さん(27)は「二人とも啄木を可愛がっていたが、夫婦で視点が変わるのも面白い」と魅力を話す。
 他には、萩原朔太郎や高村光太郎の原稿や写真など、関連資料33点が並ぶ。
 来年2月13日まで。入館料は一般200円、高校生100円。中学生以下と、盛岡市内の65歳以上は無料。休館は第2火曜日と年末年始。問い合わせは同館(電話019・604・3302)。【藤井朋子】
(2016年10月29日)


岩手つながりで、もう一件、花巻高村光太郎記念館さんで刊行された図録的な書籍『光太郎 1883-1956』について、『朝日新聞』さんの岩手版に報じられています。 

岩手)高村光太郎の足跡を図録に 花巻の記念館で販売

 花巻市にゆかりの深い彫刻家で詩人の高村光太郎が亡くイメージ 3なってから今年で60年。「花巻高村光太郎記念会」(佐藤進会長)がこのほど、図録「光太郎 1883―1956」を刊行した。花巻市の高村光太郎記念館で販売している。
 1945年4月の空襲で東京のアトリエを失った光太郎は、旧知の宮沢賢治の弟清六を頼って花巻の宮沢家に疎開したが、空襲で宮沢家も焼け、同年10月、太田村山口(現・花巻市太田)の山荘に移り、農耕自炊の暮らしを続けた。
 図録は縦横25センチの変形サイズのフルカラー52ページ。冬には零下20度にもなる地域の山荘で、詩作と農耕、自然回帰に没入した光太郎の暮らしと足跡を、当時の写真や花巻市周辺の四季の風景写真を織り交ぜて紹介。記念館に収蔵、展示されている木彫やブロンズ像なども掲載、光太郎と親交のあったゆかりの人たちの「思い出」も収録している。
 記念館は56年の光太郎の没後、ゆかりの人々が発足させた記念会が山荘の近くに設立し、運営してきた。昨年、市営施設として全面リニューアルし、記念会が市の委託で運営している。来館者から「図録がほしい」との要望があり、スタッフが昨年夏から約1年がかりで編集し、5千部限定で発刊した。1部2千円。問い合わせは記念館(0198・28・3012)へ。(溝口太郎)
(2016年10月29日)


監修は当方の名前になっており、8月に手元に届きました。お世話になっている何人かの方々にお送りしましたが、好評です。

同館のみでの販売ですが、ぜひ足をお運び、ご購入下さい。同館では「高村光太郎没後六〇年・高村智恵子生誕一三〇年 企画展 智恵子の紙絵」展、来月23日(水・祝)まで開催中です。


【折々の歌と句・光太郎】

リンゴばたけに雨ふりて 銀のみどりのけむる時 リンゴたわわに枝おもく 沈々として紅きかな                        昭和22年(1947) 光太郎65歳

以前にも一首ご紹介した、「七・五」を四回繰り返す「今様」という形式です。花巻の林檎を歌っています。

この歌をしたためた数種類の揮毫が知られています。

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上記『光太郎 1883-1956』に載っているもの。

昭和27年(1952)から同29年(1954)にかけて書かれ、美術史家の奥平英雄に贈られた書画帖「有機無機帖」から。

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こちらには、智恵子の紙絵を模して作られた光太郎の紙絵も添えられています。赤い部分はアメリカ煙草・ポール・モール(ペルメル)の空き箱です。

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福岡市総合図書館映像ホールシネラ 特別企画 原節子特集。

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九州福岡から、昭和32年(1957)に封切られた熊谷久虎監督、原節子さん主演の東宝映画「智恵子抄」上映情報です。 

特別企画 原節子特集

昨年亡くなった日本映画を代表する女優・原節子の特集。追悼1周忌企画。

会  期 : 平成28年11月2日(水)〜11月27日(日)  ※休館日・休映日除く
会  場 : 福岡市総合図書館映像ホールシネラ 福岡市早良区百道浜3丁目7番1号
料  金 : 600円(大人) 500円(大学生・高校生) 400円(中学生・小学生)
※定員制。各回入替制。
※チケットはすべて当日券。前売り券はありません。
※障がい者の方及び福岡市在住の65歳以上の方は300円。(手帳や保険証などの提示が必要です。)

上映作品 :
「青い山脈」 「河内山宗俊」 「お嬢さん乾杯」 「晩春」 「麦秋」 「山の音」 「東京物語」 「安城家の舞踏会」 「白痴」 「めし」 「智恵子抄」 「驟雨」 「秋日和」


「智恵子抄」イメージ 1

11月9日(水)14:00   12日(土)11:00   17日(木)11:00
1957年 35ミリ モノクロ 98分 東宝

詩人・高村光太郎は知人から智恵子を紹介される。詩を読み、油絵を描く智恵子に光太郎は惹かれ二人は結婚する。貧しくとも幸せな生活だったが、智恵子の絵はなかなか評価されなかった。絵が評価されず主婦の仕事もできない智恵子は悩み、次第に精神を病んでいく。本作は二人が出会って智恵子が亡くなるまでを描いている。原節子自身が映画化を望んだと言われており、美しい夫婦愛の物語となった。


一周忌を迎えた原節子さんの追悼特集ということで、今年はあちこちで「智恵子抄」の上映がありました。1月に池袋5月でやはり福岡小倉7月は鎌倉8月から9月にかけて神保町、そして映画の舞台でもあり、ロケも行われた福島二本松で9月に。そちらは拝見して参りました

お近くの方、ぜひどうぞ。

また、二本松市歴史資料館さんで現在開催中の「智恵子生誕一三〇年・光太郎没後六〇年記念企画展 智恵子と光太郎の世界」展では、当方手持ちの原節子さん「智恵子抄」関連資料の中から、10数点を展示していただいております。

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こちらは11月27日(日)まで。よろしくお願いいたします。


【折々の歌と句・光太郎】

廃園の三千坪を人買ひて塀などつくり秋たけにけり
大正13年(1924) 光太郎42歳

舞台は光太郎アトリエのあった駒込林町。「廃園の三千坪」は、現在の須藤公園の辺りです。下の画像で「この辺原っぱだった」と丸で囲まれている一角です。光太郎アトリエは左上、実家はそのやや左下、左下隅には青鞜社も入っています。出典は森まゆみさん『「谷根千」地図で時間旅行』。

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同じ「廃園の三千坪」を舞台とした「落葉を浴びて立つ」という長い詩も書かれました。


   落葉を浴びて立つ

どこかで伽羅(きやら)のくゆつてゐるやうな日本の秋の
なまめかしくも清浄な一天晴れたお日和さまよ。
鳥かげさへ縦横にあたたかい十一月の消息をちらつかせ、
思ひがけない大きなドンといつしよに、
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一斉に叫をあげる遠い田舎の工場の汽笛が
ひとしきり
空に無邪気な喜の輪をえがいてゐる。
そんな時です、私が
無用の者入るべからずの立札に止まつてゐる赤蜻蛉に挨拶しながら、
三千坪の廃園の桜林にもぐり込んで、
黙つて落葉を浴びて立つのは。

ああ、有り余る事のよさよ、ありがたさよ、尊さよ、
この天然の無駄づかひのうれしさよ、
ざくざくと積もつて落ち散る鏽(さ)びた桜のもみぢ葉よ。
惜しげもない粗相らしいお前の姿にせめて私を酔はせてくれ、
勿体らしい、いぢいぢした世界には住みきれない私である、
せめてお前に身をまかせて、
くゆり立つ秋の日向ぼつこに、
世もぶちまけた、投げ出した、有り放題な、ふんだんの美に
身も魂もねむくなるまで浸させてくれ。

手ざはり荒い不器用な太い幹が、
いつの間にかすんなり腕をのばして、
俵屋好みのゆるい曲線に千万の枝を咲かせ、

微妙な網を天井にかけ渡す
桜林の昼のテムポは、
うらうらとして移るともないが、
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暗く又あかるい梢から絶間もなく、
小さな手を離しては、
ぱらぱらと落ち来る金の葉や瑪瑙の葉。

どんな狸毛で描いた密画の葉も、
天然の心ゆたかな無雑作さに、
散るよ、落ちるよ、雨と降るよ、
林いちめん、
ざくざくとつもるよ。
その中を私は林の魑魅(ちみ)となり、魍魎(まうりゃう)となり、
浅瀬をわたる心にさざなみ立てて歩きまはり、
若木をゆさぶり、ながながとねそべり、
又立つて老木のぬくもりある肌に寄りかかる。

――棄ててかへり見ぬはよきかな、
あふれてとどめあへぬはよろしきかな、
程を破りて流れ満つるはたふときかな、
さあらぬ陰に埋(うづ)もれて天然の素中に入るはたのしきかな――
落ち葉よ、落ち葉よ、落ち葉よ、
私の心に時じくも降りつもる数かぎりない金いろの落葉よ、
散れよ、落ちよ、雨と降れよ、
魂の森林にあつく敷かれ、
ふくよかに積みくさり、 やがてしつとりやはらかい腐葉土となつて私の心をあたためてくれ。
光明は天から来る、
お前は楽しく土にかへるか。
今は小さい、育ちののろいこの森林が、イメージ 6
世にきらびやかな花園のいくたびか荒れ果てる頃、
鬱蒼としげる蔭となつて鳥を宿し、獣(けもの)を宿し、人を宿し、
オゾンに満ちたきよらかに荒い空気の源となり、
流れてやまぬ生きた泉の母胎となるまで。

林の果の枯草なびく原を超えて、
割に大きく人並らしい顔をしてゐる吾家の屋根が
まつさをな空を照りかへし、
人なつこい目くばせに、
ぴかりと光つて私を呼んでゐるが、
ああ、私はまだかへれない。
前も、うしろも、上も、下も、
こんな落葉のもてなしではないか、
日の微笑ではないか、
実に日本の秋ではないか。
私はもう少しこの深い天然のふところに落ち込んで、
雀をまねるあの百舌(もず)のおしやべりを聞きながら、
心に豊繞(ほうねう)な麻酔を取らう、
有りあまるものの美に埋もれよう。


秋たけなわとなり、当方自宅兼事務所――三千坪はありませんが(笑)――の木々も色づいてきています。また、近くの坂道に聳えるイチョウの巨木も。

カルチャーラジオ NHKラジオアーカイブス「高村光太郎」。

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ラジオ放送の情報です。光太郎生前の肉声が流れます。 

カルチャーラジオ NHKラジオアーカイブス「高村光太郎」

NHKラジオ第2  2016年11月7日(月) 午後8:30~午後9:00(30分)

この番組では、NHKが保有する貴重な「ラジオ・アーカイブス」の中から、作家を中心にセレクトし、懐かしい声を蘇らせます。自作朗読や文学・人生談義などを語る作家らの人間味あふれる魅力を肉声を通して伝えていきます。

「朝の訪問」(1952年3月30日放送)聞き手・詩人の真壁仁(花巻市にて)
彫刻家で詩人の高村光太郎(1883-1956)。彫刻家・光雲の長男に生まれ、東京美術学校を卒業し、欧米留学。帰国後、駒込にアトリエを開いた。長沼智恵子と結婚し、その死別後に詩集『智恵子抄』を出版した。戦後は岩手県花巻郊外の山荘で独居自炊生活を送った。今回の番組は1952年3月に放送した「朝の訪問」で、この山荘での生活ぶりや十和田湖畔に作った「乙女の像」について語っている。聞き手は詩人・真壁仁。

出演 大村彦次郎(元・文芸誌編集長) 宇田川清江アナウンサー


「NHKラジオアーカイブス」。当方寡聞にして、現在こういう番組が放送されていることを存じませんでした。NHKさんならではの貴重な取り組みですね。

今回放送される光太郎の肉声は、光太郎が花巻郊外太田村に在住時の昭和27年(1952)、やはりNHKラジオで放送されたものです。3月27日に、山形出身の詩人・真壁仁との対談で、花巻温泉の松雲閣別館で録音されました。オンエアは3月30日でした。

これに先立つ3月21日には、太田村の山小屋(高村山荘)に、建築家の谷口吉郎、詩人の藤島宇内が、佐藤春夫からの手紙を携えて訪ねてきています。青森県で計画が進んでいた、十和田湖の国立公園指定15周年記念モニュメントの制作依頼のためです。これが「十和田湖畔の裸婦像(通称・乙女の像)」として結実します。

対談の中で、「十和田湖」「裸婦像」といった単語は出て来ませんが、既に光太郎、乗り気になっていることがわかります。「今年あたりからいよいよ始まるですな、仕事が。」「これからは無駄なことをしないで猛烈にやるつもりですよ。」といった発言が見られます。

この対談、NHKサービスセンターさんの発行、BMGビクターさんの発売で、平成8年(1996)にCD化されています。

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他に昭和30年(1955)の草野心平との対談、自作詩朗読、それから室生犀星の肉声も収録されています。

文字にも起こされており、筑摩書房『高村光太郎全集』第11巻に収められています。

さて、「NHKラジオアーカイブス」。ラジオがうまく受信できないという方も、最近はよくしたもので、インターネットでリアルタイムの聴取が可能です。スマートフォン、タブレット、もちろんパソコンで、「NHKネットラジオらじる★らじる」のページからです。

また、リアルタイムで聴けなくとも、ストリーミングというわけで、過去の放送が聴けるようになっています。いずれ光太郎の回もアップロードされるでしょう。

ぜひお聴き下さい。


ラジオついでにテレビの件を。

昨日、とちぎテレビさん制作の「とちぎ発!旅好き! 感動!歴史と伝統の街~福島県二本松市~」が、提携している千葉テレビさんで放映されたので、拝見しました。

智恵子の故郷・二本松を取り上げるもので、光太郎智恵子にからむ内容かどうか、観るまでわからなかったのですが、いきなり冒頭近くで取り上げて下さいました。

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また、現在開催中の菊人形に関しても。

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当方は初日にお伺いしましたが、その際にはなかった光太郎人形が、智恵子人形の傍らに立っています(右の画像)。

その他、グルメ情報なども満載でした。

提携関係にある以下の各局で、これから放映されます。該当地域の方、ぜひご覧下さい。

群馬テレビ 2016/11/05(土) 午前11:30~
KBS京都  2016/11/06(日) 午前9:30~

埼玉のテレ玉さん、兵庫のサンテレビさんも提携はしているのですが、特別番組等のため、この回の放映はないようです。


また、年に1~2回、再放送されている2時間ドラマの放映もあります。

浅見光彦シリーズ22首の女殺人事件~福島‐島根、高村光太郎が繋ぐ殺人ルート!智恵子抄に魅せられた男が想いを託した首の女の謎

BSフジ 2016年11月8日(火)  12時00分~13時58分

福島と島根で起こった二つの殺人事件。ルポライターの浅見光彦(中村俊介)と幼なじみの野沢光子(紫吹淳)は、事件の解決のため、高村光太郎の妻・智恵子が生まれた福島県岳温泉に向かう。
光子とお見合いをした劇団作家・宮田治夫(冨家規政)の死の謎は?宮田が戯曲「首の女」に託したメッセージとは?浅見光彦が事件の真相にせまる!!

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初回放送はもともとは平成18年(2006)。岩手花巻の、現在は使用されていない、元の高村記念館(ただしドラマでは花巻という設定ではありませんが)、福島二本松の智恵子の生家・智恵子記念館などでロケが行われました。

ご覧になったことのない方、ぜひどうぞ。


【折々の歌と句・光太郎】

腹へりてさびしくなりぬ空を見ん十一月のうらけき空を
大正13年(1924) 光太郎42歳

今日から11月ですね。関東は「うらけき空」とはいかず、雨模様です。





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